宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」(続々):「範疇」を①「対象」に即し、②「自己意識」に即し、③「対象と自己意識の統一」に即し、展開! 1「観察」2「行為」3「社会」!

2024-06-14 12:13:12 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」(続々)(159-160頁)
(31)-4 「理性」をヘーゲルは「範疇」(「カテゴリー」)とも呼ぶ!ただしヘーゲルの「範疇」は「直観」と結びつけられ、したがってカントの「図式」Schema、さらにこれを命題化した「超越論的原則」に相当する!(159-160頁)
★「理性」をヘーゲルは「カテゴリー」(「範疇」)とも呼ぶ。(159頁)
☆「範疇」(「カテゴリー」)がどう考えられているかというと、それはカントから来ているが、カントの「範疇」そのままではない。(159頁)
☆カントにおいては「範疇」は「直観」に対立するもの、詳しくいえば、「直観」に対立する「純粋悟性概念」だ。(159頁)
☆しかしヘーゲルは、どんな場合でも「対立」は「綜合」に進むべきであるとするので、「範疇」も単に「直観」に対立するものにとどまらない。(159頁)
☆すなわち「直観」と結びついたもの、したがってカントの「図式」Schema、さらにこれを命題化した「超越論的原則」を、ヘーゲルは「範疇」と考える。(159頁)

《参考1》カントの「範疇(カテゴリー)」は、カント哲学において重要な概念だ。
☆カントは人間の認識が「感性」と「知性」(「悟性」)の協働によって成り立つとする。「感性」によって対象が「現象」として与えられ、「知性」によって現象が「概念」的に認識される。「感性なしでは対象が与えられないし、知性なしでは対象を思考することができない。内容のない思考は空虚であり、概念のない直観は盲目である」(カント)。
☆「感性」には対象を「現象」としてとらえるための「アプリオリな形式(空間と時間)」が備わっている。「感性」は単に受動的ではなく、能動的な作用を持ち、それを通じて対象を把握する。対象は人間の認識における「アプリオリな枠組」に当てはめて捉えられる。
☆「知性」にも「アプリオリな枠組」が備わっており、人間の「知性」(「悟性」)はその枠組に対象を当てはめることで、対象を「概念」的な認識に高める。この枠組をカントは「純粋悟性概念」と呼ぶ。「純粋悟性概念」は最終的には「カテゴリー(範疇)」表として示される。これは人間による「概念」的な世界認識の様式を分類整理したものだ。

《参考2》カントの「カテゴリー(範疇)」とは、「経験」に際し、「直観」の感覚内容を統一して「判断」の形にする「悟性の思惟形式」。「量」(単一性・数多性・総体性)、「質」(実在性・否定性・制限性)、「関係」(実体・原因性・相互性)、「様相」(可能性・現存性・必然性)の四綱一二目からなる。
Cf. カントの「カテゴリー(範疇)」は、「量」(単一性、数多性、全体性)、「質」(実在性、否定性、制限性)、「関係」(付属性‐自存性、原因性‐依存性、相互性)、「様相」(可能性‐不可能性、現存在‐非存在、必然性‐偶然性)の4項12目

《参考3》アリストテレスも含めて、それまでの「範疇」概念が、いずれも「存在論」的な意味を強く有していたのに対し、カントの「範疇」概念は、完全に論理学的――ただし先験的な――概念となった。カントはさらに、アリストテレスの「範疇」はみな偶然的に集められたものであるといい、カントは形式論理学における判断表に基づいて、4種12目の「範疇」を次のように決めた。〔1〕「分量」(単一性、数多性、総体性)、〔2〕「性質」(実在性、否定性、制限性)、〔3〕「関係」(内属性と自存性、原因性と依存性、相互性)、〔4〕「様相」(可能性―不可能性、現存在―非存在、必然性―偶然性)。ただしカントの考え方にもまた異論が多く、フィヒテからヘーゲルに至るドイツ観念論の人たちは、「範疇」をふたたび「形而上学的な存在形式」の概念に戻していく。新カント学派は、それをまたもや「先験的哲学」における概念として復権させ、諸科学の先天的基礎としての意味を与えた。

《参考4》アリストテレスの哲学で、「範疇」とは、命題の述語、または存在者についての言明の根本形式。存在者がそこに包摂される最高概念。「実体」、「量」、「性質」、「関係」、「場所」、「時間」、「位置」、「状態」、「能動」、「所動」。

《参考5》「感性」と「悟性」と「理性」の違いとは?
☆「感性」は、現実の世界の多様な現象を「空間」と「時間」という認識形式に基づく「直観」を通じて捉えていくことによって認識の素材を提供する。
☆「悟性」は、そうした感性において与えられた素材を「量」・「質」・「関係」・「様相」の「カテゴリー」(「範疇」)の形式に基づいて「概念」的に把握する。
☆「理性」は、さらに、そうした「感性」と「悟性」においてなされた認識を、「論理的な推論能力」を通じて一つの客観的な認識へと「統一」していく心の働きだ。

《参考6》カントの「理性」は広義には「感性」、「知性」(「悟性」)を含める。これに対し狭義の「理性」は「感性」や「知性」(「悟性」)と異なる。「感性」や「知性」(「悟性」)が人間の「認識」にかかわる能力なのに対し、(狭義の)「理性」は「知性(悟性)による経験的認識の成果」を材料にしつつ、「経験」を超えた「思考」を可能にする能力だ。

《参考6-2》「理性」は、一方で人間の「思考」の範囲を拡大させ、世界についての理解を深化させるプラスの作用を持つが、他方で人間の「思考」を誤った方向に導くマイナスの作用を持つ。カントは「理性」の考察に際してこだわったのは「理性」のマイナスの側面だ。
☆カントは「理性」のマイナスの側面を「超越論的な仮象」として指摘する。それは、「批判のあらゆる警告を無視して、『カテゴリー(範疇)』の『経験』的な利用の領域の外へとわたしたちを誘い出し、『純粋な知性』を拡張するというごまかしで惑わせるのである」。
☆「超越論的な仮象」とは、「理性」がその能力たる「推論」(「思考」)を用いて「個別的な概念」を「普遍的な概念」に包摂する作用を繰り返すうちにたどり着くものだ。それが「仮象」であるのは、単に「思考の結果」にすぎないものを、「客観的な実在性」があるかのように、人間が「錯覚」することに原因がある。
☆カントは「認識」と「思考」は異なると繰り返し言う。「認識」とは「直観」において与えられた対象に「カテゴリー」(「範疇」)の枠組を当てはめて得られるものであり、その限りにおいて「客観的な実在性」を主張できる。それに対して「思考」とは、様々な「概念」を組み合わせて行う「純粋に主観的な活動」である。その「主観的な活動」の成果である「主観的な概念」に、「客観的な実在性」を付与したがること、そこに「仮象」が生まれる。「直接に『認識』されたものと、『推論』しただけのこととは違う」のだ。

《参考6-3》カントは「理性概念」を、プラトンに従って「理念(イデア)」と名付ける。それは人間の「思考」の産物でありながら、あたかも「人間とは別のところで独立して存在している」かのような外観を持つ「仮象」だ。
☆「理念」には様々な段階のものが考えられるが、カントが「究極の理念」として挙げているものは3つである。①「実体としての『心』」、②「因果系列の端緒としての『宇宙』の始まり」、そして③「世界の存在根拠としての『』神」である。
☆カントはこれらがなぜ「究極の理念」であるのかについて特別の議論を展開する。この3つの理念を引き出す方法は2つある。一つは(あ)「推論の形式」によるもの、もう一つは(い)「観念における主体や客体」に注目した方法である。
《参考6-3-2》(あ)カントは「理性の推論の形式」を3通りに分類する。(a)断言的推論、(b)仮言的推論、(c)選言的推論の3つである。(a)断言的推論からは「実体の理念」が生まれ、(b)仮言的推論からは「宇宙の根源的な端緒という理念」が生まれ、(c)選言的推論からは「世界の存在根拠としての神」という理念が生まれる。
《参考6-3-3》☆一方(い)「観念」は「主体及び客体」と3つの関係を持ちうる。第一が「主体」との関係であり、第二が「現象」における多様な「客体」との関係であり、第三が「あらゆる物一般」との関係である。ここから三つの「理念」が生まれる。「第一の理念」(「心」)は、「思考する主体の絶対的な(無条件な)統一」を含む。「第二の理念」(「宇宙」)は、「現象の条件の絶対的な統一」を含む。「第三の理念」(「神」)は、「思考一般のすべての対象の条件の絶対的な統一」を含む。

《参考6-4》☆こうして生まれてきた「理念」が何故、人間にとって「仮象」に陥るのか?「人間の『思考の産物』に過ぎないものに、『実在性』を持たせようとする人間にそなわった性癖」に理由があるとカントは考える。その結果、①考える主体としての「わたし」は、実体としての「心」となり、それは更に「人間の霊魂の不死」という理念に転化する。②「宇宙」の因果関係の全体性の議論は、「人間の意思の自由」をめぐる果てしない議論へと転化する。また③「神」の概念には「存在」の概念が結びつく。
《参考6-4-2》カントは、この三つの理念(「心」「宇宙」「神」)に潜む欺瞞性を暴く。そして①「人間の魂の不死」にかんする議論を「誤謬推論」と名付け、②「宇宙の起源」と「人間の意思の自由」に関する議論が「アンチノミー」に陥ると証明し、③「神」の存在にかんする議論を「純粋理性の理想」と称しそうした議論の限界を明らかにする。
《参考6-4-3》カントにとって「『理念』の限界」を明らかにすることは、「人間の『理性』の限界」と、「その限界の内側での『理性』の可能性」を明らかにすることにつながる。

(31)-4-2 たとえば「量」の「範疇」は「単一性」と「数多性」の綜合としての「総体性」だが、このことはカントでは十分な展開をえていない!ヘーゲルはこれらの契機(「単一性」・「数多性」・「総体性」)間に弁証法的関係を認める!
★ヘーゲルの「範疇」には、カントの「範疇」ともう一つ相違点がある。(159頁)
★「範疇」はカントでも確かに、相反する契機を含む。たとえば「量」の「範疇」は「単一性」と「数多性」の綜合としての「総体性」だが、このことはカントでは十分な展開をえていない。(159頁)
☆しかしヘーゲルは、フィヒテに啓発されて、これらの契機(「単一性」・「数多性」・「総体性」)間にも弁証法的関係を認めて、すなわち「量」とは一方で「単一」でありながら、他方では「数多」なものであり、これらが「相互に結合する」ことによって「総体性」として成立すると、ヘーゲルは3つの契機に弁証法的関係を認める。(159頁)
★このこと(「範疇」の諸契機に弁証法的関係があること)は「量」の「範疇」にだけかぎったことではなく、原理的には、「質」、「関係」、「様相」という「範疇」についても成立するはずだ。(159頁)
☆しかし『精神現象学』では、「質」、「関係」、「様相」の「範疇」に関し、その諸契機に弁証法的関係があることについて論じていない。それは『論理学』に譲られている。(159-160頁)

(31)-5 ヘーゲルは「理性」を「範疇」として考えている:かくて(C)(AA)「理性」の段階の課題は、「範疇」を①「対象」に即して、②「自己意識」に即して、③「両者(『対象』と『自己意識』)の統一」に即して展開することだ!これは金子武蔵の目次においては(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」となる!
★要するにヘーゲルは「理性」を「範疇」として考えている。(※ただしヘーゲルの「範疇」は「直観」と結びつけられ、カントの「図式」Schema、さらにこれを命題化した「超越論的原則」に相当する!)(160頁)
★そこで当面の段階、すなわち(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」の段階の課題は、「範疇」をまず①「対象」に即して展開すること、次に②(「範疇」を)「自己意識」に即して展開すること、最後に③(「範疇」を)「『対象』と『自己意識』の統一」に即して展開することだ。(160頁)
☆これらの3つが(金子武蔵の目次における)(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」である。これらについて以下、論じる。(160頁)
☆なおヘーゲルでは「範疇」(※「理性」)は「社会生活」にも適用されるので、カントの場合とは非常にちがったものになっている。(160頁)
★以上が、金子武蔵氏において、(三)「理性」が1「観察」2「行為」3「社会」に分かれることの大体の説明だ。(160頁)

《参考1》今や、(A)「(対象)意識」から、(B)「自己意識」をへて、両者の統一としての(C)「理性」の段階にまでたどりついた!(142頁)
《参考2》『精神現象学』の目次では、(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」(A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」)である。

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