犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

土屋賢二著 『ツチヤ教授の哲学講義』

2010-05-11 23:51:31 | 読書感想文
p.~
 哲学に関することを伝えるには、どうすればいいのだろうか。哲学史上の学説を暗記してもらえばいいのだろうか。わたしは、そんなことをしても、哲学とは関係がないと思う。それはちょうど、音楽を理解してもらうために、音波の性質を説明するようなものだと思えるのである。
 哲学は実験するわけでも、観察するわけでも、調査するわけでもない。自分で考えてみて納得するかどうかが哲学のすべてである。ゼロから考えて納得するという要素がなければ、哲学とは言えないと思うのである。

p.23~
 哲学の中では、「……とは何か」ということが問題になることがよくあります。そういうことが問題になるには、何かきっかけが必要です。不合理な点とか、納得できない点とか、そういうことがないと問題意識は起こりません。時間についても同じです。もし時間のどこにも納得できないところがなかったら、「時間とは何か」ということは問題にならなかったと思います。
 過去は、かつては存在していたけれども、もはや存在していません。それから、未来も、やがては存在するけれど、まだ存在していません。そうすると、時間の中で存在している部分は現在だけです。その現在も、一瞬一瞬を細かく見れば、実際に存在しているのは、点みたいな瞬間だけです。他の部分は存在していません。点しか存在していないようなもの、これを時間と呼べるかということが疑問に思えてきます。

p.39~
 ぼくらは「痛い」ということばを使っています。痛いかどうかはどうやって判定しますか? 簡単です。本人が痛いといえば痛いことになりますね。でもかりに、これからは「痛い」ということばをそういうふうに使うのをやめようということになったとします。痛いかどうかを決めるのは、本人が決めるんじゃなくて、客観的な手続きによって痛いかどうかが決まるんですね。
 われわれの社会で使っている「痛い」ということばなら、本人が痛いかどうかを決める最終的な決め手になっています。この場合と、痛いかどうかを客観的な手続きで決まるように変えた場合を比べてみると、痛いかどうかをどうやって決めるのかということが違っているだけなんですけども、でも、「痛みとは何か」ということがまったく違うものになってしまうと思いませんか?


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 ウィトゲンシュタインの言語ゲーム理論が哲学の問題を解消しているとすれば、日常言語によって専門用語を厳密に定義する法律の問題も同時に解消されており、法律とは「部分的言語ゲーム理論」であるとの感を強くします。これは、全てをゼロから考えて納得しなければならない哲学と、全てをゼロから考えてはならない(必ず法律の条文・判例に戻って考える)法律学において、全体と部分の大小関係が示されているように思います。

 公訴時効の廃止に伴う議論に際し、「時の経過によって社会の応報や必罰感情などの社会的影響が微弱化する」との解説を展開していた法律の専門家と、「最愛の人を殺された遺族には時効はない」と語る犯罪被害者遺族との絶望的なすれ違いがありました。客観的な論証に基づく前者の思考が、後者の思考を感情論として軽視するのはいつものことですが、全体と部分の大小関係が気付かれなければ、すれ違いが収まるはずもないと思います。

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