犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

川上未映子著 『ヘヴン』

2010-06-17 23:48:50 | 読書感想文
p.75~
 でもなぜ僕はこわいんだろう。傷つくことが、こわいということなんだろうか。もしそれが僕にとってこわいことなんだとしたら、恐怖なんだとしたら、なぜ僕はそれを僕のちからで変えることができないんだろう。そもそも傷つくとはなんだろう。苛められて、暴力をふるわれて、なぜ僕はそのままにそれに従うことしかできないのだろう。従うとはなんだろう。僕はなぜこわいのだろう。こわいとはいったいなんだろう。そんなことをいくら考えてみても、答えはでるはずもなかった。

p.153~
 最初に僕をとらえた死にたい気持ちというものは、ここから消えてしまいたいというそんな感情だった。じゃあ僕が自殺をして死んでいなくなったとして、これだけはよかったと思えるようなことは起きないのだろうか。様々な考えが目をとじたときにうかんでは消える模様のように漂って、かき消されていった。けれど、どんなことが起きたところで人はそれを必ず忘れてしまうし、僕というひとりの人間が苛めを苦にして死んだぐらいではたぶんきっと、なにも、変らないのだろうと思った。

p.234~
 なにかに意味があるなら、物事の全部に意味はあるし、ないなら全部に意味はない。だから言ってるだろう、けっきょくおなじなんだって。僕も、君も、自分の都合で世界を解釈してるだけなんだって。その組み合わせでしかないんだって。こんな単純な話もないじゃないか。だからちからを身につけるしかないんだよ。相手の考えかたやルールや価値観をまるごとのみこんで有無を言わせない圧倒的なちからをさ。僕はそんなちからなんてほしくないんだと叫んだ。


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 いじめをテーマに善悪を問うこの小説において示されているのは、善悪とは善悪という形式のことであり、その内容を考えると誤るということだと思います。また、すべての価値を転倒したニーチェの思想(ニヒリズム、ルサンチマン、解釈への意志、力への意志、神の死)が具体的に説明されているように感じます。

 いじめについて、川上氏がダメ出しをした議論とは以下のようなものだと思います。人は、自分に善いと思うことしかできない以上、善悪の内容に決着がつくはずもないからです。

・ いじめる側、いじめられる側のどちらに原因・責任があるのか。
  (お互いに絶対に譲れなくなる)
・ いじめで自殺するくらいなら相手を殺せばいい。
  (実行に移せば、人を殺すくらいなら自殺すべきだと言われる)
・ 生きたくても生きられない人がいるのに、いじめぐらいで命を粗末にするな。
  (善意の残酷さと逆効果に気付かないならば自己満足である) 
・ 学校側としては、いじめは確認できなかった。
  (いじめのない学校が目標である以上、いじめが確認できては困る)
・ 生徒に命の大切さを教えなければならない。
  (死者が帰らないならば二重の侮辱である)
 
 今や、大人の世界にもパワハラ、モラハラなどのいじめがあり、年間3万人以上の自殺者を生んでいる現代社会において、解決への道筋が色々と模索されています。人間や生死について根本から考え抜かれた川上氏の小説は、一見するとわかりにくいですが、単なる技術やテクニックよりも、実用性という点においても優れていると思います。

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