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宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(77) 百田氏の誤り:①沖縄戦開始時に日本軍は7万7千、米軍は18万8千!②陸軍は「沖縄を捨て石(出血持久的前哨戦)にした」!

2021-04-30 12:00:15 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「大東亜戦争」の章(235-314頁)  

(77)百田氏の誤り①:沖縄戦開始時に日本軍は7万7千で、米軍は18万8千だった! (297頁)
R 百田尚樹『日本国紀』は、「日本軍は沖縄を守るために、沖縄本島中心とした南西諸島に18万の兵士を配置した」(百田401頁)と述べるが、これは誤りだ。
R-2 百田氏の誤り①:「沖縄戦開始時には、18万も兵は配置されていない。」レイテ戦との関係で1945年1月に「精鋭の第9師団」は台湾に転出してしまい、「牛島軍司令官(中将)の配下の兵(第32軍)は7万7千で、沖縄本島に上陸したアメリカ第10軍の18万8千と戦うことになった」。(浮世297頁)

(77)-2 百田氏の誤り②:「日本は沖縄を守るために最後の力をふり絞って戦った」と言えない!(297-299頁)
R-3 百田氏は「戦後の今日、『日本は沖縄を捨て石にした』と言う人がいるが、これは誤りだ。日本は沖縄を守るために最後の力をふり絞って戦ったのだ。もし捨て石にするつもりだったなら、飛行機も大和もガソリンも重油も本土防空および本土決戦のために温存したであろう」(百田401頁)と述べる。
R-3-2 百田氏の誤り②:「日本は沖縄を守るために最後の力をふり絞って戦った」と百田氏が言うのは誤りだ。その理由を以下、列挙しよう。(浮世297-299頁)
(ア) 1945年4月 沖縄本島に上陸したアメリカ軍18万8千人に対し、日本軍は7万7千人(第32軍)にすぎなかった。(既述)(※「沖縄を守るために最後の力をふり絞って」いない。)
(イ)圧倒的兵力差を見て牛島中将は沖縄にあった二つの飛行場を放棄。本島南部での「持久戦」へと方針変更した。かくて米軍はあっさりと飛行場を占拠した。(※「沖縄を守る」ことを放棄した。)「沖縄の飛行場をアメリカと日本、どちらが押さえるか」が沖縄戦のポイントと考えていた大本営は驚く。昭和天皇が「現地軍はなぜ攻勢に出ぬか」と「疑問」を呈したこともあり、大本営は第32軍に攻勢の要望を出すが、結局大損害を被る。
(ウ) 「陸軍は、すでに本土を最終決戦の場と定め、沖縄戦を本土決戦のための『出血持久的前哨戦』とみなし、航空戦力のすべてを投入しようとしなかった。」(※つまり陸軍は「沖縄を捨て石にした」!)「このため、沖縄決戦を主張する海軍と激しく対立している。」(浮世298-299頁)
(エ)なお昭和天皇が沖縄戦の動向に関心を持ち「航空機だけの総攻撃か」と「御下問」があったので、海軍は、豊田連合艦隊司令長官が、戦艦大和などからなる海上特攻隊に沖縄突入を命じた。(『戦史叢書』)(※つまり海軍は「沖縄決戦」を行うと決定した。)昭和天皇の「疑問」や「御下問」がなければ「海軍は沖縄戦に航空戦力しか投入しなかったかもしれない」。
(エ)-2 海上特攻隊は戦艦大和・巡洋艦矢矧(ヤハギ)・駆逐艦4隻が沈没し、連合艦隊の海上戦力は事実上消滅した。しかし連合艦隊は「指揮下一切ノ航空戦力ヲ投入シ総追撃」ヲ続け、特攻を行い、ロケット推進の「桜花(オウカ)」も投入した。
R-3-3 特攻機は2,393機が投入され、大本営は「空母22~25隻、戦艦4隻、巡洋艦24隻を撃沈破した」と発表した。これは虚偽で、撃沈は、空母0隻、戦艦0隻、巡洋艦0隻、その他36隻だった。(浮世299頁)

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浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(76) 百田氏の誤り:①日本は「アジアの人々と戦争をして」いる!②海軍の[特攻]計画は、なし崩し的に通常作戦に組み込まれたものでない!

2021-04-29 16:20:51 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「大東亜戦争」の章(235-314頁)  

(76)百田氏の誤り①:日本は、「アジアの人々と戦争をして」いる! (294-296頁)
Q 百田尚樹『日本国紀』は、日本は「アジアの人々と戦争をしたわけではない」(百田425頁)と述べる。しかしこれは誤りだ。「中共勢力」とみなされた「アジアの人々と戦争をして」いる。
Q-2 北支方面軍は「中共勢力勦滅(ソウメツ)[滅ぼし尽くす]ニ集中スル」方針をとり続け「第1期普中作戦戦闘詳報」によると、「目標方法」として以下を掲げる。「一、敵及土民ヲ仮装スル敵、ニ、敵性アリト認ムル住民中一五歳以上六十歳迄ノ男子、殺戮・・・・六、敵勢、焼却破壊」。このような作戦展開は、中国民衆の反感を買った。(※つまり中国民衆と「戦争をして」いる。)(浮世294-295頁)

(76)-2 百田氏の誤り②:海軍の「特攻」計画は限定的作戦ではなく、あらかじめ計画されていたことの実行だ!(296-297頁)
Q-3  百田氏は「神風特攻隊は最初は[1944年10月以降]フィリピンでの戦いの限定的作戦だったが、予想外の戦果を挙げたことから、なし崩し的に通常作戦の中に組み入れられた」(百田400頁)と述べる。
Q-3-2 百田氏の誤り②:百田氏の上述の見解は事実でなく誤りだ。「すでに山本五十六が『体当たり攻撃』をする案を持っていた。海軍の[特攻]計画は限定的作戦ではなく、あらかじめ計画されていたことの実行で、なし崩し的に通常作戦に組み込まれたものではない。」ただし「『特攻』に対して司令部のためらいや逡巡の記録も見られる。」(浮世296-297頁)

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浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(75) 百田氏の誤り:①「1943年時点」で東条内閣は「講和など一切考えていない」!②アメリカの「ウォッチタワー作戦」が開始されていた!

2021-04-28 12:43:24 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「大東亜戦争」の章(235-314頁)  

(75)百田氏の誤り①:「1943年段階」では東条内閣は「講和など一切考えていない」!(291-293頁)
P 百田尚樹『日本国紀』は「1943年時点で、日本の国内経済はすでにガタガタになっており、生産力は著しく低下し、戦争の継続の見通しは立たなくなっていたが、アメリカの本格的な反攻がないため、講和の画策もしなかった」(百田398-399頁)
P-2 百田氏の誤り①:百田氏は「1943年時点」で日本(東条内閣)が「講和」を考えていたように言うが、これは誤りだ。「1943年段階」では東条内閣(1941/10-1944/7)は「講和など一切考えていない。」(浮世292頁)
P-2-2  1943年2月上旬、日本軍はガダルカナル島から「転進」したが、中国では1943年以降(ア)~(エ)の軍事作戦を展開し、戦果を挙げている。「戦争の継続の見通しは立たなくなっていた」との百田氏の見方は誤りだ。
(ア)江北殲滅作戦:1943年に入って長江北部、武漢西方に第11軍を展開し、中国の守備隊を壊滅させた。
(イ)江南殲滅作戦:同5月に洞庭湖西方、長江南部に第11軍は進軍し、民間人を含む中国軍3万人を殲滅。
(ウ)常徳会戦:同11月、湖南省北部で中国軍と激突。(これについては、成功か失敗か意見が分かれる。)
(エ)打通作戦:1944年からの中国大陸縦断作戦。中国内陸部の連合軍基地の破壊、仏印への陸路を開くことを目的とした。投入総兵力50万人、戦車800台、騎兵7万。作戦距離2400キロ。この作戦は成功した。

(75)-2 百田氏の誤り②:「1943年時点」で「アメリカの本格的な反攻がない」との見方は誤りだ!アメリカは「着々と日本の勢力範囲を奪って縮めていって」いる!(293頁)
P-3 「1943年時点」で「アメリカの本格的な反攻がない」との百田氏の見方も誤りだ。アメリカは既に1942年3月「ウォッチタワー作戦」(東南アジア・太平洋諸島奪還作戦)を開始した。
P-3-2 かくて1943年2月ソロモン諸島のガダルカナル島が奪われ、5月北方でアリューシャン列島のアッツ島全滅、7月キスカ島脱出。11月南方のギルバート諸島のマキン島・タラワ島で日本軍全滅。アメリカは「反攻準備を着々と整えていた」(百田399頁)のでなく、「着々と日本の勢力範囲を奪って縮めていって」いる。(浮世293頁)

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浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(74) ①百田氏の誤り:コミンテルンは1943年に解散している!(第5刷で百田氏修正!)②1933年「転向」&「和をもって貴しとなす」!

2021-04-27 12:37:14 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「大東亜戦争」の章(235-314頁)  

(74)第2次大戦後に、「コミンテルンの指示」や「日本のコミンテルンに『講和条約を阻止せよ』という指令」はありえない! (289-291頁)
O 第2次大戦後の日本について、百田尚樹『日本国紀』は「一般企業でも労働組合が強くなり、全国各地で暴力を伴う労働争議が頻発した。これらはソ連のコミンテルンの指示があったとも言われている」(百田435頁 )
と述べる。また「スターリンは日本のコミンテルンに『講和条約を阻止せよ』という指令を下したといわれる」(百田450頁 )と述べる。
O-2 百田氏の誤り:コミンテルンは1943年に解散している。したがって第2次大戦後、「コミンテルンの指示」や「日本のコミンテルンに『講和条約を阻止せよ』という指令」はありえない。「存在しない組織が指示を出したり受けたりすることはできない」。(なお『日本国紀』第5刷で百田氏は「コミンテルン」を「旧コミンテルン一派」と修正した。)(浮世290頁)

(74)-2 獄中にあった共産党の指導者たちが1933年、次々に「転向」を表明した!(289, 291頁)
O-3 総力戦体制(浮世286頁で述べた(a)(b)(c)(d)(e))には、日本では(f)「言論・出版・報道統制」が加わる。国の検閲は、表現の一言一句にまで入り、「敗退」は「転進」、「全滅」は「玉砕」等々と言い換えさせられた。(浮世289頁)
O-3-2 思想面での統制は、1910年代、20年代は過酷な弾圧だった。(浮世291頁)
O-3-3 満州事変後の1933年、獄中にあった共産党の指導者たちが次々に「転向」を表明した。佐野学・鍋山貞親は「コミンテルンが日本共産党に指示した天皇制打倒・侵略戦争反対の方針を批判し、天皇制と民族主義のもとでの一国社会主義の実現を提唱した」。(『詳説日本史B』349頁)(浮世289頁)
O-3-4 佐野学らの転向声明をきっかけに、治安維持法で検挙されていた人々の9割が転向した。また政府は、改正治安維持法の最高刑の死刑を適用せず、30年代後半からは、旧左翼関係者を、内閣調査局(後の企画院)に「官僚」として採用した。(浮世291頁)
O-3-4-2 同時代のファシズム国家(ナチス・ソ連)のように、反対派を粛清、処刑せず、それどころか体制内に取り込む、「転向した者を批判せずに活用する」という点は世界に類を見ない。百田氏には「こういう部分をもっと、クローズアップしてほしかった」。(浮世291頁)
O-3-4-3 「和をもって貴しとなす」という日本文化の証か?(浮世291頁)

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浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(73) 百田氏の誤り:①日本は「総力戦」体制を作り上げた!②アルベルト・シュペーアは「敗戦後のドイツ」を考えた!③マレー半島奇襲攻撃!

2021-04-26 13:33:01 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「大東亜戦争」の章(235-314頁)  

(73)百田氏の誤り①:日本は典型的な「総力戦」体制を作り上げたが、インフラも整備されておらず、資源や物資が国内で自給できないことが問題だった! (286頁)
N 百田尚樹『日本国紀』は「大東亜戦争を研究すると、参謀本部(陸軍の総司令部)も軍令部(海軍の総司令部)も『戦争は国を挙げての総力戦である』ということをまったく理解していなかったのではないかと思える」(百田394頁)と述べる。
N-2 百田氏の誤り①:だが日本は「総力戦を理解していなかった」どころか、十分理解しドイツのルーデンドルフの「総力戦論」に適合する典型的な総力戦体制を作り上げることに成功している。(浮世286頁)
N-2-2 「総力戦」という用語を百田氏は誤解している。「総力戦」は(a)強い権限を持つ政府あるいは軍部が、(b)軍需工業優先に産業を再編し、(c)女性・青少年をも軍需生産に動員し、(d)食料などの配給制を実施し、(e)国民の消費生活を統制する体制だ。(浮世286頁)
N-2-3 日本は「総力戦」体制を作り上げたのに、「インフラも整備されておらず、資源や物資が国内で自給できない」ことが問題だった。(浮世286頁)

(73)-2 百田氏の誤り②:アルベルト・シュペーアが「一流の職人や工場労働者は戦場に送らなかった」のは、「敗戦後のドイツ」の復興を考えたからだ!「総力戦」体制の一環ではない!(286-287頁)
N-3 「総力戦」体制の優れた例として百田氏は「ドイツでは軍需大臣のアルベルト・シュペーアが徴兵の権限まで持っていたため、一流の職人や工場労働者は戦場に送らなかった」(百田396頁)と述べる。
N-3-2  百田氏の誤り②:アルベルト・シュペーアが「一流の職人や工場労働者は戦場に送らなかった」のは、1944年10月以降であって、方針をそれまでの「戦争に必要な物資をいかに調達するか」から、「敗戦後のドイツをいかに早く立ち直らせるか」に切り替えたからだ。「総力戦」体制の一環ではない。(浮世286-287頁)

(73)-3 百田氏の誤り③:アメリカが真珠湾攻撃を奇襲攻撃と考えるのは、日本がイギリスに対し、すでにマレー半島に奇襲攻撃をかけたからだ!(288-289頁)
N-4 太平洋戦争開戦について百田氏は「宣戦布告の文書を、不手際でハル長官に手渡すのが遅れた」(百田398頁)せいであって、「奇襲攻撃をするつもりはなかった」と百田氏は言う。
N-4-2  だがアメリカが真珠湾攻撃を奇襲攻撃と考えるのは、つまり宣戦布告の「遅れ」を「国が黙認していた」と考えるのは、日本が「事前交渉も通告もしていないイギリスに対し、真珠湾より先にマレー半島に奇襲攻撃をかけたからだ」。(浮世288-289頁)

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浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(72) 百田氏の誤り:①一木(イチキ)支隊は「ガダルカナル島」に「増援」された!②「一夜にして死んだ」のではない!③東条陸相「戦陣訓」!

2021-04-25 16:15:30 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「大東亜戦争」の章(235-314頁)  

(72)百田氏の誤り①:一木(イチキ)支隊は「ガダルカナル島がまだ奪われていない段階」で「増援」として派遣された! (283頁)
M 百田尚樹『日本国紀』は「この島をアメリカ軍に奪われたと聞いた大本営は直ちに奪回を試みるが、アメリカ軍の兵力を2千人位と根拠もなく見積もり、それなら900人ほどで勝てるだろうと一木(イチキ)支隊を送り込んだ」(百田394頁)と述べる。
M-2 百田氏の誤り①:一木(イチキ)支隊は、ガダルカナル島を「アメリカ軍に奪われた」あとに送り込まれたわけでない。「ガダルカナル島がまだ奪われていない段階で、一木支隊は『増援』として派遣された。」(浮世283頁)
《参考》1942年5月、日本軍はオーストラリアと米国の補給路を分断しようと、ニューギニア東南のソロモン諸島に進出。7月に同諸島のガダルカナル島に飛行場建設を始めた。8月米軍約1万1千人がガダルカナル島を奇襲し飛行場を占領した。こうしてガダルカナル島攻防戦が始まった。

(72)-2 百田氏の誤り②:一木支隊の777人が「一夜にして死んだ」のではない!(284-285頁)
M-3 百田氏の誤り②:百田氏は一木支隊について「アメリカ軍陣地に突撃した800人の兵士のうち777人が一夜にして死んだ」(百田394頁)と述べるが、これは誤りだ。777人が「一夜にして死んだ」のではない。
M-3-2 1942年8/20 夕方6時から戦闘が始まり、イル川第1回渡川で100名、第2回渡川で200名の犠牲を出した。翌朝、退却しようとしていた一木支隊は、米軍に包囲され機銃掃射、戦車で壊滅し、また掃討戦も執拗で追いつめられた兵士は狙撃され落命した。(浮世284-285頁)

(72)-3 百田氏の誤り③:「亡くなった陸軍兵の多くは餓死だった」わけでない!(285頁)
M-4  百田氏は「結局、ガダルカナル島をめぐる攻防戦は半年近くにわたって行われ、日本軍は夥(オビタダ)しい人的被害を出し・・・・敗退した。ガダルカナル島で亡くなった陸軍兵の多くは餓死だった」(百田394頁)と述べる。(※1943年2月上旬に「転進」と2/9大本営発表。)
M-4-2 ガダルカナル島に投入された日本兵は3万1千人以上で、撤退できた者は約1万人。戦死者は5千人で、餓死・戦病死1万5千人と言われる。(『戦死叢書28 南太平洋陸軍作戦2』、亀井宏『ガダルカナル戦記』)。(浮世285頁)
M-4-3  百田氏の誤り③:百田氏が「ガダルカナル島で亡くなった陸軍兵の多くは餓死だった」と述べるのは誤りだ。「撤退することが困難な負傷者は、捕虜となることを防ぐために自決させるか・・・・戦友によって銃や銃剣などで殺害させている。」東条英機陸軍大臣が1941年1/1に示達した「生きて虜囚の辱めを受けず」という「戦陣訓」が実行された。「陸軍兵の多くは餓死だった」というようなものではなかった。(浮世285頁)

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浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(71) 百田氏の誤り:①ミッドウェー海戦の敗因を「言霊主義」で説明する!②「図上演習」のエピソード!③「鎧袖一触」の「逸話」!

2021-04-24 17:00:36 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「大東亜戦争」の章(235-314頁)  

(71)百田氏の誤り①:ミッドウェー海戦の敗因を、百田氏は実証困難な「言霊主義」で説明し、「実証」的な諸「要因」を挙げて説明していない! (279-283頁)
L 百田尚樹『日本国紀』は「1942年6月聯合艦隊はミッドウェー海戦で主力空母を4隻失うという大敗を喫する。・・・・私はここに『言霊(コトダマ)主義』の悪しき面を見る。「悪い結果は口にしないし、想定もしない」で「いいことだけを言う」というものだ。この後も、日本軍は『言霊主義』に囚われ、太平洋の各戦場でひとりよがりの作戦を立てて敗北を重ねていく」(百田393頁)と述べる。
L-2  百田氏の誤り①:ミッドウェー海戦の敗因を、百田氏は実証困難な「言霊主義」で説明し、「実証」的な諸「要因」を挙げて説明していない。敗因としては(ア)「索敵の失敗」、(イ)「暗号の解読」、(ウ)「米軍のレーダー使用」、(エ)「司令官の判断ミス」があげられる。(浮世280頁)

(71)-2 百田氏の誤り②:ミッドウェー海戦の「図上演習」のエピソードが不正確で誤りだ!「ミッドウェー海戦」の図上演習と「真珠湾攻撃」の図上演習が混同・誤認されている!
L-3 「言霊主義」の例として、百田氏は「ミッドウェー海戦」前の図上演習の エピソードをあげる。「日本の空母に爆弾が命中して沈没するという事態になった時、参謀の一人が『今のはやり直し』ということで、被害ゼロのシミュレーションにして図上演習を続けている。」(百田393頁)
L-3-2 百田氏の誤り②:参謀はおそらく宇垣纏(マトメ)だが、この「図上演習」のエピソードは不正確で誤りだ。(a)「空母の沈没」は「ミッドウェー海戦」の図上演習でなく「真珠湾攻撃」の図上演習のものだ。百田氏は取り違えている。また(b) 「真珠湾攻撃」の図上演習の時、「空母の沈没」は図上演習の「判定」であって、宇垣は「判定」を「取り消した」。だが図上演習の「やり直し」や「演習を続け」させてはいない。(浮世280-281頁)

(71)-3 百田氏の誤り③:「ミッドウェー海戦」をめぐる「鎧袖(ガイシュウ)一触(イッショク)」の「逸話」は「言霊主義」の例にならない!
L-4  さらに「言霊主義」の例として、百田氏は「ミッドウェー海戦」をめぐる「鎧袖(ガイシュウ)一触(イッショク)」(相手に対して刀を抜くまでもなく、鎧の袖を当てただけで倒してしまう)の「逸話」も挙げている。「『もし敵空母がやってきたら』と問われた航空参謀は『鎧袖(ガイシュウ)一触』ですとこともなげに答えている。」(百田393頁)
L-4-2  百田氏の誤り③:これは山本五十六と源田実(ミノル)の「逸話」(1942/5/25)と思われるが、(ア)そもそも「実話かどうか不明」なのに百田氏が「実話」(事実)として紹介している点が誤り。
L-4-3  さらに(イ)この「逸話」には続きがあり「言霊主義」(「悪い結果は口にしないし、想定もしない」)の例にならない。「言霊主義」の例として百田氏が紹介するのは誤りだ。
L-4-3-2  宇垣参謀長が「ミッドウェー基地に空襲をかけている時、敵基地空軍が不意に襲ってくるかもしれない。その時の対策は?」と問う。航空参謀源田実は「わが戦闘機をもってすれば鎧袖一触である」と答えた。これに対し、山本五十六が「鎧袖一触などという言葉は不用心きわまる。・・・・だから攻撃機の半分に魚雷をつけて待機さすように」と批判している。(『太平洋戦争海戦全史』新人物往来社)
L-4-4 ただし(ウ) この「逸話」では源田実が過度に無能に描かれ過ぎだ。宇垣が「ミッドウェー海戦」について「敵に先制攻撃を受けたる場合、あるいは陸上攻撃の際、敵海上部隊より側面をたたかれる場合如何にする」と質問した時、源田は「航続距離を伸ばした偵察機を用意し、これと零式水上偵察機を使って側面哨戒させる」と的確な対策を披露している。(『戦史叢書43 ミッドウェー海戦』)つまり「『もし敵空母がやってきたら』と問われた航空参謀(※源田)は『鎧袖(ガイシュウ)一触』ですとこともなげに答えている」との百田の記述(※航空参謀源田実は無能)が事実かどうか問題だ。

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小川軽舟(1961-)『俳句と暮らす』(その4)(2016年、55歳):(7)「芭蕉も暮らす」!

2021-04-24 12:07:35 | Weblog
(7)「芭蕉も暮らす」
★松尾芭蕉(1644-1694):「漂泊の詩人」である芭蕉も、旅に出ていない時は深川の芭蕉庵に暮らす人だった。

(a) 芭蕉は隅田川の向うに隠者のように芭蕉庵を構えた(37歳)!
「芭蕉野分して盥(タライ)に雨を聞く夜哉」(1681年、38歳(数え年)の句。強い雨風に煽られる芭蕉の葉、盥に落ちる雨漏り音、不安な夜。)前年の冬に芭蕉はここに引っ越した。芭蕉は江戸に29歳でやって来た。それから10年近く経ち、彼は念願の俳諧宗匠となり、華やかな日本橋に住んだ。ところが37歳で芭蕉は隅田川の向うに隠者のように芭蕉庵を構えた。「芭蕉野分して」の句は杜甫の漢詩世界への憧れ。芭蕉の深川隠棲の狙いは、談林俳諧の奇抜斬新を目指す趣向の限界を見据え、新たな俳諧の境地を見出すことだった。芭蕉の戦略は当たり、芭蕉の俳諧は「都市生活から意図的距離を置いて隠遁するアウトサイダーの文芸」(167頁)として認められていく。

(b) 『野ざらし紀行』:芭蕉は気負っている(41歳)!
「野ざらしを心に風のしむ身かな」(芭蕉41歳、最初の長旅となる『野ざらし紀行』の旅に出る。芭蕉は気負っている。)芸術を深めようという決意か?「野ざらし」は行き倒れ風にさらされた頭骸骨。芭蕉は、故郷の伊賀上野に帰り母の墓参りをし、関西、東海地方の門弟に会い、他流試合をして新たな信奉者を得る。42歳になって深川に戻った。

(c) 「古池や蛙飛び込む水の音」:心静かな閑寂の世界!
「よく見れば薺(ナズナ)花咲く垣根かな」(機知も頓智もなく、春の訪れを見出した素直な満足感がある。)芭蕉は、深川に来た当初から比べると、俳諧で食える身となり理解者も得て、気負いが抜けた。自然体だ。「古池や蛙飛び込む水の音」(穏やか。芭蕉は、新しい美意識の世界を示した。「蕉風」「正風」の成立だ。心静かな閑寂の世界。)芭蕉は「日本橋の談林時代はゲラゲラと大笑いを喚起するような奇抜な俳句でしのぎを削り、深川に移った当初は漢文調で大仰に貧寒の暮らしを嘆じてみせた。それらに比べるとこの句の印象はとても穏やかだ。」(172頁)

(d) 『笈の小文』:「風狂」の旅だ(44歳)!
『野ざらし紀行』の旅から戻って2年余り経って、芭蕉は深川移住後、二度目の長旅(1687年、44歳)に出た。(後に『笈の小文』にまとめる。)「旅人と我が名呼ばれん初時雨」(『野ざらし紀行』のような悲壮感はない。)名古屋を中心に歌仙を開き、伊賀上野で新年を迎え、伊勢・関西をめぐる「風狂」の旅だ。江戸にもどった芭蕉は45歳になっていた。

(e) 『奥の細道』:死者に会う旅(46歳)!
芭蕉46歳の春、彼はいよいよ『奥の細道』の旅に出る。老いを感じ始めた芭蕉にとって、自らの芸術を大成させるため、文字通り命懸けの旅だった。「草の戸も住替(スミカ)わる代ぞひなの家」(芭蕉はこの旅立ちに当たって、芭蕉庵を処分した。「果たして江戸に帰ってこられるかわからない」という覚悟だ。)芭蕉は西行など尊敬する古人の踏んだ道をたどり、「歌枕」(和歌に詠まれてきた地)をたどる。芸術的な衝動にかられ、いわば死者に会う旅だ。「夏草や兵(ツワモノ)どもが夢のあと」(栄華を誇った奥州藤原氏、頼朝方の追手を逃れてきた義経主従もこの地の露と消えた。)『奥の細道』の旅は大垣で終わる。

(f)「軽み」:「春雨や蜂の巣つたふ屋根の漏り」!
落柿舎に滞在した芭蕉は『猿蓑』(1691年、48歳)をまとめる。これは芭蕉一門の最高の選集と言われる。この頃から芭蕉は「軽み」を説き始めた。「軽み」とは、観念・理屈を捨て、風流ぶりをやめ、古典・故事に寄りかからず、見たまま・感じたままを素直なことばで詠むことだ。(多くの弟子たちは当惑した。)芭蕉49歳の5月、弟子たちが新しく用意してくれた深川の芭蕉庵に移る。「春雨や蜂の巣つたふ屋根の漏り」(かつての「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜哉」の気負いとは違い、「俳句と暮らす人の飾りのない目」がある。芭蕉51歳、1694年)。

(g) 「この秋はなんで年よる雲に鳥」:「こうも年を取ってしまった」と芭蕉が嘆く(51歳)!
この年、5月に芭蕉は最後の旅に出る。「この秋はなんで年よる雲に鳥」(「こうも年を取ってしまった」と芭蕉が嘆く。)伊賀上野に寄り、大坂に着く。大坂で仲違いする弟子たちの仲裁に芭蕉は出かけてきた。「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」芭蕉は大坂で10月8日にこの句を詠み、12日に亡くなった。

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小川軽舟(1961-)『俳句と暮らす』(その3)(2016年、55歳):(5)「酒を飲む」、(6)「病気で死ぬ」!

2021-04-23 12:28:39 | Weblog
(5)「酒を飲む」
★藤田湘子(1926-2005):湘子の師は秋桜子。軽舟の師は湘子で35歳年長。「君達の頭脳硬直ビヤホール」(「置酒勧語」(チシュカンゴ)をモットーとする湘子が、酒の席で弟子に披露し盛り上がった。)
★石田波郷(ハキョウ)(1913-1969):秋桜子門で湘子の兄弟子が、石田波郷だった。湘子は波郷から酒の流儀を教わった。Cf. 水原秋桜子(1892-1981)は品行方正で酒を飲まなかった。「師の傍に酒ひかへゐし年忘れ」(忘年会で師の秋桜子が酒を飲まないので、波郷も酒を遠慮して飲む。)
★鈴木真砂女(マサジョ)(1906-2003):恋に生きた女と言われる。銀座1丁目に小料理屋「卯波」を営む。
「ビール汲む抱かるることのなき人と」(昭和30年代初めの句。真砂女50歳頃だ。女心だ。)
★小澤實(ミノル)(1961-):湘子門で小川軽舟(1961-)の兄弟子。軽舟は小澤から酒の飲み方を教えられた。軽舟が入会した時、小澤實は湘子門の『鷹』の若き編集長だった。「酒飲んで椅子からころげ落ちて秋」(20代の終わり頃の句。)
★石川淳(夷齋)(1899-1987):「鳴る音にまづ心澄む新酒かな」(連句の発句。発句はその座の主客が挨拶の心を籠めて詠む。新酒の注がれる音!)

(6)「病気で死ぬ」
★正岡子規(1867-1902):「をとゝひの糸瓜(ヘチマ)の水も取らざりき」(痰を切る効果があった糸瓜の水を、取らなくて残念だ。子規の絶筆の3句の内の3句目。子規はこの後、昏睡状態となり翌日息を引き取った。)
★川端茅舎(ボウシャ)(1897-1941):結核で亡くなった。「咳き込めば我火の玉のごとくなり」「咳止めば我ぬけがらのごとくなり」(肺結核の発作による咳の苦しさ。)「一枚の餅のごとくに雪残る」(子供の好奇心のような童心。)
★石橋秀野(ヒデノ)(1909-1947):女性俳人。「蝉時雨子は担送車に追ひつけず」(重篤となりストレッチャーで運ばれる。6歳の娘が追いかけるが追いつけない。)
★石田波郷(ハキョウ)(1913-1969):結核のため肋骨7本を切除した。「綿虫やそこは屍(カバネ)の出(イ)で行く門」(清瀬村の国立東京療養所の門だ。綿虫は冬の季語。)
★尾崎紅葉(1867-1903):「ごぼゝと薬飲みけりけさの秋」(紅葉は、胃癌で亡くなった。)
★石川桂郎(ケイロウ)(1909-1975):「裏がへる亀思ふべし鳴けるなり」(食道癌が見つかり1年、66歳で亡くなった。亀は病臥の桂郎の自画像。)
★江國滋(シゲル)(1934-1997):「敗北宣言」と前書きし「おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒」(1997年食道癌と診断され、その年の8月に死去。)
★折笠(オリガサ)美秋(ビシュウ)(1934-1990):筋委縮性側索硬化症(ALS)に罹り55歳で亡くなった。「ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう」(自分のいない妻の人生を励まし、自分の無念を慰めた。)
★田中裕明(ヒロアキ)(1959-2004):白血病と診断され、5年後に亡くなった。「空へゆく階段のなし稲の花」(彼にはこの階段が見えて、昇ったかもしれない。)

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浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(70)-3 百田氏の誤り③:日本の「フィリピンの独立」の承認は「軍事・外交・経済等ニ亙(ワタ)リ帝国ノ強力ナル把握下」にすぎない!

2021-04-22 15:29:12 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「大東亜戦争」の章(235-314頁)

(70)-3 百田氏の誤り③:日本による1943年の「フィリピンの独立」の承認といっても、1935年にはすでに、M.L. ケソン大統領の独立準備政府が成立しており、1944年に独立の予定だった!(浮世278-279頁)
K-5 フィリピンについて百田氏は日本が1943年「10月14日にフィリピンの独立を承認している」(百田392頁)と述べるが、(ア)そもそもフィリピンは長い独立運動のもと、1934年にアメリカから10年後の独立を約束されていた。そして翌1935年にはすでに、M.L. ケソン大統領の独立準備政府が成立しており、1944年に独立の予定だった。
(イ)1942年のコレヒドールの戦いの後、ケソン大統領はオーストラリアに脱出してアメリカへの亡命を余儀なくされた。(※日本は独立準備政府を認めなかった。つまり日本は「フィリピンの独立」のために戦ったわけでない。)
(ウ)1942年マニラを占領した日本は、「南方占領地行政実施要領」・「南方経済対策要綱」にもとづき「軍政」を敷いた。(※つまり日本は「フィリピンの独立」を認めない。)
(ウ)-2 そして軍票・南発券の乱発で経済が混乱、さらにサトウキビ・綿花の強制作付けが行われた。(※つまり日本の占領で、フィリピンの人々はひどい目にあっただけだ。)
(ウ)-3  1942年「バターン死の行進」では多くのアメリカ兵・フィリピン兵捕虜等が亡くなった。
(エ) 日本の「軍政」による支配・圧政に対し、元フィリピン兵は山中に籠ってパルチザン活動を行う。1942年3月に抗日人民軍(フクバラハップ、Hukbong Bayan Laban sa mga Hapon)が結成された。
(オ)  日本が1943年「10月14日にフィリピンの独立を承認している」といっても形だけにすぎない。つまり1942年7/8の「軍政総監指示」によれば「此ノ独立ハ、軍事・外交・経済等ニ亙(ワタ)リ帝国ノ強力ナル把握下ニ置カルベキ独立ナル点特ニ留意ヲ要スル」とある。

K-5-2 百田氏は「1943年には東京で、中華民国、満州国、インド、フィリピン、タイ、ビルマの国家的有力者を招いて『大東亜会議』を開いている」(百田392頁)と述べ、日本がアジアの人々に「植民地支配からの解放」をもたらそうとした実例とする。(浮世277頁)しかしこの会議で「マレー、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは帝国領土」と宣言されている。日本は「石油・天然ゴム・スズなどの戦略物資の産出される地域の独立は認めない」。(浮世279頁)

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