犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

宮崎哲弥著 『私は臓器を提供しない』 ・Ⅲ「推進派は『脳死体』を利用しつくしたがっている」より

2009-04-25 22:38:39 | 読書感想文
p.125~
脳死・臓器移植の実施に伴って、重篤な患者の救命医療が疎かになるのではないか、というのが私たち、脳死・臓器移植反対論者の大きな懸念の1つでした。なぜならば、論理的にいえば「脳死ギリギリの患者を救えば、その分臓器移植を必要とする患者が救われる可能性を減らす」からです。どんなに甘ったるい「善意」の糖衣で包んでみても、脳死患者の命と臓器移植を待つ患者の命は対抗関係にあるという本質を覆い隠すことはできません。臓器移植の必要な患者やその家族は、心中ひそかに脳死患者の出るのを「待たざるをえない」でしょう。脳死患者が一人でも増えることを「喜ばずにはいられない」でしょう。それが止み難き「感情」というものなのかも知れません。

ある救急医のもとにグレード5の脳疾患の患者が担ぎこまれます。この患者を救うには手術しか手立てはないのですが、仮に手術がうまくいったとしても、植物状態になるか重い後遺症が残る可能性が大です。患者はドナーカードを所持しており臓器提供の意思を明示しています。むしろこのまま脳死させて、「いまかいまかと臓器提供を首を長くして待っている」多数のレシピエントの命を救うほうが「患者の意思にも沿う」のではないか、と救急医が「決断」してしまわないという保証があるでしょうか。この場面では、瀕死で予後も良好とは考え難い患者の命の価値と、移植さえ受ければ準健康体になれる患者の命の価値とが較量されるのです。

p.138~
不透明化は、非倫理化に直結します。こうした非倫理化の策動に絶えざる批判を提示しつつ、「愛のプレゼント」だ、「命のリレー」だなどという言葉の糖衣に惑わされず、常に問題の本質を見抜くこと。これが倫理的実践でしょう。脳死患者から腎臓を採取する際に麻酔を掛けた経験を持つ麻酔医は次のように述べています。「生体からとる普通の腎移植の場合とは、全く異なる『いやな気持』がしたことを記憶している」「『これは本来私のやるべき仕事ではない』、『普通の手術や診断のための麻酔とはいちじるしく異なる仕事だ』という気持であったように思う」。彼の抱懐した「いやな気持」こそが、医師の感受性に相応しい違和感ではないでしょうか。


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「命のリレーは、人間一人ひとりが生かされていることを感じなければいけません。支え合い、勇気をもって歩んでいきましょう。命の贈り物によって、その命が別の人の中で輝いて生きている、私はそう思います」

「それでは、その人が将来凶悪犯罪を起こした場合、あなたはどう感じるでしょうか?」

「揚げ足を取らないで下さい」

「命が輝いているのは、揚げ足を取られていない間だけなんでしょうか?」

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