宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

モーパッサン『椅子直しの女』(1882年):彼女とシューケの世界(心)が出会うことはなかった!物的世界(物体・身体)および言葉(音声・文字)のプラグマティックな必要最小限の解釈のみ対応可能!

2019-08-31 17:29:28 | Weblog
(1)
ある女性の「一生に一度の恋」の話である。村にやってくる椅子直しのばあさんが今年の春、亡くなった。私(医者)は臨終の場に呼ばれ遺言執行人となった。遺言の意味を明らかにするため、死の直前、彼女が身の上話をした。
(2)
父親と母親は、椅子直しが商売だった。彼女は幼い頃からぼろをまとい、シラミだらけで、家はなく馬車の放浪生活だった。両親は、村々を回り、村に着くと村の入り口に馬車をとめ、家々の古椅子を直して生計を立てていた。
(3)
少し大きくなって、彼女が壊れた椅子集めをするようになると、「乞食」と呼ばれさげすまれ、子供たちが石を投げた。しかし、おかみさんたちが小銭をくれることもあった。彼女はそれを大切に貯めた。
(4)
娘が11歳の時、薬屋のシューケの坊や(6歳位)が泣いているのに出くわした。少年は友達に2リヤール(銅貨2枚)(100円位)をとられ泣いていた。《お金持の坊やはいつも楽しくうきうき暮らしている》と思っていたので、椅子直しの娘はびっくりした。
(5)
彼女は少年のそばに行き、泣いている訳を知ると、彼に貯めておいたお金全部を与えた。7スー(4200円位)もの大金だった。(1スー=12リヤール。)少年は素直にお金を受け取り、泣くのをやめた。
(6)
彼女は、嫌がられることも、蔑(サゲス)まれることも、苛(イジ)められることもなかったので、すっかり嬉しくなった。大胆にも彼女は少年にキスをした。少年は、しげしげしとお金を眺めていたので、されるままになっていた。嫌がられたり、ぶたれたりしないとわかり、彼女はもう一度、少年にキスをした。両腕でしっかり抱きしめ、心を込めてキスをしたのだった。それから彼女はあわてて逃げて行った。
(7)
椅子直しの少女の哀れな心の中で起きたことは、人の心の謎の一つだ。彼女はシューケの坊やに恋をし、放浪生活の中、それから何か月もの間、この少年の事ばかり考えていた。少女は、少年にまた会えるかと思い、両親のお金を、あちらで1スー(600円位)、こちらで1スーという具合に少しずつ、くすねて貯めた。
(8)
翌年、またこの村にやってきた時、少女は2フラン(40スー、2万4000円位)も貯め込んでいた。けれども薬屋の少年(シューケ)の姿が、父親の店のガラス戸の向うに見えただけだった。少年(小学校1年、7歳位)はこざっぱりした格好をしていた。周囲の色付き水溶液のすばらしさと、きらきら光るガラス容器に、彼女はすっかり夢中になり、心動かされ、うっとりし、少年のことが一層好きになった。

《感想1》1フラン=20スー、1スー=12リヤールだから、1リヤール=50円とすると、1スー=600円、1フラン=1万2000円だ。椅子直しの娘が少年に初めてあげたお金が7スー=4200円だから、確かに子供には大金だ。

(9)
少女(13歳)は翌年、小学校の裏手で友達とビー玉遊びをしている少年(小学校2年、8歳位)に会った。少女は少年に飛びつき、両腕で抱きしめ、激しくキスした。少年はおびえて泣き出した。そこで相手をなだめるため、彼女はお金を与えた。3フラン20サンチーム(3.2フラン、38400円位)だ。なかなかの大金で、少年は目を丸くしてそれを眺めていた。少年は相手に好きなだけキスさせた。
(10)
さらに4年間、少女は貯めたお金の全てを少年に渡し続けた。少年はキスさせてやる代わりにお金を受けとった。少女はもう彼の事しか考えなくなった。彼の方でも少女がやって来るのを待ちわびるようになり、少女の姿が目に入ると駆け寄ってきた。それを見て少女は胸を躍らせた。(少女14-17歳、少年シューケ9-12歳)

《感想2》「乞食」(「椅子直し」)の少女の悲しい恋だ。彼女は幻想の恋に生きる。現実の出来事が、幻想的に解釈される。少年にとっては日常の現実にすぎないが、「乞食」の少女はその日常的な出来事(現実)を通して天上を幻想する。彼女には、そのように見えるのであり、彼女には幻想でなく現実だ。
《感想2-2》少女が少年シューケを好きになった理由は次の通り。①彼女(11歳)は、少年から、嫌がられることも蔑まれることも苛められることもなかったので、すっかり嬉しくなった。(Cf. 少年は彼女に関心がなく、しげしげしと大金を眺めていただけだ。)②嫌がられたり、ぶたれたりしないので、彼女は、少年を両腕でしっかり抱きしめ、心を込めてキスをすることができた。(Cf. 少年は、彼女でなく、お金にしか興味がない。)③彼女にとって少年はいわば天上の住人で、こざっぱりした格好をし、薬店の中のすばらしい色付き水溶液、またきらきら光るガラス容器が彼をとりまき、彼女を夢中にさせ、心動かしうっとりさせた。(Cf. 少年にとっては日常の現実にすぎないが、「乞食」の少女は天上を幻想する。)④少年の小学校時代6年間、彼女は年に1回、彼に会った。七夕の出会いようだ。少女は貯めたお金の全てを少年に渡し続けた。少年はキスさせてやる代わりに、お金を受けとった。少女はもう彼の事しか考えなくなった。彼の方でも少女がやって来るのを待ちわびるようになり、少女の姿が目に入ると駆け寄ってきた。それを見て少女は胸を躍らせた。(Cf. 少年はお金が欲しくて彼女に駆け寄り、キスをさせた。それを少女は、《天上の恋人の自分に対する愛だ》と幻想した。)

(11)
それから少年(13歳位、シューケ)は中学校の寄宿舎にはいり、少女(18歳)は彼に会えなくなった。そこで中学校の休暇で彼が村にもどるとき、そこを通るよう彼女は何とか両親に道順を変えさせた。3年後、彼(16歳位)に会ったとき、彼は背が高く立派になり、もう彼女(21歳)を相手にしなかった。「乞食」(椅子直し)の少女の姿など目に入らぬふりをして、すましたまま通り過ぎた。
(12)
この時から、彼女の終わりのない苦しみが始まった。毎年、少女はこの村に家具直しの両親とともに来たが、彼は会っても目さえ向けてくれなかった。少女は、狂おしいばかり彼を愛していた。
(13)
両親が世を去り、彼女が家具直しの仕事、馬車、馬、そして猛犬2匹を引き継いだ。
(14)
ある年、彼女(「椅子直しの女」)がこの町に来た時、自分の最愛の男(シューケ、25歳位)の腕にすがって、一人の若い女が薬店から出てきた。シューケが結婚したのだ。その日の午後、彼女(30歳位)は役場前の広場の池に身を投げた。幸い彼女は助けられ、薬屋に運ばれた。
(14)-2
シューケの息子が、相手が誰か知らないふりをして、彼女を手当てした。彼は「こんなバカなことはもうしないでくださいよ」と言った。彼女は、彼が話しかけてくれたので、それだけで彼女は元気になった。そして長いこと、彼女は幸福な気持ちでいられた。(なお彼女が治療代を払うと言ったが、彼は受けとらなかった。)
(15)
彼女の一生(25-60歳位)はそんなふうにして過ぎて行った。彼女はシューケ(息子)の事だけを考え椅子直しに励んだ。毎年、村にやって来ると、薬店のガラス戸の向うにいる彼の姿が見えた。そしてその店で、彼女はこまごました薬品類の買いだめをするのが習わしになった。こうすればすぐ近くで彼の顔を見、話しかけ、さらにお金を渡すこともできたからだ。
(16)
彼女(椅子直しのばあさん、60歳位)は今年の春、世を去った。私(医者)は臨終の場に呼ばれ、遺言執行人となった。遺言の意味を明らかにするため、彼女はこの悲しい物語を語り終え、「生涯かかって貯めたお金の全てを彼に渡してほしい」と言った。彼女はこの男(シューケ)のためにだけ働いてきた。貯めたお金の全てを彼に渡すことで、彼女が死んだあと少なくとも一度は自分のことを思い出してもらえるだろうと彼女は思った。彼女は私にその大金を託した。
(17)
私は彼女のお金2300フラン(1フラン=1万2000円として、2760万円)を持って、葬式が終わったあと、シューケの店(薬店)に出かけた。
(17)-2
シューケは、満ち足りて、もったいぶった様子をしていた。私は感動に声を振るわせながら彼女の話を始めた。ところがシューケは感動するどころか、「椅子直しの女、あの浮浪者も同然の宿無し」から愛されていたと知り、腹を立て、とび上がらんばかりの剣幕だった。彼は、自分の評判、世間の尊敬、名誉が傷つけられたと思ったのだ。
(17)-3
私は義務なので、彼女の貯金2300フラン(2760万円位)を取り出し、「私のした話がご不快のようなので、このお金は貧しい人たちに恵んでやるのが最良でしょうか?」「どうなさいますか?」と訊ねた。シューケは大金に驚き呆然とした。「あの女の遺言なら・・・・お断りしにくいですな」と彼は受け取った。私はお金をわたし、店を出た。

《感想3》「椅子直しの女」が生涯をかけてシューケを愛したのは、(ア)シューケ(6歳位)が最初に彼女(11歳)を、嫌がらず蔑(サゲス)まず、ぶったり苛(イジ)めたりもしなかった男だったからだ。しかも(イ)彼は天上のようにうっとりする世界の住人だった。彼は、こざっぱりした格好をし、薬店の中の彼を取り巻く色付き水溶液のすばらしさと、きらきら光るガラス容器が、彼女を夢中にさせた。
《感想3-2》だが彼女の世界(心)とシューケの世界(心)が出会うことはなかった。物的世界(物体・身体)および言葉(音声・文字)のプラグマティックな必要最小限の解釈以上に、彼と彼女それぞれの「心」(《感情・欲望・意図・夢・意味世界(思考)・その展開としての想像・虚構》)が出会うことはなかった。(Cf. 物的世界と物としての音声・文字は《感覚》において出現する。)
《感想4》シューケは村の名士であり、彼にとって「椅子直しの女」は「乞食」にすぎない。彼のこの見方は、この時代のフランスで、当然だった。だから彼は「浮浪者も同然の宿無し」から愛されていたとわかり、腹を立て、とび上がらんばかりの剣幕だった。自分の評判、世間の尊敬、名誉が傷つけられたと思ったのだ。
《感想4-2》「椅子直しの女」の「一生に一度の恋」の話は、空想的なおとぎ話だ。とりわけ彼女が「2300フラン(2760万円)を、自分を思い出してもらうためだけにシューケに渡す」という設定が、あまりに非現実的だ。(これだけの大金!彼女にとってもっと別の使い道があった。浮浪者的な生活から抜け出せたはずだ。)しかし「恋は盲目」なのかもしれない。

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モーパッサン(1850ー1893)『シモンのパパ』(1879):シモンは「新しいパパ」が好きだ!「新しいパパ」が「ママの亭主」になれば、「すっかりパパになる」!

2019-08-23 20:19:46 | Weblog
(1)
ある日の朝、ブランショットの息子シモンが、初めて学校へ来た。シモンには父親がいなかった。ブランショット(母親)は、結婚を約束した男との間にシモンを産んだが、男は二人を捨てた。村の母親たちは、いくぶん軽蔑の入り混じった同情をこめて、彼女を話題にした。シモンは表に出ることが滅多になく、村の子供たちは彼をよく知らなかった。
(2)
昼休み、何人かの生徒たちが、校門の外でシモンを待ち受けた。年長の14、5歳くらいの少年がわけ知り顔で言った。「知ってるかい・・・・シモンね・・・・あいつにはパパがいないんだぜ。」やがてシモンが現れた。彼は7、8歳位だった。シモンは気が弱く、不器用そうだった。子供たちが、ずるい意地悪気な目つきをして、シモンを取り囲んだ。
(3)
子供たちはシモンを問いただし、「パパのいない子供」だと明らかにした。さげすみの気持ちが子供たちの心に拡がった。彼らは「父(テテ)なし子、父なし子」とシモンをはやし立てた。シモンと子供たちの一人が殴り合いになった。二人は引き離されたが、シモンはしゃくりあげ、すすり泣き始めた。子供たちは残忍で嬉し気に、「父なし子、父なし子」とシモンの周りで輪を作って踊った。
(4)
シモンはついに泣き止み、足元の小石を拾い、いじめっ子たちに全力で投げつけた。2、3人に当たるとその子たちは大声を上げ逃げた。シモンの形相があまりにすごかったので、他の子供たちも怖ろしくなり逃げた。一人となったシモンは、川で溺れ死のうと決心した。
(5)
川のほとりまで来て、シモンは「ぼくにはパパがいないから溺れ死ぬのだ」と思った。とても暖かくいい陽気だった。彼はうっとりした気分になり、草の上で眠り込みそうだった。彼は自分の家や、母親のことを思い出し、無性に悲しくなり、また泣き出した。彼は、ただひたすら泣いた。
(6)
突然、重い手がシモンの肩にのせられ、太い声が「坊や、なんでそんなに泣いてるんだい」と訊ねた。背の高い職人風の男が、優しげに彼を見ていた。「みんながぼくをぶったんだよ・・・・ぼくには・・・・ぼくにはパパが・・・・いないから。」その言葉を聞くと、職人は真面目な顔つきになり、子供がブランショットの息子だと分かった。
(7)
職人はこの土地に来てまだ間がなかったが、ブランショットの話は聞いていた。「さあ坊や、元気をお出し、一緒にママのところへ帰ろう。パパなんて・・・・そのうちに見つかるさ」と職人が言った。ブランショットはこのあたりで一番の美人と言われていた。「一度過ちをおかした女なら、もう一度過ちをおかすこともあるだろう」と男は考えていたかもしれない。
(8)
シモンの家に着いた。「ここだよ」と子供は言って、大声で「ママ」と呼んだ。若い女が厳しい顔つきで戸口のところに現れた。ふざけた真似などできないと、男はすぐに分かった。シモンが言った。「ぼくは溺れて死んでしまおうと思ったんだ。ぼくにはパパがいないと言って・・・・みんながぼくをぶったから。」女は両頬を真っ赤に染め、ひどく傷つけられた気がして、シモンに激しく接吻した。涙があふれ、頬を伝って流れた。
(9)
シモンが不意に男の方に駆け寄り、「ぼくのパパになってくれない?」と言った。一瞬しんとなった。ブランショットはいたたまれないほど恥ずかしく、黙っていた。「パパになってくれないんなら、ぼくはまた川に戻って溺れちゃうよ。」男が「いいともパパになってあげるよ」と言った。男の名前を聞き、シモンは「じゃあ、フィリップはぼくのパパだね」と言った。
(10)
翌日、シモンが登校すると、意地の悪い嘲笑が待ち受けていた。シモンは「ぼくのパパはフィリップっていうんだ」と言い放った。子供たちが「どこで拾って来たんだい、そのフィリップっていうやつを」などと言った。フィリップは授業が終わり、また子供たちに取り巻かれたが「自分のパパはフィリップだ」という信念があったので逃げ出さなかった。先生が来て助け出してくれた。
(11)
三か月の間、職人のフィリップは、ちょくちょくブランショットの家のそばを通った。そして時には、ブランショットに話しかけることもあった。しかし彼女は、真面目な態度を崩さず、笑い顔も見せず、相手を家の中に招じ入れることもなかった。しかし、村人たちは噂を立て始めた。
(12)
シモンは、この新しいパパが大好きだった。一日が終わると、ほとんど毎夕、一緒に散歩した。シモンは毎日、学校に行った。ある日、子供の一人が言った。「君にフィリップなんていうパパはいないよ。パパなら、その人は君のママの亭主のはずだからな」。シモンが「でもぼくのパパだ」と言った。あざけるように相手が言った。「でもすっかりパパっていうわけじゃないだろうよ。」
(13)
ブランショットの子はうなだれ、物思いにふけり鍛冶屋に向かった。フィリップはその鍛冶屋の職人だった。シモンが言った。「『フィリップはすっかりぼくのパパになったわけじゃない』って、さっき言われたんだ。『おじさんはママの亭主じゃないから』だって。」5人の職人たちは、その話を聞いて誰も笑わなかった。
(14)
フィリップは、立てかけたハンマーの上に両手を組み、その甲に額を載せ考えにふけった。4人の職人仲間が様子を眺めていた。やがて一人の職人が、みんなの考えを代弁し言った。「ブランショットは、立派な女だよ、不幸な目にあったが、しっかり者で、真面目な女だ。ちゃんとした男の、立派な女房になれる女だと思うね。」「一人で子供を育てるについちゃあ、ずいぶん苦労したろうな。」
(15)
フィリップが、シモンに言った。「『今晩、話をしに行くから』とママに伝えておくれ。」仕事が終わりその晩、フィリップはブランショットの家を訪ねた。彼はひげを剃り、真新しいシャツの上に一張羅の上着を着こんでいた。女が言った。「人の噂になりたくないわたしの気持ちは、わかっていただけますわね」。フィリップが言った。「そんなこと、構わないじゃありませんか。私の女房になってくださればいいんだから。」
(16)
その翌日、学校で、シモンがすっくと立ちあがって言った。「ぼくのパパは鍛冶屋のフィリップ・レミーだ。ぼくを苛めるやつは、容赦しないってパパが言ったよ。」今度は誰も笑おうとしなかった。鍛冶屋のフィリップ・レミーは、みんな知っていたし、誰だって自慢したくなるようなパパだったからだ。

《感想1》小さな村で生きて行くのは大変だ。道徳的非難、噂と陰口のターゲットになったら怖ろしい。
《感想2》「子は親の鏡」だ。親の見方を、子供たちが引き継ぐ。彼らは残酷にターゲットを攻撃する。
《感想3》子供たちは楽しみを求める。「悪人」を苛めるのは見世物的な楽しみだ。大人も同じだ。「悪人」と定義すれば、どんな残酷な仕打ちもする。
《感想4》一度限りなら、弱者が強者に勝つこともある。「窮鼠(キュウソ)猫を噛む」!(追い詰められたネズミが猫を噛む。)しかし、いじめの日常は終わらない。弱者が反抗すれば、以後、さらにひどい報復がずっとなされる。
《感想5》シモンは「川で溺れ死のう」と思ったが、その日は、とても暖かくいい陽気で、彼の気分は、死の決意と異なる方向に進む。ただ彼はひたすら悲しかった。
《感想6》「シモンにパパがいない」、「ブランショットは過ちをおかした女」との道徳的非難、噂と陰口が村の共有された知識だ。「人の口に戸は立てられない」!
《感想7》男は、誰でも女を狙う。「鼻の下を伸ばす」程度なら平和だ。パワハラにもとづくセクハラがある。風俗産業が反映する。戦争では性的暴行が行われる。
《感想8》ブランショット(母親)に本来、責任はない。彼女は、結婚を約束した男との間にシモンを産んだが、男が二人を捨てた。責任は男にある。だが女が、「私生児を産んだふしだらな女」と道徳非難を受ける。
《感想9》男が「パパになってあげるよ」とシモンに言った理由は何か?①シモンの母親に未練があったので、母親に会う口実として、「パパ」になることを約束した。また②いじめられるシモンへの同情の気持ちがあった。
《感想10》反抗したターゲット(シモン)に対し、いじめる側の報復は執拗だ。だがシモンの自信は、大したものだ。「断じて行えば鬼神もこれを避く」。信念にもとづく自信があれば、鬼神(神々)でさえ手を出さない。
《感想11》職人のフィリップ(男)の行動は両価的だ。半分本気だが、半分浮気だ。ブランショット(女)の対応は当然だ。近寄ってくる男には下心・浮気心がある。本気の男などいない。まして村人たちの噂は怖ろしい。
《感想12》一般に再婚がうまくいく条件の一つは、相手の連れ子とうまくいくかどうかだ。シモンは「新しいパパ」が好きだ。そして「新しいパパ」が「ママの亭主」になれば、「すっかりパパになる」。
《感想13》フィリップとブランショットの関係は、すでに村の噂だ。鍛冶屋の職人たちはみな、事情を知っている。
《感想14》フィリップは、職人仲間の信頼を得ている。だから彼らは、フィリップの味方だ。そしてフィリップがブランショットを愛することも了解している。彼らは、ブランショットに同情的だ。
《感想15》フィリップは初婚の男。ブランショットは私生児を持つ女。二人の結婚は、特にフィリップにとって大変だ。結婚後も、ブランショットの「過ち」がずっとついて回る。小さな村だ。そのリスクをフィリップが「引き受ける」と決めた。彼は、シモンとブランショットを深く愛している。
《感想16》鍛冶屋のフィリップ・レミーは、仕事ができ屈強な働き者で、村でも一目置かれた鍛冶職人だ。ブランショットは、彼と結婚し、彼に守られ、「過ち」の噂の悪意・侮蔑から相当に解放される。

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不安の「対象」はまったく無規定である!世界はまったくの無意義という性格を帯びる!不安が臨んでいるのは世界そのものである!:ハイデガー『存在と時間』(1927)「第40節」(その1)

2019-08-23 11:55:29 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第6章 現存在の存在としての関心」「第40節 現存在の際立った開示態としての不安という根本的心境(情状性)」(その1)

(1)現存在は不安のなかで、おのれ自身の前へ連れだされる!
A 「われわれは・・・・存在者としての現存在自身についての存在的な『啓発』(Aufshluss)を得ようとしている。」(184頁)
A-2 「不安は際立った心境である」。「現存在は不安のなかで、おのれ自身の存在によっておのれ自身の前へ連れだされる」。(184頁)

(1)-2 「頽落」は「本来的な自己」から逃れる現存在の「逃亡」だ!「頽落的背離」!
B 「われわれは、現存在の構造全体の全体性の存在へ迫ろうとする。」(184頁)
B-2 「頽落の具体的な分析から出発する。」(184頁)
B-3 「世間(世人)(Man)と配慮される『世界』とに融けこんでいるありさま(※これが頽落だ!)は、本来的な自己としてあることの存在可能としての自己自身から逃れる現存在の逃亡(Flucht)」である。(184頁)
B-4 「現存在がおのれ自身とおのれの本来性とから逃亡する」。(184頁)
B-5 この「逃亡」、つまり「背離」(現存在からの「離脱」)、要するに「頽落的背離」においても、そのもの(※現存在)は「開示されてそこに(『現に』)ある」。(184-5頁)
B-6 「現存在が世間(世人)と配慮される『世界』へと頽落することを、われわれは現存在自身からの『逃亡』となづける」。(185頁)

《感想1》第38節でハイデガーが言う。「世間話と公開的な既成的解意とにおいて、世間(Man)のなかでわれを忘れて根なしの状態に頽落する可能性を現存在に提供するものは現存在自身だ」。つまり現存在(世界内存在)は、「おのずからにして誘惑的だ」。(177頁)(Cf.「公開性」とは自明として受け取られることである。第27節参照。)

(2)「怖ろしい」とは「内世界的存在者」にたじろぐことだ!「不安」とは「現存在自身」にたじろぐことだ!(そして「不安」が「怖れ」を生む!)
C 「逃亡」は怖れにもとづく。この場合、「怖ろしい」のは特定の「内世界的存在者」(「怖ろしいもの」)だ。(185頁)
C-2 これに対して「頽落の背離」が、「それに臨んでたじろぐもの」は「現存在自身」だ。(185頁)
C-3 「内世界的存在者」にたじろぐことは「怖ろしい」と呼ばれる。(185頁)これに対し「現存在自身」にたじろぐことが「不安」と呼ばれる。「この不安が怖れをもはじめて可能にする。」(186頁)

(2)-2 不安の「対象」はまったく無規定である!世界はまったくの無意義という性格を帯びる!
D 「現存在がおのれ自身から頽落的に逃亡する」(186頁)
D-2 「不安がそれに臨んで不安を覚えるところのものは、世界内存在そのものである。」(186頁)
D-3 「不安の『対象』はまったく無規定である。」(186頁)
D-4  「不安」は。特定の「内世界的存在者」に対する「特定の有害性」に対する「怖れ」と異なる。(186頁)
D-5 この時、「内世界的に発見された趣向(適所)全体性は・・・・崩壊する。世界はまったくの無意義という性格を帯びる。」(186頁)
D-6 かくて「あぶないものがどこそこから近づいてくるというような、特定の《ここ》や《あそこ》は、不安の眼にははいらない。おびやかすものが《どこにもない》。」(186頁)

(2)-3 不安が臨んでいるものは世界そのものである!
E 「不安が臨んでいるところのもののうちに、『それは無であり、どこにもない』ということがあらわになる。」(186頁)
E-2 「内世界的にみれば無であり無処であるものが、不安のなかで・・・・居坐っていることは、・・・・《不安が臨んでいるものは世界そのものである》ことを告げる」。(186-7頁)
E-3 「無と無処」において打ち明けられている「無意義」さ!(187頁)
E-4 「用具性の見地からみて無であるものは、もっとも根源的な『あるもの』(Etwas)、すなわち世界にもとづいている」。(187頁)
E-5  「不安が臨むところが、無として、すなわち世界そのものとして明らかになる」ことは、「不安がそれに臨んで不安を覚えているものは、世界内存在そのものである」ことを意味する。(187頁)
E-6 「不安こそ、心境の様態として、はじめて世界としての世界を開示するものなのである。」(187頁)

《感想2》「既成的解意」とは、社会的に所与の類型のもとへの包摂、つまり類型化のことだ。しかしすべての意味(ノエマ)は、《類型(イデア)のもとへ、体験、経験、意識における所与を、包摂する》その類型(イデア)のことだ。類型にとらえられない自己自身の本来性(体験そのもの、経験そのもの、意識における所与そのもの)は、そもそも把握(意味、類型化)されない。現存在の本来性は、既成的解意or類型or言葉の外にある。それは、とらえがたいもの、とらえたときは逃げてしまうものだ。現存在の本来性は、語ることができない。
《感想2-2》現存在の本来性を、語ることができるとすれば、「既成的解意」をもたらす類型と異なる、類型or言葉を探し、とらえがたいもの、とらえたときは逃げてしまう現存在の本来性(体験そのもの、経験そのもの、意識における所与そのもの)に接近することだ。ハイデガーは、その作業を行っている。

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「存在問題」へ視線を向け「実在性(Realitat)の概念」を一層鮮明に規定する!:ハイデガー『存在と時間』(1927)「第39節 現存在の構造全体の根源的全体性への問い」(その2)

2019-08-19 20:27:17 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第6章 現存在の存在としての関心」「第39節 現存在の構造全体の根源的全体性への問い」(その2)

(5)「存在問題」へ視線を向け「実在性(Realitat)の概念」を一層鮮明に規定する!(「第43節 現存在、世界性および実在性」)
G 「実存論的=先験的人間学という特殊問題の範囲(※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」!)を越えて、あらためて存在問題の方へ視線を向ける。」(183頁)
G-2 「現存在でない性格を持つ内世界的存在者を規定している存在様式」すなわち「用具性と客体性」について立ち入ってとらえる。(183頁)
G-3 「従来、存在論的問題設定は、存在ということを・・・・客体性(「実在性」、「世界」=現実性)という意味で了解してきた」。「他方、現存在の存在の方は、存在論的に規定されずにいた。」(183頁)
G-4 かくて、①ここで「関心、世界性、用具性ならびに客体性(実在性)の間の存在論的連関」について論究する。(183頁)
G-5 この論究によって、さらに、「実在性の理念」をめぐって行われている「実在論と観念論の認識論的問題設定」を検討しながら、「実在性(Realitat)の概念」を一層鮮明に規定する。(183頁)

《感想5》ハイデガーは「現存在でない性格を持つ内世界的存在者」と言う。現存在はモナドだから、一切の内世界的存在者はモナド内の意味(ノエマ)である。客体性(実在性)はノエマの存在性格(存在定立と中和性変様)の一つ(存在定立)である。

(6)現存在において、存在がまったく了解されずにいることは、決してない!(「第44節 現存在、開示態および真理性」)
H 「存在者は、《それを開示し、発見し、規定する経験や知識や把握》からは独立に存在している。」(183頁)
H-2 「けれども存在(※無でなく有であること)は、存在了解(※ノエシスとノエマの分裂的統一としての意識)というようなものをおのれの存在(※有)にそなえている存在者(※モナド、現存在)の了解のなかにのみ『ある』のである。」(183頁)
H-3 「したがって、存在は理論的に把握されずにいることはあるが、まったく了解されずにいることは、決してない。」(183頁)

《感想6》モナド内の意味(ノエマ)は、ヒュレー(質料)から構成されたノエマだ。ヒュレー(質料)もモナド内にある。いわゆる《外的世界》と呼ばれる物体(物的世界)についてもそのヒュレーはモナド内にある。モナドのうちに、物体そのもの(物的世界そのもの、《外的世界》)が出現する。

(6)-2 存在と真理の問題!(「第44節(続)」)
I 「存在論的問題圏内では、昔から存在と真理(Sein und Wahrheit)が、同一視されないまでも、いつも取り合わせて考えられてきた。」(183頁)
I-2 「このことのうちに、存在と了解との必然的な連関が・・・・証跡をのこしている。」(183頁)

《感想6-2》日常生活でも、事実(存在)こそが、本当のこと(真理)だと言われる。事実でない想像・虚構(作り話)は、本当のことでない(虚偽)と言われる。

(6)-3 真理の現象を存在論的に解明する必要がある!(「第44節(続々)」)
J 「存在問題にゆきとどいた準備をするためには、真理の現象を存在論的に解明する必要がある。」(183頁)
J-2 この解明は、「開示態と発見態、解意と言明」と言う諸現象の解釈によって得た成果を地盤にして、行われる。(183頁)

《感想6-3》ハイデガーは「開示態」について、次のように述べている。
・「この存在者(※現存在)は、そのもっとも固有な存在において、閉ざされていない。」「《そこ》(『現』、Da)という表現は、この本質的な開示態を指そうとするものである。」「この開示性によって、この存在者(現存在)は、世界の現存とともに、おのれ自身にむかって《そこ》に存在している。(※かくて了解が可能となる!)」(132頁)
・「現存在はおのれの開示態(Erschlossenheit)を存在する。」比喩的に言えば「人間(※現存在)は内に『照明』を含んでいる」「人間(※現存在)は・・・・・・みずからその明るみ(Lichtung)を存在する。」(133頁)
・上記(132-133頁)についての私見:無でなく有である(存在者が存在する)こと(※恐るべき謎だ!)を、「閉ざされていない」こと、「開示態を存在する」こと、「明るみを存在する」ことと、ハイデガーは表現する。「了解」以前に、何ものかが「開示」されているという出来事こそが有(存在者の存在)なのだ。
・視(Sicht)は、「現存在の明るみ(Lichtung)」とよぶべき内存在の開示態(※自己意識)のなかで初めて可能になる。(170頁)
・ 「①世間話(空談)(das Gerede)、②好奇心(die Neugier)、③曖昧さ(die Zweideutigkeit)は、現存在(※自分のこと!)が日常的におのれの『現』を――世界内存在の開示態を――存在しているありさまの性格である。」(38節175頁)
・「現存在の開示態の存在は、心境(情状性)、了解(※意識性)および話において構成される。」(180頁)Cf.「話(Rede)は、心境(Befindlichkeit)および了解(Verstehen)と、実存論的には同根源的である。」(161頁)

《感想6-3-2》ハイデガーは「発見態」について、次のように述べている。
・「現存在は世界内存在であるから、いつでもすでにひとつの『世界』を発見している。」この発見は「存在者をある趣向(適所)全体性へ向けて明け渡す」こととして性格づけられる。(110頁)
・「存在論的には、世界の第一義的な発見を、原理的に『たんなる気分(※心境=情状性)』にゆだねなくてはならない」。(138頁)
・「言明的な挙示は、《了解のなかですでに開示され、あるいは配視的に発見されていたものごと》をもとにしておこなわれる。」(156頁)
・「客体的なものごとの発見は用具的現前性を蔽いかくす。」(158頁)

(7)「第1編 現存在の準備的な基礎分析」の結び!すなわち「第6章 現存在の存在としての関心」(第39-44節)!
K こうして今、第39節で述べたように「第1編 現存在の準備的な基礎分析」の結びは、次のことを主題にする。
一、「第40節 現存在の際立った開示態としての不安という根本的心境(情状性)」
二、「第41節 関心(気遣い)としての現存在の存在」
三、「第42節 《関心としての現存在》の実存論的解釈を、現存在の《前存在論的な自己解意》によって検証する」
四、「第43節 現存在、世界性および実在性」
五、「第44節 現存在、開示態および真理性」

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現存在は、おのれを「関心(気遣い)(Sorge)」としてあらわにする!:ハイデガー『存在と時間』(1927)「第39節 現存在の構造全体の根源的全体性への問い」(その1)

2019-08-17 20:36:32 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第6章 現存在の存在としての関心」「第39節 現存在の構造全体の根源的全体性への問い」(その1)

(1)現存在の日常性の構造全体を、はたしてその全体性においてとらえることができるであろうか?
A これまでの「現存在の準備的基礎分析」をもとに、これらの「構造全体の全体性」がどのように規定さるべきかを、問う。(180-1頁)
B 「世界内存在は、ほかの人びととの共同存在と、用具的なもののもとでの従事的存在とを同根源的にそなえながら、そのつどおのれ自身を主旨(Worum-willen)として存在している。」(181頁)
B-2 「現存在の平均的日常性は・・・・頽落しつつ開示(※意識)され、被投的に(※現存在がおのれの現のなかへ投げられて)投企する世界内存在であって、『世界』のもとでの(従事的)存在とほかの人びととの共同存在とにおいて、ひとごとでない自己の存在可能そのものに関わらせられている。」(181頁)
C 「このような現存在の日常性の構造全体を、はたしてその全体性においてとらえることができるであろうか。」

《感想1》ハイデガーは18節で言う。「趣向(適所)全体性(※目的連関の全体)そのものは、突き詰めていくと、もはやいかなる趣向(適所性)をもたない《・・・・・・のため》(※究極の理由動機)へ帰着する。」この「第一義的な《・・・・・・のため》」は「なんらかの趣向(適所性)をそなえている用途(※目的)」ではない。それは《・・・・・・を主旨とする》というその主旨(※理由)である。」そしてこの「主旨」(※究極の理由動機)は、「現存在の存在(Cf. 用具的存在者or内世界的存在者)についてのみ言われうる。」

(2)「不安(Angust)」という「心境(情状性)」を現存在の日常性の構造全体を、その全体性においてとらえるにあたって基礎とする!(「第40節 現存在の際立った開示態としての不安という根本的心境(情状性)」)
D 「存在の構造全体性がその基本的な姿で明るみに出て来る」ような「心境(情状性)」として、われわれの分析は「不安(Angust)の現象を基礎にする。」(182頁)とハイデガーは言う。
D-2 「不安は・・・・現存在の根源的な存在全体性を開示的にとらえるための現象的地盤を与える。」(182頁)

《感想2》A.Shutzは、ハイデガーにならって、究極の理由動機を、基礎的不安(fundamental anxiety)と呼ぶ。

(3)現存在は、おのれを「関心(気遣い)(Sorge)」としてあらわにする!(「第41節 関心(気遣い)としての現存在の存在」)
E 「こうして現存在は、おのれを関心(気遣い)(Sorge)としてあらわにする。」(182頁)
E-2  「関心」と同一視されやすい諸現象、「意志(Wille)、願望(Wunsch)、傾情(性癖)(Hang)、衝迫(衝動)(Drang)」と対照し、「関心」を画限する。(182頁)
E-3 これら諸現象は、「関心」のうちに基づけられている。(182頁)

《感想3》「第1部」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」の最後の章が、「第6章 現存在の存在としての気遣い(関心、die Sorge)」(第39-44節)である。

《感想3-2》すでに第12節で評者の私見として、次のように述べた。《意識》は、ノエマ(意味)を構成しつつあるノエシス(両者は不可分)だ。ノエシスは《関心》と《注視》からなる。ハイデガーは、《関心》を、「配慮」(Besorgen)・「待遇」(顧慮)(Fürsorge)、さらに一般的に「関心」(Sorge)として分析する。

《感想3-3》また第16節で、評者の私見として、次のように述べた。「了解」とは、日常用語における《意識》に相当する。《意識》とは、モナド(超越論的主観性)において、常にノエシスとノエマの分裂が起きつつ、同時にノエシスはノエマを構成するということだ。(なおノエシスは、《関心》と《注視》からなる。)

《感想3-4》第12節で、ハイデガーは次のように述べる。「現存在(Dasein)とは、みずから存在しつつこの存在にむかって了解的に態度をとっている存在者(Seiendes)である。」これが「実存」の「形式的な概念」だ。つまり現存在のあり方が「実存」(Existenz)とよばれる。

《感想3-5》これに関して、評者の私見として、次のように述べた。(ア)「了解的」に態度をとる存在者とは、《意識》のことだ。「現存在」は《意識》だ。(イ)《意識》は、ノエマを構成しつつあるノエシス(ただし両者は不可分)だ。(イ)-2 ノエシスは《関心》と《注視》からなる。ハイデガーは《関心》を、「配慮」(Besorgen)・「待遇」・「関心」(Sorge)として分析する。(ウ)A.シュッツは《関心》を、理由動機と目的動機に区分し、前者が後者を生み出すとした。より根源的な理由動機が、死への根本的不安(fundamental anxiety)だ。

(4)「現存在を《関心》と解する存在論的解釈」について、「前存在論的な検証」が必要だ!(「第42節 《関心としての現存在》の実存論的解釈を、現存在の《前存在論的な自己解意》によって検証する」)
F 「現存在を《関心》と解する存在論的解釈」について、「前存在論的な検証」が必要だ。(183頁)
F-2 「現存在はすでに早くから、自己自身について発言するやいなや、自己を――ただ前存在論的にではあるが――《関心》(cura)として解意していた」ということを指摘する。(183頁)

《感想4》「関心」とは「心境(情状性)」の一種,つまり「気分」の一種だ。この「関心」という気分が(行為の)理由動機となり、「意図」「目的」といった(行為の)目的動機が定立される。
《感想4-2》ハイデガーは第29節で言う。存在論的に「心境(情状性)(Befindlichkeit)」と呼ぶものは、存在的には、「気分(Stimmung)、気持ち(Gestimmtsein)」のことだ。「現存在に、いつもすでに気分がある」。「現存在がそこで現としてのおのれの存在に直面させられる」ところの「気分の根源的な開示力」!(これにくらべれば、「認識にそなわる開示力」の射程ははるかに及ばない。(134頁)
《感想4-2-2》私見を述べれば、いわゆる《意識》とは、《ノエシスとノエマの分裂的な統一》だ。その最も基礎的な様式は、一方で、ただ漠然とした《ある》というノエマが構成され、他方で「気分」=「心境」と呼ぶノエシスが(そのノエマを構成しつつ)受動的に(能動的にでなく)注視し、かつ両者は分裂的な統一の内にあるという出来事だ。
《感想4-2-3》ハイデガーは、《ノエシスとノエマの分裂的な統一》のこの最も基礎的な様式について、「気持ち(※気分、心境)のなかで現存在(※そこにあることorそこ、Da)はいつもすでに気分(※気持ち、心境)的に開示されている」(第29節134頁)と表現する。

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モーパッサン(1850ー1893)『帰郷』(1884):漁師たちの小規模な村(漁村)であり、レヴェックとマルタンの対応は、相互に気遣いにあふれている!

2019-08-14 19:49:37 | Weblog
(1)
海沿いにマルタン=レヴェックの家があった。亭主レヴェックは漁師だ。女房の名前はマルタンで、二人を呼ぶときはマルタン=レヴェックと言い慣わされていた。女房は最初、マルタンという名の漁師と結婚した。しかしマルタンは、結婚2年半後、タラ漁に出て行方不明になった。船に同乗した者は誰も帰らなかった。船は乗組員ともども沈没したと見なされた。
(2)
マルタンの女房は二人の女の子を育てながら亭主マルタンを10年待った。彼女は働き者で心の優しい女だったから、漁師のレヴェックが結婚を申し込んだ。レヴェックもやもめで男の子が一人あった。彼女は結婚し、3年間に、レヴェックの子を二人もうけた。
(3)
ある日、貧しげな浮浪者のような男がマルタン=レヴェックの家の近くに現れた。男は、家の方をしげしげとみている。それが何日も続き、かみさんは怖くなった。亭主のレヴェックは漁に出て、今いない。かみさんは腹が立ってきて、スコップを持ち「あんたそこで何をしているのかね」と浮浪者に近づき叫んだ。男は「誰にも迷惑をかけてない、道路に座ってちゃいかないのかね」と言った。かみさんは引き下がった。
(4)
夜になって亭主のレヴェックが帰って来た。夜が明けると、翌日、またあの男が現れた。レヴェックが男の所に話に言った。やがて見知らぬ男は、レヴェックと連れ立って家にやって来た。レヴェックが尋ねた。「あんたの名前はなんていうのかね?」「マルタンというのだ」と男が答えた。
(5)
女房の目と男の目が合った。どちらの目も相手を見つめた。女房が不意に「あんたなの?」と尋ねた。「うん、おれだ」と男が答えた。レヴェックはびっくりして、口ごもるように言った。「するとあんたがマルタンなのか?」男が「うん、そうだ」と答えた。
(6)
マルタンが言った。「船が難破し、3人だけ助かったが、蛮人に捕まり12年間放してもらえなかった。その間に、他の二人は死んだ。イギリス人の旅行者が助けてくれて、セート(地中海に面する港)まで連れてきてくれた。そこから何とか歩いてきた。」
(7)
二人の男は、たがいの顔を見、じっと押し黙った。だがやがて、マルタンが「二人の娘を引き取る」と言った。レヴェックが三人の子を引き取る。またマルタンが言った。「家は、おれのものだ。公証人のところに証書がある。」最大の問題はかみさんだ。「母親はあんたのものか、それともおれのものか?あんたの気持ちに従うよ」とマルタンがレヴェックに言った。
(8)
「司祭様のところへ行こう。司祭様が決めてくださる」とレヴェックが答えた。マルタンのかみさんは、ずっと泣き続けていた。「あんた、帰って来たんだね。マルタン、可哀そうなマルタン、帰って来たんだね。」そう言って女房は、マルタンを両腕で抱きしめた。
(9)
二人の男は一緒に表に出た。居酒屋の前を通ったとき、レヴェックが言った。「ちょっと一杯やって行こうか。」「いいとも」とマルタンが言った。居酒屋でレヴェックが大声で主人に言った。「マルタンが帰って来たんだ。うちの女房のだよ。行方不明になったマルタンだよ。」居酒屋の主人が、一番上等のブランデーと、グラスを三つ持ってきた。

《感想1》架空の話のようだが漁師の場合、十分ありうる。また戦争で夫が様々の事情で、長期間、復員しない場合にも同様のことがありうる。
《感想2》漁師たちの小規模な村(漁村)なので、互いが顔見知り、あるいは各人の噂を耳にする。互いの気持ちを慮(オモンバカ)りながら生活する村だ。レヴェックとマルタンの対応は、相互に気遣いにあふれている。

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頽落の存在様相である誘惑、鎮静、疎外、惑溺は「非本来的な日常性の無根性と虚無性のなかへ」現存在が「転落」することだ!:ハイデガー『存在と時間』(1927)「【B】」「第38節」(その3)

2019-08-14 12:53:56 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第5章 内存在そのもの」「【B】現の日常的存在と現存在の頽落」「第38節 頽落と被投性」(das Verfallen und die Geworfenheit)(その3)

(7)頽落の存在様相である誘惑、鎮静、疎外、惑溺という動向が「転落」だ!「渦流」としての頽落!
L 頽落の特有の存在様相である誘惑(Versuchung)、鎮静(Beruhigung)、疎外(Endfremdung)、惑溺(Sichferfangen)という「動向」をわれわれは「転落」(Absturz)となづける!(178頁)
L-2 「非本来的な日常性の無根性と虚無性のなかへ」現存在は「転落」する。(178頁)
L-3 だがこの「転落」は「公開的な既成的解意によって隠され」、かえって「『向上』と『具体的生活』として解意される」。(178頁)
L-4 「この転落は、世間(Man)における非本来的(uneigentlich)存在の無根性(Bodenlosigkeit)のなかへ、そしてそのなかで起こる。」(178頁)
M 「①たえまなく本来性から引き離しながら、しかも②その本来性のみかけを作ること、そしてそれと同時に③世間(das Man)へ引きずりこむこと」。これが「頽落」の動向を「渦流」(Wirbel)として性格づける。(179頁)

《感想7》「頽落」は悪い意味でないとハイデガーは繰り返し言う。しかし「頽落」は「本来性から引き離す」ことだから、「本来性」が良いことなら、「頽落」は悪いことだ。
《感想7-2》第31節でハイデガーは言う。「了解(※意識)が主として世界の開示態に身を置き、すなわち現存在(※モナド)がさしあたってたいてい自分の《世界》の方から自己を了解するという可能性がある。」これは「非本来的な了解」である。「了解(※意識)が主としておのれの存在の主旨(目的)(Worum-willen)に身を投じ、すなわち現存在(※モナド)が自己自身として実存するという可能性がある。」これが「本来的な了解」である。(146頁)
《感想7-3》ハイデガーは「被投性」について次のように述べる。「気分のなかで現の存在がその根源的事実において開示されている」という「現存在の存在性格」、つまり「《とにかくある》という事実を、われわれはこの存在者(※現存在)の、その現のなかへの被投性(Geworfenheit)となづける」。(29節135頁)

(8) 「頽落」は「現存在そのものの本質的な存在論的構造」である!
N 「本来的実存は、頽落する日常性の頭上に浮かぶものでなく、・・・・この日常性の変様的掌握にほかならない。」(179頁)
O「内存在(※自己意識)の存在様相としての頽落」は「現存在そのものの本質的な存在論的構造をあらわにする」(179頁)
O-2 「この存在論的構造が・・・・現存在の毎日毎日を、その日常性において構成している。」(179頁)

《感想8》ハイデガーは第36節で次のように言う。視(Sicht)は、「現存在の明るみ(Lichtung)」とよぶべき内存在の開示態(※自己意識)のなかで初めて可能になる。(170頁)

(9)現存在の開示態の存在論的構成:心境(情状性)、了解(※意識性)および話!
P 「第5章 内存在そのもの」(第28-38節)の主題的な問いは「現の存在」へ向けられていた。「主題となったのは、現存在に本質的にそなわっている開示態の存在論的構成である。」(180頁)
P-2 「その開示態の存在は、心境(情状性)、了解(※意識性)および話において構成される。」(180頁)※「話(Rede)は、心境(Befindlichkeit)および了解(Verstehen)と、実存論的には同根源的である。」(34節161頁)

(9)- 2 現存在の開示態の日常的な存在様相:世間話、好奇心、および曖昧さ、これらが頽落をもたらす!
P-3 「開示態の日常的な存在様相は、世間話、好奇心、および曖昧さによって性格づけられる。」(180頁)※ 「①世間話(空談)(das Gerede)、②好奇心(die Neugier)、③曖昧さ(die Zweideutigkeit)は、現存在(※自分のこと!)が日常的におのれの『現』を――世界内存在の開示態を――存在しているありさまの性格である。」(38節175頁)
P-4 「これら自身は、誘惑、鎮静、疎外および惑溺という本質的な諸性格をもつ頽落の動向を示している。」(180頁)※頽落の存在様相である誘惑、鎮静、疎外、惑溺という動向が「転落」だ。(38節178頁)

《感想9》「誘惑」について:「世間話と公開的な既成的解意とにおいて、世間(Man)のなかでわれを忘れて根なしの状態に頽落する可能性を現存在に提供するものは現存在自身だ」。つまり現存在(世界内存在)は、「おのずからにして誘惑的だ」。(38節177頁)
《感想9-2》「鎮静」について:「世間話」と「曖昧さ」、「なにもかもすでに見てわかっているという態度」、つまり「世間(das Man)の自信と断定性」のために、「本来的な心境的了解」を欲しなくなる。「充実した真価のある『生』を供給し指導しているという世間の臆断(die Vermeindlichkeit des Man)が、現存在に一種の《鎮静》をもたらす。」(38節177頁)
《感想9-3》「疎外」について:「疎外は現存在に、自己の本来性と可能性とを・・・・《閉鎖する》」。そして「現存在をそれの非本来性に追い込む」。(38節178頁)
《感想9-4》「惑溺」について:「疎外は、現存在を、過度の『自己分析』に腐心する存在様相へ駆り立てる。」「疎外は現存在に、自己の本来性と可能性とを・・・・《閉鎖する》」。そして「現存在をそれの非本来性に追い込む」。
かくて「頽落の誘惑的=鎮静的な疎外は・・・・現存在がおのれ自身へ《惑溺する》(verfängen)道へ通ずる」。(38節178頁)(※つまり「過度の『自己分析』」!)

(10)現存在の存在は「関心」(気遣い)(Sorge)である!(※「第6章 現存在の存在としての関心」)
Q 「さて、この分析によって、現存在の実存論的構成の全体がその要綱において露呈され、こうして現存在の存在を関心として『総括的に』解釈するための現象的地盤が得られた。」(180頁)(※「第6章 現存在の存在としての関心」)

《感想10》「第8節 論考の綱要」(第1部・第2部からなる)でハイデガーは次のように述べる。(39-40頁)
◎第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する
第1編 現存在の準備的な基礎分析
第2編 現存在と時間性
第3編 時間と存在
◎第2部 存在時性(時節性、Temporalität)の問題組織を手引きとして存在論の歴史を現象学的に解体することの綱要を示す
第1編 『カント』の図式論および時間論――存在時性(時節性)の問題設定の前段階として
第2編 『デカルト』の《cogito sum》の存在論的基礎と、res cogitansの問題圏への中世的存在論の継承
第3編 古代的存在論の現象的基盤とその限界の判別尺度としての『アリストテレス』の時間論
※ハイデガー『存在と時間』(1927)は、序論(第1-8節)および第1部の第1編(第9-44節)第2編(第45-83節)にあたる。

《感想10-2》ハイデガーは「第1部」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」第1-6章について次のように述べる。(41頁)  
「第1章 現存在の準備的分析の課題の提示」:「存在の意味」への問いは、第一義的に「現存在という性格を持つ存在者」に問いかけられねばならない。「現存在の準備的実存論的分析論」が素描される、また類似の考究から区別される。
「第2章 現存在の根本的構成としての世界内存在(das In-de-Welt-sein)一般」:「現存在」について、「世界内存在」という基礎構造を、あらわにする。
「第3章 世界の世界性」:現存在の基礎構造である「世界内存在」の契機①「世界性」を、分析する。
「第4章 共同存在と自己存在(Mit- und Selbstein)としての世界内存在、「世人」(「世間」、Das “Man”)」:現存在の基礎構造である「世界内存在」の契機②共同存在と自己存在(Mit- und Selbstein)を、分析する。
「第5章 内存在(Das In-Sein)そのもの」:現存在の基礎構造である「世界内存在」の契機③「内存在」(das In-Sein)をそのものとして、とりたてて分析する。
「第6章 現存在の存在としての気遣い(関心、die Sorge)」:現存在の基礎構造である「世界内存在」の以上の分析を経て、現存在の存在を告示するための地盤が得られる。「現存在の存在の実存論的意味」はすなわち「気遣い(関心) Sorge)」である。

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モーパッサン(1850ー1893)『水の上』(1876):川の不気味な夢幻的な謎!川は陰気な暗闇の墓地だ!

2019-08-13 20:20:10 | Weblog
※高山鉄男編訳『モーパッサン短編選』岩波文庫

(1)
昨年の夏、私はパリから7、8キロ離れた別荘で過ごした。別荘はセーヌ川のほとりにあった。そこでボート好きの男と知り合いになった。私は「川にまつわるおもしろい話はないか?」と尋ねた。彼は次のような話をした。
(2)
川は謎めいた幻と夢の国だ。そして夜になればまるで陰気な墓地だ。川は黙りこくり深い暗闇だ。海よりずっと不気味だ。
(3)
ある晩、ぼくは友人の家から、舟を一人漕いで自分の家に向かっていた。月は輝き、川はきらめき、穏やかですばらしい晩だった。ぼくは「パイプを一服ふかしたら、さぞうまかろう」と思い、さっそく錨を川に投げ入れ舟を止めた。
(4)
物音ひとつしない静けさで、カエルも鳴かない。一服したあと、舟の底に仰向けになり夜空を眺めた。しばらくすると突然、舟が揺れだし、目に見えない力が、舟を持ち上げ、そして水中に引きずり込もうとしていた。
(5)
ぼくは不安になり、急いで起きあがった。そこから離れるため、錨を上げようとしたが重くて上がらない。漁師の舟が来たら助けてもらおうと、ともかくそこで待った。だが通りかかる舟はなかった。
(6)
ぼくは舟の上で一夜を明かす覚悟をした。すると突然、舟底に何かが当たった。ぼくはびくっとした。錨はびくともしない。やがて川は一面の白い霧に覆われた。なにも見えず、ぼくは幻覚におそわれた。舟に誰かが乗り込もうとする。川には奇妙な生き物がうようよしている。
(7)
ぼくは気分が悪くなり、おびえた。恐怖心を抑えるためラム酒を飲んだ。全力をふりしぼって叫んだが、無駄だった。ラム酒を飲み続け、ついにボートの底に大の字に横たわった。ぼくは眠ることも身動きすることもできなかった。
(8)
ところが2時間もたつと、霧が晴れ、今度はおとぎの国の夢幻的光景が現れた。雪のように崇高な輝きをはなつ土手。満月の下の真っ白な山脈。金糸銀糸に織りなされ火のように燃える川。だがガマガエルが狂ったように鳴く。やがてぼくは疲れ眠ってしまった。
(9)
明け方、寒さのため、ぼくは目を覚ました。漁師が現れ手伝ってくれ、二人で錨を引き上げようとしたが駄目だった。舟がもう一艘見えたので、大声で呼ぶと、その男も手を貸してくれた。錨がゆっくり上がってきた。黒い塊が錨に引っかかっていた。舟のうえにあげると、それは老婆の死骸だった。首には大きな石がくくりつけられていた。

《感想1》「川は謎めいた幻と夢の国だ。そして夜になればまるで陰気な墓地だ。川は黙りこくり深い暗闇だ。海よりずっと不気味だ。」川の不気味な夢幻的な謎の物語が語られる。川は陰気な暗闇の墓地だ。
《感想2》ある晩、月は輝き、川はきらめき、穏やかですばらしかった。川は決して陰気な暗闇でなかった。
《感想3》ところが川が表情を変え、異変が起こる。①物音ひとつしない静けさで、カエルも鳴かない。②突然、舟が揺れだし、目に見えない力が、舟を水中に引きずり込もうとする。③そこから離れようとしたが、錨が重くて上がらない。④舟底に何かが当たった。⑤川は一面の白い霧に覆われ、なにも見えない。⑥ぼくは幻覚におそわれた。舟に誰かが乗り込もうとする。川には奇妙な生き物がうようよしている。⑦ところが今度は、霧が晴れおとぎの国の夢幻的光景が現れた。⑧だがガマガエルが狂ったように鳴く。
《感想4》こうした不気味な夢幻的異変を引き起こしたのは、「老婆の死骸」だった。「その首には大きな石がくくりつけられていた」。老婆は殺されたか、あるいは首に石を自らくくりつけ入水した。川は陰気な暗闇の墓地だ。

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頽落する世界内存在は、誘惑的=鎮静的であるとともに、疎外的である!:ハイデガー『存在と時間』(1927)「【B】」「第38節 頽落と被投性」(その2)

2019-08-12 22:09:06 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第5章 内存在そのもの」「【B】現の日常的存在と現存在の頽落」「第38節 頽落と被投性」(das Verfallen und die Geworfenheit)(その2)

(6)頽落する世界内存在は、誘惑的=鎮静的であるとともに、疎外的である!
J 「鎮静は非本来的なもの(気休め)である」にもかかわらず、その「誘惑的な鎮静は、頽落をいやがうえにも亢進させる。」(177-178頁)
J-2 「現存在(※人間)解釈」について言うと、例えば「未知な文化圏の理解」、「これらの文化と自分の文化との『総合』」によって、「現存在」の「あますところなき、はじめて真正なる解明に達するであろうという見解」が台頭する。(178頁)
J-3 これはしかし「普遍的な現存在理解のそぶり」にすぎない。(178頁)これは「疎外」であり、「ひとごとならぬ自己の存在可能に気づかなくなる。」(178頁)(※これが「非本来性」=「非本来的な了解」だ!)
J-4 「頽落する世界内存在は、誘惑的=鎮静的であるとともに、疎外的である。」(178頁)

(6)-2 疎外は現存在に「本来性」を閉鎖し、「非本来性」に追い込む!おのれ自身への「惑溺」!
K 「疎外は、現存在を、過度の『自己分析』に腐心する存在様相へ駆り立てる。」Ex. 性格学、類型学。(178頁)
K-2 かくて「疎外は現存在に、自己の本来性と可能性とを・・・・《閉鎖する》」。そして「現存在をそれの非本来性に追い込む」。(178頁)
K-2 かくて「頽落の誘惑的=鎮静的な疎外(die versuchend-beruhigende Entfremdung des Verfallens)は・・・・現存在がおのれ自身へ《惑溺する》(verfängen)道へ通ずる」。(178頁)(※つまり「過度の『自己分析』」!)

《感想6》ハイデガーは「本来性」(「本来的な了解」)と「非本来性」(「非本来的な了解」)について次のように述べている。
《感想6-2》第9節でハイデガーは言う。「現存在は・・・・おのれの可能性を存在しているがゆえに、この存在者はその存在において①自己自身を『選びとり』、獲得し、あるいは②自己を失い、また③ただ「みかけだけ」自己を得ているだけで、いちども本当に得なかった、というようなこともありうる。」①が「本来的な了解」であり②③が「非本来的な了解」である。(※①②③は評者による。)
《感想6-3》第31節でハイデガーは言う。「了解(※意識)が主として世界の開示態に身を置き、すなわち現存在(※モナド)がさしあたってたいてい自分の《世界》の方から自己を了解するという可能性がある。」これは「非本来的な了解」である。「了解(※意識)が主としておのれの存在の主旨(目的)(Worum-willen)に身を投じ、すなわち現存在(※モナド)が自己自身として実存するという可能性がある。」これが「本来的な了解」である。(146頁)
《感想6-4》第38節でハイデガーは言う。「現存在の非本来性」とは、「『世界』と《世間(Man)におけるほかの人びととの共同現存在》とによってまったく気をうばわれている世界内存在」ということだ。(176頁)

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現存在は、「本来的な自己存在可能としてのおのれ自身」から脱落し、「世界」に頽落している!

2019-08-08 13:03:03 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第5章 内存在そのもの」「【B】現の日常的存在と現存在の頽落」「第38節 頽落と被投性」(das Verfallen und die Geworfenheit)(その1)

(1)「①世間話(空談)、②好奇心、③曖昧さ」から「現存在の頽落」が現れてくる!
A 「①世間話(空談)(das Gerede)、②好奇心(die Neugier)、③曖昧さ(die Zweideutigkeit)は、現存在(※自分のこと!)が日常的におのれの『現』を――世界内存在の開示態を――存在しているありさまの性格である。」(175頁)
A-2 かくて「日常性の存在の根本的様相」として「現存在の頽落(Verfallen)」が現れてくる。(175頁)

《感想1》ハイデガーは「①世間話」は、「平均的理解」、「世間並みの理解」、「日常的な既成的解意」(169頁)だと言う。
《感想1-2》「②好奇心」についてハイデガーは言う。「仕事世界」から解放された「好奇心」はものごとを見ようと配慮するが、「そのものと関わり合う存在」へ立ち入らんがためではない。(172頁)
《感想1-2》「③曖昧さ」についてハイデガーは言う。「日常的な相互存在(※多くの人間たちの関係)において、・・・・接することのできるものについて、だれでもが一応のことを言えるようになると(※これは①世間話と②好奇心による)、何が真正な了解において開示されたものなのか・・・・決定できなくなる。」(※①世間話と②好奇心のなんという無責任!)これが「曖昧さ」だ!(※誰もが、勝手なことを好きに言い、しかも何が本当か、事実か、解明しない!)(173頁)

(2)現存在は、「本来的な自己存在可能としてのおのれ自身」から脱落し、「世界」に頽落している!
B「頽落(Verfallen)」とは、「現存在は、本来的な自己存在可能としてのおのれ自身から・・・・すでに脱落していて、『世界』に頽落している」ことだ。(175頁)
B-2 「『世界』へ頽落しているということは、①世間話や②好奇心や③曖昧さによってみちびかれているかぎりでの相互存在(※多くの人間たちの関係)のなかへ融けこんでいるということである。」(175頁)

《感想2》ハイデガーは次のように言っている。「非本来的な(uneigentlich)了解」は「世界」の方から自己を了解することだ。これに対し「本来的(eigentlich)了解」は「おのれの存在の主旨(目的)に身を投じ」実存することだ。(146頁)
《感想2-2》ハイデガーは「本質的な実存現象」として「良心、死、負い目」をあげる。(『序にかえて』)また、現存在が、「関わり合いうる存在そのもの」(※自分自身!)そして「関わり合っている存在そのもの」(※自分自身!)を、「実存」(Existenz)と名付ける。(12頁)

(3)現存在の非本来性:「世界」と「世間」(Man)によってまったく気をうばわれること!
C 「現存在の非本来性」とは、「『世界』と世間(Man)におけるほかの人びととの共同現存在とによってまったく気をうばわれている世界内存在」ということだ。(176頁)

《感想3》ハイデガーは言う。「ほかの人びと」とは、「日常的な相互存在」において、「『そこに居る』人びと」だが、「その誰か」は、「特にだれということもできない中性的なもの、世間(世人)(das Man)」である。(126頁)「われわれは、①ひともするような享楽や娯楽を求め、②ひともするように『大衆』から身をひき、③ひとが慨嘆するものを、やはり慨嘆している。」「この『ひと』が・・・・世間(世人)(das Man)である。この世間(世人)(das Man)が、日常性のありかたに指令を与えている。」(127頁)
《感想3-2》さらにハイデガーは言う。「日常的現存在の自己は、『世間的自己』(世人自己)(das Man-selbst)(※ミードの「me」)であるから、われわれはこれを『本来的(eigentlich)自己』(※ミードの「I」)、すなわちみずから選びとられた自己(※類型的でない自己)から区別しておく。」(129頁)
《感想3-3》またハイデガーによれば、「現存在の日常性」の問題とは、「世間」(das Man)のあり方に住みついているかぎりでの世界内存在(現存在)を問題にすることである。(167頁)

(4)現存在自身が、「根なしの状態に頽落する可能性を現存在に提供する」:現存在(世界内存在)は自身に対し「誘惑的」だ!
D 「現存在が頽落している」ことは、「堕落」ではない。(176頁)
E 「現存在は頽落するものとして、事実的な世界内存在としての《おのれ自身》からいつもすでに脱落している。」(176頁)
F 「頽落」は、「劣等な嘆かわしい存在的属性」という意味ではない。(176頁)
G 「頽落」は、「存在構成(Seinsverfassung)」でなく、「Seinsart」(「存在様相」あるいは「存在様態」)だ。(176頁)
G-2 「頽落」は「世界内存在の実存論的様態(ein existenzialer Modus)」の一つだ。(176頁)
H 「世間話と公開的な既成的解意とにおいて、世間(Man)のなかでわれを忘れて根なしの状態に頽落する可能性を現存在に提供するものは現存在自身だ」。つまり現存在(世界内存在)は、「おのずからにして誘惑的だ」。(177頁)

《感想4》ハイデガーは「公開性」について次のように述べる。①「疎隔性」(※他者との差異を意識すること!)、②「平均性」(※他者と同じようであることを求める!人並み!)、③「均等化」が、「世間(das Man)の存在様相」としての「公開性」(※自明として受け取られること)をなす!(127頁)

(5)頽落する世界内存在(現存在)は「鎮静的」で「本来的な心境的了解」を欲しなくなる!
I 頽落する世界内存在(現存在)は「鎮静的」だ。(177頁)
I-2 「世間話」と「曖昧さ」、「なにもかもすでに見てわかっているという態度」、つまり「世間(das Man)の自信と断定性」のために、「本来的な心境的了解」を欲しなくなる。(177頁)
I-3 「充実した真価のある『生』を供給し指導しているという世間の臆断(die Vermeindlichkeit des Man)が、現存在に一種の《鎮静》をもたらす。」(177頁)

《感想5》「本来的な心境的了解」なるものがありうるのか?「世間話」・「好奇心」・「曖昧さ」から、人が逃れることなどありうるのか?人は「既成的解意」(※既成の類型への包摂)の外へ出られるのか?言葉の使用は「既成的解意」(※既成の類型への包摂)だ。もし「本来的な心境的了解」が言葉で表現されたら、それは「世間話」になることであり、世界への「頽落」である。なお、それは現存在(※人間)に「鎮静」をもたらす。

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