犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

井藤公量著 『P&C方式「速攻」司法試験突破術』

2009-05-10 21:24:21 | 読書感想文
p.134

法律的思考は、創造的思考などと違う。なにか新しいものを産み出したり、変わったところへ行き着いたりするものではない。決まり切ったルールのもとで、決まり切った結論を求めようとする一種のゲームのようなものにすぎない。それが証拠に、裁判制度は、どの裁判所へでもどの裁判官でも、同じ事実関係なら同じ判断が下されることを前提として構築されている。当事者はもちろん裁判官を選べない。

法律は単なる手段に過ぎない。共同社会を秩序づけて行く道具だ。哲学的真理などとは無関係の技術だ。簡単にいうとゲームのルールなのだ。法律は所詮その程度のもので、難しく考えないことだ。これが私の法律へのスタンスだ。特に、「司法試験のための法律」の勉強は真理を追究する学問でもなければ、まったく新しいものを発見する研究でもなんでもない。法律の勉強は、はまれば確かに面白い。知らないうちに趣味の領域に達する。しかし、一所懸命考えて間違っていたらなんにもならないのが試験なのだ。


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今日(5月の第2日曜日・母の日)は例によって、旧司法試験の択一式試験の日であった。旧司法試験は平成23年で終了することが決定しているため、受験生の多くは法科大学院を経た新司法試験に移行している。そもそも新司法試験への制度改革が叫ばれた背景には、司法試験予備校による技術論ばかりが発達し、本来の法律学とは遠くかけ離れてしまったという現実があった。上記の井藤弁護士(予備校講師)の文章などは、司法試験管理委員会の学者を激怒させる典型である。かくして、法科大学院・新司法試験制度は、裁判員制度につながる司法制度改革の一環として、5年前に鳴り物入りでスタートした。

あれから5年が経ち、昨今の法曹界から聞こえてくるのは、法曹増員による「質の低下への危惧」ばかりである。暗記や要領で決まるのではなく、真に考える力(リーガルマインド)を養成するはずの法科大学院の評判は全く上がらない。結局のところ、試験は合否の勝負であり、裁判も白黒の勝負である限り、最終的な磁場はその方向に収斂せざるを得なかった。法律の勉強にはまり、知らないうちに趣味の領域に達し、試験に落ち続けて膨大な時間とお金と労力を無駄にしても、誰も助けてくれる人はいないからである。「法律は単なる手段に過ぎない。共同社会を秩序づけて行く道具だ。哲学的真理などとは無関係の技術だ」。井藤弁護士によるこの一歩引いた視線は、やはり否定できないように思われる。

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