犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

困っている人の気持ちが理解できる弁護士

2010-05-09 23:38:38 | 実存・心理・宗教
 司法制度改革による法曹人口の増員に伴い、法曹界では「弁護士の質の低下」という言い回しが聞かれるようになりました。人間に対して「質」を論じつつ差別撤廃を目指す欺瞞は措くとして、何をもって質の高低を判断するかについては、それぞれの立場で言いたいことが言われているようです。
 法務省や裁判所の関係では、「与えられた現実を既知の法律構成に変換する手法で要件・効果型の法的構成に置き換える能力、その法的構成の概念の包摂範囲・相互作用等のあり方につき概念操作を規範的に統制している諸概念を運用する能力」などが質の高低の指標とされているようです。他方、増員の絶対反対を訴える弁護士会では、「弁護士の増加により個々の仕事の数が減っても横領や脱税に走らない能力」などが大前提となっているようです。
 これらに対して、「困っている人の気持ちが理解できる能力」については、司法制度改革の公式な文脈ではまず語られることがありません。このような能力については、法律の専門的な議論の場には稚拙であるとの暗黙の前提があるものと思われます。

 「質の低い弁護士」とはどのような弁護士かと問われて、私が真っ先に連想するのは、「ドラえもんが助けてくれると思った」などの主張を行った光市母子殺害事件の弁護団です。この事件の弁護団は、「困っている人の気持ちが理解できる能力」については天下一品であったと思います。弁護士にとって、世の中で何が「困っている」の極致かと言えば、「死刑になりたくないのに死刑判決を言い渡されそうで困っている」に勝るものはないからです。
 一般的にはプラスの評価を受けている「困っている人の気持ちが理解できる能力」に関して、私が光市母子殺害事件の弁護団の質が低いと感じたのは、自己の側の依頼者の気持ちのみを理解して感情移入し、周りが全く見えなくなっていたからです。もちろん、代理人という仕事は、自己の依頼者にとっての利益を追求することがその職務であり、争っている相手方の身になることは、依頼者に対する利益尊重義務にもとるものと考えられています。これが法曹倫理のパラダイムです。
 このパラダイムの偽善性は、「困っている人の気持ちを理解する」という一般的な善意につき、本来であれば自分以外の全人類に向き合う義務に直面して途方に暮れなければならないところ、特定の委任契約によってこの苦しみを簡単に飛び越えているところにあると思います。その結果として、自己の依頼者の困った局面を打開するためにはどんな理屈をも考え出す反面、相手方の困った気持ちは眼中から排除されるのも当然のことでしょう。

 困っている人の気持ちを理解しようとすることは、本来、理解しようとする者の体力をも激しく消耗させるはずです。また、傷ついた人の気持ちに共感することは、共感する者自身の気持ちをも激しく傷つけます。そして、理解しようとしても理解できない無力感、報われない挫折感などにより、心の疲労は蓄積していくのだと思います。
 人の身になって考えていると自負しつつ、上記のような疲労困憊の現実に直面していないならば、それはやはり自己の考える正義を依頼者に投影しているという意味において、偽善と言うしかないと思います。この偽善性は、徒党を組んでシュプレヒコールを上げる形態においては、怒りや憎しみを正義として声高に主張するはずです。他方、複雑で繊細に入り組み深く沈潜した人間の苦悩に対しては、「怒りや憎しみからは何も生まれない」との判断を簡単に下すはずです。
 弁護士にとって、自己の側の依頼者だけでなく、対立する相手方の困っている気持ちが理解できることは、相手方の弱点が手に取るように見えるということでもあります。すなわち、相手方が一番言われたくないことがわかり、相手の心をズタズタに打ちのめし、立ち直れなくなるまでに心を折る力のある言葉を手に入れるということです。もし、人間に対して「質」を語ることが許されるとすれば、「質の高い弁護士」とは、この言葉の恐ろしさを認識しつつ、その手加減を知っている者だと思います。

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