犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

坂口安吾著 『堕落論』

2010-02-04 23:26:25 | 読書感想文
p.47~

 相撲を見るたびに、いつも感じた。呼出につづいて行司の名乗り、それから力士が一礼しあって、四股をふみ、水をつけ、塩を悠々とまきちらして、仕切りにかかる。仕切り直して、やや暫く睨み合い、悠々と塩をつかんでくるのである。土俵の上の力士達は国技館を圧倒している。数万の見物人も、国技館の大建築も、土俵の上の力士達に比べれば、余りに小さく貧弱である。
 別に身体のせいではない。いわば、伝統の貫禄だ。それがあるために、土俵を圧し、国技館の大建築を圧し、数万の観客を圧している。然しながら、伝統の貫禄だけでは、永遠の生命を維持することはできないのだ。貫禄を維持するだけの実質がなければ、やがては亡びる外に仕方がない。


p.135~

 角力トリ(相撲取り)のある人々は目に一丁字もないか知れぬが、彼らは、否、優れた力士は高度の文化人である。なぜなら、角力の技術に通達し、技術によって時代に通じているからだ。角力の攻撃の速度も、仕掛けの速度や呼吸も、防禦の法も、時代の文化に相応しているものであるから、角力技の深奥に通じる彼らは、時代の最も高度の技術専門家の一人であり、文化人でもあるのである。
 高度の文化人、複雑な心理家は、きわめて迷信に通じ易い崖を歩いているものだ。自力のあらゆる検討のあげく、限度と絶望を知っているから。


p.154~

 角力が又、今年から、力士が座布団をやめて、ムシロの上へ坐っている。これから首を斬られる順番を待っているのじゃあるまいし、第一、見た目に汚らしいじゃないか。それぐらいなら、化粧マワシも、ついでにチョンマゲもやめるがいい。いっそ、角力を、やめるがいいや。
 土俵というものがあって、四本柱があって、そのマンナカに二人のふとった人間が組打ちして、そういう元々ヘンテコなものが存在する限り、それに附属するヘンテコな行事や作法があるのは当然ではないか。角力とりが座布団の上へ坐っていたって、民主主義にさしつかえるワケはないのだ。


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 横綱・朝青龍の引退報道に接し、坂口安吾が大相撲のことを色々と書いていたことを思い出しました。「横綱の品格」を巡って意見の相違が激しいようですが、「品格」という言葉以前の共通の概念なるものはなく、その言葉を使う人がこれまで歩んできた人生の違いによって言葉の意味が違うのであれば、どちらの意見も正しいと思います。
 モンゴル語に日本語の「品格」に相当する単語があったとしても、なかったとしても、日本人の高砂親方が朝青龍に「品格」を理解させるのは難しかったのだと想像します。

 キーワードとしては、「品格」よりも、坂口安吾の述べる「ヘンテコなもの」のほうが優れているように思います。これならばモンゴル語にも相当する単語はあるでしょうし、恐らく、言葉の意味の違いも大きくはないと想像します。日本人にとって「ヘンテコなもの」ならば、外国人にとってはますます「ヘンテコなもの」だからです。
 「品格」という抽象概念を大真面目に切り回したところで、最後にはシニフィアンとシニフィエの恣意性の問題にぶつかり、私的言語の可能性の問題にぶつかり、結論が出ることはないと思います。

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