宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

上原隆(1949-)「身の上話」『友がみな我よりえらく見える日は』(1996年、47歳):桑野道子さん(43歳)は、真面目で、真剣に生きる人だ。また有能だし、バイタリティもあり、敬意を表したい。

2018-10-31 22:34:22 | Weblog
39歳の時(1992年)、タクシー運転手になった女性(1953-)の身の上話。
話をしたのは1996年、桑野道子、43歳の時だ。

(1)
道子は、高校2年(17歳、1970年)、1学年上の桑野光男と恋愛する。
道子の卒業式の日にセックスし、妊娠。
光男が「責任をとる」と言い、結婚した。1972年、道子19歳、光男20歳だった。
(1)-2
道子・光男・子ども(健)は、横田基地近くの米軍ハウスに住む。
ヒッピーのコミューンの時代で、家賃を半分負担する津田(光男の同級生)が同居人となる。
道子22歳(1975年)、二人目の子ども、リリ(1975-)を出産する。
「なにも考えずに子どもを産んじゃって、ハッて気づいたら二人もいた」と道子。
(1)-3
仕事で都心に通っていた夫・光男は、彼女ができ、家に帰らない。
帰ってきても、光男は1、2万円のお金しか置いていかない。
道子たちは、パンと牛乳と卵焼きの生活が続く。
3歳で、長男・健が肺炎で死ぬ。(※道子23歳、1976年)
「わたしは泣いています、ベッドの上で」とリリィが歌う。
(1)-4
同居人だった津田が去る。
夫・光男はキャバレーのマネージャーとなり、店のホステスと同棲。
道子は光男と離婚する。
その後、光男が、養育費月7万円を払ったのは、1年間だけだった。(約束は20年間。)

(2)
道子はリリを保育園に入れ、生命保険会社に勤める。月給8万円。
朝、タイムカードを押すと、あとは自由。自動車教習所に通い、免許を取る。
車の運転が好きなので、生命保険会社を辞め、道子は、チリ紙交換の仕事につく。
土日は売り上げが良く、一日で、7000円が手元に残った。
ところが梅雨になると、仕事にならない。日ゼニ生活だったので、お米を買う金もなくなる。

(3)
友だちの紹介があり、道子は、スナックで働き始める。
すぐに客と恋に落ちる。夜の世界で輝いている男だった。
道子は、結婚は、こりごりなので、遊びでつき合う。
ところが、男はママの恋人で、トラブルとなり、道子はクビになる。
男が追ってきたが、男は「覚醒を扱っているヤクザだ」と、友だちから教えられる。
道子は、男と会うのをやめた。

(4)
「水商売はもうこりごり」と思ったが、金が必要で、道子はキャバレーのホステスになる。
1日1万円、指名1回につき1000円、有料託児所付き。
2歳年下の客、清水博(トラック運転手)と恋におち、結婚する。
道子は妊娠する。28歳、1981年。
「私って、バカみたいに同じこと二回やってる」と道子。
(4)-2
道子は、出産に備え、キャバレーをやめる。
女の子が生まれる。あきな(1981-)と名づけた。
清水が、中森明菜のファンだったためだ。
(4)-3
ところが、清水は、実は、金庫破りの常習犯で、逮捕された。(1981年)3年6カ月の実刑。
道子は、清水と離婚する。
「ひとりめは女癖で、ふたりめは盗み癖、なんか、私って癖のある男を好きになっちゃうのよね」と道子。

(5)
小学生のリリ(1982年、7歳)が、父親(清水)のことで、学校でいじめられると心配し、道子は引っ越す。
そして、「事情を話すのは恥ずかしかった」が、生活保護を申請した。
(5)-2
1982年、あきなが1歳になると、保育園に預け、道子(29歳)は働き始め、生命保険会社の営業となる。
給料が13万円を超え、生活保護がカットされ、生活費が不足。
週3日、近所の居酒屋でアルバイトする。
(5)-3
また、銀行のカードローンを使うようになる。
1年後には借金が100万円となり、収入がっあっても、利子を払うばかりで、元金が減らない。
「借金を返さないとこわいので、毎日、求人広告を見てた。」という。
(5)-4
「私は、しょっちゅう、お金がないとか、仕事がきついとかいってた」のに、「あの子たちは私のグチをよく我慢して聞いてくれた」と道子。

(6)
1992年、リリ(17歳)は中学校を卒業しアルバイトをする。あきなは小5(11歳)だ。道子、39歳。
タクシードライバー募集の広告が目についた。
「月収45万円以上可能」と書いてある。
ただし24時間勤務に就かなければならない。
「どう思う?」と子どもたちに聞くと、「お母さんのいいようにして」とリリが言った。
「給料がいっぱいもらえるんだったら、いいんじゃないの」とあきな。
道子は、二種免許を取り、タクシードライバーとなる。
平均30万円の収入となった。
(6)-2
嫌なこともたくさんあるが、車の運転は好きだし、収入もまあまあだ。
「好きな仕事につけたな」と、道子は思う。

(7)
「ふりかえると私の人生って当面のお金を稼ぐことに追いかけられてきたみたい。でもその時その時はけっこう充実してた。なんか真剣そのもの。」と道子(43歳、1996年)が言う。
(7)-2
道子は、KANの「愛は勝つ」という歌が好きだ。

心配ないからね 君の想いが
誰かにとどく明日がきっとある
どんなに困難でくじけそうでも
信じることを決してやめないで

《感想1》
それぞれの人が、どう生きているか、知りたいと思い、この本『友がみな我よりえらく見える日は』を、読んだ。
著者は、「ルポを書く」とのことだから、多くの人から聞いた話だ。

《感想2》
桑野道子さん(43歳)は、大病を患わず、健康で良かったと思う。
健康は、人生の最大の財産の一つだ。

《感想3》
娘さん二人が、お母さんを理解していて、良い子だ。
桑野道子さん(43歳)は、真面目で、真剣に生きる人だ。
また有能だし、バイタリティもあり、敬意を表したい。
子どもさんも、お母さんを尊敬していると思う。

《感想4》
それにしても、父親は、子どもに対し無責任だ。
光男は、養育費月7万円を20年間払うべきなのに、1年間しか払わなかった。
法的に責任があるはずだ。

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上原隆「オーディション」・「家族」『雨にぬれても』(2005年)所収:人には「業」(ゴウ)と呼ばれる運命がある!&父親のアルコール依存症が、家族を壊した!

2018-10-31 22:31:28 | Weblog
(1)「オーディション」
2004年頃の話。42歳男(1962年頃生まれ)。彼は何でもいいから、舞台に上がりたい。ホームレスで、お笑い芸人のオーディションを渡り歩く。履歴:若い頃から芝居をやっていた。劇団解散で故郷の福島に帰る。サラリーマンになり結婚し、娘が生まれた。しかし舞台が忘れられず40歳で仕事を辞め、離婚。娘を置いて東京に出てきた。「つらいのは、時々娘の夢を見ることです」と男が言った。
《感想》人生は「一寸先は闇」。あるいは人には「業」(ゴウ)と呼ばれる運命がある。彼は「畳の上で死ねない」かもしれない。彼は「我儘」だと自分で分かっている。

(2)「家族」
辛い家族の話だ。2004年、三男光男(28歳)が話す。①父(60歳位)はアルコール依存症。かつて子供がいるのに毎晩大声で「お前は俺を馬鹿にしている」と母親を責めた。父は10年位前からアルコール依存症がひどくなり、会社を退職。離婚し、今一人暮らし。②長男和男(32歳)、酒を飲み2004年、部屋で凍死。アルコール依存症で、躁うつ病。旅行代理店に勤めていたが辞め、生活保護を受けていた。③次兄義男(29歳)。高校生の時、鬱病になる。大学卒業し就職したが、再発。今も働けない。④三男光男は、健康でアルコール依存症もない。「うつ病の一番の原因は生育環境だ」と聞いて不安だ。彼は今、母親と暮らす。
《感想》父親のアルコール依存症が、家族を壊した。長男がアルコール依存症で、躁うつ病。次兄は鬱病。

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夫が頼りにならず、妻は、最悪の心理状況だ!:上原隆(1949-)「落ち込む」『雨にぬれても』(2005年)所収 

2018-10-31 22:29:23 | Weblog
北山さなえ(33歳、女性)の話。
「暗くて重くて、どうしようもないもの」が突然やってくる。〈あっ、またきた〉と彼女は、思う。胸のあたりが圧迫され、動機が激しくなり、涙が出て来る。〈もうダメだ〉と思う。こうしたことが繰り返される。

このように彼女が「落ち込む」原因は、次のようなものだ。(①~⑨-5)
①7歳の娘と5歳の息子がいる。
《感想》北山さなえは、26歳と28歳の時、子供を産んだ。夫は、子育て・教育に関し、妻任せ。二人の子供がいることは、妻に大きな精神的負担だ。

②3年前(30歳)にマンションを買った。住宅ローンの返済がある。
《感想》住宅ローンの負担は大きい。(ア)それなりの家に住め子供がいじめられないため、(イ)夫or妻の自分の自尊心のため、(ウ)世間体のため、(エ)しかも頑張って手に入れたものだから、また(エ)売ったところで、アパートを借りるしかないのだから、マンションを手放すことは出来ない。住宅ローンの返済が、至上命題だ。

③マンションを買った直後に、夫が転職をした。商社の営業職だったが、夫は「自分の力を試したい」と言って、歩合制の外資系保険会社の営業職に移った。ところが歩合制は厳しく、夫の収入が減る。
《感想》夫は、転職を妻に相談しなかった。妻は驚いたろう。その上、転職の結果が悪く、収入減は、家計を預かる妻にとって大打撃だ。妻の心労が増す。夫は、歩合制でやっていくだけの才覚がなかったのだ。

③-2 妻は、市役所のパートの仕事を得て、働き始める。
《感想》家事・育児の上に、パートでは、大変だ。妻は、身体的にも疲労が増す。

④1年後、夫が外資系保険会社を辞める。「働くのがこわい」「自信がない」と夫は、軽いうつ症状。妻としては、生活費、マンションのローンなど働いてもらわないと困るが、「追い詰めるとよくない」と思い、何も言わず見守った。
《感想》妻は、最悪の心理状況だ。夫が頼りにならない。収入は自分ひとりで、生活費、子どもの養育費、住宅ローン返済と、妻は経済的に追い詰められる。

④-2 幸い、食品の営業の仕事が夫に見つかる。ただし、給料は前より安い。
《感想》妻は、ホッとしたことだろう。だが減収であり、生活費等が赤字であることに変わりがない。苦労が続く。

⑤銀行から送られてきた明細書で、夫が、妻に無断で、100万円以上の預金を引き出した(=借金した)ことが、突然分かる。問い詰めると、夫は「経費で引き出した」と言った。数日間、無言の喧嘩状態。日付を見ると確かに、外資系保険会社への転職後とわかる。その会社では交通費・接待費が、自分持ちだった。夫は、「これから預金を下ろす時は、妻に言う」と約束すした。
《感想》収入減で家計か大赤字の時に、頼りの預金残高さえ減り(=借金)、妻のショックは大きかっただろう。

⑤-2 北山さなえ(妻)は、夫と学生時代に知り合い、卒業後、すぐ結婚(妻23歳)した。すでに10年。夫は真面目で、贅沢もしない。同じ服を何年も着ている。その真面目な夫が簡単に借金するなど、妻に、信じられなかった。
《感想》信じていた夫に、別の面(マイナス面)があることを知り、妻にはショックだった。妻は自分の判断に自信を失うとともに、他者(夫)への不信が増大した。

⑥ その3か月後、夫が再び無断で20万円を、銀行預金から引き出したとわかる。女性か、賭け事か、異業種交流会か?「なぜ、隠れてするの?」と、妻が夫に問いただす。「あなたに言ったら絶対反対されるから!」と夫。
《感想》夫は自信がない。しっかり者の妻に頼る。金が足りないので、つい預金を下ろす。意志が弱い。自分でこの状況をどうにかしようという決断をしない。夫として無責任で、投げやりだ。DV(家庭内暴力)にならないだけ、ましだ。子供が二人いるのだから、夫はしっかりすべきだ。

⑦マンションのローン返済も含め、家計に毎月40万円が必要。収入は二人で、33万円。7万円の赤字だ。その上、夫の借金の返済もある。
⑦-2 かくて妻は家計を切り詰める。(ア)ワンボックスカーを軽乗用車に替える。(イ)娘のピアノ教室をやめようとするが、娘が泣くので、レッスン回数を減らし、月謝を安くしてもらう。(ウ)携帯電話を安い契約にする。(エ)生命保険を掛け捨てにする。(オ)新聞をやめる。(カ)食料品は賞味期限ぎりぎりの安いものを買う。
《感想》ある程度の生活水準だったのを、家計を切り詰め、引き下げるのは辛い。妻は、惨めな気分になる。子供の気持ちを考えると、実が細る。

⑧ そんな中、夫が消費者金融から金を借り始めた。妻が、夫に銀行のカードを持たせなくなったためだ。
《感想》夫が、妻の意図・気持ちを理解しない。(a)夫と妻の相互理解の不足だ。(b)夫が、「自信がない」「意志が弱い」「無責任」「投げやり」だ。(上述⑥)

⑧-2 北山さなえ(妻)の頭に「離婚」という言葉が浮かぶ。
⑧-3 妻は、夫が一生懸命に働く姿が好きだった。だから家事・育児は自分ひとりでこなしてきた。夫に心配をかけまい、夫に頼らない、感情をあらわにしないようにしてきた。そのことが、「お互いに心を開いて話し合う態度」を失わせていったのかもしれないと、妻が思う。
《感想》出来過ぎの妻だ。夫が適当だ。夫は、気持ちが、まるで子どもだ。夫に、子ども二人育てる責任があるのか?

⑨ その後、無言の喧嘩の日が続くが、ついに(子どもたちが寝てから)妻が、夫に話す。
(1)このままでは離婚するほかない、
(2)あなたが私に相談できないような関係を作ったのは、自分にも責任がある、
(3)家計を切り詰める努力をしている。
妻は泣いた。夫が「ほんとうにごめんなさい」と謝った。
⑨-2 翌日、夫から「僕はあなたを愛しています。・・・・離れたくありません。もう一度結婚してください」とメールが来る。妻は「これで万事解決だ」と思った。
⑨-3 ところが、この時から、北山さなえ(妻)は、鬱的な症状に襲われるようになった。
⑨-4 子どもたちが寝たと思うと、暗い雲が胸を覆い、深い闇に落ちていく。食堂の床にしゃがむ。涙が次から次にあふれ出す。
⑨-5 夫の帰宅は遅くなっている。

《感想1》夫は、家に帰るのが、気まずいので、帰りは遅くなるだろう。こだわりが消えるには、しばらく時間がかかる。しかし減収、家計赤字状態が改善する見込みもない。見通しは暗い。妻からすれば、夫は頼りない。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」とも言う。夫がしっかりするべきだ。ともかく生き抜く。
《感想2》この世は「重き荷を背負うて遠き道を行くがごとし」だ。そんな中で、心なごむこと、楽しいことが、少しでも見つかれば、幸いだ。
《感想2-2》人生、「七転び八起き(ナナコロビヤオキ)」とも言う。諦めてはいけない。「捨てる神あれば拾う神あり」ということもある。
《感想3》 それにしても、北山さなえ(妻)氏は、この「落ち込み」の発作から、解放されるのは、いつになるのだろうか?
《感想4》 なお上原隆氏は、妻からの話しか聞いていない。証言は「藪の中」だから、夫の話も、聞くべきだ。

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移ろいゆく現実のうちに、「幸せ」の永遠のイデアが出現する:上原隆(1949-)「女たちよ」『雨にぬれても』(2005年)所収  

2018-10-31 22:26:33 | Weblog
これは、恋人から「人の気持ちを受け止める感性が相当ニブイ」と言われた上原氏の話だ。
そう言われて落ち込んでいた彼は、ある日、レストランで楽しそうに食事する二人の女性客S、Hを見た。
すぐ近くの席に居た上原氏は、「女たち」二人の会話を、聞いてしまう。

場面(1)「私は、父親に似て性格が悪いかもしれない」とHが心配する。
すぐにSが「あなたの性格好きよ」と言う。
「ありがとう」とH。

場面(2)「このロールキャベツおいしい」とS。そしてHの方にその皿を置く。
Hがそれを箸でつまみ食べる。「ほんとおいしい」とH。
二人は見つめ合って笑う。

上原氏は、〈いいな、こうでなくちゃいけないんだな〉と思う。
「好きな人と昼食をいっしょにしている。そのなにげない時を幸せだと感じないならば、幸せなんてどこにもないかもしれない。」

《感想》
「幸せ」の現場そのものが、あるのだ。
「日常の細部に幸せを感じるようなていねいな生き方」を心がけたいと、上原氏が言う。
例えば、「幸せ」な時は、現場で、思い切り「幸せだ!」「楽しい!」「おいしい!」「かわいい!」「似合ってる!」などと発言する。
すると、発言とともに、その現場、またそこにいる者たちに、「幸せ」そのもの(本質、イデア)が出現する。
この移ろいゆく現実のうちに、「幸せ」の永遠のイデアが出現する。
その時、その場面が、「幸せ」の現場(「幸せ」のイデアが出現する現場)だ。
「幸せ」のイデアを出現させようと心がける生き方が、上原氏の言う「ていねいな生き方」だ。

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自分が忘れてしまえば、もはや誰も知ることがない:上原隆(1949-)「この道を泣きつつわれのゆきしこと」『雨にぬれても』(2005年)所収 

2018-10-31 22:22:19 | Weblog
文学者、小沢信男(1927ー)が「新日本文学会」(1945ー2005)の解散にあたり、回顧する。
(1)
①1980年代、1990年代と、新日本文学会は、活力を失っていった。
②今や2000年代に入り、入会者は定年後の高齢者ばかりだ。雑誌は文学好きの同人誌にすぎない。

(2)
③小沢は1950年代前半、26歳で入会した。当時、大西巨人30歳代、花田清輝編集長40歳代。
③ー2 新日本文学会がスタートした1945年には、中野重治、佐多稲子とも40歳代だった。

(3)
④1970年代に、小沢は事務局長となる。
花田さんは、「つくれ、つくれ」と言う。
しかし「創作」とは、「いまだかつてないものを、新しくつくり出すこと」だ。そんなこと「しょっちゅうやってられますか」と小沢。
「十年かけ二十年かけて自分の代表作にやっとたどりついた」というのが普通。
⑤今は、雑誌『新日本文学』が、「なんかスカスカして見える」。

(4)
⑥かつては、1949年佐多稲子『私の東京地図』、1950年島尾敏雄『ちっぽけなアバンチュール』、井上光晴『書かれざる一章』が、新日本文学会から出た。
⑥ー2 1950年代に、金達寿『玄界灘』。これは「在日の文学を開拓した作品」と小沢。
⑦1960年代になると、大西巨人『神聖喜劇』、佐木隆三『ジャンケンポン協定』、野呂重雄『天国遊び』、小関智弘『ファンキー・ジャズ デモ』。
⑦ー2 「ワン・オブ・ザ・ベスト」が「ポコポコと出てきてるんだよ」と小沢が言う。

(5)
「ところが、あれからこっち、どうもね。」
「新日本文学界の会員が会の仕事をやると」、時給800円とか、1000円とか、財政難なのに、平気で受け取って帰る。
(5)ー2
ここで小沢の声が大きくなり、怒りが噴出する。
小沢は、26歳で新日本文学会に入会し、今や、76歳直前だ。
「運動というものは間尺にあわないものですよ。間尺にあわない運動をやるから獲得するものもあるわけじゃないですか」と小沢。

(6)
2003年、58年間続いた新日本文学会は、総会で解散を決定した。
小沢が解散の提案者だった。
小沢信男『わが忘れなば』に次の短歌がある。
「この道を泣きつつわれのゆきしこと わが忘れなばたれか知るらむ」

《感想》
50年間、自分が、かかわってきた「間尺にあわない運動」、つまり損得勘定からすれば全く割に合わない運動に対する気持ちを、小沢の短歌が示す。
彼は、この道を、「泣きつつ」進んだ。
その苦労は、自分のみが知るのであって、自分が忘れてしまえば、もはや誰も知ることがない。
人生は、みな、たいてい、こういうものだ。

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「恋は盲目」で、心変わりに気づかない:上原隆(1949-)「結婚相談所」『雨にぬれても』(2005年)所収 

2018-10-31 22:20:20 | Weblog
(1)
2002年、結婚相談所、入会申込時1万円を支払い、残金振り込み35万円。
「結婚相談所の紹介で、恋愛結婚は出来るのだろうか?」と思う:正田亮子(35歳)。
彼女は、小柄で可愛い。

《感想1》
恋愛結婚を望むのは、「この人だと思える人が、この世の中にはいるはずだ」と亮子が信じるためだ。(参照(2))
『源氏物語』でも、自分が気に入った人との恋愛の話が満載だ。
ロマンチズムは、古くからの伝統だ。

(2)
20代には、親戚や友達が、知り合いの男性を紹介してくれた。何人かからプロポーズされたが、どの男性も何かが欠けていた。
「この人だと思える人が、この世の中にはいるはずだ」と正田亮子は信じていた。
30代になると、相手を紹介してくれる人が、少なくなった。
34歳になった頃から、「このままひとり暮らしかもしれない」とふと思うようになった。
しかし「大丈夫。絶対誰かか現れる」と、亮子は思う。

《感想2》
「このままひとり暮らしかもしれない」と思うようになるのは、女性の場合、35歳くらいのようだ。
初婚年齢(2013年)は、男30.9歳、女29.3歳である。

(3)
「一人暮らしが気楽なので、恋愛をしても結婚はしたくない」という人もいる。
だが、亮子は「恋愛し、結婚し、子どものいる家庭をつくり、その上で仕事も続けたい」と思う。

《感想3》
子どもを産む場合、「初産は医学的には35歳以下が望ましい」との見解がある。
Cf. 「子どもがいなくても、夫婦二人で過ごせればよい」という選択もある。
亮子は、35歳に近づき、結婚相談所に申し込んだ。
結婚相談所で、女性で最も多いのは、30代だ。出産適齢期を考慮し、30歳を目処に入会する人が多い。
《感想3-2》
男性で、最も多いのは収入が安定してきた36-45歳。定年後を考え婚活を始めたのが46-55歳の男性。
結婚相談所入会者は、男性の方が、女性より年齢層が高い。

(4)
毎月、新しく入会した男性の「情報カード」が、結婚相談所から亮子に送られてくる。
亮子は、その中から5名選ぶことができる。相談所を経由し、相手に、亮子の「交際申込書」が送られる。
それを見て、男性が「つき合いたい」と思えば、電話が来る。(そうでない時は「交際お断り」の通知が相談所から来る。)
(4)-2
亮子の「情報カード」を見て、男性からも交際を申し込んでくる。
最初、男性の「交際申込書」168通が、亮子に送られてきた。
(4)-3
168通から、交際相手を選びながら、「条件で人を選んでいる」と亮子は思う。
しかし、亮子は「恋愛して結婚したい」のだ。

《感想4》
結婚するにあたり、一定程度「条件で人を選ぶ」のは当然だ。結婚生活を営めるだけの、経済力が必要だ。
その上で、「恋愛して結婚したい」のだ。

(5)
亮子は、1人目、2人目と会うが、交際を続ける気にならなかった。
3人目に、三田邦夫(39歳、県職員)と会う。
三田は、1年前は、「専業主婦になってくれる人」を望んでいたが、「多くの女性が仕事をやめたがらない」ことを知って、今は、希望を変えた。
(5)-2
亮子は、三田が気に入った。
4回目のデートには、彼が亮子の部屋に泊まり、セックスをした。

《感想5》
上記、2002年三田の証言と、今を比べると、状況が相当、変わった。
最近、40代で下がっている専業主婦願望の女性の割合が、20代 30代で上っている。
博報堂生活総合研究所の調査(12年)によると、20代女性の専業主婦願望がもっとも高く34.6%だ。
「働くことは当たり前」と感じている女性が、少ない。
余裕ある年収の男性には、「お見合い希望」が殺到する。

(6)
5回目のデートで、再び、三田が、亮子の部屋に来ることになった。
亮子は、心を込めて料理を作って、彼を待った。
しかし、彼は、来なかった。
(6)-2
亮子は、三田に電話するが、通じない。
翌日、午後10時に、ようやく三田から電話が来る。彼は「デートの約束なんかしてなかったよ」ととぼける。
亮子から、三田に「会いたい、来てほしい」と言う。
亮子が泣いているのに三田が気づき、「そんなに思ってくれたなんて、愛が芽生えそうだよ」と三田が言った。
「これは恋愛になるかもしれない」と亮子は思った。

《感想6》
亮子と三田は、順調でなくなった。
5回目のデートを三田がすっぽかした時点で、亮子は気づくべきだった。
しかし「恋は盲目」と言うように、亮子は、三田の心変わりに気づかない。

(7)
その後、2カ月間の経過は次の通り。
さらに二度、亮子は、三田と会う。そして、亮子は「三田と結婚する」と決める。
ところが、突然、彼からぷっつり連絡が来なくなる。
亮子から連絡しても捕まらない。ついに職場に電話して、三田を捕まえる。三田は、亮子を避けていた。
問い詰めると、亮子より若い女性と、三田は付き合っているという。
(7)-2
「いまは体に穴があいたみたいでつらいけど、フフフ、このつらさって失恋ですよね。結婚相談所でも、恋愛できるってわかりました」と亮子が言った。

《感想7》
男性は、若い女性がいいのだ。動物的な衝動・本能かもしれない。

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彼(69歳)を50年以上にわたって苦しめ続けたコンプレックスに対し、彼は勝利しつつある:上原隆(1949-)「夜間中学」『雨にぬれても』(2005年)所収 

2018-10-31 22:18:22 | Weblog
(1)
夜間中学で、浦川義男(69歳)が、「2つの実がついたサクランボが8個並んでいる」絵を見て、「全部で何個になるか?」という数学の問題を解こうとする。しかし、彼は、式が書けない。
先生(29歳)が、「2×8」と教える。浦川が「に、はち、じゅうろくか・・・・」とつぶやく。
(2)
浦川は、仕事をやめたので、夜間中学に通えるようになった。今は年金生活で月々15万円をもらっている。(2002年)
この金額では、生活できないので、彼は、パートの仕事を見つけようと、昼間は職業安定所に通う。
(3)
浦川は、27歳で家を出て以来、ずっと69歳まで、ひとり暮らし。
「結婚したいと思ったことは?」との上原(著者、インタヴュアー)の質問に、「あるよ。でも、こんなんじゃ逃げられちゃう。何にもできないんだから。手紙一本書けない。」と浦川。
(4)
浦川は、長距離トラックの運転手をしていた。
その仕事に就くまで20以上の職場を転々とした。
「履歴書は、自分で書けないので、代書屋に書いてもらった。代書屋にずいぶん払った」と浦川。
(5)
「なぜ中学校を卒業しなかったか?」について、浦川は、「勉強が嫌いだったから」としか答えない。
(6)
夜間中学に入ってから、浦川(69歳)は、一度も学校を休んだことがない。
彼は、高校受験は、しないだろう。
もちろん、卒業証書は欲しいかもしれない。
しかし、最も大きな理由は、彼が、問題を解くことの楽しさを知ったためだろう。(これは著者、上原の解釈。)
(6)-2
算数の文章題。「2枚のレンズがついたメガネが、7つあります。レンズは全部で何枚でしょう。式を書いて答えなさい。」
浦川は、問題の文章を3分位かかって、ノートに書き写す。
(これは英語の初心者が、ノートに英語の文章を写すのに似ている。浦川は、日本語の読み書きの学習者だ。彼は、もちろん日本語の会話は達者だ。)
次に、彼は、書き写した文章を読みながら、各単語の下に線を引く。その線を、一度、二度、三度となぞる。
(これは、英語の文章を理解するため、英語学習者が行う作業と、同じだ。)
彼は、ジッと問題を見つめ、考える。
(彼は、算数の問題を解いている。)
ついに、彼は問題用紙の式を書く部分に、「2×7=14」と、考え考え書いていく。
私(上原)がVサインを出す。
「浦川の顔に、スローモーションのように笑みがひろがる。」

《感想1》
人は、生きねばならない。
いかなる事情があり、中学校を卒業しなかったとしても、文章が読めなくても、また字がうまく書けなくても、生きねばならない。
だから、浦川(69歳)は、生きてきた。

《感想2》
だが、それらのことは、彼の積年の、つまり、50年以上にわたるコンプレックスだ。

《感想2-1》
今、彼は、コンプレックスから解放されつつある。
算数の文章題が解けることは、浦川の人生における勝利なのだ。
彼は、「問題を解くことの楽しさ」を知るとともに、彼を50年以上にわたり苦しめ続けたコンプレックスに対し、勝利しつつある。
これこそ、彼が今、学校を休まない理由だろう。

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上原隆(1949-)「墓参り」『雨にぬれても』(2005年、56歳):彼女は、その時、自分の最も幸せだった時期を思い出し、泣く

2018-10-31 22:16:30 | Weblog
(1)
竹内敏子(56歳、2002年、1946-)。
4年前(1998年)、社長(益田新)(62歳)自殺。竹内が26年間働いた印刷会社と社長を失う。社長には妻子あり。
社長が亡くなって以後、毎月、命日に、竹内は墓参りをする。

(2)
竹内は、小さな頃、両親が離婚、母親に引き取られ、実父を知らない。
社長増田(1936-1998)は、竹内の10歳年長。彼女は、社長を、父親と思いたかったのかもしれない。

(3)
竹内は、27歳の時(1973年)、離婚。印刷屋(当時、社長37歳)に入る。社員が10人いた。
10年位前(1992頃)から保険業界は不況で、会社はメインの仕事だった「保険会社のPR誌作成」の仕事を失う。
社員は減り続け、最後は社長と竹内だけになった。
4年前(1998年)、社長は、計画的に自殺し、彼の生命保険で、(ア)残っていた6000万円の会社の債務、(イ)竹内への退職金、(ウ)家族への多額の遺産が、まかなわれた。
生命保険金の使い道は、社長が遺書にしたためていた。

《感想1》
印刷屋の衰退は時代の流れだった。DTP の普及で、1990 年代に、活版印刷はほとんどなくなった。
DTPとは、デスクトップ・パブリッシング(desktop publishing)の略称。パソコンで、一般の印刷物と同程度のものができる。従来、出版社と印刷所で行っていた作業が、個人またはオフィスレベルで行えるようになった。
社長の会社(印刷屋)は、この流れの中で衰退し、保険会社のPR誌作成の仕事も失い、経営が困難となった。

《感想2》
社長(益田)の自殺は、保険金を受け取るため、周到なものだった。社長は、62歳だった。

《感想3》
竹内は、27歳まで、波乱の人生だった。
両親の離婚を経験。
しかし、彼女は若く夢もあり、そして結婚するが、結局、離婚した。
その後、印刷屋(社長の会社)に入る(竹内27歳)。1990年、竹内44歳まで、17年間は、様々の個人的出来事があったろうが、平穏だった。

《感想4》
1993年頃(社長の自殺5年前頃)から、社長(57歳)と竹内(47歳)二人だけの会社となる。
二人は、恋人関係でなかったが、「二人にとって会社は一種の家庭のような感じだった」(上原)。
「社長も会社も仕事も、私のど真ん中にあったことは確かです」(竹内)。

《感想4-2》
竹内は、離婚後、ずっと独身のままで、再婚しなかった。子供さんもいない。
「社長も会社も仕事も」存在した1993-1998の5年間(竹内47-52歳)が、彼女にとって、もっとも幸せな時期だったようだ。

(4)
会社が、社長と竹内だけだった頃、土曜日は、竹内が10時頃出社、社長が昼頃来る。二人で昼食を取り、4時頃、社長の車でダベリながら帰るのが、常だった。
社長は、家庭で居場所がなかったようだ。(1993年、社長57歳。上の子が社長28歳の時の子なら、この時、すでに29歳。下の子もいた。妻あり。)
日曜は、社長は「ファミレスで、本読んでた」というような様子だった。
会社に、平日は、社長と竹内、二人とも朝から夜9時頃までいた。昼食も夕食も、(外食か社内で)たいてい一緒に食べた。

(5)
1998年、社長の自殺で竹内は落ち込み、「自殺したい」と思う。心療内科に通う。仕事する意欲がなく、人と会う気力もない日々が続いた。

(5)-2
それから4年経ち、竹内は、今、2002年、江戸東京博物館のボランティアになる。
「それが楽しくって、初めて社長のいない寂しさを忘れました。『ごめんね』って、そしたら、社長が『居場所ができて良かったな』って」と竹内。

(6)
社長の自殺は、計画的だった。税理士宛の遺書の日付3/31、亡くなったのは8/25。
「お二人にとって会社は一種の家庭のような感じだったんですね」と上原(著者、インタヴュアー)が言う。
「社長も会社も仕事も、私のど真ん中にあったことは確かです、それがスコッとなくなったもんだから苦しいんです」と竹内。
社長の墓を拭きながら、竹内が泣いていた。

《感想5》
社長の死は、竹内(52歳)を絶望させたことだろう。
彼女は、自分の「ど真ん中」にあった幸福のすべてを(「社長も会社も仕事も」)失った。
彼女は自殺を考え、心を壊し、心療内科に通う。
仕事する意欲がなくなり、人と会う気力もない。
ここから立ち直るのに、彼女は、4年かかった。彼女は生き続けた。

《感想6》
竹内(56歳)は、今、2002年、江戸東京博物館のボランティアとなった。
彼女は、再び、生きる気力を回復した。

《感想6-2》
竹内は、毎月、命日に、社長の墓参りをする。
彼女は、その時、自分の最も幸せだった時期を思い出し、泣く。

《感想6-3》
でも、幸せな時期が、竹内さんにあって、よかったと思う。
彼女は、まだ56歳だから、これからも人生は続く。再び、幸せになってほしい。

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上原隆(1949-)「テレビドキュメンタリーのその後」『雨にぬれても』(2005年、56歳):みんな大変だと思う。楽な人はいないと思う。

2018-10-31 22:13:15 | Weblog
(1)
「カメラのニシダ」(さいたま市)、1998年倒産。従業員31人。
従業員たちが、店を自分たちで管理。これがテレビのドキュメンタリー番組に取り上げられた。
自主管理に参加したのは15人。リーダーは川野辺勇次(51歳)。
店を赤羽駅前に移し、メンバーは7人へ。(番組は、ここまでだった。)
この頃から、日本中が不景気になる。

《感想》
自主管理は、会社の経営そのものだ。(資金繰り、販路開拓、労務管理等。)大変な仕事だ。
確かに、これまで、社長がいなくても会社が動いていた。
だから自主管理が可能に見える。
だが、道は困難であり、自主管理開始の時、参加した従業員は、半数15人にすぎなかった
それが、さらに、7人に減ってしまった。茨の道だ。

(2)
その後、どうなっているのだろうかと、著者が、6年後、2004年、赤羽駅前店を訪れる。
だが店は、移転していた。
大宮駅西口で、こじんまりした写真店「カメラのニシダ」になっていた。
川野辺が、「赤羽店は家賃が高いので、こちらに移転した」と言った。
赤羽駅前店は従業員7人だったが、今は、パートの女性と川野辺2人だ。

《感想》
具体的には、実家の家業を継ぐために帰った人、定年になった人、収入が少ないとやめた人など、参加する従業員が減った理由は様々だ。
自主管理への不安が、そもそも大きいのだ。

(3)
「それぞれ都合があって、やめていったんだから仕方がない」と川野辺。
従業員として働いていた時、川野辺の給料は48万円。
自主管理では一律25万円と半減。(1998年)
川野辺は、子どもが3人いて(24歳、21歳、12歳)、教育費が大変だった。

《感想》
1997ー98年は金融危機の年、その後、就職超氷河期がくる。
1991-2010年まで日本経済は「失われた20年」だ。
リストラの嵐が吹き、非正規雇用が激増し、日本的経営が崩壊する。
川野辺氏と似た倒産・リストラ経験が、たくさんあった。

(3)ー2
経営者に雇われていた時と、自主管理で、何が変わったか?川野辺が答える。
「サラリーマンの時は、気楽だった。それなりに仕事すれば、給料がもらえた。」
「今は、そういう感じからは脱皮した。自分の置かれている立場、足元が、よく見えるようになった。」
また今の店について、川野辺が言う。
「毎日10時間以上、仕事してるし、ある程度楽しくやりたい。」
「明るくてニギニギシイ感じの店にしたい。」

《感想》
「一国一城の主(アルジ)」は、自己責任であり、サラリーマンの時より、「自分の置かれている立場、足元」をよく観察し把握する必要がある。
他方で、自分に忠実に仕事を進める余地が大きい。楽しそう。

(4)
突然の倒産と自主管理の経験は、川野辺をどんなふうに鍛えたか?
「倒産してから学んだことは、そうね、あまりふてないっていうことかな。」
「ダメだ、ダメだっていってると、本当にダメになっちゃう。だから、すぐに次のことを考えるっていう姿勢が身についたね。」

《感想》
「冬来たりなば春遠からじ(フユキタリナバハルトオカラジ)」。そう思いたい。
人生、「七転び八起き」だ。頑張るしかない。
「艱難汝を玉にす( カンナンナンジヲタマニス)」と言う。自分を鍛え上げる!

(4)ー2
だが、当時、大宮駅周辺は、ビックカメラが進出する直前だった。
「それに対してこまわりをきかして対抗していかなきゃならない。」「みんな大変だと思う。楽な人はいないと思う。」と川野辺。
同時に、「それを克服するプロセスが楽しいんじゃないかな。」とも言う。                     
最後に、川野辺が、言った。「希望をもってやっていくよりほかに、ないんだよ。」  

《感想》       
「どんなに暗い夜でも明けない夜はない」と思ってやり抜く。
「災い転じて福となす」となれば、ラッキーだ。

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上原隆『喜びは悲しみのあとに』(1999年)(その2):⑩ キャッチ・セールス、⑪恋愛、⑫障害を持つ子供、⑬親切、⑭いじめ、⑮両親の離婚、⑯復讐

2018-10-31 21:31:42 | Weblog
(10)「キャッチ・セールス」:23歳・男
渋谷でキャッチ・セールスをする23歳の男。客をキャッチして、近くのビルのカウンセラーに渡す。カウンセラーが、化粧品・美顔器など25-50万円の商品を、客にまず仮契約させる。本契約になれば、7%がキャッチした者に入る。彼は、埼玉出身で、母子家庭に育つ。弟が1人いる。中卒後、就職。しばらく仕事を転々とするが、建設現場で4年落ち着いて働き、現場責任者となる。しかしトラブルがあり辞める。ふらふらしている時、「キャッチ・セールスやらないか?」と誘われ、この仕事を始めた。「学歴が関係ない世界だ」という。月に50万円稼ぐ。「将来は社長をめざす!」。キャッチやる奴とカウンセラーの女の子を掴んでれば、社長になれるとのこと。
《感想》
彼は、まだ23歳だ。危ない世界を、生きて行く。人生は航海。彼は、船長(社長)になれるだろうか?

(11)「大晦日」:46歳・男
「大晦日」、男は家で一人絵を描く。印刷会社の営業部員で、画家でもある男。(まだ画家だけでは食べていけない。)彼には妻がいたが、6年前、40歳の時、32歳の女(夫と小1の息子がいる)と出会い、恋人関係になる。彼は、彼女と結婚したい。家庭と子供がほしい。1年後、彼は妻と離婚。ところが女は、「結婚」で味わえない「恋愛」がしたいだけと言う。女は離婚しない。この男と「恋愛」関係だけ続ける。
《感想》
男が「結婚」を希望し、女が結婚したままの「恋愛」をしたいだけなので、破綻するかもしれない。恋愛は、「風の中の羽根のように」、あてにならない。「女心と秋の空」or「男心と秋の空」だ。

(12)「ちいさな喜びを糧に」:打海文三(50歳)(1948-2007)・作家
障害を持つ子供との暮らし。子供(男子)は「二分脊椎症」で目が見えず、言葉もしゃべれない。しかし両親が努力する中で、子供は歌に反応したり、喜びの反応をするようになった。打海は、子供が「死んだ方が幸せなんじゃないかな」と思う時もあれば、「会えばかわいいな」と思う時もあると、言う。「将来は考えない。」「昨日かわいければ、今日もかわいいだろうし、今日かわいければ、明日もかわいいだろう」と思い、ともに生きる。子供は、一昨年、死んだ。(15歳だった。)「半分はほっとして、半分は自分のなかにポッと空洞ができた」という。
《感想》
打海氏と奥様が、子供さんを、とても愛していたのが、よくわかる。

(13)「ブロンクス生れのウェイター」:30歳・男・黒人
東京駅にあるセルフサービスのレストランで働くウェイター、30歳・男・NY生れの黒人。5人兄弟姉妹の3番目。両親は貧乏だった。日本は、喧嘩や犯罪が少なく、住みやすいので来たという。日本人の女性(美容師)と同棲、じきに結婚予定。将来、二人で食べものの店を出すのが夢。彼は、お客とつき合う仕事が好きで、また、どのお客にも親切だ。父親が、常々、彼に言っていたという。「人に親切にすれば、死んでも忘れられず、ずっと覚えていてくれる。」
《感想》
ここには、「人は、なぜ生きるか?」に対する、一つの答がある。彼には、愛する女性がいて、二人には夢があり、彼自身は生き方の確信、つまり倫理を持つ。彼は、自己への尊厳を失わず、希望を持ち、生きる。

(14)「タイムマシーンに乗って」:23歳・女
中学1年から3年まで、彼女は、「バカ」・「ブス」と言われ、ひどいいじめを受け続けた。教師は救ってくれない。とにかく3年間が過ぎ去るのを待ち続け、耐えた。「バカ」でないと証明するため、必死に勉強した。ほかの者たちが行けない成績の良い高校に進学した。そこでは、いじめもなく、友人もでき、彼女は立ち直った。今は幸福だ。タイムマシーンがあれば、中学校時代の自分のもとに、「大丈夫だよ」と言いに行きたいという。
《感想》
誰もが、「自分がいじめられたくない」と、いじめに加わる。中心になる奴は、いじめて楽しむ。いじめは、人間の卑劣・悪徳の象徴だ。こんな人間など本来、存在しない方がいい。しかし、生き抜かねばならない。いじめた連中は、「いじめられる奴が悪い」、「ひ弱な者は存在する価値がない」と居直る。この世界は、殺し合いの世界だ。世界は、存在する理由がない。無用、無価値、悪徳の世界。

(15)「ロボットの部屋」:26歳・男
小1の時、両親が離婚。彼は、母に引き取られるが、祖父母が、同じマンションに住む。母はブティックを経営。母には多くの恋人がいて、恋人が泊まりに来ると、彼は、祖父母の家に泊まった。小6の時、5年ぶりに父に会う。超合金のロボットを買ってもらった。この年、母、その恋人の男(妻子を持つ)、そして彼の同居がはじまる。彼は、その男とうまくいかなかった。大学を卒業し、父の家族(妻・娘)と交流が始まる。今、彼は「自分が家庭を持ったら、絶対に、子供を一人にしない」と思う。
《感想》
(ア)両親の離婚は、小さい子供にとって負担だ。だが、(イ)憎み合う夫婦のもとで暮らすのも、子供には大変だ。(ウ)親と住むといっても、子供を虐待する親もいれば、ひどい家庭内暴力もある。(エ)平穏な家族生活が奇跡のようだ。

(16)「復讐のマウンド」:元近鉄ピッチャー・小野和義・1993年当時28歳
小野和義は、1993年、近鉄から、「戦力外」と通告された。(本人への通知前に、新聞が報道した。)小野は、1986年から89年までエースピッチャーだった。1990年ひじの手術。しかし1991年に復活。1992-93年、今度は肩の手術とリハビリ。「戦力外」となった彼は、奮起し1994年、西武へ入団。「近鉄を見返す」と決意する。彼は、9/20、対近鉄戦に勝利。そして、この年、西武が優勝した。見事な「復讐のマウンド」だ。しかし、これで「張り詰めた糸が切れたかな」と彼が言った。
《感想》
1994年は、小野にとって「生涯忘れられない年」になったろうとの著者の指摘は、的確だろう。人生には、そういう時がある。幸福な年だ。

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