宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

『伊勢物語』(Cf. 在原業平825-880)「第29段 花の賀」:男(在原業平)は20代初め頃から、女(二条の后高子)が四十の賀を迎えた今も慕い続けている!

2021-12-31 18:10:00 | Weblog
むかし、春宮(トウグウ)の母である女御(ニョウゴ)のもとでの花の賀に、召し加えられた時に男が詠んだ歌。

「花にあかぬ嘆きはいつもせしかども今日(ケフ)の今宵(コヨヒ)に似る時はなし」
花に心を残す嘆きは、いつもしていました。しかしそれらの嘆きも、今宵、あなたの姿を見て後、また去らねばならない嘆きにまさることはありません。

《感想1》春宮の母である女御は、二条の后(キサキ)高子(コウシ)で、清和天皇の女御だ。すでに春宮(皇太子)を産んでいる。皇太子は後に陽成天皇となる。
《感想2》「花の賀」は40歳以後、十年ごとに四十の賀、五十の賀と行われる。二条の后(キサキ)藤原高子は今、40歳だ。
《感想3》男(在原業平)はかつて20代初め頃、二条の后(キサキ)藤原高子に恋をした。男は歌を送る。「あなたが私を愛するなら一緒に暮らしたい。私は貧しく、私の家はみすぼらしい。でも敷物代わりに、袖を敷けば、私たち二人、共寝することができる。」一途な恋だ。高子は、当時はまだ雲上にあがらぬ普通の人だった。(「第3段 ひじき藻」)
《感想4》「二条の后」高子に男が忍んで通ってくると世評がたったので、女の兄たち(藤原基経)が毎夜、番人を置いて守り固めた。男(業平)は女に会えなくなった。(「第26段 もろこし船」)
《感想5》女(二条の后)をなかなか得ることができなかったので、男は女を盗み出した。芥河のほとりを男は女を背負って逃げた。雷鳴と雨が激しくなってきて、男は開け放しの倉を見つけ、その奥に女を入れ隠した。しかし女は「あれっ」と叫んで、鬼に食われてしまった。夜明けになって、男は女がいないのに気づき、悔しくて泣いた。藤原高子は、当時、将来の后妃候補であり入内する前提だった。兄の藤原基経が、妹を男から取り返した。(「第5段 関守」)
《感想6》春宮(トウグウ)の母である女御(ニョウゴ)の花の賀の時、高子はすでに40歳、男はそれより少し年長だ。すでに20年が経っているのに、男は今も女(高子)を愛している。
《感想7》なお在原業平は、平城天皇の孫にあたる。藤原高子が清和天皇の女御になっていても、身分上の心理的障害はない。「男」と「女」の恋愛が普通に成立する。

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オウィディウス(前43-後18)『変身物語』(上)「巻2」(22)「アグラウロスと『嫉妬』」:神ミネルヴァは「嫉妬」に命じ姉アグラウロスを破滅させた!神メルクリウスは彼女を黒い石に変えた!

2021-12-30 14:43:32 | Weblog
(1)戦神ミネルヴァは怒って、鋭いまなざしをアグラウロスに向けた!(88頁)
戦神(イクサガミ)ミネルヴァ(アテナ)は、怒り鋭いまなざしをアグラウロスに向けた。胸底から激しい溜息をついたので胸も、たくましい胸につけた神盾(アイギス)もともに震え動いた。アグラウロスは(a)母親なしで生まれたエリクトニオスをのぞき見し、約束を破った女であり、(b)今は神メルクリウス(ヘルメス)に対し「恋の仲立ちをする」と言って大量の黄金を要求し、大金持ちになろうとしている。

(2)ミネルヴァは「嫉妬」に命じ、妹ヘルセの幸せな結婚への嫉妬心によって、姉アグラウロスを破滅させようとする!(88-89頁)
女神ミネルヴァはただちに「嫉妬」のもとに急行した。美しい神メルクリウスと妹ヘルセの幸せな結婚への嫉妬心で、姉アグラウロスを破滅させようと、神は考えた。「嫉妬」の家はどす黒い血膿で汚れ、陰鬱な寒気に包まれた暗い谷底にあった。ミネルヴァが着くと「嫉妬」がのろのろと戸口にやって来た。「嫉妬」はどこを見るにも横目遣いで、歯は歯垢で鉛色、胸は青黒く、舌は毒で濡れ、痩せさらばえていた。ミネルヴァが「嫉妬」に言った。「お前の病毒をケクロプスの娘たちのひとり、アグラウロスにうつしてほしい。」

(3)「嫉妬」は女神の命令を実行した!(89-90頁)
「嫉妬」は、ミネルヴァの企てが成就することを悲しんだが、黒い雲に身を包んで出かけ、ケクロプスの娘の部屋を訪れた。「嫉妬」は女神の命令を実行した。さび色の手でアグラウロスの胸にさわり、心臓いっぱいにとげとげの茨を植え付けた。有害な病を吹き込み、骨という骨と肺の真ん中に真っ黒な毒を振りまいた。

(4)アグラウロスは、門口(カドグチ)にすわり、妹ヘルセのもとにやってきた神メルクリウスに「わたしはここを動きません」と言った!(90-91頁)
嫉妬心を植え付けられたアグラウロスは、妹ヘルセの幸せへの嫉妬で、ひそかな苦しみに悶え、昼夜となく悩み続けて、うめき声をあげた。アグラウロスは、緩慢な病毒によってやせ細って行く。ねたむ思いに身を焼かれる。ついにアグラウロスは、門口(カドグチ)にすわって、妹ヘルセのもとにやってきた神メルクリウスを閉めだそうとした。そして姉アグラウロスが「あなたを追い払うまでは、わたしはここを動きません」と言った。   

(5)神メルクリウスによりアグラウロスは黒い石となった!(91頁)
神メルクリウスは即座に「その申し合わせを守ることにしよう」と答えた。アグラウロスが座るために曲げた脚が、けだるい重さで今や動かない。冷気がつま先まで行きわたる。冷え冷えした死が胸に忍び入り、呼吸をつまらせた。アグラウロスはすでに首まで石になり、ついに顔も固くなった。この石の彫像は白くなかった。彼女の嫉妬心のように黒く染まっていた。


★カレル・デュジャルダン「『嫉妬』に命じたアテーナー」(1652年)、ウィーン美術アカデミー蔵

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ブノワ・ヴェルドン『こころの熟成』第6章「臨床と治療の実践」&結論「未踏と到達のはざまで」:老いた者は「自分の人生の最終目的地」を「人生全体の軌跡」の上に位置づけることを求める!

2021-12-29 19:24:51 | Weblog
※ブノワ・ヴェルドン『こころの熟成――老いの精神分析』(2013年)文庫クセジュ

第6章 臨床と治療の実践
(18)高齢者の(精神分析的)心理療法は、「過去を変える」のでなく、「主体と過去の関係を変える」!(146-155頁)
T 高齢者の(精神分析的)心理療法において、「治療で目指すのはまさに、かつて多かれ少なかれ体よく代償され、静かに奥深く埋められ、そして、年老いてから事後的に活性化したものを、心的場面において意味あるものにする」。かくて抑うつ不安やナルシス的苦痛を解決する。(147頁)
T-2 心理療法は、「過去を変える」のでなく、「主体と過去の関係を変える」。(147頁)
《参考》「代償」とは、欲求の対象を本来のものとは別のものに置き換えて、充足すること。(Ex. 親に憎しみをもち攻撃の欲望をもつ子が、子イヌを残酷に扱う場合。)
T-3 「老いた者」の要望は「《内的かつ個人史的な自分史》の全体にまなざしを向け、《自分の人生の最終目的地》を《人生全体の軌跡》の上に位置づける」ことだ。(148頁)
T-4 「ケアする者」の援助が「患者」にとって正当になるのは、「患者の内にある『こんな不慣れな身体、衰えた能力と共に生きられない、生きたくないかもしれない』という気持ちを隠蔽するようなことは決してない」と認められる場合だ。(154頁)

《感想18》「老いた者」は「《内的かつ個人史的な自分史》の全体にまなざしを向け、《自分の人生の最終目的地》を《人生全体の軌跡》の上に位置づける」ことを求める。「老いた者」は普通、「こんな不慣れな身体、衰えた能力と共に生きられない、生きたくないかもしれない」という不安のもとにある。

結論:未踏と到達のはざまで:「くたびれた身体、放棄されたが忘れえぬ計画、挫折した諸々の欲望」という「未踏」!
(19)夢見た人生ではなかったかもしれないが、少なくともいくばくかの夢があった人生なのだ!(156-159頁)
U 老い行く人たちは、「衰退して退縮する」ことに抵抗する。「自分のなかに少しずつ広がっていくこの他者」は自分自身だ。「くたびれた身体、放棄されたが忘れえぬ計画、挫折した諸々の欲望」という「未踏」!(156頁)
U-2  この「未踏」を「心的生活」(心的時間性)において「自由に扱える可能性」に開かれたものとして捉える。(157頁)(※「老い行く者」も「心理療法の臨床家」の双方にとって!)
U-3 それは「未踏」を、「無に委ねさせる沈黙」でないし、「見捨て遺棄する」ことでないし、「否認」するものでもない。それは「未踏」を「受け入れ」ることであり、「慈しみ深い、いろいろな理想によってよって容認される、ある種の断念」のうちで捉えることだ。(158頁)
U-4  「誰もが、自らの人生を最後まで全うするためには、自らの未踏を不十分なものとみなすことはできない。それは夢見た人生ではなかったかもしれないが、少なくともいくばくかの夢があった人生なのだ。」(159頁)

《感想19》「くたびれた身体、放棄されたが忘れえぬ計画、挫折した諸々の欲望」という「未踏」は、「心的生活」(心的時間性)において、「容認」され「受け入れ」られねばならない!

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ブノワ・ヴェルドン『こころの熟成』第5章「老いにおける脳とこころ」:心的因果性(心的装置)と器質的因果性!「認知症」ではエクムネジーも起きる!アイデンティティの障害!

2021-12-28 21:47:14 | Weblog
※ブノワ・ヴェルドン『こころの熟成――老いの精神分析』(2013年)文庫クセジュ

第5章 老いにおける脳とこころ:心的因果性(心的装置)と器質的因果性(脳の病理解剖学的次元)を対立させず多因的に原因を捉える!
(17)「認知症」という概念! (128-129頁)
Q 「認知症」という概念:この言葉は「軽蔑的かつ侮蔑的な側面でひどく汚されている。」(128頁)
Q-2 「病気[認知症]の人は、しばしば自分に何が生じているのかをよく理解している。」(128頁)
Q-3 「近親者たち」は「老いた親」に見られる「ひきこもり」すなわち「言語的交流や習慣的な活動からの脱備給」(※心的エネルギーを注がないこと)に注意を払うべきだ。「認知症」の兆候だ。(129頁)

《感想17》「老いた親」が「言語的交流や習慣的な活動」をしなくなったら、「認知症」の兆候だ!

(17)-2 こころの機能の解体!「認知症」では過去の記憶を現在のことのように再生すること(エクムネジー)も起きる!(130-141頁)
R 認知症における「こころの機能」の解体:「思考・言語・記憶」の障害!(130頁)
R-2 「《途切れることなく存在してきた感覚》[アイデンティティ]や、《主体に固有の現実》と《外的現実》がはっきりと区別されたなかでの《自己および他者への安定した備給関係》は、《思考》が展開されるうえで貴重な受け皿である。」(130頁)
R-3  認知症のD婦人の例:D婦人は「[すでに死んだ]母親が次回訪ねて来て、おやつを持ってきてくれるのが楽しみなのだ」と語る。また「自分はまだ12歳なのよ」と語る。(133頁)
R-4  認知症のT婦人の例:T婦人はいつも廊下に立って「喉がかわいた、喉がかわいた」と言っている。介護者がコップの水を出すが、それを受け取らない。T婦人は「介護者の行動」と「自分が発する言葉」を結び付けることができない。T婦人の懇願の「言葉」は彼女の「幼少期の大切な経験」とおそらくつながっている。介護者がこの「言葉」について知る意味と異なる。T婦人の場合、「心的装置のまとまり」が失われている。(134-135頁)
R-4-2 患者本人(T婦人)には過去のある「心的内容物」[喉がかわいた]が過去のものとみなされていない。(エクムネジーecmnesia=新規健忘:現在のことを忘却し、過去の記憶をあたかも現在のことのように再生すること。)(135頁)

《感想17-2》「認知症」においては「こころの機能」の解体が起きる。(ア)自分が《途切れることなく存在してきた感覚》の消失。(Ex. 「自分はまだ12歳なのよ」。)(イ)《主体に固有の現実》と《外的現実》がはっきりと区別されない。(Ex. 「[すでに死んだ]母親が次回訪ねて来て、おやつを持ってきてくれる」。)(ウ)「言葉」に自分固有の意味を与え、介護者がその「言葉」にどんな意味を与えるか顧慮できない、等々。

(17)-2-2 認知症における「アイデンティティの障害」!(136-141頁)
R-5 アイデンティティ(自己意識)は、一方で「認知プロセス」(自分を認識して、自分の名前を言え、自分がいる時間と場所がわかる能力等)に裏付けられているだけでなく、他方で「ナルシス的かつ無意識的基盤」に関わっている。(136-137頁)
R-5-2 「老化」において「ナルシシズムの大々的な脆弱化」が起こる。「自身の死を考え、失墜という刻印を無理矢理押される老い」の「耐えがたさ」は「病的なメランコリー性の脱備給」(心的エネルギーが動員できないこと)を引き起こしかねない。かくて「アイデンティティに関しても無関心となる。」(137頁)
R-5-3  「物忘れがひどいと、自分に自信が持てなくなる」。Ex. 水道やガスを使用するとき、車を運転する時の危険。Ex. 身なりも整えず、来た道も思い出せない外出などの危険!(138頁)
R-5-4  「認知症」の様々の例:(a)記憶や見当識の障害のせいで妄想様の不安が生じ、他者により略奪・侵略されたと思う。(b)脆弱で依存的なのに、絶えず拒絶的で反抗的だ。(c)個人的意思をあたかもすべて放棄して、病気の当初から、子供や配偶者に全面的に身をゆだねる。(d)「委ねられた相手」が「慰めの源」として備給されることもあるが、(d)-2 「道具のような扱われ方」をされることもある。(d)-3「よそ者」として備給されたり、(g)「あらゆる状況を解決してくれる自己の延長」のように備給されることもある。(138頁)
《参考》「見当識」とは、時、場所、人物などから、自身が現在置かれている状況を理解する能力のこと。「ここはどこか」「いつなのか」「なぜここにいるのか」「目の前の人は誰か」など。認知症になると、時(年月日→季節)→場所→人(自分→他人)の順に障害される。

R-6 「認知症」は「神経解剖学的な因果性」だけに帰されるべきでない。「心的因果性」も同時に、常に作動している。(139頁)
R-6-2 「認知症」の患者においても「心的生活は存続しており、たとえ依存性が強くなり、見当識が失われ・・・・たとしても、欲望、愛や憎しみ、見捨てられる不安や全能感の自惚れなどが・・・・存続する。」(139頁)
《参考》「全能感」は幼児的万能感という幻想だ。泣いていたら、大人が駆け寄ってきて助けてくれ、願いも大人が聞きとどけてくれる。自分が大人or他者を支配し、自由に動かせる力を持っていると思う。得難く強い者には媚びへつらい、すでに掌中に置いた相手は見下し利用するという対人関係を作る。

R-7 「心理療法」は、「主体のアイデンティ感覚」を支えることを目論む。「患者が最期まで『私』と言える可能性を残す」ことをめざす。(140-141頁)

《感想17-2-2》「認知症」の患者においても「心的生活」は存続している。「欲望」、「愛や憎しみ」、「見捨てられる不安」、「全能感の自惚れ」など。「煩悩」は深い。

(17)-3 「身近な介護者」:夫婦や親子による介護!虐待が起きるのは珍しいことではない!(142-145頁)
S 夫婦や親子による介護には、意識的or無意識的水準において、「情緒的なアンビヴァレンス(愛と憎しみ)や理想、償いの欲求、さらに自己犠牲などが大いに関与している。」(142-143頁)
S-2 「施設であれ家庭であれ、虐待が起きるのは珍しいことではない。・・・・脆弱な人たちは、身体的にも精神的にも傷ついていて、特に自分が誰を相手にしているのか、何を求められているのかを理解していないと、ときに反抗的となる。」(144頁)
S-3 フロイトは「愛および献身」を問題視する。彼は「暴力」が「人間の本性」に由来するという。「人間は・・・・温和な生き物などでない。生まれ持った欲動の相当部分が攻撃傾向だ・・・・。隣人を見ると人は・・・・その労働力を搾取し、同意も得ぬまま性的に利用し、所有物を奪い取り、侮辱し、苦痛を与え、虐待し、殺したくなる。」(144頁)

《感想17-3》介護者の「愛および献身」の道は険しい。人間の「生まれ持った欲動」の相当部分が「攻撃傾向」(攻撃性)だ。また「脆弱な人たち」は、身体的にも精神的にも傷ついていて、しばしば「反抗的」となる。

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ブノワ・ヴェルドン『こころの熟成』第4章「性的なものとその運命」(その2):「ナルシシズムの問題」は老いの精神病理における中心だ!老いにおける「母親のホールディング」への回帰幻想!

2021-12-27 21:10:40 | Weblog
※ブノワ・ヴェルドン『こころの熟成――老いの精神分析』(2013年)文庫クセジュ

第4章 性的なものとその運命(続)
(15)「ナルシシズム」の運命:ナルシシズムとは「自らを愛すこと」だ!「老い」においては、「依存」と「死」の危険に対抗しなければならない!(113-118頁)
O 「ナルシシズムの問題は・・・・老いの精神病理における中心的な問題だ。」(113頁)
O-2 「老化の変転を通じてアイデンティを維持するには、自己肯定感によって特徴づけられる良質のナルシス的備給が必要である。」(※「備給」cathexis:心的エネルギーが観念・記憶・思考・行動に流れ込むこと。)(114頁)
O-3 「ナルシシズム」とは「自らを愛すことだ」。「老い」においては、「依存」と「死」の危険に対抗しなければならない。Ex.「全能で自給自足できる」との主張を対抗備給する。Ex.「永遠のなかにいるかのような幻影」を対抗備給する。(116-117頁)
O-4 ヴィクトル・ユゴーは「純真で詩的な」仕方のナルシス的依託を描く。「孫たちの喜びに満ちたまなざしは、心配事も吹き飛ばしてくれる。彼らは私たちの魂を生まれたばかりの頃に連れ戻してくれる。・・・・彼らを見ていると、自分自身も花咲いているのがわかる。そう、祖父になるというのは、はじまりに戻るということなのだ。」(『よいお祖父さんぶり』)(117-118頁)
《感想15》「ナルシシズム」とは、自信、自己肯定感、誇りを可能する「自己愛」or「自己陶酔」だ。
《感想15-2》ギリシアの美少年ナルキッソスは、水に映った自分に恋焦がれて死んだ。ナルキッソスの死骸はなく、そこに1本の水仙が咲いていた。

(16)母親の胸の内/ホールディングに回帰する幻想!(118-125頁)
P 老年期臨床では「母親の胎内への回帰幻想」という「退行」がみられる。(118頁)
P-2 だが正確には「子宮」内(胎内)ではなく、母親の「おんぶ、抱っこ、管理、世話、授乳」など「ホールディング」あるいは「胸の内」への回帰幻想だ。母親のホールディングへの回帰幻想!(121-122頁)
P-2-2 「備給の場所」となる母親機能のさまざまな表象は、「胎児」の場所でなく、「子ども」あるいは「乳幼児性」の場所だ。(122頁)
《感想16》「母親のホールディングへの回帰幻想」が可能となるためには、(ア)「母親」がいて、さらに(イ)「ホールディング」行為が提供されねばならない。この場合、重要なのは「ホールディング」行為であって、生物上の「母親」でなくてよい。(Ex. 祖母。)「ホールディング」行為をなす者こそが、「母親」と呼ばれる。
《感想16-2》「ホールディング」行為を提供しない生物上の母親は、「母親」でない。「児童虐待」をする母親の場合、その子どもに「母親のホールディングへの回帰幻想」は生じないかもしれない。

Cf. 厚生労働省は「児童虐待」を(a)「身体的虐待」、(b)「性的虐待」、(c)「ネグレクト」、(d)「心理的虐待」に4分類する。
(a)「身体的虐待」:殴る、蹴る、叩く、投げ落とす、激しく揺さぶる、やけどを負わせる、溺れさせる、首を絞める、縄などにより一室に拘束するなど。
(b)「性的虐待」:子どもへの性的行為、性的行為を見せる、性器を触る又は触らせる、ポルノグラフィの被写体にするなど。
(c)「ネグレクト」:家に閉じ込める、食事を与えない、ひどく不潔にする、自動車の中に放置する、重い病気になっても病院に連れて行かないなど。
(d)「心理的虐待」:言葉による脅し、無視、きょうだい間での差別的扱い、子どもの目の前で家族に対して暴力をふるう(ドメスティック・バイオレンス:DV)、きょうだいに虐待行為を行うなど。

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ブノワ・ヴェルドン『こころの熟成』第4章「性的なものとその運命」(その1):性愛的身体!老人の性的快楽追求への道徳的非難!老化とエディプス葛藤!享楽としての受動性!断念と屈服!

2021-12-26 22:14:55 | Weblog
※ブノワ・ヴェルドン『こころの熟成――老いの精神分析』(2013年)文庫クセジュ

第4章 性的なものとその運命
(12)器官的身体と性愛的身体:老いゆく男女の性的欲望は「全般的退化」というイメージよりも、はるかに豊かだ!(95-98頁)
L 「器官的身体」は人間が生物学的に脆弱(ゼイジャク)で、水と肉と血からできていて、そして「具象的で朽ち果ててゆく存在」であることを思い出させる。(96頁)
L-2 「性愛的身体」:だが「他者との関係」や「自身との関係」のなかに関わる「心的ダイナミックス」の水準で身体を考えることが重要だ。年を取ることは、「性関係を持てるかどうか」に大きな影響を与えるが、「欲望がおおきく減退する」ことは少ない。「こころのセクシュアリティ」が存在する。(96頁)
L-2-2 老いゆく男女の欲望の源泉や対象は、多元的であり、「全般的退化」というイメージよりもはるかに豊かだ。通俗的な表象は「老化」を(a)単純化によってか、(b)習慣によってか、(c)抵抗によってか、これら「退化」のイメージのなかに閉じ込める。(98頁)
《感想12》「器官的身体」が「老化」したからといって、老いゆく男女の性的欲望は「全般的退化」するわけでない。「こころのセクシュアリティ」が存在する。消え去ることはない。「性愛的身体」は「変転」するが「退化」しない。

(13)高齢者の快と性的なもの:「老人が性的快楽を追求するのは気まずさを生み、非難・からかいの的となる」というような道徳的規範がある!(99-103頁)
M 多くの老人が表明する。「この性愛的身体が、たった一つの老化という要因だけで衰えたりしない!」(99頁)
M-2 (ア)「もうそんな年ではない」と性的なものへの嫌悪感を評価する者もいる。それは「達観」かもしれない。しかし(イ)それは道徳的規範(老人が性的快楽を追求するのは気まずさを生み、非難・からかいの的となる)に対する一種の「防衛」でもある。(ウ)一部の高齢者は、性行為そのものへの備給cathexisの衰えから「昇華」によるリビドーの満足に移行する。(Ex. 文化的好奇心、市民参加、友人・子・孫との情動的関係。)(100-101頁)
《感想13》「老人が性的快楽を追求するのは気まずさを生み、非難・からかいの的となる」というような道徳的規範は、老人が《身体的あるいは認知的》に「弱体化・劣化・弱者化」することと対(ツイ)になっている。

(14)「老化」における「受動性・去勢(万能であることをあきらめること)――エディプス葛藤(父に子が勝てないことor父への敵意)の現実化と再編成」!(103-112頁)
N 「まことに、汝らに告ぐ。若き日は自分でベルトを締め、好きなところに行っていたが、年老いると、手を広げ、誰かに[ベルトを]締め付けられ、行きたくないところに連れていかれる。」(「ヨハネによる福音書」21章18節)(103頁)
N-2 「わしは今でも家長で、父親だ。」「よく言うぜ、もうろく爺さんよ。あんたはもはや何でもないんだ。」(エミール・ゾラ『大地』)(104頁)
N-3  これらの言明は「老化」における「去勢」(万能であることをあきらめること)と「世代転覆幻想」、さらに「エディプス葛藤(父に子が勝てないことor父への敵意)の現実化と再編成」を示す。(104頁)
N-4「老化」における「去勢」に対する反抗:Ex.1「自分が近親者の負担になってしまうことを心配してしまう。」(106頁)Ex.2「私は藁くずのようには扱われたくない。後見人の世話になんてなりたくない。・・・・そこにはこころの尊厳なんてないから。」(107頁)Ex.3「身体的にも認知的にも実力を示さねばと思うことは、多くの老人にとって苦痛の種であり続ける。」(108頁)
N-5 父と子の和解:「年老いたエディプスは、テセウス――彼が王の地位を認める若者――のような人物によって葛藤を解かれた。思慮深い保護のもとにある心地よい終のすみかを見出すことができた。」(108頁)
《感想14》「エディプス葛藤(父に子が勝てないことor父への敵意)の現実化と再編成」は老人にとって、恐るべき事態だ。成人した子が父親に現実的に復讐し、力関係が再編成される。(逆転する!)「よく言うぜ、もうろく爺さんよ。あんたはもはや何でもないんだ」と子が老いた父を恫喝する。

N-6 「享楽としての受動性」と「寄る辺なさとしての受動性」:「老化」において「人は物事の成り行きを変更できなくなっていく」。(「喪失」!)主体がこの受動性の経験に、内的現実の次元において「同意」できれば、それは「享楽としての受動性」となる。彼は「他者へ委任されたポジションを享楽する」。だが、この受動性の経験に同意できなければ、それは「寄る辺なさとしての受動性」となる。(109-111頁)
《感想14-2》年老いたら、素直に介護者からの「助け」を受け入れる。自分の「喪失」そして「受動性」を拒否せず「同意」し、他者からの「助け」を感謝し享楽する。これは大切だ!人間関係の「潤滑油」でもある!

N-7 「断念」と「屈服」:「老化」における「喪失」の際に働く心的作業の質には、「断念」と「屈服」が区別できる。(111頁)
N-7-2 「断念」は、「自らに課されている限界という事実」(「喪失」)と「まだ残されている潜在的な可能性という事実」を統合し、「失われた対象」とは別のところに「快の源泉」を見出す。(111頁)
N-7-3  反対に「屈服」の場合、「失われた対象」は「乱暴な仕方で自分から奪われたもの」として体験される。これは「老化」における「喪失」に対して、ナルシス的で、メランコリー的な対処法だ。(111-112頁)
《感想14-3》「失われた対象」という事実に対し、一方で「断念」という心的作業と、他方で「屈服」という心的作業が可能だ。「断念」はポジティヴ、「屈服」はネガティヴと普通、言われる。

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ブノワ・ヴェルドン『こころの熟成』第3章「喪失の取り扱い方」(続):老化における「喪失」は生の欲動と死の欲動の「融合」or「内的均衡」を試練に晒し、「再編成」を迫る!死の問題!

2021-12-25 21:29:17 | Weblog
※ブノワ・ヴェルドン『こころの熟成――老いの精神分析』(2013年)文庫クセジュ

第3章 喪失の取り扱い方(続)
(10)「欲動の融合と脱融合」!生の欲動と死の欲動の「融合」(混合)と「脱融合」(分離)!「老い」は、「脱備給」(関心・注意・情動のエネルギーを向けないこと)をもたらすわけでない!(79-85頁)
J 「生の欲動」は「結集、統一、興奮」を目論むものであり、「死の欲動」は「分離、分散、鎮静」の働きをする。二つの欲動が結びつくと(融合)、付随する連続的な心的作業、すなわち備給と脱備給、接近と離反の余地ができる。(81頁)Cf. 「備給」と「脱備給」:関心・注意・情動のエネルギーを向けることと止めること。
J-2  生の欲動と死の欲動の「融合」or「内的均衡」によってのみ、「心的な生」は可能となる。「一方では混乱や支配という危険を冒して連結と凝集を行い[生の欲動]、他方では寸断化と無化という危険のもとに脱連結と脱結合を行う[死の欲動]。」(82頁)
J-2-2 かくて「老い」は、新たな「内的均衡」の達成である。「抑うつ的な苦痛を帯びた社会的孤立」という「老い」の事実は、「脱備給」(※関心・注意・情動のエネルギーを向けないこと)をもたらすわけでない。(82頁)
J-2-2-2 例えば「多くの高齢者たちは、休息する権利を訴えながらも、出会いや新たな知識を欲望し、永遠に第一線での役割を果たせなくても、社会問題に対して関心を抱いている。」(82-83頁)

J-3 繰り返し「喪失」に直面すると「欲動の融合」(生の欲動と死の欲動の融合)が試練に晒される。「引き剥がし」(対象や機能の喪失など)のせいで「均衡」が崩れる。(83頁)
J-3-2 主体は「ケアの可能性を危うくするような対象に固着」したり(「危険行為」)、「他者を損なうほど強大なナルシス的満足に固着」(退行的閉じこもりorナルシス的な退行)したりする。(83-84頁)

J-4 「老い」を通じて諸々の「均衡」や「関係性」が再編成を迫られる。新たな「欲動の連結」は「アンビヴァレンスを維持する好ましい対象」の介在によって支えられる。かくて「まとまりが崩壊すること」、「死そのものが優位になること」、「心的生活が消滅すること」が予防される。(84-85頁)

《感想10》「老い」は、生の欲動と死の欲動の新たな「内的均衡」の達成である。「老い」が「抑うつ的な苦痛を帯びた社会的孤立」という事実であるとしても、「脱備給」(※関心・注意・情動のエネルギーを何ものにも向けないこと)をもたらすわけでない。
《感想10-2》「生きている」間、われわれは「死」を知らない。

(11)死の問題!「死の表象」がどんなに恐ろしいものであってもそれは「死の表象or幻想」であって、「死」でない!(85-93頁)
K キケロは一方で「死が刻一刻、差し迫っていると恐れていては、いかにして恒常心を維持できよう」と言いつつ、他方で「自然にしたがって生じるものは、すべて善きものとみなされなければならない。しかるに、老人が生を終えることほど、自然に従ったものがあるだろうか」と記す。(86頁)
K-2 「死の表象or幻想」は「死」でない。「死の表象or幻想」は「生」の中にある。(87頁)
K-2-2 実際、「死の展望に直面した主体」は、「去勢や受動性」を含む表象、「見捨てられ不安」・「消滅不安」・「破壊不安」・「迫害不安」を掻き立てる表象など、複数の表象を動員しやすい。(92頁)

K-3 ポール・ニザン(26歳)が言う。「本当の死とは、死にほかならないもの、生ではないもの、そして人間が何も、自分のことも、自分のことを考えているとも考えないときに置かれる状態のことなのだ。」(92頁)

K-4 蘇らせたハドリアヌス帝に、マルグリット・ユルスナールが言わせる。「私は死を急ぐことをあきらめてしまった。・・・・私の忍耐は身を結びつつある。前ほど苦しまなくなったし、人生はふたたびほとんど甘美なものになりつつある。・・・・いましばし、共にながめよう。この親しい岸辺を、もはや二度とふたたび見ることのない事物を・・・・目をみひらいたまま、死のなかに歩み入るよう努めよう・・・・」(93頁)

《感想11》本当の「死」は「生」のうちにない。「死」とは「生」でないものだ。
《感想11-2》「死の表象」がどんなに恐ろしいものであってもそれは「死の表象or幻想」であって、「死」でない。

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ブノワ・ヴェルドン『こころの熟成』第3章「喪失の取り扱い方」:「抑うつポジションのワークスルー」により「よい対象」が安定して現前する!「抑うつ性」は「喪失」に「耐え忍ぶ」ことを可能とする!

2021-12-25 17:53:23 | Weblog
※ブノワ・ヴェルドン『こころの熟成――老いの精神分析』(2013年)文庫クセジュ

第3章 喪失の取り扱い方
(9)抑うつと抑うつ性(その1):「抑うつポジションのワークスルー」!「よい対象」が自己の中で安定して現前する!(70-74頁)
I 「抑うつポジション」の「ワークスルー」によって「よい対象が自己の中で安定して現前すること」は、老人が「喪失」や「断念」という作業を行ううえで、極めて貴重だ!(73頁)
《参考1》「抑うつポジション」とは「相手(Ex. 母親)が怒っているのは、自分が悪いことをしたからだ」思うような(幼児の)心的状態である。罪悪感・自己反省の起源となる心的状態。
《参考1-2》これに対し「妄想-分裂ポジション」は相手(Ex. 母親)を全体として捉えられず(「分裂」)、自分の欲求を満たしてくれない「悪い存在」としてのみ捉え(「妄想」)、怒り・攻撃を爆発する心的状態だ。
《参考2》「ワークスルー」(徹底操作)とは抑圧された葛藤に対する解釈を、反復して繰り返し、体験的確信にまでもたらすこと。

I-2 「抑うつポジション」の起源は「母親そのもの失うという不安」だ。「愛する対象を失うという懸念」!「抑うつポジション」はまた「同一の対象(Ex. 母親)に、満足のあり方に応じて愛も憎しみも抱くこと」ができるという心的状態だ。(72-73頁)
I-2-2 「よい対象(Ex. 母親)が自己の中で安定して現前すること(※「抑うつポジション」の「ワークスルー」によってこれは可能となる)は、(※老人が)喪失や断念という作業を行ううえで、極めて貴重だ。」(73頁)

(9)-2 抑うつと抑うつ性(その2):抑うつ性の解放的価値!「抑うつ性」は「耐え忍び、通過すること」を可能とする!(74-78頁)
I-3 「抑うつ性」は(※「妄想-分裂ポジション」と異なり)、「他者とのふれあいに耐えること」を可能とし、「耐え忍び、通過すること」を可能とする。(75頁)
I-3-2 「私は老いぼれたと感じている。・・・・あとどれくらいの時間が残されているかはわからないが、急ぐことはない。・・・・私は刹那のなかに生きているが、あともう少しだけこの世の中に平穏なままでいたいのである。」(マーティン・グロジャン)(76頁)
I-3-3 「抑うつポジション」においては、「馴染んだものとしての老い」がある。(77頁)
I-3-4 「老い」に「馴染む」ことができない老人は、(a)健康をなおざりにし自己破壊的になり、(b)躁的防衛を発動させ「ぞんざいに扱うな」とやかましく主張し、(c)際限ない浪費と享楽、あるいは(d)危険行動に「酩酊」する。(77-78頁)

《感想9》「老い」に「馴染む」ことが、老人に平穏を与える。「抑うつポジション」は「耐え忍び、通過すること」を可能とする!

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ブノワ・ヴェルドン『こころの熟成』第2章「心的装置」(その2):「こころのなかの葛藤」!老人は「自我理想」に関し、過去の理想化という「代替形成ないし代用形成」をなすことがある!

2021-12-25 00:02:01 | Weblog
※ブノワ・ヴェルドン『こころの熟成――老いの精神分析』(2013年)文庫クセジュ

第2章 心的装置(その2):「こころのなかの葛藤」&「自我理想」!
(7)老化と「こころのなかの葛藤」!老化のもとで「葛藤」は弱まる!(62-63頁)
G 老化のもとでの「葛藤」の弱まり!
(a)年を経るにつれて「超自我的な要請」が弱まることがある。「人は年を取ると、ひねくれて、意地悪で、けちになる。」(フェレンツィ、1921年)(62頁)
(b)「老いゆく存在は、えてして賢明である。それは人徳というよりも、むしろ欲求が減少するので、賢明である方がそれ以降は好都合だからだ。実際、年を取るにつれて超自我が和らぐのは、美徳のためというより、その方が楽だからである。なぜなら、肉体的な苦痛が、超自我をはっきりと平穏にする。」(ジェラール・ル・グエ)(63頁)
(c)「死は、すべての秩序を侵犯する。死に直面して、いかなる禁止が正当化されるだろうか?」(ビアンキ)(63頁)
《感想7》老化のもとで「葛藤」は弱まることがある。(a)「超自我的な要請」が弱まる。Ex.「他者たちと折り合ってあって生きる」という日常的倫理を無視する。(b)欲求が減少する。Ex.「[人格が]丸くなる」。(c)「死」を覚悟すれば怖いものなどない?

(7)-2 年を取っているというだけの理由で「こころのなかの葛藤」は弱まるわけでない!(64頁)
G-2 だが「すべての高齢者において、それも年を取っているというだけの理由で、こころのなかの葛藤によって構成される価値が消え失せているなどと結論づけないことが肝要だ。」(64頁)
(ア)「多くの老いゆく人のこころの機能を活性化し、さらにはまとわり続ける罪悪感の重みを過小評価してはならない。」(64頁)
(イ)「遅咲きの性格の鎧」(自我を防衛するために固めた性格の外面)でアイデンティティを守る老人もいる。(64頁)
(ウ)「価値観や規範に強く執着する」ことでアイデンティティの連続性を確保しようとする老人もいる。(64頁)
(エ)「先祖の裁きや神の審判といった表象に培われた乳幼児的葛藤が激しく再活性化しているのが観察できる老人もいる。」(64頁)
(エ)-2 そうした表象はきまって「懲罰」・「劫罰」の不安や、様々の限界体験を強力にもたらす。(64頁)
G-2-2 「死による主体の解体は、罪悪感の代わりにはならないし、(a)対象を征服する快の問題、(b)ライバルの締め出し、(c)エディプス的葛藤性の近親姦、(d)親殺し的基盤などが、死に絡められたままである。」(64頁)
《感想7-2》年を取っても消え去らない「葛藤」(※「悩み」)がある。(ア)罪悪感!(イ)「遅咲きの性格の鎧」(自我を防衛するために固めた性格の外面)!(ウ)「価値観や規範」への強い執着で脆い自分を守る老人。(エ)「先祖の裁きや神の審判」と言う表象で自分を支える老人。
《感想7-2-2》「死に絡められたまま」とは「死が忘れられている」ことだ。(a)対象を征服する「快」は「死を忘れる」ことの典型だ。(b)「ライバルの締め出し」つまり「弱肉強食」の前提は「生」であり「死が忘れられている」。(c)「エディプス的葛藤性の近親姦」とは老人は生きている限り「生のエネルギー」としての性欲を持つということだ。(d)「親殺し的基盤」:「束縛する」「飲み込んでしまう」親を精神的に殺すことは子供が自立的に生きるために不可欠だ。この自己肯定、つまり自己の「生」の肯定は、老人であれ「生きる」限り前提される。Cf.親による「身体的暴力」、「ネグレクト(与えない、教えない、食べさせない)」、「絶え間ない罵倒や人格否定」が物理的・身体的「親殺し」を生じさせることもある。

(7)-3 老人は「心的葛藤」を扱うのに、非常に骨が折れ、つらく、そして疎外を引き起こす!かくて「人と知り合うこと」をやめたりする!(64頁)
G-3 「老いると、自らの思考、情動、表象を柔軟に動員しない、あるいはできないことがある。心的葛藤を扱うのは、非常に骨が折れ、つらく、そして疎外を引き起こすものとなり、自由に愛すること、人と知り合うこと、意見が食い違うこと、他者の前で堂々としていることなどの可能性を損ないかねない。」(64頁)
G-3-2 かくて老人の「こうした障害は、こころの機能を大いに傷つけ、さまざまな生活領域(知的領域、性的領域、対人関係の領域)においてしばしば重篤な制止としてあらわれる。」(64頁)
《感想7-3》老人は、身体的にも精神的にも弱化している。体力もないし、根気・持続力もない。「心的葛藤」を扱うのに、非常に骨が折れ、つらく、そして疎外を引き起こす!

(8)老化と「自我理想」!老人の「こころ」は「自我理想」に関し、過去の理想化という「代替形成ないしは代用形成」をなすことがある!‘(65-68頁)
H 「自我理想とは、自我が自らを評価する際に基準となる心的審級であり、その起源は本質的にナルシス的である。」(65頁)
H-2 「自我理想」は、ナルシス的リビドー(※心的エネルギー)を供給する。(66頁)
H-2-2 「自我理想」は、計画の検討、恋愛状態の維持、指導者へ心酔を維持させ、極めて暴君的になりうる。(66頁)
《感想8》人には必ず「自我理想」がある。つまり誰もが「ナルシシズム」なしに生きていけない。「ナルシシズム」こそが生きるエネルギーを生み出す。この点は、老化しても何も変わらない。

H-3 さて「自我理想」は、[有限性が意識されない間は、すなわち永遠に生きると思い込んでいる間は、すなわち死など存在しないと思っている間は、すなわち若い時は]いくつもの錯覚を黙認し、計画を将来に持ち越す。ところが「老いて死が視野に入ってくる」と、もはや「錯覚や持ち越し」に譲歩することができなくなる。(66頁)
H-3-2  かくて「自我理想」は「自分が走り抜けた道のり、かつて過ごしてきたがいまや存在しない時代などを理想化する備給」をひきおこす。(66-67頁)(※「備給」cathexis:心的エネルギーが観念・記憶・思考・行動に流れ込むこと。)
H-3-3 老人の「こころ」はこのように「自我理想」に関し、「代替形成ないしは代用形成」をなす。フロイトは次のように強調している。「もとよりわれわれは、何ひとつ断念することのできない存在だ。われわれにできるのは、あるものを別のものと取り替えることだけで、それは、いっけん断念のように見えても、実は代替形成ないしは代用形成なのだ。」(68頁)
《感想8-2》「生きる」とは「断念できない」ことと等価だ。人は「死」を「生きる」ことができない。「生きる」かぎり人は「断念」しない。「断念」した時、人は「死ぬ」。
《感想8-2-2》老人の「こころ」は「自我理想」に関し、過去の理想化という「代替形成ないしは代用形成」をなすことがある!

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ブノワ・ヴェルドン『こころの熟成』第2章「心的装置」(その1):老化と「自我」!「老い」における「自我」の再定義!「自我の喪の作業」!

2021-12-24 13:37:03 | Weblog
※ブノワ・ヴェルドン『こころの熟成――老いの精神分析』(2013年)文庫クセジュ

第2章 心的装置(その1)
(6)老化と「自我」!「老い」における「自我」の再定義!「自我の喪の作業」!(54-61頁)
F 「思春期と同じように、老いにおいては、特に老いにまつわる数多くの変化のせいで、自分が同一化しているものは何なのか、自分とは何者なのかがわからなくなってくる。」(54頁)
《感想6》「老い」は迷える年代だ。経験を積んで、酸いも甘いもかみ分け、海千山千なのに、迷う。「悪魔は年寄りだ」と言うが、悪魔が迷う。

F-2 「老い」は、先述したように「喪失」の時期だ。(ア)「身体」の老化は「精神」に大きな打撃を与える!(イ)「認知能力や知的能力」の弱化の精神的打撃!(ウ) 「アイデンティティの保証」、「生きる理由」、「情熱を傾ける理由」、「自分を開花させる理由」、「苦しむ理由」をその内に見出していた「労働」を失う。(55頁)
F-2-2 かくて「老い」とは「自分とは何者なのか」を改めて明らかにする時期であり、「創造力を引き出す[こころの]再補修と変容に関わる事柄である。」(55頁)
《感想6-2》「老い」とは、つまり「自我」の再定義という出来事だ。「思春期」と同じように、「老い」においては「自分とは何者なのか」定義しなければならない。

F-3 「老い」における主要な問題は、「自我が自らを守る」ために「自我の喪(モ)の作業」ができるかどうかだ。すなわち「自身が不死身であるという錯覚を部分的にでも諦め、死以上に潔くなれないことを受け入れること」ができるかどうかだ。(58頁)
F-3-2  このような「自我の喪の作業」は「離脱」の作業であり、「ナルシス的な断念の動き」だ。そして、ここにおいて躓きや抵抗が生じる。(a)自己保存や自己承認のために闘争する自我がある、(b)あまりに無茶な努力を行う必要性のなさそうな自我もある、(c)「同じであること、ずっと変わらないこと」にしがみつき、「自らの要求に応じないすべてのもの」を貶める「小さな差異のナルシシズム」を特権化する自我がある、(d)反対に部分的にでも自らの不完全性や未到を受け入れ、他人に対しても、その人自身の道のりを追い求める権利と合法性を協力的に認められる自我もある。(60-61頁)
《感想6-3》「自我の喪の作業」は困難な作業だ。それは「離脱」の作業であり、つまり「ナルシス的な断念の動き」だ。自我を支えるのはナルシシズムだ。「自我の喪」はナルシシズムの断念だ。

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