※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書
(69)「ディストピア小説に向かった純文学」:多和田葉子『不死の島』(2012) !
G 2012年以降、日本ないし日本を思わせる「原発事故後の世界」を描くSF的な小説が登場した。(241頁)
G-2 多和田葉子(1960-)『献灯使』(2014、54歳)は5編を収める中短編集だが、そのうち『不死の島』(2012、52歳)は原発事故後の「おそるべき」日本を描く。(241-242頁)
G-2-2 『不死の島』(2012)の舞台は東日本大震災(2011)の9年後、2020年だ。「日本」は2011年、世界から「同情」されるが、2015年には関心を失う。その後、日本に関する悪い「噂や神話」が広がり、日本は差別されるようになる。(241-242頁)
G-2-2-2 2020年、ドイツ在住の日本女性が空港で「差別」を受ける。彼女は思う。「福島で事故があった年(2011)にすべての原子力発電所のスイッチを切るべきだったのだ」。(241-242頁)
G-2-2-3 「原発を止めよ」と述べた天皇も首相も2013年には、姿を消した。(242頁)
G-2-2-4 その後の日本は(※原発事故の放射能の影響で)「おそるべき」事態を迎える。(ア)2011年に100歳超の老人は「いつまでも健康」で死なない。(イ)逆に子どもはいつ死んでもおかしくないほど病弱で「要介護」の状態だ。そして(ウ)「過去の大きな過ち(原発事故後も原発を続けたこと)」によって(世界から嫌われ)日本は「鎖国」を余儀なくされる。外来語の使用も禁じられた。(242頁)
《書評1》ドイツの空港で日本のパスポートを出すと、係官の顔が引きつる。私は抗議する。「これは、日本のパスポートですけど、私は30年前からドイツに住んでいて、あれ以来日本には行っていません。だからパスポートには放射能物質は付いていません」。こうしてこの人は、「差別される側」から、「差別する側」に昇格する。外国から「放射能汚染を拡散させるな!」と非難され、日本は「鎖国」してしまう。この近未来小説を読んで原発事故後の日本を、外国人が誤解しないかと心配してしまう。
《書評2》3・11がテーマになっているのは間違いないが、「団塊の世代の後ろめたさ」と「次の世代への期待と不安の入り交じる複雑な思い」を感じてしまう。
《書評3》「欲望」したり、「自分が可哀想」と思ったり、「これが私です」と服や音楽や本で自己顕示する生活をせず、そして「可哀想だ」と涙する老人たちを不思議そうに眺め、クラゲや海藻のように漂う新しい世代の人々。作者は彼らを、新鮮な視点で瑞々しく描く。「感覚や欲望を無くし、身体能力が低下した新人類たち」は、不幸せそうにも不便そうにも見えない。むしろ私の方が憐れで可哀想に思える。退廃的なのにおもしろい本。
(69)-2 佐藤友哉『ベッドサイド・マーダーケース』(2013):「大災厄」(地球規模の放射能汚染)から1000年後の世界!
G-3 佐藤友哉(1980-)『ベッドサイド・マーダーケース』(2013、33歳)は「大災厄」(地球規模の放射能汚染)から1000年後の世界を描く。(242頁)
G-3-2 「大災厄」から1000年後のこの世界で、十数年前から「連続主婦首切り殺人事件」が起きている。彼女らは全員が「放射線被曝によって胎児に影響が出る可能性があると診断された妊婦」だった。(242頁)
G-3-2-2 「世界規模の大災害と、それにともなう核兵器施設・原子力発電所の崩壊によって、地球はおよそ千年前、放射性物質が蔓延する死の星になった」。(242-243頁)
G-3-2-3 健康に生まれなかった子どもたちは「放射児」と呼ばれ、やがて国家公認の「子殺し」が始まる。「キャンペーン化され、正当化され、制度化されたそれにより、子供たちは粛々と殺された。/ 見えないように殺された。/ 見えないところで殺された」。(243頁)
《書評1》原発の大災厄を経た未来で、連続する主婦殺し。妻を殺された夫達は復讐を誓い、犯人を追い、真相に近づくにつれ恐怖に直面する。犯人と、事件を黙認する国の目的が見え始めた頃、町はジェノサイドの地獄と化す。未来への希望の兆しはない。今という時代から未来を描くと、希望は示せないということ。3・11震災後ディストピア小説。
《書評2》ジェノサイドの理不尽感を含め、何ともいえない「後味の悪さ」が残る。
《書評3》「病気を持った子供」を授かったとしても、それはそれで嬉しいのだ。手が掛かっても、嬉しいのだ。
(69)-3 吉村萬壱『ポラード病』(2014):大災害から復興した町の異様な「ゆるやかな全体主義」のムード!
G-4 吉村萬壱(マンイチ)(1961-)『ポラード病』(2014、53歳)は「大災害から復興した町」の異様な「ゆるやかな全体主義」のムードを描く。(243頁)
G-4-2 語り手は小学5年生の少女。彼女が暮らす海塚市は「ゆるやかな全体主義」というべきムードに覆われている。ある日、同級生のアケミちゃんが死んだ。新学期を迎えてから死んだ児童はこれで7人。通夜の席でアケミちゃんの父親が挨拶する。「アケミはよく言っていました。/ 海塚の玉葱が一番おいしいね、お父さん、海塚の魚が一番安心だね、と」。そして「海塚!海塚!」のコール。(243頁)
G-4-2-2 海塚は「嘘で塗り固められた町」だった。「全ての抵抗を断念して、そして全てを諦めて、この町だけは何もなかったことにしよう」と町ぐるみで画策する。「狂気」じみた町。(243頁)
《書評1》気持ち悪い。終始気持ち悪かった。一見普通の生活を送る小学生の独白。何らかの厄災から復興しつつある街。郷土愛を胸に前へ進むべしと。どこまでもまとわりつく同調圧。「誰か」の決めた正義。
《書評2》現代社会をシニカルな目線で大げさに描きSF的に仕上げる手法。
《書評3》グロテスクな同調圧力。郷土の安全な食品を食べ、「結び合い」という合言葉で団結を図ろうとする海塚市民。現実から目を背けるための人為的な営み。「ボラード」とは岸に船を繋留するために設置された杭のこと。同調する「健常者」を繋留する「ボラード」。原発事故後の我々に対する痛烈な風刺。極めて日本的な村社会型ディストピア小説
(69)-4 『不死の島』、『ベッドサイド・マーダーケース』、『ポラード病』という「原発事故後の世界」を描くSF的な3冊の共通点:①「未来」の②「放射能に汚染された土地」の③「ファシズムに近い体制」と④「不自然な死」の横溢、すなわち「絶望的なディストピア」を描く!
G-5 多和田葉子『不死の島』、佐藤友哉『ベッドサイド・マーダーケース』、吉村萬壱『ポラード病』という「原発事故後の世界」を描くSF的な3冊は、よく似た構想のもとに創作されている。(243頁)
G-5-2 それらの共通点は①舞台が「未来」である。②最後の世界は「放射能に汚染された土地」である。③「ファシズム」に近い体制が出現している。④「不自然な死」が横溢している。(243頁)
G-5-2-2 要するにこれら3冊は「絶望的なディストピア」を描く。(243頁)
G-5-2-3 (a)秘匿される情報、(b)見えない放射性汚染への恐怖、(c)信用できない政治家、(d)「絆」を強調する全体主義的なムード。震災直後の日本を、これらの小説は確かに反映している。(244頁)
(69)-5 津島佑子『ヤマネコ・ドーム』(2013):「放射性物質に汚染された国(or東京)」は「いいかげん見捨てましょう」!
G-6 津島佑子(1947-2016)『ヤマネコ・ドーム』(2013、66歳)は「放射性物質に汚染された国」は「いいかげん見捨てましょう」と述べる。(244-245頁)
G-6-2 米兵と日本人女性の間に生まれ今は国外に住むミッチ(道夫)、混血孤児のカズ(和夫)、母子家庭で育ったヨン子(依子)は、子供時代を共に過ごすがすでに60歳代。(※3人は1950年頃生まれ。)10年前にカズ(※50歳代)が死んだ。今2011年、東日本大震災による津波と福島第1原発事故が起きる。(244頁)
G-6-2-2 ベトナム戦争(1965-1973)(※3人は小学生頃)から米国同時多発テロ(2001)(※50歳代)までの3人の苦い思い出。(244頁)
G-6-2-3 今、「3・11」後の東京は「放射能の煮こごりの世界」。「放射性物質に汚染された国」は「いいかげん見捨てましょう」と、外国に住むミッチが、ヨン子の年老いた母に迫る。(244-245頁)
《書評1》震災と原発事故を踏まえて書かれた作品だが、時系列も視点もあえて混乱させた多声的な文体で、日本の戦後史そのものを問う物語となっている。
《書評2》過去と現在が交差するシャーマニックでスピリチュアルな作風は著者の十八番だが、明確に「3.11」以降の日本社会に向けて書かれているのが今までとは違う。結局、「終末論」のような気がして、今ひとつぴんとこない。
《書評3》アメリカと日本が葬ってきた「不都合な歴史」の中を異邦人として生きなければならない少年少女達の時間を超えた旅。外界と記憶が区別されない世界で、「罪の意識」を中心に時間が行ったり来たりする。「罪を覆い隠そうとする巨大な力」が常に背後に見え隠れする。
G-6-3 「いいかげん見捨てましょう」は、自主避難者の勇気を肯定する希望の言葉だった。かくて木村朗子(サエコ)『震災後文学論』(2013)は「ディストピア小説群」を高く評価する。(245頁)
G-6-3-2 だが、ディストピア小説の盛況は異様といえば異様だ。(斎藤美奈子氏評。)
(69)-6 飯田一史:震災関連ディストピア小説には「覚悟を決めて自分たちで対処する」という当事者意識が欠如している!
G-7 『東日本大震災後文学論』(2017)の編者のひとり、ライターの飯田一史(イチシ)は、震災関連ディストピア小説の多さにふれ、「どうにもできなかった」人たちばかりしか描かないことを問題にする。(245頁)
G-7-2 飯田一史(1982-)は、前掲書所収の論文(2017、35歳)「希望――重松清と『シン・ゴジラ』」で、「何パターンものやり方で震災を描こうとしてきた重松清」と「政府がゴジラ(暴走する原発を思わせる)を倒すところまでを描いた映画『シン・ゴジラ』(庵野秀明総監督、2016)」を称揚する。(245頁)
G-7-2-2 飯田は、震災関連のディストピア小説の多さにふれ「『どうにもできなかった』人たちばかりを積極的に描く不可思議さ」を指摘する。(ア)それらは「責任を引き受ける、覚悟を決めて自分たちで対処するという当事者意識」の「欠如」を示す。(イ)「主体性」を削ぎ、「無力感」を助長する。(ウ)大事な「本質」を見ない、それに「取り組まない」で「周辺をぐるぐるまわる」ことですませる悪癖だ。(245頁)
G-7-2-2-3 さらに「震災後文学」は「受け身の精神や個人の内面」を描くのみならず、「状況全体を担う覚悟」を、いざというときには「責任を、意志をもって立ち向かう大人」をも示すべきだったと飯田は言う。(245頁)
G-7-2-2-4 要するに震災関連ディストピア小説は「『自分が置かれているのはひどい状況だ』『つらい、悲しい』という以上のことを描いていない」と飯田は言う。(245頁)
(69)-7 いとうせいこう『想像ラジオ』(2013):震災の死者の声がラジオを通じて代弁され、人々の気持ちを癒す!
G-8 いとうせいこう(1961-)『想像ラジオ』(2013、52歳)は、震災の「死者」の声をラジオを通じて代弁させるとした点で、人々の気持ちを癒し、好感をもって迎えられた。(246-247頁)
G-8-2 38歳のDJ アーク(芥川冬助)は東日本大震災の津波で亡くなった。彼は高い杉のてっぺんに仰向けにひっかかっていた。だが彼はその状態で(想像上の)ラジオ放送を続ける。彼が言うには「あなたの想像力が電波であり、マイクであり、スタジオであり、電波塔であり、つまり僕の声そのものなんです」。(246頁)
G-8-2-2 DJもリスナーも死者。しかしリクエストも来るし、電話中継も入るし、曲もかかる。(246頁)
G-8-2-3 想像上のラジオは現実からの逃避かも知れない。しかし「死者の声」がラジオを通じて代弁される点に、読者は希望を見た。(246頁)
《書評1》東日本大震災をモチーフにした作品。“魂魄この世にとどまりて”。突然の天災に死にきれない人たちが交流する想像ラジオ。高い杉の木の上からDJアークが声を届ける。軽妙な語り口も、残した妻子への想いは切ない。耳を澄ませば聞こえるあの人の声。
《書評2》東日本大震災後に被災地で、心霊体験を語る人が多く現れた記憶がある。それは失われた人にもう一度会いたい、話が聞きたいという痛切な思いの現れだったのだろう。魂の浄化の物語。震災の電気通わぬ夜に、人々を繋げたラジオの形を借りて、木のてっぺんにぶら下がったままの素人DJが、開かぬ口のまま語る。
《書評3》あの日の衝撃、その後の喪失感などを思い起こし、読んでいてつらかった。この小説を読んで少しでも救われる人がいるといいと思う。
G-8-3 「現実の厳しさを突きつけるディストピア小説」と、「人々の気持ちを癒す想像上のラジオ」との間に、当時の私たちは確かに立っていた。(246-247頁)
(69)「ディストピア小説に向かった純文学」:多和田葉子『不死の島』(2012) !
G 2012年以降、日本ないし日本を思わせる「原発事故後の世界」を描くSF的な小説が登場した。(241頁)
G-2 多和田葉子(1960-)『献灯使』(2014、54歳)は5編を収める中短編集だが、そのうち『不死の島』(2012、52歳)は原発事故後の「おそるべき」日本を描く。(241-242頁)
G-2-2 『不死の島』(2012)の舞台は東日本大震災(2011)の9年後、2020年だ。「日本」は2011年、世界から「同情」されるが、2015年には関心を失う。その後、日本に関する悪い「噂や神話」が広がり、日本は差別されるようになる。(241-242頁)
G-2-2-2 2020年、ドイツ在住の日本女性が空港で「差別」を受ける。彼女は思う。「福島で事故があった年(2011)にすべての原子力発電所のスイッチを切るべきだったのだ」。(241-242頁)
G-2-2-3 「原発を止めよ」と述べた天皇も首相も2013年には、姿を消した。(242頁)
G-2-2-4 その後の日本は(※原発事故の放射能の影響で)「おそるべき」事態を迎える。(ア)2011年に100歳超の老人は「いつまでも健康」で死なない。(イ)逆に子どもはいつ死んでもおかしくないほど病弱で「要介護」の状態だ。そして(ウ)「過去の大きな過ち(原発事故後も原発を続けたこと)」によって(世界から嫌われ)日本は「鎖国」を余儀なくされる。外来語の使用も禁じられた。(242頁)
《書評1》ドイツの空港で日本のパスポートを出すと、係官の顔が引きつる。私は抗議する。「これは、日本のパスポートですけど、私は30年前からドイツに住んでいて、あれ以来日本には行っていません。だからパスポートには放射能物質は付いていません」。こうしてこの人は、「差別される側」から、「差別する側」に昇格する。外国から「放射能汚染を拡散させるな!」と非難され、日本は「鎖国」してしまう。この近未来小説を読んで原発事故後の日本を、外国人が誤解しないかと心配してしまう。
《書評2》3・11がテーマになっているのは間違いないが、「団塊の世代の後ろめたさ」と「次の世代への期待と不安の入り交じる複雑な思い」を感じてしまう。
《書評3》「欲望」したり、「自分が可哀想」と思ったり、「これが私です」と服や音楽や本で自己顕示する生活をせず、そして「可哀想だ」と涙する老人たちを不思議そうに眺め、クラゲや海藻のように漂う新しい世代の人々。作者は彼らを、新鮮な視点で瑞々しく描く。「感覚や欲望を無くし、身体能力が低下した新人類たち」は、不幸せそうにも不便そうにも見えない。むしろ私の方が憐れで可哀想に思える。退廃的なのにおもしろい本。
(69)-2 佐藤友哉『ベッドサイド・マーダーケース』(2013):「大災厄」(地球規模の放射能汚染)から1000年後の世界!
G-3 佐藤友哉(1980-)『ベッドサイド・マーダーケース』(2013、33歳)は「大災厄」(地球規模の放射能汚染)から1000年後の世界を描く。(242頁)
G-3-2 「大災厄」から1000年後のこの世界で、十数年前から「連続主婦首切り殺人事件」が起きている。彼女らは全員が「放射線被曝によって胎児に影響が出る可能性があると診断された妊婦」だった。(242頁)
G-3-2-2 「世界規模の大災害と、それにともなう核兵器施設・原子力発電所の崩壊によって、地球はおよそ千年前、放射性物質が蔓延する死の星になった」。(242-243頁)
G-3-2-3 健康に生まれなかった子どもたちは「放射児」と呼ばれ、やがて国家公認の「子殺し」が始まる。「キャンペーン化され、正当化され、制度化されたそれにより、子供たちは粛々と殺された。/ 見えないように殺された。/ 見えないところで殺された」。(243頁)
《書評1》原発の大災厄を経た未来で、連続する主婦殺し。妻を殺された夫達は復讐を誓い、犯人を追い、真相に近づくにつれ恐怖に直面する。犯人と、事件を黙認する国の目的が見え始めた頃、町はジェノサイドの地獄と化す。未来への希望の兆しはない。今という時代から未来を描くと、希望は示せないということ。3・11震災後ディストピア小説。
《書評2》ジェノサイドの理不尽感を含め、何ともいえない「後味の悪さ」が残る。
《書評3》「病気を持った子供」を授かったとしても、それはそれで嬉しいのだ。手が掛かっても、嬉しいのだ。
(69)-3 吉村萬壱『ポラード病』(2014):大災害から復興した町の異様な「ゆるやかな全体主義」のムード!
G-4 吉村萬壱(マンイチ)(1961-)『ポラード病』(2014、53歳)は「大災害から復興した町」の異様な「ゆるやかな全体主義」のムードを描く。(243頁)
G-4-2 語り手は小学5年生の少女。彼女が暮らす海塚市は「ゆるやかな全体主義」というべきムードに覆われている。ある日、同級生のアケミちゃんが死んだ。新学期を迎えてから死んだ児童はこれで7人。通夜の席でアケミちゃんの父親が挨拶する。「アケミはよく言っていました。/ 海塚の玉葱が一番おいしいね、お父さん、海塚の魚が一番安心だね、と」。そして「海塚!海塚!」のコール。(243頁)
G-4-2-2 海塚は「嘘で塗り固められた町」だった。「全ての抵抗を断念して、そして全てを諦めて、この町だけは何もなかったことにしよう」と町ぐるみで画策する。「狂気」じみた町。(243頁)
《書評1》気持ち悪い。終始気持ち悪かった。一見普通の生活を送る小学生の独白。何らかの厄災から復興しつつある街。郷土愛を胸に前へ進むべしと。どこまでもまとわりつく同調圧。「誰か」の決めた正義。
《書評2》現代社会をシニカルな目線で大げさに描きSF的に仕上げる手法。
《書評3》グロテスクな同調圧力。郷土の安全な食品を食べ、「結び合い」という合言葉で団結を図ろうとする海塚市民。現実から目を背けるための人為的な営み。「ボラード」とは岸に船を繋留するために設置された杭のこと。同調する「健常者」を繋留する「ボラード」。原発事故後の我々に対する痛烈な風刺。極めて日本的な村社会型ディストピア小説
(69)-4 『不死の島』、『ベッドサイド・マーダーケース』、『ポラード病』という「原発事故後の世界」を描くSF的な3冊の共通点:①「未来」の②「放射能に汚染された土地」の③「ファシズムに近い体制」と④「不自然な死」の横溢、すなわち「絶望的なディストピア」を描く!
G-5 多和田葉子『不死の島』、佐藤友哉『ベッドサイド・マーダーケース』、吉村萬壱『ポラード病』という「原発事故後の世界」を描くSF的な3冊は、よく似た構想のもとに創作されている。(243頁)
G-5-2 それらの共通点は①舞台が「未来」である。②最後の世界は「放射能に汚染された土地」である。③「ファシズム」に近い体制が出現している。④「不自然な死」が横溢している。(243頁)
G-5-2-2 要するにこれら3冊は「絶望的なディストピア」を描く。(243頁)
G-5-2-3 (a)秘匿される情報、(b)見えない放射性汚染への恐怖、(c)信用できない政治家、(d)「絆」を強調する全体主義的なムード。震災直後の日本を、これらの小説は確かに反映している。(244頁)
(69)-5 津島佑子『ヤマネコ・ドーム』(2013):「放射性物質に汚染された国(or東京)」は「いいかげん見捨てましょう」!
G-6 津島佑子(1947-2016)『ヤマネコ・ドーム』(2013、66歳)は「放射性物質に汚染された国」は「いいかげん見捨てましょう」と述べる。(244-245頁)
G-6-2 米兵と日本人女性の間に生まれ今は国外に住むミッチ(道夫)、混血孤児のカズ(和夫)、母子家庭で育ったヨン子(依子)は、子供時代を共に過ごすがすでに60歳代。(※3人は1950年頃生まれ。)10年前にカズ(※50歳代)が死んだ。今2011年、東日本大震災による津波と福島第1原発事故が起きる。(244頁)
G-6-2-2 ベトナム戦争(1965-1973)(※3人は小学生頃)から米国同時多発テロ(2001)(※50歳代)までの3人の苦い思い出。(244頁)
G-6-2-3 今、「3・11」後の東京は「放射能の煮こごりの世界」。「放射性物質に汚染された国」は「いいかげん見捨てましょう」と、外国に住むミッチが、ヨン子の年老いた母に迫る。(244-245頁)
《書評1》震災と原発事故を踏まえて書かれた作品だが、時系列も視点もあえて混乱させた多声的な文体で、日本の戦後史そのものを問う物語となっている。
《書評2》過去と現在が交差するシャーマニックでスピリチュアルな作風は著者の十八番だが、明確に「3.11」以降の日本社会に向けて書かれているのが今までとは違う。結局、「終末論」のような気がして、今ひとつぴんとこない。
《書評3》アメリカと日本が葬ってきた「不都合な歴史」の中を異邦人として生きなければならない少年少女達の時間を超えた旅。外界と記憶が区別されない世界で、「罪の意識」を中心に時間が行ったり来たりする。「罪を覆い隠そうとする巨大な力」が常に背後に見え隠れする。
G-6-3 「いいかげん見捨てましょう」は、自主避難者の勇気を肯定する希望の言葉だった。かくて木村朗子(サエコ)『震災後文学論』(2013)は「ディストピア小説群」を高く評価する。(245頁)
G-6-3-2 だが、ディストピア小説の盛況は異様といえば異様だ。(斎藤美奈子氏評。)
(69)-6 飯田一史:震災関連ディストピア小説には「覚悟を決めて自分たちで対処する」という当事者意識が欠如している!
G-7 『東日本大震災後文学論』(2017)の編者のひとり、ライターの飯田一史(イチシ)は、震災関連ディストピア小説の多さにふれ、「どうにもできなかった」人たちばかりしか描かないことを問題にする。(245頁)
G-7-2 飯田一史(1982-)は、前掲書所収の論文(2017、35歳)「希望――重松清と『シン・ゴジラ』」で、「何パターンものやり方で震災を描こうとしてきた重松清」と「政府がゴジラ(暴走する原発を思わせる)を倒すところまでを描いた映画『シン・ゴジラ』(庵野秀明総監督、2016)」を称揚する。(245頁)
G-7-2-2 飯田は、震災関連のディストピア小説の多さにふれ「『どうにもできなかった』人たちばかりを積極的に描く不可思議さ」を指摘する。(ア)それらは「責任を引き受ける、覚悟を決めて自分たちで対処するという当事者意識」の「欠如」を示す。(イ)「主体性」を削ぎ、「無力感」を助長する。(ウ)大事な「本質」を見ない、それに「取り組まない」で「周辺をぐるぐるまわる」ことですませる悪癖だ。(245頁)
G-7-2-2-3 さらに「震災後文学」は「受け身の精神や個人の内面」を描くのみならず、「状況全体を担う覚悟」を、いざというときには「責任を、意志をもって立ち向かう大人」をも示すべきだったと飯田は言う。(245頁)
G-7-2-2-4 要するに震災関連ディストピア小説は「『自分が置かれているのはひどい状況だ』『つらい、悲しい』という以上のことを描いていない」と飯田は言う。(245頁)
(69)-7 いとうせいこう『想像ラジオ』(2013):震災の死者の声がラジオを通じて代弁され、人々の気持ちを癒す!
G-8 いとうせいこう(1961-)『想像ラジオ』(2013、52歳)は、震災の「死者」の声をラジオを通じて代弁させるとした点で、人々の気持ちを癒し、好感をもって迎えられた。(246-247頁)
G-8-2 38歳のDJ アーク(芥川冬助)は東日本大震災の津波で亡くなった。彼は高い杉のてっぺんに仰向けにひっかかっていた。だが彼はその状態で(想像上の)ラジオ放送を続ける。彼が言うには「あなたの想像力が電波であり、マイクであり、スタジオであり、電波塔であり、つまり僕の声そのものなんです」。(246頁)
G-8-2-2 DJもリスナーも死者。しかしリクエストも来るし、電話中継も入るし、曲もかかる。(246頁)
G-8-2-3 想像上のラジオは現実からの逃避かも知れない。しかし「死者の声」がラジオを通じて代弁される点に、読者は希望を見た。(246頁)
《書評1》東日本大震災をモチーフにした作品。“魂魄この世にとどまりて”。突然の天災に死にきれない人たちが交流する想像ラジオ。高い杉の木の上からDJアークが声を届ける。軽妙な語り口も、残した妻子への想いは切ない。耳を澄ませば聞こえるあの人の声。
《書評2》東日本大震災後に被災地で、心霊体験を語る人が多く現れた記憶がある。それは失われた人にもう一度会いたい、話が聞きたいという痛切な思いの現れだったのだろう。魂の浄化の物語。震災の電気通わぬ夜に、人々を繋げたラジオの形を借りて、木のてっぺんにぶら下がったままの素人DJが、開かぬ口のまま語る。
《書評3》あの日の衝撃、その後の喪失感などを思い起こし、読んでいてつらかった。この小説を読んで少しでも救われる人がいるといいと思う。
G-8-3 「現実の厳しさを突きつけるディストピア小説」と、「人々の気持ちを癒す想像上のラジオ」との間に、当時の私たちは確かに立っていた。(246-247頁)