宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

「2010年代 ディストピアを超えて」(その7):「ディストピア小説」多和田葉子、佐藤友哉、吉村萬壱、津島佑子!「批判」飯田一史!「人々の気持ちを癒す」いとうせいこう!(斎藤『同時代小説』6)

2022-05-28 13:18:42 | Weblog
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(69)「ディストピア小説に向かった純文学」:多和田葉子『不死の島』(2012)        !
G 2012年以降、日本ないし日本を思わせる「原発事故後の世界」を描くSF的な小説が登場した。(241頁)
G-2  多和田葉子(1960-)『献灯使』(2014、54歳)は5編を収める中短編集だが、そのうち『不死の島』(2012、52歳)は原発事故後の「おそるべき」日本を描く。(241-242頁)
G-2-2  『不死の島』(2012)の舞台は東日本大震災(2011)の9年後、2020年だ。「日本」は2011年、世界から「同情」されるが、2015年には関心を失う。その後、日本に関する悪い「噂や神話」が広がり、日本は差別されるようになる。(241-242頁)
G-2-2-2 2020年、ドイツ在住の日本女性が空港で「差別」を受ける。彼女は思う。「福島で事故があった年(2011)にすべての原子力発電所のスイッチを切るべきだったのだ」。(241-242頁)
G-2-2-3 「原発を止めよ」と述べた天皇も首相も2013年には、姿を消した。(242頁)
G-2-2-4 その後の日本は(※原発事故の放射能の影響で)「おそるべき」事態を迎える。(ア)2011年に100歳超の老人は「いつまでも健康」で死なない。(イ)逆に子どもはいつ死んでもおかしくないほど病弱で「要介護」の状態だ。そして(ウ)「過去の大きな過ち(原発事故後も原発を続けたこと)」によって(世界から嫌われ)日本は「鎖国」を余儀なくされる。外来語の使用も禁じられた。(242頁)

《書評1》ドイツの空港で日本のパスポートを出すと、係官の顔が引きつる。私は抗議する。「これは、日本のパスポートですけど、私は30年前からドイツに住んでいて、あれ以来日本には行っていません。だからパスポートには放射能物質は付いていません」。こうしてこの人は、「差別される側」から、「差別する側」に昇格する。外国から「放射能汚染を拡散させるな!」と非難され、日本は「鎖国」してしまう。この近未来小説を読んで原発事故後の日本を、外国人が誤解しないかと心配してしまう。
《書評2》3・11がテーマになっているのは間違いないが、「団塊の世代の後ろめたさ」と「次の世代への期待と不安の入り交じる複雑な思い」を感じてしまう。
《書評3》「欲望」したり、「自分が可哀想」と思ったり、「これが私です」と服や音楽や本で自己顕示する生活をせず、そして「可哀想だ」と涙する老人たちを不思議そうに眺め、クラゲや海藻のように漂う新しい世代の人々。作者は彼らを、新鮮な視点で瑞々しく描く。「感覚や欲望を無くし、身体能力が低下した新人類たち」は、不幸せそうにも不便そうにも見えない。むしろ私の方が憐れで可哀想に思える。退廃的なのにおもしろい本。

(69)-2  佐藤友哉『ベッドサイド・マーダーケース』(2013):「大災厄」(地球規模の放射能汚染)から1000年後の世界!
G-3  佐藤友哉(1980-)『ベッドサイド・マーダーケース』(2013、33歳)は「大災厄」(地球規模の放射能汚染)から1000年後の世界を描く。(242頁)
G-3-2 「大災厄」から1000年後のこの世界で、十数年前から「連続主婦首切り殺人事件」が起きている。彼女らは全員が「放射線被曝によって胎児に影響が出る可能性があると診断された妊婦」だった。(242頁)
G-3-2-2  「世界規模の大災害と、それにともなう核兵器施設・原子力発電所の崩壊によって、地球はおよそ千年前、放射性物質が蔓延する死の星になった」。(242-243頁)
G-3-2-3 健康に生まれなかった子どもたちは「放射児」と呼ばれ、やがて国家公認の「子殺し」が始まる。「キャンペーン化され、正当化され、制度化されたそれにより、子供たちは粛々と殺された。/ 見えないように殺された。/ 見えないところで殺された」。(243頁)

《書評1》原発の大災厄を経た未来で、連続する主婦殺し。妻を殺された夫達は復讐を誓い、犯人を追い、真相に近づくにつれ恐怖に直面する。犯人と、事件を黙認する国の目的が見え始めた頃、町はジェノサイドの地獄と化す。未来への希望の兆しはない。今という時代から未来を描くと、希望は示せないということ。3・11震災後ディストピア小説。
《書評2》ジェノサイドの理不尽感を含め、何ともいえない「後味の悪さ」が残る。
《書評3》「病気を持った子供」を授かったとしても、それはそれで嬉しいのだ。手が掛かっても、嬉しいのだ。

(69)-3 吉村萬壱『ポラード病』(2014):大災害から復興した町の異様な「ゆるやかな全体主義」のムード!
G-4  吉村萬壱(マンイチ)(1961-)『ポラード病』(2014、53歳)は「大災害から復興した町」の異様な「ゆるやかな全体主義」のムードを描く。(243頁)
G-4-2  語り手は小学5年生の少女。彼女が暮らす海塚市は「ゆるやかな全体主義」というべきムードに覆われている。ある日、同級生のアケミちゃんが死んだ。新学期を迎えてから死んだ児童はこれで7人。通夜の席でアケミちゃんの父親が挨拶する。「アケミはよく言っていました。/ 海塚の玉葱が一番おいしいね、お父さん、海塚の魚が一番安心だね、と」。そして「海塚!海塚!」のコール。(243頁)
G-4-2-2 海塚は「嘘で塗り固められた町」だった。「全ての抵抗を断念して、そして全てを諦めて、この町だけは何もなかったことにしよう」と町ぐるみで画策する。「狂気」じみた町。(243頁)

《書評1》気持ち悪い。終始気持ち悪かった。一見普通の生活を送る小学生の独白。何らかの厄災から復興しつつある街。郷土愛を胸に前へ進むべしと。どこまでもまとわりつく同調圧。「誰か」の決めた正義。
《書評2》現代社会をシニカルな目線で大げさに描きSF的に仕上げる手法。
《書評3》グロテスクな同調圧力。郷土の安全な食品を食べ、「結び合い」という合言葉で団結を図ろうとする海塚市民。現実から目を背けるための人為的な営み。「ボラード」とは岸に船を繋留するために設置された杭のこと。同調する「健常者」を繋留する「ボラード」。原発事故後の我々に対する痛烈な風刺。極めて日本的な村社会型ディストピア小説

(69)-4 『不死の島』、『ベッドサイド・マーダーケース』、『ポラード病』という「原発事故後の世界」を描くSF的な3冊の共通点:①「未来」の②「放射能に汚染された土地」の③「ファシズムに近い体制」と④「不自然な死」の横溢、すなわち「絶望的なディストピア」を描く!
G-5  多和田葉子『不死の島』、佐藤友哉『ベッドサイド・マーダーケース』、吉村萬壱『ポラード病』という「原発事故後の世界」を描くSF的な3冊は、よく似た構想のもとに創作されている。(243頁)
G-5-2  それらの共通点は①舞台が「未来」である。②最後の世界は「放射能に汚染された土地」である。③「ファシズム」に近い体制が出現している。④「不自然な死」が横溢している。(243頁)
G-5-2-2  要するにこれら3冊は「絶望的なディストピア」を描く。(243頁)
G-5-2-3 (a)秘匿される情報、(b)見えない放射性汚染への恐怖、(c)信用できない政治家、(d)「絆」を強調する全体主義的なムード。震災直後の日本を、これらの小説は確かに反映している。(244頁)

(69)-5 津島佑子『ヤマネコ・ドーム』(2013):「放射性物質に汚染された国(or東京)」は「いいかげん見捨てましょう」!
G-6  津島佑子(1947-2016)『ヤマネコ・ドーム』(2013、66歳)は「放射性物質に汚染された国」は「いいかげん見捨てましょう」と述べる。(244-245頁)
G-6-2  米兵と日本人女性の間に生まれ今は国外に住むミッチ(道夫)、混血孤児のカズ(和夫)、母子家庭で育ったヨン子(依子)は、子供時代を共に過ごすがすでに60歳代。(※3人は1950年頃生まれ。)10年前にカズ(※50歳代)が死んだ。今2011年、東日本大震災による津波と福島第1原発事故が起きる。(244頁)
G-6-2-2 ベトナム戦争(1965-1973)(※3人は小学生頃)から米国同時多発テロ(2001)(※50歳代)までの3人の苦い思い出。(244頁)
G-6-2-3  今、「3・11」後の東京は「放射能の煮こごりの世界」。「放射性物質に汚染された国」は「いいかげん見捨てましょう」と、外国に住むミッチが、ヨン子の年老いた母に迫る。(244-245頁)

《書評1》震災と原発事故を踏まえて書かれた作品だが、時系列も視点もあえて混乱させた多声的な文体で、日本の戦後史そのものを問う物語となっている。
《書評2》過去と現在が交差するシャーマニックでスピリチュアルな作風は著者の十八番だが、明確に「3.11」以降の日本社会に向けて書かれているのが今までとは違う。結局、「終末論」のような気がして、今ひとつぴんとこない。
《書評3》アメリカと日本が葬ってきた「不都合な歴史」の中を異邦人として生きなければならない少年少女達の時間を超えた旅。外界と記憶が区別されない世界で、「罪の意識」を中心に時間が行ったり来たりする。「罪を覆い隠そうとする巨大な力」が常に背後に見え隠れする。

G-6-3  「いいかげん見捨てましょう」は、自主避難者の勇気を肯定する希望の言葉だった。かくて木村朗子(サエコ)『震災後文学論』(2013)は「ディストピア小説群」を高く評価する。(245頁)
G-6-3-2 だが、ディストピア小説の盛況は異様といえば異様だ。(斎藤美奈子氏評。)

(69)-6 飯田一史:震災関連ディストピア小説には「覚悟を決めて自分たちで対処する」という当事者意識が欠如している!
G-7  『東日本大震災後文学論』(2017)の編者のひとり、ライターの飯田一史(イチシ)は、震災関連ディストピア小説の多さにふれ、「どうにもできなかった」人たちばかりしか描かないことを問題にする。(245頁)
G-7-2  飯田一史(1982-)は、前掲書所収の論文(2017、35歳)「希望――重松清と『シン・ゴジラ』」で、「何パターンものやり方で震災を描こうとしてきた重松清」と「政府がゴジラ(暴走する原発を思わせる)を倒すところまでを描いた映画『シン・ゴジラ』(庵野秀明総監督、2016)」を称揚する。(245頁)
G-7-2-2 飯田は、震災関連のディストピア小説の多さにふれ「『どうにもできなかった』人たちばかりを積極的に描く不可思議さ」を指摘する。(ア)それらは「責任を引き受ける、覚悟を決めて自分たちで対処するという当事者意識」の「欠如」を示す。(イ)「主体性」を削ぎ、「無力感」を助長する。(ウ)大事な「本質」を見ない、それに「取り組まない」で「周辺をぐるぐるまわる」ことですませる悪癖だ。(245頁)
G-7-2-2-3 さらに「震災後文学」は「受け身の精神や個人の内面」を描くのみならず、「状況全体を担う覚悟」を、いざというときには「責任を、意志をもって立ち向かう大人」をも示すべきだったと飯田は言う。(245頁)
G-7-2-2-4 要するに震災関連ディストピア小説は「『自分が置かれているのはひどい状況だ』『つらい、悲しい』という以上のことを描いていない」と飯田は言う。(245頁)

(69)-7 いとうせいこう『想像ラジオ』(2013):震災の死者の声がラジオを通じて代弁され、人々の気持ちを癒す! 
G-8  いとうせいこう(1961-)『想像ラジオ』(2013、52歳)は、震災の「死者」の声をラジオを通じて代弁させるとした点で、人々の気持ちを癒し、好感をもって迎えられた。(246-247頁)
G-8-2  38歳のDJ アーク(芥川冬助)は東日本大震災の津波で亡くなった。彼は高い杉のてっぺんに仰向けにひっかかっていた。だが彼はその状態で(想像上の)ラジオ放送を続ける。彼が言うには「あなたの想像力が電波であり、マイクであり、スタジオであり、電波塔であり、つまり僕の声そのものなんです」。(246頁)
G-8-2-2 DJもリスナーも死者。しかしリクエストも来るし、電話中継も入るし、曲もかかる。(246頁)
G-8-2-3  想像上のラジオは現実からの逃避かも知れない。しかし「死者の声」がラジオを通じて代弁される点に、読者は希望を見た。(246頁)

《書評1》東日本大震災をモチーフにした作品。“魂魄この世にとどまりて”。突然の天災に死にきれない人たちが交流する想像ラジオ。高い杉の木の上からDJアークが声を届ける。軽妙な語り口も、残した妻子への想いは切ない。耳を澄ませば聞こえるあの人の声。
《書評2》東日本大震災後に被災地で、心霊体験を語る人が多く現れた記憶がある。それは失われた人にもう一度会いたい、話が聞きたいという痛切な思いの現れだったのだろう。魂の浄化の物語。震災の電気通わぬ夜に、人々を繋げたラジオの形を借りて、木のてっぺんにぶら下がったままの素人DJが、開かぬ口のまま語る。
《書評3》あの日の衝撃、その後の喪失感などを思い起こし、読んでいてつらかった。この小説を読んで少しでも救われる人がいるといいと思う。

G-8-3 「現実の厳しさを突きつけるディストピア小説」と、「人々の気持ちを癒す想像上のラジオ」との間に、当時の私たちは確かに立っていた。(246-247頁)

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「2010年代 ディストピアを超えて」(その6):「原爆」青来有一!「原発」高村薫、東野圭吾、小林信彦!「震災小説」川上弘美、古川日出男、高橋源一郎、福井晴敏、木村友祐!(斎藤『同時代小説』6)

2022-05-26 11:30:40 | Weblog
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(68)「2011年、第1撃後の震災小説」:Cf. 「ゴジラ」『鉄腕アトム』『AKIRA』『風の谷のナウシカ』など戦後のサブカルチャーは原子力を物語のモチーフに積極的に取り込んできた!
F  「3・11」後の小説について述べる前に、原子力に関する過去の作品を見ておこう。(236-237頁)
F-2  川村湊(ミナト)『原発と原爆――「核」の戦後精神史』(2011)が指摘するように、マンガやアニメに代表される戦後のサブカルチャーは原子力を物語のモチーフに積極的に取り込んできた。(a)水爆実験の結果、古生代の眠りから蘇った映画の「ゴジラ」(1954~)。 (b)超小型原子力エンジンを備えた手塚治虫の『鉄腕アトム』(1952-1968)。(c)核戦争後の世界を描いた大友克洋(1954-)『AKIRA』(1982-1990)。(d)同じく核戦争後の世界を舞台にした『風の谷のナウシカ』(1984)。(237頁)
F-2-2 しかし果たしてこれらは、被曝の実態、放射性物質がばらまかれた世界の現実を正しく伝えていただろうかと、川村湊は問う。(237頁)

(68)-2 「原爆」の問題:林京子、青来(セイライ)有一『爆心』(2007)!
F-3  純文学は「核」すなわち「原爆」の問題には強い関心を示してきた。林京子(1930-2017)はその代表的な作家だ。(237頁)
《参考》林京子(※長崎で被爆)(1930-2017)『祭りの場』(1975、45歳)(芥川賞受賞)は、長崎の原爆に取材した小説だが、客観的かつ俯瞰的な作品で、斎藤美奈子氏は「芥川賞より大宅賞がふさわしいと思われるほどだ」と言う。(66頁)

F-4  近年では長崎在住の青来有一(セイライユウイチ)(1958-)が特筆される。代表作は短編集『爆心』(2007)。青来の作品には長崎の原爆とキリシタン弾圧が、重要なモチーフとしてたびたび登場する。(237頁)
《書評1》「長崎の爆心地での人間模様を描いた短編集」と聞いて戦争の話が中心かと思えばそうではなく、ほとんどが現代が舞台。知的障害者、不倫、幼子を失くした父、様々な人が出てくるが、必ずどこかで原爆と繋がっている。
《書評2》著者の出身地である長崎を題材に、キリスト教、原爆という難しい話題を織り交ぜながら書き上げた連作短編集。この作品には、欲望や禁断の愛、錯乱、妄想、生と死など、様々な話が交錯して、丁寧な文体に乗せながら、人間の営みを描く。
《書評3》戦後生まれの作者にとって、原爆のことを記すことにはかなりの葛藤と覚悟が必要だったろう。同郷で被爆者の作家林京子から「自由に書いていいのよ」と言われたという。6作品からなる短編集だが、「虫」は神の存在を問う内容で遠藤周『沈黙』にも通じる。なぜ神の国であるアメリカがキリスト教信者の住む長崎を、浦上天主堂を焼き尽くす所業を行ったのか?なぜ神は信者を守ることがなかったのか?

(68)-3 「原発」(チェルノブイリ原発事故後)の問題:高村薫『神の火』(1991)、東野圭吾『天空の蜂』(1995)、小林信彦『極東セレナーデ』(1987)!
F-5  もう一つの「核」すなわち「原発」については、1986年のチェルノブイリ原発事故後、いくつかの作品が書かれている。こちらはエンタメ系の独壇場だ。(237頁)
F-5-2  高村薫(1953-、女性)『神の火』(1991、38歳)は冷戦時代の末期を舞台に、元原発技術者にしてソ連のスパイだった男が、元原発労働者らと協力して原発襲撃を計画するという大がかりなサスペンスだ。(237-238頁)
《書評1》(ア)事故が起こったら最後の原発が、多重防護によって守られているとはいえ、あくまでも条件付の想定であること、(イ)北朝鮮が原爆の開発に強い意欲を持っていることを、高村さんは90年代初頭に作品化していた。にもかかわらず東日本大事震災の事故を起こして、なおその事故を「想定外」といい募る傲慢!
《書評2》発売当初はまだソ連が崩壊してなくて、その頃の話だが「原発テロ」というテーマは今まさにそこにある危機なので、そんなに色あせてない。
《書評3》「テロ」(1991)なんか起こさなくても、「地震と津波」(2011)でメルトダウンしてしまう原発をしれっと運営していた、という事実を突きつけられた作者の憤りって凄まじいんだろうなと「場外戦」を想像してししまう。

F-6 東野圭吾(1958-)『天空の蜂』(1995、37歳)は、「天空の蜂」を名乗るテロリストが福井県の高速増殖炉「新陽」の上空に大型ヘリをホバリングさせ、「日本中の原発の発電タービンを破壊せよ。さもなければヘリを墜落させる」と政府と電力会社を脅迫する物語だ。(238頁)
《書評1》原発の存在を意識したのは東日本大震災の時が初めてで、それから10年以上たった今、また意識の中から外れようとしている。テロリスト・三島のやり方が正しいとは言えない。でもそこまでしないと「沈黙する群衆」は関心を示さないということには納得した。賛成派、反対派ではなく、「沈黙する群衆」こそ悪というメッセージだった。
《書評2》「反原発」や「原発推進」のどちらかに偏った書き方だったら読みきれなかったかもしれないが、東野さんは「無知・無関心」が一番の悪なのだと説く。
《書評3》技術的な説明が長いのが難点だが、この小説が東日本大震災の前の1995年に書かれたことがスゴい。

F-7  小林信彦(1932-)『極東セレナーデ』(1987、55歳)は、新聞連載中にチェルノブイリ事故が起きたので、それが小説に取り込まれ、「広告業界でアイドル街道を駆け上がっていたヒロイン」が原発広告に出ることを拒否して業界から干されるという結末に至る。(238頁)
《書評1》エンターテイメントの凄味を思い知らされる。ここでは「写真週刊誌の特ダネ至上主義」も、「日本人のアメリカ信仰」も、「アイドル生成のメカニズム」も、果ては「チェルノブイリ」まで「ネタ」としてまぜこぜに飲み込まれて『極東セレナーデ』という一冊の本になってしまう。「なんでもあり」ながら、決して「なしくずし」でないところはこの著者の批評眼の鋭さを伺わせる。ただしキャラは「駒」にすぎず、その「駒」が小林信彦の意見を代弁しているだけとも言える。
《書評2》朝倉利奈がとても冷静で賢い。シンデレラストーリーと、そこからの脱却。正直、「原発の話をここで持ってくるのか〜」と思わなくもなかった。

(68)-4 「原発」(「3・11」福島第1原発事故後)の問題を描いた「震災小説」:川上弘美『神様2011』(2011・9月)、古川日出男『馬たちよ、それでも光は無垢で』(2111・7月)!
F-8  しかし全体としてみれば、日本の小説は「原発」積極に描いてきたとは言えない。震災(2011・3・11福島第1原発事故)にいち早く反応して書かれた小説は川上弘美(1958-)『神様2011』(2011・9月)だ。これは『神様』(1998)を3・11後バージョンに書き直したものだ。くまとの散歩の後、くまは別れ際に「ガイガーカウンター」で私の全身の放射能を計測する。(238頁)
F-8-2  単行本のあとがきで川上弘美は述べる。「静かな怒りが、あの原発事故以来、去りません。むろんこの怒りは、最終的には自分自身に向かってくる怒りです。今の日本をつくってきたのは、ほかならぬ自分でもあるのですから」(239頁)

《書評1》「あのこと」が起こった2011年に、書き直した『神様2011』。「あのこと」により、生活、日常は大きく変わった。それでも生きていかなくてはならない。日常は続いていく。川上さんは、静かに激しく怒っている。自分自身に向かって。『神様』には、熊の神様が『神様2011』には、ウランの神様が描かれている。そして、現在も大きな出来事により日常が変わっている。
《書評2》東日本大震災のあとこんなにも世界は変わってしまった。川上さんのあとがきはウランの分裂をやさしくわかりやすく説明してくれて、「私たちのすべきことは何か」ということを考えさせてくれる。
《書評3》ウランという神様は、人間の手によって、その力を悪い方向に発揮した。それは人だけでなく、他の神様をも殺め、日常に違和感を残した。「得体の知れないなにか」を気にして生きていく。その原因を作り出したのが人間である事を忘れてはならない。

F-9  もう1作、震災後ほどなく書かれたのは古川日出男(1966-)『馬たちよ、それでも光は無垢で』(2011・7月、45歳)だ。古川は震災から1か月後、被災地を自身の目で確かめるべく出身地の福島を訪れる。だが彼は何も書けない。(239頁)
F-9-2  そこに狗塚牛一郎(イヌヅカギュウイチロウ)―東北の歴史を描いた古川の小説『聖家族』(2008)の登場人物―が現れる。小説は牛一郎に乗っ取られる。フィクションとノンフィクションの融合。小説の後半は相馬の「馬」の記述で埋め尽くされる。テキストは混乱する。(239頁)
《書評1》3・11のあとの、古川日出男の備忘録。『聖家族』を読んでいたので、ちゃんと理解できた気がする。嘘はない、書けない、切実な思いがあふれている。故郷をよごされた怒り、悔しさ。
《書評2》当たり前のように物語を書いてきた。ただ書きたいから書いてきた。それができない。福島がFukushimaになったあの日から。なぜ私はこちら側でのうのうと生きている?時間の感覚を失う中でただ声だけがする、そこへ行けと。書けなくなった福島出身の小説家が震災後の福島を見る。誠実な言葉が行き場のない怒りと哀しみと涙を誘う。書けなくても書く。その姿が重たく苦しい。それでも聞こえる、「物語がいるんだろう?」って。誠実な記録を物語が侵食する。でも、それも小説家古川日出男の現実なのだ。

★古川日出男『聖家族』(2008、42歳)
《書評1》東北でありみちのくであり、本州の果ての鬼門であった地の700年にわたり連綿と繋がれてきた記録と記憶。正史の裏に密やかにしかし確実に存在していた、記録されていない記録、つまり口伝。はっきりいって物凄い。怒涛の勢いで押し寄せてくる文圧。
《書評2》青森の旧家に生まれた三人兄妹の長い長い物語。都から見て丑寅の鬼門、東北と呼ばれる地域で起きる様々な出来事。時代を超え綿々と続く物語。この作品は東日本大震災前に書かれているが、震災を経た今読むと、搾取され続けた東北の痛みを感じる。

(68)-5 「3・11」福島第1原発事故後「反応が早かった」だけの震災小説:高橋源一郎『恋する原発』(2011)、福井晴敏(ハルトシ)『震災後』(2011)!
F-10  2011年に発表された「震災小説」には、ほかに高橋源一郎(1951-)『恋する原発』(2011)がある。これは、AV監督の「おれ」が「恋する原発」という震災のチャリティAVを制作するという、不謹慎なだけが取り柄のドタバタ喜劇だ。(239頁)
《書評1》はじけてしまっている文章でなかなか感想が書きにくいが、よく見ると、社会に対する批判や風刺が浮き彫りになる。「あの日」以来、私たちの将来が不安の影に覆われているいま、科学技術との付き合い方もよく考えなければならないのだろう。なお、途中に挿入されている「震災文学論」の部分はまじめな評論になっている。
《書評2》登場人物たちの台詞や文章の所々に社会風刺が効いているところに、何かあればすぐに「不謹慎」と言われてしまうような、「発言しにくい最近の閉塞した空気感」を打破しようという高橋源一郎の熱い気持ちを感じた。
《書評3》全く意味がわからない。意味のわからない音を発してパンクロックをかき鳴らしたような・・・・。その衝動が戦っているのは世界の理不尽。理不尽に対抗できるのは、理不尽。読んで何かを得るようなものではないし、一つ一つの描写や表現を不快に感じる方も多いかと思う。オススメするような本ではない。でも強烈なインパクトはある。それは確か。

F-11  さらに、2011年に発表された「震災小説」に、福井晴敏(ハルトシ)(1968-)『震災後』(2011、43歳)もある、これは、東京のサラリーマン一家を主人公に、「原発」を「家族の問題」にすり替えた人情ファミリードラマだ。作者の意図はともかく、「反応が早かった」という以上の意義は認めにくい。(斎藤美奈子氏評。)(239-240頁)
《書評1》震災により「大人たちを信じられなくなり、未来に希望を見い出せなくなった」中学男子と、その家族の再生物語。主人公・野田と同じ中学男子の親として気持ちは分かる。でも同じ親だからこそ「オタオタして肝が据わってない」野田に嫌悪さえ感じた。あの時、私自身は「家なんて器はどうでも良くて、子ども達さえ元気に育てられるなら、宇宙の果まででも連れていく」覚悟が出来ていたよ。解説が石破茂氏ってのが凄い。そして思わず笑ってしまった。
《書評2》被災したとは言えない東京多摩地区に住む一家族にスポットライトを当て、あの日の爪痕が日本国民に「闇」となって巣くっていることを描き出した。
《書評3》ある時は人の親、ある時はだれかの子供。「試練を与えられた時にどのように立ち向かい乗り越えるか?」「わが子をちゃんと導けるのか?」そんなことを問いかける東日本大震災を題材にした親子三代そして家族愛の物語。ノンフィクションとフィクションを上手く取り混ぜて、最後は「未来に希望を忘れかけた日本人」へのメッセージをきっちり主張。(言いたいことがありすぎて冗長のきらいあり。)「日本は現場力の国」という言葉に大いに共感!

(68)-6 歴史的に虐げられてきた東北の悲しみをパワーに変えた:木村友祐(ユウスケ)『イサの氾濫』(2016)!
F-12  木村友祐(ユウスケ)(1970-)『イサの氾濫』(2016、46歳)は「震災小説」として特筆すべきだ。40歳にして会社を辞めた主人公の將司(マサシ)が震災後、故郷の青森県八戸市に帰る。亡き叔父イサは手のつけられぬ乱暴者だった。イサをよく知る老人が言った「こったら震災ど原発で痛(イダ)めつけられでよ。・・・・暴れでもいいのさ、東北人づのぁ、すぐにそれがでぎねぇのよ」(240頁)
F-12-2  おらがイサだ。酔って突然そう思った將司=イサは、妄想の世界で西を目指す。進むにつれ人の群れは膨れ上がり、ダチョウ、牛、犬、猫も加わり、無数のイサが永田町になだれ込み、国会議事堂に矢を放つ。(240頁)
F-12-2 -2 この小説は歴史的に虐げられてきた東北の悲しみをパワーに変えた。数ある震災関連小説の中で、傑出した作品だ。(斎藤美奈子氏評。)(240頁)

《書評1》主人公は青森出身だが、都内での生活の方が長い。実家には折り合いの悪い父親が居り、故郷への強い思い入れもない。といって都内にも居場所はない。震災後、被災地にも東京にも身を置けない自分と、叔父イサを重ねるようになる。乱暴者だった叔父イサの孤独と怒りは自身のものとなり、それは東北の悔しさとして表れ、「頑張れニッポン!絆!」の嘘臭さに、絞り出すような叫びを上げ爆発する。重い。けれども、受け止めなければいけない重さに怯んだ。
《書評2》『イサの氾濫』は、震災、原発事故後の東京に溢れる「偽善と欺瞞」を真正面からぶん殴った作品。「東京五輪」の傲慢さや「がんばろう東北」の欺瞞!
《書評3》すごいものを読んだ。八戸出身の作者がどのような思いでこれを書いたのか?私も震災後やたらとメディアに踊る「ガンバレ日本」「絆」の文字に何だか言いようのない違和感をもった。でも小説内で語られる被災当事者の思いは、そんな違和感で片付くものではない。かといって「これだ」と断言できるものでもなく、ぶつけようのない、怒りにも似た「叫び」だ。

(68)-7 「人の死にかかわる震災を安易に書くべきでない」という「日本流の言論弾圧」?
F-13  古典文学研究者の木村朗子(サエコ)(1968-)『震災後文学論――あたらしい日本文学のために』(2013、45歳)は、「震災や原発事故を描いた作品が少ない」と指摘し、「日本流の言論弾圧」があったのではないかと述べる。確かに「人の死にかかわる震災を安易に書くべきでない」という雰囲気が震災直後にあった。(240-241頁)
F-13-2  だがその後、結果的に震災はおびただしい作品を生んだ。小説ももちろんだが、詩歌、エッセイ、ノンフィクション、評論、映画、演劇、アートなど。(後述)(241頁)

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「2010年代 ディストピアを超えて」(その5):「介護小説」水村美苗、篠田節子、中島京子、ねじめ正一、佐伯一麦、落合恵子、羽田圭介!「玄冬小説」若竹千佐子、高村薫!(斎藤『同時代小説』6)

2022-05-24 11:55:16 | Weblog
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(67)「あの作家も、この作家も介護小説を書いていた」:水村美苗(ミズムラミナエ)(1951-)『母の遺産』(2012、61歳)「死んだほうがましだわ」と母は口にするが「おしまい」になる気配はない!
E  『続明暗』(1990、39歳)(※夏目漱石の未完の『明暗』を完結させるという大胆不敵な試み)から22年後、水村美苗(ミズムラミナエ)(1951-)は『母の遺産』(2012、61歳)という介護小説を書く。(231頁)
E-2  若い時分は美人で鳴らし、オペラに親しみ、夫の死後はシャンソン教室で新しい恋人まで見つけていた奔放な母・紀子。ドイツに音楽留学し、資産家の次男のチェリストと結婚した姉・奈津紀。仏文学を専攻し留学先のパリで出会った男性と25歳で結婚した妹・美津紀。「芸術と知」を愛する一家も否応なく襲う老いと病。(232頁)
E-2-2  小説は、50歳になった美津紀の視点で進む。母はわがまま放題。姉は頼りにならない。夫は浮気している。「ノリコさんもとうとうおしまい!」「死んだほうがましだわ」と母は口にする。しかしいっこうに「おしまい」になる気配のない母。美津紀は心の中でつい愚痴る。「ママ、いったいいつになったら死んでくれるの?」(232頁)

《書評1》とてもおもしろく読んだ。娘が母について「一体いつになったら死んでくれるのか」と思う。「年をとっても節約して働き続ける」と言う妹に、姉が「そんな生活はみじめだ、みじめだ、みじめだ」と言う。これらの台詞はなかなか口に出して言えない。言いたいけど言えない。あるいは、言ってはいけないとフタをしている。これが日本の現在。
《書評2》「わがままに生きる母親」との闘いのような看病、「愛で結ばれたはずの夫」の裏切りなど、非常に俗っぽいことを扱っているにもかかわらず、文学的な気高さを感じる。
《書評3》50代の娘が高齢の母を看取り、自分を見つめ直す物語。母は施設入所し病院で亡くなるので美津紀は母を直接は介護しない。母のオムツを換えることもない。しかし「事あるごとに呼びつけられ美津紀」は疲弊していく。高齢の親に振り回される子の大変さは「終わりが見えない」ことだ。

(67)-2 篠田節子(1955-)『長女たち』(2014、59歳):「親の介護」の担当者が「長男」や「嫁」でなく、「実の娘」しかも「長女」だという現実!
E-3  『女たちのジハード』(1997、42歳)(※均等法第1世代のOLたちが次のステップを探す物語)から17年後、篠田節子(1955-)『長女たち』(2014、59歳)は、「親の介護」の担当者が「長男」でも「嫁」でもなく、「実の娘」しかも「長女」だという現実を描く。(232頁)
E-3-2 ①「認知症の母」を介護するため、恋人と別れ、仕事のキャリアも諦めた直美。②「孤独死した父」に対する苦い悔恨から逃れられない頼子。③「糖尿病の母」に腎臓を提供すべきかどうかで苦悩する慧子。3人はみな「長女」だ。(232頁)

《書評1》3編からなる年老いた親と中年の「長女」達の物語。「痴呆になった母親」、「糖尿病になった母親」、「孤独死した父親」。お世話するのはいつも「長女」達。「言うことを聞いてくれない親」を励まし、時に罵倒し蔑(サゲス)む。介護に疲れ、楽しもうとしても邪魔をされ、自己嫌悪に陥る。「分身のように長女を側に置こうとする母親」に追い詰められ限界を感じ、壊れる前に逃げることを選択する。母娘はいつまでつながっていなければならないのだろうか。
《書評2》介護、親の呪縛。いつまでたっても「長女」たるもの、その呪縛から逃れられないものなのか・・・・
《書評3》私も「長女」で弟がいるが、まだ20代の頃母から「弟に対する思いはあんたとは全然違う」とハッキリ言われた。だが高齢になってからは「近くに住む弟」より「離れている私」に頼ってくる。「不公平だ」と言い出すとキリがないから「諦める」ことにする。私の周りの「長女」達もだいたい似たような状況が多い。

(67)-3 中島京子(1964-)『長いお別れ』(2015、51歳):「認知症を患った父」だが、3人の娘はあてにならず、妻がひとりで在宅介護を続ける!     
E-4  『FUTON』(2003、39歳)(※田山花袋『蒲団』を下敷きにした痛快な作品)から12年後、中島京子(1964-)『長いお別れ』(2015、51歳)は、「認知症を患った父」が逝くまでを妻、娘等複数の人物の視点から描く。中学校長を退任後、図書館長などを歴任してきた東昇平は、同窓会場にたどり着けず認知症と診断される。3人の娘(米国在住の長女、子育てまっ最中の次女、フードコーディネーターで独身の三女)はあてにならず、妻がひとりで夫の在宅介護を続ける。(232-233頁)

《書評1》50代半ば、一方で介護する側、他方で介護される側の気持ちで読んだ。タイトルは、アメリカで「認知症」を「Long Goodbye」と呼ぶことからのようだ。
《書評2》「ねえ、お父さん。つながらないっていうのは、切ないね」 ただその短い言葉が、何故だか全てを語っているようで、胸に刺さった。認知症、老々介護、想像を絶する試練、それぞれの生活も大事。それでも家族や夫婦の絆がそこにはあり、切ない気持ちであふれた。
《書評3》明るいトーンで書かれた話だっが、老後のことを考えるのが怖くなった。また曜子さんや三人娘だけでなく、ヘルパーさん始め介護にかかわるすべての人を、改めてすごいなあと思った。

(67)-4 ねじめ正一『認知の母にキッスされ』(2014、66歳):「私」は毎日実家に通い、排泄や食事の介助をするが、母の認知症が進む!
E-5  『高円寺純情商店街』(1989、41歳)(※昭和30年代の商店街の人々の暮らしを描く)から25年後、ねじめ正一(1948-)は『認知の母にキッスされ』(2014、66歳)を出す。私小説といっていい。(233頁)
E-5-2  弟夫婦との2世帯住宅に住む母のみどりが自転車で転倒し、右手右足に麻痺が出る。「私」は毎日実家に通い、排泄や食事の介助をするが、母の認知症が進む。母の側でよく仕事もしていた「私」は、突然の母の言葉に戸惑う。「正一はパソコンかい」「やっぱり正一はパソコンだろ。私は正一のことをずうっとパソコンだと思っていたよ。」(233頁)
E-5-3  介護小説のほとんどは、手堅いリアリズム小説だ。作劇状の小細工をしなくても、それ自体が未知の体験に満ちる。(233頁)

《書評1》著者の母親への介護エッセイ。良くも悪くも「ズケズケと意見が書かれている」タイプの内容なので興味深かった。介護は「綺麗事」では済まない部分もあり、「美談」だけでない点もシッカリ触れられていてよかった。
《書評2》認知症の母親を介護するねじめさん 、文章では、面白おかしく書いているけど その裏に隠された、大変さや 想いが伝わってくる。 毎日毎日病院や施設に通って、母親の妄想に付き合って、オムツを替えたり食事をしたり。認知症の母親と真正面から向き合う強さ。私に同じ事ができるだろうか・・・・
《書評3》排泄に関する描写が多いが、食べて排泄することは人間が生きていることそのもの。汚いとか臭いというよりも「体から出て良かった、安心する」という感情が先立つのは、介護をしている実の息子であればこそだと思う。思い通りに事が運ばないとイラつきを露わにするねじめさんがちょっとイタイ。

(67)-5 佐伯一麦(サエキカズミ)『還れぬ家』(2016、57歳):兄でも姉でもなく、「私」(48歳)が実家に一番近いので両親に頼りにされる!
E-6 『ア・ルース・ボーイ』(1991、32歳)(※17歳の「ぼく」が高校を中退し電気工事の下請け会社で働く)から25年後、私小説作家である佐伯一麦(サエキカズミ)(1959-)の『還れぬ家』(2016、57歳)は、2008年を中心に父(83歳)を看取るまでを描く。(234頁)
E-6-2  兄でも姉でもなく、「私」(48歳)が実家に一番近いので両親に頼りにされる。「私」と妻はしょっちゅう母の呼び出しに応じている。そして父の認知症と死。その後、東日本大震災が一家を襲う。地方都市での介護の日々はリアルだ。記録文学の力を思わせる。(234頁)

《書評1》父親の認知症について、進行度合いやどのように家族が対応したかについて興味があり、前半は良かった。 後半は飛ばし読みだった。 私小説らしいが、どうしてこんなに兄弟姉妹関係が悪いのか?離婚して子供との関係も疎遠。「世間ってそんなもんかねえ?」だとすれば、自分は随分と恵まれている。
《書評2》私小説の大作。父の認知症、家族間の確執、2011年の震災といった深刻な主題が描かれる。自分が生まれ育った家の描写が挟み込まれ、この重たい小説に叙情的な美しさを添える。題の「還れぬ家」には二重の悲しみがこめられる。①「震災」で自分の故郷が変わってしまう悲しみと、②「父の死」により家族が一つでなくなった悲しみだ。深い喪失感の中で、生きる意味を模索しこの小説は書かれたのだ。
《書評3》認知症を患い変貌する父、心身をすり減らす母、それを支える次男夫婦、没交渉の姉と兄。そこに次男である私の、生家や両親への屈折した感情がからむ。家族一人ひとりへ向けられる容赦ない眼差し。そして作品の3分の2を過ぎて2011年の震災という未曽有の出来事が起こり、現実が語りの時制そのものを歪めてしまう。私小説の凄みを感じさせる傑作。

(67)-6 落合恵子『泣きかたをわすれていた』(2018、73歳):フェミニストの冬子が母の介護に明け暮れた7年間!
E-7 『スプーン一杯の幸せ』(1973、28歳)から45年後、落合恵子(1945-)『泣きかたをわすれていた』(2018、73歳)は親の在宅介護を描く。母を送って10年、「わたし」(冬子)は母の介護に明け暮れた7年を回顧する。冬子は「親を在宅で介護するなんて、フェミニストのあなたがなぜ?」と言われながらも、あえてその道を選んだ。母は、シングルマザーとして自分を産んだ。(234頁)

《書評1》医療技術の向上により、昔ならぽっくり逝った人が生き長らえる時代になった。大変素晴らしいことだが、心身の障害を抱え残りの人生を送る人が増え、その期間も延びている。作者は人生を一冊の「本」に例えていたが、認知症で結末を理解できなくなるのは寂しい。
《書評2》7年もの自宅介護の描写は心に迫る。他人から見たら不幸と見える状況が不思議に澄んで明るい。子供の本の店に尽力し、同士とも言える後継者を得て、主人公(著者)のやりきった感のあるラスト。大切な人達を何人も見送り、自分の番が来て人はやっと自由に「泣く」ことができるのだろうか?自分の仕舞い方に思いを馳せた。
《書評3》父親を知らない、結婚もせず子どもをもつこともなかった主人公(冬子=著者)。「母を愛し、母の娘であることも愛してきたが、母親になる自信がなかったことを認めなくてはならい」この一言が印象的だった。

(67)-7 羽田圭介『スクラップ・アンド・ビルド』(2015、30歳):「孫力」を発揮した異色の介護小説!
E-8 若い作家も介護小説に参入している。『黒冷水』(コクレイスイ)(2003、18歳)(※兄弟の壮絶なバトル)から12年後、羽田(ハダ)圭介(1985-)『スクラップ・アンド・ビルド』(2015、30歳)は「孫力」を発揮した異色の介護小説だ。主人公の田中健斗は失業中の28歳。父はすでに亡く、母と祖父87歳との3人暮らし。「早う迎えにきてほしか」が祖父の口癖。じゃあと彼は「過剰な介護」に乗り出す。「筋肉を使わせず、食事からタンパク質を排除し、自立歩行をさせない・・・・」健斗の動きはトンチンカンだが、その分カラッとした笑いがある。(234-235頁)

《書評1》足腰が弱ったことで活動範囲と交友関係が狭くなり、どんどん弱っていき「死にたい」と呟くこの小説の祖父は、かつて自分が介護していた祖母そのものだった。
《書評2》「死にたい」と毎日言う祖父を「尊厳死」させてあげようとする孫。死に際の祖父と鍛える孫が「スクラップアンドビルド」というタイトルに繋がる。最後、健斗は再就職先に向かう途中、「自分より弱い人」が居ない不安に気付く、そして「闘い続けるしかない」ことを教えてくれた祖父に感謝したのだ。
《書評3》「再構築のために、徹底的に破壊しろ!」心身ともに再構築中の健斗は、「死にたい」と言う祖父のために「尊厳死」させようと努力する。若さと老いの対比や、祖父の老獪さ、健斗の変化する生活が面白い。

(67)-8 日本の近現代文学はマジメな老人小説を描いてこなかった!
E-9 「変態老人小説」(a):川端康成(1899-1972)『眠れる美女』(1961、62歳)(※老人が性行為はせず、全裸の娘と一晩添寝し逸楽を味わうという秘密会員クラブの話。)(235頁)
《書評1》川端作品としては異端中の異端。でも、異端でありながら完璧なほどの完成度。行間から醸し出されるインモラルな雰囲気が心地よい。代筆疑惑の槍玉に上がったのが三島由紀夫というのがある種納得できる。
《書評2》気持ち悪いのに描写の綺麗さに惹きつけられる。展開には驚きもあり、楽しめた。でもこれは女性の大半が嫌悪感や気持ち悪さを抱く本のような気がする。
《書評3》娘6人とも薬で眠っていて物も言わないから、寝癖や寝言のほか、肉体描写が緻密になされる。「愛」からもっとも遠い「性欲」の形が描かれる。

E-9-2 「変態老人小説」(b):谷崎潤一郎(1886-1965)『瘋癲(フウテン)老人日記』(1962、76歳)(※77歳の老人・卯木督助は息子の妻の颯子に性的魅力を感じている。督助は颯子の足に踏まれたいというフット・フェティシズムとマゾヒズムの欲望を抱く。督助は颯子に猫目石(※300万円)を買ってやり、その代償に颯子の足に頬ずりし、その足型で仏足石を作る。)(235頁)
《書評1》颯子の前で、五体投地のように体を投げ出し「頭を踏んで欲しい」と督助。颯子が「ジゞイ、テリブル!」と言う。ダンサー上がりの颯子の人物造形がこの小説の全てといっていい。
《書評2》嫁の脚をねぶるし、首筋にキスもさせてもらうし、果ては嫁の唾液を自分の口に垂らし込んでもらうし、老いて性の生理的機能がだめになっても間接的方法がある。「男の性」はロマン的なところがあって、不能でも、性的快楽を夢見る
《書評3》果てに督助は、颯子の仏足石を造り墓に据えることを思いつく。「死後もずっと颯子の足に踏まれていれば、これほど愉快な事はない」と語る老獪さには、笑いを超えて度肝を抜かれた。

E-9-3  「姥(ウバ)捨て小説」:深沢七郎(1914-1987)『楢山節考』(ナラヤマブシコウ)(1957、43歳)(※村の年寄りは70歳になると「楢山まいり」に行く。「姥捨伝説」の小説化。)(235頁)
《書評1》短い小説だが過不足なく美しい仕上がり。 残酷な内容なのに優しさがあって寓話のようだった。
《書評2》古き良き、美しい日本の風景の陰には、いつも恐ろしく切実な村の現実があった。私ももうすぐ親を背負って、山へ捨てに行かなければならないのだろうか。私もいつか、山へ捨てられるだろうか。
《書評3》イメージからもっと長くて暗いと思ってたけど、悲壮感が無い。「口減らし」のために捨てられる老人。しかし不穏な空気がない。厳粛に、朗らかに、人々の思いがリアリスティックに描かれる。中央公論新人賞で、「楢山節考」を選考委員の正宗白鳥が「人生永遠の書のひとつ」と絶賛したという。

E-9-4  小川洋子(1962-)『博士の愛した数式』(2003、41歳)(※交通事故のため1975年で記憶が途絶えた64歳の数学博士、派遣家政婦の「私」、10歳の「私」の息子の温かな関係の物語)や、川上弘美(1958-)『センセイの鞄』(2000、42歳)(※「わたし」(37歳)が「センセイ」(70代)と「恋愛を前提としたおつきあい」をするが、「センセイ」は男性性がうすく「異界」の「くま」のようである)など、高齢男性が「いい感じ」で描かれた小説がヒットしたのも、高齢者を主人公にした小説が少ないためかもしれない。(235頁)

(67)-9 老いを肯定的に描く「玄冬小説」①:若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』(2017、63歳)!
E-10  若竹千佐子(1954-)『おらおらでひとりいぐも』(2017、63歳)(芥川賞受賞)は高齢者を主人公にした小説でベストセラーとなった。主人公は74歳の桃子さん。東京オリンピックの年(1964年)、24歳で故郷を飛び出し、結婚して2人の子どもを産み育て、最愛の夫も送って今はひとり。桃子さんのほとばしる東北弁で小説が疾走する。(235頁)

《書評1》東北弁の持つ意味の曖昧さが、論理、筋の飛躍を許す。そしてその方言の持つ幅のようなものが、同時に桃子さんに関わった人々、および関わらなかった人々を内包し、不思議な深みと重みを与える。(同じ方言使いだからか、解説の町田康もいい。)
《書評2》とりとめのない展開なのに、何となく主人公の人生がわかってくるのが不思議だ。「遠野物語」的に躍動している感じ。
《書評3》最愛の夫・周造を亡くし、子どもたちと離れ一人暮らしの「桃子さん」75歳。 老いの衰えと孤独に耐え、故郷の言葉で「おらはちゃんとに生ぎだべか?」人生の意味を問う桃子さん。辿り着いた孤高の選択「おらの思っても見ながった世界がある。そごさ、行ってみって。おら、いぐも。おらおらで、ひとりいぐも」。

E-10-2  63歳でデビューした若竹千佐子は「青春小説」ならぬ「玄冬小説」を標榜し、自分は「玄冬」に達した人物を描きたいと言う。(236頁)
E-10-2 -2 「介護小説」は、いくつかの例外を除き、老人が「自立した人物」として描かれていないので、真性の「玄冬小説」とは言えない。(236頁)
E-10-2 -3 ただ介護する側も、介護される側も高齢者である点を考えると、「介護小説」において、近現代文学史上、はじめて老人が主役になる時代が来たといえるかもしれない。(236頁) 

(67)-10 老いを肯定的に描く「玄冬小説」②:高村薫(1953-)『土の記』(2017、64歳)!
E-11  高村薫(1953-、女性)『土の記』(2017、64歳)も「玄冬小説」の一例だ。『おらおらで~』の桃子さんが戦後日本の典型的な女性像なら、『土の記』の主人公・上谷伊佐夫(72歳)は戦後の典型的な男性像かもしれない。(236頁)
E-11-2 伊佐夫は東京の大学を出て関西の大手電機メーカーに就職し、奈良県の旧家の娘と結婚。妻を送った後は、奈良でひとり農業にいそしむ。「玄冬小説」は老いを肯定的に描く。(236頁) 

《書評1》上下巻を読み終えて。淡々とした語り口とエンディングに「諸行無常の響きあり」という感が滲み出ていた。淡々と日常が展開する。
《書評2》土地に浸み込んだ記憶と、頭の中にある想念が境目なく行き交う。濃密な空気感と土や驟雨の匂いも立ち込める。稲の成長だけが、客観的な時間を刻む。そういう作品だった。
《書評3》会話文が少ない。殆どが主人公の意識の描写だ。「口に出さない事を選択している」ことに諦めの様なやるせなさを感じる。農業や地層の描写は専門的で難解。全体を通して著者の静かに心の奥に沈澱する「怒り」の様なものを感じた。

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「2010年代 ディストピアを超えて」(その4):有吉佐和子『恍惚の人』、耕治人『どんなご縁で』等、佐江衆一『黄落』、モブ・ノリオ『介護入門』、荻原浩『明日の記憶』!(斎藤『同時代小説』6)

2022-05-21 10:20:37 | Weblog
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(66)「少子高齢化時代の老人介護小説」:「気が滅入る」介護小説①(1970年代)有吉佐和子『恍惚の人』(1972)孤立していく主婦の悲惨な現実!
D 空前の少子高齢化社会は、新しい小説のジャンルを生み出した。すなわち「介護小説」だ。(229-230頁)
D-2 過去にさかのぼると、老人介護をテーマにした作品で有名なのは有吉佐和子(1931-1984)『恍惚の人』(1972年、41歳)で大ベストセラーになった。(230頁)
D-2-2  認知症(老人性痴呆症)の症状が進行した元大学教授の義父は、息子の妻(主人公)に生活のすべてを頼る。介護は妻に任せっぱなしの夫。「このくらいなら、ホームにいれなくても」と諭す社会福祉主事。孤立していく主婦の悲惨な現実が描かれた。(230頁)

《書評1》まだ介護保険制度が制定される前の、認知症の高齢者の介護を描く。とにかく主人公の昭子が立派だ。自分を散々いびってきた舅の介護に尽くす。夫は全く使えない。なんとか気持ちを保って前向きに奮闘する昭子。昔の日本にはこんな女性が多かったのかと思う。
《書評2》「いつまでこんな暮らしが続くのかという絶望感で一杯だった。茂造(義父)が死んでくれたらどんなに楽だろう。そんな考えに罪悪感も後ろめたさも、もうなかった」親孝行という美辞ではまかなえない現実。昭子は髪振り乱して、泣いてわめいて、くたくたになって、時々笑って、家族や関係者を巻き込んでふんばった。本当にすごい。最後は彼女と一緒に泣いた。
《書評3》認知症や介護をめぐる問題は今と共通するところが多く、40年以上前(1974年)ということに驚かされる。①施設は空き待ちでなかなか入れない、②家庭内介護を勧められる、③「被介護者殺すこと」を視野に入れる。この本が世間への啓蒙となり各制度の整備に繋がったと言われるが、令和になった今も解決していないことが多い。

(66)-2 「気が滅入る」介護小説②(1980年代)耕治人(コウハルト)の晩年の三部作『天井から降る哀しい音』『どんなご縁で』『そうかもしれない』(1986-1988)80代の夫婦の老老介護を描く!
D-3 耕治人(コウハルト)(1906-1988)の晩年の三部作『天井から降る哀しい音』『どんなご縁で』『そうかもしれない』(1986-1988、80-82歳)は、80代の夫婦の老老介護の姿を描く。気が滅入るような小説だ。(230頁)

《参考1》『天井から降る哀しい音』:「ことこと」、「がちゃがちゃ」、音がする。すると家内が立っている。「ご飯のしたくができたのよ。起きてちょうだい」空っぽの茶碗・皿・箸。午前3時だ。家内はきものを着ているが、こんろの口が真っ赤だ。いきなりなぐった。家内は「わたし、親からもなぐられたことないわ」と泣いた。「3時間もすれば夜があけるから、それからいただく」と私は言った。
《参考2》『どんなご縁で』:認知症が進み、夜失禁した妻の下の世話を耕治人氏がするのだが、その時妻が、夫がわからず「どんなご縁でこんな親切な対応をしてくださるのですか?」と言った。
《参考3》『そうかもしれない』:認知症になった妻が夫を認められなくなり、老人ホームの職員から「あなたのご主人ですよ」と繰り返し言われて「そうかもしれない」と答える。

(66)-3 「気が滅入る」介護小説③(1990年代)佐江(サエ)衆一『黄落』(コウラク)(1995)!
D-4 佐江(サエ)衆一(1934-)『黄落』(コウラク)(1995、61歳)は、60歳近い夫婦が、92歳の父と87歳の母の介護に疲れ果てるという、やはり気が滅入るような小説だ。(230頁)
《書評1》15年前、父親の介護に苦労していた時、上司から参考までにと贈られた本です。多くの場面で主人公の気持ちに共鳴でき、苦労しているのは自分一人でないことに救われました。
《書評2》①要介護者が「いい人」か「悪い人」か、②介護の負担が重いか軽いか、③介護者の子供・嫁・兄弟・孫など取り巻く周囲の人間の立場と取り得る態度、③自分が「老怪」(要介護者)となった場合の処し方、そういった様々のケースに、示唆を与えていると思う。
《書評3》1992年から95年くらいにかけての話であり、実話、私小説である。もう還暦近い、藤沢に住む作家が、近くに住む老いた両親の介護のために疲弊していく。母親は、父親の過去を呪い、自ら絶食して命を絶つ。しかしあとに残った父親は、90歳を過ぎてなお、入れられた介護施設で、80歳の老婆と恋愛ごっこを始める。その間、作家の妻は舅の仕打ちに耐えかねて愚痴を洩らし、あやうく夫婦離婚の危機すら訪れる。つくりごとの小説にはとうてい描けない(私小説の)真実がある。

(66)-4 「気が滅入る」系でない2000年代のヒップホップ調の介護小説:モブ・ノリオ『介護入門』(2004)(芥川賞受賞)金髪の若者が祖母を介護する!
D-5  「気が滅入る」系の介護小説に風穴を開けたのは、モブ・ノリオ(1970-)『介護入門』(2004、34歳)(芥川賞受賞)だ。この小説の新しさは(a) 若者が祖母を介護するという関係性と、(b)現実を笑い飛ばすヒップホップ調の文体だった。
D-5-2  語り手の「俺」は無職の自称ミュージシャン。金髪で、大麻はやるし、親戚からはディス(disrespect)られている。でも「俺の命は祖母の襁褓(オムツ)を新たに敷き直すため。熱めのタオルで尻を拭うため、寝汁で湿ったメリヤスの下着を脱がして更に着せ替えるためだけにある、そう言い聞かせなくては、俺はこの夜から復讐を果たすことができないんだ、朋輩(ニガー)」。(230-231頁)

《書評1》愛に溢れた婆孝行がラップ調で語られる、ユーモアがありハートフルな前衛的小説だ。本当に介護で起こりうるリアルな怒りが、この文体だからこそストレートに吐き出され、清々しい。
《書評2》主人公がおばあちゃんを 愛していて、この主人公も 愛されて育てられたんだろうな と思った。
《書評3》働かず、ドラッグにまみれて歌う反社会的青年が、反社会ついでに「寝たきり老人に冷たい世間の常識」から祖母を守り抜く話。現代のヒロイックファンタジー。

(66)-5 2000年代の「認知症のイメージを変えた」介護小説:荻原浩『明日の記憶』(2004)    !
D-6 認知症のイメージを変えたのは、荻原浩(1956-)『明日の記憶』(2004、48歳)だ。「私」(佐伯雅行)は広告代理店の営業部長。その「私」が50歳にして「若年性アルツハイマー」と診断される。受け入れ難い事実と向き合い、記憶が失われていく恐怖と戦う「私」の内面が、ていねいに描かれる。ただし「悲惨なだけではない結末」に救いがある。(231頁)

《書評1》人生は「記憶の重なり」である。忘れることを受け入れれば、穏やかな日々を過ごせるのか。だが①「共有した思い出」を失っていくことは他者を失う(共に生きた時間を失う)こと、②「今の自分を作り上げた過去(記憶)」の喪失は自己の喪失になる。佐伯の「二人で痴呆か」という言葉に、枝実子の「案外、それもいいかも」という呟きが忘れられない。
《書評2》主人公と同世代として、身につまされる内容。実際、私自身も「何年か前に出張した海外の町」の名前や、「その時に流行っていたけど今は見なくなった物」の名前を忘れる様になった。これだけでも多少ショックなので、「記憶が急激に欠落していく」のは、とても恐ろしいと思う。
《書評3》「記憶が消えても、私が過ごしてきた日々が消えるわけじゃない。私が失った記憶は、私と日々を過ごしてきた人たちの中に残っている」。そうだとしても、私は「無」となっていく。

(66)-6 2010年代:「介護小説」の急成長!
D-7  2010年代に介護小説は質量ともに急成長を遂げる。原因は①高齢化の進行で要介護老人が増えたこと、②介護保険制度の導入などで、介護を客観的に考えられるゆとりが作者と読者に生まれたこと、また③80年代~90年代にデビューした作家が40~50代の介護年齢に達したことなどだ。介護は今やみんなの問題。あの作家もこの作家も自身の体験が入っているだろう「介護を題材とした小説」を書いている。(231頁)

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「2010年代 ディストピアを超えて」(その3):反「資本の論理」小山田浩子、松田青子、村田紗耶香、宮崎誉子、朝井リョウ、有川浩、三浦しをん、宮木あや子、池井戸潤!(斎藤『同時代小説』6)

2022-05-19 19:28:58 | Weblog
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(65)「職場を異化した、もうひとつのプロレタリア文学」:小山田浩子『工場』(2013)は「企業城下町を異化したシュールな作品」だ!
C ポストモダン風の意匠をこらした労働小説の数々も10年代には誕生した。小山田浩子(1983-)のデビュー作『工場』(2013、30歳)の舞台は、「複雑になりすぎて誰も全体像を知らない町」 のような「工場」だ。(226頁)   
C-2  契約社員として採用された牛山佳子(ヨシコ)(転職6回目)の仕事は「シュレッダーによる書類の粉砕」。屋上緑化要員として採用された古笛の最初の仕事は「コケの観察会」。派遣社員の「俺」に与えられたのは「赤ペンで文書の校正をする仕事」だった。(226頁)
C-2-2  誰が何のために必要としているのかわからない仕事。何を製造しているのかもわからない工場。工場内には「灰色ヌートリア」、「洗濯機トカゲ」、「工場ウ」なんていう労働者の化身みたいな動物も棲む。(226頁) 
C-2-3  企業城下町を異化したシュールな作品。(226-227頁)

《書評1》小山田浩子ワールド全開。時間の流れも不思議だし、空間も不思議。途方もなく広い工場の狭い狭い部屋で流れる日常。その相対的な描写が不安な気持ちにさせる。遠いようで近くて、遅いようで早い。
《書評2》まさにカフカ的。組織の中に、社会の中にいつしか埋もれていく恐怖。
《書評3》不気味な職場、社会の歯車のはずなのに、自分はなんの役にたっているのか一向にわからない。仕事とか、やりがいとかを見失いつつある日本人像を巧みに描写している。

C-2-4 小山田浩子(1983-)『穴』(2014、31歳)(芥川賞受賞)よりも、作品としてのインパクトは『工場』(2013)のほうが上だろう。(斎藤美奈子氏評。)(227頁)
★小山田浩子『穴』(2014)
《書評1》仕事を辞め、夫の田舎に移り住んだ夏。見たことのない黒い獣の後を追ううちに、私は得体の知れない穴に落ちる。夫の家族や隣人たちも、何かがおかしい。平凡な日常の中にときおり顔を覗かせる異界。
《書評2》穴、黒い獣、義兄、子どもたち、老人たち。 不穏で不条理な存在がひょこひょこと現れて怖い。 怖いのだけれど、皆ちょっと愛嬌がある。 それらよりも不穏で不条理でしかも愛嬌がないのは、「現実」である夫、姑、隣人、それに主人公が置かれている状況。
《書評3》自分の快適な場所を求めて、都市から田舎へ逃げたが、気づけば彼女は「穴」に落ちている。彼女は進むのをやめられず、終わりがない。結局、諦め、名前も体も持たない獣になり、「穴」に潜り込み、生きるために生きる。「穴」は全員に宛がわれている。それは各人の社会的役割であり、そこから外れると「穴」が、外れた本人に見えてくる。

(65)-2 オフィスワーカーは「代替可能な存在」、だが負けない:松田青子『スタッキング可能』(2013)!
C-3  松田青子(アオコ)(1979-)のデビュー作『スタッキング可能』(2013、34歳)は、思いっきりポップにオフィスワーカーを異化した作品だ。(227頁)
C-3-2  エレベーターを乗り降りし、各階の会話の内容を覗き見する。(a)5階のA田、B田、C田などの男性社員はセクハラ談議にうつつを抜かす。(b)6階のF野、G野などの女性社員は婚活談議に余念がない。(227頁)
C-3-2-2 部署が違いメンバーがちがっても、話してること、やっていることはみな同じ。中学高校の頃と変わらない。(227頁)
C-3-2-3  その雰囲気になじめないD山は「どこも同じなら、やってやろうじゃん」と心に決めてわが道を行く。(227頁)
C-3-2-4 男に舐められがちなC川は「C ちゃんて呼ぶな、天然ていうな」と毒づきつつ、好きな服を着て好きなバッグを買うために働くのだと誓う。(227頁)
C-3-3  たとえアルファベットでしか意識されない「代替可能な存在」でも、負けてなるものか。『スタッキング可能』は「働く女性の孤独な闘い」にエールを送る快作だ。(斎藤美奈子氏評。)この作品で、松田青子は純文学の期待を集める作家のひとりとなった。(227頁)

《書評1》女性が社会で生きる上で感じる不条理や世間の同調圧力みたいなものがうまく言語化されている。ユーモラスなやりとりもあり、どこか軽妙だが、同時に軽くもないバランス感覚がすごく素敵。
《書評2》「なぜ悲しさの中にいてはいけない」「表面しかない人なんてこの世にいない」。「替えがきく存在だ」ということ、「自分のような人はたくさんいる」ということって、なんとなく屈辱的というかネガティブな印象だった。そこから、なんだか救われるような気持ちが生まれた。
《書評3》共感、絆、同調圧力。また分類するための記号。個人がたくさんいるから分類があるはずなのに、誰でもない分類が世の中の代表みたいになってる。そして「ほっておいてほしい人をほっておいてくれない」。だが、「何でもいいのだ」と思うとちょっと気が楽になる。

(65)-3 「資本の論理」を乗り越える方法はひとつではない:村田紗耶香『コンビニ人間』(2016)!
C-4  村田紗耶香(サヤカ)(1979-)『コンビニ人間』(2016、37歳)は芥川賞を受賞してべストセラーとなった。(227頁)
C-4-2  「私」、古倉(フルクラ)恵子は36歳、独身。大学1年のときから18年間、同じコンビニでアルバイトを続けてきた。就職も結婚もしない彼女を周囲は「治そう」とする。(227頁)
C-4-2-2 もともと「私」は子どもの頃から人とズレていた。だが、制服を着て接客マニュアルを体得し「コンビニ店員」になった日に「私」は確信する。「私は、初めて、世界の部品になることができた」、「世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生した」。(228頁)
C-4-3  正社員がなんだ。普通がなんだ。「ちゃんと」ってなんだ。「資本の論理」を乗り越える方法はひとつではない。(228頁)
C-4-3-2 マニュアルを消化し、マニュアルを凌駕する「コンビニ人間」になった恵子。それは古典的な労働疎外の先、搾取の先にある世界だ。(228頁)

《書評1》主人公が「同調圧力」に嫌悪感を持っていないのが良い。社会批判的というよりも「自分をどう運用して行くのか」ずっと試行錯誤している。凄く合理的で客観的ですらある。
《書評2》「異物になるのが嫌だ」と主人公は思っていない。ただ「両親が頭を下げたり悲しんだりする」のは「本意でない」とは思っている。世の中で 「普通」が何かわからないと、「異物」として排除される。「個性を大事に」という時代だが、人の根底には「自分と違うものを排除したい」という安心を得たいがための攻撃的な一面もあって、折り合いつけるのが難しい。
《書評3》大学卒業後、コンビニで18年バイトしている女性のお話。 不思議なタイトルに惹かれて、手に取ったが、結構考えさせられるお話だった。 「普通」になるために「普通」を演じるけど、その「普通」は本当に「普通」なのか。深くて面白かったです。
《参考》村田紗耶香(1979-):①小学生の時にルナール『にんじん』を読み、「最後まで絶望的であることにすごく救われ」たという。また②中学時代に同級生から「死ね」と言われ実際に「死のう」と思ったが、小説を書いていて生への執着につながったと語る。③大学時代、周囲の人間から「金持ちの結婚相手を見つけ出産について考えなければいけない」と言われ、「何のために大卒資格を取るのか」とショックを受けた。④10代から20代にかけて、世間が期待する「可愛い女性」を演じようと努めるも、それは「恐ろしい経験」であったという。⑤朝井リョウら作家仲間から「クレイジー沙耶香」と呼ばれる。

(65)-4 一貫して低賃金単純労働、ことに工場労働を描いてきた作家:宮崎誉子(タカコ)『少女@ロボット』(2006)・『三日月』(2007)!
C-5  宮崎誉子(タカコ)は、1998年のデビュー以来、一貫して低賃金単純労働、ことに工場労働を描いてきた作家だ。『少女@ロボット』(2006)も『三日月』(2007)も佐多稲子『キャラメル工場から』(1928)の平成版みたいな短編集だった。(228頁)
★宮崎誉子(1972-)『少女@ロボット』(2006、34歳)
《書評1》会話と呟きで繰り広げられる社会の歯車の一員としての日常。ストレスフルな理不尽が次々と展開される。傷口にさらに塩を塗り込むような表現はブラックユーモアで笑えない。
《書評2》プロレタリア文学。シニカルな会話。登場人物が、小学生に至るまで皮肉屋という事に違和感。不自然さはどうしても拭えない。
《書評3》フリーターの主人公たちに希望がない。絶望絶望絶望。失望と苛立ちがふんだんに盛り込まれている。ただしポップな文体と、ギャグ連発の登場人物が、ひたすら暗い現実を少し救う。

★宮崎誉子(1972-)『三日月』(2007、35歳)
《書評1》娘が生まれて三日目に夫に捨てられたために、必要以上に娘を生き甲斐にするようになった母親から逃れるべく、高校を中退して家を出る決心をした涼子。会社の寮に入り、仕事を覚える日々。監督役の金子さんにかわいがられ・・・。この主人公、実はかなり複雑な性格のようだが、言葉遣いはちゃんとしてるし、社会性もある。
《書評2》工場労働の悲喜交々が描かれている。また職場の人間関係が大変な様子もリアルに描写されている。それぞれの登場人物が個性的で面白い。
《書評3》労働ガールを描く話だが、表現的に面白くしようとしているのか、笑わせようという意図が垣間見えて、少々食傷気味になった。

★佐多稲子(1904-1998)『キャラメル工場から』(1928、24歳)
《書評1》「少女たちの集団労働」が描かれる。佐多稲子自身、10代で神田のキャラメル工場に勤務した。このときの経験が『キャラメル工場から』にまとめられ、プロレタリア文学作家として彼女の出世作となった。ただし戦争の激化とともに、彼女は時流に従い、戦場への慰問などにも加わった。
《書評2》主人公「ひろ子」(11歳)はまだ薄暗い中、朝ご飯を済ませ急いで仕事へと向かう。工場の門が閉められるのは「朝7時」。工場では「すきま風」が遠慮なく吹き込む中で「立ち仕事」が延々と続く。夕方には足が棒のようにつり、体中もすっかり冷え込み「目まい」や「腹痛」を起す子もいた。過酷な児童労働!

(65)-5 「少女小説+プロレタリア文学」:宮崎誉子(タカコ)『水田マリのわだかまり』(2018)!
C-6 宮崎誉子(タカコ)(1972-)『水田マリのわだかまり』(2018、46歳)の主人公「マリ」は16歳。母は宗教にのめり込んで娘の学資保険を解約し、父は家を出て行った。やけくそになったマリは3日で高校を中退。かつて祖父が工場長をしていた洗剤工場にパートで通いはじめる。(228頁)
C-6-2  ところが洗剤をボトルやパウチ(袋)充填するラインは超高速。彼氏は「まさかマリが工場なんてさぁ、昔の奴隷みてーじゃね?」と案ずる。マリは「どんだけ時代錯誤脳なのよ?」と答える。彼氏が「大丈夫か?」と言えば、マリは「大丈夫じゃねーよ。洗剤の原液が持つ破壊力がマジ、鼻の奥まで侵入してくんだもん。」(228頁)
《書評1》高校を3日で退学し町の洗剤工場で働く水田マリ。マリの背景はなかなかハードかつ複雑。職場の人間関係は、女性が多いだけに大変そう。「小さな町」にある工場だったりすると知り合いも多そうだし。マリが再び進学を決意したのは嬉しかった。若いからまだやり直し出来るよと応援したくなる。
《書評2》結局、何の話か良くわからない。工場のラインについて詳しく説明されているが、それ以外の描写が薄い。登場人物全てが薄っぺらい。くだらない会話が多い。読後、「これはどう読めば良かったんだ?」としばし悩んだ。帯の「プロレタリア」に気付き、「そうなのか」と思った。
《書評3》何を伝えたいのか、わからなかった。とにかく「工場勤務の闇を見せつけられた」という印象しかない。

C-6-3 「少女小説+プロレタリア文学」、それが宮崎誉子(タカコ)に固有の世界だ。「少女が生産労働と切り離されていたのは、戦後の一時期にすぎなかったのだ」ということを思い出させる。(228-229頁)

(65)-6 朝井リョウ『何者』(2012):大学生の「就活」は凄まじい! 有川浩(ヒロ)『フリーター、家を買う』(2009):会社を3か月で辞めた大卒男子の甘くない現実!
C-7  朝井リョウ(1989-)『何者』(2012、23歳)(直木賞受賞)は大学生の「就活」がいかに凄まじいサバイバルゲームであるかを描く。(229頁)
《書評1》自分自身が就活生だった頃を思い出した。就活生同士で場を囲んだときの空気感が、たまらなく嫌なものだった。
《書評2》自分の心の内側にある自己顕示欲や承認欲求が、SNSによって発言しやすくなった現代を上手く描いている。 誰もが1度は思ったことのあるようなネガティブな感情が綴られていてドキッとする。
《書評3》自分も今年から就活を始める予定なのに、こんな本読んだら始める前から心が折れる。企業から合格・不合格と何が悪いかも分からず、判断が一方的に与えられ精神的にツラいのに、就活友達の「気に触る部分」や「内定」が無性に気になってしまう感覚。最後に「語り」として傍観者視点で書かれていた主人公の裏が明らかになり、更に辛くなる。俺もあと数ヶ月でこんなことをしないといけないのか。嫌すぎる(笑)。

C-8  有川浩(ヒロ)(1972-、女性)『フリーター、家を買う』(2009、37歳)は、会社を3か月で辞めた大卒男子が、次の就職先を見つけるまでの甘くない現実を突きつける。(229頁)
《書評1》新入社員として入った会社を3ヶ月で辞め、その後フリーターとして生きていた男が、母親のうつ病発症を機に、反省し生活を改め真剣に生きる話。当初の自堕落ぶりに比べ、人が変わったかのようにまじめになった主人公は少々出来すぎのような気もするが、テンポの良い展開に引き込まれ、最後まで面白く読むことができた。
《書評2》家族がいること、平穏に暮らせることは当たり前でなく、ありがたいことと実感した。家族が病気になって初めて、今までの暮らしの中で自分が甘えていたことを知る。そんな主人公が自分にも当てはまる気がした。
《書評3》出だしの、主人公誠治のダメっぷりにムカムカしてしまった。自分がうまく行かないのは全て周りのせいにして。でも、流石有川さんの作品。私のムカムカをばっさりと切り払ってくれた。グダグダで怠惰な誠治が、どんどん成長していく姿は清々しかった。

(65)-7 専門職のお仕事小説(Cf. 特別なスキルや職人芸を必要とする職種が減った):三浦しをん『舟を編む』(2011)&宮木あや子『校閲ガール』シリーズ(2014-2016)!
C-9  辞書編纂者を描いた三浦しをん(1976-、女性)『舟を編む』(2011、35歳)や、出版社の校閲部員を主役にした宮木あや子(1976-)『校閲ガール』シリーズ(2014-2016、38-40歳)といった専門職のお仕事小説が注目されるのは、特別なスキルや職人芸を必要とする職種が減ったせいだ。(229頁)
★三浦しをん(1976-、女性)『舟を編む』(2011、35歳)
《書評1》辞書編さんに人生をかける人たちと、脇を固め仕事だけでなく人生を支えてくれる人たちが、長い年月をかけて言葉という大海原への航海へ乗り出す温かいお話だった。時代とともに言葉の持つ意味も変化していく、辞書は終わりないものであると知った。
《書評2》「舟を編む」の意味が明らかとなった。 言葉は、大海の如く遥か彼方まで続いている。辞書は、言葉の海へと渡る「舟」であるのだ。 本書を読了し、言葉の奥深さ、辞書を編む人々の情熱に心震わせられた。
《書評3》言葉について考えさせられる本。 ネット検索のこの時代。辞書なんて触ってないなぁ。「ネットなんて正確じゃないでしよ!」って怒られそう。

★宮木あや子(1976-)『校閲ガール』(2014、38歳)
《書評1》ファッション雑誌の編集者になりたくて出版社に就職した河野悦子だが、配属されたのは校閲部。悦子は空気読まないし口も悪いが、ファッションへの情熱は並々ならず、自力で夢に近付いているところがすごい。希望の部署と違うからと仕事の手を抜かないところも好感が持てた。興味がないことには一ミリの関心も示さなかったのが、徐々に人間関係を深め成長も感じられる。
《書評2》まあ、悦子の口の悪い事、悪いこと。これだけ言えたら気持ちいいだろうなー。こんな悪態ついてても馘首にならない会社っていーなー。 悦子の少しずつ成長していく姿が好ましい。
《書評3》疲労でガタガタな今日この頃・・・・。すっごく元気になれた。こんなテンションで仕事してた頃があったな・・・・。懐かしいし、読んでて楽しい!

(65)-8 企業小説に人気が集まる(Cf.  現実の職場に活気がなく、戦う力が残っていない):池井戸潤『下町ロケット』シリーズ(2010~)・『オレたちバブル入行組』(2004)!
C-10  池井戸潤(イケイドジュン)(1963-)の企業小説、下町の中小企業が夢に挑戦する『下町ロケット』シリーズ(2010~、47歳~)(※第1作はロケットエンジンのキーパーツであるバルブシステムの開発に賭ける佃製作所の奮闘が描かれる)や、銀行員が不正に立ち向かうドラマ「半沢直樹」の原作『オレたちバブル入行組』(2004、41歳)などに、人気が集まるのは、現実の職場に活気がなく、戦う力が残っていないせいかもしれない。(229頁)
★池井戸潤(1963-)『下町ロケット』(2010、47歳)
《書評1》自分はまだ学生でアルバイトしか経験はないが、主人公や従業員に感情移入できた。「夢のために仕事をすることができる」ということが、お金のためにしかアルバイトをしたことのない自分にとって、とても羨ましかった。
《書評2》これから社会を担う人達に勇気が与えられる作品だ。佃の「仕事は二階建ての家。一階部分は金を稼ぎ生活をするため、だけどそれだけだと窮屈だから二階部分には夢がなきゃならない」という言葉が印象に残る。 「夢を持って入社したけど、それも何かをきっかけに脆くも崩れ去ってしまう」なんてこと、ザラにあるだろうしなぁ。自身は「夢よりも安全策を取ってしまう」ことが多かったが、この作品を読んで、もっと「夢」にも執着心を持とうと思った。
《書評3》元気をもらえる。「誠意」とか「夢」とか、現実もこうならいいのに。

★池井戸潤(1963-)『オレたちバブル入行組』(2004、41歳)
《書評1》バブル期に大手銀行に入行し課長職に就いている半沢は、上司の失態の責任を全て負わされそうになるも断固として反抗する。「十倍返し」のエンタメサラリーマンストーリー。
《書評2》スカッとするが、現実に「いるいる」という人がそこかしこに出てきて、ドラマのように勧善懲悪でもなく、主人公もそこそこ性格が悪い。じゃないと対抗できないことがよくわかる。「組織体質」、「出世レース」、「選民意識」、そして「女性進出のかけらもないこと」が描かれる。
《書評3》普段上司に苦しめられているサラリーマンなら、半沢直樹を自分に置き換えて読めるので、上司にやり返すシーンはとても爽快に感じるはずだ。現実的には半沢直樹のように振舞うことが難しい。だからこそ、このような小説はストレス解消に最適だ。

C-11  人は働かなくちゃ生きていけない。労働者を取り巻く環境が変わらない限り、この種の小説(※「ブラック企業が生んだ真性プロレタリア文学」&「職場を異化した、もうひとつのプロレタリア文学」&「お仕事小説」&「企業小説」)はもっと大きな潮流に発展するかもしれない。(229頁)

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「2010年代 ディストピアを超えて」(その2):「ブラック企業と真性プロレタリア文学」浅尾大輔、今野晴貴、黒井勇人、新庄耕、広小路尚祈、北川恵海! Cf . 伊井直行!(斎藤『同時代小説』6)

2022-05-17 13:37:18 | Weblog
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(64)「ブラック企業が生んだ真性プロレタリア文学」:浅尾大輔『ブルーシート』(2009)リーマン・ショック(2008)後、派遣労働者への通告「1週間後、解雇、その3日後、寮から出て行ってもらう」!
B  2000年代 の「プレカリアート(不安定雇用の労働者)文学」の続きは、2010年代の「ブラック企業が生んだ真性プロレタリア文学」だった。(222頁) 
《参考》2000年代の「プレカリアート文学」:萱野葵『ダンボールハウスガール』『ダイナマイト・ビンボー』、絲山秋子『イッツ・オンリー・トーク』、津村記久子『ポストスライムの舟』、本谷(モトヤ)有希子『生きてるだけで、愛』、青山七恵『ひとり日和』、柴崎友香『その街の今は』、山崎ナオコーラ『浮世でランチ』、長嶋有(ユウ)『猛スピードで母は』、川上未映子『乳(チチ)と卵(ラン)』等々。

B-2  浅尾大輔(1970-)『ブルーシート』(2009、39歳)は、2008年のリーマン・ショック後を描いた小説だ。語り手のヒロシは、高校卒業後、電気設備会社に正社員として10年勤めたが3年前に辞め、今は派遣労働者として大手自動車メーカーの組み立てラインで働く。母は病気、兄は精神病院に入院中、恋人ともしばらく会っていない。(222頁)
B-2-2  リーマン・ショック後の2008年12月、ヒロシは突然、通告された。「悪いけど、1週間後の25日で解雇ってことで。そんで派遣(ウチ)との契約書通りに3日後、えっと、28日には寮から出て行ってもらうから、いいかな?」ヒロシが解雇されたのは「百年に一度の世界金融危機」が理由だった。(222頁)

《書評1》がんばってもがんばっても先が見えない。一度ころんだら、二度と起きあがることが出来ない。ほんと、難しい嫌な時代だ。2008年の『蟹工船』ブームは、まだ記憶にあたらしい。この本も、若年貧困層が抱く不満や、連帯への渇望を表している。
《書評2》重かったです。私には知らない世界があることを学びました。普通に生きていけること、幸せです。
《書評3》作中に「村上春樹のようなPOPさはない」と自称。現代に横たわる現実を取り扱うということは、読者にかなりの重量を強いる。重いだけあって読後に感じることはいろいろとある。
《参考》浅尾大輔略歴:しんぶん赤旗記者や日本共産党職員、その後、国公労連の専従職員。1995年民主文学新人賞で「ラウンド・ツウ」が佳作入賞。日本民主主義文学会に所属。2003年「家畜の朝」が新潮新人賞を受賞。『論座』2008年9月号にて吉本隆明との対談。雑誌『ロスジェネ』2010年の終刊まで編集長。

(64)-2 「ブラック企業」という危機:今野晴貴(コンノハルキ)『ブラック企業――日本を食いつぶす妖怪』(2012)、黒井勇人(ユウト)『ブラック会社に勤めているんだが、もう俺は限界かもしれない』(2008)!
B-3  2010年代、危機に直面したのは、ヒロシのような「非正規雇用者」だけではなかった。「過労死」や「ブラック企業」も問題として浮上した。(222頁)
B-3-2  今野晴貴(コンノハルキ)(1983-)『ブラック企業――日本を食いつぶす妖怪』(2012、29歳)(2013大佛次郎論壇賞受賞)は、「若い正社員を極限まで搾取する悪質な企業」の実態を告発した衝撃のノンフィクションだった。(222-223頁)

《書評1》「職場の過酷な労働環境」に悩む若者の相談にのる活動を行う著者が、「ブラック企業」に関し実例を交えつつ論じる。本書は、ブラック企業が労働者「個人」だけでなく、日本の「社会」に害悪をもたらすと指摘する。たとえば、本来なら自社で責任を取ってケアすべき「労働によって傷病を受けた労働者」を、ブラック企業は強制的に解雇し、責任を日本社会に転嫁する。ただし(a)非正規雇用の増大、(b)社会保険料の増加、(c)若者の非婚化といった社会問題の原因を、丁寧な論証なく「ブラック企業」のみに求める点は安易だ。社会問題は普通、複数の条件が複雑に絡み合って生じる。
《書評2》過剰な「サービス残業」を強いて精神を病んだ社員の自殺。残業代が払われず、「サービス残業」がのさばる。これは「法制度」の不備であり、人を安く使いたい企業側がその法制度の隙間を突いてくる。また「ブラック企業」は脱落者(退職者)が出ることを前提にし、最初から「異常なまでの大量採用」を行う。社会人になったばかりの新卒は、社会の常識も法的な知識もなく「ブラック企業」の異常な就労形態を「そういうもの」と思ってしまう。そして真面目な人間ほど「自分の責任である」と思い込み、さらに自分を追い込み、体調を崩し、精神を病んでしまう。
《参考》今野晴貴(コンノハルキ)略歴:労働運動家。学位は、博士(社会学)。労働社会学や労使関係論を専門とする。2013年、諸政党関係者に対し講演・対談、また厚生労働事務次官から勉強会の依頼を受けるなど、「ブラック企業」問題に精力的に取り組む。『ブラック企業 ――日本を食いつぶす妖怪』の記述に関し、ユニクロを運営するファーストリテイリングから、法的措置を窺わせる「警告状」が出された。「ブラック企業」が新語・流行語大賞の「2013トップテン」に選ばれる。

B-4  さて「ブラック」という語を冠した最初の本は、黒井勇人(ユウト)『ブラック会社に勤めているんだが、もう俺は限界かもしれない』(2008)だ。これはネット上の掲示板から生まれた「スレッド文学」(Cf. 『電車男』)で、黒井勇はハンドルネームである。(223頁)
B-4-2  主人公「俺」は高校中退し、10年近くニートだった。母の死を機に就職を決意。猛勉強して基本情報技術者試験に合格、ようやく1社にプログラマーとして採用される。だがその会社はパワハラ上司と徹夜のサービス残業が横行するブラックな会社だった。(223頁)

《書評1》母親の死をきっかけに中卒で10年以上NEETだった男の仕事の話。すっごいブラック企業で私なら初日の午前中で辞めるレベル。こんな上司ついてけない。それでも辞めなかった主人公はすごいし、母親の存在の大きさを思い知らされた。この会社で頑張れるなら、学校生活楽勝だと思った。極限状態なのに、コミカルな発言が出来るのがすごい。
《書評2》最終学歴「中卒」、ニート歴10年だったという男による「2ちゃんねる」の書き込みから、物語は始まる。母親の死で一念発起したこの男「マ男」が入社したのは、ひどい環境の「ブラック会社」。重労働で体力、気力を削られ、さまざまなトラブルにも襲われるマ男。だが先輩である「平成の孔明」こと藤田さんに支えられながら彼は成長していき、またイヤな曲者(クセモノ)揃いと見えた同僚たちも、ともに過酷な仕事に取り組むなかで思わぬ心意気や情(ナサケ)を見せる。現実はこんなに甘くはないかもしれないが、それでも、これは現実を戦う勇気を得られる一冊だと、私は信じる。
《書評3》タイトルにインパクトがあり、気にはなっていたけれど、あまり「2ちゃんねる」に興味がなくてスルーしていたが、今回読んでみた。 次々に起こる事件の展開、上手な文章構成、予想以上の面白さに大満足。 自分も過去にプログラマーの経験があり、100時間以上の残業、仕様変更により突然の土日休み返上、徹夜があったが、それでも「残業代は0円」というところに勤めていたことがあった。この本の内容ほど不条理ではなかったが、あの頃の自分がリンクされる部分もあった。

(64)-3 「正社員」こそ命の危機にさらされている:新庄耕(コウ)『狭小邸宅』(2013)、広小路尚祈(ナオキ)『金貸しから物書きまで』(2012)!
B-5  「正社員」になっても安泰ではない。「正社員」こそ命の危機にさらされている。純文学(Cf. ノンフィクション、スレッド文学)にも「ブラック企業」が登場する。(223頁)
B-5-2  新庄耕(コウ)(1983-)『狭小邸宅』(2013、30歳):「僕」(松尾)は大卒で戸建て住宅販売の不動産会社に就職した新米営業マン。血ヘドが出るほどのノルマと激務。上司からの日常的な罵倒と暴力。30人の同期のうち残ったのは6人だけ。そして「僕」は非人間的な販売の極意を身につける。ある日、大学時代の先輩に「僕」は言われる。「お前染まりすぎてるよ。驕りや欺瞞が顔に表れてる。」(223-224頁)

《書評1》なんの志(ココロザシ)もなく入社した不動産会社は超ブラック企業。 退職勧告をされながらも残り、「運」が手伝って会社のお荷物案件を販売して一旦評価されるものの、上司からはやはり退職勧告。営業に同行した上司からの指摘をきっかけに「やり手営業マン」に生まれ変わるも、プライベートは逆の結果に。どんな職であれ、「やりがい」は生まれるというのがわかる反面、何かが「犠牲」になるというのがわかる。なお、この中に出てきた「やり手営業マン」は、やり切って「起業」している。
《書評2》私は業界人。僕は「課長」(上司)と同じ考え方なので、こんな風に「向いてない奴がしがみついて芽が出る」ような展開は、現実にはないと思ってる。
《書評3》最近マンション購入を検討中なので「不動産屋の心理状態が分かる」と聞いて手に取った。多少の誇張はあるだろうが、プレッシャーにさらされた「営業マン」の活動は鬼気迫るものがある。口から出まかせのセリフの数々には身に覚えも多数。まぁ「営業マン」からしたら客の人生に責任は持たないし、売れればOKだ。彼らの話は「差っ引いて聞く必要がある」ことを再認識。そして、本当にここまでパワハラが横行してるのだろうか?「売れば勝者、売らねば敗者」の世界で徐々にその世界に染まり壊れていく主人公を見るのは、なんとも言えぬ気分になった。

B-6  広小路尚祈(ナオキ)(1972-)『金貸しから物書きまで』(2012、40歳):「おれ」(広田)33歳は消費者金融会社支店(5人)で働く。ねちねちと返済取り立て、違法すれすれの新規貸し付け。精神的ストレスと不規則な生活で体重増加。高校卒業後、これまで設備工事会社、不動産会社、商工ローンなど転職するも長続きせず。今の会社に入ったのは完全に妻と幼い息子のため。「今日もやる。お前たちの為なら、とうさんは死ねる。」彼にとって仕事は「死ぬ」と同義だ。(224頁)
《書評1》「壮大な愚痴と言い訳」を延々と読まされた気分。とは言いながら、「ばっくれ癖」のある主人公にうんざりしながらも、退屈せずに読めてしまった。特に最初の消費者金融に勤めているあたりの描写は、実際に働いていた著者の経験が生きているのか、とても面白かった。地蔵のような、出来すぎの奥さん、彼女の存在が偉大すぎる。
《書評2》主人公はストーリーの中で、「金貸し」と「物書き」しかしていない。しかも「物書き」は始めたばかり。「逃げてばかり」と卑下する主人公だが、「金貸し」の仕事ぶりは優秀。そして、奥さんが魅力的。旦那をやさしく包み込む包容力がある。これは著者の願望も含まれているのでは?
《書評3》半生を綴った自伝的小説のようだ。ダメ人間が、妻と子供を拠り所に、死なないために生きていく様が痛快だった。他の作品も読みたいと感じた。
《参考》広小路尚祈(ナオキ)略歴:高校卒業後、音楽活動をしながら職を転々とする。ホテルマン、飲料水メーカーのセールス、タクシー運転手、不動産会社、消費者金融会社などを経験。2007年「だだだな町、ぐぐぐなおれ」が群像新人文学賞の優秀作。2010年「うちに帰ろう」芥川賞候補。2012年「まちなか」芥川賞候補。

B-6-2  2000年代の「プレカリアート文学」は「労働市場からオチコボレた女たち」が主役だったので、仕事のディテールはほとんど出てこない。(224頁)
B-6-2-2  一方、「ブラックなホワイトカラー労働者」を描いた上記2作は、上司の罵倒、客との会話を含め業務内容の記述は詳細を極める。24時間、ほぼ仕事しかしていないので、ほかには頭がまわらないのだ。(224頁)

(64)-4 ライトノベルにまで進出したブラック企業:北川恵海(エミ)(1981-)『ちょっと今から仕事やめてくる』(2015、34歳)!
B-7  北川恵海(エミ)(1981-)『ちょっと今から仕事やめてくる』(2015、34歳)は、ライトノベルだが、ブラック企業を扱う。主人公の「俺」(青山隆)は、電車に飛び込もうとしたところ、見知らぬ人物(ヤマモト)に腕をつかまれて助かる。(224頁)
B-7-2  「俺」は印刷会社の営業マン、就職して半年、6時起床、サービス残業をこなし退社は21時過ぎ。土日出勤は当たり前。「ここで辞めたら次はない」と思って会社にしがみつくが、疲弊しきっている。(225頁)
B-7-3  ところが「俺」を救った男「ヤマモト」は、その後、たびたび「俺」に辞職・転職をすすめる。「会社を辞めることと、死ぬことは、どっちが簡単なわけ?」と「ヤマモト」が言う。(225頁)
B-7-4  この小説が人気を集めたのは、やられっぱなしで終わらないためだった。山本のチョッカイによって、あれほど固執して会社からの脱出に「俺」は成功する。表題「ちょっと今から仕事やめてくる」は、その際の「俺」の台詞だ。(225頁)

《参考》ワーキング・ホリデーの制度でオーストラリアやカナダで就労した経験をもち、日本と海外の働き方の違いを強く感じたことが執筆のきっかけになったと著者は述べる。(西日本新聞2017/9/26 )
《書評1》職場の人間関係で苦しんでる人は絶対読んでほしい。(若い人は特に。)私は、最近職場で特定の人からパワハラを受けている。会社の倫理というかガバナンスがボロボロで、「この会社オカシイ」ってみんなが口を揃えて言っている。この会社に見切りをつけて辞めていった人が多数いる。パワハラ、モラハラ、セクハラが横行し、精神を病んで辞める人もいる。イライラして丸二日半寝れなくて、睡眠薬を医者に処方してもらい、流石に「そろそろやめた方がリスク低いんだろうな」とか思いながら、この本を買った。今の日本では、この小説の「フィクションの話」が現実に至る所で起きている。「人の心を必要以上に追い込み死へと追いやる」、こんな事が会社で日常茶飯事だ。「景気が悪い」こともあるが、「イジメ」なんて大人も子供も同じ。陰湿で狡猾に執拗に行われる。そして誰もが関わりたくないので見て見ぬふり。そんな状況が「ブラック企業」を大量に生み出している。この本の最後に主人公が上司にキレる場面があるが、社員が言いたい事を押し殺し、不当に扱われていてはダメだと思う。「働いている人たちが本音を言わず、諦めてしまっている」気がする。今の日本人にはこの小説の主人公の「勇気」もしくは「ちょっとした勇気」が必要だと思った。この本はフィクションだけどフィクションではない。今の日本の「リアル」だ。
《書評2》仕事が辛いという方は読むべき。話がシンプルで、とても読みやすくサクサク進んだ。私は就活を終えて来年から新社会人になるのだが、既に社会人になっている友人から薦められてこの本に出会った。この本を通して伝えたいことは次の3つだと思う。「①大前提として、死ぬな。②自分のことを大切に思ってくれる人のことを思いだし、その人達のためにも生きろ。(本書では主人公の両親だった。)③会社辞めたら次が無い、なんてことは絶対にない。」きっと真面目で仕事に誠実な人ほど視野が狭くなって、いつの間にか「会社に行くか」、「辞めるか」、「死ぬか」の3択くらいになってしまうのだと思う。自分のことだと思って、自分の状況と重ねて考えながら読むと良い発見があると思う。
《書評3》全体的に幼稚でレベルが低い。まず、(ア)作者に就労経験があるのか知らないが、「ブラック企業」での勤務にあまり具体性がない。(イ)小説のメインは一人の病的な上司からの叱責だ。だが実際に過労死レベルで働いた経験がある人間として言わせてもらうと「ブラック企業」は、経営陣だけでなく、そこで働く上司、同僚、部下、社内文化、クライアント、取引先、同業他社などあらゆる物が狂っている。ゆえに、一人のパワハラ上司だけでなく複数の頭痛の種が舞い込んできて、「死」が現実的になるのはそこからだ。また、(ウ)そのブラック企業の上司に対して、最後は演説して終わるというのは、いかにも「いじめられっ子の最後っ屁」的な感じであり、何のカタシルスもない。それに代わる何かを提案すべきだった。

(64)-5 戦後、「純文学」で狭義の会社員生活を描いた作品はきわめて少ない:伊井直行『さして重要でない一日』(1989)はその少ない部類に入る作品だ!
B-8  伊井直行(1953-)は『会社員とは何者か?――会社員小説をめぐって』(2012、59歳)で、戦後、「『純文学』は会社や、会社員をほぼブランクにして眠りこんでいた」と述べる。出版、宣伝、放送などフレキシブルに働ける表現関係の業種を除外すると、狭義の会社員生活を描いた作品はきわめて少ない。(225頁)

B-8-2  その少ない部類に入る伊井直行(1953-)『さして重要でない一日』(1989、36歳)は、営業部の「彼」(佐藤)が、ミスをして、迷宮のような会社の社屋に閉じ込められる話だ。全体像が把握できない会社組織の不気味さを描く。ただし21世紀(※2000年代、2010年代)の会社員小説に比べると、呑気というか優雅な印象は否めない。(225頁)
《書評1》自分の存在の不確かさを嘆くでもなく、怖れるのでもなく、諦めているのでもない。人間のおぼろげなありようを、ただそこにあるものとして描くこと。その平熱な感じが心地よく、こちらの心持ちにぴたっときました。いわば“よく働く元気なニヒリスト”が主人公。
《書評2》会社の怖さと不思議がよくわかる作品。自社ビル持ってる会社に勤めた人は、うんうん頷いちゃうんじゃないかな。私は前職時代を思い出した。いつの間にか特定の部署の社員から嫌われたり、謎の制度があったり、地下に仮眠室やシャワールームがあるという噂があったり、多分似たようなことはどこの会社にもあるのだろう。けど、そんな小さなエピソードをよく小説にできるなぁ。すごい。
《書評3》この小説は私が大手の印刷会社に勤めていた頃を思い出させてくれる。その会社は工場と事務所棟がつながっていて、まるで迷路だった。朝からインクの匂いのする工場の中をぬって出勤。当然フレックスタイム。社員食堂も工場と一緒。外回りが多くてたいてい夕食に使っていた。プレゼン。外線電話。喫茶店でサボリ。同期の飲み会。社内便が間に合わなくてタクシーで届けるお間抜け。そしてコピー室。ありましたね!繰り返す重要でない毎日。それが1989年の「のどか」だった新入社員のかけがえのない想い出だ。

(64)-6 「資本の論理が剥き出しになった21世紀初頭の日本」は、「労働争議が頻発した昭和初期」、すなわち「プロレタリア文学の最盛期」と似る!
B-8-3  なぜ、この時期(※2000年代、2010年代)に過酷な労働を描いた会社員小説が増えたのか?背景は、もちろん労働環境の悪化だ。(226頁)
B-8-3-2 「資本の論理が剥き出しになった21世紀初頭の日本」は、「労働争議が頻発した昭和初期」、すなわち「プロレタリア文学の最盛期」(※1920年代後半、1930年代前半)と似たところがある。「ブラック企業」は一周回って、ついに「真正のプロレタリア文学」を生んだ。(226頁)

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「2010年代 ディストピアを超えて」(その1):「東日本大震災と第2次安倍政権」ディストピア小説の時代!格差や貧困、戦争やテロ、強権的な安倍政治、排外主義!(斎藤『同時代小説』6)

2022-05-13 13:28:14 | Weblog
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(63)「東日本大震災と第2次安倍政権」:2011/3/11、東日本大震災(死者・行方不明者1万7500人以上)、そして東電福島第1原発事故!
A   2010年代に入っても「格差や貧困」に対する有効な解決策は提示されず、「戦争やテロ」がすぐ横にあるという感覚も解消されなかった。(220頁)
A-2  しかもこれらの問題に加え、大惨事が起きた。2011/3/11、東日本大震災(死者1万5000人以上、行方不明者2500人以上)、そして東電福島第1原発事故(1,2,3号機「炉心溶融」、半径20キロ圏内「警戒区域」、避難者16万人)だ。(220頁)
A-3  東電福島第1原発事故は原発の「安全神話」を覆し「脱原発」をめざす運動が起こる。当時の民主党政権(2009-2012)は「原発ゼロ」の社会をめざそうとした。(220-221頁)

(63)-2 「震災および原発事故」と「強権的な安倍政治」は底のほうでつながっている:有権者は「どこか不安な元野党」ではなく、「強いリーダーのいる元与党」を選んだ!
A-4  しかし2012. 12月、民主党は選挙で大敗し、第2次安倍政権(自公連立)が成立した。衆院、参院ともに与党が3分の2以上を占める。この「安倍一強」体制のもと、「戦後民主主義のルール」を変更するような政策を進められた。①特定秘密保護法、②集団的自衛権の行使容認(憲法9条の解釈変更)、③共謀罪を含む組織的犯罪処罰法の改正など。(221頁)
A-4-2  「震災および原発事故」と「強権的な安倍政治」は底のほうでつながっている。震災で大きなショックを受けた有権者は「どこか不安な元野党」(民主党政権)ではなく、「強いリーダーのいる元与党」(自民党政権)を選んだのだ。(221頁)

(63)-3 「3・11」と「安倍政権の誕生」はこの国の雰囲気を変えた:(ア)マスメディアは政権の顔色をうかがう、(イ)排外主義的な言説、(ウ)歴史修正主義がはびこる!またSNSが発達し紙メディア(とリベラル勢力)は後退した!
A-5  「3・11」と「安倍政権の誕生」は、この国の雰囲気を確実に変えた。(ア)マスメディアは政権の顔色をうかがうようになり、(イ)雑誌や書籍を含む出版界では排外主義的な言説が幅をきかせ、(ウ)過去の歴史の解釈を否定する歴史修正主義がはびこる。(221頁)
A-6  メディア方面では、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)(Ex. ツイッター、フェイスブックなど)が発達し、コミュニケーションのあり方が大きく変わった。電車の中で本や雑誌を読む人は激減、書籍の年間出版点数は2013年をピークに減少傾向に転じた。かくて紙メディア(とリベラル勢力)はますます後退戦を強いられた。(221頁)

(63)-4 2010年代は「ディストピア小説の時代」だった!
A-7  こうした「時代状況」のせいか、2010年代は「ディストピア小説の時代」だった。2000年代から蓄積された不穏な空気が満タンになり、一挙に爆発した。(222頁)
・時代状況(a)「格差や貧困」は解決されず、「戦争やテロ」がすぐ横にあるという感覚が続く。(220頁)
・時代状況(b)「安倍一強」のもと「戦後民主主義のルール」が変更される。①特定秘密保護法、②集団的自衛権の行使容認(憲法9条の解釈変更)、③共謀罪を含む組織的犯罪処罰法改正など。(221頁)
・時代状況(c)「震災および原発事故」でショックを受けた有権者は「強権的な安倍政治」を選ぶ。(221頁)
・時代状況(d)「3・11」と「安倍政権の誕生」がこの国の雰囲気を変えた:(ア)政権の顔色をうかがうマスメディア、(イ)排外主義、(ウ)歴史修正主義。(221頁)
・時代状況(e)  紙メディア(とリベラル勢力)の後退。SNSの発達による(221頁)

A-7-2  「ディストピア」とは「ユートピア」の反対語。ジョージ・オーウェル『1984』が描くような「絶望に支配された世界」だ。(222頁)(2010年代の「ディストピア小説」について次節以降、詳述)

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「2000年代 戦争と格差社会」(その14):「殺人(テロ)を肯定していた!?」村上春樹『IQ84』、渡辺淳一『愛の流刑地』!赤木智弘「『丸山眞男』をひっぱたきたい」!(斎藤『同時代小説』5)

2022-05-12 12:48:09 | Weblog
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(62)「村上春樹も渡辺淳一も殺人(テロ)を肯定していた!?」:村上春樹『IQ84』(2009)「DV男は処刑すればいい」という村上春樹には「テロを肯定する思想」が流れている!
N  村上春樹(1949-)『IQ84』BOOK1, BOOK2(2009、60歳)は、さまざまな解釈が乱れ飛んだが、意外に2000年代的な作品だった。(215頁)
(ア)舞台は1984年。ジョージ・オーウェル『1984年』(1949)を意識しつつ、オウム真理教事件(1995)や「9.11」米同時多発テロ(2001)への連想を誘いつつ進む物語。(215頁-216頁) 
(イ)予備校教師「天吾」(男性)が、宗教団体「さきがけ」の教祖の娘「ふかえり」(深田絵里子)(17歳)の小説『空気さなぎ』のリライトをする。(215頁)
(ウ)スポーツジムのインストラクター「青豆」(女性)は「プロの殺人者」という裏の顔を持つ。夫のDV(ドメスティック・バイオレンス)で自殺した親友のDV夫を「処刑」。(215頁)
(エ)娘が夫からのDVで自殺した老婦人・緒方静恵は、DVの夫から逃げて来た女性をかくまう施設「柳屋敷」を運営する。「青豆」は「柳屋敷」の一員となり、DV加害者の暗殺(「処刑」)の担当となる。(215頁-216頁)
(オ)こうして「青豆」は「さきがけ」教祖の処刑に向かう。(216頁)
N-2  天吾とふかえりの物語は広義の「少女小説」(1980&1990年代)のトレンドに乗る。青豆と柳屋敷の物語は「殺人(テロ)小説」(2000年代)のトレンドに乗る。(216頁)
N-2-2 「DV男は処刑すればいい」という緒方夫人や青豆の認識は、復讐の仕方としては最低最悪で、「現実を見誤る」という点では有害ですらある。村上春樹がいかにこうした問題に「不注意」かを示している。(斎藤美奈子氏評。)(216頁)
N-2-3  ここには「テロを肯定する思想」が流れている。「殺人」が日常茶飯事の村上龍じゃあるまいし、通常の意味では「連続殺人犯」の女性(「青豆」)を主人公にするなど、かつての村上春樹ではあり得ないことだった。(斎藤美奈子氏評。)(216頁)
N-2-4  村上春樹までが主人公に「殺害」をさせ、それに肯定的な意味を持たせる。2000年代はそういう時代だった。(216頁)

《書評1》「謎が多く、しかしそれの明確な答えがない」という作風のため、好き嫌い分かれるんだろう。個人的にはわりと好きだが、苦手とする人の気持ちもわかる。「物語としてはとても面白くできているし、最後までぐいぐいと読者を牽引していくのだが、我々は最後までミステリアスな疑問符のプールの中に取り残されたままになる。」
《書評2》「何なの?」「なぜ好評?」単純に長いだけの幻想的なファンタジー。異世界で苦悩するだけの話。
《書評3》「出版当時はBOOK2で終わりの予定だった」と後で本人が語っている。初読時はBOOK3を心待ちにした記憶があるが、再読してみると「BOOK2で終わり」で良いんじゃないかと思ってしまう。
《書評4》「『IQ84』のあらすじ」①青豆という女が宗教団体のボス「さきがけ」の殺害を依頼される。②宗教団体から逃げてきた女の子「ふかえり」が天吾といっしょに本『空気さなぎ』を書いてベストセラーになる。③女の子「ふかえり」のお父さんが、殺害された宗教団体のボス「さきがけ」で、青豆は命を狙われるようになる。④その捜査をするのが牛河。⑤最後は青豆と天吾がくっついて終わり。
《書評4-2》「読んだ?面白いか?」と聞かれた場合の返答の例。「青豆と天吾が結ばれてよかったです」と言う。
《書評5》いままで村上春樹を読んだことがなく、物語に「起承転結」を求めるのでしたら、「おやめになったほうがいい」と思います。

(62)-2  渡辺淳一『愛の流刑地』(2006):主人公に「殺害」をさせ、それに肯定的な意味を持たせる2000年代らしい作品!
N-3  渡辺淳一(1933-2014)『愛の流刑地』(2006、73歳)も主人公に「殺害」をさせ、それに肯定的な意味を持たせる。2000年代らしい作品だ。(216頁)
N-3-2 『愛ルケ』(愛の流刑地)も例によって渡辺淳一の不倫小説だが、バブルの残り香を引きずった『失楽園』(1997)と大違い。『失楽園』のカップルは美食や豪華旅行にいそしんだ。だが『愛ルケ』のカップル(村尾菊治、入江冬香)は、村尾の部屋で性行為にふけるだけ。(216-217頁)
N-3-3  そして村尾は、冬香の求めに応じ、性交の絶頂において彼女を絞め殺す。愛人の絞殺が「愛」だと強調される。(217頁)

《書評1》「セックスにおけるエクスタシーで死を希望する」というのは無理がある。少し「男のエゴ」があるのでは?多分に渡辺氏の主観が入っている。
《書評2》「愛し合っている人を絞殺してしまう」ことなんてあるのかなあ?「 裁判」で他の人たちにわかってもらうのは無理だろう。
《書評3》冬香が亡くなるシーンでは息を呑んだ。性的な描写の連続の果てに、その肉体が動かなくなる。取り返しのつかなさが、恐ろしく悲しかった。2人(村尾と冬香)の間では豊かに通じ合っていたことが、取り調べや裁判の場では一般化された言葉に集約され、空疎になっていく。

(62)-3 赤木智弘「『丸山眞男』をひっぱたきたい:31歳、フリーター。希望は、戦争。」(2007):「希望のない日常」か、「戦争による流動化」か!
N-4  赤木智弘(1975-)「『丸山眞男』をひっぱたきたい:31歳、フリーター。希望は、戦争。」(『論座』2007年1月号)が論壇を騒然とさせた。(217頁)
N-4-2  赤木智弘は訴える。「我々が低賃金労働者として社会に放り出されてから、もう10年以上たった。それなのに社会は我々に何も救いの手をさしださないどころか、『GDPを押し下げる』だの、『やる気がない』だのと罵倒を続けている。」(217頁)
N-4-3  「平和が続けばこのような不平等が一生続く」。「若者たちの右傾化」!「日本が軍国化し、戦争が起き、たくさんの人が死ねば、日本は流動化する。」(217頁)
N-4-3-2 「〈持つ者〉は戦争によってそれを失うことにおびえを抱くが、〈持たざる者〉は戦争によって何かを得ることを望む。」「もはや戦争はタブーではない。」(217頁)

《『論座』原文をweb上に公開した赤木の意図(2007)》「希望は戦争」という、安直な要約ばかりが流通し、それが誤解を招いていることもあり、原文をアップすることにしました。読んでいただければ、私がいかに「戦争を忌避しつつも、しかし、戦争にしか期待を込めることができない諦念」を表明しているかが分かっていただけるかと思います。
《書評1》「希望は、戦争。」では、赤木は東大卒の丸山眞男が陸軍二等兵として召集され、中学に進んでいない上等兵や下士官から繰り返し殴られたことを挙げ、フリーターでも丸山眞男をひっぱたけるような変化を「希望」として求めた。
《書評2》赤木にとっての親世代は、「中流意識」そして「向上の実現可能性」という観念(「庶民の夢」)を年少世代に注入した。赤木の世代は、親世代によって「庶民の夢」という願望を注入されながら、その願望が充足される条件の崩壊を経験したのだ。

N-5  赤木智弘の書き方は挑発的だが、「若い世代」がどれほど逼迫した状態にあるかを訴える力があった。(218頁)
N-5-2 「日本が軍国化し、戦争が起き、たくさんの人が死ねば、日本は流動化する」という赤木の言葉は、「2000年代の小説」(若者たちがテロや犯罪に走り、市民がいつのまにか戦争に巻きこまれる)と響き合う。フィクションの世界は「希望のない日常」か、さもなければ「戦争」か、という段階にとっくに入っていた。(218頁)
N-5-3  「美しい死」をともなう「難病モノ」や、「ケータイ小説」の流行はその反動とも言える。(218頁)
N-5-4  「小説」は弱者や敗者に敏感なのだ。(218頁)

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「2000年代 戦争と格差社会」(その13):「私小説にも貧困の影」リリー・フランキー、田村裕『ホームレス中学生』、西村賢太『苦役列車』! Cf. 朝吹真理子!(斎藤美奈子『同時代小説』5)

2022-05-10 18:10:36 | Weblog
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(61)「私小説にも貧困の影が落ちていた」:2000年代のタレント本的「ポスト私小説」リリー・フランキー『東京タワー――オカンとボクと、時々、オトン』(2005)、田村裕(ヒロシ)『ホームレス中学生』(2007)!
M 2000年代のタレント本的「ポスト私小説」の第1はリリー・フランキー(1963-)『東京タワー――オカンとボクと、時々、オトン』(2005、42歳)だ。自伝的小説。(200万部以上売り上げる。)「ボク」は小倉生まれ。4歳で両親が離婚。「ボク」は母とその実家で暮らす。「ボク」は東京に出で美大に進学。だがオカンに癌が見つかる。「ボク」はオカンに言う。「東京に来るね!」「一緒に住もうか?」(212-213頁)
M-2  いまどき珍しい(斎藤美奈子氏評)孝行息子の半世紀。同時に、上京小説、闘病小説、母への鎮魂のこの作品は、当然「涙と感動」の物語だった。(213頁)
《書評1》幼い頃からオトンとは別居しており、ほぼオカンと二人だけの生活。たまにやってくるオトンとはあまり会話も弾まない。高校からはオカンとも別居し、一人暮らしをする。東京の大学まで行かせてくれたそのオカンが癌にかかり、東京に呼び寄せる。東京タワーの見える病室で癌と戦い、また自宅でオカンは主人公の友達に手料理を振る舞うなど、東京ライフを楽しんだ。そんなオカンに最後の時が訪れる。お母さんのリリーフランキーさんへの愛情に感服。
《書評2》終盤は老いていくオカンを思う主人公の姿が書かれ、しんみりしてしまった。誰にでも親はいるのだし、子は親孝行したいと思うものだ。
《書評3》読み始めは、どうしようもない息子で、「どうしたらそこまで自堕落な生活を送れるのだろう」と思った。でもオカンが東京に来てからの話くらいから、スーっと中身が頭に入ってきた。「両親を大事にしなくては」と改めて気づいた一冊。

M-3  2000年代のタレント本的「ポスト私小説」の第2は田村裕(ヒロシ)(1979-)『ホームレス中学生』(2007、28歳)だ。漫才コンビ「麒麟」の田村裕の自伝的エッセイ。(200万部以上を売り上げた。)直腸がんによる母の死、父も直腸がんになる、製薬会社管理職の父のリストラ、そして中学2年の時、自宅マンションが差し押さえられ、父が「家族解散」宣言をして立ち去る。その日から公園で寝泊りする「僕」の生活が始まった。(213頁)
《書評1》「中学生でホームレスとは?」と思っていたが、そうなった過程は誰も悪くない。子供達に「解散っ」と言った父を恨まない。文章一冊まるまる素敵な人柄が出ていた。その人柄が「周りに恵まれた」所以なのだと思う。
《書評2》周りの人達がみんないい人で温かい気持ちになる。しかし、事の元凶は、大手製薬メーカー勤務の父親が、病気を理由にリストラにあったことだ。「暗黒の1990年代」が背景に横たわる。帯に「衆議院議員麻生太郎さんも推薦!」とあるのが皮肉だ。
《書評3》流石芸人さんなのか、文章が緩急に富み、メリハリがある。貧乏な半生を綴るが、クスッと笑える小ネタを散りばめ、重苦しくなっていない。ただ、ちょっとタイトル詐欺気味かなぁ(笑)。中学時代のエピソードだけでないし、ホームレスをしていたのはほんの僅かだ。

M-4  2000年代の『東京タワー』(2005)も『ホームレス中学生』(2007)も現在の成功者が過去を語るという意味では、1990年代の壮絶人生系エッセイと同質だ。(213-214頁)
《参考》1990年代の壮絶人生系エッセイ:乙武洋匡(オトタケヒロタダ)『五体不満足』(1998)、大平光代『だから、あなたも生きぬいて』(2000)、柳美里(ユウミリ)『命』(2000)、飯島愛『プラトニック・セックス』(2000)。
M-4-2  しかし「貧困からの脱却」というテーマが内在されている点で、2000年代らしい作品だ。Ex. 『ホームレス中学生』は、子どもたちが貧困を学ぶテキストとして活用するグループがある。(214頁)

(61)-2 西村賢太『苦役列車』(2011)の私小説的な「貧乏自慢」(斎藤美奈子氏評)が受けたのは、2000年代の時代の空気が関係していた!
M- 5 西村賢太(1967 -2022)は『どうで死ぬ身の一踊り』(2006、39歳)以来、一貫して私小説で、自分のことを書き続けてきた。(214頁)
《書評1》中卒で女に縁がなく、風俗通いで欲望を満たしてきた主人公が、中華レストランで働く女と出会いアパート住まいを始める。パート代と女の実家からの借金で作家生活を細々続ける。極貧生活と女への暴力、何度も女を叩きだしそして探し、詫びを入れ連れ戻す。その情けない繰り返しは病的なまでのDV気質だ。此ほどまでに自らの恥部をさらけ出した私小説は初めてだ。
《書評2》主人公の藤澤清造への純粋な尊敬と、同棲相手への酷い仕打ちは、どちらも「社会に折り合いをつけられず自分の殻に閉じこもる人間」の心性をよく表していると思った。
《書評3》文章に臨場感があり、そこに描かれる人々は生々しい。面白かった。だが確かにこの人は「憎みきれない」が、そばにいるのは嫌だな。

M-6 西村賢太(1967 -2022)『苦役列車』(2011、44歳)(芥川賞受賞)はいまや「絶滅危惧種」(斎藤美奈子氏評)となった本格派の私小説だ。これは一種の「貧乏自慢」(斎藤美奈子評)である。作者を思わせる主人公・北町貫太は高校に進学せず15歳で家を飛び出し、19歳の今は日雇労働をしている。日当は風俗やソープですぐ使い果たし、友人も恋人もいない。時代は1980年代。(214頁)
《書評1》中卒で日雇いの毎日で、全てにおいてコンプレックスを持って生きている主人公。自分のことをよくわかっているけど、変えられない苦役の人生。読んでいて辛かった。
《書評2》「自分ではどうしようもない生い立ち」を諦めながらも、狡猾に生きようとし、それを又客観視している。
《書評3》貫多の下品さ、あくどさ、素直さ、いわゆる人間臭さと表現されるようなモノが、強烈に追体験できる。育った環境や時代が違っても、「人間の奥底に皆秘めていて共通するような部分」をうまく描き出しているからかもしれない。
《書評4》西村賢太や田中慎弥(1972-)(※『共喰い』で2011年芥川賞受賞高校卒業後、職につかず、15年ほど実家で過ごしていたニートと言われる)みたいな「毒々しい人」が増えてほしい。毒にも薬にもならない「劣化」村上春樹はいらない。

M-6-2 西村賢太『苦役列車』の「自虐にまみれた青春」はまるで「戦前の私小説」だ。葛西善蔵(1887-1928)(※自身の貧困や病気、酒と女、人間関係の不調和を描き「私小説の神様」と呼ばれた)に代表されるように「戦前の私小説」は「貧乏自慢」と二人連れだった。(214頁)
M-6-2-2  西村賢太は、戦前の私小説作家・藤澤清造(セイゾウ)(1889-1932)に傾倒する。(214頁)
M-6-2-3 西村賢太の「貧乏自慢」が受けたのは、2000年代の時代の空気が関係していたかもしれない。(214頁)

(61)-3 お嬢様チックな朝吹真理子『きことわ』(2011)と、貧乏労働者の私小説『苦役列車』との対比というか格差が話題になった!
M-7 朝吹真理子(1984-)『きことわ』(2011、27歳)(芥川賞受賞)は、かつていっしょに葉山の別荘で夏休みを過ごした二人の女性の物語。当時8歳だった貴子(キコ)と15歳だった永遠子(トワコ)が、25年後(貴子33歳・永遠子40歳)、別荘を片付けるため再開する。過去と現在が渾然一体となった不思議な小説だ。(214-215頁)
《書評1》葉山の高台にある別荘で、幼い日をともに過ごした貴子と永遠子。25年後、ある夏、とつぜん断ち切られた親密な時間が、別荘の解体を前にしてふたたび流れはじめる。あらわれては消えてゆく、幼い時代の記憶のディテール。積み重なる時間の層が描きだされる。
《書評2》ときにかみ合い、ときに食い違う、思い出。縺れる記憶、混ざる時間、交錯する夢と現(ウツツ)。そして境界は消え去る。やわらかな文章で紡がれる、曖昧で、しかし強(シタタ)かな世界のかたち。
《書評3》ちょっと不思議なお話。 記憶は削られ、改変され、25年のときを経てつきあわせると、合ったり合わなかったりする。 時を経て、変わったもの、そして変わらないものの存在が美しく書かれる

M-7-2 お嬢さまチックな『きことわ』(朝吹真理子)と、貧乏労働者の私小説『苦役列車』(西村賢太)が2011年、芥川賞を同時受賞したことから、両者の対比、格差が当時話題になった。

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「2000年代 戦争と格差社会」(その12):「キャリアも結婚も遠い夢」青山七恵『ひとり日和』、柴崎友香、山崎ナオコーラ、長嶋有、川上未映子『乳と卵』! Cf. 林真理子!(斎藤『同時代小説』5)

2022-05-07 11:53:40 | Weblog
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(60)「キャリアも結婚も遠い夢」:青山七恵『ひとり日和』(2007)千寿(チズ)は清掃会社の事務職という正社員の口を得て、吟子さんの家を出て行く!
L 2000年代にデビューした女性作家はみな、現実を直視していた。(208頁)
L-2  青山七恵(1983-)『ひとり日和』(2007、24歳)(芥川賞受賞)はもうじき20歳になる女性の物語だ。「わたし」三田知寿( チズ)は埼玉の実家を出て、東京の年配の知人(吟子さん)の家に居候している。(ア) 知寿の母は離婚後、私立高校の国語教師で娘を育ててきた。(イ)千寿は母から「大学に行け」と言われているが、(イ)-2 千寿に「大学」に行く気はない。(ウ)千寿は週3回コンパニオンのバイト(2時間で8000円になる)、(ウ)-2 夏からは週5回、朝6-11時、私鉄の駅の売店で売り子のバイト。(208-209頁)
L-2-2  (エ)「どうでもいいけど、ちゃんとしてよね」と言う母。しかし(エ)-2千寿は考える。「ちゃんとするってなんだろう。学校に行ったり、会社に勤めたりすることを言うのだろうか」。(209頁)
L-2-3  (オ)1年後、千寿は「清掃会社の事務職」という正社員の口を得て、吟子さんの家を出て行く。自律譚だが、地味で静かな自立だ。(209頁)

《書評1》不器用だけど純粋なんだろうな。私は年齢も同じで「生きてていいことあるのかな」なんてふと思う時もある。彼女が「不器用ながらもどうにかして生きていかなきゃいけないんだ」ってことに気づいて独り立ちしていく姿に、ちょっぴり泣いてしまった。同世代の女の子が自分なりに頑張ろうとしている。「私も自分なりに、不器用なりに出来ることからやってみよう」なんて勇気づけられた。
《書評2》20歳の知寿ちゃんと71歳の吟子さん、2人で暮らした春夏秋冬。ゆるゆるとした日常。知寿ちゃんが、絶妙に性格が悪く、手癖も悪く、若さしか取り柄がないのに、まわりを見下していてどうにも好きになれなかった。短い季節のなかでいろいろな出会いと別れを経験し、過去と訣別して自立への道を歩み始めた知寿ちゃん。「彼女なりに成長したのかな」と思いきや、不倫の恋に片足突っ込んでて「ダメだこりゃ」って感じ。私にはあんまりしっくりこなかったなぁ・・・・。
《書評3》知寿にとって、盗品は「時の形見」なのだ。電車が行ってしまったら、電車が間違いなく其処に居たことを証明する物が無い。見送ってばっかり。人も電車のように過ぎていく。「個の痕跡」、「時の形見」、そういうものが慰めになるのは、解る気がする。

(60)-2 柴崎友香『その街の今は』(2006):5年間勤めていた繊維卸の会社が7カ月前に突然倒産!
L-3  柴崎友香(トモカ)は、保坂和志(カズシ)(1956-)風の「何も起きない小説」でありながら、人間関係と街の情景を同じくらいの比重で描く点で「風景画家」と呼びたくなる作家だ。柴崎友香(1973-)『その街の今は』(2006、33歳)は細部に2000年代らしさが織り込まれている。(209頁)
L-3-2  主人公の「歌」は大阪在住の28歳。(ア)5年間勤めていた繊維卸の会社が7カ月前に突然倒産。(イ)現在は知り合いが経営するカフェでバイト中だ。(ウ)10社受けた会社は全て落ちた。(エ)かくて「ちょっと休んでいるだけ」なのか「仕事に戻れない」のかはわからない。(エ)-2 それで「歌」は口にしてみたりする。「会社って潰れるもんやねんな」「ほんまは、もっと焦って仕事探さなあかんねんけど」。(209頁)

《書評1》「ここが昔どんなんやったか、知りたいねん。」28歳の歌ちゃんは、勤めていた会社が倒産し、カフェでバイトをしている。初めて参加したのに最低最悪だった合コンの帰り道、年下の良太郎と出くわした。二人は時々会って、大阪の古い写真を一緒に見たりするようになる。過ぎ去った時間やささやかな日常を包みこみ、姿を変えていく大阪の街。温かな物語。
《書評2》何か劇的な事が起るわけでもない、過ぎていく日常の淡々とした描写。相い入れない人や物事も、とりあえず受け入れる。(Cf. 「ネットにおいて反応が激しすぎる人が多い」ので、そういうのに疲れている。)

(60)-3 山崎ナオコーラ『浮世でランチ』:「仕事」で「成功しよう」とも、「自己実現をめざそう」とも思わない!「キャリア」か「専業主婦」かという選択肢が彼女たちにはない!
L-4  山崎ナオコーラ(1978-)は39歳の女性と19歳の男性の恋愛を描いた『人のセックスを笑うな』(2004、26歳)で鮮烈にデビューした。(209頁)
《書評1》美術専門学校に通う「オレ」は、教師のユリとの恋愛に身を焦がす。明るく穏やかな秋の陽気のような、目を逸らしたら消えてしまいそうな彼らの関係。恋愛にはふたつのかたちがあるのかもしれない。「花火のように熱くて華やかですぐになくなるもの」と、「コタツのようにじんわり温かく安心するもの」と。ユリにとって「オレ」と夫はそのような2人だった。
《書評2》オビに田中康夫さんが 「思わず嫉妬したくなるほどの才能」と 書いてたけど 、私もスゴイなって感じた。 誰もが惹かれて当たり前の「 外見の美しさ」でも 「優しい心」でも「 快活さ」でもなく、 もっと他のものに 、どうしようもなく惹かれ、愛する感覚。切なさがたまらなかった。人を愛した時の「あの感覚」 思い出させてくれる。 読みやすいけれど とても深い。
《書評3》ずっと一緒にいる気はしないし、今後別の誰かと付き合うこともあるだろうけど、かといって別れの想像はつかないし、別の人を好きになる気も今のところない。そんな話だと思った。

L-5 山崎ナオコーラ(1978-)『浮世でランチ』(2006、28歳)は、会社を辞める女性を描いている。(209頁)
L-5-2 主人公の丸山君枝(25歳)は、人とべたべたするのが嫌い。入社以来ランチはひとりで食べる。君枝にはミャンマーに生きたい理由があって会社を辞める。(209-210頁)
L-5-2-2  君枝は出発にあたって振り返る。「時間が、指の間からダラダラとこぼれていく。私の時間は、ゴミのようだった。あの会社では、毎日、深夜まで残業をしていたのだけれども、長時間労働が自分の成長に繋がるということはなかった。」(210頁)

《書評1》小さい頃から社会性がなく、皆の輪に入り込めず、それでも自分を曲げず、大多数に静かに反抗している彼女。自分が好きな人以外と付き合うのは面倒で、好きな人とだけ好きな方法で付き合っている彼女。会社の人とランチするのが面倒で、うららかな公園で一人でランチしているほうが気楽な彼女。自分の今に疑問をもち、突然会社を辞めインドへ旅立った彼女。
《書評2》「目的から離れて人と関わることに、 意味ってあるのかな? ―あるのだろう。 この世界で生きているとき、 話してみたいという純粋な欲望だけで、 人と関わるときがある」という言葉が印象に残った。
《書評3》友情とも恋愛とも名づけられないデリケートな感情や、固まらない関係を描くのがうまい。ひとりでランチするOLは、如何にして世界とふれあう回路を見つけるのか?

L-6  『ひとり日和』の千寿(チズ)(「清掃会社の事務職」の口を得る)、『その街の今は』の歌(会社が7カ月前に突然倒産)、『浮世でランチ』の君枝(会社を辞めミャンマーに行く)、彼女たちに共通するのは、「仕事」で「成功しよう」とも、「自己実現をめざそう」とも思っていないことだ。かくて「キャリア」か「専業主婦」かという選択肢が彼女たちにはない。(210頁)

(60)-4 長嶋有(ユウ)『猛スピードで母は』:一見パワフルだからこそ、シングルマザーのリアルな生活感がにじみ出ている!
L-7  長嶋有(ユウ)(1972-)『猛スピードで母は』(2001、29歳)(芥川賞受賞)は少年の目から見た母子家庭の物語だ。舞台はおそらく1980年代。「僕」こと慎(マコト)は小学5年生。(ア) 慎が小学校に上がる前に両親は離婚。(イ)母は深夜までガソリンスタンドで働いて慎を育てた。(ウ)その間に母は保育士の資格をとった。(エ)母は現在は、市役所の社会福祉課に非常勤待遇で勤める。(オ) 母はパワフルで、愛車のシビックのタイヤ交換も自分でやり、慎の忘れ物を取りにアパートの外壁を4階までよじのぼる。(210頁)
L-7-2 物語は母が再婚すると言い出し、結局はふられるまでの1年弱を描く。一見パワフルだからこそ、シングルマザーのリアルな生活感が、にじみ出ている。(210-211頁)

《書評1》表紙の絵、すごいな。「猛スピードで母は何するんだろう?」って表紙を見て思った。男にまっしぐらなのかと思ったら、それほど情熱的には描かれてなく、母親であり女である母は、ちょっと格好良くてちょっと寂しい感じにみえた。
《書評2》仕事も交際相手もすぐ変わる猪突猛進気味な母と、その淡白な感情の息子の話。この作品で子どもが大人を見上げる視線は冷静でどこかユーモラス。そして子どもは寂しさも納得して受け止める。時に子どもは帰ってこない母親のベッドで眠る。
《書評3》人と人には「関係」というものがあって、それは続いたり、盛り上がったり、だらだらしたり、ときには終わったりするのだと慎(マコト)は知った。

(60)-5  川上未映子『乳(チチ)と卵(ラン)』:家計は母子家庭の補助もあることはあるが、そんなものは焼け石に水!
L-8 川上未映子(ミエコ)(1976-)はいじめを描いた『ヘヴン』(2009、33歳)等の話題作で人気作家となった。(211頁) 
《書評1》①中学で凄惨な苛めを受けている「僕」。②同じように苛めを受けている少女「コジマ」と手紙のやり取りを通じて心を通わせていく。コジマは言う。苛めを受けている自分たちは、「何が起こっているのか、きちんと理解している強さがある」と。③そんな彼女を心のよりどころにしている「僕」に、苛めを静観する「百瀬」は、言い放つ。「苛めに理由なんかない。したいからするんだ」と。
《書評2》「ねえ、神様っていると思う?」というコジマの問いかけ。いじめグループに属する傍観者的な「百瀬」は、人生には「意味」や「普遍的な善悪」など存在せず、まず「欲求」がありそれを満たす状況があれば遂行するだけのことだという虚無的なスタンスをとる。

L-9  川上未映子(1976-)『乳(チチ)と卵(ラン)』(2008、32歳)(芥川賞受賞)も母子家庭の物語だ。(211頁)
L-9-2  東京でひとり暮らしをする「私」のアパートに、大阪に住む姉の巻子と姪の緑子が上京してくる。(ア)巻子は39歳。夫とは10年前に別れ、娘の緑子を一人で育ててきた。(イ)三日間の東京滞在の目的は豊胸手術。(ウ)「家計は母子家庭の補助もあることはあるが、そんなものは焼け石に水もええとこ」で、スーパーの事務、工場のパート、レジ打ち梱包、などなどの仕事をするも「そんな賃金では生活はどうにもならん」と巻子。(エ)そこで「それにくわえてホステスの仕事もするようになった」。(211頁)
L-9-2-2 まだ初経前の緑子は、そんな「母」も「自分の身体の変化」もイヤでイヤで仕方がない。「お金のことでお母さんといいあいになって、なんであたしを生んだん、って」いったこともある緑子。「胸をおっきくして、お母さん、何がいいの?」「あたしは、お母さんが心配やけど、わからへん。」(211頁)

《書評1》思春期とコンプレックス。女として生まれたこと、歳を取ること。娘と母、それを見つめる叔母。三人が実はそれぞれを想っていて、巻子と緑子が言い合うシーンでは涙が出た。一文一文の長さが長い独特の文章が読み難くて難儀したが、その人間臭さや生々しさにも徐々に慣れた。読後感が良かった。
《書評2》初潮を迎える年齢の女の子の気持ちがよく出ている。「子ども」から「女」になることへの戸惑いとか嫌悪感とか。身体の変化に心がついていけなくてぐちゃぐちゃしちゃうし、母親ってのはあくまで「母親」であって「女」ではない。
《書評3》気持ち悪くなるほど生々しい描写。 人間って気持ち悪いな。 何に心を動かされたのか明確に分からない。 暗い話ではないはずなのにとても重い気持ちになった。

(60)-6  2000年代の小説で目立つのは「戦って敗れた女たち」「戦いに疲れた女たち」が、それでも前を向いて生きようとする姿だ!
L-10  どれもごくごく個人的な狭い世界の話である。しかし、2000年代の彼女たちがいる場所はまちがいなく「戦場」だ。(a)ある者は傷ついて倒れ、(b)ある者はPTSDに陥り、(c)ある者は逃亡をくわだて、(d)ある者は自失して先が考えられなくなっている。(211頁)
L-10-2 1990年代の主人公には「自立願望」や「キャリア幻想」があった。(211頁)
L-10-3  しかし2000年代の小説で目立つのは「戦って敗れた女たち」「戦いに疲れた女たち」が、それでも前を向いて生きようとする姿だ。(211-212頁)

(60)-7 林真理子『下流の宴』(2010):2000年代の格差社会の困難は「がんばれば報われる社会」ではないことだ!「一念発起してなんとかなる」なら、話は簡単なのだ!  
L-11  2000年代の格差社会の困難は「がんばれば報われる社会」ではないことだ。上り坂の時代に時代に青春時代を送った人にはそこが理解されにくい。(212頁)
L-11-2  その一例が、林真理子(1954-)『下流の宴』(2010、56歳)だ。(ア)医師の娘として中産家庭で育った専業主婦の福原由美子(48歳)は、高校を中退してフリーターになった息子の翔(20歳)が心配でたまらない。(イ)その翔が同棲相手の宮城珠緒と結婚したいと言い出した。珠緒は高卒、沖縄出身の自由人。由美子から見れば完全な「下流」だ。(ウ)由美子から見下された珠緒は一念発起。バイトをしながら、大学の医学部めざして猛勉強を始める・・・・。(212頁)
L-11-3 これは、古典的な「立身出世」ないし「階級闘争」の物語であって、同時代の「格差社会」に対応していない。「高度経済成長やバブルを経験した人」と、「そうでない人」とのジェネレーション・ギャップは深い。「一念発起してなんとかなる」なら、話は簡単なのだ。(212頁)

《書評1》中流家庭の子ども、可奈と翔。「高校を中退し、大学にも行かず、フリーター生活」の翔と、「常に見た目や金を持った男にしか興味がない見栄っ張り」の可奈。一方で、沖縄の飲み屋の娘の翔の恋人「珠緒」は置かれた状況を変えようと、決死の努力を計る。落ちぶれていく2人と珠緒の対比により、「下流」とは持って生まれた地位ではなく、自分で努力が出来ないこと、と伝えてくれる。
《書評2》頑張るたまちゃんにはすごく共感できた。「頑張ると人が助けてくれる」のもすごくよくわかる。
《書評3》翔の無気力さは、どこからくるのだろう? 今時は、こんな若者が多いのか? 母の由美子の気持ちは、とてもわかる。 言葉にしないだけで、親は同じことを思っているものだ。 珠緒は、うまく行きすぎ。

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