犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

奥田英朗著 『最悪』より その2

2010-07-12 23:57:41 | 読書感想文
p.649~ 池上冬樹氏の解説

 本書『最悪』は、日本の犯罪小説の歴史を考えるとき、ひとつのエポック・メイキングとして記憶されるべき作品である。単行本の帯には「この1冊が、日本の犯罪小説を変えた」とあり、これだけを抽出すれば大げさに聞こえるかもしれないが、本書を読めばそれが少しも誇張ではないことがわかるはずだ。
 とにかくリアリスティックな筆致が素晴らしい。それぞれが追いつめられていくプロセスを完全に描ききっている。作者が人形を操るかのように人物を捉えているのではなく、登場人物の人生によりそうようにして、人物の心理、すなわちたえず変化する状況にあわせて揺れ動く心理を、さざ波をたてる内面の動きを、ひとつひとつ丁寧に拾っていくのだ。

 国産のエンターテインメントでは、なるべく早く事件を提示することをむねとする小説がほとんどだ。要するに最初に事件ありきなのである。ひとつの事件を中心に、その周辺を描くのが主流だけど、奥田英朗は逆である。複数の人物の先に事件がある。奥田英朗にとってはまず人物ありきなのである。
 いったい人はどう動くのか、逃れない状況に追い込まれたら人はどう行動するのかをじっくり見せてくれる。おそらく読者は物語に引き込まれつつも、真綿で首を絞められるような息苦しさを覚えるだろう。人物とともに理不尽さに驚き、怒り、そして絶望していく。


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 これも私の裁判所勤務時代の狭い経験に過ぎないのですが、刑事部の事務官や書記官の間では、犯罪小説はよく読まれていました。回し読みもしましたが、まだ読んでいない人、読んでいる途中の人、読み終わった人の微妙な会話が入り混じる書記官室は面白い空間でした。私自身、目の前の本物の法廷よりも、小説の中の法廷のほうから多くを学んでいたように思います。
 他方で、刑事部の裁判官は、犯罪小説などほとんど読んでいませんでした。もちろん、大量の事件を処理するのに忙しい、専門書や判例集を読むほうが面白いという理由もあったと思います。しかしながら、多くの刑事部の書記官は、その最大の理由を直観的に知っていました。それは、裁判官が犯罪小説などに引き込まれてしまうと、仕事に差し障る恐れがあるということです。従って、雑談の中であっても、書記官は裁判官に犯罪小説を薦めることを自然と避けていました。

 法律のプロである裁判官は、人間の心の奥底にある怒りや絶望などという要素は、ひとまず情状にかかわる事実として、横に置いておかなければなりません。客観的構成要件から主観的構成要件へという法的判断のルールは、法に則って罪を裁く者にとっては基礎中の基礎であり、これができない者はプロとして失格だからです。このプロのスキルは、エリート養成施設である司法研修所で叩き込まれるものです。ところが、人生の理不尽を克明に描く犯罪小説は、このスキルを破壊しようとします。
 証拠から事実を推論し、絶対に誤判を生じさせてはならないという職責を担っている裁判官にとって、奥田氏のような小説家が描く登場人物の内心の揺れ動きは、明らかに職務に対する障害となります。そうだとすれば、いかなる事実をも法律要件と法律効果に変換する能力を常に備えていなければならない法律のプロは、真綿で首を絞められるような息苦しさを覚えてはならないということになります。

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