犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

内田樹著 『日本辺境論』

2010-06-25 23:12:08 | 読書感想文
p.119~

 人が妙に断定的で、すっきりした政治的意見を言い出したら、眉に唾をつけて聞いた方がいい。これは私の経験的確信です。というのは、人間が過剰に断定的になるのは、たいていの場合、他人の意見を受け売りしているときだからです。

 自分の固有の意見を言おうとするとき、それが固有の経験的厚みや実感を伴う限り、それはめったなことでは「すっきり」したものにはなりません。途中まで言ってから言い淀んだり、一度言っておいてから、「なんか違う」と撤回してみたり、同じところをちょっとずつ言葉を変えてぐるぐる回ったり……そういう語り方は「ほんとうに自分が思っていること」と言おうとしてじたばたしている人の特徴です。すらすらと立て板に水を流すように語られる意見は、まず「他人の受け売り」と判じて過ちません。
 
 ある論点について、「賛成」にせよ「反対」にせよ、どうして「そういう判断」に立ち至ったのか、自説を形成するに至った自己史的経緯を語れる人とだけしか私たちはネゴシエーションできません。「ネゴシエーションできない人」というのは、自説に確信を持っているから「譲らない」のではありません。自説を形成するに至った経緯を言うことができないので「譲れない」のです。「自分はどうしてこのような意見を持つに至ったか」、その自己史的閲歴を言えない。自説が今あるようなかたちになるまでの経時的変化を言うことができない。


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 私自身の法律学の習得の過程を振り返ってみると、他人の意見の受け売りばかりであったように思います。法律学の数々の論点には、それぞれ学説が対立しています。多数説・少数説・通説・有力説などが乱立しており、どれを自説とすべきなのか、私もよく悩みました。
 そして、自分にとっては「どの説でも構わない」というものが多く、切迫感がなく、答案の書きやすさを考えて選んでいました。予備校のテキストには、それぞれの説からの理由付け・反対説批判などが箇条書きにされており、やはり「どの説でもいいのだ」と感じたことを覚えています。

 ところが、基本書を一冊決めて、著者である学者の理論を体系的に理解する段になると、本当に自分の説が譲れなくなり、反対説を徹底的に論駁しなければ気が済まなくなったことも確かです。ゼミは、A説とB説の格闘で熱くなり、本気で議論が盛り上がっていました。別に、A説の支持者がA教授から恩を売られたわけでもなく、B教授に個人的な恨みがあったわけでもありません。
 ある学説を選択するに至った自己史的閲歴がなく、ゆえにその選択には客観的正当性を有するというのが、法律学の習得の際の基本的姿勢であったように思います。そして、現在の実務家も、「断定的に」「すっきりと」「確信を持って」語らなければ受からない試験に通っている限り、このような思考方法が中心的になっているはずです。

 刑事裁判の場において、被害者や被害者遺族が単なる証拠としての扱いしか受けられなかったのは、このような構造の影響が大だと思います。刑事裁判の構造に精通している方々からは、「被害者の気持ちは痛いほどわかる」が、「それでも近代刑事司法の鉄則は変えられない」との見解がよく聞かれます。これはまさに、自説に確信を持っているから「譲らない」のではなく、自説を形成するに至った経緯を言うことができないので「譲れない」という状態なのだと思います。
 被害者の言葉は、固有の経験的厚みや実感を必然的に伴っており、それはめったなことでは「すっきり」したものにはなりません。本当に自分が思っていることと言おうとしてじたばたするしかないのだと感じます。これに対して、罪刑法定主義からの見解は、「理性的であるべき法廷に被害感情が持ち込まれると公正な判断ができなくなる」というものであり、いつも非常に「すっきり」しているという印象を受けます。

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