犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

角川文庫『いまを生きるための教室 死を想え』第1巻 より (2)

2013-06-02 22:35:04 | 読書感想文

布施英利編 「美術」より

p.51~

 たとえば「モナリザ」。この絵は誰もが知っている超有名な絵だが、何で知っているのかといえば、誰もが「画集で見た」からであろう。いや立派な印刷の画集ならまだよい。たいていは、切手くらいのサイズの、わけの分からない「モナリザ」でも見て、自分は「モナリザ」を知っている、と思っているのだ。

 「モナリザ」は、パリのルーヴル美術館にあるのだが、もしパリに旅行してこの絵を見ても、そこで抱く感想は、「自分は『モナリザ』の前に立っている、これは本物なんだ」という思いだけだろう。知識が邪魔をしているのである。それは裸の目で「モナリザ」を見ているのではなく、知識で「本物のモナリザという記号」を見ているのだ。これでは美に触れている、とはいえない。


p.59~

 ルネサンス彫刻の巨匠・ミケランジェロの代表作「ピエタ」も、つまりは死を表現した作品である。ピエタという言葉は、悲しみの極み、という意味がある。ピエタの像は、ヨーロッパの1つの宗教のなかの物語だけではない。子供の死に接さざるをえない親の悲しみは、いつの時代にも、どこの国にもある。たとえば「酒鬼薔薇」の事件で命を落とした子供のご両親の悲しみも、何をもってしても癒すことのできない深いものだ。

 ぼくは犯人の少年が逮捕される前、殺人事件の現場となったタンク山や中学校の校門を取材して歩いたことがある。被害者の少年の胴体が見つかった山の中には、少年が好きだったお菓子や果物が置かれていた。ぼくはそこにミケランジェロのピエタ像のような悲しみをみたのである。全く別の物ではあるが、そこには人間の中に普遍的にある死への思いが込められていた。


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 その道の専門家による評論は、センスのない凡人には嫌味に聞こえることがあると思います。それは、評論家の主観はそれぞれ違うのであり、並列することが大前提でありながら、その間の優劣は対象となる作品ではなく、評論家の素養を示してしまうからだと思います。従って、そこに起きる競争は、端から凡人を排除します。

 ミケランジェロと現在の日本の犯罪を結びつけることは、普通は強引さが目立ってしまったり、視点の斬新さに対する自負が嫌味に聞こえるものだと感じます。そして、そのように感じないということは、「人間の中に普遍的にある死への思い」を双方の対象の中に見る際に、それを見る者がその思いを思っていることの結果だろうと思います。

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