犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

大宅歩著 『ある永遠の序奏』

2012-01-07 00:08:07 | 読書感想文

p.132~
生きること 何て難しいのだろう
人生のほら穴は 掘れば掘るほど 様々の形相で 人間を待っている
故郷でもなく 実家でもない
まして 移り行く年々だから 若い意気も気力もない
だが この人生のほら穴の魚に 一瞬の憩いが流れて通る
秋の落ち葉の 私語き
生きること 何て難しいのだろう


p.229~
 思惟はむしろ人間を汚すものではないだろうか。
 他の動物と比べ、人間は罪の概念を知っておりながら、罪を多様に、より多く犯し続ける。そして、他の動物が命をかけて得るものを、1枚の金貨が代用するのだ。諸々の罪悪を享楽化しているのは、人間だけではないだろうか。


p.256~
 アメリカではテレビの普及によって、子供の想像力が減退し始めている。科学の暴力は、子供の童話の夢さえも殺し始めたのだ。科学は人間を万物の霊長から万物の殺戮者たらしめようとしている。人間は、今や霊魂をまで科学に売り渡そうとしているのだ。
 だが、科学の眼の冷たさは、感傷的な傷つきやすい僕にとって、何という魅力なのだろう。1人のニーチェがそこに立っているようだ。


p.288~
 純潔が失われるべき年齢にたち至った、正義感の強い若者は、汚濁を強いる社会に向かって雄々しく反抗する。だが、その美しかるべき反逆の行為そのもののうちに、もはや純潔の失われているのを知って愕然とする。反抗する少年の多くが、反逆の絆を絶ち切って、下落の道を辿るのは、この瞬間においてである。


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 評論家の大宅壮一氏がテレビ文化を評して「一億総白痴化」と述べ、流行語になったのは、昭和32年のことです。本を読む行為は能動的に活字を拾い上げてその内容を理解する作業であり、頭の中で様々な想像や思考を凝らさねばならないのに対し、テレビの場合にはそのような活動が不要であるという事実を端的に指摘したものです。

 上記の大宅歩氏(大宅壮一氏の長男)の詩篇や箴言についても、ひとたびテレビに登場するとなれば、厳めしいBGMやイメージを固定化させる映像から逃れることは難しいと思います。カラフルな字幕が斜め上から降ってきてモヤモヤと消えたり、笑いを取るための効果音が30秒に1回の割合で鳴ったり、画面の隅でスタジオのキャスターが視聴者に向かって場の空気を指示するに至るならば、「一億総白痴化」と笑ってもいられないだろうと思います。

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