(1)
人生には「大きなゴール」がある。それは「明日死にたくない」と思うことだ。つまり「明日死なないこと」だ。「死にたくない人たち」がこの世の「多数派」だ。(6-7頁)「正しい命の循環」の中にいる人たち!(181頁)
《感想》「多数派」にとっては、この世が「少数派」にとってのように「生きにくい」ことはない。
(2)
名門私立小5年の寺井泰希(タイキ)は、小3の時から不登校だ。父の寺井啓喜(ヒロキ)(40歳代)は検事だ。泰希(タイキ)は、「これからの時代、もう学校は必要ない」・「自分の力でやりたいことをやる」と説く小学生インフルエンサーに傾倒している。(29-30頁)
(3)
モールの寝具店につとめる桐生夏月(30歳代)は彼氏がいない。異性への性的興味がない。夏月は「性欲」にかんして「ありふれた人生の形」を生きることができない。彼女は「水フェチ」である。(44-47頁)
Cf. ただし夏月はいつもこう唱える。「睡眠欲は私を裏切らない」、「食欲は人間を裏切らない」。(93頁)
(3)-2
夏月は思う。「他者が登場しない人生」(①「異性愛」でない、また②「水フェチ」であることを隠さねばならない)は「本当に虚しい」。「私はあんたが想像もできないような人生を歩んでるんだ」って叫び散らして、「安易に手を差し伸べてきた人間から順に殺してやりたい」。
(3)-3
「蛇口から吹き出る水を見たかった」という「藤原悟」の器物損壊罪の記事を笑っていたクラスメイト全員を「ブチ殺してやりたかった」と(水フェチの)佳道が(水フェチの)夏月に言った。(366頁)
《感想1》「殺してやりたい」と多数派に殺意を持つ「非異性愛」者(少数派)は、他者が「異性愛者」である」というレッテルだけで、他者に対して殺意を持つ。「非異性愛」者(少数派)は「危険」とされるほかない。
《感想2》「手を差し伸べる」善意者よりも、少数派(非異性愛者)に対し唾を吐きかけ暴力的である「悪意者」の方がましだということか?(ひねくれ、かつ攻撃的だ。)
《感想2-2》そもそも「他者理解」は原理的に常に困難なのだから、「善意者」が「悪意者」よりも悪質とは言えないだろう。
(4)
神戸八重子(大1)は「人の美醜にランク付けする」のはおかしいと思い「ミスコン廃止」・「全員がミス・ミスターだ」と主張する。(48-49頁)ミスコンは「性的搾取」・「ルッキズム」を助長すると八重子は言う。(144頁)
(4)-2
女子の衣装が露出が多いのは「性的搾取」だと八重子は思う。(51頁)
(4)-3「ブスの僻みでミスコンがつぶれた」という陰口がある。(97頁)「ブスでデブのおまえは自意識過剰だ」との悪口もある。(156頁)
(4)-4
結局、学祭は「ミスコン」を廃止し、「ダイバーシティフェス」、「誰もが自分に正直になれて、繋がりを感じられる祝宴」になった。(208頁)
(5)
「恋愛感情によって結ばれた男女二人組」に八重子は興味がない。「ボーイズラブ」にも八重子は興味がない。(60-61頁)
(5)-2
八重子にとって「男という生き物が気持ち悪い」。9歳上の(2年以上)引きこもりの兄の部屋で、17歳の八重子がAV動画を発見し、「世の中の男が全員ああいう動画を家で独りじっくり楽しんでいる」と思い気持ち悪いと思うようになった。(213頁)
(5)-3
だが八重子は諸橋大也(大1)に恋心を持つようになる。「抱きしめてもらいたい」と思う。(68-69頁)
(5)-4
大也は「AVを経た眼差しで、自分を含めた女性のことを見ていない」と八重子は思い好意を持つ。だが実は大也は異性愛に無関心な「水フェチ」だ。(220頁)
(6)
「世間体」じゃなくて「子どもの人生」のために、子どもはきちんと「登校」すべきだと寺井啓喜(ヒロキ)は思う。小学生インフルエンサーが「学校はいらない」と言うが、「親の金で暮らしてる奴が、何言ってるんだ」だと啓喜(ヒロキ)は思う。(74-75頁)
(7)
諸橋大也(大1)は「異性愛者」(多数派)でない。大也は彼らの「無自覚な特権階級」度合に怒る!(317-318頁)
(7)-2
大也が自慰行為の際に思い浮かべるのは、女の姿でなく「水にまつわる映像」だ。大也にとって自由自在に形を変える水の姿は、他の何にも代替されえない「煽情的な存在」だ。(水フェチ!)(326頁)
(7)-3
大也は、「異性」に対する以外に様々な「性的嗜好」があることを中学2年生の時、SNSで知って安心した。①人が嘔吐する様子に性的興奮する「嘔吐フェチ」、②丸吞みされる様子に興奮する「丸呑みフェチ」、③時間停止・石化・凍結などによる人体変化に興奮する「状態異常/形状変化フェチ」、④風船そのものあるいは風船を膨らませる人に興奮する「風船フェチ」、⑤ミイラのように拘束する・されることを好む「マミフィケーションフェチ」、⑥「窒息フェチ」、⑦「腹部殴打フェチ」、⑧「流血フェチ」、⑨「真空パックフェチ」・・・・・・(325-327頁)このように様々な「特殊性癖」の当事者たち。(367頁)
(7)-4
世の中には「異常性癖」の者はたくさんいる。小児性愛のほか、風船を割ることに興奮するなど。(169頁)
(7)-5
大也は、「自分が想像しえない世界を否定せず、干渉せず、隣同士ただ共に在る」という「多様性」の概念を知った。大也は自分に正直に生きるため、声を上げず、ありのままの自分を、誰かにわかってもらおうとする必要のないまま生きていられることを知った。(327頁)
(8)
「社会に恨みがある」、「自分は社会に受け入れてもらえなかった」、「どうしようもなかった」と多くの被疑者が言い訳するが、「自分で自分をどうにかできるチャンスはいくらでもあっただろう」、「自己責任」があると検事の寺井啓喜(ヒロキ)は思う。(166頁)
(8)-2
検事の寺井啓喜(ヒロキ)は「小児性愛者」は「この世のバグみたいな奴らだ」、彼らは「性犯罪者予備軍」だと言う。(349頁)
(9)
桐生夏月(30代)と佐々木佳道(30代)は水の動きに性的に興奮する。水道の蛇口を壊し吹き出る水を見て性的に興奮する。「水フェチ」!(187頁)「蛇口を壊して思い切り水を噴出させてみたかった」と佳道が言った。(201頁)「水風船を割れないまま何度投げ合えるか対決」、「ホースの水をどこまで飛ばせるか対決」を見たい。(205頁)
(10)
「多数派」は少数派の性的嗜好(Ex. 水フェチ)に対して、「なんよそれ。意味わからん。まじウケる。でもキチガイは迷惑じゃなあ」と言う。(197頁)
(10)-2
「水フェチ」の桐生夏月と佐々木佳道は言う。「自覚してるもんね。自分たちが正しい生き物じゃないって。」(198頁)「社会の多数派から零れ落ちることによる自滅的な思考や苦しみ」!(244頁)
(10)-3
夏月と佳道は、「多数派」or「世間」を欺くため婚姻届けを出すが、「異性愛」には全く興味がなく、ともに「水フェチ」(噴出する水などに性的に興奮する)だ。すなわち「恋愛関係にない異性同士による婚姻」。(303-305頁)
(10)-4
「これまでずーっとウソつきながら生きてきた」と佳道。(303頁)
(11)
「多数派」は異性愛者であり、男子生徒の「多数派」は「どの女子部屋に行きたい」とか、「誰の風呂を覗きたい」とか、「普段、どんなAVを見てるか」など「下ネタ」でもりあがる。(193頁)
(11)-2
「マジョリティ」側に生まれ落ちれば自分自身と向き合う機会は少なく、「自分がマジョリティである」ということが唯一のアイデンティとなる。そしてそのように特に信念がない人ほど、自分が「正しい」と思う形に他人を正そうとする。(Ex . 田吉)(294頁)
(12)
朝井リョウ氏が言う。「人間は結局、自分のことしか知り得ない。」「社会とは、究極的に狭い視野しか持ち合わせていない個人の集まりだ。」(359頁)
《感想1》だが「人間は結局、自分のことしか知り得ない」という朝井リョウ氏の見解は誤りだ。各人の「細かい」感情・気分・意図については「自分のことしか知り得ない」が、「社会生活を営む上で必要」な他者の感情・気分・意図は十分(or不十分)に適切にわかる。
《感想1-2》法律的、政治的、軍事的、経済的、社会的、文化的等の諸制度は他者の相互了解の上に必要な限りで十分(or不十分)に適切になされる。文化的行為もしばしば共同行為である。(極めて私的・個人的行為以外の)社会生活or社会的相互行為の一切は、他者の感情・気分・意図の理解に基づく。そしてその他者理解によって社会生活or社会的相互行為は十分(or不十分)に適切に行われる。
《感想2》「数学」はきわめて間主観的であり、人々の共通の「理性」という名の相互(他者)理解の産物だ。
《感想3》「言語」も間主観的であり、人々の相互理解(他者理解)の産物だ。
(13)
佐々木佳道(30代)は「マイナーなフェチ当事者の精神的な互助会のようなコミュニティ」を組織しようとする。佳道は「今のうちに(水フェチの)仲間を作っておきたい」と言う。そしてそうした趣旨を佳道はSNSに投稿した。(386-387頁)
(13)-2
SNSでのやり取りで、「我々のような人間にとって、世の中って正直、恨みの対象だ」と佳道が述べる。「わかります」と大也。「でも社会を恨むことにももう疲れてきたんです」、「どうせこの世界で生きていくしかないんだから、少しでも生きやすくなるように、同じ状況の人ともっと繋がってみたくなったんです」と佳道が言う。(388-389頁)
《感想1》「正欲」とはすなわち「正しい」性欲のことだ。「正しい」性欲は、普通「多数派」の性欲(異性愛)とされる。
《感想2》だが「多様性」の肯定の観点からすれば「少数派」の性欲(特殊性癖、諸フェチ)も「正欲」すなわち「正しい」性欲だ。
《感想2-2》ただし皮肉なことに、「多様性」を認めるとは、実は「理解しがたいもの」、「嫌悪感を抱くもの」に「しっかり蓋をする」だけにすぎないという可能性が常にある。(Cf. 8-10頁)
人生には「大きなゴール」がある。それは「明日死にたくない」と思うことだ。つまり「明日死なないこと」だ。「死にたくない人たち」がこの世の「多数派」だ。(6-7頁)「正しい命の循環」の中にいる人たち!(181頁)
《感想》「多数派」にとっては、この世が「少数派」にとってのように「生きにくい」ことはない。
(2)
名門私立小5年の寺井泰希(タイキ)は、小3の時から不登校だ。父の寺井啓喜(ヒロキ)(40歳代)は検事だ。泰希(タイキ)は、「これからの時代、もう学校は必要ない」・「自分の力でやりたいことをやる」と説く小学生インフルエンサーに傾倒している。(29-30頁)
(3)
モールの寝具店につとめる桐生夏月(30歳代)は彼氏がいない。異性への性的興味がない。夏月は「性欲」にかんして「ありふれた人生の形」を生きることができない。彼女は「水フェチ」である。(44-47頁)
Cf. ただし夏月はいつもこう唱える。「睡眠欲は私を裏切らない」、「食欲は人間を裏切らない」。(93頁)
(3)-2
夏月は思う。「他者が登場しない人生」(①「異性愛」でない、また②「水フェチ」であることを隠さねばならない)は「本当に虚しい」。「私はあんたが想像もできないような人生を歩んでるんだ」って叫び散らして、「安易に手を差し伸べてきた人間から順に殺してやりたい」。
(3)-3
「蛇口から吹き出る水を見たかった」という「藤原悟」の器物損壊罪の記事を笑っていたクラスメイト全員を「ブチ殺してやりたかった」と(水フェチの)佳道が(水フェチの)夏月に言った。(366頁)
《感想1》「殺してやりたい」と多数派に殺意を持つ「非異性愛」者(少数派)は、他者が「異性愛者」である」というレッテルだけで、他者に対して殺意を持つ。「非異性愛」者(少数派)は「危険」とされるほかない。
《感想2》「手を差し伸べる」善意者よりも、少数派(非異性愛者)に対し唾を吐きかけ暴力的である「悪意者」の方がましだということか?(ひねくれ、かつ攻撃的だ。)
《感想2-2》そもそも「他者理解」は原理的に常に困難なのだから、「善意者」が「悪意者」よりも悪質とは言えないだろう。
(4)
神戸八重子(大1)は「人の美醜にランク付けする」のはおかしいと思い「ミスコン廃止」・「全員がミス・ミスターだ」と主張する。(48-49頁)ミスコンは「性的搾取」・「ルッキズム」を助長すると八重子は言う。(144頁)
(4)-2
女子の衣装が露出が多いのは「性的搾取」だと八重子は思う。(51頁)
(4)-3「ブスの僻みでミスコンがつぶれた」という陰口がある。(97頁)「ブスでデブのおまえは自意識過剰だ」との悪口もある。(156頁)
(4)-4
結局、学祭は「ミスコン」を廃止し、「ダイバーシティフェス」、「誰もが自分に正直になれて、繋がりを感じられる祝宴」になった。(208頁)
(5)
「恋愛感情によって結ばれた男女二人組」に八重子は興味がない。「ボーイズラブ」にも八重子は興味がない。(60-61頁)
(5)-2
八重子にとって「男という生き物が気持ち悪い」。9歳上の(2年以上)引きこもりの兄の部屋で、17歳の八重子がAV動画を発見し、「世の中の男が全員ああいう動画を家で独りじっくり楽しんでいる」と思い気持ち悪いと思うようになった。(213頁)
(5)-3
だが八重子は諸橋大也(大1)に恋心を持つようになる。「抱きしめてもらいたい」と思う。(68-69頁)
(5)-4
大也は「AVを経た眼差しで、自分を含めた女性のことを見ていない」と八重子は思い好意を持つ。だが実は大也は異性愛に無関心な「水フェチ」だ。(220頁)
(6)
「世間体」じゃなくて「子どもの人生」のために、子どもはきちんと「登校」すべきだと寺井啓喜(ヒロキ)は思う。小学生インフルエンサーが「学校はいらない」と言うが、「親の金で暮らしてる奴が、何言ってるんだ」だと啓喜(ヒロキ)は思う。(74-75頁)
(7)
諸橋大也(大1)は「異性愛者」(多数派)でない。大也は彼らの「無自覚な特権階級」度合に怒る!(317-318頁)
(7)-2
大也が自慰行為の際に思い浮かべるのは、女の姿でなく「水にまつわる映像」だ。大也にとって自由自在に形を変える水の姿は、他の何にも代替されえない「煽情的な存在」だ。(水フェチ!)(326頁)
(7)-3
大也は、「異性」に対する以外に様々な「性的嗜好」があることを中学2年生の時、SNSで知って安心した。①人が嘔吐する様子に性的興奮する「嘔吐フェチ」、②丸吞みされる様子に興奮する「丸呑みフェチ」、③時間停止・石化・凍結などによる人体変化に興奮する「状態異常/形状変化フェチ」、④風船そのものあるいは風船を膨らませる人に興奮する「風船フェチ」、⑤ミイラのように拘束する・されることを好む「マミフィケーションフェチ」、⑥「窒息フェチ」、⑦「腹部殴打フェチ」、⑧「流血フェチ」、⑨「真空パックフェチ」・・・・・・(325-327頁)このように様々な「特殊性癖」の当事者たち。(367頁)
(7)-4
世の中には「異常性癖」の者はたくさんいる。小児性愛のほか、風船を割ることに興奮するなど。(169頁)
(7)-5
大也は、「自分が想像しえない世界を否定せず、干渉せず、隣同士ただ共に在る」という「多様性」の概念を知った。大也は自分に正直に生きるため、声を上げず、ありのままの自分を、誰かにわかってもらおうとする必要のないまま生きていられることを知った。(327頁)
(8)
「社会に恨みがある」、「自分は社会に受け入れてもらえなかった」、「どうしようもなかった」と多くの被疑者が言い訳するが、「自分で自分をどうにかできるチャンスはいくらでもあっただろう」、「自己責任」があると検事の寺井啓喜(ヒロキ)は思う。(166頁)
(8)-2
検事の寺井啓喜(ヒロキ)は「小児性愛者」は「この世のバグみたいな奴らだ」、彼らは「性犯罪者予備軍」だと言う。(349頁)
(9)
桐生夏月(30代)と佐々木佳道(30代)は水の動きに性的に興奮する。水道の蛇口を壊し吹き出る水を見て性的に興奮する。「水フェチ」!(187頁)「蛇口を壊して思い切り水を噴出させてみたかった」と佳道が言った。(201頁)「水風船を割れないまま何度投げ合えるか対決」、「ホースの水をどこまで飛ばせるか対決」を見たい。(205頁)
(10)
「多数派」は少数派の性的嗜好(Ex. 水フェチ)に対して、「なんよそれ。意味わからん。まじウケる。でもキチガイは迷惑じゃなあ」と言う。(197頁)
(10)-2
「水フェチ」の桐生夏月と佐々木佳道は言う。「自覚してるもんね。自分たちが正しい生き物じゃないって。」(198頁)「社会の多数派から零れ落ちることによる自滅的な思考や苦しみ」!(244頁)
(10)-3
夏月と佳道は、「多数派」or「世間」を欺くため婚姻届けを出すが、「異性愛」には全く興味がなく、ともに「水フェチ」(噴出する水などに性的に興奮する)だ。すなわち「恋愛関係にない異性同士による婚姻」。(303-305頁)
(10)-4
「これまでずーっとウソつきながら生きてきた」と佳道。(303頁)
(11)
「多数派」は異性愛者であり、男子生徒の「多数派」は「どの女子部屋に行きたい」とか、「誰の風呂を覗きたい」とか、「普段、どんなAVを見てるか」など「下ネタ」でもりあがる。(193頁)
(11)-2
「マジョリティ」側に生まれ落ちれば自分自身と向き合う機会は少なく、「自分がマジョリティである」ということが唯一のアイデンティとなる。そしてそのように特に信念がない人ほど、自分が「正しい」と思う形に他人を正そうとする。(Ex . 田吉)(294頁)
(12)
朝井リョウ氏が言う。「人間は結局、自分のことしか知り得ない。」「社会とは、究極的に狭い視野しか持ち合わせていない個人の集まりだ。」(359頁)
《感想1》だが「人間は結局、自分のことしか知り得ない」という朝井リョウ氏の見解は誤りだ。各人の「細かい」感情・気分・意図については「自分のことしか知り得ない」が、「社会生活を営む上で必要」な他者の感情・気分・意図は十分(or不十分)に適切にわかる。
《感想1-2》法律的、政治的、軍事的、経済的、社会的、文化的等の諸制度は他者の相互了解の上に必要な限りで十分(or不十分)に適切になされる。文化的行為もしばしば共同行為である。(極めて私的・個人的行為以外の)社会生活or社会的相互行為の一切は、他者の感情・気分・意図の理解に基づく。そしてその他者理解によって社会生活or社会的相互行為は十分(or不十分)に適切に行われる。
《感想2》「数学」はきわめて間主観的であり、人々の共通の「理性」という名の相互(他者)理解の産物だ。
《感想3》「言語」も間主観的であり、人々の相互理解(他者理解)の産物だ。
(13)
佐々木佳道(30代)は「マイナーなフェチ当事者の精神的な互助会のようなコミュニティ」を組織しようとする。佳道は「今のうちに(水フェチの)仲間を作っておきたい」と言う。そしてそうした趣旨を佳道はSNSに投稿した。(386-387頁)
(13)-2
SNSでのやり取りで、「我々のような人間にとって、世の中って正直、恨みの対象だ」と佳道が述べる。「わかります」と大也。「でも社会を恨むことにももう疲れてきたんです」、「どうせこの世界で生きていくしかないんだから、少しでも生きやすくなるように、同じ状況の人ともっと繋がってみたくなったんです」と佳道が言う。(388-389頁)
《感想1》「正欲」とはすなわち「正しい」性欲のことだ。「正しい」性欲は、普通「多数派」の性欲(異性愛)とされる。
《感想2》だが「多様性」の肯定の観点からすれば「少数派」の性欲(特殊性癖、諸フェチ)も「正欲」すなわち「正しい」性欲だ。
《感想2-2》ただし皮肉なことに、「多様性」を認めるとは、実は「理解しがたいもの」、「嫌悪感を抱くもの」に「しっかり蓋をする」だけにすぎないという可能性が常にある。(Cf. 8-10頁)