宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

『これが現象学だ』第5章 時間と空間の原構造、谷徹(トオル)(1954生れ)、講談社現代新書、2002年

2017-09-22 23:03:34 | Weblog
第5章 時間と空間の原構造(その1):世界の〈存在〉は意識の働き(志向性)に先立つ(原受動性=「先志向性」の次元)
(1)意識の働き(志向性)に先立って、世界は〈存在する〉
A 超越論的主観性は、存在=超越を構成するからこそ、超越論的だと定義されていた。
A-2 ところが今や、世界の〈存在〉は意識の存在措定によるものではない、ということが発見された。
A-3 すなわち存在措定とは存在の構成(存在を認めること)であるが、世界の〈存在〉は、存在措定=存在構成に依存しない。
B 存在措定=存在構成に先立って、それゆえ意識の働き(志向性)に先立って、世界は〈存在する〉、あるいは〈存在してしまっている〉
B-2 かくて、世界はもともと志向的現象(志向性によって構成された現象)でない。
B-3 今や、現象学は、新たに始原する。

《感想》
①さらに、意識の働きそれ自身がすでに〈存在してしまっている〉と言わねばならない。
①-2 注視の能動性もまた、すでに〈存在してしまっている〉。
①-3 受動性、すなわち受動的な志向性は、気づきであるが、気づきとは世界の現れ(現出)のことである。
② 注視の能動性も、それ自身、世界の現れ(現出)である。
②-2 能動性による確認とは、世界による、世界自身の確認である。このような仕方で、世界が現れている(現出する)。
③受動性の《気づき》とは、世界が世界に気づくことだ。
③-2 そもそも能動性の注視も世界が、世界を注視するのだ。
③-3 意識における注視は、欲望である。欲望は、世界が欲望することだ。
④ 意識とは、世界が世界に気づくことである。世界が意識する。
⑤ 「私」とは、ひとまとまりにされた欲望の束である。
⑤-2 欲望するのは、「私」でなく世界である。束ねられた欲望に「私」のラベルが張られた。「私」は欲望の束にすぎない。欲望は世界そのものの現れであり、世界が欲望する。
⑤-3 世界が分身の術のように、複数の世界として現れる。複数の世界それぞれを単位として欲望の束ができる。かくて多数の「私」が出現する。
⑥ 複数の世界はそれぞれ「心」とよばれる。
⑥-2 なぜなら複数の世界が出会うことが出来るからである。共通のつまり客観的な物世界が、複数の世界が出会う唯一の世界だ。唯一で共通の客観的な物世界に対し、複数の世界はそれぞれ《心》と名付けられる。
⑦ 注意すべきは、唯一で共通の客観的な物世界は、複数の世界(それぞれの《心》)の一部である。
⑦-2 物は、実は、《心》の一部である。
⑦-3 この《心》は、超越論的主観性である。
⑦-4 超越論的主観性は、意識と呼ばれる。しかし、この意識は、それ自身、世界そのものである。だから当然、物も含む。

(2)世界地平は、受動的とは言え、やはり志向的に構成される:受動的志向性
C 意識の働き(志向性)には、能動的なものと、受動的なものがある。
C-2 典型的に能動的な志向性は、言語的述定である。
C-3 典型的に受動的な志向性は、把持・原印象・予持の志向性、および、キネステーゼ意識である。
D 世界地平は、時間地平と空間地平からなる。
D-2 時間地平は、把持・原印象・予持の(受動的)志向性により、受動的に構成される。
D-3 空間地平は、キネステーゼ意識の(受動的)志向性により、受動的に構成される。
E かくて世界地平は、受動的に構成される。
E-2 受動的とは言え、世界地平は、やはり志向的に構成される。

(1)-2 原受動性(受動的志向性よりもっと受動的に与えられること):意識の働き(志向性)そのものに先立つ世界の〈存在〉
F ところが世界の〈存在〉は、その始原においては、意識の働き(志向性)そのものに先立つ。
F-2 世界は、受動性(※受動的志向性)よりももっと受動的に与えられる。フッサールはこれを「原受動性」と呼ぶ。
F-3 世界の〈存在〉は、まずもって原受動性において与えられる。
G 意識の働き(志向性)は、この世界の〈存在〉を元手にして、これ(※世界)を形成しなおしていく。

《感想》
(a)それにしても意識(志向性)は、どこから出現したのだ?すでに与えられていたと言うほかない。
(b)存在措定=存在構成に先立って、それゆえ意識の働き(志向性)に先立って、世界は〈存在する〉あるいは〈存在してしまっている〉。(参照(1)B)
(b)-2 同様に、世界には、すでに意識(志向性)が、〈存在する〉あるいは〈存在してしまっている〉。
(b)-3 すなわち存在措定=存在構成に先立って、それゆえ意識の働き(志向性)に先立って、意識(志向性)そのものが、〈存在する〉あるいは〈存在してしまっている〉。
(c) この〈存在する〉あるいは〈存在してしまっている〉意識(志向性)そのものが、次の「(2)原構造:時間の原構造(流れつつ立ちどまる現在)」である。

(2)原受動性(「先志向性」の次元):「原ヒュレーの変転などのなかで原構造が生じており、[そこには]原キネステーゼ、原感情、原本能が伴っている」
H かつてフッサールは「超越論的主観性は、形而上学的な土台などではなく、その諸体験と能力をもったものとして、直接経験の領野である・・・・」
H-2 この超越論的主観性=直接経験の領野が、発生的現象学において、さらに考古学的・遡及的に発掘される。
《参照(1)-2、F》世界の〈存在〉は、その始原においては、意識の働き(志向性)そのものに先立つ。

I 晩年のフッサールは、遡及的問いの最終段階、すなわち原受動性に到達する。
I-2 「最終的に、原ヒュレーの変転などのなかで原構造が生じており、[そこには]原キネステーゼ、原感情、原本能が伴っている。」(フッサール)

《感想1》
①意識とは、存在措定以前の〈存在〉が、おのれを開くことである。おのれを開くとは、〈存在〉が連続して産出され続けることである。
②すなわち〈存在〉は、ブツブツでなく連続している。〈存在〉が連続して産出され続ける。これは、すなわち、〈存在〉が時間の原構造を持つことである。時間は、「連続」の別名である。

《感想2》
③意識とは、意識の働き(志向性)であり、受動的志向性(受動的なキネステーゼ意識と、受動的な把持・原印象・予持の志向性)と能動的志向性(注視の志向性)からなる。
④同時に意識とは、直接経験=志向的体験であり、諸現出の感覚を突破して(媒介にして)、現出者を知覚する。(フッサール)(《参照》第3章第1節)
④-2 意識の基礎は、諸現出の感覚であるが、一体、感覚(意識a)する受動的志向性とは、意識される側に対抗する《意識する側》であるが、その意識とは何か?
④-3 さらに意識は、現出者を知覚するが、知覚(意識b)する能動的志向性とは、意識される側に対抗する《意識する側》であるが、その意識とは何か?
⑤感覚することそのもの、知覚することそのものが、意識である。その場合、「現出者(対象)」が経験(知覚)され、「現出」は体験(感覚)されること自体が、意識である。
⑤-2 だから意識とは、世界が「現出者(対象)」および「現出」として自己を示すこと(世界の開け)である。

《感想3》
⑥意識とは、ふつう「心」と呼ばれる。
⑥-2 意識(心)とは、(a)見えるもの・触(サワ)れるもの・冷熱・重さ・におうもの・味・体内の感覚(筋肉・骨・だるさ・吐き気・内部の痛み)・体の傷の痛み・かゆみ等々すべて、つまり感覚されるものすべてである。さらに(b)感情、欲望、意図、さらに(c)思惟、(d)想像、(e)書かれたものとその内容、(f)言うこととその内容、(g)あらゆる芸術表現、(h)あらゆる作られたもの(人工物)とその内容((e)(f)(g)も含む)、(i)夢。要するに、意識(心)とは、この世で起こることのすべてだ。

《参考1》第3章第1節
F 直接経験=志向的体験において、諸現出の感覚を突破して(媒介にして)、現出者を知覚する。(フッサール)

《参考2》第1章第3節
F 直接経験では、諸現出の体験(感覚)を媒介にし(突破して)現出者が知覚(経験)されるが、この媒介・突破の働きが志向性と呼ばれる。
F-2 それゆえ直接経験は、「志向的体験」と言い換えられる。
F-3 諸現出と現出者の(媒介・突破の)関係がそこで生じる場面、すなわち志向的体験が、「意識」と言われる。
G 「現出者(対象)」は経験(知覚)され意識の主題となるが、「現出」は体験(感覚)されるだけで「意識の非主題的成分」(その1)である。
H また意識は基本的に対象を主題的にとらえており、おのれ自身(=現出を突破する意識の「働き」)を意識するしかたは非主題的である。意識がおのれを主題化するのは「反省」(内部知覚)する場合である。すなわち、現出を突破する意識の「働き」そのものは、「意識の非主題的成分」(その2)である。
H-2 現出を突破する意識の「働き」は「作用(Akt)」と呼ばれる。のちにこの作用を支える働きがさらに発見され、その場合、作用は「能動性(Aktivität)」と呼ばれ、それを支える働きが「受動性(Passivität)」と呼ばれる。

《参考3》第2章第3節
L 最晩年のフッサールは、アプリオリな「本質」さえも、ある最も始原(起源根源)的な事実に依拠すると認める。これが「原事実」である。
L-2 必然性を持たないので、「原事実」も一種の事実である。
L-3 通常の「事実」は、経験の枠内で生じる。「原事実」は、経験そのものの成立を支える。なお経験とは、直接経験=志向的体験のことである。
M 「アポステリオリな事実」も、「アプリオリな本質」も、直接経験=志向的体験から成立する。
M-2 この直接経験=志向的体験を、「原事実」が支える。
M-3 かくてアプリオリな本質も、「原事実」なしに不可能である。アプリオリな本質が持つ「必当然的明証性」の基礎に「原事実」がある。
M-4 「原事実」は、経験そのものを可能にするのだから、超越論的な事実である。
N 「原事実」とは何か?フッサールは以下のことを原事実と認める。
(1) 私が存在する(あるいは経験の中心化が生じている)ということ。
(2) 流れつつ立ちとどまる現在が生じている(あるいは世界がある安定性をもって開かれている)ということ。
(3) 他者が存在するということ。


第5章-2  時間と空間の原構造(その2):時間の原構造(原初の時間=原現在としての「生き生きした現在」)
(2)-2 「先志向性」の次元における原構造(時間の原構造):根源的な現在(原現在)は、「流れつつ立ちとどまる」
J 原構造とは何か?以下、明らかにしていく。
K さて、空間地平は、受動的なキネステーゼ意識のよって広げられた。
K-2 この空間地平の構成は、時間地平の構成に依存していた。この時間地平は、受動的な把持・原印象・予持の志向性によって、幅を持っていた。

L 受動的志向性(受動的なキネステーゼ意識、受動的な把持・原印象・予持の志向性)が、まだ働かない次元がある。把持や予持が働いていない。
L-2 これが、「先志向性」の次元である。
《感想》
①先志向性の次元とは、意識以前である。
①ー2 意識とは《生の活動性》のことである。
①ー3 先志向性の次元とは、《生の活動性》(=意識)以前であり、そこですでに、〈存在〉が与えられているのだ。
②ところで〈存在〉は、時間によって可能となる。時間とは連続、あるいは産出である。

(2)-3 「先志向性」の次元における原構造(続):「原ヒュレー」は一瞬で消え去るのか?
M 受動的志向性による把持や予持が働かない「先志向性」の次元では、すべては一瞬で変転し、一瞬で流れ去るのか?
M-2 「原ヒュレー」は一瞬で消え去るのか?「原ヒュレー」とは、原連合を促し、後に規定(意味)へと構成されるもののことである。
M-3 時間は、把持(や予持)が働かない原受動性では、「幅」を失って「点」のようなものになるのか?一瞬で変転し、一瞬で流れ去る(※消え去る)のか?
M-4 すなわち「先志向性」の次元は、無の浸食が起きるのか?

(2)-3 「先志向性」の次元における原構造(続々):原受動性(=「先志向性」の次元)においても時間は「立ちとどまる」、すなわち時間の原構造としての「流れつつ立ちとどまる現在」(原現在)、すなわち原初の時間(原現在)としての「生き生きした現在」
N 時間は、原受動性においても、つまり志向性(※=意識=《生の活動性》)なしにも、一瞬で流れ去ることはない。時間は、原受動性(=「先志向性」の次元)においても、それ自身が幅をもって「立ちとどまる」、あるいは立ちどまってくれる。
N-2 原受動性(=「先志向性」の次元)における最も根源的な現在(原現在)は、「流れつつ立ちとどまる」。
N-3 こうした状態を、フッサールは「原構造が生じている」と表現した。
O 志向性(※=意識=《生の活動性》)なしに、つまり把持も予持もなしに、いわんや想起や予期や想像などまったくなしに、原受動性の次元ですでに、現在の幅が生じている。
O-2 原初の時間(原現在)は、受動的志向性にすら先立って、幅を持ちつつ生じている。
P これが原現在としての「生き生きした現在」の原構造である。

《感想1》原受動性(=「先志向性」の次元)においても時間は「立ちとどまる」。つまり世界が有であって、無でないこと。
《感想2》志向性=意識=《生の活動性》以前に、世界が無でなく有である=〈存在〉する。

(2)-4 原キネステーゼ、原感情、原本能
Q 時間の原構造としての「流れつつ立ちとどまる現在」(原現在)(※有としての世界、〈存在〉する世界、世界が無でないこと)には、原キネステーゼ、原感情、原本能が伴うと、フッサールは言う。
Q-2 原キネステーゼ:キネステーゼ意識は原初の空間を押し広げつつ空間地平を構成し、身体を構成する。まだそうした構成を遂行していないキネステーゼ意識が、「原キネステーゼ」である。
Q-3 原感情・原本能:晩年のフッサールは、フロイト的な無意識を現象学的に解釈し直そうとしていた。(後述)


第5章-3  時間と空間の原構造(その3):空間の原形式としての不動の「大地(Erde)」
(3)空間の原形式:不動の「大地(Erde)」(動かないし、静止しているのでもない)
R 空間に、原構造はあるのか?(※志向性=意識=《生の活動性》以前に〈存在〉する世界が、原構造と呼ばれる。)
R-2 これについて、フッサールに、空間の起源をめぐる1934年の有名な草稿「コペルニクス説の転倒」がある。

S 現象学は、客観的空間の「起源」を直接経験に求める。
S-2 「動く」とは対象が、その空間位置を変えること。
S-3 空間位置は、空間の中の位置だから、そもそも空間が与えられていなければならない。
S-4 この空間が直接経験においてまず与えられている。あるいは空間が直接経験において、「開かれて」いる。
S-7 フッサールは、この空間を「大地(Erde)」と呼んだ。

T 大地は不動である、つまり動かない。
T-2 大地が「動く」ためには、大地が位置づけられる大空間が必要。しかしそうした大空間は与えられていない。よって大地は動かない。
T-3 また大地は「静止」しているわけでもない。「静止」とは空間の中の位置(空間位置)が変わらないことだが、この場合、そもそも空間が与えられていなければならない(前提条件)。大地は、その空間そのものだから、大地は「静止」しているとさえ言えない。

U 大地が不動であるとは、大地が、なにかが動くあるいは静止することを可能にする条件だということである。
U-2 大地が動くというコペルニクス説の転倒。
U-3 同時に、大地が静止しているという反コペルニクス説も転倒させる。
U-4 大地が「静止」しているというのなら、それは運動と対概念になる相対的静止でなく、絶対的な静止だ。

V (後に身体を構成する)キネステーゼ的な運動も、運動としては、この絶対的に静止した大地を前提する。
W 時間にかんして「先志向性」の次元で「原構造」が生じている。
W-2 空間に関しては「先志向性」の次元で「原形式」が生じている。
Wー3 すなわち空間の志向的な構成に先立って、まず原初の空間(不動の大地)が与えられる。この原初の空間が、空間位置の区別を可能にする原初の形式(「原形式」)としての役割を果たす。
Wー4 原形式としての大地が、対象が「動く」(運動する)ことを可能にする。


第5章-4  時間と空間の原構造(その4):不動の大地(空間の原形式)の隠蔽、原構造としての時間(生き生きした現在)の隠蔽、原事実的なもの(形而上学的なもの)の隠蔽
(3)-2 不動の大地(空間の原形式)の隠蔽
A ひとたび、動くものとしての対象が、注視されると、この対象が主題となり、「大地」が隠蔽される。
A-2 その後、客観的空間が構成され、さらに自然科学の巨大空間が構成される。
A-3 自然科学の巨大空間のなかで、不動の「大地(Erde)」さえ、可動的なもののように現れて来る。それが宇宙空間の「地球」である。
A-4 地球として現れてきたものは、原形式としての役割を失っている。

(4)原構造としての時間(生き生きした現在)の隠蔽
B 原形式としての大地の隠蔽が、以上、確認された。
C 原構造としての時間(生き生きした現在)についても、隠蔽が起きる。それは、対象の主題化とともに覆い隠される。
C-2 客観的時間、とりわけ自然科学の巨大時間が構成されると、現在は、生き生きした現在でなく、死んだ現在となり、いわば可動的であるようなものとして、現れる。(Ex. タイムマシンで移動する私の現在)

(5)原事実的なもの(形而上学的なもの)の隠蔽
D 原受動性において与えられる原事実的なもの(形而上学的なもの)の隠蔽。


第5章-5 時間と空間の原構造(その5):原受動的・原事実的なものを問う現象学(形而上学)と《非-隠蔽性》としての真理(ハイデガー)
(6)高次の主題化的構成が獲得する明証性の背後にある隠蔽・沈降&その最根源にある原受動的・原事実的なもの
E 高次の構成は、低次のものを覆い隠しつつ、進行する。
F なにかが「明証的」(evident)になるとは、《高次の構成が起き、なにかが主題的になり、なにかが「外に」(ex)でてきて「見る」(videre)ことができるようになること》である。
F-2 高次の構成は、主題的なものの背後に、その可能性の条件を、深く沈みこませる。
G 高次の主題化的構成が獲得する明証性の背後には、隠蔽・沈降がある。
G-2 ガリレイ以降の科学的な高次の世界(※自然科学の巨大空間)の構成は、低次の生活世界を覆い隠した。G-3 このような事態の最根源には、原受動的・原事実的な次元(※もの)がある。

(6)-2 原受動的・原事実的なものを、その現場で問う現象学(形而上学) Cf. 《非-隠蔽性》としての真理(ハイデガー)
H 原受動的・原事実的なものを、明証的に捉えようとすれば、それは隠蔽を伴う。
H-2 原受動的・原事実的なものを、その現場で問う現象学(形而上学)は、明証性を、新たに、隠蔽性と連携させて考え直さねばならない。
H-3 ハイデガーの《非-隠蔽性》としての真理の概念がよみがえる。
H-4 フッサール自身は、そうした明証性と真理の概念を展開しなかった。


第5章-6 時間と空間の原構造(その6):原初の世界の「先存在」(〈存在〉)
(7)受動的志向性にすら先立つ先志向的な次元(原受動性)としての「原初の世界」(谷)
I 晩年のフッサールは、受動的志向性にすら先立つ先志向的な次元(原受動性)を発見する。
《感想》
先志向的な次元とは、志向性=意識=《生の活動性》以前に〈存在〉する世界である。

I-2 先志向的な次元(原受動性)において、時間の原構造と、空間の原形式が、あらかじめ生じている。
I-3 この原構造と原形式のもとで原ヒュレー(意味の先行形態)が与えられる。
《感想》
先志向的な次元(原受動性)は、構造(時間)と形式(空間)を持ち、かつ質料(原ヒュレー)をもつ。
先志向的な次元は、虚無でなく、かように驚くべきことに、有である。
この有を、メルロ=ポンティが「肉」と呼ぶ。

I-4 このように与えられるもの全体は、「原初の世界」(谷)と呼びうる。

(7)-2 「先存在」(フッサール):原初の世界の〈存在〉
J こうした原初の世界の〈存在〉を、フッサールは「先存在」と呼ぶ。
J-2 「先存在」は、志向的に(※意識=《生の活動性》において)構成・措定される、そして後に言語化される、存在すべて(実在的存在、理念的存在、中立的存在、非存在、様相変化を受けた存在)に先立つ。
J-3 「先存在」は、これらの存在すべてに先立って、端的に与えられてしまうような最も根源的な存在である。
《感想》
かくて「先存在」は、有そのものである。以下の「現実感」論につながる。

(7)-3 「先存在」がもたらす「最も根源的な現実感」:「根源的超越」(谷)!
K かくて「先存在」は、「最も根源的な現実感」(谷)とでもいったもの(※すなわち虚無でなく、有であるということ!)を与えてくる。
K-2 「先存在」は、志向性に先立つゆえに、志向性によっては如何ともしがたい現実感を押し付けて来る「根源的超越」(谷)である。
K-3 構成段階が上昇すれば、この原初の現実感は薄れていく。
K-4 しかし完全には失われず、全ての構成段階に、根底から現実感を与え続ける。
K-5 生涯にわたって「現実」を求めたフッサールは、晩年、現実の究極の始原を、原初の世界の「先存在」に見た。
L 覆い隠される原初の世界の「先存在」が、構成段階の上昇の際に、完全に失われるとことが起きたら、それは「危機」である。
《感想》
そうしたことは、原理的に起きない。一種の仮象である。なぜなら原初の世界の「先存在」は完全には失われず、全ての構成段階に、根底から現実感を与え続けるから。(参照K-4)


第5章-7 時間と空間の原構造(その7):原初の世界と自我の成立(誕生)
(8)先志向性の次元における「先自我」あるいは「原自我」
M 原受動性では志向性はまだ働いていない。
《感想》世界は開いているのだ。しかし《生=意識=志向性》が活動していない。だが有が現れている。これはいわば《原意識》である。世界が開いていることは、原意識=《原自我》と呼ばれるべきである。

Mー2 志向性が働かぬ原受動性は、「先志向性」の次元である。
N ここでは自我が成立していない。
N-2  なぜなら、自我は、志向性(縦の志向性=内的把持)が働くことによって初めて成立するから。
N-3 この状態は「先自我」あるいは「原自我」と呼ばれる。
《感想》生命とは、世界が開く出来事のことである。生命は、原意識=原(先)自我である。

(8)ー2 原自我(※世界の開け)においてすでに「原構造」=「時間的統一」が形成されている
O 原自我(※世界の開け)においてすでに「原構造」=「時間的統一」が形成されているので、原ヒュレーは、次々に瞬間的に消滅せず、(緩やかな)まとまりを形成することができる。
《感想》世界は連続して「開き」続ける。あるいは世界は連続して「産出」され続ける。
P 原自我の統一性(時間の「原構造」=「時間的統一」)が、自我が成立するように「触発する」。
P-2 原受動性は自我の母胎である。

《補遺》
P-3 ※つまり、「触発」される能動的志向性としての注視が、自我を成立させる。
P-3 ※受動的志向性としての把持・原印象・予持は、《原受動性》としての《時間の原構造・空間の原形式・原ヒュレーの統一的全体》を前提(場)にして、働く。
P-3-2 ※原受動性は明らかに世界の開けであるが、この原受動性を前提(場)に働く受動的志向性(把持・原印象・予持)も、世界の開けである。
P-4 ※受動的志向性を含む《生=意識=志向性》は、世界の開けである原受動性を前提(場)にして働くのだから、やはり世界の開けである。

《参照》第2章第4節(3)-2 「超越論的自我」(フッサール)
F-3 しかし後に、フッサールは、カント的自我に近い「超越論的自我」を認める。(ナトルプの示唆?)
F-3-2 フッサールは、プフェンダーから、「昨日の対象と今日の対象を同一の対象だと見ることは、どのようにして可能なのか」と問われ、「苦境」に陥る。(1905年)
F-3-3 かくてフッサールは、時間的に遠く隔たった直接経験=志向的体験を統一する働き(同一化機能・中心化機能)が、認識や経験の可能性の条件として必要だと、考えるに至る。
F-3-4 この同一化機能・中心化機能が「自我」である。

《感想1》
①フッサールは、志向性=意識=《生の活動性》に関し、受動性と能動性を区別する。
②受動的志向性は感覚である。(感覚は感情の一種である。)
②-2 把持・原印象・予持の受動的志向性は、世界の開けの感情(感覚)である。世界の開けの感情(感覚)、すなわち虚無でなく有であることの感情(感覚)が、意識である。
③ 受動的志向性は、世界の開けの感情(これは知の領域の感情である)のみでなく、満足感、不快感、渇望感などの感情(情としての感情)も含む。
④ 感覚は知の領域の感情であり、基本的に受動的志向性である。もちろん感覚は注視など能動的志向性も含む。
⑤ 能動的志向性は、感情・欲望・意図からなる。注視は、知の領域に属す欲望の一種である。
⑤-2 この場合、感情は、欲望・意図の動機あるいは原因であり、欲望・意図の基礎である。欲望は何事かを望む感情(知情意の領域にわたる)である。意図は明確化された何事かを望む欲望(=一種の感情)である。
⑥ これまでの谷氏の議論の範囲では、フッサールの語る受動的および能動的志向性に関し、知の領域の志向性(注視)しか扱っていない。情(情としての感情、知の領域以外の欲望へと展開する感情)・意の領域に属す志向性について論じていない。

《感想2》
時間的に遠く隔たった直接経験=志向的体験を統一する働き(同一化機能・中心化機能)が、自我であるが(Cf. 上記《参照》)、この自我は、《能動的志向性(注視)に基づく自我》である。
受動的志向性(把持・原印象・予持)(第1次的時間化)は、いわゆる普通の自我つまり《能動的志向性(注視)に基づく自我》(第2次的時間化)の出現の前提である。

(9)自我(※超越論的自我)の「第1次的時間化」と「第2次的時間化」
G 原自我の統一性(時間の「原構造」=「時間的統一」)によって「触発」されて成立した自我は、「第1次的時間化」を遂行する。
G-2 つまり自我は、受動的志向性を発動し、《把持・原印象・予持からなる時間(現在)》を構成し、この中におのれを位置付ける。
H 自我は、このおのれの活動(※「第1次的時間化」)によって、さらに触発され「第2次的時間化」を遂行する。
H-2 つまり自我は、想起をつうじて《客観的時間》を構成し、その中におのれを位置付ける。

(9)-2 超越論的自我は、2段階の時間化の遂行をつうじて、経験的自我として現れる
I 超越論的自我(※自我)は、二段階の時間への位置づけをつうじて、一種の個体と化し、経験的自我として現れるに至る。
J この超越論的自我(※自我)による、おのれ自身の二段階の《時間への位置づけ》(※時間化)は、自然的態度の起源である。
J-2 さらに、この《時間への位置づけ》(※時間化)を、《空間への位置づけ》と絡めれば、自我(※超越論的自我)は、《今とここ》に位置づけられて、自然的態度が完成する。

(9)-3 超越論的統覚の自我は《あらかじめ備わっている》(カント)&自我は「発生」の過程を経て成立した(フッサール)
K カントは主観性に、超越論的統覚の自我が、《あらかじめ備わっている》とみなした。
K-2 しかしフッサールは、自我は、上述のような「発生」の過程を経て成立した。
L 自我の「発生」の過程は、横方向に流れる客観的時間のはるか遠方にすでに失われたわけでない。
L-2 この自我の「発生」の過程は、自我の中に、時間そのもののいわば縦方向の構成の中に、堆積して残存している。

(9)-4 ハイデガー:時間の自己触発によって自我が成立する
M ハイデガー『カントと形而上学の問題』:カントを現象学的に解釈し、《時間の自己触発によって自我が成立する》と述べる。
M-2 フッサールは1929年にこれを読むが、批判的だった。
M-3 しかし、フッサールは、数年後、《この1933年の草稿》を残す。ハイデガーのカント解釈が、フッサールのヒントになったのかもしれない。

(10) 原構造(時間の「原構造」=「時間的統一」)が弱く、万華鏡的・モザイク的な状況だと、自我は成立せず、バラバラに解体する
N これまで述べた通り、フッサールによれば、《自我(私)の成立にあたっては、原構造(時間の「原構造」=「時間的統一」)のもとでの原ヒュレーの変転が、母胎のように働く》。
N-2 しかし、このことには、なんの必然性もない。
N-3 例えば、原構造(時間の「原構造」=「時間的統一」)が弱く、《原ヒュレーがほとんど瞬間的に消滅し、未知の原ヒュレーが次々に到来する》といった万華鏡的・モザイク的な状況であったとする。
N-4 この場合には、原受動性は、(必要最低限のまとまりを与えて)自我を成立させることは出来ず、むしろ自我をバラバラに解体する。
N-5 自我の成立は、なぜかこういう事態が起こらなかったこと、なぜか母胎的な状況が与えられたことによる。

(10)-2 「原事実」:①自我(私)が存在すること、②その自我(私)を存在させるような時間/世界が先存在すること、言いかえれば、《原構造が弱くないこと》すなわち《自我の成立にあたり、原構造のもとでの原ヒュレーの変転、が母胎のように働くこと》
O 《原構造が弱くないこと》、すなわち《自我の成立にあたり、原構造のもとでの原ヒュレーの変転、が母胎のように働くこと》、このことに必然的な理由はない。
O-2 ただ「事実」としてそうなっている。
O-3 そして、自我(私)は確かに成立している。
P 仮に自我が成立しなかっら、現象学も不可能だし、このような議論自体も不可能。
Q この「事実」(※《原構造が弱くないこと》、すなわち《自我の成立にあたり、原構造のもとでの原ヒュレーの変転、が母胎のように働くこと》)、は、全ての構成を支える最も根源的な事実であり、フッサールは、これを「原事実」と呼んだ。
Q-2 ①なによりも、自我(私)が存在することは「原事実」である。
Q-3 ②しかし、その自我(私)を存在させるような時間/世界が先存在すること(※原構造・原形式・原ヒュレーの先存在)も、(最根源的な)「原事実」である。


第5章-8 時間と空間の原構造(その8):原事実についての「解釈」(贈与・保有・遊戯)
R 原事実についての「解釈」。
R-2 原事実は、原事実であって、それ以上のことを言うことは出来ない。ただ「解釈」(※神学的解釈と言うべきか!)は出来る。
(1)ハイデガー:存在は「贈与」である
S ハイデガーは、存在を「エス・ギプト」(es gibt)だと解した。つまり「贈与」と解釈した。
S-2 ハイデガーは、存在は、主観が構成するのでなく、それみずからが「贈与」すると解釈する。
S-3 この贈与は、もちろん、必然性なき贈与である。
S-4 贈与に対する人間の態度は、感謝(danken)、思索(denken)、詩作(dichten)だと、ハイデガーは言う。

(1)-2 フッサール:原事実は「贈与」である
T フッサールによれば、時間/世界(※原事実)は、自我が(それを)構成する以前に先存在する。
しかも、それは、自我を存在させるのだから、時間/世界(※原事実)は、「贈与」する。
T-2 フッサールの原事実は、「贈与」である。

(2)レヴィナス:原事実は、おのれの手元への「保有」であり、(主体=自我への)「無関心」である
U レヴィナスは。存在(イリヤ ilya、仏語の「・・・・がある」)は、自らをおのれの手元に「保有」したまま、なにも「贈与」しないと考える。だからと言って、「奪う」わけでもない。
U-2 レヴィナスのイリヤ(存在)は、主体(自我)を誕生させないが、殺すわけでもない。レヴィナスの原事実=イリヤ(存在)は、「無関心」である。
U-3 そこに、主体(自我)が成立するとすれば、それは全くの偶発だ。
U-4 主体(自我)は、「イリヤ」(ilya)という不快な存在から脱出することによって成立する。

(3)フィンク:原事実は、「遊戯」である
V フィンクは、世界は贈与する(geben)とともに奪う(nehmen)と解した。
V-2 世界は、人間に誕生を贈与し、それを死と言う形で奪う。
V-3 このことに必然性はないから、これは世界の「遊戯」(遊び・戯れ)である。
V-4 人間は、世界の「遊戯」によって、生れて死ぬ。

(4)フッサールの晩年の「形而上学」の構想:誕生と死の問題の考察
W フサールの、この構想は、彼の死で途絶えた。

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小松和彦(1947-)編著『妖怪学の基礎知識』第Ⅰ、Ⅱ章、角川選書、2011年

2017-09-16 19:28:21 | Weblog
第Ⅰ章 妖怪とは何か(小松和彦(1947-))
(1)妖怪
A 妖怪(or怪異)とは、「超自然的なもの」かつ「凶兆」であるもの。

(1)-2 妖怪の分類:①出来事・現象としての妖怪
B 妖怪の分類:①出来事・現象としての妖怪、②存在としての妖怪、③造形としての妖怪。
B-2 ①出来事・現象としての怪異・妖怪。目撃、音、におい、触れる、味で不思議、薄気味悪い。例えば「古杣(フルソマ)」:コーンコーンと夜、木を切る音がするが、朝になって行ってみると、何も起きていない。
B-3 さらに、出来事(①)を引き起こす存在(②)としての妖怪がある。例えば、出来事としての「狸囃(タヌキバヤシ)」(①)を引き起こす妖怪「狸」(②)。

(2)②存在としての妖怪:アニミズム的観念
C あらゆるものに霊魂が宿るとするアニミズム的観念。山、川、木、水、岩の霊魂。さらに言葉にさえ言霊が宿るとする。
C-2 荒れる霊魂が「荒魂(アラタマ)」、静かな霊魂が「和魂(ニギタマ)」。荒魂を和魂に変えるのが「鎮魂」(ミタマシヅメ)。
D 荒魂はしばしば「鬼」と呼ばれた。望ましくない霊的存在。
D-2 鬼を補完する「大蛇」。中国の龍神の観念と混合。

(2)-2 ②(続) 狐・天狗・狸・百足・土蜘蛛・山姥(ヤマンバ)
E 柳田国男は、妖怪は、「神が零落したもの」とする。
F 古代では、狐も神秘的存在だった。安倍晴明の母は狐である。稲荷神の眷属である狐。
F-2 天狗は、僧・仏教の敵。
F-3 祭祀された天狗(鞍馬の「魔王尊」)は、もはや妖怪でない。
F-4 古代末には、狸、百足(ムカデ)。
F-5 時代が下り、土蜘蛛、山姥(ヤマンバ)。

(3)③造形化された妖怪:古代・中世
G 古代:仏教以前には、神々も造形化されず、鬼など妖怪も造形化されなかった。
H 中世(鎌倉時代)になって「絵巻」が登場し、妖怪も図像化する。Ex. 信貴山の護法童子(剣の護法)
I 中世後半(室町時代)になると絵巻・絵本の享受層が貴族・僧侶から、庶民に拡大する。Ex. 酒呑童子、土蜘蛛
I-2 これら妖怪絵巻の多くは娯楽で、信仰の対象でなかった。

(3)-2 ③造形化された妖怪(続):妖怪の増殖
J 妖怪の増殖①:道具の妖怪=付喪神(ツクモガミ)。道具が100年経つ前に捨てられ、恨んで妖怪化する。
J-2 妖怪の増殖②:怪異・妖怪現象の「名付け」。Ex. 山彦、天狗倒し、狸囃、小豆とぎ。
J-3 妖怪の増殖③:鳥山石燕『画図百鬼夜行』シリーズが、妖怪の絵画・造形化流行の引き金。安永年間(1772-81)。

(4)幽霊と妖怪
K 幽霊は妖怪だが、特別である。
K-2 幽霊のタイプ①:死者の世界に行けず、この世に迷い出てきたタイプ。生前と同じ姿なので、知らない者は、幽霊と思わない。
K-3 幽霊のタイプ②:足がなく、死装束を着ている等、絵画・芝居の幽霊。
K-4 死者が生前の姿で現れる幽霊は、すでに『日本霊異記』にある。
L 古来の怨霊は、幽霊でなく、憑依したり、「鬼」として出現した。

(5)妖怪の特徴
①妖怪は、霊魂の「荒れた」状態で、怒っている。Ex. 怨霊、鬼、幽霊。
②妖怪は、巨大で、人間より大きく、恐怖を引き起こす。Cf. 小さな妖怪は恐怖を与えない。
③妖怪は、年を重ねる。かくて神秘的能力を獲得する。Ex. 古狐。Ex. 妖怪化した老母が息子を食べる。
④妖怪は「化ける能力」など神秘的能力を持つ。他のものになったり、大きくなったりする。
④-2 あるいは、姿を消す、速く走る、空を飛ぶ、長生きする等々。
⑤いくつかの生物・道具等の合成による妖怪。Ex. 道具に目鼻を付ける。


第Ⅱ章 妖怪の思想史(香川雅信(1969-))
(1)古代・中世vs近世
A 中世までは、怪異を、神仏からのメッセージととらえる。それを神祇官や陰陽寮が解釈する。
A-2 つまり、妖怪は実在する。
B 近世(江戸時代)は、怪異の公的解釈のシステムを放棄。
B-2 ここから、知識人による妖怪研究開始。

(2)江戸時代:儒学者の鬼神論
C 儒学者は、一方で「怪力乱神を語らず」と言いつつ、他方で、語る。
D 林羅山(1583-1657):『野槌』『本朝神社考』『恠談(カイダン)』。怪力乱神について語るが、但し、必ず訓戒を含める。
D-2 新井白石(1657-1725):『鬼神論』。朱子学の唯物論的世界観に立脚し、陰陽2気の働きで説明。
D-3 荻生徂徠(1666-1728)。鬼神の祭祀は、太古の聖人が人民を統一するためになされたと、機能主義的解釈。

(2)-2 江戸時代(続):無鬼論と有鬼論
E 山片蟠桃(1748-1821)の急進的な「無鬼論」。『夢の代』で、「神仏化物」&「奇妙ふしぎのこと」をすべて否定。
F 国学者・平田篤胤(1776-1843)の過激な「有鬼論」。鬼神(とくに古来の神々)&あの世(幽冥)の存在の証明に心血を注ぐ。
F-2 天狗の世界に行った寅吉からの聞き書き、『仙郷異聞』。
F-3 生まれ変わりした男からの幽冥界の聞き取り、『勝五郎再生記聞』。
F-4 三次藩士が遭遇した怪異の記録、『稲生(イノウ)物怪録』。
G 江戸時代の主流は「弁惑物」。すなわち儒学・心学による怪異の合理的解釈。
G-2 朱子学による怪異の唯物論的解釈と並んで、「怪異は人の心がつくるまやかし」との唯心論的解釈もある。
G-3 江戸時代、庶民は化物を信じない。「ないものは金と化物」。ここから「妖怪娯楽」が出現。(後述)

(3)明治時代以降:井上円了の「妖怪学」
H 儒学者が「鬼神」、江戸庶民が「化物」と呼んだものを、井上円了は「妖怪」と呼ぶ。
H-2 井上円了は、「普通の道理をもって解釈すべからざるもの」をすべて「妖怪」(=「不思議」)と定義する。
H-3 「妖怪」は、「迷信」と同義である。
H-4 迷信に合理的な解釈を与える知の体系が、「妖怪学」!
I 井上円了の目的は、「真怪」の探求である。
I-2 「妖怪」は(a)「虚怪」と(b)「実怪」からなる。
I-3 (a)「虚怪」:(a-1)「偽怪」(人為的故意の妖怪)。 (a-2)「誤怪」(偶然的出来事を妖怪と誤認したもの)。
I-4 (b)「実怪」:(b-1)「仮怪」(人為でも偶然でもなく、自然に実際に起きている不思議な現象。起きる道理がある。) (b-2)「真怪」(超理の妖怪で、人知を超える。絶対の不思議!)
I-5 「偽怪を去り、仮怪を払いて、真怪を開く」ことが妖怪学の目的。真怪は、宗教(Ex. 仏教)または哲学で探求する。このように井上円了は述べる
J 井上円了は、迷信と旧弊に満ちた仏教の改革をめざした。そのための「真怪」(=「真理」)の探究。

(3)-2 大正時代:江馬務(エマツトム)の妖怪研究
K 自然科学的に妖怪の実在の有無を問うのでなく、人文科学的に妖怪研究する。妖怪を表象・想像力の問題として捉える。
K-2 江馬務『日本妖怪変化史』(1923年)。
K-3 風俗史の見地。妖怪が実在か否か問わない。妖怪の歴史的変遷をたどり、また分類する。人々が、どのように妖怪を見、どのような態度を取ってきたかを問う。
L さらに、吉川観方、藤澤衛彦の妖怪画収集。

(4)昭和時代:柳田國男の妖怪研究
M 柳田は、「なぜ人々はオバケがいると思うか?」と人文科学的アプローチをとる。
M-2 かつての信仰の姿の復元。
N それ以前、柳田は天狗の研究。これが、山中の先住民族(異民族)、「山人論」へとつながる。
N-2 『山の人生』(T15)以後は、山人論、後退。
O 妖怪の零落説:妖怪は「零落した神である」。Ex. 片目の神が一つ目小僧となった。Ex. 水の神が河童となった。(『一つ目小僧その他』1934年)
O-2 人類学の文化進化論では、伝承・慣習は前時代の残存とされる。
P 明治末期から大正、昭和初期にかけ文学ジャンルに怪談的なるものが蔓延。都市的な幽霊が中心。
P-2 柳田は農村重視。妖怪を扱う。妖怪と幽霊を区別。(この区別は、今は支持されない。Ex. 妖怪は出現場所が決まっているが、幽霊はめざす相手の所にやって来る。)
Q S13年以降、柳田は妖怪研究をやめ、祖霊神の問題へ。
R 敗戦後、日本人論、日本の神、日本の「家」はどうなるか等の問題に、柳田は集中し、妖怪研究終焉へ。
R-2 民俗学の妖怪研究は、柳田の『妖怪談義』(S31)で、ほぼ終了。

(5)1970年代の妖怪ブーム:水木しげる『ゲゲゲの鬼太郎』
S それまでの鬼、河童、天狗の研究の集大成も出現。
T 谷川健一『魔の系譜』は、死者・敗者の怨念に注目する。また谷川は、一つ目小僧、鬼、河童が、古代の金属技術集団に由来すると述べる。

(5)-2 1980年代の新たな妖怪論
U 小松和彦が、神と妖怪は相互変容すると述べ、柳田の「零落説」を批判。(『憑霊信仰論』)また、妖怪は山の民、被差別民のイメージの反映だと主張。(『異人論』)
U-2 宮田登は、自然との境界(魔所)である都市の妖怪を論じる。(『妖怪の民俗学』)
U-3 1978-79の「口裂け女」の噂が、1980年代、新たな妖怪論のきっかけとなる。

(5)-3 妖怪画への関心:1987年以降
V 1987年『別冊太陽57号「日本の妖怪」』が妖怪画への関心を引き起こす。
V-2 鳥山石燕『画図百鬼夜行』が刊行される。研究としては『百鬼夜行の見える都市』(田中貴子)等。

(5)-4 1990年代:江戸の怪談文化の研究&「学校の怪談」
W 1980年代末から1990年代にかけて、歌舞伎、化物屋敷など江戸の怪談文化の研究。ファッションとしての妖怪研究。
W-2 『さかさまの幽霊』(服部幸雄、1989年、歌舞伎など)、『化物屋敷』(橋爪紳也1994年)、『江戸東京の怪談文化の成立と変遷』(横山泰子、1997年)、『江戸化物草紙』(アダム・カバット、1997年、黄表紙の翻刻・解説)。
X 『学校の怪談』(常光徹、1993年)。

(6)1990-2000年代、人間研究としての妖怪学:小松和彦
Y 小松和彦『妖怪学新考』(1994年):人間研究としての妖怪学を提唱。
Y-2 論文アンソロジーの『怪異の民俗学』全8巻(2000-01年)。「憑きもの」「妖怪」「河童」「鬼」「天狗と山姥」「幽霊」「異人・生贄」「境界」の8テーマ。
Y-3 国際日本文化研究センターによる学際的な妖怪共同研究。『日本妖怪学大全』(2003年)、『妖怪文化の伝統と創造』(2010年)。
Z 学際的「妖怪学」の成果として、娯楽・大衆文化の中の妖怪研究。『江戸の妖怪革命』(香川雅信、2005年)。京極夏彦「通俗的『妖怪』概念の成立に関する一考察」(『日本妖怪学大全』所収。)

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