犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

福田恒存著 『人間・この劇的なるもの』

2009-11-21 01:08:51 | 読書感想文
★ p.16~

個性などというものを信じてはいけない。もしそんなものがあるとすれば、それは自分が演じたい役割ということにすぎぬ。他はいっさい生理的なものだ。また、ひとは自由について語る。そこでもひとびとはまちがっている。私たちが真に求めているものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起るべくして起っているということだ。なにをしてもよく、なんでもできる状態など、私たちは欲してはいない。

感想: その通りだと思います。


★ p.35~

今日、私たちは、あまりにも全体を鳥瞰しすぎる。いや、全体が見えるという錯覚に甘えすぎている。そして、一方では、個人が社会の部分品になりさがってしまったことに不平をいっている。私たちは全体が見とおせていて、なぜ部分でしかありえないのか。じつは、全部が見とおせてしまったからこそ、私たちは部分になりさがってしまったのだ。ひとびとはそのことに気づかない。知識階級の陥っている不幸の源は、すべてそこにある。

感想: その通りだと思います。


★ p.126~

現代のヒューマニズムにおいては、死は生の断絶、もしくは生の欠如を意味するにすぎない。いいかえれば、全体は生の側にのみあり、死とはかかわらない。が、古代の宗教的秘儀においては、生と死は全体を構成する二つの要素なのであった。人間が全体感を獲得するために、その過程として、死は不可欠のものだったのである。私たちは、死に出あうことによってのみ、私たちの生を完結しうる。逆にいえば、私たちは生を完結するために、また、それを完結しうるように死ななければならない。

感想: その通りだと思います。


★ p.160~

ヒューマニストたちは、死をたんに生にたいする脅威と考える。同時に、生を楯にあらゆることを正当化しようとする。かれらにとって、単純に生は善であり、死は悪である。死は生の中絶であり、偶然の事故であるがゆえに、できうるかぎり、これを防がねばならぬと信じこんでいる。が、そうすることによって、私たちの生はどれほど強化されたか。生の終りに死を位置づけえぬいかなる思想も、人間に幸福をもたらしえぬであろう。死において生の完結を考えぬ思想は、所詮、浅薄な個人主義に終るのだ。

感想: その通りだと思います。

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