犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

本田靖春著 『誘拐』  その2

2012-10-07 00:03:34 | 読書感想文

p.197~

 捜査の進展がはかばかしくないのに反比例して、社会の事件に対する関心は高まりを見せ、民間団体が続々と捜査協力の名乗りをあげた。贈られてきた千羽鶴の数々が、暗い結末を思って沈み込む村越家に、場違いの華やかな色彩を溢れさせた。それらによって、家族の心がいささかでも引き立てられることはなかったが、見知らぬ人々の善意に包まれている実感は彼らにはあった。同時に、その隙間から刺してくる悪意の針に耐えることも、村越家の人々は要求されたのである。

 いたずら電話は、春が過ぎ、夏が来て、秋になっても、一向に跡を絶たず、日に3、4回はきまって彼らの心を乱した。10月8日午前10時半のことである。「吉展ちゃんはおれが預っている。追って連絡するから、100万円を用意しておけ」という男からの電話が入った。その男は、逆探知による逮捕第1号として、記録に名をとどめることになった。父親が折角貯めた資産を蕩尽してしまい、その鬱憤をいたずら電話で晴らしたのだという。

 脅迫者は、自分を特定されない空間に置き、受動的な立場しか選べない相手を、思いのままにいたぶる。闇の中の存在である彼は、そういうとき、普段は決してあらわなさい奥深くひそめた残忍さを、海中の発光虫のように、隠微に解放させているに違いない。孫を奪われたすぎは、極限にまで打ちひしがれた人間を、それこそ水に落ちた犬でも叩くようにして、さらに打ちのめそうとするいわれのない憎悪の持ち主が、社会には少なからず潜んでいることも、心臓を刺されるようにして教えられたのである。

 脅迫者に次いで村越家の人々を苦しめたのは、もろもろの宗教の狂的な信心家たちであった。これが、入れかわり立ちかわり、押し掛けてくる。彼らを迎える側の弱点は、怒鳴って追い返すわけには行かないところにある。「無縁仏があって、これがたたっている。墓参りをしないことには、吉展は帰らない――」。そういうことを言われて信じたわけではないが、ことが生命にかかわっているだけに、放置しておくといつまでも心のひっかかりとなって残る。それを取り除くだけの目的で、つい腰を上げてしまうのである。こうして家族は、人間の弱さも知った。

 本部に寄せられた情報は、3か月間で約9500件に達していた。うち5540件が犯人を名指ししたものである、その中には、捜査協力が目的ではなく、明らかに他人の中傷、誹謗をくわだてたものが少なからず入っていた。自営者は同業者を、会社員は職場の同僚、上役を、ただ困らせるための目的で犯人として指名していた。嫉妬や憎悪の対象は、他人の範疇にとどまらず、妻が夫を、父が息子を、兄が弟を、といったように、家族、肉親にも及んでいた。


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 刑事政策学の文献において、犯罪被害に伴う二次的被害の実態については色々と列挙されていますが、私の知る限り、どれも迫真性に欠けているように思います。「社会全体で被害者をサポートすべきである」という目的は、詰まるところ、厳罰感情の緩和、犯人に対する恨みと憎しみからの解放という点につながっており、二次的被害に対応する加害者を明確には捉えていません。これに対し、小説家の筆力による迫真性のある記述を前にしてしまうと、「社会全体で被害者をサポートすべきである」と言って済ませるのも恥ずかしくなります。

 このノンフィクションは、隅々まで鬼気迫るリアリティを保っているだけに、捜査手法の技術や社会背景などの現代とのギャップが際立っており、そのことが古さを感じさせます。しかしながら、被害者が受ける二次的被害の構造の部分は、現代の状況と全く変わっておらず、手紙がネットになっただけだと感じます。匿名のネットによって、昔からある人間の業の深さが顕在化したのであれば、二次的被害も手の施しようがないレベルに上がっており、「厳罰よりも社会全体でのサポートこそが必要なのである」と言って済ませている場合ではないと思います。

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