宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第3章 世界の世界性」「A 環境性と世界性一般の分析」「第18節 趣向性(適所性)と有意義性、世界の世界性」(その2)

2019-04-30 15:00:55 | Weblog
※ §18 Bewandtnis und Bedeutsamkeit; die weltlichkeit der Welt
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」

(3)-3 現存在の存在様相:「差しおく」(適所をえさせる)!
E 「差しおく」(Bwendenlassen、適所をえさせる)
E-2 「趣向性(適所性)へ明け渡していつもはじめから措置して(差しおいて)いるということは、現存在の存在様相そのものの特徴をなすアプリオリ的完了態(ein apriorisches Perfekt)である。」

《感想3》アプリオリ的完了態とは、アプリオリにすでにそのようになっている、つまり可能態でなく完了態だということ!

E-3 「差しおく(適所をえさせる)」とは、用具的なものを、それがともかく現にある通りのありさまで、その趣きのままに差しおく、存在させておくということだ。(84-85頁)
E-4 存在者を環境内部の「用具性」へ先行的に(※アプリオリに)明け渡している。
E-5 存在者は環境世界では、単に「客体的に」存在しているだけの「世界素材」であることはない。

(4)現存在の世界了解!
F 「存在者としての現存在が、いつもすでに関わり合っている世界を了解している。」(86頁)

《感想4》「存在者としての現存在」(ハイデガー)とは、実に不思議な言い方だ。本来、現存在は存在者でない。私見では、現存在はモナド=世界そのものだ。世界そのものは、存在者でない。
《感想4-2》「世界を了解している」(ハイデガー)とは、私見では、超越論的主観性(超越論的意識)である現存在(モナド)における、ノエシス(主要には自発性としての注視であるが受動性も含む)とノエマの分裂的総合(一者)のことだ。意識は、いわば感じる(見る)ものと感じられるもの(見られるもの)の分裂的総合(一者)だ。
《感想4-3》「了解(Verstehen)」については、第31節で詳しく述べるとハイデガーが言う。(87頁)

(5)世界:存在者を趣向性(適所性)という存在様相で出会わせる地平的場面!&世界との親しみ(Weltfertrautheit)!
G 「自分を指し向ける自己了解の場面が、存在者を趣向性(適所性)という存在様相で出会わせる地平であると述べたが、その地平的場面が、すなわち世界の現象なのである。」(86頁)
G-2 そして現存在は世界に親しんでいる。「世界との親しみ(Weltfertrautheit)が現存在の存在了解に含まれる。」(86頁)

(6)有意義性(Bedeutsamkeit):「自己の存在と存在可能とを自己に会得させる」という自己への「指意」の全体!
H 「世界内存在に関して、自己の存在と存在可能とを自己に会得させようとする。」(87頁)この自己への「指意」の全体が、有意義性(Bedeutsamkeit)である。
H-2 「現存在はいつもすでに有意義性に親しんでいる。」(87頁)

(7)存在論的問題圏における3つの原理的区分:①用具性、②客体性、③世界の世界性!
I 存在論的問題圏における3つの原理的区分。(88頁)
I-1 「第一に、世界の内部で身近に出会う存在者の存在(用具性)」
I-2 「第二に、身近に出会う存在者を通って、独立の発見的態度で切り開いてゆくときに見いだされ、かつ規定可能となる存在者の存在(客体性)」
I-3 「第三に、世界の内部で存在するものが一般に発見可能となるための存在的可能条件の存在、すなわち世界の世界性」
J ③「世界の世界性」は「世界内存在すなわち現存在」の「実存論的規定」である。
J-2 「存在規定」①②は、「カテゴリー」であって、「現存在的でない存在様相をそなえた存在者」に関係する。

(8)「有意義性」として「世界性」を構成する「指示の連関」!
K 「有意義性」として「世界性」を構成する「指示の連関」は、形式的に見れば、関係体系である。

《感想5》「世界」(※環境世界)すなわち「指示連関の全体性」とは、「道具立て全体」に含まれる「多様な指示関係」1~9(第15節)全体のことである。(第16節も参照!)

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ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第3章 世界の世界性」「A 環境性と世界性一般の分析」「第18節 趣向性(適所性)と有意義性、世界の世界性」(その1)

2019-04-27 13:17:45 | Weblog
※ §18 Bewandtnis und Bedeutsamkeit; die weltlichkeit der Welt
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」

(1)用具的(道具的)存在者(Zuhandenes)は、世界の内部で出会う!
A 「用具的(道具的)存在者は、世界の内部で出会う。」この存在者の存在が「用具性」(道具的存在性、Zuhandenheit)である。
A-2 「何がそこで出会うにつけても、世界はそれに先立ってすでに、非主題的にではあるが、発見されている。」
A-3 「世界の内部で出会うものは・・・・配慮的配視に向けて、その存在において明け渡されて(解放されて)いる。」

(2)用具的存在者の存在性格は、趣向性(Bewandtnis、適所性)である!つまり趣かされる(適所をえさせられる)!
B 用具的存在者の道具的構造が、「指示関係」(※目的連関)である!
B-2 「世界はどうして、かような存在様相をもつ存在者を、それの存在に関して明け渡す(解放する)ことができるのか」。
B-3 「用具的存在者の存在性格は、趣向性(Bewandtnis、適所性)である。」その存在者は「なにかへ指し向けられている」。その結果、その存在者は趣かされる(適所をえさせられる)。

《感想1》「《・・・・・・するためにある》」という構造のなかには、「なにかをあることへ向けて指示する」ということが含まれる。これが「指示(Verweisung)」(※目的連関)である。「道具立て全体」には「多様な指示関係」が含まれる。(第15節(7)参照)

(3)「趣向(適所)全体性」(die Bewandtnisganzheit):A.シュッツの目的動機の連関の全体!or目的連関の全体!
C 存在者たるかぎり、それぞれにはそれぞれの(※用具的な)趣向性(適所性)がある。
C-2 「それの趣向(適所)の趣くところは、それが何のために役立つか、何のように使われるかという用途である。」
C-3 趣向(適所)は次々と連関する。この連関の全体が「趣向(適所)全体性」(die Bewandtnisganzheit)である。

《感想2》「趣向全体(適所)性」とは、目的連関の全体のことだ。例えば、食材を集める⇒調理する⇒食事する⇒生きる⇒死にたくない。
《感想2-2》なお目的連関(指示連関)の全体における「死にたくない」という最上位の目的は、死への根本的不安(A.シュッツ)という「主旨」(Worum-willen)に支えられる。「主旨」をA. シュッツは「究極の理由動機」と呼ぶ。(後述)

(3)-2 「主旨」(Worum-willen):A. シュッツの「究極の理由動機」!
D 「趣向(適所)全体性(※目的連関の全体)そのものは、突き詰めていくと、もはやいかなる趣向(適所性)をもたない《・・・・・・のため》(※究極の理由動機)へ帰着する。」
D-2 この「第一義的な《・・・・・・のため》」は「なんらかの趣向(適所性)をそなえている用途(※目的)」ではない。それは《・・・・・・を主旨とする》というその主旨(※理由)である。」
D-3 そしてこの「主旨」(※究極の理由動機)は、「現存在の存在(Cf. 用具的存在者or内世界的存在者)についてのみ言われうる。」

《感想2》A. シュッツは、目的連関に属す動機、つまり個々の目的を設定させる動機(上位の意図・目的)を「目的動機」と呼ぶ。
《感想2-2》そして目的動機を生み出す感情的根拠、つまり個々の目的を支える感情的根拠あるいは最終目的を生み出す感情的根拠を、「理由動機」あるいは「究極の理由動機」とよぶ。
《感想2-3》ハイデガーの「主旨」は、シュッツの「究極の理由動機」にあたる。ハイデガーの「指示連関」はシュッツの「目的動機」の連関である。
《感想2-4》A.シュッツによれば、「究極の理由動機」は死への「根本的不安」(fundamental anxiety)である。

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ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第3章 世界の世界性」「A 環境性と世界性一般の分析」「第17節 指示と記号」(その2)

2019-04-26 11:44:44 | Weblog
※ §17 Verweisung und Zeichen
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」

(3)-3 「記号の設定」!
C 「記号の設定」が、すでに存在していた用具的なものを「記号として受け取る」という仕方でなされることがある。Ex. 例えば「南風」が、「雨の前ぶれ」(記号)として設定される。
C-2 「記号として受け取られたものが表示する(Zeichen)ことによって、すでに用具的に存在していた道具立て全体と環境世界全般が、配視的に見通しのきく処理可能性を帯びてくる」。

(3)-4 未開人にとっては、「記号」は「それが表示するもの」と合体する!
D 未開的現存在(※未開的モナド)におけるおびただしい「記号」使用。例えばフェティシズムや呪術。
D-2 未開人にとっては、「記号」は「それが表示するもの」と合体する。
D-3 「この『合体』は、はじめに分離されていたものが同一視されるということではなく、記号が表示(Zeichen)されたものからまだ解離されていないということなのである。」(82頁)

《感想4》呪術では、藁人形(記号)が人(表示されたもの)から「解離」しない。藁人形は人である。一者が、二つの形象(藁人形と人)をとる。藁人形と人が区別されるが、同一だ。藁人形に釘を打ち込むことは、人に釘を打ち込むことだ。藁人形(に見えるもの)は人であり、人(に見えるもの)は藁人形だ。

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ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第3章 世界の世界性」「A 環境性と世界性一般の分析」「第17節 指示と記号」(その1)

2019-04-25 23:35:45 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」

(1)用具的存在者(道具)は「指示関係」のうちにある!
A 用具的存在者(道具)は、すでに見たように、「指示関係」(Verweisen)のうちにある。

《感想1》存在者はすべて用具的存在者(道具)だ。現存在の存在は、配慮である。そして存在者は配慮されて存在する。
《感想1ー2》「指示関係」とは主要には目的連関である。(Cf. それ以外の指示関係もある。指示関係8・9!)第16節の「多様な指示関係」1~9参照。
《感想2》私見では、ノエシスが「配慮」であり、これが「存在」だ。
《感想2ー2》ノエシス=「配慮」は、関心と注視(「配視」)からなる。
《感想2ー3》ノエマは、「存在者」だ。
《感想2ー4》存在了解とは、普通に言う《意識》である。これはノエシスとノエマの2契機からなる総合(一者となること)だ。ノエシスとノエマの分裂と総合が意識の内実である。
《感想2ー5》なおノエシスは関心(「配慮」)と注視(「配視」つまり《関心に基づく注視》)に区分できる。

(2)「記号」という道具
B 「指示関係」(Verweisen)という現象をいっそう明瞭にとらえるため、「記号」(Zeichen)という道具を取り上げる

《感想3》現存在は世界(※モナド)であり、内世界的存在者は、すべて用具的存在者(道具)だ。
《感想3ー2》かくて「記号」も当然、道具である。

(3)ある道具を記号として規定する有用性とは何か?
B-2 記号に特有な道具性格は「表示する」(Zeigen)だ。
B-3 「表示という意味での『指示』は、道具の存在構造に、すなわち、ある用途への有用性にもとづく。」(78頁)
B-4 ある道具を「この特定の(表示という)用途」(※記号)として規定する有用性とは何か?
B-5 「表示のための道具(※記号)」は「配慮的交渉」において「格別の仕方」で使用される。

(3)-2 「記号」は、おのれ(※記号)を主題的に把握するのでない配視、すなわち環境世界のそのつどの「身の廻り」をはっきりと見渡すような配視(配慮的交渉)を引き起こす!
B-6 「記号」(Ex. 自動車の右左折用の赤い矢)は、その用具的存在者(※記号)を主題的に把握するのでない配視、すなわち環境世界のそのつどの「身の廻り」をはっきりと見渡すような配視(配慮的交渉)を引き起こす。(79頁)
B-7 つまり「記号」によって環境世界の内部で「案内を知る」。(Ex. 自動車をよける、立ち止まる)
B-8  記号は「ひとまとまりの道具立て全体」をことさら配視に浮かび上がらせ、それと同時に、用具的存在者(※記号そのもの)の世界適合性が通示される。(※記号が役立つものであると示されること!)
B-9 記号は、我々が生活している「場面」を、すなわち配慮が身を置いている「あたり」を表示する。

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ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第3章 世界の世界性」「A 環境性と世界性一般の分析」「第16節 内世界的存在者において通示される、環境世界の世界適合性」

2019-04-24 19:50:27 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」

(1)配慮的な世界内存在に、内世界的存在者が出会い、それと同時になにか世界というものも現れてくる!
A 「世界そのものは、世界の内部にある存在者の一つでない。」(ハイデガー)

《感想1》私見では、現存在はモナドであり、世界だ。この限りで現存在は存在者でない。(以上、イデガーの現存在概念①)
《感想1ー2》だがハイデガーは同時に、「現存在という存在者」と明確に言う。これは、物である身体に引き寄せられた現存在だ。(以上、ハイデガーの現存在概念②)

A-2 「世界」はこれらの「内世界的存在者」を規定していて・・・・それら「内世界的存在者」が現れてきたりすることができるのも、実はひとえに「世界が『与えられている』」からなのである。
A-3 「現存在は世界の了解を・・・・前存在論的な了解ではあるが、もっている」。

《感想2》「了解」とは、私見では、日常用語における《意識》することに相当する。《意識》するとは、モナド(超越論的主観性)において、常にノエシスとノエマの分裂が起きているということだ。なおノエシスは、《関心》と《注視》からなる。

A-4 「配慮的な世界内存在に、内世界的存在者が出会い、したがってそれの内世界性が現れてくるとともに、それと同時になにか世界というものも現れてくる」。

(2)内世界的なものの世界適合性(die Weltmässigkeit)を表立たせる配慮の諸様態①:使用不可能な道具の「目立たしさ」!
B 工作道具が破損しているとか、材料が駄目だとかいう場合、道具は使用不可能となり、役に立たないもの、「不用具性」において「目立たしさ」を示すようになる。
Bー2 使用不可能な道具には、「単純な客体性」がきざしてくる。

(3)内世界的なものの世界適合性を表立たせる配慮の諸様態②:手もとにない道具を求める「催促がましさ」!
C 道具の不在の発見。手もとにないもの(※道具)に気がつくと、手もとにあるものは「催促がましさ」の様相を帯び、「用具性」を失う。その用具的存在者(手もとにあるもの)は、配慮の欠如的様態である客体性において(つまり客体的存在者として)発見される。

(4)内世界的なものの世界適合性を表立たせる配慮の諸様態③:「邪魔になる」用具的存在者の「煩わしさ」!
D 配慮の「邪魔になるという意味での不用具的なもの」の「煩わしさ」。(Ex.場違いなもの、尚早なもの)用具的存在者が、客体性において(つまり客体的存在者として)発見される。

(5)用具性の告別(上記①②③)において、用具的存在者の世界適合性が現れる!
E ①使用不可能な道具の「目立たしさ」、②手もとにない道具を求める「催促がましさ」、③「邪魔になる」用具的存在者の「煩わしさ」において、用具的存在者は、用具性を失っていく。
E-2 このとき、「非主題的にではあるが、すでに了解されていた」用具性が、いわば別れを告げにくる。
E-3 「この告別において、用具的存在者の世界適合性も現れる。」

《感想3》自明的親近性(familiarity, A.シュッツ)が失われて、つまり問題化して(problematic, A.シュッツ)、世界適合性、つまり、《用具的存在者が用具性において配慮的世界に適合している》ということが現れてくる。

(6)世界(※環境世界)は、用具性の告別(上記①②③)において、通示されてくる(※つまり主題化されてくる)が、いつもすでに非主題的に開示されている!
F 環境世界(※世界内存在にとって世界とは、環境世界だ)は、用具性の告別(上記①②③)において、通示されてくる。(※つまり主題化されてくる。)
F-2 だが環境世界は、いつもすでに(※非主題的に)開示されている。開示態(Ershlossenheit)!
F-3 「世界との親しみ」のなかで現存在は,われを忘れて内世界的に出会うものごとにたずさわる。
F-4「配視的配慮が世界の内部にある用具的存在者に接しうる」時、「いつもすでに世界があらかじめ開示されている」。

(7)まとめ:「現存在がこのように親しんでいる」世界とは、「配視」がそのなかで「動いて」いる「指示連関の全体性」のことである!

《感想4》「世界」(※環境世界)すなわち「指示連関の全体性」とは、「道具立て全体」に含まれる「多様な指示関係」1~9全体のことである。(第15節参照)

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ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第3章 世界の世界性」「A 環境性と世界性一般の分析」「第15節 環境世界のなかで出会う存在者の存在」(その4)

2019-04-24 11:27:16 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」

(8)「指示関係」(その6):「着用者や利用者への指示」(この指示が「作品」のうちに含まれる)!
M 「製作された作品」(「製品」Ex. 服)のうちに「着用者や利用者への指示」が含まれる。(手工業段階では着用者や利用者は具体的だ。)既製品の製造では、「不特定」「任意」「並み(※平均的)」の人々への指示が含まれる。

(8)-2 「指示関係」(その7):「作品」とともに「現存在というありかたをする存在者」とも出会う!
M-2 かくて「作品」とともに出会うのは「用具的に存在している存在者」だけではなく「現存在というありかたをする存在者」とも出会う。「製作されたものは、彼(※現存在というありかたをする存在者)の配慮において彼の用に具わる。」

《感想2》ハイデガーにとって現存在(モナド)の複数性は前提だ。だがどのように現存在(モナド)同士が出会うのか?モナドの独我論的解釈から、どのように逃れるのか?現存在(モナド)の複数性の根拠は何か?いわゆる他我問題はどう解かれるのか?
《感想2-2》私見では、モナドは広義の心、超越論的主観性(超越論的意識)であり、かつ感覚においてモナドのうちに物そのものが出現する。モナドは(つまり物世界も含む)宇宙・世界だ。モナドの外、超越、物自体はない!

(8)-3 「指示関係」(その8):「作品」(「製品」)は「公開的世界」の中での用具的存在者だ!
M-3 かくて「作品」(「製品」)は「着用者や消費者がその内で生活している世界」、「われわれの世界である世界」、「公開的世界」(die öffentliche Welt)の中での「用具的存在者」だ。

(8)-4 「指示関係」(その9):(「作品」が指示する)公開的世界とともに、「環境的自然」が発見される!
M-4 「公開的世界とともに環境的自然(Umweltnatur)が発見されて、だれでもが接しうるものになっている。」
M-5 「環境的自然」の諸例:(a)道路・橋・建物などにおいて「配慮が特定の方面から発見している」自然、(b)屋根において考慮に入れられている「悪天候」、(c)時計において計算された「宇宙系における一定の星位」等々。

(9)「用具性」:「単純な客体性に対する用具性の根源性」
N 「作品(すなわちそれの構成的指示関係)において引き合いに出される・・・・内世界的存在者(※上記の指示関係その1-8)」はいつでも「発見可能」である。
N-2 これら「内世界的存在者」の存在様相は「用具性」である。
O 存在者がまず「客体的存在者」として存在し、それに「用具性」という「形容」(《Aspecte》)を押し付けるor「主観的に彩る」のでない。
O-2 「(※覚知的な)認識は・・・・世界内存在の、もとづけられた(※根源的でない)様態である。」
O-3  「配慮(Besorgen)において具わっている用具的存在者を通過したあとではじめて、認識が、ただ客体的に存在するだけのもの(※客体的存在者)を開発する方向へ進む」。
O-4 「『用具性』は、それ『自体において』あるがままの存在者にそなわる存在論的=カテゴリー的規定である。」

《感想3》「内世界的存在者」のうちに、ハイデガーは「現存在というありかたをする存在者」も含める。ハイデガーは、現存在を、一方でモナド(広義の心or超越論的主観性(超越論的意識)or(物世界も含む)宇宙・世界)とみなすとともに、他方でモナドのうちに出現する(物としての)身体ともみなしている。

(10)内世界的存在者(※上記の指示関係その1-9)を解釈する場合に、いつもはじめから「前提され」てしまっている「世界」!
P 「世界は、われわれがこれらの内世界的存在者(※上記の指示関係その1-9)を解釈する場合に、いつもはじめから『前提され』て」しまっている。
P-2 「これらの(※内世界的)存在者を寄せあつめても、その総和として『世界』というようなものが出てくるわけではない。」
P-3 「これらの(※内世界的)存在者から世界現象の挙示へ通ずる道はひらけているのであろうか。」

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ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第3章 世界の世界性」「A 環境性と世界性一般の分析」「第15節 環境世界のなかで出会う存在者の存在」(その3)

2019-04-22 20:08:20 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」

(5)日常的現存在が「配慮」において出会う存在者は「事物」でなく「道具」(das Zeug)である!
E 日常的現存在は、いつもすでに「配慮的交渉」というありさまで存在している。
E-2 かくて日常的現存在が出会う存在者は「事物」(res)でない。(「事物」の語には、すでに存在性格についての「予断」が含まれる。)
E-3 日常的現存在が「配慮」において出会う存在者は、「事物」でなく「道具」(das Zeug)である。
E-4 道具を道具としてあらしめるものが「道具性」である。

(6)道具は「道具立て全体」のなかにある!
F 「ひとつだけの道具は決して『存在』しない。」道具はひとまとまりの「道具立て全体」のなかにある。
F-2  道具は「《・・・・・・するためにあるもの》(《etwas um tu .... 》)」である。(Ex. 有用性、有効性、使用可能性、便利性)これらの連関が「道具立て全体」の「全体性」である。

(7) 「道具立て全体」に含まれる「多様な指示関係」!
Fー3 「《・・・・・・するためにある》」という構造のなかには、「なにかをあることへ向けて指示する」ということが含まれる。」これが「指示(Verweisung)」である。
Fー4 「道具立て全体」には「多様な指示関係」が含まれる。

(7)ー2 「指示関係」(その1):「ほかの道具との相属性」
G 道具というものは「ほかの道具との相属性」にもとづいて存在する。
Gー2 たとえば、インク・スタンド、ペン、インク、紙、下敷き、机、ランプ、家具窓、ドア、部屋は相属している。
Gー3 しかも個別的な道具に出会う以前に、「道具立ての全体」としての「部屋」が、主題的に把握されはしないが発見されている。

(7)-3 「指示関係」(その2):「《・・・・・・するためにある》」(※道具の目指す目的)!
H 道具を使用しながら、「配慮」は、それぞれの道具を構成する「《・・・・・・するためにある》という指示」(※道具の目指す目的)に服している。
H-2 これが道具の「用具性」(Zuhandenheit)という存在様相だ。(※ある目的に対する用具ということ。)

(7)-4 単に「眺めやる」だけの「理論的」態度‘&「配視」する日常的現存在の「実践的」態度!
I 日常的現存在が「配慮」において出会う存在者は常に「道具」であるのに(第15節(5)参照)、その存在者を、単に「事物」として「眺めやる」だけなのが「理論的」態度だ。
I-2 「道具」である存在者を、いつもすでに「配慮的交渉」というありさまで存在している日常的現存在が、「《・・・・・・するためにある》という指示」に服す時の見方が、「配視」(Umsicht)だ。この意味で、日常的現存在は常に「実践的」態度をとる。

(7)-5 「指示関係」(その3):「作品」(「作品」の製作のために道具はある!
J 第一義的に存在しているものは「作品」(そのつど製作されるべきもの)で、例えば工作道具そのものは、「配視」にとってさえ主題化されていない。

(7)-6 「指示関係」(その4):「用途」(「作品」は「用途」のための道具だ)!
K 「作品」もまた、道具という存在様式をもつ。つまり「作品」の使用可能性が向けられているところの「用途」。Ex. 「作品」である靴は、履くという「用途」のためにある。

(7)-7 「指示関係」(その5):「材料」(作品のために使用されるあるもの) 
L さらに「作品のうちには材料への指示が含まれている。」

(7)-8 「材料」(「天然産物」)としての「自然」!
L-2 「材料」には「生産される必要がなく、いつもすでに用具的に存在している存在者」もある。例えば「鋼鉄や鉄や鉱石や岩石や木材」など。
L-3 「こうして、使用される道具において、使用を通じて、『自然』もともに発見されている。」「天然産物(※天然資源)という眼で見られた『自然』」

(7)-9 「環境世界」における「自然」は「用具的」であり、「単純な客体性」において出会われるものでない!
L-4 日常的現存在が「配慮」において出会う存在者は、「事物」でなく「道具」(das Zeug)である。(第15節(5)参照)
L-5 かくて「環境世界」における「自然」は「用具的」であり、「単純な客体性」において出会われるものでない。

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ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第3章」「A」「第15節」(その2)補論(評者の私見):モナド・宇宙・世界・広義の心・超越論的主観性!

2019-04-22 09:52:57 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」
※「第3章 世界の世界性」
※「A 環境性と世界性一般の分析」
※「第15節 環境世界のなかで出会う存在者の存在」

《補論(評者の私見)》
(1)次々と現れてくる全体(宇宙)!
透明だ。明るい。広がり。闇。暗い。稠密(チュウミツ)な固体が所々にある。屈辱感が漂う。ここに出現する塊り。(普通、身体と呼ばれる。)塊りは増殖するor維持されor成長・衰亡する。次々と現れてくる全体(宇宙)。
(1)-2 退屈!
多くは似た出来事の出現。退屈の感情。出現し続けるここの塊り。
(1)-3 君&他者たち!
君はここの塊り。他者がそこの塊り。君と他者たちの無数の塊り。武装した塊り。君は攻撃され苦痛が君の塊りに満ち、周囲にもあふれ出る。君の塊りは壊れる。
(1)-4 はるばる遠く達する広がり(宇宙)!
生まれ出現し続ける多くの塊りとその広がり。はるばる遠く達する広がり(宇宙)。
(2)感覚、また感情・欲望・意図・夢!
塊りとその地平としての広がり(宇宙)が生まれ出現し続けるという出来事が感覚だ。また感情・欲望・意図・夢が生まれ出現する。
(2)-2 意味(イデア)世界&想像or虚構!
秩序が形成される。繰り返される重なりを指示する形象つまり意味(イデア)。意味(イデア)世界が、《生まれ出現し続ける出来事すべて》を指示する。意味世界は展開し想像or虚構が産出される。
(2)-3 モナド(宇宙)!
感覚・感情・欲望・意図・夢・意味世界・(意味世界の展開としての)想像or虚構。君はここの塊り(物)。そして物の広がり(地平)。この全体がモナド(宇宙)だ。
(3)共有された物の広がり!
そこの塊りとしての無数の他者たち。塊り(物としての身体)の間に共有される感覚(塊りの出現としての感覚)の出現、かくて共有された物の広がりの出現。(ここの塊りもそこの塊りも物だ!)
(3)-2 物の法則!
物の出現は強固な重なり(意味)を示す。物の出現の強固な重なりの意味世界が法則だ。物の法則。
(3)-3 ①物の広がり&②狭義の心!
①一方で、ここの塊り、そこの塊り、そして物の広がりの出現(以上、感覚)。②他方で個々の塊りに固有の感覚・感情・欲望・意図・夢の出現、それらを覆う意味世界、また(意味世界の展開としての)想像or虚構。これら②は狭義の心だ。
(3)-4 共有された意味(イデア)世界(その1):物世界!
(相互に他でありながら同時に区別されぬ一者としての感覚である)共有された物の広がりの出現。これは共有された意味(イデア)世界を出現させる。
(3)-5 共有された感情・欲望・意図・夢!
また、区別されぬ一者としての感情・欲望・意図・夢。これらもまた共有された意味(イデア)世界を産出する。
(3)-6 想像or虚構:個々のモナドに属す場合&諸モナドの間で共有される場合!
(意味世界の展開としての)想像or虚構は、(塊りを含む)個々のモナドに属す場合も、(各塊りを含む)諸モナドの間で共有されることもある。
(4)君とはモナドだ!
塊り(身体)はモナドの中心だ。君とはモナドだ。つまり君は苦痛であり、感情であり、欲望・意図(自発性という感情とその展開)であり、夢であり、それらを覆う意味世界であり、また(意味世界の展開としての)想像or虚構だ。
(4)-2 モナドとしての君は塊り(物かつ身体)であり、物の広がりとしての物世界を含む!
モナドとしての君は塊り(物かつ身体)であり、物の広がりとしての物世界を含む。物は触れられる物、見える物、味わえる物、匂いがする物、聞こえる物だ。
(4)-3 こことは物が最強に出現する現場だ!
こことは、苦痛であり、また物が最強に出現する現場(感覚の出現の現場)(感覚器官の場)つまり塊り(身体)の出現する現場だ。
(4)-4 ここの塊り(身体)!
そしてここの塊り(身体)は、固有の感覚そのものであり(物の出現)、また感情・欲望・意図(自発性という感情とその展開)に応じて動き動かせる唯一の物だ。ここの塊りは夢とも連関する。
(4)-5 意味(イデア)世界!
意味(イデア)世界が感覚・感情・欲望・意図・夢を覆い、(意味世界の展開としての)想像or虚構も出現する。
(4)-6 モナド!
ここの塊り(普通、身体と呼ばれる)を中心としたこうした感覚・感情・欲望・意図・夢の出現、それらを覆う意味世界、また(意味世界の展開としての)想像or虚構の全体が、モナドだ。
(4)-7 モナド・宇宙・世界・広義の心・超越論的主観性!
君はモナドだ。君は宇宙(世界)だ。宇宙は(広義の)心だ。このモナドor 宇宙(世界)or(広義の)心が、君だ。(広義の)心は超越論的主観性とも呼ばれる。

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ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第3章 世界の世界性」「A 環境性と世界性一般の分析」「第15節 環境世界のなかで出会う存在者の存在」(その1)

2019-04-21 11:08:40 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」

(1)「日常的な世界内存在」とは、「交渉」Umgang(「配慮」Besorgen)である!
A 分析の手引きは「日常的な世界内存在」である。それは「世界の内で、かつ内世界的存在者(※「覚知」に基づく客体的存在者でない)にたずさわる交渉(Umgaug)」とも呼ばれる。(67頁)
A-2 「交渉」はさまざまな「配慮の様式」(「交渉の様式」)へ分散している。

(2)「日常的な世界内存在」のもっとも身近な「配慮の様式」は、「ものを操作し使用する配慮(Besorgen)」だ!
B もっとも身近な「配慮の様式」(「交渉の様式」)は、「ただ覚知するだけの認識」でない。
B-2 それは「ものを操作し使用する配慮(Besorgen)」だ。

(3)「存在者」は副主題(予備主題)であり、「存在」が本来の主題だ!
C 「存在」の開示・解明に当たり、「存在者」は予備主題or副主題であり、「存在」こそが本来の主題だ。
C-2 当面の分析では、副主題の「存在者」(※これは二重であって、第1に現存在だが、さらに第2に、ここでの分析では、内世界的存在者が扱われる)は「環境世界的な配慮において(im umweltlichen Besorgen)現れてくる存在者」だ。(67頁)

《感想1》現存在はモナドだ。
《感想1-2》モナド(現存在)において、存在するとは、「ただ覚知する」ことでなく、例えば「ものを操作し使用する」(「配慮する」)ことだ。現存在の存在は、ただ《ある》として現れる(現象する)のでなく、《便利だ》《役立つ》等々の「配慮」として現れる(現象する)。
《感想1-3》(※単なる「覚知」にもとづく)客体的存在者でない、「現存在のありかた」を示す存在者が、「世界にぞくする存在者」or「内世界的存在者」である。(第14節(8)-3参照)
《感想1-4》他なる現存在(モナド)(※《他我》)との出会いの問題について、ここまで、ハイデガーは、まだ語っていない。

(4)日常的現存在は、いつもすでに配慮的交渉というありさまで存在している!
D「副主題となる存在者」とは、例えば「使用中のもの」とか「製作中のもの」だ。
《感想1-5》ここでは明らかに「存在者」は、「現存在」ではない存在者だ。表題「第15節 環境世界のなかで出会う存在者の存在」における「存在者」は、他なる「現存在」ではなく、それ以外の「内世界的存在者」である。
《感想1-6》「現存在の存在」とは、《ある》でなく、《配慮する》だ!

D-2 「日常的現存在は、いつもすでに配慮的交渉というありさまで存在している」。(67頁)

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ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第3章 世界の世界性」「第14節 世界一般の世界性の理念」(その3)

2019-04-20 13:37:57 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」

(9)従来の存在論の誤り:「自然」をもとに、「世界」を解釈してきた!
L-1 「世界内存在という現存在の構成が、取り逃がされた」。かくて「世界性の現象も飛び越されてきた」。(65頁)
L-2 その代わりに人々は、「世界の内部に客体的に存在」し、「さしあたっては決して発見されていない存在者」、すなわち「自然」をもとに、「世界」を解釈してきた。
L-3 「自然」は「世界の内部にありうる存在者の存在の極限的な場合である。」
L-4 だが「このような自然認識」は、「世界の非世界化」である。

《感想4》「自然」を「世界」だと解釈するのは、ハイデガーの「世界」概念でないということ。既述のように、ハイデガーは、「世界」の語を、「三」「現存在」が「『その内で』『生活して』いる『ところ』」の意味で使用するからだ。
《感想4-2》「自然」の概念は、《「覚知」するという様態をとる「配慮」》つまり「認識」に基づく。「認識」は「世界との配慮的交渉」の「欠如的変容」だ。(第13節(4)参照)

(10)「環境世界(Umwelt)」:日常的現存在の最も身近な世界!
M 日常的現存在の最も身近な世界は「環境世界(Umwelt)」である。
M-2 「平均的な世界内存在の実存論的性格」である「環境世界」から出発して「世界性一般の理念」への道をたどる。
M-3 「環境の内部で身近に出会う存在者を存在論的に解釈することをつうじて、環境世界の世界性(環境性)を求める。」

(10)-2 「世界」の存在をres extensa(延長せるもの)、つまり空間性として解釈するデカルトの誤り!
N 環境とは「身の廻り」ということであり、第一義的に「空間的」でない。
N-2 これまでの存在論の誤りは、「空間性」をもとにして「世界」の存在を「res extensa(延長せるもの)」として解釈したことだ。デカルトがその典型!
N-3 かくて「世界」が、「res cogitans(思惟するもの)」に対立するものとされる。だが「このres cogitans(思惟するもの)は、存在的にも存在論的にも、現存在とは一致しない。」

(11)世界性の分析の3段階(「第3章 世界の世界性」)
「A 環境性と世界性一般の分析」(第15.16.17.18節)
「B 世界性の分析を、デカルトにおける世界の解釈と比較対照する」(第19.20.21節)
「C 環境世界の『身の廻り』的性格と現存在の空間性」(第22.23.24節)

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