宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

藤沢周平(1927-1997)「小さな橋で」(1976年):おれ、およしと「でき」た!落ちが付いて、笑ってしまう!

2024-02-27 14:31:21 | Weblog
※藤沢周平(1927-1997)「小さな橋で」(1976年、49歳)『日本文学100年の名作、第7巻、1974-1983』新潮社、2015年、所収
(1)広次は10歳。姉のおりょうが16歳。おりょうは毎日、米屋に働きに行く。おりょうは米屋の手代の重吉という男と「できている」とのうわさだ。
(2)母親のおまきが、おりょうに言った。「重吉は女房がいて子供がいるんだよ。つきあっていたらいずれろくなことにならないんだからね。おまえ、だまされてんだよ。あの男に。」
(3)おりょうはある日、「米屋に行く」と朝出かけて、米屋に行かず重吉と駆け落ちした。重吉は米屋の金を持ち逃げした。
(3)-2  広次の父親の民蔵も、4年前に突然姿を消した。
(4)母親のおまきは、父親の民蔵が、出奔して以後、夜の勤めに出ていた。今や娘のおりょうも駆け落ちし、それ以来、店も休みがちになった。母親は家で酔って、姿を消した父親を愚痴り、おりょうを罵り、「あたしほど不幸せな女はいない」と愚痴った。そして広次に「お前だけが頼りだからね」と言った。

(4)-2 広次は、4年前に父が渡っていった町はずれの「小さな橋」の近くにいた。その時、その橋を渡って逃げる男を広次は見た。それは間違いなく父親の民蔵だった。民蔵は匕首を持った男たち3人に追われていた。
(4)-3 民蔵は3人の男たちからうまく逃げた。やがて広次の前に姿を現し言った。「金だ。遠州屋さんに渡してくれろ、とおっかにいいな」と広次に布に包んでひもで縛ったものを渡した。「おれはすぐ江戸を出る。もう二度と江戸に戻れない。みんなで元気に暮らせ」

(5)母親のおまきがすすり泣いて、広次に言った。「おっかさんも、少し疲れたんだよ」「もとはといえば、おとっつぁんが悪いんだよ」「おとっつぁんは、遠州屋という問屋さんで、番頭をしてたんだよ」「それが博奕に手を出して、お店の金を遣っちまってね」。父親の民蔵は、旅で働いて、そのお金を返すと主人に誓い江戸から姿を消した。
(5)-2 おまきは、2人の子供を育てることもさることながら、遠州屋に申しわけがなくて、実入りの多い飲み屋の酌婦に身を落とし、少しずつ遠州屋に金を入れていたのだ。

(5)-3  広次は、家に帰って、母親に金を渡さなければならない。だが広次は「小さな橋」にしゃがんで家に帰らなかった。そこに、一つ年下で仲がいいおよしが突然現れた。およしが言った。「広ちゃんが橋にいるんだけれど、呼びに行っても帰らないって。あんたが行ったら帰るかもしれないから、言ってくれっておばちゃんに頼まれたの。おばちゃん、そう言いながら泣いていたわよ」。広次はうつむいて、手で顔を覆った。するとおよしが腕を一杯にのばして、広次をかばように抱いた。「広ちゃんは、おとっつぁんがいないから、かわいそう」そう言うと、およしも泣いた。二人は身体をくっつけ合って、橋の上にしゃがんだまま、しばらく無言で丸い月を見つめた。ようやくおよしが身じろいで言った。「帰る?」「うん」と広次は答えた。
(5)-4 でも広次はもう少しそのままでいたいような気がしていた。浴衣を通して、およしの身体のあたたかみが伝わってくる。髪の匂いがし、握り合った手は少し湿って。くすぐったいような感触を伝えてくる。そうしていると安心でき、そのくせ心が落ちつきなく弾むようだった。突然に、広次は理解した。――おれ、およしと「でき」た。

《感想》おれ、およしと「でき」た。落ちが付いて、笑ってしまう。

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富岡多恵子(1935-2023)「動物の葬禮」(1975年):母ヨネと娘サヨ子はかつて「ひとり親と子供から成る世帯」だった!今、ともに金がない母ヨネも、成人した娘サヨ子も生きていくのに必死だ !

2024-02-26 13:58:11 | Weblog
※富岡多恵子(1935-2023)「動物の葬禮」(1975年、40歳)『日本文学100年の名作、第7巻、1974-1983』新潮社、2015年、所収
(1)
指圧師の林田ヨネは55-56歳で一人住まいだ。ヨネの一人娘サヨ子は中学を出るとすぐ、勝手に近くの喫茶店につとめ、化粧品の宣伝ガールをつとめるなどした。その後、ヨネの2間の長屋から出て行って、どこに住んでいるかわからない。今、20歳そこそこのサヨ子は、時たまヨネの家に帰ってくるが、モノをもらうためか、金をせびるためだった。サヨ子は背の高い男「キリン」と暮らしている。「サヨ子は水商売をしているだろう」とヨネは思った。ヨネは指圧を行う先の支店長のおくさんや工場主のおくさんから色々ものを「もらう」のが好きだ。
(2)
ある日、サヨ子が久しぶりにヨネの家に、自動車で帰ってきた。「お母ちゃん、キリンつれてきた」。「蒲団敷いて、蒲団を!」「お母ちゃん、キリンを運ぶから手伝うて」とサヨ子が言った。ところがキリン(サヨ子の夫25歳)はすでに死んでいた。病没(胃がん)で死亡証明書があった。「お通夜と葬式ここでさしてもらうわ」とサヨ子が言った。
(3)
サヨ子は「このひとは、親も兄弟も、親戚もいてへんのよ」と言った。その翌日、サヨ子は「さあ、キリンのカタキ討ちや」と出かけて行った。ヨネは「葬式には金が要る」と心配した。サヨ子が花、葬式屋、仕出し屋、酒などの用意をした。キリンの母親はキリンが小さい頃、キリンを捨てて再婚して金持ちぶってる。サヨ子は知らんぷりするキリンの母親から「香典」と言って金を出させた。またサヨ子はキリンの親分の社長からも「金」をださせた。
(4)
サヨ子が「キリンのカタキ討ち」でえた「金」で「キリンの葬式」つまり「動物の葬礼」は無事、終わった。
(5)
ヨネは再び指圧師の仕事に出た。サヨ子はキリンの関係の「安キャバレー」はやめ、ヨネの家に引っ越してきた。ヨネは支店長の奥さんから、嫁に行くことになった娘の「古い靴3足や古い洋服数着」をもらって来た。ヨネは娘のサヨ子が勝手に越してきたことにいら立った。さらにサヨ子は支店長の娘の「靴・洋服」を勝手に自分のものにしようと風呂敷に包み、ヨネに届かないよう高々と持ち上げた。
(5)-2
サヨ子は母親におどけ、じゃれていたのかもしれなかった。だがヨネはそれに気づかず、サヨ子を引きずり倒した。そのとき、サヨ子は母ヨネに向かって「なにするのん!危ないやないの!欲ボケ!」と叫んだ。「なにが欲ボケや、あんたこそ、ひとのもの黙ってとって、ドロボーやないか!」とヨネは言った。二人は掴み合いになった。

《感想1》ともに金がない母ヨネも、成人した娘サヨ子も生きていくのに必死だ。

《感想2》母ヨネと娘サヨ子は「ひとり親と子供から成る世帯」だった。次いで母ヨネの「単独世帯」と娘サヨ子とキリンの「夫婦のみの世帯」となった。今や「母親と成人である子供から成る世帯」になった。

Cf. 1960年代以降は、国がモデルとする「標準世帯」(夫・会社員、妻・専業主婦、子供2人)が急激に増えた。
Cf. この小説が発表された1975年は、「標準世帯」が最多だった時代に属す。やがて「標準世帯」は減少していき、2010年には最も多い世帯は「単身世帯」となった。
Cf. 2015年「国勢調査」の世帯類型によると、「単独世帯」34.6%、「夫婦のみの世帯」20.1%、「夫婦と子供から成る世帯」26.9%、「ひとり親と子供から成る世帯」8.9%等々である。

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叢小榕『老荘思想の心理学』第8章34「主僕の夢――物極まれば必ず反(カエ)る」(『列子』周穆王):道家は①「《夢》と《現実》は同じ重みをもつ」、また②「苦楽は相互に交代する」と考える!

2024-02-22 14:18:27 | Weblog
※叢小榕(ソウショウヨウ)編著『老荘思想の心理学』新潮新書、2013年:第8章「夢と現とはどんな関係にあるか」
(34)主僕の夢――物極まれば必ず反(カエ)る(『列子』周穆王)
周の尹氏(インシ)は大いに蓄財にいそしみ、下僕たちをこき使った。その中に年老いた下僕がいて、昼は疲れ果て、夜は昏々と眠った。しかし夜な夜な夢の中で、彼は国王となり豪華な宮殿で楽しいことこの上なかった。ある人が昼、老僕の苦労を慰めると、老僕が答えて言った。「人生は百年、昼と夜は半分ずつ。わしは、昼間は下僕として働きひどくつらいが、夜は人君となり楽しいことはこの上ない。何の怨みがありましょう。」他方、尹氏は身を栄えさせるに十分な地位、有り余るほどの財産あるのに、夜な夜な、夢の中で人の下僕となりひどくつらい思いをした。尹氏はこれに悩み、友人に相談した。友人が言った。「苦と楽とは循環するので、昼間の暮らしが恵まれているあなたが夜に下僕となる夢を見て苦しむのだ。昼、目が覚めても、夜、夢を見ても、ともにいつも楽であるように望むのは不可能だ。」(『列子』周穆王)

★①道家は「夢」と「現実」はいずれも主観的な体験であり、同じ重みをもつと考える。(Ex. 32「胡蝶の夢」。)昼の「暮らし」(「現実」)も、夜の「夢」も同じ重みを持つ。
★また②道家は、世に悪いことばかりが起こり続けることもなければ。常に好いことに恵まれ続けることもないと考える。(Ex. 29「塞翁が馬」。)物事は絶頂に達すれば必ず逆転し、苦楽は相互に交代する。すなわち「物極まれば必ず反(カエ)る。」

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叢小榕『老荘思想の心理学』第8章33「現実の鹿と夢の鹿――幻想を共有すれば『現実』になる」(『列子』周穆王):《現実》の「鹿」は自分と他者の「幻想」(《夢》)が共有され《現実》となった!

2024-02-21 12:55:32 | Weblog
※叢小榕(ソウショウヨウ)編著『老荘思想の心理学』新潮新書、2013年:第8章「夢と現とはどんな関係にあるか」
(33)現実の鹿と夢の鹿――幻想を共有すれば「現実」になる(『列子』周穆王)
★鄭(テイ)の薪取りの男が「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A )。⇒出来事Aは薪取りの男にとって《現実》!
☆薪取りの男はしかし隠し場所を忘れたので、ついに「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A )は夢と思うようになった。
⇒出来事Aは薪取りの男にとって《夢》!
☆薪取りの男は「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A )という夢について「ぶつぶつと呟いて歩いていた」。
⇒出来事Aは薪取りの男にとって《夢》だが(ただし《夢》と自分に言いきかせただけ)、他方で「ぶつぶつと呟いて歩いていた」のは薪取りの男にとって《現実》!

★通りすがりの男が、薪取りの男の「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A )という夢の話を聞いて、隠し場所を見つけ出し鹿を手に入れた。
⇒「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A)は薪取りの男にとっては《夢》だが、通りすがりの男にとっては《現実》だ!
☆かくて通りすがりの男は、「薪取りの男は正夢(※現実と等価の夢;夢=現実)を見たのだ」と思った。
⇒ただし「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A)は薪取りの男にとって《夢》である!(薪取りの男は自分の「夢」が「正夢」とは認識していない!)他方、出来事Aは通りすがりの男にとって《現実》だ!

★ところが通りすがりの男の妻が言った。「お前さん(通りすがりの男)のほうが、『薪取りの男が鹿を手に入れた』つまり『鹿を仕留め、空堀に隠した』(出来事A)という《夢》を見たのではありませんか。薪取りの男など《現実》にはいやしないでしょう。」
⇒つまり妻は「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A)は、通りすがりの男(夫)にとって《夢》だという!
☆ さらに妻が言う。「でも今、《現実》に鹿を手に入れたのだから、お前さん(夫)が見た《夢》は正夢(※現実と等価の夢;夢=現実)でしょう。」

☆夫(通りすがりの男)が言った。「おれはもう(《現実》において)鹿を手に入れたのだから、あいつ(薪取りの男)が《夢》を見たとか、おれ(通りすがりの男)が《夢》を見たとか、そんなことはどうでもよいではないか。」

★さて家に帰った薪取りの男は失くしてしまった鹿をあきらめなかった。
⇒「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A )は薪取りの男にとって始めは《現実》であり、後に《夢》とされた。《現実》であれ《夢》であれ「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A )は生じている。
☆その夜、薪取りの男は、「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A )の《夢》をほんとうに見た。
⇒《現実》に起きた「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A )が《夢》として想起された!

☆ さらにその夜、薪取りの男は、「通りすがりの男」が鹿を手にいれたという《夢》も見た。
⇒薪取りの男は、「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A )は夢だったと思い「ぶつぶつと呟いて歩いていた」時、「通りすがりの男」と出会った。そのことは覚えていて、その《現実》が想起され薪取りの男は、「通りすがりの男」の《夢》を見たのだ。しかし薪取りの男は、通りすがりの男が「鹿を手にいれた」ことについては《現実》として何も知らない。通りすがりの男が「鹿を手にいれた」という《夢》を見たことは、薪取りの男が《正夢》(※現実と等価の夢;夢=現実)を見たということだ。

★ 夜が明けると薪取りの男は、見た《夢》(正夢)にしたがって、通りすがりの男を(《現実》において)探し当てた。そして「薪取りの男」は「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A )のは自分なのだから、「鹿」を返してほしいと「通りすがりの男」に申し入れた。しかし、言い争いとなった。そこで薪取りの男は裁判官に訴え出た。

★裁判官は薪取りの男に言った。①あなたは初め、《現実》に鹿を手に入れたのに、つまり「鹿を仕留め、空堀に隠した」という(出来事A )が《現実》に生じたのに、②勝手に《夢》の中の出来事とした。
☆また③《夢》(※ただし《正夢》)の中で鹿の所在が分かったのに、かってにこれを《現実》(真実のこと)としている。
☆一方、④あなたの相手の男(通りすがりの男)は《現実》に鹿を手に入れた。⑤通りすがりの男の妻は、そもそも「薪取りの男」(「鹿を仕留め、空堀に隠した」男)などいないという。⑤-2 つまり通りすがりの男(夫)が、「薪取りの男が初め、《現実》に鹿を手に入れたのに、勝手に《夢》の中の出来事とした」ということを薪取りの男のつぶやきから知ったということが、そもそも《夢》だったのだと妻は言う。その全体が《夢》だが、ただし《正夢》だったと言う。
★裁判官は、「ここに確かに(《現実》に)鹿があるのだから、半分ずつ分けるとしたらどうだろう」と言った。

★このことを言上された鄭の君(主君)は「ああ裁判官もまた《夢》のなかで人に鹿を分け与えようとしているのではないだろうか」と言った。
☆鄭の君から、たずねられて宰相が答えた。「夢か夢でないか、つまり現実か夢かの区別は、誰もできません。ひとます裁判官の言うことを信じられるのがよろしいでしょう。」

《感想1》この今ある《現実》は、一場の《夢》かもしれない。「Row, row, row your boat, gently down the stream. Merrily, merrily, merrily, merrily, life is but a dream.」(ボートを漕ごう、穏やかに流れを下ろう。陽気に、陽気に、陽気に、人生は夢にすぎないのだから。)かくも《現実》と《夢》は区別できない。《現実》は《夢》、あるいは《幻》or《幻想》かもしれない。

《感想2》だが《現実》は恐るべき《幻》(《幻想》)だ。「いじめ」、「児童虐待」、「低賃金」、「貧困」、「暴力」、「拷問」、「密告」、「裏切り」、「弱肉強食」、「金のない惨めさ」、「ボスの傲慢」、「不正」、「不公正」、「飢餓」、「ジェノサイド」、「戦争」、「侮辱」、「悪意」、「憎悪」、「不条理な差別」、「生まれ・家柄・社会的地位・経済力など親ガチャの不公平」、「老病死」の苦労、「絶望」、「自殺」等々、「この世」(《現実》すなわち「生」)はそれ自身、苦だ。(Cf. 仏教で「四苦」は「生」老病死だ!)なんという恐ろしい《現実》、すなわち恐ろしい《幻》。
《感想3》「陽気に、陽気に、陽気に」生きられる《現実》or《幻》であることを願う。

(33)-2 今ある《現実》の「鹿」は、自分と他者のそれぞれの「幻想」(《夢》)が、共有されることによって、公的な体験つまり《現実》となった!
★《現実》において鹿を隠した場所を忘れた「薪取りの男」。一度は、男は鹿をしとめたことを《夢》の中の出来事と考えた。
☆ところが鹿を横取りした男(「通りすがりの男」)という他者の登場により、「薪取りの男」は「鹿を仕留め、空堀に隠した」(出来事A )が《夢》でなく《現実》と思い直した。

★一方、「通りすがりの男」(鹿を横取りした男)は、「薪取りの男」が《夢》のなかで鹿を手に入れたと考えていた。
☆ところが「通りすがりの男」が、「薪取りの男」の《夢》の話を聞いてその通りに捜すと、《現実》に隠し場所を見つけ出し鹿を手に入れた。(かくて「通りすがりの男」は、「薪取りの男」は《正夢》つまり《現実と等価の夢》を見たのだと思った。)

★ところが「通りすがりの男」(鹿を横取りした男)の妻が言った。「お前さんのほうが、『薪取りの男が鹿を手に入れた』(出来事A)という《夢》を見たのではありませんか。薪取りの男など《現実》にはいやしないでしょう。」
☆ さらに妻が言った。「でも今、お前さん(夫)が《現実》に鹿を手に入れたのだから、お前さんが見た《夢》は《正夢》でしょう。」

★「通りすがりの男」(鹿を横取りした男)には、「薪取りの男」が《夢》を見たのか、それとも自分(「通りすがりの男」)が「薪取りの男」についての《夢》を見たのか、答えられなかった。
⇒なお、こうした思考そして出来事の全ては《現実》のうちで生じている

★さて今、《現実》のうちに裁判官、「薪取りの男」、「通りすがりの男」、「鹿」が存在する。
☆だが(かつて)「鹿」は「薪取りの男」の《夢》(《正夢》)の中に存在した。
☆また「通りすがりの男」の妻の言によれば、(かつて)「鹿」は「通りすがりの男」の《夢》(《正夢》)の中に存在した。

☆今ある《現実》の「鹿」は、「薪取りの男」・「通りすがりの男」それぞれの《正夢》(《夢》)の中の「鹿」でもある。つまり今ある《現実》の「鹿」は、一方で「薪取りの男」の《正夢》(《夢》)の「鹿」であり、他方で「通りすがりの男」の《正夢》(《夢》)の「鹿」でもある。
☆-2 今ある《現実》の「鹿」は、一方で自分(「薪取りの男」)の「幻想」(《夢》)であり、他方で他者(「通りすがりの男」)の「幻想」(《夢》)である。

☆ では自分と他者との間にどうすれば折り合いをつけられるのか。自分の「幻想」(《夢》)と他者の「幻想」(《夢》)が共有されればよい。共有によって、自分と他者のそれぞれの「幻想」(《夢》)は、私的な体験から公的な体験となり、ひとまず「現実」となる。今ある《現実》の「鹿」は、このようにして自分と他者のそれぞれの「幻想」(《夢》=《正夢》)が、共有されることによって、公的な体験つまり《現実》となった。

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叢小榕『老荘思想の心理学』第8章32「胡蝶の夢――夢と現実の境界」(『荘子』内篇・斉物論):「現実」の荘周が「夢」の中で胡蝶になったのか、「現実」の胡蝶が「夢」の中で荘周になったのか?

2024-02-19 12:22:40 | Weblog
※叢小榕(ソウショウヨウ)編著『老荘思想の心理学』新潮新書、2013年:第8章「夢と現とはどんな関係にあるか」
(32)胡蝶の夢――夢と現実の境界(『荘子』内篇・斉物論)
荘周(荘子)は自分が胡蝶となった「夢」を見た。胡蝶は、まさに胡蝶そのものであって、自身が荘周であるなどという意識は全くなかった。突然、目が覚め「現実」にもどると、そこにいるのは荘周以外の何者でもなかった。「現実」の荘周が「夢」の中で胡蝶になったのか、「現実」の胡蝶が「夢」の中で荘周になったのか、わからない。荘周と胡蝶には区別がある。だが荘周と胡蝶は相互に転化する。
★荘子の「斉物論」は、あらゆる物は本質的に同一であるとする。「夢」も「現実」も本質的に同一であり、相互に転化する。

《参考1》荘子の「斉物論」によれば、現実世界の根源にあってそれを支えている「道」の絶対性のもとでは,現実世界における「万物の多様性」、「価値観の相違」、あるいは「夢」と「現実」などのあらゆる差別相は本質的に意味をもたない。したがって「道」の在り方に目覚め「道」と一体となることによって、何ものにもとらわれない境地(無の境地or絶対的一元的認識)に到達できるとする。(Cf. 麦谷 邦夫)

《参考2》オーストリアの社会学者A. シュッツ(1899-1959)は多元的現実(multiple realities)について語る。至高の現実(paramount reality)、科学(学問)の諸現実、劇など虚構の諸現実、夢の現実。これら諸現実はつながっていない。現実間の移行は跳躍(leap)によってのみ可能だ。

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太宰治「舌切雀」『お伽草子』(1945) &“日本昔ばなし 太宰治 原作『お伽草紙』より舞台版「舌切雀」”(モトイキシゲキ作) ヒューリックホール東京:原作も舞台版も女の「嫉妬」が主題だ!

2024-02-18 15:36:17 | Weblog
「舌切雀」の太宰治・原作と、舞台版「舌切雀」の主題はともに「妻の嫉妬」である。(ただしともに「おばあさん」ではなく「若い女性」である。)原作と舞台版のストーリーはかなり異なる。

★舞台版「舌切雀」:女(妻)は男(画家の夫)に尽くしているが、男は絵心が尽き、絵が描けなくなってしまった。そんな男が美しく歌う雀に恋をした。男は雀への恋心から、雀の絵を描けるようになった。感謝して男は雪の中、雀に会いに行こうとする。だが雀は人間と結婚できない。男は一人戻る。男のいない間に、女(妻)は男(画家の夫)の絵心を回復させた雀に「嫉妬」し、男の描いた絵を切り裂いた。妻は男のあとを追うが雪の中で妻は死ぬ。男は回心し、それ以後、男(画家)は死んだ妻への愛に生き、妻の肖像画のみを書き続けた。

★原作・太宰治「舌切雀」:男(小説家)は女(妻)に冷淡だ。妻にろくに返事もしない。ところが男は雀の歌が気に入り、雀を追いかける。女(妻)は雀に「嫉妬」し、歌が歌えなくなるように雀の舌をむしりとる。男は雪の中、いなくなった雀を探しに行き、雀のお宿にたどりつく。男は、雀からかんざしをもらって帰ってくる。そのかんざしを大事にする男(夫)を見て、妻はさらに怒り、雀のお宿に押し掛ける。妻はそこで大きな葛籠をもらうが、それを背負って家に戻る途中、雪の中で死ぬ。ところが、その葛籠の中には大量の金貨が入っていた。男はその金貨を政治資金につかい、小説家をやめついに宰相となった。

《感想1》女の「嫉妬」は恐ろしい。(Cf. 『源氏物語』では六条御息所(ロクジョウノミヤスンドコロ)の嫉妬心が、本人の知らぬままに生霊となり源氏の正室・葵上を悩まし、やがて急死させる。)この場合の「嫉妬」は、「自分の愛する人」の愛情が、他の人に向けられるのを恨み憎むこと。やきもちor悋気(リンキ)。「舌切雀」は原作も舞台版も女の「やきもち」が主題だ。
《感想2》「自分よりすぐれている人」をうらやみねたむことも「嫉妬」である。(Ex. 他人の出世を「嫉妬」する。)うらやましさ、憎たらしさ、妬ましさ、敗北感、惨めさ、不安などが入り混じる。それらが強くなると、憎悪や恨みにさえ変わる。

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叢小榕『老荘思想の心理学』第7章31「時異なれば事殊なり――心を読む」(『列子』説符):「時宜に即する」とは、相手(斉侯、楚王、秦王、衛侯)の状況を観察し、相手の心を読むことだ!

2024-02-16 13:08:12 | Weblog
※叢小榕(ソウショウヨウ)編著『老荘思想の心理学』新潮新書、2013年:第7章「何を判断の基準とすべきか」
(31)時異なれば事殊(コト)なり――心を読む(『列子』説符):時宜を得れば栄えるが、時宜を失えば亡びる!
魯の施氏(シシ)に二人の息子があり、兄は学問好きで、弟は兵法が好きだった。学問好きの兄は斉侯(セイコウ)(「斉」の君主)に官職を求め、斉侯から公子たちの傅(フ)(教育係)に起用された。兵法好きの弟は「楚」に行き、楚王から気に入られ、軍法をつかさどる軍正(グンセイ)に任命された。施氏(シシ)の息子たちの俸禄は一家を豊かにさせ、その官爵は一族に栄光をもたらした。

★「斉」は中原東部の大国で学問を重視する国だった。だから施氏(シシ)の学問好きの兄は、斉侯(セイコウ)から公子たちの傅(フ)(教育係)に起用された。
★「楚」は南方の大国で、武力を以て中原を制覇しようとしていた。だから施氏(シシ)の兵法好きの弟は、楚の軍正(グンセイ)に任命された。

さて隣人の孟氏(モウシ)にも二人の息子があり、兄は学問好きで弟は兵法が好きだった。施氏の富めるのを羨ましく思って、施氏から出世の方法を教えてもらった。
そこで、学問好きの兄が「秦」に行き、学問を以て秦王に官職を求めた。秦王は「急務とするのは、兵力の増強と食糧の備蓄だ。仁義で国を治めようとするのは、国を滅亡させるやり方だ」と言い、学問好きの兄を「去勢の刑」にして追放した。
兵法好きの弟は「衛」へ行って、兵法を以て衛侯(衛の君主)に官職を求めた。衛侯は言った。「衛は弱い国だ。大国につきしたがい、小国はこれをなだめる。これが国を安泰にする方法だ。用兵の謀略に頼れば、たちまち衛は滅亡するだろう。この男をこのまま帰したら、よその国へ行って、わが国に大きな脅威をもたらすだろう」。衛侯は、この兵法好きの弟を「足切りの刑」にして魯へ送還した。

★「秦」は西の後進国だったが変革を行い、国力・軍備の増強と国土の拡大に努め、東の諸国の征服と天下統一を夢見ていた。かくて秦王は、孟氏(モウシ)の学問好きの兄を「国を滅亡させるやり方」を推奨する者として「去勢の刑」にした。
★「衛」は小国であり、また学問を重視する国だった。かくて孟氏(モウシ)の兵法好きの弟は「よその国へ行って、わが国に大きな脅威をもたらす」とみなされ、衛侯によって「足切りの刑」にされた。

魯の施氏(シシ)の二人の息子も、孟氏(モウシ)にも二人の息子も、「すること」は同じだった。施氏(シシ)が孟氏(モウシ)に言った。「時宜を得れば栄えるが、時宜を失えば亡びる。結果がわれわれと違うのは、時宜にかなわなかったからだ。」この場合、「時宜に即する」(臨機応変)とは、相手(斉侯、楚王、秦王、衛侯)の置かれた状況を適切に観察し、相手の心(意図・欲求・信念)を読むことだ。

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松本明子「所得再分配の壁」(『世界』2024.2月号):「情け」・「国の施し」は受けたくないとの気持ちと、「国」は「社会権」を保障すべきだとの気持ちが、アンビバラントな状態にある!

2024-02-15 14:12:27 | Weblog
※松本明子「所得再分配の壁――世論調査と実験からの模索」(『世界』2024.2月号、78頁以下)
①日本は1980年代以降、所得格差(ジニ係数)が拡大傾向にあるが再分配所得ジニ係数はあまり大きくなっていない。(2000年代以降は変わらない。)
《感想》日本は「貧困」への対策に注文は色々あるとしても、所得再分配に関し政府が「力を入れている」というべきだ。

②「平均所得未満なのに、所得再分配に反対する者」が抱く理由は、「情け」・「国の施し」は受けたくないとの気持ちだ。(Ex. トランプ支持の平均所得未満の白人労働者。)
②-2 20世紀前半に社会福祉・社会保障は「社会権」となった、つまり人権となった。(戦争が総力戦となったため。)
《感想》日本では、一方で「情け」・「国の施し」は受けたくないとの気持ちと、他方で「国」には貧困に対し一定程度の施策をする「責務」がある(「社会権」の保障をすべきだ)との気持ちとが、アンビバラントな(両価的な)状態にある。

③日本では「情け」は相手にとってよくないとの猜疑心がある。(Ex. 「情けは人のためならず」という格言を、「人に情けをかけるのは本人のためにならない」と解釈する。)「貧困」に関し「蟻とキリギリス」の自業自得論が、若者を中心に強い。
(Cf. 「情けは人のためならず」は本来、「人に情けをかければ巡り巡って自分も情けをかけられる」、つまり「人に親切にせよ」ということを意味する。ところが今はしばしば「人に情けをかけるのは本人のためにならない」という意味に解釈される。)
《感想》「貧困」に関し、一方で「親ガチャ」(親の経済力・地位等によって子の社会的成功のチャンスが決まること)が事実としてあるのは確かだ。しかし他方で「貧困」に関し「蟻とキリギリス」の自業自得論も、一面当たっている。

④若者は特に、年金財政が厳しく「自分たちは将来、年金がもらえない」と思っている。
《感想1》日本の若者は、老人(高齢者)の社会保障のための負担が、重く自分たちにかかるのに、若者の将来の社会保障(Ex.年金)があてになりそうもないので、今、社会保障(年金・介護)で「いい思い」をしている老人に対し、いい感情を持っていない。「老人」に対して「情け」をかけるほどの余裕が「若者」にはない。
《感想2》「若者」を取り巻く経済・社会的状況は過酷だ。非正規雇用化が進み、若者の多くが「使い捨て」労働力とされ、将来に期待が持てない。

⑤社会保障は「所得制限」を廃止し、道路整備のように「全ての人」に提供した方が、社会保障に賛成する者が増える。(Ex. 高等教育の全員無償化)(Ex. アメリカでは所得・性別・人種・左派右派に関係なく「政府の活動規模の拡大」=「大きな政府」への賛成が多くなる!)税が所得に比例(or累進)するので、高所得・低所得関係なく社会保障が「同額」提供されても、格差縮小(=所得再分配)になる。
《感想》「全ての人」に提供される社会保障という理念は、確かに「政府の活動規模の拡大」=「大きな政府」に対する反対者を減らす効果があるだろう。

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叢小榕『老荘思想の心理学』第7章30「倒錯――『常識』と『非常識』の誤謬」(『列子』周穆王):「常識」とは「みんなが言うから本当だ」と思うことだ!「三人虎を成す」!

2024-02-10 13:31:02 | Weblog
※叢小榕(ソウショウヨウ)編著『老荘思想の心理学』新潮新書、2013年:第7章「何を判断の基準とすべきか」
(30)倒錯――『常識』と『非常識』の誤謬(『列子』周穆王)
秦の逢氏の息子が錯乱の病にかかった。歌声を泣き声と思い、白を黒と思い、良い香りを臭いと感じ、甘いものを苦いと感じ、間違ったことをしては正しいと思うようになった。天地、四方、水火、寒暑にいたるまで倒錯しないものはなかった。困った父親が息子の症状(非常識)を老子に相談すると、老子が言った。「もし天下のものがことごとく錯乱したならば、お前さんのほう(常識)こそ、錯乱している(非常識)ということになる。」(『列子』周穆王)

★「常識」とは、「みんながそうしている」または「みんながそう言う」ので正しいとすることにすぎない。
★『韓非子』(カンピシ)「内儲説(ナイチョゼイ)上」に「三人虎を成す」という話がある。「市に虎があらわれた」と1人が言っても、また2人が言っても魏王は「信じない」が、3人が言えば「信じる」という話だ。市に虎がいないのに、3人の人が言うと、虎があらわれたことになるという話だ。
★「常識」とは「みんなが言うから本当だ」と思うことだ。

Cf.1 「同調性バイアス」(Majority bias):人は多数の他者と同一の行動をとろうとする。つまり自分以外に大勢の人がいる時、とりあえず周りに合わせようとする。周りに合わせることによって起こる認知のゆがみ。(Ex. 心理学者ソロモン. E. アッシュの同調圧力実験。)

Cf.2 「正常性バイアス」(Normalcy bias):予期しない事態にあったとき、「そんなことはありえない」といった先入観・偏見を働かせて、「事態は正常の範囲」だと自動的に認識する心のメカニズム。

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叢小榕『老荘思想の心理学』第7章29「禍と福・塞翁が馬――禍福転化のしくみ」(『列子』説符):人生の禍福は転々として予測できない!

2024-02-09 12:33:39 | Weblog
※叢小榕(ソウショウヨウ)編著『老荘思想の心理学』新潮新書、2013年:第7章「何を判断の基準とすべきか」
(29)禍と福・塞翁が馬――禍福転化のしくみ(『列子』説符)
宋の人の家の黒い牛が白い小牛を生んだ。孔子がこれは「めでたい兆し」だと言った。ところがその家の父親は失明した。(父親は「聖人の言うことは、初めは当たらなくても後には当たるものだ。最終的にはどうなるのかまだわからない」と言った。)そして黒い牛がまたもや白い小牛を生んだ。孔子はこれは「めでたい兆し」だと言った。それから1年経つと今度は息子が失明した。その後、楚が宋に攻め込んできた。健康な者は召集され戦い、大半が死んだが、この父子は失明していたので、戦いに出ずにすんだ。(『列子』説符)
★ある出来事がその時、禍(ワザワイ)であっても、後に福(サイワイ)になることがある。

『淮南子』(エナンジ)には「塞翁が馬」の話がある。①[禍]国境の塞(トリデ)近くに住む老人(塞翁)の馬が異民族の胡の地に逃げてしまった。②[福]数か月たって逃げた馬が胡の駿馬を連れて帰ってきた。③[禍]その馬に乗った息子が馬から落ちて大腿骨を折った。④[福]1年後、胡人が大挙して攻めてきて、国境の近くに住む青壮年の男子は戦い、大半が死んだが、大腿骨を折っていた息子は兵役を免れ命が助かった。
★人生の禍福は転々として予測できない。「人間万事塞翁が馬」。

《感想1》似た諺が日本にもある。「沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり」、「楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」、「一の裏は六」。英語には「Every (dark) cloud has a silver lining.」という格言がある。「どんな困難な状況(暗雲)にも希望(silver lining)はある。」
《感想2》「捨てる神あれば拾う神あり」という諺もある。これは「嫌なことし、見捨てる人がいても、親切に助けてくれる人もいる」という意味。つまり「落ち込まないで」と相手を励ます言葉。「渡る世間に鬼はない」!

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