犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

下村湖人著 『次郎物語・上巻』

2010-01-22 00:17:08 | 読書感想文
第2部 p.393~

 次郎は、いつのまにか敷蒲団のうえに起きあがって、2人(祖母と兄)の様子を眼を皿のようにして見つめていた。しかし、その時、彼の心を支配していたものは、怒りでも、悲しみでも、驚きでもなかった。彼は恐ろしく冷静だった。耳も眼も、これまで経験したことのないほど、さえきっていた。彼は、恐らく、お祖母さんが彼のほうに鋒先を向けかえて、何を言い、何をしようと、そのどんな微細な点をでも、見のがしたり、聞きのがしたりはしなかったであろう。それほど彼は落ちついていたのである。

 むろん、彼のこうした落ちつきは、彼が幼いころから、窮地に立った場合いつも発揮して来たところで、いわば彼の本能であった。しかし、この場合、その中味は、以前のそれとはずいぶんちがっていた。この場合の彼には、すこしもずるさがなかった。自分を安全にするために策略を用いようとする気持ちなどは、みじんも動いていなかった。彼はただ無意識のうちに真実を見、真実を聞き、真実を味わっていたのである。

 なるほど、彼の心のどこかには、お祖母さんに対する皮肉と憐憫との妙に不調和な感情が動いていた。また、自分のこれまで持っていなかった、ある尊いものを、恭一(兄)の言葉や態度に見いだして、単なる親愛以上の高貴な感情を、彼に対して抱きはじめていた。しかし、そうしたことのために、真実が、次郎のまえに、少しでもその姿をゆがめたり、くもらしたりはしていなかったのである。いな、かえって、真実をはっきり見、聞き、味わった結果として、そういう感情が彼の心に動きはじめていたといったほうが本当であろう。

 「運命」と「愛」と「永遠」とは、こうして、いろいろの機会をとらえては、次郎の心の中で、少しずつおたがいに手をさしのべているかのようであった。だが、次郎はまだ何といっても少年である。「永遠」は見失われやすいし、「愛」は傷つきやすい。ただ「運命」だけは、どんな場合にも彼をとらえてはなさないであろう。


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 この本は、私の中学校の課題図書でした。その当時は難しくて意味がわかりませんでしたが、久しぶりに読んでみて、こんなに面白いとは思いませんでした。第1部は昭和16年、第2部は昭和17年の上梓だそうですが、「古さを感じさせない」という表現すら適切でないように思われます。

 中学校の保護者の間からは、「もっと新しい作家の本を読ませろ」といった声もあったと思いますが、課題図書に指定してくれた中学校に今さらながら感謝です。脳の奥深くに眠っている読書の記憶は、本人の気付かないうちに熟成し、色々な形で発芽しているのかも知れないと思います。

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