宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」(続):「理性」における A「対象意識の側面」=「観察」、B「自己意識の側面」=「行為」、C「対象と自己の統一の側面」=「社会」!

2024-06-13 16:25:02 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」(続)(158-159頁)
(31)-3 「理性」の「確信」を「真理」にまで高める運動にも、「理性」の規定からして、おのずからA「対象意識の側面」すなわち「観察」と、B「自己意識の側面」すなわち「行為」と、C「これら両者(対象と自己)の統一の側面」すなわち「社会」の3つがある!(158-159頁)
★当面の段階たる(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階は、1「観察」、2「行為」、3「社会」に大別される。(ただし「行為」と「社会」というのは金子武蔵氏が工夫した表現で、ヘーゲルのテキストにはない。)(158頁)
★さて(C)(AA)「理性」においては(A)「対象意識」(意識)と(B)「自己意識」とが統一をえ、「対象と自己が一つになっている」ところからしては、すでに「絶対知」の段階に到達せられている。(158頁)

《参考1》「個別」(「個人」・「信者」)が完全に「普遍」(「神」or「教会」)を実現し、「主体」が「客観」に転換するとき、「自己意識」は「対象意識」に結びつく!この結びつきにおいて「理性」がでてくるが、これがヘーゲルの「絶対知」の根本的境地だ!(142頁)
☆「禁欲主義(アセティスィズム)」によって、「個人」がかえって「絶対的自由」を獲得することにおいて、かくて「個別」(※「個人」・「信者」)が完全に「普遍」(※「神」or「教会」)を実現し、「主体」(※「個人」・「信者」)が「客観」(※「神」or「教会」)に転換するとき、「自己意識」(※「個人」・「信者」)は「対象意識」(※「神」or「教会」)に結びつく。(142頁)
☆この結びつきにおいて「理性」がでてくるが、これがヘーゲルの「絶対知」の根本的境地だ。(142頁)
☆この意味で「免罪」というのは「教会や神」がゆるすのではなく、「絶対」の機能をもつようになった「自己意識」が自己自身でゆるすことになる。(142頁)
☆それで「中世のアセティスィズム(禁欲主義)」があって初めて「近世的な理性」が生まれることができると、ヘーゲルは考えている。(142頁)
《参考1-2》このようにして今や、(A)「(対象)意識」から、(B)「自己意識」をへて、両者の統一としての(C)「理性」の段階にまでたどりついた!(142頁)

★(C)(AA)「理性」において「自己と対象とが一つである」といっても、まだそういう「主観的確信」がもたれているだけであって、この「確信」が「客観的な真理性」をもっているわけでない。(158頁)
☆かくて「確信」を「真理」にまで高める運動が必要になってくる。(158頁)
☆これが(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」という題がつけられるゆえんだ。(158頁)

★「理性」の「確信」を「真理」にまで高める運動にも、「理性」の規定からして、おのずからA「対象意識の側面」すなわち「観察」(A「観察的理性」)と、B「自己意識の側面」すなわち「行為」(B「理性的自己意識の自己自身による実現」)と、C「これら両者(対象と自己)の統一の側面」すなわち「社会」(C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」)の3つがある。(158-159頁)

《参考2》ヘーゲル『精神現象学』の目次!(333-336頁)
(A)「意識」(対象意識):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」(A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」)
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」(A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」・Ⅱ「啓蒙」・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」(A「自然宗教」、B「芸術宗教」、C「啓示宗教」)、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

《参考2-2》『精神現象学』の構成(目次)については、さしあたっては「(A)意識、(B)自己意識、(C)理性」の3つについて考えていけばよい。「(A)意識」が客体的な方向(Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性)、「(B)自己意識」が主体的な方向(Ⅳ自己確信の真理性)、「(C)理性」が主客統一の方向(Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知)である。(56頁)

《参考2-3》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」
1「感覚」、
2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、
3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」
1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、
2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、
3「現代(あるいは絶対知)」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小池 龍之介『いま、死んでもいいように 執着を手放す36の智慧』 2017年(39歳):「私の肉体は汚(ケガ)れに満ち、死へと近づくものであり、破壊されてゆく死体のようなもの」(「長老尼偈」)!

2024-06-13 11:57:04 | Weblog
※小池 龍之介 (1978生)『いま、死んでもいいように 執着を手放す36の智慧』 2017年(39歳)(幻冬舎文庫)
(1)「この身体はなんとも儚く、もろく、壊れやすくやがて病んで朽ち果てる」(『法句経』)(18頁)
《感想》まことにその通り。老人になったら若いときのように「ひたすら欲望を追う」ことはやめてもいいかもしれない。Cf. 小池氏は「『若者』ぶる老人は醜いだけで、尊敬にも値しない」(21頁)と言う。

(2)「巨大な満足感を感じ取る者は、ちっぽけな快楽にはとらわれないであろう」(『法句経』)(24頁)
《感想》「欲望」は次々と生まれきりがない。そして「次の欲望へと急がせる市場の誘惑」(28頁)。だが「永遠の幸福」(「巨大な満足感」)の「永遠の一瞬」というものがありうる。人生の意味は、その「一瞬」にのみある。

(3)「生も苦、老も苦、病も苦、死も苦」(『諸転法輪経』)(30頁)
《感想1》小池氏は(or小池氏の仏教は)実に「後ろ向き」だ。「生きること」は無意味なのだ。「生」は「苦」が多いが「苦あれば楽あり」と「生」には「楽」もある。人は「幸せ」を求めて生きる。
《感想2》だが「苦」ばかりに襲われる、「苦」のまっただ中に生きるとき、「生も苦、老も苦、病も苦、死も苦」も真底からの真実だ。子供の「かわいらしさ」、「愛の幸福」、「美」と無縁の人生の「苦しみ」!

(4)「生まれた者には、もれなく死がついてくる。生まれたなら、もれなく苦を受け取る。苦につかまえられ、最後には殺され、責め苦を受ける。それゆえ、生れることを喜ぶのは愚かなこと」(『相応部経典』)(44頁)
《感想1》「生まれたなら、もれなく苦を受け取る」。確かにこのような「生」を生きる者もいる。(あるいは、そうしか思えないときもある)その場合は、確かに「生れることを喜ぶのは愚かなこと」だろう。
《感想1-2》だが人は「苦」の中にも「幸福」を求め、探してのみ生きることができる。
《感想1-3》小池氏は、「HappyBirthday!」や、「日々の喜び」や、「幸せ」の追求を無意味だと、ことごとく否定する。このように否定するのは、「ひねくれ者」だ。
《感想1-4》》小池氏は、「この世」の無意味、「人生」の無意味を説いて、なんと「この世」で(有意味な)「金儲け」をする。こうして小池氏は「この世を謳歌する」。「いい気」なものだ。(Cf. 「嫌味」を言ってしまった!)

《感想2》「生まれた者には、もれなく死がついてくる」!それは事実だ。だからと言って「生」が無意味でない。「生」のうちには「一瞬の永遠」とでも呼ぶべきものがある。「一瞬の永遠」である「喜び」・「美」・「幸福」などのうちにこそ人は生きる。「死」を怖れる必要がない。「永遠」(イデア)が宿ることが「死」を超える。

(5)「私の肉体は汚(ケガ)れに満ち、死へと近づくものであり、破壊されてゆく死体のようなもの」(「長老尼偈」)(62頁)
《感想》かわいらしい子供(「かわいらしさ」)、愛する恋人(「愛の幸福」)、人の所作の美(「美」)など、これらは「肉体」に宿る「永遠」(イデア)だ。「肉体」がやがて死のうと、腐敗しようと、例えば「かわいらしさ」・「愛の幸福」・「美」そのものは、そこに存在する「永遠」(イデア)だ。人は「永遠」(イデア)に一瞬出会うことができる。それが「生きること」の意味だ。「生きること」は無意味でない。「死」は必然だが、「死」も「永遠」を壊すことができない。「永遠」とは「イデア」的存在のことだ。「かわいらしさ」・「愛の幸福」・「美」などのイデア(「永遠」)が、死すべき肉体に、一瞬宿ることがあるのだ。

(6)「シュッと独立している筍(タケノコ)のように、独り歩め。そうシャキンと一本だけ突き出した、犀(サイ)の角(ツノ)のように」(『経集(スッタニパータ)』より「犀角経」)(74頁)
《感想》これには先行する文がある。「子供や妻への愛情のある者は、枝葉の茂った竹がお互いに絡みつき合い、縛り合うようなものだ」と。「子供や妻への愛情」を否定し、彼らを捨てて「出家」するとは「無責任」だ。相当、自分勝手と言うべきだ。

(7)「諸行はまことに無常にて、生じては滅する本性を持つ、生じ滅する揺れ動きが、滅することこそ安らぎだ」(『大般涅槃経』より「無常偈」)(92頁)
《感想》かくて、例えば日常生活で「不動心」が重要だとされる。「浮足立つな!」ということ。「生じ滅する揺れ動き」にとらわれないこと。まず「生きる」ことが先決だ。「滅すること」=「死」は「生きること」の最後にやってくる。「死」とは「生きる」ことが終わることだ。「死」は「生きる」ことの一部だ。

(8)「悲しみ嘆くのはおやめなさい、アーナンダよ。私は今まで何度も君に言ってきたでしょう?愛し、好み、執着したどんなものであれ、必ずや別れ、手放し、失わねばならないものだと。すべての生じたもの、存在するもの、つくられたものは壊れ、崩壊する運命なのに、“壊れませんように”という願いが、どうして叶うことがあろうか?」(『大般涅槃経』)(210頁)(Cf.  ブッダその人自身が、齢八十にしていよいよ入滅しようとするにあたって、それを悲しむ侍者である愛弟子アーナンダに語りかけた言葉。)
《感想》仏陀の言葉は愛に満ち、優しい。アーナンダ(阿難)は釈迦(仏陀)の帰郷に際し出家して最初の沙弥(少年僧))となった。釈迦の10大弟子のひとり。

《参考1》人生に対し否定的見解、厭世観を述べてるだけに思える。①「アイドル」も(その内部は)「肉と骨の汚物」にすぎないというように極端に解釈する。「アイドル」に熱狂することを否定する。②「旨いもの」を食う、「良いもの・美しいもの・楽しいもの・幸せな気分にするものなど」を手に入れようとするという「欲」をすべて否定する。つまり人の「生」を否定する。「死」を推奨する。Cf. 「物を大切にしつつ過剰な欲を抑える」といったアプローチの方が普通だ。③しかも小池氏は「楽しみ」や「快楽」が全て「錯覚」とまで言う。「シャバで生きる人の人生」は・空虚・無意味とされる。そしてそもそも「娑婆で生きる他者」への「共感」がない。(むしろバカにしている。)「慈悲」を語る仏に仕える者と思えない。④「一般的な人々」「平均的な人たち」をバカにして、大乗的な仏教の教えと思えない。⑤「シャバの快楽を《全て》捨てよ」と「一般人」に語っても役に立たない。

《参考2》内容的に「若い人」や「鬱っぽい人」は読まない方が良いかもしれません。
《参考3》筆者の(東大卒という)「高学歴」(?)がそうさせているのか、いちいち理屈っぽい。この人の言葉は論理と理屈でばかり成り立っている。国語の試験問題を解説している予備校の講師みたいだ。

《参考4》①「絆があっても、絆がなくても孤独」「内臓水油などの詰まった人間は綺麗じゃない」など、ともかく「一切が苦だ」という話に逆に救われました。ブッダは「事実しか言わない」ので、気が楽になります。②「一人あることの大切さ」、有名な「サイのツノ」の例話が、やはり凄いです。「何にも頼れないこと」、「自分自身に頼ること」、しかし「自分自身でさえ自分のものでないこと」など、通常の価値感と違い、ハッとさせられます。③小池氏は「心」の状態を、「神経伝達物質」、「人間は《本能》に組み込まれたものに支配されているに過ぎない」などと淡々と説明してくれるので、冷静に考えやすいです。④「これがないから出来ない」、「あれがないから人より不幸」などの考え方を改めて、「一人で立つ」ことを目標にしようと思いました。

《参考5》『考えない練習』は、サラサラと身体に入りましたが、こちらは、「人が死ぬこと前提」での記述となっており、読んでいても、「前向きな気持ち」になれませんでした。「大切であること」は理解できますが。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」:当面の(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階の目標は、「人倫の国」(Ⅵ「精神」の段階)にまで到達することだ!

2024-06-11 16:03:44 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」(156-157頁)
(31)当面の段階((C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階)にとっての目標は、「人倫の国」(Ⅵ「精神」の段階)にまで到達することである!
★ここでは(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階を扱う。この段階の目標は次の通りだ。(156頁)
☆「精神」をその「現象」に即して、「本来の『精神』」にまで高めようとするものがヘーゲル『精神現象学』である。このさい①「現象」が「認識」の段階であるところからしては、『精神現象学』は「絶対知」に到るまでの「意識経験の学」として「認識論」であり、また②「絶対知」の出現が「時代」に媒介せられているところからしては、『精神現象学』は「歴史哲学」を含む。(156頁)

☆「精神」は本来的にはⅧ「絶対知」であるが、それに比較的近い段階(Ⅵ「精神」)では、「精神」は「我なる我々」あるいは「我々なる我」として、広い意味における「社会的」なものである。つまりそれは「人倫の国」において成立する。(157頁)
☆当面の段階((C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階)にとっての目標は、この「人倫の国」(Ⅵ「精神」の段階)にまで到達することである。(157頁)

《参考1》ヘーゲル『精神現象学』の目次!(333-336頁)
(A)「意識」(対象意識):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」(A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」)
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」(A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」・Ⅱ「啓蒙」・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」(A「自然宗教」、B「芸術宗教」、C「啓示宗教」)、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

《参考2》『精神現象学』の構成(目次)については、さしあたっては「(A)意識、(B)自己意識、(C)理性」の3つについて考えていけばよい。「(A)意識」が客体的な方向(Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性)、「(B)自己意識」が主体的な方向(Ⅳ自己確信の真理性)、「(C)理性」が主客統一の方向(Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知)である。(56頁)

《参考3》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」
1「感覚」、
2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、
3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」
1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、
2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、
3「現代(あるいは絶対知)」

(31)-2 当面の段階((C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階):「対象意識と自己意識の統一」つまり「あらゆる実在」でありながら、これがまだ「確信」たるにとどまり「真理」となっていない、この状態が「始点」である!そして「確信を真理にまで高める」ところにこの段階の運動が成立する!
★これまでの『精神現象学』の叙述を回顧しよう。(157頁)
☆(A)「意識」(「対象意識」)の段階は次のような構造をもつ。1「感覚」(個)、2「知覚」(特)、3「悟性」
(普or「具体的普遍としての個」)。(157頁)
☆(B)「自己意識」の段階は次のような構造をもつ。1「欲望」(個)、2「承認」(「主奴」)(特)、3「自由」(普)。(157頁)

★さて当面の段階たる(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階は、「対象意識と自己意識の統一」であり、この意味において「あらゆる実在」でありながら、これがまだ「確信」たるにとどまって「真理」となっていない状態にある。この状態が「始点」である。(157-158頁)
☆そして「確信」を「真理」にまで高めるところに、この段階の運動が成立する。(158頁)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田中貢太郎(1880-1941)「義人の姿」:その「壮(ワカ)い士(サムライ)」の《幽霊》は「水漬の飯」を2杯馳走になって帰って行った!

2024-06-11 08:51:05 | Weblog
※田中貢太郎『日本の怪談』(1970初刊)河出文庫、1985年
★「義人」として切腹して果てた「壮(ワカ)い士(サムライ)」が、死んだあと再び、「上役」の宅を訪れた。用事が済むと、「上役」は「水漬の飯」を出した。「壮い士」は「水漬の飯」を2杯食って帰って行った。

《感想》①死んだあとやってきた「壮い士」は《幽霊》のはずだが、生きている者と何ら変わらない。「ゾンビ」のような外見・動作、また異常な心的能力しかもたないのでもなく、普通の生前のままの人だ。その証拠に、その「壮(ワカ)い士(サムライ)」の《幽霊》は「水漬の飯」を2杯馳走になって帰って行った。不思議な話だ。②上役の邸(ヤシキ)の使用人たちは《幽霊》と知っているので、つまり「壮い士」が死んだことを知っているのでひどく怖れた。上役は胆力のある人で怖れず応対し、「水漬の飯」を《幽霊》に馳走した。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田中貢太郎(1880-1941)「村の怪談」『日本怪談全集』(1970)所収:寝ないで朝まで外を「ぐるぐると歩く」!「大石塔」を相手に角力を取った!「犬神持ちの家」!「狸」は人間と同格か、より賢い!

2024-06-11 08:36:25 | Weblog
※田中貢太郎『日本の怪談』河出文庫、1985年
★「狸」に「化されて」、「家」へよう帰らずに一晩中、「某(アル)所をぐるぐると歩いていた」or「朝まで某所に坐っていた」or「朝まで墓地を歩いていた」。
《感想》①夜、人は「家」へ普通は帰る。②一晩中、寝ないで朝まで「某所」(外)を「ぐるぐると歩く」or寝ないで朝まで「某所」(外)に「坐っていた」or寝ないで朝まで「墓地を歩いていた」のは普通でない。

★「しばてん」は「子供の姿」で「角力(スモウ)をとろう」と言う。大の男がさっぱり子供の「しばてん」に勝てない。子供は突かれても全く動かず男はよろける。男は悪戦苦闘していたが、朝になって、海岸の松原の「大石塔」を相手に角力を取っていると、村の者に言われて気づく。

★「犬神」が憑く者を出す家があった。その家は「犬神持ちの家」と言われた。その家の人は「違った光る眼」を持つと言われた。
《感想》「犬神」に憑かれるとは、おそらく精神疾患だろう。

★甚内という力士は、「狸に憑かれた人」がいると、その人の背から肩を揉んで、狸を追い出した。だが甚内は「仲なおりしたい」という狸に敵(カタキ)を討たれ、たぶらかされ、その後、間もなく病死した。
《感想》「狸」は「人間」より劣った動物でなく、「人間」と同格だ。

★腕自慢の若侍が、狸を退治すると云って、ある日一人で山の中へ入って往った。ところが出家して髻(モトドリ)を切り、山の中の草の上に坐って、合掌しているところを村人に見つけられた。若侍は狸にだまされたのだ。
《感想》「狸」は普通、「人間」以上に賢い。

《参考》田中貢太郎は折にふれて「怪談は面白い。ええものじや。人間のいろいろな気持ちが深く集りよつちよるきに、これは文学の一つの究極じやと思うね」と語り残している。(「解説」尾崎秀樹)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田中貢太郎(1880-1941)「宝蔵の短刀」『日本怪談全集』(1970)所収:御宝蔵から小谷の持物であった短刀を盗んで逃げた盗賊=小松益之助(御宝蔵方)は、「ドッペルゲンガー」だ!

2024-06-10 16:10:35 | Weblog
※田中貢太郎『日本の怪談』河出文庫、1985年
★小松益之助は新たに御宝蔵方になった。かれには高知の城下に新たな邸が与えられた。
☆その邸は小谷政右衛門が元住んでいたが、「小谷」は讒言せられて切腹を命ぜられ、「家財」は没収された。(貴重なものは「御宝蔵」に保管された。)
☆その後、「その邸には不思議なことがある」と云う噂が立ち、暫く空き家になっていた。
☆小松益之助は豪胆な男で、年も三十前後、知人から怪しい噂を聞かされても笑っていた。益之助は女房と二人暮らしだった。

★新たな邸に移って二十日ばかりは何も起きなかった。ところがある夜、夜中に「がたり」と大きな音がした。雨戸を開けると物干竿が十本ばかり庭の真ん中に転がっていた。朝になると物干竿は影も形もなかった。益之助は笑いだした。
☆次の夜、寝床で、女房が物干竿のことを話出した。「なに、狸かなにかだろう」と益之助は取り合わなかった。また夜中に「がたり」と大きな音がした。物干竿が十本ばかり庭の真ん中に転がっていた。だが朝になると物干竿は影も形もなかった。益之助は「またやったな」と笑うだけだった。
☆三日目の夜も同じことが起き、朝には宵の庭の竹は一本もなくなっていた。

★四日目、益之助と女房が待ったが、夜中に「がたり」と大きな音がすることがない。益之助は寝てしまった。ところが女房がうとうとしていると「もし、もし、・・・・もし」と「女」の声がした。女房は「夫の隠し女」ではないかと疑った。「色の白い痩せぎすな女」が雨戸にくっつくようにして立っていた。
☆「女」は「御主人におめにかかりたい」と言った。女房は嫉妬に駆られ、嘲って言った。「主人は留守でございます。」「この夜更けに、お壮い御婦人が、よくまあ、こんな処にお出でになりました。」「女」は「またまいります」と言って、門を出て木立の傍らで見えなくなった。
☆翌朝、夫の益之助は「物干竿の音はしなかったな」と言って、いつものように飯を食って、ふだんのように城に出仕した。女房は昨晩訪ねてきた「女」の話を益之助にしなかった。だが女房は「疑念」が晴れない。

★次の夜、益之助が眠ってしまうと、再び「もし、もし、・・・・もし」と「女」の声がした。女房は嫉妬に駆られ憤って、「主人は、この比、毎晩留守でございますから、お出でになりましても、当分お目にかかれますまい」と言った。「女」は二三度頭を下げて何か云い、門を出て木立の傍らで見えなくなった。
☆その時、益之助は夢を見たのかぶつぶつ言ったが、目を覚ますことはなかった。

★その次の夜も、「女」はやってきた。益之助の女房は「あれ程、主人はこの比(コロ)留守であると申し上げたのに困ります」と腹立たしそうに言った。
☆「女」は顔を上げた。涙が両目に光って見えた。「女」が言った。「私は小谷の女(ムスメ)でございます。私の家には先祖から伝わった短刀がございましたが、家が没落した時、その短刀は御宝蔵の中へ納めれられました。どうぞ御宝蔵方になられたご主人にお願いして、それを執りだし、祭りをしてくださいませ。そうでないと、私たち一家の者が浮かばれません。」
☆「御主人がその短刀を執りだすのが無理なら、私が執りだします。ただ祭りをしてくださいませ」と「女」は言った。

★女房の眼が暗んできた。女房がアッと云って倒れた。その時、女房は寝床の上に仰向けに倒れたのであった。寝床の益之助が女房を抱き起した。女房はやっと気がついて恐ろしそうにして益之助の顔を見た。

★朝になって起き上がろうとした女房の枕頭に「白木の鞘に入れた短刀」があった。奇怪なその短刀はすぐ小松益之助の家の仏壇に置かれた。

★その朝、藩庁に宿直していた役人の許へ「御宝蔵」の番人が来た。番人は「昨夜、御宝蔵へ盗賊が入って小谷の持物であった短刀を盗んで逃げたが、その後ろ姿は、新たに御宝蔵方になった小松益之助にそっくりであった」と云った。
《感想1》昨夜、御宝蔵へ盗賊が入った時刻、「小松益之助」は自分の邸にいて女房を介抱していたのであり、邸を出ていない。御宝蔵から小谷の持物であった短刀を盗んで逃げた盗賊=「小松益之助」は、「ドッペルゲンガー」だ。Cf. 「ドッペルゲンガー」とは「同じ人物が同時に別のor複数の場所に姿を現す」ことだ。

★小松益之助が朝飯を喫っていると、藩庁の「詮議の者」が突然来た。ところが益之助はかの「短刀」が自分の邸に来た筋道を説明できなかった。
《感想2》「小谷の女(ムスメ)」は「御主人がその短刀を執りだすのが無理なら、私が執りだします。ただ祭りをしてくださいませ」と言ったのだから、藩庁の「御宝蔵」から短刀を執りだしたのは「小谷の女(ムスメ)」だ。
《感想2-2》「小谷の女(ムスメ)」は怪異の存在であり、その魔術的力によって、御宝蔵方の小松益之助の「ドッペルゲンガー」を出現させ、その「ドッペルゲンガー」に短刀を盗ませ、益之助の女房の枕元に置かせた。
《感想2-3》だが小松益之助自身は、自分の「ドッペルゲンガー」が短刀を盗んだことを知らない。かくて「益之助はかの『短刀』が自分の邸に来た筋道を説明できなかった。」

★益之助にとっては、まったく覚えのない罪状は、彼にとっては「讒言せられ」たに等しい。益之助は自分の「潔白」を訴えるため、「女房を殺した後で自分も自殺してしまった。」
《感想3》「小谷の女(ムスメ)」の怪異な存在について語った「女房」も、藩庁の者たちによって信じられることはないだろう。だから益之助は「女房」をも、彼女の名誉のために殺した。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(二)「自己意識」3「自由」(その5):『精神現象学』の目的は、「反省」の媒介を尊重しつつ「実体性を恢復する」ことだ!「実体性の立場」!

2024-06-10 12:58:10 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(二)「自己意識」3「自由」(その5 )(155頁)
(30)「実体性の立場」とは「個人が独立性を主張せずに絶対者に帰依し、あたかも(個人が)実体に対する属性のごとくそれ(実体)に帰属している」というものだ!「実体性の立場」とは(中世クリスト教の)「信仰の立場」だ!
★翻って考えてみると、「序論」においてヘーゲル『精神現象学』の目的は、「反省」の媒介を尊重しつつ「実体性を恢復する」ことだと述べた。(155頁)
★ところで「実体性の立場」とは「個人が独立性を主張せずに絶対者に帰依し、あたかも(個人が)実体に対する属性のごとくそれ(実体)に帰属している」というものだ。(155頁)
☆したがって「実体性の立場」とは「信仰の立場」だ。(155頁)
☆「中世クリスト教」のもとにおける「人間」が、「日々の糧」も「能力」も「才能」も「神の与え給うところのもの」であると感じて「感謝」し、「貪らず所有を喜捨寄進」し、また「なにごとについても教会の指示を仰いで生活」していたということは「実体性の立場」にほかならない。(155頁)

★実をいうと「実体性の立場」が、「恢復せらるべき、また分析せらるべき全体」として『精神現象学』のかくれた前提だ。(155頁)
☆この観点からすれば「感覚」・「知覚」・「悟性」という(A)「対象意識」の諸段階も、また(B)「自己意識」の諸段階も、じつは「反省」の分析によって定立せられたものにほかならない。(155頁)

★(B)「自己意識」の最後の段階である「不幸なる意識」(クリスト教)において「実体性が恢復された」が、これはいいかえると「実体が主体となった」ことを意味する。(155頁)
☆「不幸なる意識」(中世カトリック教orクリスト教)を通ずることによって、「理性という絶対知」が到達せられた。(155頁)

★「反省の媒介」にはまだ不十分なところがある。その不十分を補うのが、今後の叙述((C)(AA)「理性」・(BB)「精神」・(CC)「宗教」・(DD)「絶対知」)の目的だ。(155頁)

《参考1》「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場:「主語」たる「サブスタンス」(「実体」)そのものが、我々の「主観」と同じように「生けるもの」、「自分自身で自分自身の内容を反省し、それを深めてゆく」!(73頁)
☆「普通の認識」に対して、「真の絶対知の立場」においては、「主語」は「不動の実体」というものではない。「絶対知」における「主語」は「存在的・客体的なもの」ではない。(73頁)
☆「絶対知の立場」においては「主語」たる「サブスタンス」(「実体」)そのものが、我々の「主観」と同じように「生けるもの」、「自分自身で自分自身の内容を反省し、その反省を自分自身で深めてゆく」ものである。(73頁)(※この「絶対知の立場」(73頁)は「実体性の立場」(155頁)とも呼ばれる。)
☆ここに初めて「真の哲学的認識」が出てくるとヘーゲルは言う。(73頁)
☆ヘーゲルでは、文法上の「サブジェクト」(Cf. 「主語」)に当るものが、我々人間と同じような「サブジェクト」(Cf. 「主体」・「主観」)だ。「サブジェクト」は、「自分は何々である」という判断を、自分自身で行う。(73頁)
Cf. 「悟性の反省」の「媒介」を通ずることによって、「実体」は「主体」となる。じつは「実体」を「主体」に転換させることこそが『精神現象学』の目的だ。(69頁)

《参考2》ヘーゲル『精神現象学』の目次。(333-336頁)
(A)「意識」(対象意識):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」(A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」)
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」(A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」・Ⅱ「啓蒙」・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」(A「自然宗教」、B「芸術宗教」、C「啓示宗教」)、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

《参考2-2》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次。
(A)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(B)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(※金子武蔵氏は「自己意識」も3段階にわける。)
(C)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(二)「自己意識」3「自由」(その4-2):③「不幸なる意識」(う)「中世カトリック教」における(3)「現実意識の自己否定」の段階!「理性」の段階!

2024-06-08 15:57:42 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(二)「自己意識」3「自由」(その4-2)(153-154頁)
(29)-3 「中世カトリック教」の意識(or「中世カトリック教会」)の3つの段階(3):「現実意識の自己否定」の段階!「中世の禁欲主義(アセティスィズム)」、「免罪」、「神とのやわらぎ」!「中世のアセティスィズム」があって初めて「近世的な理性」が生まれる!
★「中世カトリック教」の(2)「現実意識」の段階における、「普遍性」(「神」)と「個別性」(「人間」)の「分裂」を克服するには、(3)「現実意識の自己否定」が必要だ。(153頁)

(29)-3-2 「中世カトリック教」の「禁欲主義(アセティスィズム)」が「個別性の否定」即「普遍性の定立」ということによって「絶対者(神)とのやわらぎ」を得させる:「現実意識の自己否定」の段階(続)!
★ここでヘーゲルは「中世の禁欲主義(アセティスィズム)」を生かそうとする。(153頁)
☆ヘーゲルは「アセティスィズム」が「『個別性の否定』即『普遍性の定立』ということによって『絶対者とのやわらぎ』を得させる」ことについて述べる。(153頁)
☆「中世の禁欲主義(アセティスィズム)」は(a)「労働」によって獲得した所有物を投げすて「喜捨」し「寄進」する(※「個別性の否定」)のみならず、(b)なにごとについても「教会」に相談し(※「普遍性の定立」)、その指示を仰ぎ、(a)-2 「自分では決定せず」、即ち「自分の意志を放棄」し、したがって「自己のすべてを放棄する」が(※「個別性の否定」)、(c)これは「単なる否定」にとどまるのではなく、「『個別性の否定』即『普遍性の定立』ということによって『絶対者とのやわらぎ』を得させる」。(※これこそ「中世カトリック教」の意識の3つの段階(3):「現実意識の自己否定」の段階だ!)(153頁)

★「中世カトリック教」において、「絶対者とのやわらぎ」が「免罪」Ablassというかたちであらわれてくる。(153頁)
☆「免罪」はがんらい「懺悔」contritio および「告白」confessio と結びついたものだ。(153頁)
☆なにか「罪」を犯したときには、悔恨し「懺悔」しなくてはならないが、これをさらに「僧侶」に告白することが要求される。(153頁)
☆このとき「僧侶」はそれぞれの「罪」に応じて「祈り」とか「喜捨」とか「巡礼」とか(「※「禁欲主義」の「禁欲」の諸内容に相当する)を課す。これらを果たすことによって「免罪」absolutio が宣告される。(153-154頁)
☆ヘーゲルはこの「免罪」ということを生かして一般に、「禁欲」を通じて「罪」が赦され「神とのやわらぎ」が成立するという意味に用いる。(154頁)

(29)-3-3 かくて「禁欲主義(アセティスィズム)」によって、「個人」がかえって「絶対的自由」を獲得する:「現実意識の自己否定」の段階(続々)!
★むろん「免罪」を行うものは「教会」・「神」である。「免罪」は、「天」からくるものであって「自分」でうるものではない。したがって充実した権能をもつのは「教会」や「神」であって、「信者」ではない。(154頁)
☆しかし「教会」や「神」が充実した権能をもつのは、「個別者」が「帰依」するからだ。例えば「信者」が「喜捨」するからこそ立派な「寺院」(「教会」)も建つ。(154頁)
☆かくて「禁欲主義(アセティスィズム)」によって、「個人」がかえって「絶対的自由」を獲得する。(154頁)
☆これはちょうど「奴隷」が「主人」の権力がおそろしさに、ろくろく眠ることも食うこともせずに、ひたすら「主人」に「奉仕」し「労働」することによってかえって「自由」を得るのと同じことだ。(154頁)

《参考1》「無限性」が「人格」間に支配しているときは、まさにヘーゲルの「相互承認」の関係が生じている。いいかえると「自己意識」と「他の自己意識」の関係は「相互承認」という意味の「無限性」を必要とする。(138頁)
☆しかし、これは「自己意識」と「自己意識」の間の理想であり、あるべきものであって、このような「相互承認」という関係が、いまただちに実現されるのではなく、その実現はB「自己意識の自由」において初めて一応成り立つ。(138頁)
☆そこでまず最初に問題となるのは「主と奴」という関係だ。(138頁)

《参考2-1》「奴」の方が自己の「無限性」・「真の自由」を実現する!「奴が主となり」つまり「主奴の関係は逆転する」! (140頁)
☆「奴」が「権力のおそろしさのため主を尊敬している」といっても、「尊敬するかしないか」はやはり「奴」の自由だ。(140頁)
☆したがって「主」は「独立的のもので、なにものにも依存していない」ようであっても、じつは「主」は「『奴』に依存」して、「『主』たることを『奴』に承認してもらっている」。(140頁)
☆「主人として承認するや否や」は、けっきょくは「奴の自由意志」によっている。(140頁)
☆この点からいうと、「奴よりむしろ主の方が奴隷的である」、つまり「主」は「奴の奴隷的であるよりさらに奴隷的である」といえる。(140頁)

《参考2-2》「主もかえって奴に依存している」、いいかえると「主は奴になり、奴は主になる」!(141頁)
☆このことを理論的にいうと、「主人」は「精神的無限性ないし普遍性」を実現し、「奴」は「欲望」にとらわれて「個別性」にとどまっている。(141頁)
☆ところがじつは「主人」も支配される方の「奴」の「個別性」に依存している。(141頁)
☆そこで「奴が主に依存する」と同様に、「主もかえって奴に依存している」。いいかえると「主は奴になり、奴は主になる」。(141頁)

《参考2-3》ヘーゲルは「自由」を「奴」の方から説こうとする!むしろ「奴」の方が自己の「無限性」をつまり「真の自由」を実現する!「奴が主となり」、つまり「主奴の関係は逆転する」! 
☆かかる理由(「主もかえって奴に依存している」or「主は奴になり、奴は主になる」)から、ヘーゲルは「自由」をむしろ「奴」の方から説こうとする。(141頁)
☆これについて、ヘーゲルは①「畏怖」と②「奉仕」と③「形成」との3点をあげる。(141頁)
①「畏怖」:「奴隷」は「主人」をおそれる(「畏怖」)!
☆これは「死」をおそれることだ。いうことをきかないと「権力によって殺される」から、「奴隷」は「死」をおそれている。「奴」は「絶対的な恐怖」(「畏怖」)のなかに、「おそれとおののき」(「畏怖」)のなかにいる。(141頁)
☆「奴隷」はがんらい「生命」に執着したものだが、しかし「おそれとおののき」(「畏怖」)のうちにあることによって、その執着を震駭(シンガイ)(Cf. 侵害)されている。(141頁)
☆「奴隷」は「主人」が恐ろしい(「畏怖」)から服従して、「飲み食い眠るという欲望」さえおさえているが、この服従はかえって「個別性への執着」をたちきるものだ。(141頁)
②「奉仕」:「畏怖」の「そとに(※客観的に)あらわれ実証されたもの」!
☆「畏怖」(「主人」をおそれる)(「権力によって殺される」という「死」の「絶対的な恐怖」)(「おそれとおののき」)だけではまだ内面的主観的だ。この「畏怖」の「そとに(※客観的に)あらわれ実証されたもの」が「奉仕」だ。「奉仕」によって、「食いたい眠りたい」という具体的の(※主観的な)「欲望」を「現実的に客観的に」のりこえている。(141頁)
③「形成」(「労働」)(※対象化):自分の「主観的内面的」のものを「客観的」なものに転換することor「労働」!
☆「奉仕」もまだ「個別的断片的」であり、また「自分の身にそくしたもの」であるという意味で「主観的」だ。これがもっと「客観的」にあらわれたものが「形成」(「労働」)だ。(141-142頁)
☆「主人」は「対自存在」であり、「享楽」においてあり、「無限性」を実現している。(142頁)
☆しかし「主人」の「享楽」は消えていく。しかるに「奴隷」はせっせと働き、他物に働きかけてこれを「形成」してゆくことによって、自分の「主観的内面的」のものを「客観的」なものに転換してゆく。(※「労働」or「労働」の対象化!)(142頁)

《参考2-4》「主体的にえがいたもの」を「客体的」に実現し、その結果として「客体から解放される」!「奴」の「労働における無限性」が存続するのに、「主」の「享楽における無限性」は消えてゆく!
③(続)したがって「対象的、客体的なもの」(②「奉仕」)に依存して「奴」であったものも、せっせと「労働すること」(③「形成」)によって、かえって「主体的にえがいたもの」を「客体的」に実現し、その結果として「客体から解放される」。(142頁)
☆つまりいろいろの「技能や知識」が得られ、これによって「対象はもはや他者ではなくして自分のものであるという確信」、即ち「無限性」が生まれてくる。(142頁)
☆この「奴」の「労働における無限性」が存続するのに、「主」の「享楽における無限性」はあとかたもなく消えてゆく。(142頁)

《参考2-5》「奴が主となり」、つまり「主奴の関係は逆転する」!
☆しかし③「単なる『労働』と『形成』」とではだめで、やはり①「畏怖」(「奴隷」は「主人」をおそれる)と②「奉仕」(「畏怖」のそとに客観的にあらわれ実証されたもの)が必要で、ことに「絶対的な主人である死の恐怖」(①「畏怖」)があることが必要で、これによりあらゆる「個別的のものへの執着」をたちきり、「自己の無限性や普遍性」を実現してゆくことができる。(142頁)
☆そこで「奴隷」は単なる「我欲」にとらわれず、「普遍的、客観的にものを考える力」をもつようになるから、「無限性の概念」をうる。(142頁)
☆これに対して、「主人」の「無限性」は「享楽」におけるものだから「存続」できないし、また「享楽」の「個別性」にとらわれている。(142頁)
☆かくてむしろ「奴」の方が自己の「無限性」をつまり「真の自由」を実現する!「奴が主となる」、つまり「主奴の関係は逆転する」!(142頁)
☆「奴」の方が自己の「無限性」を、つまり「真の自由」を実現する。「奴が主となり」、つまり「主奴の関係は逆転する」。(142頁)

(29)-3-4 「個別」(「個人」・「信者」)が完全に「普遍」(「神」or「教会」)を実現し、「主体」が「客観」に転換するとき、「自己意識」は「対象意識」に結びつく!この結びつきにおいて「理性」がでてくるが、これがヘーゲルの「絶対知」の根本的境地だ!
★「禁欲主義(アセティスィズム)」によって、「個人」がかえって「絶対的自由」を獲得することにおいて、かくて「個別」(※「個人」・「信者」)が完全に「普遍」(※「神」or「教会」)を実現し、「主体」(※「個人」・「信者」)が「客観」(※「神」or「教会」)に転換するとき、「自己意識」(※「個人」・「信者」)は「対象意識」(※「神」or「教会」)に結びつく。(142頁)
★この結びつきにおいて「理性」がでてくるが、これがヘーゲルの「絶対知」の根本的境地だ。(142頁)
★この意味で「免罪」というのは「教会や神」がゆるすのではなく、「絶対」の機能をもつようになった「自己意識」が自己自身でゆるすことになる。(142頁)
★それで「中世のアセティスィズム(禁欲主義)」があって初めて「近世的な理性」が生まれることができると、ヘーゲルは考えている。(142頁)

(29)-3-5 (A)「(対象)意識」から、(B)「自己意識」をへて、両者の統一としての(C)「理性」の段階にまでたどりついた!
★このようにして今や、(A)「(対象)意識」から、(B)「自己意識」をへて、両者の統一としての(C)「理性」の段階にまでたどりついた。(142頁)

《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次。(333-336頁)
(A)「意識」(対象意識):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」(A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」)
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」(A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」・Ⅱ「啓蒙」・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」(A「自然宗教」、B「芸術宗教」、C「啓示宗教」)、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(二)「自己意識」3「自由」(その4):③「不幸なる意識」(う)「中世カトリック教」における「純粋意識」・「現実意識」・「現実意識の自己否定」!

2024-06-07 12:27:20 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(二)「自己意識」3「自由」(その4)(151-155頁)
(29)「中世カトリック教」の意識(or「中世カトリック教会」)の3つの段階(1):「純粋意識」の段階すなわち「帰依・信仰」の段階!「人間の誰しもが『人の子』であると同時に『神の子』である」ことは知られているが、「やはり『神の子』はイエスだけである」と個別的感覚的に考える!
★「イエス」が死して追憶のうちに生きるようになったとき、「イエス」は次第に「精神化」される。「神の子」は「感覚」によって見るのでなく、「普遍的に思惟され」るようになる。「神」は「外にある」のでなく、「心にある」ことになる。かくて「変じないもの」(「普遍者」)と「変ずるもの」(「個別者」としての「人の子」であるイエス)が相近づき「中世カトリック教の意識」が生まれる。(150-151頁)

★まず「純粋意識」の段階としての「中世カトリック教の意識」は、「帰依・信仰」の段階だ。(151頁)
☆まだ「概念」の立場に至っていない。(151頁)
☆「人間の誰しもが『人の子』であると同時に『神の子』である」ことは知られているが、それは「ボンヤリとわかっている」にすぎず、「やはり『神の子』はイエスだけである」と個別的感覚的に考える。(151頁)
☆それは「概念あるいは思惟Denken」と「感覚」との中間にとどまった「帰依An-dacht」という態度だ。すなわち「思惟そのもの」には到達せず、「思惟にむかっているにすぎぬ段階」だ。(151頁)
☆「音楽を奏しミサの儀式を行じて、クリストを憧憬する」という中世人の宗教意識!(151頁)

★ここでは「普遍的なもの」(※神)はけっきょく「個別的のもの」(※人間)としてとらえられているから、おのずと「聖墓を恢復しようとする運動」も生じる。すなわち「クリストの聖墓がトルコ人に占領されているから、ぜひ恢復しようという十字軍の運動」がおこる。(151頁)
☆しかし「十字軍の失敗」は、「内に求むべきもの」を「外に求める」ことから当然であり、この失敗から「普遍的精神的に神をとらえなければならない」ことが痛感せられ、「神を一層内面的にとらえ」ようとする努力が生まれる。つまり「『神』を『感覚』によって求めず、内に『精神』として求むべし」という一層高い立場が要求される。(151-152頁)。

(29)-2 「中世カトリック教」の意識(or「中世カトリック教会」)の3つの段階(2):「現実意識」の段階!「この『地上』も決してけがれたものでなく、『神聖なる神意』の表現として清浄なものである」!だが「普遍性」(「神」)と「個別性」(「人間」)の「分裂」はなお消え失せていない!
★「『神』を『精神』として内面的にとらえよう」とする努力は、実は「十字軍の失敗」以前からもすでにあった。(事態は歴史的経過とは必ずしも平行するものでない!)(152頁)
☆この努力によって、(a)「『人間』も罪を負う『人の子』であるとともに『神の子』である」という自覚がえられ、(b)「『神』も『人間の形態 Gestalt』をもったもの」であり、いな(c)「『人間』にかぎらず『形態をもつもの』はすべて『神』の現れである」ところから、(d)「この『地上』も決してけがれたものでなく、『神聖なる神意』の表現として清浄なものである」ことになる。(152頁)

★この意味で「中世クリスト教の現実的意識」にも肯定される面がある。(152頁)
☆そうなると「欲望し享楽するというような現実的活動」も同様だ。(152頁)
☆「普遍性」(「神」)と「個別性」(「人間」)の「分裂」はすでに解決されているといってもよいかのように思われる。(152頁)

★だが「中世カトリック教」のこの「現実意識」の段階においては、「分裂」はすでに解決されているわけではない。(152頁)
☆①なるほど「人間」はいろいろと「享楽することができる。しかしこれは(「人間」の)「自分の力」によることではない。「日々のパン」も「野原の羊」も「それからとった着物」などはすべて、「神」から与えられたものだ。(152頁)
☆①-2だから「彼岸的なもの」(「神」)が別にあり、「人間」である自分自身には十分な「現実性」はなく、十分の「力」もないということになる。(152頁)
☆②また「労働」していろいろの「欲望」を充足するには「才能や努力」がいるが、これらも「神」によって与えられたものである。(152-153頁)(Cf.  神の「gift」=「才能」!)

☆かくて「永遠の聖なる神」と「みにくき個別的自己」(「人間」)との「分裂」はまだ十分に克服されていない。(153頁)

★もっとも、日々のパンも神が賜うたものであるから「人間」は神に感謝し、そうして「神」は食物や才能をも人間に与えるというように、「『神』と『人』との間に『相互承認即ち完全なやわらぎ』が成り立つ」ように思われる。(153頁)
☆しかし「人間」には(ア)「『神』に感謝しているから、これぐらいなことはやってもよいだろう」というように、「神への感謝」を「誇り」・「功徳」にするという「私」(※私情)(※「個別性」)があり、また(イ)「人間」の「欲望や享楽の意志」には「個別性」が残っていることは明らかである。しかも他方「神」は「個別性」を超えた、したがって「普遍的絶対的」のものだから、「普遍性」(「神」)と「個別性」(「人間」)の「分裂」はなお消え失せていない。(153頁)

★そこで「中世カトリック教」のこの「現実意識」の段階における、「普遍性」(「神」)と「個別性」(「人間」)の「分裂」を克服するには、(3)「現実意識の自己否定」が必要だ。(153頁)(後述)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(二)「自己意識」3「自由」(その3):③「不幸なる意識」(クリスト教的意識)における「普遍性」と「個別性」の「結合」と「分離」の問題!

2024-06-05 15:26:46 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(二)「自己意識」3「自由」(その3)(148-151頁)
(28) (B)「自己意識」の③「不幸なる意識」における「普遍性」と「個別性」の「結合」と「分離」の問題!「不幸なる意識」(クリスト教的意識)は「普遍的」なものと「個別的」のものとの矛盾を「統一」づけようとする!
★②「スケプシス主義」は、一方で「普遍的」でありながら、他方で「個別的」のものに纏綿(テンメン)されるという「矛盾」を自覚する。この「矛盾」を「統一」づけようとするのが③「不幸なる意識」(クリスト教的意識)だ。(148頁)
☆ここでは『精神現象学』はまだ「歴史哲学」と直接の関係を持たないが③「不幸なる意識」はクリスト教的意識だ。(148頁)

Cf.「不幸なる意識」(クリスト教的意識)とは、「個別的可変者」(人間)と「普遍的不変者」(神)との「分裂」からおこる「不幸」を克服していない意識だ。(150頁)

《参考1》②「スケプシス主義」(「懐疑主義」)は、①「ストア主義」がないがしろにする「個別的特殊的のもの」に目をそそぎ、これを「否定」し、もっと「自由」を「現実的」に実現しようとする。(147頁)
☆「抽象的」である①「ストア主義」が「主人」に相応する立場であるのに対して、②「スケプシス主義」は「奴」の立場に応じ、より「現実的」だ。即ち②「スケプシス主義」は「労働」し「形成」して「否定」によって「自由」を実現する「奴」の立場に応ずる。(147頁)

《参考2》②「スケプシス主義」はいつもすべてを「否定」してゆく。しかし「否定」してゆくには、「否定せられるもの」がなくてはならないわけで、「否定せられるもの」がいつも「向こうから現れて」くれねばならない。(148頁)
☆そこで「絶対の自由」すなわち「アタラクシアの自由」に到達したようでありながら、②「スケプシス主義」も「個別」や「特殊」にやはり依存する。(148頁)
☆②「スケプシス主義」は「感覚を否定」し、「知覚を否定」するといいながらそれに依存し、「支配隷従のおきては相対的のものにすぎぬとして否定」するといいながらそれに依存する。かくてここに②「スケプシス主義」が「アタラクシア」(無関心)(「心の平静」)を完全に実現しえぬゆえんがある。(148頁)

《参考3》ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄)!(333-336頁)
(A)「意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」
A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、
B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」
((C)「理性」)(BB)「精神」:Ⅵ「精神」
((C)「理性」)(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」
((C)「理性」)(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

★「自己意識」の③「不幸なる意識」(Cf. ①「ストア主義」・②「スケプシス主義」)において、最初、「個別性」と「普遍性」という2つの面が「結合」しながら「分離」し、「分離」しながら「結合」している。(149頁)
☆「普遍的なもの」(変わらぬ永遠なもの、絶対的なもの)と「個別的のもの」(時間的な可変的な相対的な世間的のもの)が「結合」しながら「分離」しているとは、(A)「結合」の面からいうと「自己意識が普遍的絶対的なものにのぼろうとすること」であり、(B)「分離」の面からいうと「自己意識が普遍的絶対的なものへとどんなにのぼりつめたと思っても、やはり可変的世俗的一時的のものに拘禁されたものとして、顚落すること」を意味する。(149頁)

(28)-2 (B)「自己意識」の③「不幸なる意識」における「普遍性」と「個別性」の「結合」と「分離」の問題(その1):(あ)「ユダヤ的」宗教意識、あるいは「父」の位!「離れている」という面(「分離」)が強調される!「相対」と「絶対」が結びつきつつ離れているが、この「離れている」という面が最初は強調される!
★「自己意識」が「普遍的絶対的なもの」へとのぼりつめて落ちると、「絶対的なもの」から離れたので、かえって「絶対的のもの」を深く憧憬し、帰依してのぼろうとするが、しかしまた落ちる。これは「分裂」した意識だ。(149頁)
☆「可変的一時的のもの」(自己意識、Cf. 人間)と「永遠なるもの絶対なるもの」(Cf. 神)が、即ち「相対」と「絶対」が結びつきつつ離れているが、この「離れている」という面が最初は強調される。これは歴史的には「ユダヤ的」宗教意識だ。あるいは「三位一体」からいえば「父」の位だ。(149頁)

(28)-3 (B)「自己意識」の③「不幸なる意識」における「普遍性」と「個別性」の「結合」と「分離」の問題(その2):(い)「クリスト教的」宗教意識あるいは「原始クリスト教」! クリスト教の「受肉」!ただし「イエス」だけが「神」と同じで、「神人たる権威」をもつものは「イエス」だけであり、「他の人間」は「神たる権威」をもたないとされる
★ところで「自己意識」は、のぼっていって「神」と結びついたと思えばわかれ、わかれたと思えば結びつくというのだから、「神」も人間と「分離して」いるにとどまらず、人間と「結びついて」もいる。(149頁)
☆かくて「神」は単に「超越的のもの」でなく、「人間と同じようなもの」とならねばならない。(149頁)
☆この場合、ヘーゲルは「普遍者」を最初、「不変者」 das Unwandelbareといっておきながら、やがて「不変人」 der Unwandelbareといいかえるが、これはクリスト教の「受肉」のことをさしている。(149頁)
☆「神」(普遍者)は単に「世界を創造し摂理や審判を行う『超越的な神』」にとどまるのでなく、「イエス=クリスト」として「大工の子」として、「『人間』と同じ形をもったもの」となる。(149-150頁)

★前のことに結びつけて、「ストア主義」は「主」であり、「スケプシス主義」は「奴」であるところの点からは、
「不幸なる意識」(クリスト教)は「主奴の関係」を「内面的宗教的」に示しているものであって、「不変者」は「主」であり、「可変者」は「奴」だが、最初、「主」・「奴」はきりはなされ、だんだん結びつけられて、「神」も「人間」的形態をとる。(150頁)

★これを「歴史的」にいうと(あ)「ユダヤ的」段階から、(い)「クリスト教的」段階(「原始キリスト教」)に移ることをさす。(150頁)
☆そこでは「神」は、すでに「形態をもつもの」、「人間と同じ姿をもつもの」であるから、「賤しい大工の子イエス」であり、我々と同じ「個別者」だ。(150頁)
☆だから「罪深い我々」も、「人の子」であると同時に「神の子」という意義をもつ。(150頁)

★ところがヘーゲルによると、こうしたことを「普遍的」にとらえるには「概念」の立場が必要であるのに、「原始クリスト教」では「精神」の立場、「概念」の立場が十分到達されていないので、「神観」も「感覚的なもの・個別的なもの」にとらわれがちだ。(150頁)
☆したがって「イエス」だけが「神」と同じで、「神人たる権威」をもつものは「イエス」だけであり、「他の人間」は「神たる権威」をもたないとされる。(150頁)

★「原始クリスト教」は、このように、がんらい「普遍的」に考えるべき「絶対者」を、「感覚的表象的個別的」に考えようとする。(150頁)
☆「普遍者」が「形態」(「人間と同じ姿」「個別性」「賤しい大工の子イエス」)をうることによって、「クリスト教」(「原始クリスト教」)では「ユダヤ教」とちがって、「神」は一層「人間」に近づいてる。(150頁)
☆しかし「神」を「個別的感覚的表象的」にとらえようとするから、「人間の自己」と「分離」したものになり、
「個別的可変者」(「可変者」or「人間」)と「普遍的不変者」(「不変者」or「神」)との分裂からおこる「不幸」を「原始クリスト教」は克服していない。(150頁)

Cf.「不幸なる意識」(クリスト教的意識)とは、「個別的可変者」(人間)と「普遍的不変者」(神)との「分裂」からおこる「不幸」を克服していない意識だ。(150頁)

(28)-4 (B)「自己意識」の③「不幸なる意識」における「普遍性」と「個別性」の「結合」と「分離」の問題(その3):(う)「中世カトリック教」の宗教意識あるいは「中世カトリック教会」!「変じないもの」(「普遍者」・「神」)と「変ずるもの」(「個別者」としての「人の子」であるイエス)が相近づく!
★けれども「イエス」はやがて死ぬ。すると「イエス」のみが「神の子」であると信じていた弟子たちは非常な悲哀におちいる。しかし「イエス」が死して追憶のうちに生きるようになったとき、「イエス」は次第に「精神化」される。「神の子」は「感覚」によって見ることができるのではなく、「普遍的に思惟され」ねばならないということになる。「神」は「外にある」のでなく、「心にある」ということになる。かくて「変じないもの」(「普遍者」)と「変ずるもの」(「個別者」としての「人の子」であるイエス)が相近づき、次第に(う)「中世のクリスト教会」・「中世カトリック教の意識」が生まれる。(150-151頁)

★ヘーゲルは(う)「中世カトリック教の意識」を「純粋意識」と「現実意識」と「現実意識の自己否定」という3つの段階に分けて展開する。(151頁)(後述!)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする