犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

本田靖春著 『誘拐』  その1

2012-10-05 23:34:44 | 読書感想文

 この本は、昭和38年に起きた「吉展ちゃん誘拐殺人事件」のノンフィクション小説です。下記は、身代金の受け渡しの際に、家族の願いで本物の札束が用いられたものの、犯人に札束だけを持ち去られて逃げられた場面の前後の部分です。


p.73~

 村越豊子(吉展ちゃんの母親)は鈴木警部補に、切り揃えた新聞紙の束ではなく、本物の1万円札50枚を犯人に渡すことについての同意を求めた。もし、犯人を取り逃してしまったとき、身代金が実は1円の値打ちもないただの紙切れだと知った彼は、吉展に危害を加えかねない。その事態だけは、母親として、どうしても避けなければならなかった。

 村越家では、すでに50万円を用意していたのである。50万円を他人が身代金と呼ぼうが、懸賞金と呼ぼうが、彼女にはどうでもよいことで、それを自身で考えてみたことはない。犯人であれ、世間の誰かであれ、無事な吉展を彼女の膝にもう一度戻してくれるのであれば、その人物に喜んで差し出すつもりの50万円なのである。


p.88~

 記者会見で玉村刑事部長は、犯人を取り逃がした事実を公式に認めた。だが、席上、失敗に至る責任は被害者側に求められるというニュアンスで経過をのべた。豊子がもっぱら犯人の要求する線で動いたため、捜査陣の態勢がととのわずに彼を取り逃がし、彼女の強い希望で偽の札束を現金にかえたため、渡さずにすんだはずの身代金を奪われてしまう結果になった、といわんばかりであった。

 こうした当局の責任回避が、マスコミの一部に無用な誤解を及ぼすことになる。各紙の中には、あたかも豊子が、捜査陣の指示に反して現金を持ち出し、その制止を振り切って飛び出して行ったかのような記述をし、犯人は彼女と意思を通じる男性でありかねないとの憶測を紹介するものがあった。これが火種となって、醜聞に深い関心を示す週刊誌が、豊子の実際にはありもしない異性関係に、もっぱら焦点をあてた記事を組んだ。


p.92~

 ふっくらしていた村越すぎ(吉展ちゃんの祖母)が、めっきり痩せた。朝から深夜まで、いたずら電話が絶えない。犯人がいつ、何をいってくるかわからないので、受話器をはずすわけにも行かず、ずっと睡眠不足なのである。もっとも、それがないとしても、眠れないことにかわりはないのかも知れない。表で、裏口で、物音がすると起きて行く。吉展が帰って来た、そういう気がしてならないからである。髪の毛の腰も全部抜けてしまった。

 豊子も無惨にやつれた。両目が腫れ上って、ついに新聞はおろかテレビまでもが見えなくなった。精神的苦痛が視力さえも奪ってしまうことを、彼女は自身を被験体として知ったのである。


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 刑事訴訟法において「警察と犯人の関係」は飽きるほど論じられ、刑事政策においては「犯人と被害者の関係」がそれなりに論じられています。これに対し、「警察と被害者の関係」を法律的に深く論じるものは、ほぼ皆無に等しいと思います。刑事訴訟法や刑事政策の範疇では、そもそも学問の形にならないようです。

 警察と被害者の信頼関係の崩れは、非常に繊細な心理状態を経るものと感じます。捜査が上手く行かないことによる警察官のもどかしさは、被害者に献身的であればあるほど、その報われなさによる息苦しさに転化するように思います。そして、捕まらない犯人に対する怒りは単純ですが、居ても立ってもいられない被害者との気持ちのすれ違いは複雑です。

 吉展ちゃん事件それ自体が、刑事訴訟法においては重要論点を含んでおらず、別件逮捕の論点のところで僅かに出てくるのみです。警察権力の濫用から犯人を守るという善悪の基準は明快です。これに対し、強制捜査の指揮を執る責任者の孤独といった切り口は、混沌として体系化できません。刑事訴訟法で飽きるほど論じられている「警察と犯人の関係」も、物事の一面に過ぎないと感じます。

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