仏教美術展などを見て密教がわかりにくいとよく思うが、密教は大日如来信仰だと今回確認できた。天台宗が法華経を中心の経典としていること、また法華経が仏教教義の体系化を達成したものであることも了解した。
神仏習合では本地垂迹説の両部神道が伊勢神道・唯一神道でひっくりかえるのはともかく、山崎闇斎が君臣関係を徹底し天照大神を最上の存在とする垂下神道に至ったのは一貫していて納得がいく。
余情を美の条件とする幽玄が美は滅ぶから美しいとの結論に至るのは潔い。
朱子学の理気二元論で性即理はデカルト的な理性の普遍性を想起させる。しかし身分的上下関係が理つまり宇宙法則だというのは誤りだろう。
陽明学の心即理、つまり人の心がそのまま理である(良知)として感情を重視するのはロマン主義的である。ただそれを人間の心の善性と解釈するのはいかにも儒教的で関心が道徳に向いていると言える。
朱子学の理を自然科学の法則ととらえる新井白石はモダンである。歴史の中に理を見出すという観点が理想主義でなく現実主義に帰結した横井小楠を見ると理の概念の広さに感心する。
石田梅岩が士農工商を上下関係でなく分業関係ととらえたのは町人的である。同様に山片蟠桃が利益追求を正しいとしたのはスミス的である。
日本の重商主義思想として官船による官営貿易を唱えた本多利明が人口増による輸入の必要を論拠としたこと、藩専売制を主張した海保青陵が理とは経済学的価値の普遍性であり武士による経済活動をここから正当化したことなど、論理の展開の到達点の多様であることに感慨をもつ。
富永仲基の大乗思想が釈迦と無縁との説(大乗思想非仏論)は科学的である。
天地に上下関係はないとする安藤昌益は、偏見にとらわれず理性を働かせることができる自由の人であると思う。
議会政策派の片山潜には賛成。
また明治前期は自由民権の時代、明治後期は社会主義の時代、その後が大正デモクラシーの時代というとらえ方はわかりやすい。
支配欲は小欲、経済発展こそ大欲との石橋湛山の思想は賢いと思う。
想世界は実世界より独立しかつ尊いとする北村透谷の浪漫主義は魅力的。
全体を見て人間の思想の拡がりは内発的展開と外部的事象との交渉的展開が絡み合っているように見える。
神仏習合では本地垂迹説の両部神道が伊勢神道・唯一神道でひっくりかえるのはともかく、山崎闇斎が君臣関係を徹底し天照大神を最上の存在とする垂下神道に至ったのは一貫していて納得がいく。
余情を美の条件とする幽玄が美は滅ぶから美しいとの結論に至るのは潔い。
朱子学の理気二元論で性即理はデカルト的な理性の普遍性を想起させる。しかし身分的上下関係が理つまり宇宙法則だというのは誤りだろう。
陽明学の心即理、つまり人の心がそのまま理である(良知)として感情を重視するのはロマン主義的である。ただそれを人間の心の善性と解釈するのはいかにも儒教的で関心が道徳に向いていると言える。
朱子学の理を自然科学の法則ととらえる新井白石はモダンである。歴史の中に理を見出すという観点が理想主義でなく現実主義に帰結した横井小楠を見ると理の概念の広さに感心する。
石田梅岩が士農工商を上下関係でなく分業関係ととらえたのは町人的である。同様に山片蟠桃が利益追求を正しいとしたのはスミス的である。
日本の重商主義思想として官船による官営貿易を唱えた本多利明が人口増による輸入の必要を論拠としたこと、藩専売制を主張した海保青陵が理とは経済学的価値の普遍性であり武士による経済活動をここから正当化したことなど、論理の展開の到達点の多様であることに感慨をもつ。
富永仲基の大乗思想が釈迦と無縁との説(大乗思想非仏論)は科学的である。
天地に上下関係はないとする安藤昌益は、偏見にとらわれず理性を働かせることができる自由の人であると思う。
議会政策派の片山潜には賛成。
また明治前期は自由民権の時代、明治後期は社会主義の時代、その後が大正デモクラシーの時代というとらえ方はわかりやすい。
支配欲は小欲、経済発展こそ大欲との石橋湛山の思想は賢いと思う。
想世界は実世界より独立しかつ尊いとする北村透谷の浪漫主義は魅力的。
全体を見て人間の思想の拡がりは内発的展開と外部的事象との交渉的展開が絡み合っているように見える。