宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

『増補 幕末百話』(一~三三)篠田鉱造著、1929年、岩波文庫

2017-10-28 23:48:10 | Weblog
 「幕末百話」
一 江戸の佐竹の岡部さん
佐竹侯の家来100石取、岡部菊外。人を斬るのが飯より好き。馬場湯で「湯銭を払え」と言われた意趣返し。小塚原で死罪囚の死体を掘り出し、手首を切って、それを銭湯の湯船に浮かべた。化物(バケ)湯と呼ばれ人が来なくなった。この岡部は、松坂屋の土蔵の裏で夜、按摩を斬り、「祟ってやるぞ」と言われ病み付きとなり死んだ。
《感想》武士が傍若無人だったのは確か。江戸時代は、身分制の社会だ。

二 上野山門に屯集の賊徒ども
上野戦争で敗れ、逃げ回った尽忠隊の一人の3日間の話。花屋に化けて逃げる。官軍の人夫が、敗残兵を突き出せば一人1両だった。親類も匿ってくれない。品川で捕まるが、ご即位で助命。
《感想》戦争は、敗残兵狩りが凄惨だ。親類も匿(カクマ)わない。

三 縁の下の力持(芝居の小道具)
歌舞伎座の歌舞伎で使う小道具の馬。写実(ホンモノ)でいきたいと、生き馬を一週間借りて標本にした。付属の品々もカネがかかった。
《感想》職人の魂の話だ。

四 水戸御用千住の鬼熊
「水戸御用」の小荷駄馬の馬子たちが威張る。武士3人が、鬼熊の「御用」の小田原提灯を酔った勢いで誤ってぶつかり落とし、燃やす。鬼熊に追いかけられ、武士3人逃げる。1人が組み伏せられ、後ろから別の1人が鬼熊を切り殺した。
《感想》身分制社会は、虎の威を借り、小物下っ端の狐たち(小荷駄馬の馬子たち)がえばり散らす社会。嫌な時代だ。

五 江戸勤番むかし懺悔
諸藩の若年の士、江戸勤番で多くは遊女場通いで、すってんてん。私も千住で、駕籠かきに取り巻かれて難儀した。途中、担ぎ出さない駕籠かき2人を刀で追い払い、駕籠を川へ投げ込んだ。楼に入るとやがて、50-60名の駕籠かきが来て、「今の侍を出せ」との権幕。裏から逃げるが、見つかり、峰打(ミネウチ)するつもりが頭を殺いだ。結局、自分は「長のお暇」となった。
《感想》「衆を頼む」の意味が分かる。江戸時代は、自己救済の社会だ。公の法は、部分的にしか適用されず、「法によって守ってもらう」とか、悠長なことは言ってられない。

六 正月二十日初御成
正月二十日初御成(オナリ)で公方様が上野御霊屋へ参拝。御三家が「下に居れ」でやって来るので小大名は、下座が嫌で、横町へ逃げ込みやり過ごす。
《感想》「小大名は、下座が嫌で、横町へ逃げ込みやり過ごす」と身分制社会での、生きる術(スベ)だ。

七 近世名優病気の田之助
脱疽で手足を切断した。横浜のヘボン氏が麻酔薬を使い、鋸で足を切った。両手の指先も腐り、34歳で亡くなった。
《感想》近代医学以前、病気が大変だったとわかる。傷からの感染症も恐ろしかった。

八 江戸仙台馬術の修業
江戸には馬事師がいて諸大名の馬を預かり調教した。弟子の修業は一通りでなく厳しい。やがてめいめいが馬を預かり名馬に仕立てる。買上が決まり、御用馬になると35両もらえた。
《感想》弟子の修業は、すさまじい。軍隊の階級制、しごき、いじめと同じだ。

九 大名大奥御老女のこと
秋田佐竹家の大奥につとめた。御老女よりお末・部屋方まで59名。殿様の「御入り」は芝居よりはるかに壮麗だった。元日の夜は大奥の女中、大騒ぎ。目隠しして殿様の顔を、最下級のお末に触らせ、ビックリさせたりした。
《感想》大名大奥の生活の儀礼化が見事だ。貴族(大名)の生活は豪華だ。

十 因縁探偵羅漢の殺人
本所五百羅漢の金貸が殺された。殺された父親の小紋縮緬の着物が、1年後、偶然、娘たちに発見され、強盗殺人犯が捕まった。M24年の話。
《感想》ある種の因縁話だ。

一一 近世俳優時計の腹探
某客が吉原へ幇間を連れて行き、勘定が足りないので、幇間に「金時計を40両で、役者に売って来ないか」と依頼。「割をやる」と言う。幇間が役者に売るに行くが、全員断る。ただ断り方で役者の腹(※性格・内情)がよくわかった。実用主義者、かかあ天下、ケチ、やかましい婆様あり等々。
《感想》幇間の仕事の内容が、分かる。

一二 御用出役異人の護衛
開港場の横浜での異人の警護。異人1名に5人が警護(御用出役ゴヨウシュツヤク)。異人2人なら警護10人。騎馬。髪型は、異人に倣い散髪。中央から分け鬢附を附ける。士分(サムライブン)からは「武士の面汚し」と言われたりしたが、熊さん八さんは「異人が暴れた時、スポンとお見舞申すためだ」と好意的だった。
《感想》開港場の横浜を例に、西洋文化が流入する様子が分かる。幕府の意図は、「熊さん八さん」の意見の通りだったはず


一三 武士気質由緒の具足
江戸時代末、質屋だった。5000石の旗本中根様から質入れの将軍拝領の蚊帳は、貸金たったの7両で、流れて売ったら18両になった。御家来は内職でみな屋根釘を拵えていた。1200石取のお旗本内田さんは、貧乏で殿様ご自身が来る。内田さんから8円で預かった由緒の具足が「10円にしかならない」と言うと、内田さんが骨董屋を叱って28両にさせた。私は気まりが悪くお気の毒なのでそっと5両包んだが、「お前の儲けで拙者が貰う訳がない」と受け取らない。真に御武士(サムライ)様。町人根性が愧(ハズカ)しい思いだった。
《感想》武士の暮らしは厳しかった。各大名家が内職をするのが、すさまじい。

一四 将軍の御召料御茶壺
将軍の御茶壷の御附添7回。宇治まで。4月に出て、土用3日前頃、江戸にもどる。53次、城主家老が出迎え、ご馳走。途中、大名衆は御茶壷の出迎えが嫌で、寺へ逃げ込み逗留しやり過ごす。大名が配る鼻薬が役得。宇治では、気楽で威張れて、下に居ろで、御入用お構いなし。モウあの夢は二度と再び見られません。将軍の大した御威勢・・・・。
《感想》「将軍の大した御威勢」!その威を借る下役人の威張り散らす様子が、よくわかる。国民主権の時代でなければ、こうなる。むしろ国民主権の時代こそ、歴史の奇跡だ。人類史は常に人間同士の生存闘争だった。

一五 昔の決闘室岡新十郎
馬の先生が亡くなって、高弟のひとりが代稽古するが、小先生に首綱を素足で引かせていた。もうひとりの高弟新十郎が修行の旅から帰り、これを批判。そこで決闘となる。座敷で議論が詰まり、その場で斬り合い。立会人3名。新十郎が勝ったが、相手の命は助けた。男らしいと評判になった。
《感想》決闘と言っても、口での議論が最初にあるので、一種の自治的裁判だ。

一六 三つ人魂団十郎の実家
団十郎の実家に三つ人魂(ヒトダマ)が出た。遺恨の殺人に絡む。実家は3つの節穴から、蚊を線香で焼いた火が見えたと、コジつけたが世間は信じなかった。
《感想》この当時、人魂(ヒトダマ)は、存在が社会的に承認されていたようだ。

一七 昔の町人命拾い
文久の頃、夜12時。3人の侍から言いがかり。謝るが斬られそうになり、逃げる。どぶに飛び込み、一晩隠れて助かった。侍衆に頭が上がらない時代と比べれば、今はいい。
《感想》「侍衆に頭が上がらない時代」とは、ひどい時代だ。封建社会、江戸時代を美化するのも、考えものだ。

一八 天意人言(ジンゲン)江戸の落首
昔は新聞がない代わりに、評判・風聞・狂歌・落首が多くあった。井伊掃部頭(カモン)の時ぐらい落首が出た事はない。「桜田が桃の節句に赤くなり」。「井伊鴨だ雪の朝(アシタ)に首を締め」。
《感想》評判・風聞・狂歌・落首は、封建権力も統制が利かなかった。

一九 芝翫の家庭籠の雀と猫のお玉
家に飛び込んできた雀を、成駒屋(芝翫)が大切に飼う。家内(オカミ)さんの実母(オッカ)さんの飼う猫のお玉が、その雀を食べてしまった。大騒ぎになった。鳥屋が、「雀を飼うのは難しい」と言ったら、成駒屋が納得した。成駒屋は天真爛漫の好人物だった。
《感想》確かに成駒屋は天真爛漫だ。

二〇 大昔の話安政の大地震
当時32ー3歳だった。今、60歳代。地面が揺れて、駕籠かきは倒れ、吉原は火事で大変だった。ある大家のお嬢様が、頭がつぶれ、それを見た母親が、気が狂ってしまった。
《感想》気が狂った母親が、あまりに哀れだ。

二一 徳川時代御大名の寝間
某家20万石余の大名の御傍(オソバ)を勤めた者の証言。殿様御寝(ギョシン)より御目覚までの様子。御傍(オソバ)小姓6人が控え、2時間ごとに御夜詰(オヨヅメ):お菓子、お弁当、本ありで結構千万。朝、毎日、御ふんどしを替える等。
《感想》貴族(大名)の生活は豪奢で贅沢だ。

二二 御茶壷の御附旅日記
江戸城より宇治までの道中筋の有態(アリサマ)。御馳走されたり、名物が出たりするのは、全ての宿場でない。。鰹魚の刺身、玉子、鮎十連、麦素麺、柏餅、汐見まんじゅうなど。
《感想》食べ物は、今から見れば質素だ。肉類・乳製品がない。

二三 音羽屋の滑稽旅芝居
御維新間もなく俳優(役者)たちが宇都宮へ出かけた。宇都宮の手前に明神があって、下馬札を無視し、騒いで参拝。ところが金を奉納しないのを神主が知って怒り、「河原乞食の風情として、下馬札のあるのを心得ぬか」と宇都宮の役所、さらに栃木の方へも急訴。罰金5円、拘留十日などの判決だった。
《感想》明治になっても、歌舞伎俳優は、「河原乞食」と蔑まれた。

二四 正月の夜江戸の物騒
代が御一新に変わろうとした文久元治、江戸は物騒で、辻斬物取が多かった。正月3日夜12時過ぎ、日本橋から雷門まで5人連れで歩く。辻斬りにあって袈裟懸けに斬られ、口をパクパクしていた男が倒れていた。
《感想》辻斬物取も夜、出るので、昼は治安がそれなりに良かったのだろう。

二五 両国橋上老人の生活
両国橋の橋番小屋に、老夫婦が役目を言いつかり住んでいた。一箇月1分(ブ)。しかし放し鰻を売っての儲けが役得になった。カツカツ食べていけた。
《感想》当時、こういう生活が老後、可能だった。この老夫婦は、運がいい。

二六 彰義隊の一人引張出され党
「彰義隊へ出ないと斬る」というので出た。裏切りがあって総崩れ。屋敷は大変で、負傷者、死者、自刃者、奥州へ落ちるものなど大混乱。自分は上州落ち。再び江戸へ戻るが捕まりそうで、上総へ落ちる。再び官軍と戦うが負ける。六郷の寺に厄介になり、無事平穏を得た。
《感想》多くの者が死んだ。内戦はすさまじい。彰義隊戦争でこれだけ大変だから、官軍・幕府軍の総力戦での内戦が起きたら、日本中大混乱だったろう。

二七 江戸の花加賀鳶の喧嘩
下谷万年町の新蔵兄弟と言う博徒集団と、加州様お抱えの加賀鳶の喧嘩。大立ち回りだ。しかし公は関わらない。町役人より町奉行へ届け出、奉行所より各顔役へ命じて取り鎮め方をさせた。公辺沙汰にしなかった。
《感想》江戸の町は基本的に自治だ。喧嘩も自由。取静めも町方内で行う。体を張っての自治だ。

二八 横浜芸妓の一昔前
横浜の芸妓(ゲイシャ)は、規則が厳しかった。郭外の料理によばれても十二時限りで帰宅。お客さんとの関係は禁止。衣類・足袋なども色の決まりがあった。良人(ツレアイ)があっても立派につとめられた。
《感想》良人(ツレアイ)があっても、芸妓(ゲイシャ)が立派につとめられたとは、性風俗業と区別されていた。

二九 幕府の歩兵(綽名茶袋)
幕府の歩兵は江戸中の破落者(ナラズモノ)だった。5人の歩兵が芝居町で暴れた。市中御取締酒井様の巡邏隊が取り押さえ、番所へ拘引する。ところが巡邏隊と歩兵隊の全体衝突に至りそうになり、公儀が抑えた。その後、吉原で歩兵が13人弥次馬連に叩き殺された。その仕返しに歩兵隊が吉原に鉄砲を撃ち込んだ。
《感想》封建時代の武装部隊は、相当に自律的だ。封建時代は、分権制だ。

三〇 お屋敷勤薩摩の大奥
大奥の御目見得以上の者の衣装が、時節ごとに変わる。正月元日、二日、三日、七草、十四日と定まった衣装を身に着ける。3月の御節句の衣装もある。5月の節句、夏季、9月の節句それぞれを境に衣装を変える。次いで合着は地白、冬は地黒。
《感想》貴族(大名)の大奥は宮廷式のしきたりがある。

三一 ズバヌケタ女国定忠次の妾
国定忠次の妾お琴は、忠次の所刑の後、九品仏の坊さんの囲者(モチモノ)だった。後に、小団次の女房となる。百両の持参金。「お前の所の身上を直してあげるから、浮気をすると承知しねエよ」という大気焔。到頭小団次の身上を盛り返した。
《感想》本当にズバヌケタ女、元国定忠次の妾だ!

三二 大名の大部屋下馬の闘い
大名の大部屋は喜楽(気楽)だった。渡り者が多かった。諸大名が登城している間、供の者は下馬で待つが、ここが大混雑する。そこで大部屋者同士の大喧嘩があった。
《感想》仲間(チュウゲン)達の仕事が、いかにも楽だ。白飯が毎日食べられる。いい就職口。江戸時代はいい時代だ。

三三 南北の町奉行昔の裁判所
民刑共一手に扱う。遠島死刑の重刑は御老中の指図を受ける。他は奉行が担当する。宣告は、律、お触れ、判例に従う。芝居のような依怙や偏頗はなかなかできない。
《感想》裁判は、江戸時代の奉行所でも法治主義、判例主義だった。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『これが現象学だ』第5章 時... | トップ | 田口ランディ(1959-)『座禅... »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事