犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

江花優子著 『11時間 お腹の赤ちゃんは「人」ではないのですか』より その1

2010-08-07 23:21:48 | 読書感想文
p.152~

 人身事故の被害者が死亡した場合、加害者に損害賠償を請求するには、葬儀費用などの「積極的損害」、死亡した本人および遺族への精神的な被害に対する賠償となる「慰謝料」、死亡しなければ得られたはずの収入を意味する「逸失利益」の、3つの賠償請求をすることができる。
 結果、桜子ちゃんに対する損害賠償として、3653万8150円が支払われることになった。この“命の値段”を聞いて、あなたなら安いと考えるだろうか。それとも高いと考えるだろうか。雅弘さん(父親)は、戸惑いを隠せない様子でこう話す。

 「こう話すのは矛盾しているかもしれませんが、本当は民事訴訟なんて、起こしたくありませんでした。桜子が無事に生まれて側にいてくれたら、それだけでいいんです。桜子が帰ってきてくれたら、それだけで十分なんです。でも、それはどう願っても叶いません。せめて、桜子が“人”として生まれたということを、証明したいがために挑もうとしたのが民事訴訟でした。
 実際に金額を提示されると、どう受け取っていいのか困惑します。これが桜子の代わりなのか? 富山県の無保険車傷害では1億円以上だったのに、これが桜子の命の価値に等しいのか、これは子どもの命そのものなのか。突き詰めて考えると、お金で命を買うこともできることなのかなって……でも、妻は“こうしてお金のことを話すこと自体、どうなんだろう”と口をつぐんでいます」

 交通事故でわが子を失った多くの被害者は、こう言う。「賠償金は使えません。だって、使ってしまったら、子どもの命が消えてしまうんですよ」。雅弘さんも、その気持ちは手に取るようにわかるという。しかし、事故により退職したいまでは、賠償金から生活費を切り崩さなければならない状況になってしまった。そして、雅弘さんは、目を伏せながら、こう続ける。
 「このお金は子どもの命に対する代償ではない。ぼくたちに対する慰謝料なんだ。そう、妻と思うようにしています。被害者でありながら、子どもの賠償金を手にすることで、罪悪感を持つようになってしまう。それは、本当に嫌なものです」
 交通事故でかけがえのない人を亡くし、賠償金を手にした人たちには、さまざまな苦難が及ぶものだ。交通事故被害者の会に寄付する人や観音像などの慰霊碑を建てる人もいるという。一方、知人や親族などから、賠償金をあてにしたかのようにお金を無心される人さえいるとも聞く。


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 この世の人間は、色々な名目のお金を発明しています。「慰謝料」「示談金」「和解金」「解決金」などの表のお金から、「迷惑料」「手切れ金」「ハンコ代」「口止め料」などの裏のお金まで、この名目を気にする人は非常に気にします。
 それは、複雑な人間の心の奥底を抑え付けて形だけで済ませるのが「大人の交渉」であり、お金を払って済ませるのが「大人の解決法」だからです。そして、お金の受け渡しを行った後は、その話を蒸し返さず、金額に不満を持たないのが「大人」だからです。そして、法律実務は、この基準に客観性という裏付けを与えています。

 交通事故の法律実務においては、「積極的損害」「慰謝料」「逸失利益」といった賠償金の名目が類型化され、賃金センサスやライプニッツ係数によって客観的な算出が可能になっています。実証科学においては、命の値段が安すぎるという点が最大の問題であり、これに解答を与えようとすれば、賠償金をできる限り高くするという究極的な目標が設定されるものと思います。
 しかしながら、お金を払って一切の問題を終わりにするのが「大人の解決法」であり、それに客観性を与えて法的安定性を保つのが現世的な効率に合致するとすれば、本来問題にしたかったはずのそれは、形にならないまま深い場所に残されるはずです。それは、江花氏が正確に指摘しているように、「問題は賠償金を手にしたその先から始まる」ということだと思います。

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