※ §18 Bewandtnis und Bedeutsamkeit; die weltlichkeit der Welt
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」
(3)-3 現存在の存在様相:「差しおく」(適所をえさせる)!
E 「差しおく」(Bwendenlassen、適所をえさせる)
E-2 「趣向性(適所性)へ明け渡していつもはじめから措置して(差しおいて)いるということは、現存在の存在様相そのものの特徴をなすアプリオリ的完了態(ein apriorisches Perfekt)である。」
《感想3》アプリオリ的完了態とは、アプリオリにすでにそのようになっている、つまり可能態でなく完了態だということ!
E-3 「差しおく(適所をえさせる)」とは、用具的なものを、それがともかく現にある通りのありさまで、その趣きのままに差しおく、存在させておくということだ。(84-85頁)
E-4 存在者を環境内部の「用具性」へ先行的に(※アプリオリに)明け渡している。
E-5 存在者は環境世界では、単に「客体的に」存在しているだけの「世界素材」であることはない。
(4)現存在の世界了解!
F 「存在者としての現存在が、いつもすでに関わり合っている世界を了解している。」(86頁)
《感想4》「存在者としての現存在」(ハイデガー)とは、実に不思議な言い方だ。本来、現存在は存在者でない。私見では、現存在はモナド=世界そのものだ。世界そのものは、存在者でない。
《感想4-2》「世界を了解している」(ハイデガー)とは、私見では、超越論的主観性(超越論的意識)である現存在(モナド)における、ノエシス(主要には自発性としての注視であるが受動性も含む)とノエマの分裂的総合(一者)のことだ。意識は、いわば感じる(見る)ものと感じられるもの(見られるもの)の分裂的総合(一者)だ。
《感想4-3》「了解(Verstehen)」については、第31節で詳しく述べるとハイデガーが言う。(87頁)
(5)世界:存在者を趣向性(適所性)という存在様相で出会わせる地平的場面!&世界との親しみ(Weltfertrautheit)!
G 「自分を指し向ける自己了解の場面が、存在者を趣向性(適所性)という存在様相で出会わせる地平であると述べたが、その地平的場面が、すなわち世界の現象なのである。」(86頁)
G-2 そして現存在は世界に親しんでいる。「世界との親しみ(Weltfertrautheit)が現存在の存在了解に含まれる。」(86頁)
(6)有意義性(Bedeutsamkeit):「自己の存在と存在可能とを自己に会得させる」という自己への「指意」の全体!
H 「世界内存在に関して、自己の存在と存在可能とを自己に会得させようとする。」(87頁)この自己への「指意」の全体が、有意義性(Bedeutsamkeit)である。
H-2 「現存在はいつもすでに有意義性に親しんでいる。」(87頁)
(7)存在論的問題圏における3つの原理的区分:①用具性、②客体性、③世界の世界性!
I 存在論的問題圏における3つの原理的区分。(88頁)
I-1 「第一に、世界の内部で身近に出会う存在者の存在(用具性)」
I-2 「第二に、身近に出会う存在者を通って、独立の発見的態度で切り開いてゆくときに見いだされ、かつ規定可能となる存在者の存在(客体性)」
I-3 「第三に、世界の内部で存在するものが一般に発見可能となるための存在的可能条件の存在、すなわち世界の世界性」
J ③「世界の世界性」は「世界内存在すなわち現存在」の「実存論的規定」である。
J-2 「存在規定」①②は、「カテゴリー」であって、「現存在的でない存在様相をそなえた存在者」に関係する。
(8)「有意義性」として「世界性」を構成する「指示の連関」!
K 「有意義性」として「世界性」を構成する「指示の連関」は、形式的に見れば、関係体系である。
《感想5》「世界」(※環境世界)すなわち「指示連関の全体性」とは、「道具立て全体」に含まれる「多様な指示関係」1~9(第15節)全体のことである。(第16節も参照!)
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」
(3)-3 現存在の存在様相:「差しおく」(適所をえさせる)!
E 「差しおく」(Bwendenlassen、適所をえさせる)
E-2 「趣向性(適所性)へ明け渡していつもはじめから措置して(差しおいて)いるということは、現存在の存在様相そのものの特徴をなすアプリオリ的完了態(ein apriorisches Perfekt)である。」
《感想3》アプリオリ的完了態とは、アプリオリにすでにそのようになっている、つまり可能態でなく完了態だということ!
E-3 「差しおく(適所をえさせる)」とは、用具的なものを、それがともかく現にある通りのありさまで、その趣きのままに差しおく、存在させておくということだ。(84-85頁)
E-4 存在者を環境内部の「用具性」へ先行的に(※アプリオリに)明け渡している。
E-5 存在者は環境世界では、単に「客体的に」存在しているだけの「世界素材」であることはない。
(4)現存在の世界了解!
F 「存在者としての現存在が、いつもすでに関わり合っている世界を了解している。」(86頁)
《感想4》「存在者としての現存在」(ハイデガー)とは、実に不思議な言い方だ。本来、現存在は存在者でない。私見では、現存在はモナド=世界そのものだ。世界そのものは、存在者でない。
《感想4-2》「世界を了解している」(ハイデガー)とは、私見では、超越論的主観性(超越論的意識)である現存在(モナド)における、ノエシス(主要には自発性としての注視であるが受動性も含む)とノエマの分裂的総合(一者)のことだ。意識は、いわば感じる(見る)ものと感じられるもの(見られるもの)の分裂的総合(一者)だ。
《感想4-3》「了解(Verstehen)」については、第31節で詳しく述べるとハイデガーが言う。(87頁)
(5)世界:存在者を趣向性(適所性)という存在様相で出会わせる地平的場面!&世界との親しみ(Weltfertrautheit)!
G 「自分を指し向ける自己了解の場面が、存在者を趣向性(適所性)という存在様相で出会わせる地平であると述べたが、その地平的場面が、すなわち世界の現象なのである。」(86頁)
G-2 そして現存在は世界に親しんでいる。「世界との親しみ(Weltfertrautheit)が現存在の存在了解に含まれる。」(86頁)
(6)有意義性(Bedeutsamkeit):「自己の存在と存在可能とを自己に会得させる」という自己への「指意」の全体!
H 「世界内存在に関して、自己の存在と存在可能とを自己に会得させようとする。」(87頁)この自己への「指意」の全体が、有意義性(Bedeutsamkeit)である。
H-2 「現存在はいつもすでに有意義性に親しんでいる。」(87頁)
(7)存在論的問題圏における3つの原理的区分:①用具性、②客体性、③世界の世界性!
I 存在論的問題圏における3つの原理的区分。(88頁)
I-1 「第一に、世界の内部で身近に出会う存在者の存在(用具性)」
I-2 「第二に、身近に出会う存在者を通って、独立の発見的態度で切り開いてゆくときに見いだされ、かつ規定可能となる存在者の存在(客体性)」
I-3 「第三に、世界の内部で存在するものが一般に発見可能となるための存在的可能条件の存在、すなわち世界の世界性」
J ③「世界の世界性」は「世界内存在すなわち現存在」の「実存論的規定」である。
J-2 「存在規定」①②は、「カテゴリー」であって、「現存在的でない存在様相をそなえた存在者」に関係する。
(8)「有意義性」として「世界性」を構成する「指示の連関」!
K 「有意義性」として「世界性」を構成する「指示の連関」は、形式的に見れば、関係体系である。
《感想5》「世界」(※環境世界)すなわち「指示連関の全体性」とは、「道具立て全体」に含まれる「多様な指示関係」1~9(第15節)全体のことである。(第16節も参照!)