犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

佐野洋子著 『私はそうは思わない』より

2009-11-17 00:04:19 | 読書感想文
p.259~ 「いやあ、わかりませんねェ ―― 小沢正著『こぶたのかくれんぼ』解説」より

私が小沢さんを偉い人だと思うのは、小沢さんは話が一段落すると、「いやあ、わかりませんねェ」という人だからである。話を「わかりませんねェ」というところまで追い込んでゆく人だからである。その時小沢さんは、実にうれしそうな顔をする。わかんないものの前で舌なめずりをしている様に見える。

私たちは「あっ、わかった」などとうれしそうな顔をする。「あっ、わかった」などとうれしそうに叫ぶのは、わかんない事だらけの中に生きている証拠で、わかった事が「事件」にひとしいことだからである。その「わかった」つもりのことも、やがてわからないものの中にまぎれこんでゆき、わからないことがふりつもってゆく。わからない事がうれしくなるというのは、やはり大きな野心を持つことだ。

たとえば、アンデルセンの人魚姫を読むとき、私たちは傷つく。人魚姫が、父と姉たちをすてるとき、美しい海の生活をすてるとき、さらに声を失い、おのれの肉体をすてるとき、愛する王子が他の女を選ぶとき、そして命さえ海の泡となって消えるとき――、私たちは十分すぎるほど傷ついて、はげしい感動を持って「愛」というものを与えられる。物語が終わった時、私たちはアンデルセンの野心を知る。その哀しく美しい童話の中で「愛」を語ろうとしたアンデルセンの野心を。

物語が終わって、私は小沢さんの野心を知る。「わたしって一体 誰なのか」。「ぼくは一体 何なのか」。この途方もない難題の前で、私は混乱する。この途方もない難題を、子供の前にさし出す小沢さんを私は尊敬する。子供をあなどっていないから。子供も哲学する。息子が5歳の時「ぼく、ぼくに始めて会ったのいつ?」ときいた。子供も大人も人であるかぎり、はかり知れない深さを生きている。


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社会の具体的なシステムの中では、「わかりませんねェ」という言葉は、ある種の禁句だと思います。お客さんに説明を求められた際に、店員が堂々と「いやあ、わかりませんねェ」と言ってしまっては、社会人失格、プロ失格というところでしょう。学校においての勉強はもちろんのこと、社会に出てからも研修を重ね、専門知識を得て、一人前の社会人となること。そして、自信のない態度を見せてはならず、わからないものについては学習を重ね、時にはわからないものもわかったふりをすること。これが世間で求められる能力だと思います。
 
そして、社会における様々なトラブルは、この「わかっている」ことを前提として起きているようです。「あなたの言うことはわからない」、「何でわからないのか」、「わかるように説明してくれ」。はたまた「説明が違う」、「そんなことは聞いていない」、「そういうつもりで言ったのではない」。この種の争いは、根本には損得を基調とした利害関係がからんでおり、それに職業倫理による正当化が後付けされているため、キリがないと思います。そして、「わかりませんねェ」という言葉を共有している人の間では、この種の争いは起こり得ないはずですが、世間における野心というものが「社会的に成功して名声を上げる」ことの別名である限り、トラブルが絶えることはないと思われます。

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