宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

『日本がわかる思想入門』長尾剛(2000)を読んで 2007/8/24

2007-08-26 00:17:01 | Weblog
仏教美術展などを見て密教がわかりにくいとよく思うが、密教は大日如来信仰だと今回確認できた。天台宗が法華経を中心の経典としていること、また法華経が仏教教義の体系化を達成したものであることも了解した。
 神仏習合では本地垂迹説の両部神道が伊勢神道・唯一神道でひっくりかえるのはともかく、山崎闇斎が君臣関係を徹底し天照大神を最上の存在とする垂下神道に至ったのは一貫していて納得がいく。
 余情を美の条件とする幽玄が美は滅ぶから美しいとの結論に至るのは潔い。
 朱子学の理気二元論で性即理はデカルト的な理性の普遍性を想起させる。しかし身分的上下関係が理つまり宇宙法則だというのは誤りだろう。
 陽明学の心即理、つまり人の心がそのまま理である(良知)として感情を重視するのはロマン主義的である。ただそれを人間の心の善性と解釈するのはいかにも儒教的で関心が道徳に向いていると言える。
 朱子学の理を自然科学の法則ととらえる新井白石はモダンである。歴史の中に理を見出すという観点が理想主義でなく現実主義に帰結した横井小楠を見ると理の概念の広さに感心する。
 石田梅岩が士農工商を上下関係でなく分業関係ととらえたのは町人的である。同様に山片蟠桃が利益追求を正しいとしたのはスミス的である。
 日本の重商主義思想として官船による官営貿易を唱えた本多利明が人口増による輸入の必要を論拠としたこと、藩専売制を主張した海保青陵が理とは経済学的価値の普遍性であり武士による経済活動をここから正当化したことなど、論理の展開の到達点の多様であることに感慨をもつ。
 富永仲基の大乗思想が釈迦と無縁との説(大乗思想非仏論)は科学的である。
 天地に上下関係はないとする安藤昌益は、偏見にとらわれず理性を働かせることができる自由の人であると思う。
 議会政策派の片山潜には賛成。
 また明治前期は自由民権の時代、明治後期は社会主義の時代、その後が大正デモクラシーの時代というとらえ方はわかりやすい。
 支配欲は小欲、経済発展こそ大欲との石橋湛山の思想は賢いと思う。
 想世界は実世界より独立しかつ尊いとする北村透谷の浪漫主義は魅力的。
 全体を見て人間の思想の拡がりは内発的展開と外部的事象との交渉的展開が絡み合っているように見える。

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『アヒルと鴨のコインロッカー』伊坂幸太郎(2003)を読んで  2007/8/21

2007-08-21 21:17:03 | Weblog
 著者は男性で30歳代初め。以下ではこの著者がこの推理小説の中で構成した人間類型に関して、そのリアリティの程度について考察したい。
 日本社会で受ける差別に対し極めて強く反応するブータン人留学生ドルジという人間類型は、ややリアリティに欠ける。彼は日本の大学院に留学したのだからブータンでは名士または金持ちの家柄のはずである。もっと誇り高く自信を持った人物として描かれてよいと思う。ただし恋人琴美の死に対する彼の復讐の成就は、リアリティの程度とは無関係に、読者の願望を満たすという点で多くの支持を得ることができるだろう。
 河崎の女性遍歴型人物像は想定可能である。ただボクにとって感慨深かったのは、彼がHIVを恋人に感染させたことに責任を感じる点が、昔からあった「気は優しくて力持ち」的な類型を想い起こさせたことである。ちなみにボクは50歳代後半である。
 ペット殺しの愉快犯男2人・女1人の人物類型は極めてリアリティがある。愉快犯的にはペット殺しは、当然人殺しへ移行する。そして殺し、拷問する楽しみはあらゆる人間に出現可能な感情である。10歳代のいじめ、若者のホームレス襲撃、軍隊での新兵いじめや日常的な虐待などはその例である。だが同時に、このように人間の尊厳に気付かぬことあるいは敵対に対しては、嫌悪の感情も人間にはある。人間の尊厳の実現は、正義の実現である。小説の中でのペット殺し犯2人の死と1人に対する復讐の成就は、リアリティを持つとは言えないかもしれないが、正義の実現への多くの読者の希望を満たす点で支持を獲得する。

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『ウェブ進化論』梅田望夫(2006)を読んで2007/8/21

2007-08-21 15:07:02 | Weblog
著者は1960年生まれなので40歳台後半。ボクは58歳。ボクの関心の一つは若い人たちの将来の希望はどこにあるのだろうかということ。フリーターとかニートとかワーキングプアとか若い人には暗い時代。ひどい世の中になったと思う。この本は若い人に希望を与えると思う。一つの選択肢を提示していると思う。いうまでもなく誰もがこうした方面に進むわけではないが、新しい生き方・進路・キャリア・糊口の道のあり方を示していていて救われる。

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ボクの人生の意味と世界の完全な意味:17歳と58歳

2007-08-19 20:59:13 | Weblog
 完結した完全な人生の意味があるのではないかと思ったのが17歳の頃だった。そのとき思ったことは、世界の完全な意味が分かって、その中にボクの人生を位置づけることでのみ、ボクの完結した完全な人生の意味が分かるはずだということだった。今から思えば、そういうことだった。そこで、それ以来、世界の完全な意味を求めてボクは生きてきた。
 世界の完全な意味の探求は困難な道である。ボクは世界の最も根本の意味を求めて、言い換えれば第1のイデアを求めて生きた。ボクは、この世に興味はなく、この世の意味の根拠をなす、この世を越えた世界にだけ眼を向けて生きた。この世界ではない世界のうちに、始原の意味を探した。その始原の意味は学問の世界のうちにあると思ってボクは第一の学問である哲学の世界を放浪した。36歳まで放浪して、しかし世界の最も根本的意味は見つからなかった。ボクは探求に疲れた。
 ボクは学問の世界から、この世に戻ることにした。この世のうちに生きることで、そしてこの世に注意向けることで世界の完全な意味が見つかるのかも知れないと思ったのだ。
 でも実際には、この世界で生きて行くだけで大変だった。そして何が大変なのか、大変とは意味的になんなのかを問う暇もなかった。今も日々生きて行くのが大変でとにかく生きている。もし今後、少し生きることに余裕ができたら、こうして大変だ大変だといって生きていくことに内在する意味を明らかにしたい。ボクが自殺することなく、生きていけるのだから、この世界には意味があるのだから。
 これからボクが行う探求は次のようなものである。すでに現に日々生きられている意味を、それが即自的なもので対象化されていないので、対自化する。つまりボクが現に奮闘して生きているのがなぜかを、意味的に明らかにする。それによってボクの人生の意味が対象化される。人生の意味は現に日々このボクによってすでに生きられている。生きているこのボクそのものが人生の意味そのものである。ボクは人生の意味を即自的に生きるだけでなく、それを対自化する。
 17歳の時とは探求の順序が逆になった。17歳のボクにとっては、世界の完全な意味をまず見出して、その後に自分の人生の意味を見出すというのが、探求の順序だった。今気付いたのは、これとは逆の探求の順序である。ボクは現に生きられている即自的な意味から出発する。次にその即自的意味を対自化する。ボクは自分の人生の意味的構成を対自的に問う。これによって、まず自分の人生の意味に到達する。それから他我たちの人生の意味を探し、さらに動物や植物の精神のうちにある意味を探し、かくて世界全体の意味へ目を向ける。世界の完全な意味はその極限の地点にあるはずだ。こうして今やボクは、世界の完全な意味を探すためには、この自分の即自的な人生から出発するしかないとやっと分かった。ボクは今もう58歳である。

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損をしている2007/8/17

2007-08-17 23:33:29 | Weblog
”株価が下がった。あなたは損をしている。”このためにあなたはいらいらしている。何であれ、あなたの関心をひきつけるものは、あなたにとって意味のあるものである。かくて、あなたが生きる意味の一つはお金に関して損をしないこと。できればお金をもうけること。

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今、何があなたの注意をひきつける?

2007-08-17 10:44:58 | Weblog
 生きる意味を探す手がかりは近くにある。たとえば、あの子が今不満を述べている。あなたはそれにいらいらする。すると次のことが明らか!あなたの生きる意味は”あの子が今不満を述べている”という事態のなかに確かにある。今、あなたの注意をひきつけるものは、何であれすべてあなたの生きる意味を、そのうちに含んでいる。さあこれから、何があなたの注意をひきつけるのか、ひきつけてきたのか一つずつ確認して、あなたの生きる意味を探そう。

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一人で考えない2007/8/15

2007-08-15 00:21:18 | Weblog
下手な考え休むに似たりかな?きっと一人で考えるからだろう。それだけならまだいいが、もともと論理的思考が得意でないのかもしれない。印象批評だけが似合うのかもしれない。

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なぜ不機嫌になるのか2007/8/14

2007-08-15 00:08:15 | Weblog
 この世界が嫌いだから。他の人間との不調和が生じるから。自分の身体が自分に反抗するから。自分の気分が不安定だから。自分の身体が嫌い。自分が謎だから。この小宇宙と同時に大宇宙の全体的不調和が不機嫌の気分を生み出している。小宇宙を含む大宇宙の構造の全体が不機嫌を生み出すようにできている。大宇宙が不機嫌を内在させている。私という名の小宇宙内部の不調和、また他の小宇宙との関係における不調和。(※大宇宙が小宇宙として現象する場が(超越論的)精神。)小宇宙においてさえ今・ここに閉じ込められていることが不機嫌。世界を整理できないことも不機嫌。だが、ここまで生きた。つまりこの世界のうちで生きていける。生きていければ不機嫌でもいいのかなとも思う。
 不機嫌にならないために、こう考えたらどうだろう。この世界を嫌いにならない。他の人間と不調和を生じさせないようにする。又は他の人間と楽しく生きる。自分の身体に反抗しない。自分の気分の不安定さに身を任せる。あるいは自分を分解していくつかの自分に分ける。それらの自分はそれぞれが霧の塊のように漂っている。小宇宙のうちの不調和が消えれば大宇宙が不調和とも思わなくなる。
 P.S. 多くの自分が霧のように漂うにしても、また気分に本来場所がないはずだとしても、身体ばかりは一つしかなく身体とそれに連なる世界地平は至高の現実、つまり限られた領域があり、漂うことなく限定されている。一方で自分の身体は自分の牢獄かもしれない。他方でしかしそれは自分をこの小宇宙から突破させる唯一の道具でもある。
 他の人間は至高の現実のうちにのみ現れる。諸身体の世界は確実に共有される。気分が自分の本質である。それは本来、場所を持たない。ただ充満している。ところが共有された諸身体の世界の中で、充満した気分に場所が与えられる。感覚も本来は場所を持たないのに、そのうちの触覚がこの世界に境界を形成する。内と外である。内に由来する気分があることも明らかとなる。頭痛は内側にある、痛みはこちら側である、腹痛もこちら側。ナイフにおいて痛いということが現れてはいない。触覚が形成する境界の内部は特権的内部である。
 漂い充満していた気分、場所を持たないはずの触覚が特権的内部と結合する。この結合には理由がある。触覚が形成する身体的世界は、身体を形成する境界の向こう側をも当然に現実としている。境界の向こう側も現実的地平である。そして向こう側にも境界によって閉じられた形がある。その閉じられた形はこの世界の気分に反応する。満たされない気分は向こう側の閉じられた形の出現によって満たされた気分へと移行させられる。満たされない気分が満たされる気分へと移行すること、さらに満たされたいという希望が実現されること、この事態が向こう側の閉じられた形の出現とともに常に生じるとすれば、向こう側の形は、今ここにある・この気分を理解していると呼びうる。こちらの満たされたいという希望を向こうが実現すること、向こうがこちらを理解するということ、ここには構造の同一性がある。気分のレベルにおける構造の同一性がある。
 さらにまた、すでに述べたように触覚が形成する境界面の同一性がこちら側と向こう側の触覚構造の同一性を保証している。
 かくて、今や、向こう側の形と結合した同一構造の気分・触覚が出現した。このことによって、もともとのの気分・触覚は、特権的内部を持つこちら側の形と結合するほかなくなる。
 一方で自分の身体は自分の牢獄という面を持つようになる、つまり自分はこの小宇宙に閉じ込められる。他方でしかし、もともとの気分・感覚の向こう側にある気分・感覚が出現したことは、触覚が形成する身体的世界の同一性、また気分・感覚の構造の同一性を通して、この小宇宙が他の小宇宙と交流することを可能とする。

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感情・気分の共有、感覚の共有2007/8/11

2007-08-11 12:24:58 | Weblog
感情・気分・感覚がある。拡がりがある。その拡がりの中で最も明瞭なのは”今・ここ”。拡がりには2方向がある。その一方に属する"今”は感情・気分・感覚の最も明瞭な局面であり、想起される過去の局面と、やがて明瞭となる未来という局面と途切れなくつながっている。他方の拡がりである”ここ”は、感情・気分・感覚と連動した形あるもの、つまり身体と呼ばれる形それ自身のことである。”今・ここ”は、2方向の拡がりの分離不能な中心である。身体は限界を持つ。限界の外が他なるものである。感情・気分・感覚のうち身体と最も密接に連動するのが感覚。そのなかでも内と外を区別する感覚が触覚である。身体は、触覚によって内と定義される形である。触覚は境界形成作用であり、かつ相互に同一であるつまり自・自の境界接触と、相互に他である自・他の境界接触を区別できる。自・自の境界接触が起こる範囲の形が身体である。感情・気分・感覚は何よりも明瞭に”今”にある。と同時にその感情・気分・感覚は”ここ”である身体(つまり他と区別される自)を作り出しつつ、身体と連動する。さて他なるものは様々に区別され諸形象へと分化する。そしてその中で特別な他なるものが出現する。最も明瞭にそれが出現するのは一方で”今”においてであり、かつ他方で”ここ”においてである。確かに他なるものは外であり、内ではない。しかし”ここ”である身体と接触する他なるものに、特殊な他なるものが区別される。一方で、それは触覚によって限界づけることができる形を持つ。と同時に他方で、それは常に暖かく、また感情・気分・感覚に関し常に快適さを生み出す。内側が暖かく外側も暖かいことは、快適さを生み出す。内側の望まれる未来が、外側の他なるものの出現とともに到来する。感情・気分において望まれるものが、他なるものによって到来させられる。これが感情・気分の共有と呼ばれる事態であり、つまり、この感情・気分が自なるものに属するとともに、他なるものの属性でもあるということが証明されるのである。この事態は理解作用とも呼びうる。感覚に関しても共有性がある。触覚において、自と他の境界は、接触面を同一性として共有する。触覚において、他なるもの、かつ限られたものとされる形は、一方で接触面の同一性において共有された感覚を持つとともに、さらに他方で、共有された感情・気分を属させている。共有された感情・気分を持ちうる限りで、この他なるものは特殊な他なるもの、つまり他なる感情・気分・感覚として他我と呼んでよい。このとき同時に”今・ここ”と連動する感情・気分・感覚は自我となる。

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うれしい2007/8/10

2007-08-11 01:24:48 | Weblog
人がまじめに、あるいは善意のうちに生きているのを見て、今日はうれしい気持ちになった。ただそれは、その人の一面を見たに過ぎないのかもしれないとも思う。なぜなら人から悪意をもって対されたことが自分には、これまで何度もあるから。また自分自身、悪意を持って行動することが、しばしばあるから。

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