宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(104)-2 百田氏の誤り②:「国会」の戦犯赦免決議が5回あることに触れない!「国会」が「全会一致」であると述べるのは誤り!

2021-09-30 09:43:41 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「日本の復興」の章(385-455頁)  

(104)-2 百田氏の誤り②:戦犯赦免決議に関し、5回の国会決議のうち3回は「全会一致」でない!「国会」が常に「全会一致」であるかのように述べるのは誤りだ!(407-408頁) 
C-3  百田尚樹『日本国紀』は戦犯赦免運動に関し「1953年、『戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議案』を国会に提出し、8月3日、衆議院本会議において、日本社会党、日本共産党を含むほぼ全会一致で。戦犯の赦免が決議された」(百田407頁)と述べる。
C-3-2  実は戦犯の釈放・赦免に関する決議は1952年から1955年までの間、参議院本会議で1度、衆議院本会議で4度、計5度、行われている。
(1)1952/6/9衆院本会議決議:共産党議員が反対討論。
(2)1952/6/12参院本会議決議:共産党議員が反対討論。
(3)1952/12/9衆院本会議決議:共産党は議席なし。
(4)1953 /8/3衆院本会議決議(上述):国会決議は普通、法案審議のような投票でない。「記録」によれば、議長が「御異議ありませんか」と尋ね、「異議なし」と呼ぶ者があり、議長が「御異議なしと認めます。よって本案は委員長報告の通り可決いたします」となっている。これが「全会一致」と呼ばれる。なお国会内では、政党でなく2名以上の議員による「会派」を結成して活動する。この時、日本共産党は議員が1人で国会内の日本共産党としての会派はなく「小会派クラブ」(無所属・労農党・共産党からなる)だった。
(5)1955/7/19衆院本会議決議:共産党・労農党の議員が反対討論。
C-3-3 百田氏の誤り②:百田氏は戦犯の赦免に関する決議が「全会一致」であったと述べるが、百田氏は国会決議が5回あったことに触れず、しかも5回の国会決議のうち3回は「全会一致」でない。(他の1回はいつも「反対討論」する共産党議員の議席がない。)「国会」が「全会一致」であると百田氏が述べるのは誤りだ。

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アイリアノス『ギリシア奇談集』:「セミラミスがアッシリアの王位を奪った話」(玉座に坐ると、彼女は親衛隊に王の殺害を命じた)!「雪の日に裸体の男が寒がらなかった話」(全身が額)!

2021-09-29 21:33:44 | Weblog
※アイリアノス(200A.D.頃)『ギリシア奇談集』(第1~14巻)岩波文庫

第7巻(01)「セミラミスがアッシリアの王位を奪った話」:王が彼女を玉座に坐らせると、彼女は親衛隊に王の殺害を命じた!
世に稀な美女セミラミスが、その噂を聞いたアッシリアの王に召された。王は彼女にたちまち心を奪われた。セミラミスは、「王の衣装を賜りたい」、「5日間アジアを支配すること」、「万民が自分の命じたことを果たすこと」を王に願い、聴許を得た。王が彼女を玉座に坐らせ、セミラミスは今や自分が全権を掌握し何ごとも思い通りにできると分かると、親衛隊に王の殺害を命じた。こうしてセミラミスはアッシリアの王権を手中にした。
《参考》セミラミスは、ほとんどまったく伝説的な女性。その背後にある歴史的人物としては、前9世紀にアッシリア王シャムシ・アダド5世(在位前824-前811)の王妃および摂政として権力を振るったサンムラマットであろうとされる。(アッシリアは前728年バビロン征服、前722年北イスラエル王国を滅亡させる。前709年バビロン再征服。前671年エジプトを征服し、全オリエントを統一。前612年滅亡。)
《感想》恐るべき怜悧・利口・野心的な女性だ。

第7巻(06)「雪の日に裸体の男が寒がらなかった話」:私は全身が額です!
雪の降る日に、スキュティアの王が、裸で頑張っている男に「寒くないか」と尋ねた。男は「王様は額がお寒くありませんか」と訊き返した。王が「寒くない」と答えると、男は「それなら私も寒くありません。私は全身が額です」と言った。
《参考》スキュティアは黒海北部一帯の地域。ギリシアではしばしば酷寒の地の代表とされる。
《感想》昔50年位前、上野駅に冬でも裸の男の人が居て、「全身これ顔!」と言っていた。

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浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(104) 百田氏の誤り:①「前後が逆」で日弁連の「意見書」がきっかけで戦犯釈放運動は全国運動に発展した!①-2 署名「4千万人」は誤り!

2021-09-29 12:03:55 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「日本の復興」の章(385-455頁)  

(104) 百田氏の誤り:①「前後が逆」で日弁連の「意見書」がきっかけで、戦犯釈放運動は全国運動に発展した!①-2 署名数「4千万人」は根拠がなく誤りだ!(406-407頁) 
C  百田尚樹『日本国紀』は「[1952年]独立後、極東国際軍事裁判(東京裁判)によって『戦犯』とされていた人たちの早期釈放を求める世論が沸騰し、国民運動が起こった。日本弁護士連合会(日弁連)が『戦犯の赦免勧告に関する意見書』を政府に提出してこの運動を後押しした・・・・」(百田451頁)と述べる。
C-2 百田氏の誤り①:百田氏の記述は、「前後が逆」で誤りだ。1952/6/7に日弁連が「戦犯の赦免勧告に関する意見書」を政府に提出したことがきっかけで、戦犯釈放運動は全国運動に発展した。(406-407頁) 
C-2-2  百田氏の誤り①-2:戦犯釈放運動に関し、百田氏は「のべ4千万人にのぼる署名が集まった」(百田451頁)と述べるが、この数字を確認できる史料は存在しない。この数字を事実として述べるのは誤りだ。ただし「大きな盛り上がりを見せたことで、1千万人ほどの署名が集まったのではないか、と考えられている。」(407頁) 

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浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(103)-4 百田氏の誤り⑤:「講和条約を阻止せよ」と「コミンテルン」の「指令」があったとの百田氏の主張は根拠がない!

2021-09-27 15:20:00 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「日本の復興」の章(385-455頁)  

(103)-5 百田氏の誤り⑤:「講和条約を阻止せよ」と「コミンテルン」の「指令」があったとの百田氏の主張は根拠がない!(405-406頁) 
B-6  百田尚樹『日本国紀』は「そこでスターリンは日本のコミンテルン[※1943 年すでに解散しているとの指摘を受け第5刷以降は『旧コミンテルン一派』]に『講和条約を阻止せよ』という指令を下したといわれている」(百田450頁)と述べる。
B-6-2 百田氏の誤り⑤:「コミンテルン」or「旧コミンテルン一派」の「指令」があったとの百田氏の主張には「まったく根拠がなく」誤りだ。(406頁)
B-6-3 そもそもアメリカとソ連には、すでに「日本」と「東ヨーロッパ」における優越権をそれぞれ認め合うbargain(取引・駆け引き)をしている。(406頁)
B-6-4 「ソ連のほうも折り込み済みであたった」ことに関して、百田氏は「日本の独立は、ソ連にとっては非常に都合の悪いものだった。独立した日本が西側の自由主義陣営に加わるのは明白だったからだ」(百田450頁)という見方を示すが、これは「裏の外交」をふまえていない。(406頁)
B-6-5 ソ連には、この段階では単独講和をしてくれた方が都合がよい側面もあった。ソ連は日米安保条約を非難しながら(ア)北方四島を実効支配したままでいられた。(イ)東アジアにおける中・朝への影響力を担保する外交カードを握れた。(406頁)

《参考》ヤルタ協定(1945年2月11日「ヤルタ」会議において署名;1946年2月11日米国国務省より発表)
三大国、すなわちソヴィエト連邦、アメリカ合衆国及びグレート・ブリテ ンの指導者は、ソヴィエト連邦が、ドイツが降伏し、かつ、欧州における戦争が終了した後2箇月又は3箇月で、次のことを条件として、連合国に味方して日本国に対する戦争に参加すべきことを協定した。
1 外蒙古(蒙古人民共和国)の現状が維持されること。
2 1904年の日本国の背信的攻撃により侵害されたロシアの旧権利が次のとおり回復されること。
(a) 樺太の南部及びこれに隣接するすべての諸島がソヴィエト連邦に返還されること。
(b) 大連港が国際化され、同港におけるソヴィエト連邦の優先的利益が擁護され、かつ、ソヴィエト社会主義共和国連邦の海軍基地としての旅順口の租借権が回復されること。
(c) 東支鉄道及び大連への出口を提供する南満洲鉄道が中ソ合同会社の設立により共同で運営されること。ただし、ソヴィエト連邦の優先的利益 が擁護されること及び中国が満洲における完全な主権を保持することが了解される。
3 千島列島がソヴィエト連邦に引き渡されること。
前記の外蒙古並びに港及び鉄道に関する協定は、蒋介石大元帥の同意を必要とするものとする。大統領は、この同意を得るため、スターリン大元帥の勧告に基づき措置を執るものとする。
三大国の首脳はこれらのソヴィエト連邦の要求が日本国が敗北した後に確実に満たされるべきことを合意した。
ソヴィエト連邦は、中国を日本国の覊絆から解放する目的をもって自国の軍隊により中国を援助するため、ソヴィエト社会主義共和国連邦と中国との間の友好同盟条約を中国政府と締結する用意があることを表明する。
1945年2月11日
J・スターリン、フランクリン・D・ルーズヴェルト、ウィンストン・S・チャーチル
〔備考〕本協定は1946年2月まで秘密にされていた。

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アイリアノス『ギリシア奇談集』:「ディオニュシオスの幸福とその末路」(与えた苦しみと受けた苦しみ)!「陰謀をしくまれたダレイオスのこと」(謀反人に寛容さを示した)!

2021-09-26 19:19:11 | Weblog
※アイリアノス(200A.D.頃)『ギリシア奇談集』(第1~14巻)岩波文庫

第6巻(12)「ディオニュシオスの幸福とその末路」:独裁者として人に与えた苦しみより、人から受けた苦しみの方が大きかった!
ディオニュシオス2世(前397-前343;シュラクサイの僭主;太宰治『走れメロス』の王)の支配は盤石だった。保有する軍船400隻、歩兵10万人、騎兵9千人、夥しい武器、貯蔵穀物、堅固な城壁でシュラクサイの町をディオニュシオス2世は支配していた。ところが彼は兄弟たちを殺したことに始まり、息子たちが惨殺されるのを見、娘たちが凌辱されたあげく裸のまま殺されるのを見ることになった。彼自身は最後は極貧のうちに日を送り生き恥をさらし続けた。プルタルコスは、「ディオニュシオスは独裁者として人に与えた苦しみより、人から受けた苦しみの方が大きかった」と述べた。

《感想1》『平家物語』冒頭に言う。「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」
《感想2》だがこれは一面であって、権力の絶頂のままor成功したまま、死ぬ者も多い。Ex. 秦の始皇帝、藤原道長、徳川家康。Cf. 日本の多くの「上級国民」も「上級」のまま死ぬことができる。
《感想3》なお「たけき者も遂にはほろびぬ」という事実と、「死の不可避性」と言う運命は、別物だ。権力の絶頂にあっても、成功の幸運のうちにあっても、「死」は不可避だ。
《感想3-2》なお「メメントモリ」(死を忘れるな)は、「諸行無常」の意味でなく、本来は「生きている今を大いに楽しめ」の意味だ。

第6巻(14)「陰謀をしくまれたダレイオスのこと」:謀反人に寛容さを示した!
ダレイオス1世(前550?-前486)は、謀反人たちに陰謀を企まれ、決行は狩の時とされた。ダレイオスは事前にこれを知ったが少しも騒がず、謀反人たちに武器を執らせ馬にのせたうえ、「手槍を突き出してみよ」と命じ、きっと睨みつけながら「どうして初めの計画通りにしないのだ」と言った。謀反人たちは、ダレイオスの不敵な眼差しに射すくめられ槍を取り落とし、平伏して「存分に御成敗ください」と言った。しかしダレイオスは寛容さを示し、彼らを別々に分け、ある者はインドの国境、ある者はスキュティアの国境に送り出した。この者たちはダレイオスの恩恵を肝に銘じ、以後は変わらぬ忠誠を守った。

《参考》アケメネス朝ペルシャ(前550-前330)は、ダレイオス1世(在位前 522~前486)の時、オリエントを統一し、東はインダス川,西はエーゲ海・エジプトに至る大帝国を現出した。サトラップ(州総督)制度を確立,“王の目,王の耳”による監察を行い、駅伝制を設けて交通制度を整え、古代オリエント的中央集権国家を完成した。Cf. アレクサンドロス大王と戦い、前330年滅亡した。(ブリタニカ国際大百科事典)

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浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(103)-3 百田氏の誤り④:「単独講和」反対論者=「全面講和」論者を「牽強付会」と呼べない!また「曲学阿世の徒」と呼べない!

2021-09-26 12:20:12 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「日本の復興」の章(385-455頁)  

(103)-4 百田氏の誤り④:「単独講和」に反対する論を、「牽強付会」と呼ぶのは《立場の違いを一切認めない》点でor《言論の自由を全く理解しない》点で誤りだ!(405頁) 
B-5 百田尚樹『日本国紀』は言う。「時の首相、吉田茂は、[1950年]東京大学総長の南原繁(ナンバラシゲル)の名を挙げ、彼を含めて牽強付会の論を振りかざして[単独]講和に反対する学者たちを『曲学阿世の徒』と呼んだ。『世に阿(オモネ)るインチキ学者』という意味の言葉である。」(百田451頁)
B-5-2 百田氏の誤り④:百田氏は単独講和に反対する論を、「牽強付会」(自分の都合のいいように、強引に理屈をこじつけること)と呼ぶが、これは《立場の違いを一切認めない》点でor《言論の自由を全く理解しない》点で誤りだ。(405頁)
B-5-2-2 当時(1950年頃)の国際情勢から、また当時の日本の人々の思いから考えると、「全面講和」が「牽強付会」、すなわち自分の都合のいいように理屈をこじつけていたとは言えない。(405頁)

(103)-4-2 「全面講和」論者を「曲学阿世の徒」と呼べない:(ア)「学問上の真理」が「全面講和」論だとすれば、「曲学」でない、(イ) 「阿世の徒」(世間に媚びへつらう者)というが、国民主権の時代、国民=世間の意見を考慮するのは当然だ!(405頁)
B-5-3 「曲学阿世の徒」とは「学問上の真理に背いて世間に媚びへつらう者」という意味だ。しかし(ア)「学問上の真理」が「全面講和」論だとすれば、「曲学」と決めつけることは出来ない。「単独講和」も「全面講和」もどちらも「理」があるのだ。(405頁)
B-5-3-2 実際、ヨーロッパのオーストリアは、冷戦のまっただ中で非同盟・中立を実現したので、「全面講和」や「非同盟・中立」は当時、絵空事でなかった。(405頁)
B-5-4  「阿世の徒」(世間に媚びへつらう者)というが、国民主権の時代、国民=世間の意見を考慮するのは当然だ。問題は「学問上の真理に背く」ことだが「全面講和」論者は、自らが《状況判断と行為の選択》に関して「真理」と思っている。だから「曲学阿世の徒」でない。(405頁)

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アイリアノス『ギリシア奇談集』:「ペリクレスの定めた市民法」(因果はめぐる皿の縁)!

2021-09-25 22:14:57 | Weblog
※アイリアノス(200A.D.頃)『ギリシア奇談集』(第1~14巻)岩波文庫

第6巻(10)「ペリクレスの定めた市民法」:因果はめぐる皿の縁(フチ)!
ペリクレス(前495?-前429)が将軍職にあった時、両親ともに市民でなければ、生まれた子は市民権に与(アズカ)れないとする法律を制定した。(※人口が少なく経済規模が小さい古代都市国家=ポリスでは、有権市民数のコントロールが切実な問題だった。)ところがこんな法律を定めたばかりに神罰が下った。2人の嫡出の息子が国中を襲った疫病で死んでしまい、生き残ったのは「父親の作った法律のために市民権を持たぬ庶子たち」と当のペリクレスのみだった。
《感想》「因果はめぐる皿の縁(フチ)」だ。あるいは「身から出た錆び」(刀の錆は刀身から生じる、自業自得)!

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浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(103)-2 百田氏の誤り③:「全面講和」も「講和」を求めるから、「日本を独立させなくてもかまわないと考えてい」というのは誤りだ!

2021-09-25 11:05:22 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「日本の復興」の章(385-455頁)  

(103)-3 百田氏の誤り③:「全面講和」も、「単独講和」と同様に、「講和」を求めるのだから、「日本を独立させなくてもかまわないと考えていた」というのは誤りだ!(404頁) 
B-4 百田尚樹『日本国紀』は「朝日新聞をはじめとする当時のマスメディアも『単独講和』が良くないことであるかのような報道を繰り返した。当時のメディアと知識人は自らのイデオロギーと既得権保持のためなら、日本を独立させなくてもかまわないと考えていたのだ」(百田451頁)と述べる。
B-4-2  「全面講和」も、「単独講和」と同様に、「講和」を求めるのだから、「日本を独立させなくてもかまわないと考えていた」というのは誤りだ。(404頁)
B-4-3  また全面講和」を主張したのは、「イデオロギーと既得権保持」のためというよりも、当時「多くの人々が全面講和を望んだ」からだ。実際、「東西両陣営のどちらかと講和を結ぶことは、もう片方との戦争の可能性が現実としてあった。」Ex. 朝鮮戦争(1950-53)。(404頁)
B-4-4  ただし「全面講和は原則論で、これに対し単独講和は情勢の変化に合わせた現実論だった。」(404頁)
B-4-4-2  現実論に立つ政府(吉田茂内閣)は、「もしソ連が攻めてきた場合に、アメリカに代わりに戦ってもらう、という安全保障条約をセットにした」上で、「単独講和」を推進した。(404頁)

B-4-5 なお百田氏は、「全面講和」派は「主権もなく、したがって外交の権限もなく、外国(アメリカ)の軍隊が国土と国民を支配している状況を良しとしていた」(百田451頁)と述べるが、既述のように、「全面講和」も、「単独講和」と同様に、「講和」を求めるのだから、「良しとしていた」というのは誤りだ。(404頁)
B-4-5-2 「単独講和」派について言えば、1952年の日本の独立(占領終了)後、「主権はある、外交の権限はある、しかし外国(アメリカ)の軍隊が国土に駐留している状況」を「良し」としていると言える。(404頁)

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アイリアノス『ギリシア奇談集』:「勝者の怒り、無慈悲、傲り、非道、無法」(妻と娘たちを娼家に出させた)!「リュサンドロスの娘の婚約者」(金の切れ目が縁の切れ目)!

2021-09-24 15:13:39 | Weblog
※アイリアノス(200A.D.頃)『ギリシア奇談集』(第1~14巻)岩波文庫

第6巻(01)「勝者の怒り、無慈悲、傲り、非道、無法」:シキュオン人はペレネを占領すると、ペレネ人の妻と娘たちを娼家に出させた!
◎「勝者の怒り」:アテナイ人はカルキス人を制圧すると「馬持ちの領地」(富裕者の領地)を2000の割り当て地に分割し入植させ、残りの地域は賃貸しした。捕虜には足枷をかけた。(《感想》要するにカルキス人の都市国家は細かく分割され消滅したのだ!)
◎勝者の「無慈悲」:スパルタ人はメッセニア人を制圧すると、メッセニア領内の前産物の半分を取り上げ、男子は一部を耕作のため残したが、ある者は奴隷に売り、ある者は殺してしまった。
《感想》古代ギリシアは、一面で文化の模範だが、他面で野蛮そのものだ。
◎アテナイ人の「傲(オゴ)り」:「在留外人」に対する驕慢の罪。お練りの神事の時に、「在留外人」の乙女たちまた妻たちに、自分たちアテナイ人の娘また妻たちのための日傘持ちを強制し、また「在留外人」の男たちに聖盤捧持を強いた。
《参考》「在留外人」(メトイコイ)とはギリシア人で、他のポリスの出身者のこと。自由民だが、市民権がなく民会への参加などできない。ポリス内での土地所有が認められなかったので、商業・手工業・日雇労働や芸術学問に従事した。(Ex. 哲学者アリストテレスも、アテネにおいてはメトイコイであり、市民権がなかった。) 
◎シキュオン人の「非道」:シキュオン人はペレネを占領すると、ペレネ人の妻と娘たちを娼家に出させた。
《感想》シキュオンもペレネもともにギリシア人の都市国家(ポリス)だ。アイリアノスが言う。「ああ、ギリシアの神々よ、これは何という非道なことであろうか。筆者の記憶する限りでは、夷狄(イテキ)の中でさえこのような行為は褒められることではない。」
◎カイロネイアの戦い(前338年)に勝利したピリッポス2世の「無法」:アテネとテーべの連合軍に勝利したマケドニアのピリッポス2世に、ギリシア人は怖気づき、多くのポリスが自ら進んで彼に身柄を委ねた。ところがピリッポス2世は彼らとの協定を守らず、すべてのポリスを隷属させた。
《感想》ギリシア諸ポリスは,この敗戦で自治・独立を失った。

第6巻(04)「リュサンドロスの娘の婚約者」:スパルタ人、いやギリシア人の風上にも置けぬ!
スパルタの将軍だったリュサンドロス(没前395)が死んだ時、その娘と婚約していた男が、「娘を嫁にするのは嫌だ」と言い出した。理由は(a)娘が孤児になってしまった、また(b) リュサンドロスに財産がないと死後、明らかになったからだった。スパルタの監督官たち(エポロス)はその男を罰した。「親しい人が死んだとたんに忘れてしまう」、また「約束(婚約)より財産を優先する」ような料簡は、スパルタ人、いやギリシア人の風上にも置けぬというのだ。
《感想》もっと長い時間が経てば「去る者は日々に疎(ウト)し」と言われる。また実際には多くの場合、「金の切れ目が縁の切れ目」だ。

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浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(103) 百田氏の誤り:①早期講和の最大の理由は「アメリカ、ソ連の冷戦の深化」だ!②「全面講和」と「単独講和」は国の多寡でない!

2021-09-24 11:57:18 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「日本の復興」の章(385-455頁)  

(103)百田氏の誤り①:早期講和の最大の理由は「アメリカ、ソ連の冷戦の深化」だ! (402-403頁) 
B  百田尚樹『日本国紀』は「日本の急速な復興を見たアメリカは、日本の独立を早めて、自由主義陣営に引き入れようと考えた。実はこの時[朝鮮戦争]まで、日本の独立はいつになるかわからなかったのだ」(百田450頁)と述べる。
B-2 百田氏の誤り①:早期講和の理由として「日本の急速な復興」を示すのは、当時の世界情勢を踏まえていず一面的で誤りだ。早期講和の最大の理由は「アメリカ、ソ連の冷戦の深化」だ。特に朝鮮戦争(1950-53)でアメリカとソ連の対立は決定的となった。(402-403頁)

(103)-2 百田氏の誤り②:「全面講和」と「単独講和」の違いは国の数の多寡ではない!(403頁)
B-3 百田氏は「日本と戦ったアメリカやイギリスやフランスなど世界の48ヵ国という圧倒的多数との講和を、『単独講和』と言い換えるのは悪質なイメージ操作である」(百田450-451頁)と述べる。
B-3-2 だが連合国全体と結ぶのが「全面講和」であり、連合国側が3分裂(「英・米」・「ソ」・「中」に分裂)している状況でのいずれかの陣営(「英・米」の資本主義陣営or「中」「ソ」の社会主義陣営)とのみの講和は「単独講和」だ。「全面講和」と「単独講和」の違いは国の数の多寡ではない。(403頁)
B-3-3 百田氏は「全面講和」と「単独講和」の違いは、講和する国の数(多寡)の違いだとする点で誤りだ。(403頁)

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