宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

苦境におちいる

2008-01-16 21:38:40 | Weblog
 今、苦境におちいる。言葉が終わる。耐える必要がある。身を正して暮らす。時間が解決する保証がない。事態に対しうろたえない。静かに生活する。天が落ちることはない。命は失わない。苦境に耐えよう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

定形の普通の人生:他者との関係性の諸形式(仕事・映画鑑賞・戦争etc.)にしたがって生きる

2008-01-13 12:45:48 | Weblog
 無定形の人生は野垂れ死にに終わる可能性が高い。
 この世には形がある。定形の普通の人生は形式を受け入れる。つまり他者との関係性の中で生きる。仕事は他者との関係性の1形式。映画の鑑賞も同様。建物も、このパソコンも、このインターネットも、買い物に行く店も、戦争も、テロも何から何まで他者との関係性の多様な諸形式。
 では自然はどこにあるか?この身体は自然に属す。地球は自然の一部。天体も同じ。他者も身体としては自然。他者は心が宿る身体。
 他者との関係性が私の人生を定形化する根拠は他者の身体とその拡張である物理的諸手段が私の身体性を媒介して私の人生に制約を加えるから。
 諸身体はそれぞれ地平を持つ。身体が出会う限り地平が少しの範囲で重なりそこでは世界が一つとなる。モナドとしては心と身体が区別できない。モナドの身体領野が出会うとすればその限られた範囲ではモナドは同一である。つまりモナドの自然領野は私と他者に共通する一つのものである。私はモナドで宇宙を写す鏡だがその像のすべてが私に固有なのではない。
 モナドの自然領野は私と他者に共通し私というモナドを身体性・物理性を媒介に制約する。つまり私は他者との関係性の中で生きることを強制される。この世は他者との関係性の諸形式に満ちており、この形式に従わないと、すなわち私の人生を定形化しないと私は普通の人生にとどまれない。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

変転の中で変わらぬもの:①一時宿る永遠者と②遍在する永遠者

2008-01-06 10:03:06 | Weblog
 この世つまり生きることの変転の中で変わらぬものはこの変化の中に現れるものでなくてはならない。それには2つの可能性がある。一方で①この世のうちに一時的に現れる永遠にあこがれる。永遠がこの世に宿る。他方で②変転のなかに遍在する永遠者。前者は一時の一部分に姿をあらわす超越者。後者は変転し続ける流れに常に姿を現している超越者。変転の中で①一時宿る永遠者と②遍在する永遠者。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

全般的な欠如感

2008-01-06 09:47:42 | Weblog
 いつも何かが欠けている感じがする。それが自分をイライラさせる。自足感が失われている。変化が嫌いである。すべてが失われていくように思えるから。やってくるものも留まらずに消えて行く。終わることのない変転・遷移。この変化こそがこの世つまり生きることの特性だから逃れる方法はない。死は無であって定義も表現もできない。無にあこがれてはいない。いつも何かが欠けていて絶え間なく変転していて、でもその中で変わらぬものを見出せれば自足感が獲得できるだろう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする