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宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

池田晶子『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』Ⅱ「ことの起こり」6「ソクラテス 話せばわかる」(続):「『語』の意味」とは、「『論理』によって周到に囲い込んで行った果てに残る『空白』」だ!

2025-09-07 12:55:54 | Weblog
※ 池田晶子(1960-2007)『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』 1998年(1994年初刊、34歳)中公文庫
(9)-4 ソクラテスにおいては、語の「定義」より語の「使用」が問題である!「語」を「使用」しつつ、その語に「固定した意味」を与えない、という自覚的な作業をソクラテスは遂行する!
★ソクラテス特有のわかりづらさのもう一つが、例の「無知の知」だ。(132頁)
☆つまり「無知の知」を切り札に、「知の無知」を切り崩すソクラテスは実に、空とぼけて「知の知」の位置にいる。(132頁)
☆このときソクラテスは、「知る」ということの「形式」の側から、「知る」ということの「内容」を無化している。ソクラテスは、「内容」よりもその「知り方」に注目させることで、知識「内容」を巡るてんやわんやを、鎮圧する。ソクラテスのこの方法は、哲学史において、画期的なことだった。(132頁)
☆ソクラテスの対話はいつも、相手の考えを聞き出しておいてから、とぼけながらその周囲を大きく巡り、最後に、その核心に孕まれている矛盾に相手を追い落とす、という方法を取る。(133頁)
☆ソクラテスにおいては、語の「定義」より、語の「使用」が問題である。その「語」を「使用」しつつ、その語に「固定した意味」を与えないという極度に自覚的な作業を、ソクラテスは遂行する。(134頁)

(9)-4-2 「ある『語』それ自体の正体(意味)」は、「同語反復」以外では絶対に語ることができないか、「『論理』によって周到に囲い込んで行った果てに残る『空白』」としてしか与えられない!
★「言葉」は「定義」されるとその刹那、「意味」がそこから逃げてゆくから、「言葉」の最も正確な「使用」とは、それを「定義」しないままそれを「使用」することに他ならない。つまり、「『言葉』をして、語らしめる」こと!(134頁)
☆だから「『真理』とは何か」という問いに対しては、「『真理』とは『真理という語』(の示すところのもの)である」が正解である。(134頁)
☆このことを理解させるため、かくてソクラテスは、様々な対話の相手を必要とした。「相手が気づかずにその『語』に与えている『意味』」を余剰として指摘し、「その『語』それ自体の『意味』」へと還元すること。(134頁)

☆が、「ある『語』それ自体の正体(意味)」などというものは、「同語反復」以外では絶対に語ることができないか、「『論理』によって周到に囲い込んで行った果てに残る『空白』」としてしか与えられないものである。(134頁)
☆それで、ソクラテスのおとぼけ、「無知の知」とは、「言葉」というものの習性に通暁した者の正攻法なのだ。(134頁)

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池田晶子『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』Ⅱ「ことの起こり」6「ソクラテス 話せばわかる」:「人生」に、何がしか「価値」的なものがあるかのように錯覚させ続けている!

2025-09-05 16:17:04 | Weblog
※ 池田晶子(1960-2007)『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』 1998年(1994年初刊、34歳)中公文庫
(9)ソクラテスの「言行一致」の生涯は、「倫理的」なものというより、むしろ「論理的」なものである!
★ソクラテスの「言行一致」の生涯は、「倫理的」なものというより、むしろ「論理的」なものである。(129頁)
☆私たちは「論理」をそのまま生きる人を「狂人」と言う、かの時代においては「死刑」となる。(129頁)

☆「論理」をそのまま生きる人が「狂人」ならば、「論理」は「論理」、「自分は別」と生きている人々を、今日私たちは「似非(エセ)知識人」と呼ぶ。(池田晶子氏)(129頁)
Ex. 「一切の価値の無根拠性」を説きながら、「他人を蹴飛ばしても自説の価値を守る」ことだけは「疑わない」が如き。つまり「現行の不一致」、そのことに無自覚な意識。(129頁)
Ex. かつてソフィストは、相手を言い負かすためには極端な論理を用いる「嘘八百の相対主義」でありながら、私生活では「金銭」に目がなかった。(129頁)
Ex. 「思想」と「私情」を巧みにすり替えながらはびこる「陰湿な今日の懐疑主義」!(池田晶子氏)(129-130頁)

(9)-2 「知られている言葉」は、問われることなく「生きられて」いる!「知らない人はそれを生きられない」!
★「知識」と「実存」とのこのような不一致は、ひとえに「語」を「使用」するに際しての自覚の欠如だとソクラテスは言う。(130頁)
☆「知られている言葉」は、問われることなく「生きられて」いる。知識を「アタマ」で所有することと、「生身」に所有することの差は歴然だ。「知らない人はそれを生きられない。」(130-131頁)

(9)-3 ソクラテスの罪科:人々一般の生活感情に、「人生の価値」「人生の目的」という型を持ちきたった!「自然現象」とさして変わらない私たちの「人生」に、何がしか「価値」的なものがあるかのように錯覚させ続けている、これは一種の「詐欺」なのだ!
★今日では人々は、「人生とは個性的に価値あるものだ」と信じて疑わないが、ソクラテスの時代の人々は「魂」とは「死ねば肉体から消えてゆく息か煙に似たもの」と考えていた。ソクラテスにより、その「魂」の世話をすることこそ「人生の価値」だと言われ、人々は面喰ったろう。ソクラテスは「人生の幸福とは魂の善である」と言った。(131頁、cf. 126頁)
☆「天空の彼方」に想いを馳せていたかつての哲人たちの眼を、この「人生」、この「社会」へと振り向かせたその転換は、「正確さ」を期すためとはいえ、しかし「哲学史」の総体を狭いところに閉じ込めはしなかったか。(池田晶子氏)(131頁)

《感想》「社会」あるいは「善」とは、この《超越論的主観性or超越論的モナド》と「他なる」《超越論的主観性or超越論的モナド》との出会いの問題だ。

☆哲学史家たちは「ソクラテスの偉大な功績」、「自然学から人間学へ」と言う。しかしソクラテスが見出し、第一に掲げたこの「人生」この「公共性」(cf. 「善」)の、「『宇宙』(cf. 「存在」)を考えることの多様さの無限」に比べれば、何ほどのものやら。(池田晶子氏)(131頁)

★さらにその後の人々一般の生活感情に、「人生の価値」「人生の目的」という型を持ちきたったソクラテスの罪科には、計り知れないものがある。(池田晶子氏)(131頁)
☆「生まれたから死ぬまでは生きている」という実は「自然現象」とさして変わらない私たちの「人生」に、何がしか「価値」的なものがあるかのように錯覚させ続けている、これは一種の「詐欺」なのだ。(池田晶子氏)(131-132頁)
☆ためにあろうはずもない「幸福」など探し索めて右往左往しなければならなくなった、私たち後世の凡俗の不幸!(池田晶子氏)(132頁)
cf.「人生の幸福とは魂の善である」(ソクラテス)。(126頁)

☆しかもソクラテス自身は「現世的な生活生命」など爪の垢ほども信じてはおらず、成り行きがそうなれば、さっさと毒人参をあおって死んでみせる様な鉄面皮なのだから、これは随分ずるい話だ。(132頁)

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池田晶子『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』Ⅱ「ことの起こり」5「前ソクラテス 考えよ、高く、広く」パルメニデス(その2):「科学」は、それが生まれ出て来た「存在論」の懐へと回帰する!

2025-09-04 13:40:56 | Weblog
※ 池田晶子(1960-2007)『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』 1998年(1994年初刊、34歳)中公文庫
(8)-8 パルメニデスの厳しく「論理的」な「形而上学」宣言:「考えて」いるのはどこまでもやはり「《自分の》思考」だ!
★「科学者」デモクリトスは、「運動する物質が在る」という経験的事実を説明しようとして「虚空」という概念を考えついた。(123頁)
☆しかし「論理家」パルメニデスには、こう反駁されたはずだ。「君は虚空が《在る》と言うが、虚空が《在る》ならそれは虚空ではない。したがって虚空というものは無い。」(123-124頁)

★パルメニデスの厳しく「論理的」な「形而上学」宣言は、「科学の万能」を信じている思考には、実は甚だ迷惑なものとして、そこにあるのだ。(124頁)
☆現代の物理学者たちは、既に「絶対時空」という概念を見捨てて「相対論」に赴いた。しかし、それらについて「考えて」いるのはどこまでもやはり「《自分の》思考」だというこのことである。(※超越論的主観性or超越論的モナド!)(124頁)

(8)-8-2 「科学」は、かつてそれ(科学)が生まれ出て来た「存在論」の懐へと回帰するだろう!
★さて「物質」宇宙は《どこに》在る?(124頁)
☆「不確定性原理」は、科学が、「『思惟』と『存在』との奇怪な結託」に気づき始めたその皮切りだ。(124頁)
☆遠くない将来きっと「科学」は、かつてそれ(科学)が生まれ出て来た「存在論」の懐へと回帰するだろう。そして①「深く途方にくれる」か、あるいは②「科学」もまた「『形而上学』という壮大な物語」の一分枝、力強く宇宙を断言することこそ心意気と、自棄(やけ)のような決意を新たに「天を仰ぐ」か、どちらか。(124頁)

(8)-8-3 池田晶子氏:「『宇宙』は『物質』ではない」!「思考」(=「存在」=「宇宙」;超越論的モナド=超越論的主観性)自身の「戯れ」!
★池田晶子氏は言う。「『宇宙』は『物質』ではない」、あるいは「『物質』とは、仮説された『意味』である」。(124頁)
☆「夜見る夢」が「思考」(=「存在」=「宇宙」、※超越論的モナドor超越論的主観性)自身の「戯れ」であって、「夢」そのものは決して「物質」ではない。(124頁)
☆そのように、「物質」ではないような「宇宙」(=「存在」=「思考」)は、「私たちの生き死に」、「亡き人の想い出」などの「夢」をそこに浮かべて、「在ったし、在るし、在り続けるだろう」。(124頁)
☆そのような「生成」は、「一者として在るもの」が、「自身の充溢、その退屈」に耐えきれなくなって或るとき起こした「些かな身動き」がきっかけ、それは「無限に孤独な自身」との「戯れ」に違いない。(124頁)
☆「目的」も「意図」もそこにない。「自分に始まり自分に還る」限り、そんなもの(「目的」・「意図」)は用なしだからなのだ。(124-125頁)

☆「わけもわからず在ってしまった」方こそいい迷惑と恨めしく思うときなど、いったい「誰」を責めればよいというのだろう。「存在」(=「宇宙」)について考えているのは、「存在」している(=「宇宙」である)この「私」(=「宇宙」)であるというのに!(池田晶子氏)(125頁)

(8)-8-4 ソクラテスが、そこに「社会」と「価値」とを持ち込んだ。(※「他なる超越論的主観性or他なる超越論的モナド」の問題!)
★ソクラテス以前の哲人たちは、各人勝手に彼方を見ていた。壮大な「自我」(=「宇宙」、※超越論的主観性or超越論的モナド)たちが思い描く壮大な「宇宙」、それは壮大な光景だった。(125頁) 
★ソクラテスが、そこに「社会」と「価値」とを持ち込んだ。(※「他なる超越論的主観性or他なる超越論的モナド」の問題!)(125頁)
☆「僕は、何も知らないことを、知ってるよ。(※君とは違う!)」。(125頁)
☆これは画期的な、一種の「詐欺」であった。(池田晶子氏)(125頁)

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池田晶子『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』Ⅱ「ことの起こり」5「前ソクラテス 考えよ、高く、広く」デモクリトス:「物質」に着眼!「原子」の集合離散こそが、万物「生成」の原因である!

2025-09-03 15:22:07 | Weblog
※ 池田晶子(1960-2007)『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』 1998年(1994年初刊、34歳)中公文庫
(8)-7 デモクリトス:「物質」に着眼!「原子」の集合離散こそが、万物「生成」の原因である!
★デモクリトスは、近世自然科学あるいは機械論的唯物論の祖とされ、現代の物理学者たちの興味をいまだもって引きつけている。(120-121頁)
☆「在る」と「無い」を巡る様々な形而上学説のうちで、唯一「物質」に着眼し、しかもそれを最後まで手放さなかった人がデモクリトスだ。(121頁)
☆パルメニデスが頑として認めなかった「『有』と『無』の間の『生成』」は、ヘレクレイトスにとっては「万物の父としての『戦い』」と象徴される明らかな事実だったが、これは確かに「詩」ではあっても「科学」ではない。(121頁)
☆デモクリトスは、「経験的事実とその観察」という新しい考え方の胎動を告げるものとして、当時の哲人たちのうちで、ひとり異彩を放っている。デモクリトスは、「原子」(アトム)の集合離散こそが、万物「生成」の原因であると考えた。(121頁)

(8)-7-2 「『物質』を認識している当の『意識』もまた、『物質』で説明しようとする」ときの困難!
★「手に触れて『在る』と知られる『物質』を、無限に分割してゆけば、世界の《もと》を知ることができる」というこの思考の型は、今日の素粒子論に至るまで私たちには根強いが、そのような思考の型はつねに同じ仕方で「破綻」する。(121頁)
☆それは「『物質』を認識している当の『意識』もまた『物質』で説明しようとする」ときに避けられない困難だ。(121頁)
☆ハイゼンベルク(1901-1976;行列力学と不確定性原理により量子力学に寄与)も途方にくれて、遥かなデモクリトスに想いを馳せている一文がある。(121頁)
★当のデモクリトスは、「魂は丸い原子であり、その運動の過程がもろもろの心的現象を引き起こす」と言い切って」あまり悩んだ形跡がない。(121頁)

(8)-7-3 「科学」という思考は、「存在するものども」の「或る部分について」の限定(※「物質」への限定)なしには成立しえない!「存在に外側はない」から、したがって「正答というものも期待できない」!
★デモクリトスは、「一切を原子で説明しようと努める」ような断片の一方で、「『物質』のくびきを遠く離れて、純粋に『考え』だけとなった世界で、雄大無縫にそれらを伸ばしてゆく」ような断片もある。(122頁)
〈世界は無数で、それぞれ大きさを異にしている。・・・・もろもろの世界の間の距離は不等である、そして或るところには比較的たくさんの世界があり、また或るところには少しの世界がある。或る世界は成長しつつあり、或る世界は最盛期にあり、或る世界は衰えつつある・・・・しかしそれらは衝突して互いによって滅ぼされる・・・・〉(デモクリトス)(122-123頁)
☆人間の「考え」は「物質」を忘れると、こんなにも自由になれる。(池田晶子氏)(123頁)

☆そうした姿はホーキング博士(1942-2018)にも見られる。「虚時間」の宇宙とは、人は生きつつ死んでいるような、身籠りつつ若くなるような、そういう珍妙な宇宙なのだそうだが、こういった宇宙が、もはや検証反証が可能な科学の対象で「ない」ということを、きっとホーキング博士は自覚している。自覚しながら、止まらなくなって考え続けている。(池田晶子氏)(123頁)

★「科学」という思考は、存在するものどもの「或る部分について」の限定(※「物質」への限定)なしには成立しえない。(池田晶子氏)(123頁)
☆もしもそこから先へと一歩を踏みでようと目論むなら、「存在する限りの存在」を考え続けることになること、そして「存在に外側はない」から、したがって「正答というものも期待できない」ということ、以上の覚悟を固めておく必要がある。(池田晶子氏)(123頁)

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池田晶子『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』Ⅱ「ことの起こり」5「前ソクラテス 考えよ、高く、広く」ヘラクレイトス(その3):「在る」と「無い」との間にある「生成」をすくい上げた!

2025-09-02 12:06:49 | Weblog
※ 池田晶子(1960-2007)『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』 1998年(1994年初刊、34歳)中公文庫
(8)-6 ヘラクレイトス:「論理の人」パルメニデスが「仮象」として認めなかった「在る」と「無い」との間にあるものを、ヘラクレイトスは、成るもの「生成」としてすくい上げた!
★「論理の人」パルメニデスは、「在る」と「無い」との間にあるもの、すなわち「物質」、また物質に依拠して動めくこの人生を、一切「仮象」として認めなかった。(119頁)
☆これに対し「弁証法」の創始者と目される人ヘラクレイトスは、それを成るもの「生成」としてすくい上げた。(119頁)
〈生と死、覚醒と睡眠、若年と老年は、いずれも同一のものとしてわれわれのうちにある。このものが転化して、かのものとなり、かのものが転化して、このものとなるからだ。〉(ヘラクレイトス)(119頁)
〈同じ河にわれわれは入っていくのでもあり、入っていかないのでもある、存在するのでもあり、存在しないのでもある。〉(ヘラクレイトス)(119頁)
★パルメニデスの考えと、ヘラクレイトスの考えは、真っ向対立しているとは後世の研究者の常識とされる。(119頁)

★だが「生活感情」の直観では、「在る」と「成る」とに相違はない。「変化する日々は一日とて同じものではない、しかし『在る』ということでは全然変わりがない」。「細胞が老化へと向かうの、そこに『死』が介入してくるからで、すなわち『生成変化』とは、『存在』と『無』という二色の糸で様々な色合いに織り成されてゆくこの人生の、偽りのない姿だ」。(120頁)

★とは言え、考える「論理」に忠実に考えるなら、「無いもの」は絶対に考えられないから、「死ねば何もなくなる」とも言い切れないわけで、それも知らずに「この人生失ってなるものかとしがみつく」のは愚か者のすることと、「論理家」パルメニデスは言いたかったに違いない。(120頁)

★ヘラクレイトスの「存在するのでもあり、存在しないのでもある」という一見曖昧な物言いは、しかしきわめて的確にそのへんの機微をついている。「無いもの」はどこまでも「無い」のだが、「無いもの」と考えることだけはできるから、この宇宙はいつも何だかわけがわからなくなる。いずれにしても「在るものが在る」ということだけは、確かなことらしいのだが!(120頁)


《参考1》ヘラクレイトスの「生成」の思想は、パルメニデスの「存在」の思想としばしば対立するものとして見られてきた。もっとも、井筒俊彦によれば、どちらも形而上学における同一の根源的な部分を異なる面から述べているにすぎないという。(参照:Wikipedia「ヘラクレイトス」)

《参考2》ヘラクレイトス(前6世紀末~5世紀初頭頃)は「変化」を世界の本質とみなし、その背後に「ロゴス」という秩序を見いだした。
☆「万物流転」:「すべてのものは流れ、変化している」とする。「同じ川に二度入ることはできない」。
☆「ロゴス」の概念:世界は絶えず変化しつつも、無秩序ではなく、理法(ロゴス)によって秩序づけられていると考えた。ロゴスは「言葉」「理性」「世界の秩序原理」などの意味を持つ。
☆「戦いは万物の父」:変化や対立が世界の根本的な構造。反対のもの同士(昼と夜、寒と暑、生と死)の緊張関係が世界を成り立たせる。
☆世界の根本原理(アルケー)は「火」である:「火」は絶えず動き変化するものとして、「生成変化」の象徴だ。(参照:ChatGPT)

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池田晶子『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』Ⅱ「ことの起こり」5「前ソクラテス 考えよ、高く、広く」パルメニデス:「論理としての形而上学」の創始者!思惟することと有ることは同一である!

2025-09-01 14:11:15 | Weblog
※ 池田晶子(1960-2007)『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』 1998年(1994年初刊、34歳)中公文庫
(8)-5 パルメニデス:思惟することと有ることとは同一である!Ex. 「物質」と「物質と思う」こととの間に「境界」線は引けない!パルメニデスが明文化した「思惟と存在の同一」!(cf. 超越論的主観性!)
★「論理としての形而上学」を創始したのはパルメニデスである。パルメニデスは「詩人」でありながらもそれ以上に「論理家」であったから、エンペドクレスが美しい詩句で書きつけた「存在論」的思考をさらに無駄なく、こう言い切った。(117頁)
〈いざや、私は汝に語ろう。汝はその話を聞きて受け入れよ――探求の道は如何なるものだけが考え得るかを。
その一つは、「《それ》は有る、そしてそれにとって有らぬことは不可能だ」と説くもの、これは説得の道だ。
他の一つは、「それは有らぬ、そして有らぬことが必然だ」と説くもの。これは汝に告げるが、全く探求しえない道だ。何故なら汝は有らぬものを知ることも出来なければ、また言い現わすことも出来ないだろうから。
――何故なら思惟することと有ることとは同一であるから。〉(117頁)

☆誰も「考える」ときは必ず《自分が》考えている。この自明な事実をきれいさっぱり忘れて、「自分が考えなくても、ものごとが在る」と信じ込んでいる。(117-118頁)
☆「神が在る」と思うのは「信仰」である。同様に「物質が在る」と思うのも「信仰」だ。「物質」と「物質と思う」こととの間に「境界」線は引けない。「物質」はどこまでも物質《と思われる》ことで物質なのだ。(cf. 超越論的主観性!)(118頁)
☆「無いもの」は考えられない。(118頁)
☆パルメニデスが明文化した「思惟と存在の同一」!すなわち誰ひとりとして自分の思考の外には出られない。(cf. 超越論的主観性!)(118頁)
☆「とりあえず」物質が在るということ(「信仰」)でやっている、つまり「功利的に」ものを考えるこの世の生活では、「天使の話」(「信仰」)はあまり役に立たないということにすぎない。(118-119頁)

★「論理の人」パルメニデスは、「在る」と「無い」との間にあるもの、すなわち「物質」、また物質に依拠して動めくこの人生を、一切「仮象」として認めなかった。(119頁)

《参考1》パルメニデス(前515年頃〜前450年頃)!
☆「ある(有)」という概念について、パルメニデスは言う。
・「あるもの」(有、ト・エオン)はあり、「あらぬもの」(非有、ト・メー・エオン)はあらぬ。
・「あるもの」(有、ト・エオン)は、唯一・不動・不変であり、「理性」による「真理の道」でのみ認識可能だ。
・「あらぬもの」(非有、ト・メー・エオン)は、認識不可能だ。
・多様と変化を許容する、「あり(有)かつあらぬ(非有)もの」(すなわち物理現象)は、「感覚」による「臆見の道」で認識される誤謬だ。
☆パルメニデスを祖とするエレア派の存在論は、「感覚」よりも「理性」(ロゴス)を優先する理性主義である。またその主張は「運動や変化」を「否定」し、「感覚」を「仮象」とする。「アキレスと亀」のパラドクスは、運動が存在しない(仮象である)ことを示すためパルメニデスの弟子ゼノンが示した。(参照:Wikipedia「パルメニデス」)

《参考2》パルメニデスは「存在者」の探求や、また「感覚」世界への懐疑を通して、後の「形而上学」の基礎を築いた。「存在とは何か?」という根本問題を最初に提示した。『自然について』(詩の形で書かれた断片)が残存する。
☆パルメニデスの「存在論」の核心:「あるものはあり、ないものはない」。
☆「存在」は唯一で、生成も消滅もせず、永遠・不変だ。世界の変化は「感覚」の錯覚であり、「理性」によって把握される真実の世界は永遠・不変である。(参照:ChatGPT)

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池田晶子『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』Ⅱ「ことの起こり」5「前ソクラテス 考えよ、高く、広く」エンペドクレス:「存在論」的思考を、美しい詩句で書きつけた!

2025-08-31 15:06:20 | Weblog
※ 池田晶子(1960-2007)『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』 1998年(1994年初刊、34歳)中公文庫
(8)-4 エンペドクレスはその「存在論」的思考を、美しい詩句で書きつけた!
★エンペドクレスは、古代ギリシャの哲人たちのうちでも、論理的科学的な気質よりも、神話的宗教的気質の方が強かった人だ。彼はその「存在論」的思考を、美しい詩句で書きつけた。(116頁)
〈――さて、或る時にはただ「一つ」であらんがために、「多くのもの」から成長し来った、
しかし或る時には逆にそれ(※「宇宙」・「万物」〉は「多くのもの」たるために「一つのもの」から分かれ出た。
すなわち「火」と「水」と「土」と「空気の限りなき高さ」とが。
またそれらとは別に、その凡ゆるところにおいて重さの等しき呪うべき「争い」(「憎」)が。
またそれらの真中に縦も幅も等しき「愛」が。
――而して「これらのもの」以外に「生じきたるもの」もなく、「滅びさるもの」もなし。
何故となれば、もしそれらにして絶えず滅び去るものならば、今はもはや存せぬであろうゆえ。
またこの全体を何が、且つ何処より、来たって「増大させる」であろうか。
して、いずこへ「滅び去る」ことを得ようか。
何故なら「それらを欠けるものは何もなき」ゆえ。
否、ただ「それら」のみ存し、互いに駆けぬけつつ或はこれに、或はそれになる。そして同様なことが永久に絶えず行われる。〉

《参考1》エンペドクレス(前490頃-430頃)は、4元素(「火」「水」「土」「空気」)そのものはパルメニデスの「有るもの」と同じく不変化的で常に同一なものであるため、みずから動いて混合および分離を行なうということは有りえないとしたから、ここにかれは4元素を動かすものとして「愛」と「憎」(「争い」)との2つの力を考えた。すなわち、「愛」によって4元素は混合され、「憎」によって分離されるとしたのである。(参照:岩崎武雄『西洋哲学史』1952、有斐閣)

《参考2》宇宙(Cf. 「有るもの」)のアルケー(根源)は火、水、土、空気の4つの「リゾーマタ」(根)からなり、それらを結合する「ピリアー」(「愛」)と、分離させる「ネイコス」(「憎」)がある。それにより4つのリゾーマタ(四大元素)は、集合離散をくり返す。この4つのリゾーマタは新たに生まれることはなく、消滅することもない。 このように宇宙は「愛」の支配と「争い」(「憎」)の支配とが継起交替する動的反復の場である。(参照:Wikipedia「エンペドクレス」)

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池田晶子『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』Ⅱ「ことの起こり」5「前ソクラテス 考えよ、高く、広く」ヘラクレイトス(その2):「在るとは何か、在るのはなぜか」!「存在論」の発生!

2025-08-29 13:15:05 | Weblog
※ 池田晶子(1960-2007)『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』 1998年(1994年初刊、34歳)中公文庫
(8)-3 ヘラクレイトス(その2):「在るとは何か、在るのはなぜか」!「存在論」の発生!
★「宇宙」・「万物」というカンバスは、裏から言えばそれは私たちの「タマシイ」(cf. 超越論的主観性)なのだとするギリシアの哲人たちの心意気に関し、ヘラクレイトスが不敵なる覚悟を表明している。〈魂の際限を、君は歩いて行って発見することができないだろう、どんな道を進んで行ったにしてもだ。そんなに深いロゴスをそれ(魂)は持っている。〉(113-114頁)

★このヘラクレイトスは「万物は火である」と断言している。(114頁)
★「万物」を「水」だの「土」だの「哲人たち」は各自言うが、彼らが「万物は」という発想を獲得したことが重要だ。(114頁)
☆「万物は」と発語したそのとき、彼ら「哲人たち」は、「個的な可死性の自覚」から一歩踏み出でて、その瞳は「不死なる何ものか」へと向けて見開かれた。「不死なるもの」は「魂」かもしれないし、「永遠の物質」かもしれない、最後は「《言葉》」に尽きるのだから、そんなことは誰にもわかりっこない。けれども私たちはこのとき、「滅んでも残るもの」、「変わっても変わらないもの」、「在るものと無いもの」、では「《在るとは何か》」という、最も単純で最も深刻な思考の型を、自身のうちに掘り当てたのだ。(114頁)

★「私はやがて死ぬだろう、肉体は滅ぶだろう、いつかひとり残らず居なくなるだろう、さてそこに在るのは何なのか」。(114頁)
☆「在るとは何か、在るのはなぜか」。(114頁)
☆「宇宙」がおとなしく「物質」であってくれるなら、誰がものなど考えよう。「流れに浮かぶうたかた」と、ほろほろ泣いてすむのなら、誰が「神」など問い詰めよう。「問いはつのるばかり答えは返らず」。あるいは「問うのも答えるのも同じこのわたくし」。(115頁)

★「生死を感受する」ことにおいて、ちっぽけな「自我」は霧散する。(池田晶子氏)(115頁)
☆そしてそこに「自我の画策」を越えた「言葉」と「考え」が流れ込んでくる、これが「宇宙のかけら」である。(池田晶子氏)(115頁)
☆「詩人」はみなそうしている、哲学では「存在論」が発生する。「存在論」とは、平たく言えば、「ほんとに死ぬの」とか、「始まりの始まりはどうなっているの」といった疑問だ。(池田晶子氏)(115頁)

《参考》ハイデガー『ヒューマニズムについて』(1947)は述べる。(82頁)
☆〈すべてに先立ってまず「ある」のは「存在」である。「思考」は、「人間の本質へのこの『存在』の関わり」を仕上げるのである。「思考」がこの関わりを作り出したり惹き起こしたりするわけではない。
「思考」はこの関わりを、「存在」から委ねられたものとして、「存在」に捧げるだけのことである。
この捧げるということの意味は、「『思考』のうちで『存在』が『言葉』となって現れる」ということに他ならない。
「言葉」こそ「存在」の住居である。
「『言葉』というこの宿り」に住みつくのが「人間」なのである。
「思索する者たち」と「詩作する者たち」は、この宿りの番人である。
彼らが行う見張りとは、「彼らが語ることによって『存在の明るみ』を『言葉』にもたらし『言葉』のうちに保存する」というふうにして、「その明るみ」を仕上げることにほかならない。〉(82頁)
☆「人間」が「言葉」を語っているのではない。「言葉」が「存在」を語っているのだ。(池田晶子)(82頁)

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池田晶子『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』Ⅱ「ことの起こり」5「前ソクラテス 考えよ、高く、広く」:形而上学の父へラクレイトス「ロゴスが万物は一つと言う」!タレス「万物は水である」!

2025-08-28 15:57:59 | Weblog
※ 池田晶子(1960-2007)『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』 1998年(1994年初刊、34歳)中公文庫
(8)形而上学の父へラクレイトス:私にではなくて、ロゴスに聞いて、万物が一つであることを認めるのが、智というものだ!
★初期ギリシャ哲学者たちの断片的な言葉は、①「壮大」なのであって、幼稚なのではない。②「詩」に似ているのであって舌足らずなのではない。③「言葉による再構成」を経る前の、「世界へ閃くその直観」は科学としては萌芽的であっても確実にそれを超える。彼らは④「始源」(ハジマリ)を把むことに長けていた。(108頁)
☆現代のように容易に手に入る情報や知識はない。彼らは「自分で考える」。(108頁)
★形而上学の父へラクレイトスは言った。〈自分自身を探求して、全てのことを自分自身から学んだ。〉その同じヘラクレイトスが同時にこうも言う。〈私にではなくて、ロゴスに聞いて、万物が一つであることを認めるのが、智というものだ。〉(108-109頁)
☆古代の彼らの直観、彼らは見ている、あるいは私たちはかつて見ていた、そして今は忘れている。(109頁)

(8)-2 哲学の始祖タレス:「万物は水である」!「万物」という発想、そして「哲学」に正誤が問題でないのは、誰も「詩句」に正誤を求めないのと同じだ!
★時は紀元前5世紀、世界を夢とまどろんでいた意識が、ふと目覚めた。意識の眼が、開いた。「自分が、居る。世界が、在る。これは何か。」(109頁)
★哲学の始祖タレスは言った。「万物は水である。」(109頁)
☆万物の根源(アルケー)へとひたすらに遡行するギリシャ精神!(110頁)
☆古代の哲学者たちは、その精神は未だ「詩」と「神話」から明瞭に分化していなかった。ほんものの哲学的精神なら必ずや、詩人の精神と背中合わせにある。一方は、歌わずにそれを問う、他方は、問わずにそれを歌う。生と死と、そして世界の不思議について。(111-112頁)
☆試みに、用務に追われ忘れているふりをしている「自分」、あるいは「自分の死」に想いを凝らせば、その「自我」が儚(ハカナ)く薄く、消え広がってゆく。消え広がっていったそこは渺々たる「宇宙」、それは帰属も名前ももはや誰だかわからないが「私」(※超越論的主観性)ではある。古代の彼らの「私」はあんなにも雄大でありえた。私たちのこのとんでもない孤独。私たちはいつも自分の「死」をたずさえて生きる。ここに「普遍」を見る。(112頁)
☆戦乱うち続く古代の諸世紀。人類の哲学は〈mortality〉(死すべきこと)の気づきにのみ発生する。翻って〈immortality〉(不死なるもの)とは、と問うところに成長する。(112-113頁)
☆「万物」という発想!「万物・宇宙はかくかくである」と断言するにいたる考えの連鎖!驚き!(113頁)
☆「哲学」に正誤が問題でないのは、誰も「詩句」に正誤を求めないのと同じだ。(113頁)

★「宇宙」・「万物」というカンバスは、裏から言えばそれは私たちの「タマシイ」(※超越論的主観性)なのだが、そこに自分でどんなふうにどんな考えの線や色を描き入れてもおしまいとなることがまるでない、そういう言語道断なものなのだから。古代ギリシャの哲人たちの心意気(Ex. 「万物は水である」)や、よし。(113頁)

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池田晶子『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』Ⅰ「騒ぎのもと」4「フーコー、デリダ、レヴィナス 語らずに語れ、語れぬを語れ」(その3)レヴィナス:「存在論」を「倫理」へと開く突破口を探す!

2025-08-27 16:05:31 | Weblog
※ 池田晶子(1960-2007)『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』 1998年(1994年初刊、34歳)中公文庫
(7)レヴィナス:常に「存在論」へと収斂してきた西洋形而上学の歴史を「倫理」の側へと開く突破口を見いだそうとしている!
★デリダが言う。「戯れを根底的に思惟するために、存在論的、超越論的問題性を誠実に究め尽せ」(『グラマトロジーについて』)。(96頁)
☆そこでレヴィナス。『存在するとは別の仕方で、あるいは存在の彼方へ』(1974)。彼は、常に「存在論」へと収斂してきた西洋形而上学の歴史を「倫理」の側へと開く突破口を見いだそうとしているのだ。(96-97頁)
☆レヴィナスは「収容所から生還した人」。そして、かつて教えを受けたハイデガーのナチス加担・・・・(97頁)

☆存在者としての人間の「存在」を考えるそこには、いかなる「人間主義」(ヒューマニズム)もあるはずがない。(Cf. ハイデガー)。(97頁)
☆「存在」を考えるのが意識でしかない限り、存在する限りの一切の存在者は、意識としての「主観」に包摂されるという、その意味での存在論の独我性!(Cf. ヘーゲル)(97頁)

(7)-2 「存在ではないもの」(※Ex. 他者)は「無」でしかない:パルメニデス!だがレヴィナスは「諦めきれない」:「存在ではないもの」、それは「無」ではなく、「無限」としての「他者」なのだ!
★「倫理」とは、「他者」という存在者との関わりを言う。(97頁)
☆存在者の「存在」をのみ扱う存在論という思考からは、「存在者」レベルの「倫理」の問題は、どうしても出て来ないのだ。そのことを嫌というほど知っているのが、レヴィナス自身であるはずなのだ。(97頁)
☆「存在ではないもの」(※Ex. 他者)は「無」でしかない。「存在ではないもの」(※Ex. 他者)は「無い」、すべては「存在」(※Cf. 超越論的主観性)である。(哲学史上でそれを定式化した最初の人はパルメニデスだ。)(97-98頁)
☆レヴィナスは「諦めきれない」。彼は言う。「存在ではないもの」、それは「無」ではなく、「無限」としての「他者」なのだ。(『存在するとは別の仕方で、あるいは存在の彼方へ』最終章「外へ」)。(98頁)
☆レヴィナスは言う。「存在することによってなされる営みのうちには、いかなる裂け目もない。・・・・ひとり他者の意味のみが忌避しえないものである。他者の意味のみが、自己の殻に閉じ籠りそこに舞い戻ることを禁じるのだ。」(同前)(99頁)
☆これは「理論」ではない、何か「祈り」に似たものだ。(池田晶子氏)(99頁)
☆「存在ではないもの」、「存在の彼方」とは、「言い方」と「願望」としてしか存在しないのだ。(池田晶子氏)(101頁)

(7)-2-2 「存在の彼方」(※「他者」)への悲願のような渇望を、なお語ろうと示すこと:レヴィナス!
★「生(ある)(※存在)か死(ない)(※無)かそのどちらか」の二者択一の「外へ!」出るためには、語ること、ただ語ること、「存在の彼方」(※「他者」)への悲願のような渇望を、なお語ろうと示すこと―――。(103頁)
☆レヴィナスは言う。〈「語ること」の自己背信を代償として、すべては現出する。だからこそ、語り得ないものを洩らすことも可能となるのだが、語り得ないものの秘密を漏洩すること、おそらくはそれが哲学の使命にほかならないのだ。〉(同前)(103頁)

(7)-2-3 「倫理」は、「語り得ぬもの」(※「他者」)に対峙して独りで立つ、ここにしか、ない:レヴィナス&池田晶子!
★「哲学は語り得ぬものを言表する」、ここにおいて私(池田晶子氏)はレヴィナスと志を一にする。(103頁)
☆「語り得ぬものを言表するな」というヴィトゲンシュタインのあの決意と共にだ。(103頁)
☆「倫理」は、「語り得ぬもの」(※「他者」)に対峙して独りで立つ、ここにしか、ない。「倫理」は、決して「私たちの」倫理にはなりえない。孤独の超脱を、ではなく、「存在」の超脱を、こそ目指すことのそこに、「連帯」。(池田晶子氏)(103頁)

☆人々を「語り得ぬもの」へと絶句せしめよ!「語り得ぬもの」の語り得なさをこそ語ろうと示すこと、そもそもの始まりから挫折を約束されている「哲学」という不用にして無力な営みが、にもかかわらずしかし揺るがぬ確信と矜恃によって、再び「哲学」と掲げ得る唯一の促しが、この「倫理」なのだ。(池田晶子氏)(103-104頁)
☆私はしばしば、プラトンという人を強く想う。叶うならば、直に会って問い尋ねたいのだ、なにをもって、どこまで本気で、「存在の彼方」に「善」!(池田晶子氏)(104頁)


《参考1》レヴィナス(Emmanuel Levinas, 1906–1995)(ChatGPT参照)
レヴィナスは、フランスを拠点に活動したリトアニア出身のユダヤ人哲学者。「倫理」を第一哲学として位置づけた。現象学(フッサー1859-1938)や実存主義(ハイデガー1889-1976)の影響を受けつつ、独自の哲学体系を築いた。主要著作:『全体性と無限』(1961)、『存在するとは別の仕方で、あるいは存在の彼方へ』(1974)。影響を受けた思想家:フッサール、ハイデガー、ユダヤ思想(タルムード)。
☆1. 「倫理」の第一哲学化!
レヴィナスは、「存在論」(ハイデガーの「存在の問い」など)よりも先に、「他者との関係」に基づく「倫理」が哲学の根本と考えた。
☆2. 「顔」(Visage)の概念!
「他者」は「顔」を通して私に現れる存在であり、その「顔」は私に対して「汝、殺すなかれ」と沈黙のうちに訴えかける。「他者」は把握・概念化できない超越的な存在だ。
☆3. 「全体性」と「無限」!
西洋哲学は世界を「全体性」に収めようとしてきたが、レヴィナスは「他者の超越性」を「無限」として対置する。「他者」は「私」の思考や枠組みに閉じ込められない。
☆4.「責任」の無限性!
「倫理」とは対等な契約関係ではなく、「一方的で無限な責任」として「他者」に対して生じる。
☆5. ユダヤ思想との関連!
レヴィナスはタルムード読解を通して、哲学とユダヤ教の倫理思想を接続しようとした。
☆6. 位置付け!
レヴィナスは、現象学(フッサールやハイデガー)の影響下にありつつも、「存在論」中心の哲学に対抗する立場を取った。デリダ、リクール、ナンシー、ポストモダン思想、ポストコロニアル理論などに影響。

《参考2》レヴィナスとフッサール、ハイデガーとの関係!(ChatGPT参照)
レヴィナスはフッサール、ハイデガーから深い影響を受けつつ、彼らの哲学を批判的に乗り越えようとした。
☆1. フッサールとの関係!
レヴィナスは1930年にフランス語でフッサール解説書『フッサール現象学の理論』を書き、フッサール哲学をフランスに紹介した最初期の人物だ。レヴィナスは1930年代にフライブルク大学でフッサールの直接の弟子として学んだ。
☆1-2.フッサールの 影響!
レヴィナスはフッサールの「現象学的還元」と「志向性」の概念を吸収。「他者認識(間主観性)」の分析や「生きられる世界」(Lebenswelt)の概念に強く影響を受ける。
☆1-3 フッサールへの批判、発展!
フッサール現象学は「意識の志向的構造」を中心に据え、「他者」を自我の志向性の内で捉える傾向が強い。レヴィナスはこれを批判し、「他者」は「主体の意識」に収まらない「超越的存在」だと主張。これが「現象学」を「倫理学」へ転換させる基盤となった。

☆2. ハイデガーとの関係!
1930年、レヴィナスはフライブルク滞在中にハイデガーの講義も聴講。『存在と時間』に衝撃を受け、フランス現象学にハイデガー思想を紹介。ハイデガーの「存在論」、特に時間性と現存在(Dasein)の分析に影響を受ける。「主体」中心の哲学から「存在論的な問い」への転換を学ぶ。
☆2-2. レヴィナスによるハイデガー批判・超克!
レヴィナスは、ハイデガー哲学が結局は「存在」への没頭を優先し、具体的な「他者」や「倫理」的関係を軽視していると批判。ハイデガーのナチス協力もあり、「倫理」への無関心を思想的限界と見なした。ハイデガーの「存在論第一主義」に対抗して、レヴィナスは「倫理」を「第一哲学」に据える。

☆3. レヴィナスと、フッサール、ハイデガーとの関係:まとめ!
(a)哲学の基軸:〈フッサール〉意識・志向性・現象学的還元、〈ハイデガー〉「存在」の意味への問い 、〈レヴィナス〉「倫理」を第一哲学へ
(b)他者の位置:〈フッサール〉自我の志向性のうちでの「間主観性」、〈ハイデガー〉「現存在」同士の共存在、〈レヴィナス〉 自我を超える「無限な他者」の超越性
(c)主体のあり方:〈フッサール〉超越論的自我、〈ハイデガー〉投企する現存在、〈レヴィナス〉 他者への責任を負う主体

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