宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

エドガー・アラン・ポー(1809-1849)『タール博士とフェザー教授の療法』(1845):「鎮静療法」(いっさいの処罰がなく幽閉もめったに行われない)に代わる、精神障害者たちに対する新たな療法!

2022-11-27 15:30:14 | Weblog
(1)
18××年南仏の噂に高い精神病院を私は見学のために訪問した。この精神病院はいっさいの処罰がなく幽閉もめったに行わない「鎮静療法」で名高かった。だが訪問すると「鎮静療法」は今や実施されていないとのことだった。マイヤール院長が説明した。理由は「鎮静療法」は患者を甘やかし増長させるからだ。かくて院長は「史上最高の精神病治療方法」開発したという。「衝撃を受けるものなので晩餐が終わってからご案内しましょう」と院長が言った。
(2)
晩餐には来賓25-30名が参加した。来賓のうち女性は貴婦人の豪奢な衣装をまとっていた。またバイオリン、横笛、トロンボーン、ドラムをたずさえた7-8名もいた。参会者は次々とかつての精神障害者の話をした。①ある紳士が「自分のことをティーポットと信じ込んでいる奴がいたよ」と言った。「毎朝のように鹿皮や白亜で自分自身を磨いていた」という。②のっぽの男、ド・コック氏が言った。「自分のことをロバだと信じ込んでいる奴もいたよな。こいつはきりもなく後足を蹴るようになった。」そう言ってのっぽの男は後足を蹴って見せた。その時、食卓に「仔牛が膝を丸めた丸焼き」が出てきた。また「ノウサギ料理ネコ風味」も出された。
(3)
参会者によるかつての精神障害者の話は続いた。③瘦せこけた男が言った。「自分のことをコルドヴァ・チーズと信じて疑わなかった男がいた。」「友人たちにナイフを差し出し、自分の足の中央からチーズを切り取って試食してみてほしいと言い出したんだ。」④もう一人の男が言った。「自分のことをシャンパンのボトルだと思い込んでいる奴がいた。」彼はポン、シュワ―と数分間、ボトルだと思い込んでいる奴の真似をした。⑤痩せた小男が言った。「自分をカエルと思い込んでいる間抜けな奴がいた。カエルそっくりにケロケロ鳴いて、両目をぎょろつかせ猛スピードで瞬きするんだ。」小男がその通り真似て見せた。⑥さらに別の者が「自分を嗅ぎ煙草と思ってる奴がいた。自分で自分を指でつまむわけにいかないので、ずいぶんがっかりしていた」と言った。⑦またもう一人が言った。「自分をカボチャだと思い込むくらいおかしくなっちまった奴がいた。自分を素材にパイを作ってくれと料理人にせがんだ。むろん料理人は断わった。」
(4)
さらに⑧「もう一人紹介したい」と別の参会者が割り込んだ。「そいつは恋に狂ったあげく、自分には二つの頭が生えていると思い込んだ。片方の頭はローマのキケロ、片方の頭は上がアテネのデモステネス、下がスコットランドの政治家ブルーム卿。弁が立つから、奴はよく晩餐の食卓に飛び乗って演説を始めた。」こう言ってその参会者は、食卓に飛び乗った。⑨その彼を隣の仲間が二言三言囁きやめさせた。すると今度は当の仲間自身が語り始めた。「自分が独楽(コマ)に変身したと思いこんだ奴がいた。片方の踵だけを支えにクルクル回っていた。」そう言ってこの仲間はクルクル回り始めた。⑩次に老貴婦人が言った。ジョイユース夫人は自分が雄鶏に変身してしまったと思って鬨の声をコケコッコーとあげるんです。」そう言って彼女はコケコッコーと鬨の声をあげジョイユース夫人を演じて見せた。
(4)-2
その時、マイヤール院長が「ジョイユース夫人、淑女らしくふるまうか、すぐにもこの食卓から立ち去るか、そのどちらかにしていただきたい」と怒って言った。ジョイユース夫人を演じてみせた当の貴婦人が「ジョイユース夫人」と呼ばれて、私は腰を抜かした。
(5)
その時、参会者の若い娘が言った。⑪「精神障害者のサルサフェット嬢は、とてもきれいで慎み深い娘でしたが、普通のファッションは無作法と思い、服の中に収まるより服の外へ抜け出るファッションを夢見ました。」「このようにするんです!」と彼女は裸になろうとした。参会者たちが「サルサフェットさん、やめましょう!」とその若い娘を引き留めた。なんと参会者の若い娘が、精神障害者のサルサフェット嬢その人のようだった。
(6)
その時、精神病院中央の一部から集団絶叫が起こった。参会者たちは死体のごとく青ざめ、あまりの恐ろしさでぶるぶる震えた。だが絶叫は4度起こり、おさまった。参会者たちは落ち着いた。マイヤール院長が言った。「精神障害者たちは時々、いっせいに喚き立てるものなんですよ。」そして私は言った。「それはそうと、かつての鎮静療法の代わりに今、採用されている療法は、ずいぶんと厳格で過酷なものなのですか?」マイヤール院長が「精神障害者たちに対する新たな療法は『タール博士とフェザー教授の療法』です」と答えた。
(6)-2
やがて晩餐会全体はワインの飲み放題となり、百鬼夜行のような騒ぎとなった。そして参会者がみな声を張り上げて話し喚き、またバイオリン、横笛、トロンボーン、ドラムの恐るべき演奏で、晩餐会が開かれている食堂は大音響に満ちた。
(6)-3
その中で院長が説明を続けた。「『鎮静療法』が実施されている時、良からぬ企みを持った精神障害者がいて、他の精神障害者を皆さそって、ある日、夜中に管理人たちの両手両足をしばり。独房へ閉じ込めた。」「やがて精神障害者たちは毎日晩餐会を開き、地下のワインを飲み放題、まさに優雅な生活を始めた。晩餐会で女性の精神障害者は貴婦人のように着飾った。」そして「このような精神障害者の『革命』は1ヶ月間続きました」とマイヤール院長が言った。
(7)
この時、多数の人々が、病院の扉を大ハンマーで破り、食堂に突入した。晩餐会は大混乱となった。食卓の上に飛び乗って演説する男。自分を独楽(コマ)と信じて猛然と回転する男。ポン、シュワシュワ―とシャンパンのボトルになりきって演じる男。カエル男がケロエロ言いながら進んで行く。ロバの鳴き声を出す男。あらん限りの高音で「コケコッコー」と鳴き続けるジョイユース夫人。
(7)-2
食堂に侵入してきたのは黒ヒヒと見まごう強力な軍団だった。晩餐会の参会者たち、つまり精神障害者たちは、殴打され、拘束された。軍団は、この精神病院の管理人たちだった。
(7)-3
この悲劇は次のようにして起こった。(ア)マイヤール院長は、「仲間を反乱へ駆り立てた精神病障害者」について説明してくれたが、それはたんに自分自身がやって来たことを語っていたにすぎなかった。(ア)-2 彼はじっさい、2、3年前にこの精神病院の院長であったが、発狂してしまい「鎮静療法」を受けていた。(イ)「革命」で、10名ほどの管理人たちは、全身にタールを塗られ、羽毛をまぶされ、地下の独房に閉じ込められた。これが精神障害者たちに対する新たな療法、つまり「タール博士とフェザー教授の療法」だった。(ウ) 管理人たちは1か月以上、幽閉されたが下水道から逃走した1人の管理人が、ほかの仲間(黒ヒヒと見まごう姿だった)も解放し、精神障害者たちの晩餐会を襲い、彼らを拘束した。
(7)-4 なお私は、「タール博士とフェザー教授の療法」の著作をヨーロッパ中探したが、ついに1冊も見つけることができなかった。

《感想》精神病院にて「晩餐の参会者が次々とかつての精神障害者の話をしている」はずだったが、ジョイユース夫人を演じてみせた当の貴婦人が院長から「ジョイユース夫人」と呼ばれて、「私」は腰を抜かした。かくて「私」には真相が見え始める。実は「参会者」自身が精神障害者で、「参会者」が語った精神障害者とは、ほかならぬ自分自身のことなのだ。そのように考えるしかない。そして以後の展開はその通りになった。

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出村和彦『アウグスティヌス』第5章(その4)「最後の仕事」413年(62歳)-430年(76歳):418年(64歳)『キリストの恩恵と原罪』で「ペラギウス主義」批判!427年(73歳)『再考録』!

2022-11-24 23:53:48 | Weblog
※出村和彦(デムラカズヒコ)(1956-)『アウグスティヌス 「心」の哲学者』岩波新書(2017、61歳)

第5章「古代の黄昏」(その4)
(27)413年(アウグスティヌス59歳)、帝国高官の若きマルケリヌスが処刑される!しかし「ペラギウス主義」の事案の決着のためアウグスティヌスは休む暇などなかった!
(o)413年(アウグスティヌス59歳)、帝国高官の若きマルケリヌスが、反乱陰謀の罪で処刑された。アウグスティヌスは悲嘆にくれた。マルケリヌスは、「ドナティスト鎮圧勅令」(412年)にいたる教会一致の措置の推進者、また「ペラギウス主義」が「新しい異端」であるとのカルタゴ教会会議(411年)での弾劾におけるアウグスティヌスたちの理解者であった。(149頁)

《参考1》アウグスティヌスがヒッポの司教となった396年(42歳)の頃、ヒッポを含む北アフリカのキリスト教は、カトリック(カエキリアヌス派)とドナティスト(ドナトゥス派)に分裂していた。アウグスティヌスはその問題に対処しなければならなかった。(103頁)
《参考2》「ペラギウス主義」は①「アダムの罪」はただアダムだけの罪であって、その罪がその後の人類に及ぶことはないとする。また②生まれたばかりの赤子は堕罪以前のアダムと同じであり、(北アフリカで慣行とされていた)「幼児洗礼」の根拠を否定した。(130-131頁)また③人間に自由な意思決定能力(「自由意志」)があり、神の助けなしに善意志を獲得できるとする。(134-135頁)
《参考2-2》これに対してアウグスティヌスは①人間の本性は「アダムの堕罪」によって決定的に損なわれてしまい、それは人類という子孫全体に伝播しているとパウロ書簡を理解する。「原罪遺伝説」!(135-136頁)それゆえ②「アダムの子孫として生まれてきた人類に伝播している罪」を断ち切って新たに生まれるためには、幼児でも洗礼が必要である。(136頁)さらにアウグスティヌスは③欠陥を持つ弱い人間が、善意志を獲得するのは、神が励まし授けてくださる「恩恵」という賜物がいるとする。ペラギウスは傲慢・高慢である。(135頁)

(o)-2 マルケリヌスの死後も、アウグスティヌスは「ペラギウス主義」の事案の決着のため、休む暇などなかった。418年(64歳)『キリストの恩恵と原罪』を書き、「ペラギウス主義」に対する自らの考え(批判)をまとめた。(149頁)
(o)-2-2 「ペラギウス主義」は、418年(アウグスティヌス64歳)、ローマ司教(教皇)ゾシムスによる異端宣告・破門に至る。(149頁)
(o)-2-3 だがナポリの司教ユリアヌスが、アウグスティヌスを批判する。アウグスティヌスの「原罪遺伝説」は「身体を持った人間の本性」を「罪悪」に決定されていると考える点で、「マニ教の善悪二元論」に陥っており、アウグスティヌスは「隠れマニ教徒」だと、ユリアヌスは辛辣に批判し続けた。(149-150頁)

(28)427年(73歳)、自著93篇232巻の全著作を読み直し、『再考録』を完成させた!ヴァンダル族に包囲されたヒッポで430年8月28日、アウグスティヌスは76歳で亡くなった!
(p)426年、72歳のアウグスティヌスはヒッポの司教職から引退する。その際の説教でアウグスティヌスは語る。「人間は老いていきます。そして不満でいっぱいになります。この世界も老いていきます。それは押し寄せる苦難に満たされています。」(150-151頁)
(p)-2 「世界の老齢化」とはローマ帝国末期の衰亡である。(151頁)
《参考》395年(アウグスティヌス41歳)ローマ帝国は西と東に分裂。アウグスティヌスの死(430年・76歳)の46年後、476年西ローマ帝国が滅亡する。

(q) アウグスティヌスは『告白』(400年・46歳)の第11-13巻で「永遠」と「時間」のかかわりのうちに将来的「希望」としての安息・平安を見つめている。(152頁)
(q)-2 老いの現実のもとで、アウグスティヌスはこの世での自分の職務をできる限り果たそうと努めた。かくて427年(アウグスティヌス73歳)、ヒッポの図書館で自著93篇232巻の全著作を読み直し、年代順に並べて、一つひとつにコメントをつけてまとめた『再考録』を完成させた。(152頁)
(q)-3 その後、『聖徒の予定』、『堅忍の賜物』(428-429年)では、アウグスティヌスは「予定説」に対する批判に応える論述を明晰に語っている。アウグスティヌスの「予定説」は、功績や意志にかかわらず、救われる者とそうでない者が神によって予め選ばれているとする。(154頁)

(r) 429年(75歳)、ガリアのヴァンダル族が南下し、ジブラルタル海峡を渡ってアフリカへ西から侵入した。アフリカ西部のローマ都市は次々に破壊され、430年ヒッポの町はついにヴァンダル族に包囲された。(155頁)
(r)-2 陥落がまじかに迫ったヒッポで430年8月28日、アウグスティヌスは76歳で亡くなった。同僚のポシディウスが『聖アウグスティヌスの生涯』で「彼は、死ぬまでの10日間というもの、ひとりで、まったく祈りに没入していた」と伝えている。(155-156頁)

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出村和彦『アウグスティヌス』第5章(その3):『神の国』(426年)「ローマ劫掠」等災難の原因は帝国のキリスト教化だとの非難への対処!「神の国」(天的な共同体)と「地の国」(地的な共同体)!

2022-11-23 21:42:33 | Weblog
※出村和彦(デムラカズヒコ)(1956-)『アウグスティヌス 「心」の哲学者』岩波新書(2017、61歳)

第5章「古代の黄昏」(その3)
(26)『神の国』(426年・72歳、全22巻完成):410年(アウグスティヌス56歳)、西ゴート族による「ローマ劫掠」(ゴウリャク)のような災難の原因は帝国のキリスト教化にあるとの非難への対処として執筆開始!
(j)400年(46歳)から、アウグスティヌスは『三位一体』の執筆に着手した。(全15巻が完成するのは419年・65歳。)ところが410年(56歳)西ゴート族による「ローマ劫掠」(ゴウリャク)が起こると、このような災難をもたらした原因は「帝国のキリスト教化」にあるとの非難の声が上がった(Cf. 392年、キリスト教の国教化)。勢いを増すローマの伝統的宗教の異教徒たちへの対処として、アウグスティヌスは『神の国』の執筆に着手した。(142頁)
(j)-2 キリスト教は果たして「尚武実直な気質」や「法と正義」を重視するローマ帝国の伝統的秩序の代案となるのか、それともそれらを変質させ、無秩序のうちに弱体化させてしまうのか?アウグスティヌスたちには、問題をローマの「伝統的秩序」や「有徳な善き生き方」の根拠までさかのぼって吟味することが求められた。(『神の国』1-3巻は413年公刊。)(143頁)

(26)-2 『神の国』(426年)(前半)(417年頃仕上がる)第1-10巻:「伝統的な多神教(異教)の神々」も必ずしもローマを災難から守ったわけではない!「繁栄に多くの神々が必要だ」という異教徒の論は誤りだ!
(j)-3 『神の国』全22巻の前半、第1-10巻では、アウグスティヌスは異教徒の思想家の主張に反論を加える。キケロ(前106-前43)、ウェルギリウス(前70-前19)、ウァロ(前116-前27)、リウィウス(前59-後17)、サルスティウス(前86-前34)などの史書に基づき、アウグスティヌスは「伝統的な多神教(異教)の神々」も必ずしもローマを災難から守ったわけではないことを示し、「繁栄に多くの神々が必要だ」という異教徒の論を反駁する。(第1-5巻)(143-144頁)
(j)-4 そしてアウグスティヌスは、「異教の祭儀は宇宙霊魂に基礎を置く」というウァロの神学(第6-7巻)やアプレイウス(127-170年)の『ソクラテスの神』を取り上げて、「ダエモン(神霊)を礼拝するのはほんとうの救いにはならない」と批判する(第8-9巻)。(144頁)
(j)-5 また第10巻では、新プラトン主義者ポルフュリオス(234-305)による「霊魂の自力救済論」を批判して、異教によって死後の霊魂も護られる必要があるとの主張を反駁する。(144頁)

(k)なおアウグスティヌスは第8巻でプラトン哲学がキリスト教に親近感を持っていると指摘する。プラトンは「神を愛する者こそが知恵を愛する者(哲学者)である」と主張した。アウグスティヌスは「プラトンは聖書を知っていたのではないか、と考えたくなる」とまで言っている。(145頁)
(k)-2 またウァロは神学を「市民国家的神学」(伝統的な公共祭儀にかかわる)、「神話的神学」(ギリシア・ローマ神話など)、「自然的神学」(「哲学者たちの神学」)の三つに分けるが、アウグスティヌスは「哲学者たちの神学」を中心的に取り上げている。(144-145頁)

(26)-3 『神の国』(426年)(後半)第11-22巻:ここで言う「国」は「市民の共同体」(シチズンによって構成されるシティ)を意味する!「国」とは「共同体」のことである!人間のこの世での歩みは、心の志向である「愛」(※共同性)のあり方に応じて集団を形成する歴史である!
(l)『神の国』(後半)第11-22巻の構成は、「天的な神の国」の起源(第11-14巻)、その経過(第15-18巻)、その終局(第19-22巻)の考察からなる。(145頁)
(m)この著作の題名は、日本では『神の国』あるいは『神国論』で定着している。しかしアウグスティヌスが考察する「神の国」とは、(ア)神が王のように支配する「王国」のようなものでないし、(イ)人々が死後に行く「天国」でもない。ここで言う「国」は(ウ)「シチズン(市民)によって構成されるシティ」、「市民の共同体」を意味する。(146頁)
(m)-2 実際、『神の国』の英語での題名は「The City of God」(神のシティ)である。(146頁)
(m)-3 アウグスティヌスによれば(天地創造以来の)人間のこの世での歩みは、一人ひとりの心の志向である「愛」(※共同性)のあり方に応じて集団を形成する歴史である。(146頁)
(m)-3-2 例えばローマ帝国の基になったローマの共和制(レス・プブリカ)は、理念的には「ローマの人民(ポプルス)と元老院」の合体した体制である。(146頁)
(m)-3-3 アウグスティヌスによれば、「国(※共同体)とは何らかの社会的な紐帯(チュウタイ)で結ばれた人間の集団」である(第15巻8章)。そして社会的紐帯とは「法的合意」と「利益の共有」である(第19巻21章)。(147頁)

(26)-4 『神の国』(426年)(後半)第11-22巻(続):「神の国」(「天的な国」)(※神の共同体)と「地の国」(「地的な国」)(※地の共同体)!
(n) アウグスティヌスから見ると、人間は「愛」(※共同性)のあり方に応じて「神の国」(「天的な国」)(※神の共同体)と「地の国」(「地的な国」)(※地の共同体)という2種類の集団を形成する。(147頁)
(n)-2 「二つの愛(※共同性)が二つの国(※共同体)を造った。すなわち、神を軽蔑するにいたる自己愛が地的な国(※共同体)を造り、他方、自分を軽蔑するにいたる神への愛が天的な国(※共同体)を造ったのである」(第14巻28章)。(147頁)
(n)-3 この「地の国」(「地的な国」)(※地の共同体)と「神の国」(「天的な国」)(※神の共同体)との対立は、「高慢」と「謙虚」との対立である。すなわち高ぶって「自分が神のように他を支配するという転倒した意志」を持ったあり方と、「正しい愛(※共同性)の秩序において神を享受し隣人を愛するあり方」との対立である。(147頁)
(n)-4 ただし二つの国は、つまり「地の国」(※地的な共同体)と「神の国」(※天的な共同体)は、この世(サエクルム)において混じり合って存在する。「神の国」が現実の「キリスト教会」そのものでないし、「地の国」が「ローマ帝国」そのものでもない。(147頁) 
(n)-5 現実の権力については、アウグスティヌスは「正義なき王国は大盗賊団以外の何者であろうか」(第4巻4章)と指摘する。だが「共通善に基づく法と正義」を尊び、これを公平に実行するような世俗の政治形態(※地の国)があるとすれば、「神の国の民」(※キリスト教会)はその福利を促進するよう協力するのにやぶさかでないと、アウグスティヌスは言う。(148頁)
《感想》「神の国」(「天的な国」)(※神の共同体)とは「キリスト教会」(キリスト教の共同体)のことである。「地の国」(「地的な国」)(※地の共同体)とは世俗的な諸権力、代表的には「国家」(Ex. 「 ローマ帝国」)である。

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出村和彦『アウグスティヌス』第5章(その2):『三位一体』(419年公刊)「三位一体の神秘を理性で理解する」ことは不可能!「神に似たものとして造られた人間」の精神の内に現れる「三一性」!

2022-11-22 20:06:06 | Weblog
※出村和彦(デムラカズヒコ)(1956-)『アウグスティヌス 「心」の哲学者』岩波新書(2017、61歳)

第5章「古代の黄昏」(その2)
(25)『三位一体』(全15巻、400年執筆開始・419年公刊)第1-7巻:「三位一体の神秘を理性で理解する」ことは不可能である(「浜辺の童子」の伝説)! 
(d)『告白』を書き上げた400年(46歳)以降、アウグスティヌスはドナトゥス派教会への対処(「ドナティスト論争」)に心を砕き、さらに410年(56歳)以降の「ペラギウス論争」まで、会議の準備と外交交渉の日々が続いた。しかしその間、400年(46歳)から、アウグスティヌスは『三位一体』の執筆に着手した。(全15巻が完成し公刊したのは419年・65歳である。)(138頁)
(e)キリスト教には、「父なる神」・「子なる神」・「精霊なる神」の三者が、独自に働きつつも永遠に一体の神であるという「三位一体の神」という教義がある。(381年のコンスタンティノープル公会議で、この教義の正統性が確立した。)(138-9頁)
(e)-2 アウグスティヌスの著書『三位一体』は、この教義を信じて受け入れる「信仰」を持った上で、その意味を心から「理解」しようとするものである。(139頁)
(e)-3 「三位一体」に関しては伝説がある。「貝殻」で海の水を汲み尽くそうとする童子の姿を見たアウグスティヌスは、三位一体の神秘を「理性」で理解することも、それと同じく不可能であると悟ったという伝説(「浜辺の童子」の伝説)である。(139頁)
(e)-4 全15巻からなる『三位一体』は、「三つであり、かつ一つである」という、にわかに理解しがたいキリスト教の神の特性について、アリストテレスの論理学(『カテゴリー論』など)の知識を駆使し、さらに個別的なものが個々それぞれ存立する「ペルソナ」(位格)という存在様式に着目し論をすすめる。(139-140頁)
(e)-4-2 かくて「父子精霊」が神としては本質的に一つの「実体」でありながら、三者それぞれが「ペルソナ」としては神との同質性を保って相互に「関係」しあうと分析する(第1-7巻)。(140頁)

(25)-2 『三位一体』第8巻以降:「神に似たものとして造られた人間」の精神の内に「三一性」(サンイツセイ)が現れていることを示す!
(f) 『三位一体』における考察は第8巻で転換を迎える。アウグスティヌスは人間の「自己」のあり方を見つめる「内的な方法」をとる。「神に似たものとして造られた人間」において、神そのもののあり方(「三位一体」というあり方=「三一性」)の足跡をたどれるのではないかと、アウグスティヌスは模索していく。(140頁)
(f)-2 すでに『告白』(400年)でアウグスティヌスは①「存在すること」「知ること」「意志すること」の「三つ」が区別されながらも「不可分に一体である」ことに注目していた。(140頁)
(f)-3 『三位一体』(419年)ではアウグスティヌスはまず②「愛する」という「一つ」の経験が「愛する者(主体)」「愛する相手(対象)」「愛(両者を結びつける絆)」の「三つ」の要素で構成されることに着目する。つまり人間の精神の内に「三一性」(サンイツセイ)が現れている。(140-141頁)
(f)-4 さらに③自己の精神を振り返って、そのように「愛する」自分を知るとき、「自己の内なる記憶」「知る働きの理解」「知ろうとする意志」の「三つ」が、自己の生において「一つの本質」をなしていることが分かる。(141頁)
(f)-5 またたとえば④「一つの視覚対象認識」の成立においても「対象」「その視像」「対象にまなざしを向ける志向」の「三者」は切っても切れない関係にある。(「三一性」!)(141頁)
(f)-6 「三一性」は私たちの内にも存在する。それは私たちが「神の似像」として三一なる神を映し出しているからだ、とアウグスティヌスは考える。(141頁)
(g)人間の精神は、「今は鏡を通して謎の内に」おぼろに見るしかない天上のエルサレム(平和の光景)を、「顔と顔をつきあわせて」はっきりと見ることができるようになる終末のかの時まで、「神の御顔を求めて」いくと、アウグスティヌスは言う。(141頁)
(g)-2 このようにアウグスティヌスは神について考察する。それは「浜辺の童子」の伝説のように愚かしい徒労ではないのだ。神がどのような存在であるかを理解しないままで、ほんとうに神を愛することはできない。かくてアウグスティヌスの「心」の哲学は「三一神」そのものの考察にまで及ぶ。(141頁)

(25)-3 『三位一体』第13-14巻:キケロをキリストの御名の下に入れる作業!第15巻:「キリストであることば(ロゴス)の誕生」および「聖霊である愛の発出」が思索される!
(h) 『三位一体』(419年・65歳)第13-14巻では、アウグスティヌスが若き日(373年・19歳)に読んで「知恵を愛すること」へと心を燃え立たせたキケロの『ホルテンシウス』が最も豊富に引用される。(141-142頁)
《参考》373年、19歳になったアウグスティヌスは「修辞学学校」でキケロの『ホルテンシウス』(真の幸福を獲得するためには「ほんとうの知恵」を求めなければならないと説く)を読んだ。この読書体験が「知恵への愛」を燃え立たせた。(16頁)
(h)-2 『三位一体』第13-14巻では、誰もが求める「ほんとうの幸福」と「ほんとうの知恵である神を愛すること」との不可分の関係が論じられる。(142頁)
(h)-2-2 それはあたかも、キケロをキリストの御名の下に入れる作業のようである。(142頁)

(i) 『三位一体』第15巻では、「心の中で語られることば」と「外に発話されることば」に関して、「キリストであることば(ロゴス)の誕生」や「聖霊である愛の発出」との類比が思索される。(142頁)
(i)-2 『三位一体』はアウグスティヌスの最もスリリングな著作の一つであると、出村和彦氏が言う。(142頁)

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出村和彦『アウグスティヌス』第5章(その1):「ペラギウス主義」(418年、異端宣告される)の問題点①「アダムの罪」と「原罪遺伝説」、②「幼児洗礼」、③「自由意志」と神の「恩恵」!

2022-11-21 18:45:39 | Weblog
※出村和彦(デムラカズヒコ)(1956-)『アウグスティヌス 「心」の哲学者』岩波新書(2017、61歳)

第5章「古代の黄昏」(その1)
(24) 「ペラギウス主義」(418年、異端宣告される)と貴族カエレスティウスのカルタゴで司祭になるための画策!
(a)ドナティストによるアフリカの教会分裂の収拾に奔走していたアウグスティヌスたちに(Cf. 412年ドナティスト鎮圧勅令)、410年、もうひとつの難題が降りかかってきた。ブリトン人ペラギウスとこれに同調する南イタリア出身の貴族カエレスティウスの「ペラギウス主義」の思想と行動である。なお「ペラギウス主義」は、418年(アウグスティヌス64歳)、ローマ司教(教皇)ゾシムスによる異端宣告・破門に至る。(128-129頁)
(a)-2 ペラギウス(360頃-420頃)は修道士でなかったが、パウロ書簡の解釈を通じて、人々に道徳的な自覚を求め、ローマ社会の腐敗を改革しようとした。「自由意志」を重んじ、「キリストを模範とする」生き方をローマの人々に説いた。(128-129頁)
(a)-2-2 410年(アウグスティヌス56歳)、西ゴート族による「ローマ劫掠(ゴウリャク)」を避けて、ペラギウスはシチリアに逃れ、さらにカルタゴに渡った。(129頁)
(b)ペラギウスに強く賛同する人物が、南イタリア出身の貴族カエレスティウスだった。彼も、ペラギウスとともに北アフリカへ渡った。そしてカエレスティウスは、カルタゴで司祭になろうと画策した。(129頁)

(24)-2 「ペラギウス主義」の問題点:①「アダムの罪」と「原罪遺伝説」、②「幼児洗礼」、③「自由意志」と神の「恩恵」!
(c) カエレスティウスの司祭志願の問題は、アフリカの司教たちによるカルタゴ教会会議で取り上げられた。そして411年(アウグスティヌス57歳)、カルタゴ教会会議はカエレスティウスが依拠するペラギウスの考え方を「新しい異端」であると厳しく弾劾した。かくてカエレスティウスは小アジアのエフェソスに去り、ペラギウスもパレスティナに移住した。その後、「ペラギウス主義」は、418年(アウグスティヌス64歳)、ローマ司教(教皇)ゾシムスによる異端宣告・破門に至った。(130-131頁)
(c)-2 「ペラギウス主義」は①「アダムの罪」はただアダムだけの罪であって、その罪がその後の人類に及ぶことはないとする。また②生まれたばかりの赤子は堕罪以前のアダムと同じであり、(北アフリカで慣行とされていた)「幼児洗礼」の根拠を否定した。(130-131頁)また③人間に自由な意思決定能力(「自由意志」)があり、神の助けなしに善意志を獲得できるとする。(134-135頁)
(c)-3 これに対してアウグスティヌスは①人間の本性は「アダムの堕罪」によって決定的に損なわれてしまい、それは人類という子孫全体に伝播しているとパウロ書簡を理解する。「原罪遺伝説」!(135-136頁)それゆえ②「アダムの子孫として生まれてきた人類に伝播している罪」を断ち切って新たに生まれるためには、幼児でも洗礼が必要である。(136頁)さらにアウグスティヌスは③欠陥を持つ弱い人間が、善意志を獲得するのは、神が励まし授けてくださる「恩恵」という賜物がいるとする。ペラギウスは傲慢・高慢である。(135頁)

(c)-4 アウグスティヌスは『霊と文字』(412年・58歳)で、「神の義」への信仰も、あくまでも自力ではなく、神から与えられるものと理解する。(136頁)
(c)-4-2 すでに『告白』(400年・46歳)第10巻でアウグスティヌスは「慎み」(コンティネンティア)を求めて「あなたの命じるものを与えたまえ、あなたの欲するものを命じたまえ」と神に祈っている。(ペラギウスはこの祈りについて理解できず、激怒して厳しく拒否したという。)(137頁) 

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出村和彦『アウグスティヌス』第4章(その4):カルタゴでの教会会議、司教裁判、書簡ネットワーク、説教、執筆(396-412年、42-56歳)!410年、西ゴート族による「ローマ劫掠(ゴウリャク)」!

2022-11-20 15:23:54 | Weblog
※出村和彦(デムラカズヒコ)(1956-)『アウグスティヌス 「心」の哲学者』岩波新書(2017、61歳)

第4章「一致を求めて」(その3)
(23) アウグスティヌスの日常(396-412年、42-56歳):カルタゴでの教会会議、「司教裁判」、書簡ネットワーク、説教、執筆!
(j)アウグスティヌスがヒッポの司教となった396年(42歳)から、ドナティスト鎮圧勅令が発せられた412年(58歳)の頃のアウグスティヌスの日常を見てみよう。(113頁)
(j)-2 彼は痔疾が持病であったので、馬車やロバで、毎年1回開かれるカルタゴでの教会会議へのヒッポから200キロの旅路はつらいものだった。さらにドナティスト説得の旅もあった。そしてヒッポの教会や修道院の仕事もある。過労のためアウグスティヌスは410年(56歳)、ヒッポの郊外で冬の間中、静養した。(113-114頁)
(j)-3 彼はまた、「司教裁判」(当事者双方の同意に基づく仲裁裁判)のため、キリスト教徒や他の宗派の人々の主張を聞く仕事もあった。(115-116頁)
(j)-4 アウグスティヌスはさらに、手紙を通じて、聖書解釈や神学上の問題、協会運営に関することなどについてアドバイスを求められ、そのため書簡を書いた。そのような書簡ネットワークは北アフリカにとどまらず、ローマ、アレクサンドリア、ベツレヘムなど地中海地域のキリスト教共同体に広がっていた。(116-117頁)
(j)-4-2 古代において書簡は重要なジャンルであり、論文に匹敵する長さと充実度をもつ書簡もあった。(117頁)
(j)-5 司教の執務が一段落すると、アウグスティヌスは仲間と暮らす庭園の修道院に帰って食事と休息をとった。(118頁)
(j)-5 『告白』を書き上げた400年(46歳)以降、アウグスティヌスはドナトゥス派教会への対処に心を砕きつつも、説教の日々は変わらなかった。現在400篇ほどの説教が残されている。(119頁)

(k)アウグスティヌスは説教の基礎となる聖書研究をたゆまず深めた。例えば、ヒッポ教会の司祭となった391年(37歳)に始めた150篇の『詩編』全体についての注解の完成:『詩編注解』(420年、66歳)。また『創世記逐語注解』全12巻(401-415年にかけて書かれる)。さらに『ヨハネ福音書講解説教』(406-7年頃から418-9年頃までの124の説教のまとめ)。(120頁)

(23)-2 410年(アウグスティヌス56歳)、アラリック率いる西ゴート族による「ローマ劫掠(ゴウリャク)」等!
(l)410年(アウグスティヌス56歳)、アラリック率いる西ゴート族がローマを3日間にわたって略奪する事件が起きた:「ローマ劫掠(ゴウリャク)」。これは帝国崩壊のイメージを決定的にした。(121-122頁)
(l)-2 5世紀の地中海は避難民の海となった。また自由人を拉致する奴隷商人も暗躍した。アウグスティヌスはそこから逃げて来た人々に保護を与えた。(123-124頁)
(l)-3 アウグスティヌスはまた、貧しい者への喜捨を推奨した。古代末期のキリスト教司教による貧者救済活動!(124-126頁)

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出村和彦『アウグスティヌス』第4章(その3):「無理に連れてきなさい」(ルカ)とアウグスティヌスは世俗権力による対立派の弾圧吸収を容認した:412年(58歳)ドナティスト鎮圧勅令!

2022-11-19 12:25:02 | Weblog
※出村和彦(デムラカズヒコ)(1956-)『アウグスティヌス 「心」の哲学者』岩波新書(2017、61歳)

第4章「一致を求めて」(その3)
(22) ドナティスト(ドナトゥス派):311年、カルタゴの司教にカエキリアヌスが叙任されたが、それにドナティストが異議をとなえた!
(h)アウグスティヌスがヒッポの司教となった396年(42歳)の頃、ヒッポを含む北アフリカのキリスト教は、カトリック(カエキリアヌス派)とドナティスト(ドナトゥス派)に分裂していた。アウグスティヌスはその問題に対処しなければならなかった。(103頁)
(h)-2 北アフリカにキリスト教が伝わったのは紀元2世紀である。そして多くの殉教者もでた。(104頁)
(h)-3 ドナティストによる教会分裂の発端は303-305年のドミティアヌス帝による大迫害期にさかのぼる。その厳しい弾圧の中、官憲に教会の聖書を引き渡す事件が起きた。そうした者たちは「聖書を引き渡した者」あるいは「裏切り者たち」(トラディトレス)と呼ばれた。(105頁)
(h)-4 311年、カルタゴの司教にカエキリアヌスが叙任される。だが彼を支持する司教たちの中に「裏切り者たち」が含まれるという嫌疑がかかった。かくてカエキリアヌスの就任を承服できない司教たちが、司教ドナトゥスのもとに結集した。こうして北アフリカのキリスト教会はカトリックの正統を名のる司教カエキリアヌス派とそれに異議をとなえるドナティスト(ドナトゥス派)に分裂した。この分裂は約100年続く。(105-106頁)

(22)-2 412年(アウグスティヌス58歳)、ドナティスト鎮圧勅令!
(h)-5 ローマ皇帝たちの方針は一定でなく、ドナティストを禁止する布告も出されたが、実効性がなかった。4世紀末、カトリック教会はカルタゴの司教アウレリウスのリーダーシップのもと、この事態の対処に乗り出す。(108頁)
(h)-5-2 そもそもローマ皇帝にとって、重要な食糧供給基地である北アフリカのカトリック教会が、地元の事情で分裂している状態は捨て置けなかった。(106頁)
(h)-5-3 カトリック(カエキリアヌス派)とドナティスト(ドナトゥス派)が宮廷(ラヴェンナ)で活発なロビー活動を展開する。そうした中、最初の西ローマ皇帝であるホノリウス帝が410年(アウグスティヌス56歳)、両派の協議会を招集した。カルタゴに284名のドナトゥス派教会の司教と186名のカトリック教会(カエキリアヌス派)の司教が勢ぞろいした。(109-110頁)
(h)-5-4 両派の協議会の3日目、アウグスティヌスが証拠を満を持して提示した。それはドナティストも抗いえない「コンスタンティヌス帝の通達」だった。コンスタンティヌス帝は316年、皇帝代理官を通じてアフリカの全教会にたいして、「カエキリアヌス派の無罪とドナトゥス派の有罪」を通達していたのだった。これによってカエキリアヌス派がカトリック教会の「正統」であると、協議会に派遣されていた皇帝代理マルケリヌスが決着した。(106-107頁、110頁)
(h)-5-5 412年(アウグスティヌス58歳)、ドナティスト鎮圧勅令が発せられた。ドナトゥス派教会は司教も含めカトリック教会に併合され、土地財産も吸収された。(110頁) 

(22)-3 アウグスティヌスは、「愛の教会」の一致という目的のため、世俗権力の強権発動を矯正教育の手段として容認した!
(i)ドナティスト(ドナトゥス派)に対するアウグスティヌスの見解は『ドナティストの矯正』(417年、63歳)に述べられている。アウグスティヌスは、教師や親は子供に対して「懲戒」を加え正しい道に戻す責務があると考えていた。聖書に「道や垣根のあたりの人を見つけて誰でも無理に連れてきなさい」(『ルカによる福音書』14章23節)とあることを根拠に、アウグスティヌスは、「愛の教会」の一致という目的のため、世俗権力の強権発動を矯正教育の手段として容認する。(112-113頁)
(i)-2 「無理に連れてきなさい」と、アウグスティヌスは世俗権力による対立派の弾圧吸収を容認した。(113頁)

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出村和彦『アウグスティヌス』第4章(その2):「もの」(事柄)は「時間」の中にあるが、神は「永遠」の存在である!被造物の生の有様は「時間的な限界のある何ともあわれなもの」である!

2022-11-18 18:27:16 | Weblog
※出村和彦(デムラカズヒコ)(1956-)『アウグスティヌス 「心」の哲学者』岩波新書(2017、61歳)

第4章「一致を求めて」(その2)
(21)-5 『告白』(第3部)第11巻:「永遠と時間」の問題!「もの」(事柄)は「時間」の中にあるが、神は「永遠」の存在である!
(f)『告白』(第2部)第10巻を受けて、(第3部)第11巻は「記憶」(メモリア)を「永遠と時間」の問題に捉え直して論じる。Cf 「記憶」(メモリア)とは私の精神の働き、つまり「私」(エゴ)であり、「考える」(コギト)ことである。(100頁)
(f)-2 想起される「もの」(事柄)は「時間」の中にあって「造られた」のに対し、それ(ものor事柄)を超えて「造る」神は「永遠」の存在である。(100頁)

(f)-3 では「時間」とは何か?「それが誰かに問われないときは自分はそれを知っていると思う。しかし、問われて説明しようとすると、それが分からないのです」とアウグスティヌスは問いを深めて行く。(101頁)
(f)-3-2 この一節は、現象学者フッサール(1859-1938)が『内的時間意識の現象学』序論で引用し、「時間の問題に取り組む人ならば誰でも『告白』第11巻14-28章は今日もなお徹底的に研究すべきものである」と言及している。(101頁)

(f)-4 アウグスティヌスは、片時も止まることのない時間を「三つの時がある。過去の現在、現在の現在、未来の現在である」という現在の意識(志向性)という切り口から分析する。(101頁) 
(f)-4-2 アウグスティヌスが時間を論ずる真意は、「まだ存在しない未来を期待し、もはや存在しない過去を想起し、捕捉しがたい現在を意識して生きて行く」生の有様そのものが、「時間的な限界のある何ともあわれなもの」であることを気づかせることにある。(101頁)
(f)-4-3 アウグスティヌスは、人間が「時間を超えた永遠の存在」(※神orイデア)に呼び集められるべき存在であるという視点に立つ。(101頁)

(21)-6 『告白』(第3部)第13巻9章:ほんとうの知恵への愛(哲学)、神への愛!「私の重さは私の愛である」!
(g)『告白』第13巻(最終巻)9章には「私の重さは私の愛である」という言葉がある。アウグスティヌス『告白』は、聖書を理解しつつ(神への愛!)、ほんとうの知恵を愛し求める哲学(※愛知=フィロソフィア)の探究の書である。(102頁)
(g)-2 そしてその哲学は自ら歩み心身をもってにじり寄るように実践する哲学であった。それゆえ『告白』は、次の一節で結ばれている。「[神である]あなたから求め、あなたにおいて尋ね、あなたのもとで[聖書という]戸を叩かねばならない。そうすることで、求める者は与えられ、尋ねる者は見いだされ、叩く戸は開けられるであろう。」(『告白』第13巻38章)(102頁)

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出村和彦『アウグスティヌス』第4章(その1):『告白』は懺悔録ではなく、神に対する賛美録である!「永遠なる神へと向かう道」は「自力」で達成されない、「神から賜る恩恵」である!

2022-11-17 12:11:06 | Weblog
※出村和彦(デムラカズヒコ)(1956-)『アウグスティヌス 「心」の哲学者』岩波新書(2017、61歳)

第4章「一致を求めて」(その1)
(20)「愛の教師」アウグスティヌス:「神」への愛と「隣人」への愛!
(a)396年(42歳)、司教となったアウグスティヌスは『キリスト教の教え』全4巻を執筆し始める。(3巻の途中で中断し完成は426年・72歳。)(90頁)
(a)-2 この中でアウグスティヌスは「愛の掟」について述べる。聖書では「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。これが第1の掟である。「隣人を自分のように愛しなさい」。これが第2の掟である。(92頁)
(a)-3 「神と隣人に対するふたつの愛をたてるところまでいかないとしたら、その人はまだ聖書を理解したとは言えない」とアウグスティヌスは述べる。彼は「愛の教師」である。(93頁)

(21)アウグスティヌス『告白』全13巻(400年・46歳):懺悔録ではなく、神に対する賛美録である!
(b)司教として説教を始めた43歳(397年)、アウグスティヌスは『告白』の執筆に着手する。(93頁)
(b)-2 『告白』は懺悔録ではなく、神に対する賛美録である。アウグスティヌスにとって「告白」とは、弱い自分に示された神からの無償のあわれみとゆるしに感謝し、そのような恵みをもたらす神の偉大さを賛美することである。『告白』第1巻は「偉大なるかな、あなたは、主よ、ほんとうに賛(ホ)むべきお方です」と始められている。(94頁)
(b)-3 アウグスティヌスは、自分の心の出来事が決して単なる個人的で特異なエピソードにとどまるものでなく、ほんとうの幸福の源泉を求める人間に対して普遍的に通じるものだと考えている。(94-95頁)

(21)-2 『告白』の構成:第1部は「過去」、第2部は司教としての「現在」、第3部は人類の一員としての「未来」(将来)の安息という結末が描かれる!
(c) 『告白』は、第1部(第1巻から第9巻)、第2部(第10巻)、第3部(第11巻から第13巻)という明確な3部構成を持っている。(95頁)
(c)-2 第1部は自分の誕生から母モニカの死までの「過去」の出来事を描く。第2部は司教としての「現在」の心のありようを描く。第3部は『創世記』第1章の解釈・人類の一員としての「未来」(将来)の安息という結末が描かれる。(95-96頁)

(21)-3 『告白』(第2部)第10巻:「疑うことなく確信をもって神を愛している」!
(d) アウグスティヌスは、『告白』(第2部)第10巻では、かつての彷徨から脱して、行きつくべき終着点を彼方にしっかりと信じ、「疑うことなく確信をもって神を愛している」姿を読者の前に差し出している。(97頁)
(d)-2 そして心と身体の不調和(Ex. 「目の欲、肉の欲、世間的野心」)という思い通りにならない弱さに直面しても、絶望や迷いに身を任すことなく、私たちを「心」に立ち戻らせてくれる神の計らいに信頼を置けば立ち直れると述べる。(97-98頁)

(21)-4 『告白』(第2部)第10巻(続):「私」(エゴ)とは「考える」(コギト)ことであり、それは「ちぢに乱れる私の思い」という形でしか現れない!「慎み」(コンティネンティア)によって中心としての「心」へ立ち戻っていく!これが「永遠なる神へと向かう道」である!
(e)このように神を愛している自分はいったい何者であるか。『告白』(第2部)第10巻では、記憶と意識と意志からなる人間の精神(アニムス)の構造に光が当てられる。(98頁)
(e)-2 アウグスティヌスにおいて、「私」(エゴ)とは、「精神の働き」であり、「考える」(コギト)ことである。そして個々の行動をする際の自分の意識や意志は、記憶(メモリア)にとどめられる。(98頁)
(e)-3 デカルト(1596-1650)は思考をする私(自我)の精神の存在の確実性から「考えるもの」という実体を打ち立てた。(98-99頁)
(e)-4 これに対してアウグスティヌスは、「考える」(コギト)というラテン語を「集める」という原義から解釈して、「思考」を「集中と分散との対の動きのなかにあるもの」と位置づける。それゆえアウグスティヌスにおいては自我や自己意識は「確固とした実体」というより「ちぢに乱れる私の思い」(Ex. 目の欲、肉の欲、世間的野心を身に帯びている自我 )という形でしか現れない。(99頁)
(e)-5 『告白』を書くアウグスティヌスは、「慎み」(コンティネンティア)によって自己の内奥に存在する中心としての「心」へ立ち戻っていく。これが「永遠なる神へと向かう道」である。だがそれは「自力」で達成されるのでなく、「神から賜る恩恵」として切に祈り求められるものであった。(99頁)
(e)-5-2 「あなた(※神)は慎みをお命じになる。もし神がその賜物をくださらないなら誰も慎みを保ちえない・・・・・・私たちが《そこから他へと分散していたもとの一なるもの》へ集められ引きもどされるのは慎みによるのです。」(『告白』第10巻29章)

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出村和彦『アウグスティヌス』第3章(その3):「照明説」(真理や知識は内的な光に照明されて得られるものである)(389年・35歳)!「アウグスティヌスの修道規則」(395年・41歳)!

2022-11-13 20:40:24 | Weblog
※出村和彦(デムラカズヒコ)(1956-)『アウグスティヌス 「心」の哲学者』岩波新書(2017、61歳)

第3章「哲学と信仰と」(その3)
(20)「照明説」:真理や知識は内的な光に照明されて得られるものである!タガステにて最愛の息子アデオダトゥスの死(390年、アウグスティヌス36歳)!
(n)388年(34歳)以来のアウグスティヌスと息子アデオダトゥス、そして仲間たちとの「故郷タガステ」での、キリスト教の信徒として清貧の生活は、390年(36歳)、突然の転機を迎える。最愛の息子アデオダトゥスが17歳で死んだ。(80頁)
(n)-2 アウグスティヌス『教師』(389年)は、彼と息子との対話編である。彼はここで「真理や知識は内的な光に照明されて得られるものである」との考えを提示する。アウグスティヌスは、中世以降の西洋哲学に多大な影響を与えた「照明説」という認識論上の立場を、ここで初めて表明した。(80-81頁)
《参考》新プラトン主義的流出説の影響を受け、アウグスティヌスは,知的光たる神(Cf. プラトンのイデア)が、真理の必然性と永遠性を人間精神に開示するとの照明説を唱えた。

(20)-2 アウグスティヌス、ヒッポの司祭となる(391年・37歳)!「庭園の修道院」!
(o)391年(37歳)アウグスティヌスはヒッポ(北アフリカでカルタゴに次ぐ港町)の司祭となる。(81頁)
(o)-2 そして司教ウァレリウスは、教会堂に隣接する建物をアウグスティヌスと仲間の住まいとして提供した。これが「庭園の修道院」である。(81頁)
(p)ヒッポでアウグスティヌスが着手した作業に、まず①『詩編注解』がある。(391年・37歳に書き始め420年・66歳に完成する。)彼は『詩編』のヘブライ的な人間表現を、新プラトン主義的な哲学の構図と整合させようと苦心する。(82-83頁)
(q) またアウグスティヌスは②「パウロ書簡」を徹底的に読み直す。その到達点が『シンプリキアヌスへ』(396年・42歳)である。ここでアウグスティヌスの「罪」の理解、「恩恵」の理解が深まる。そして人類全体が「罪の塊」をなしているという観察が現れる。(83頁)
(q)-2 最晩年の『再考録』(427年・73歳)では、この問題をめぐってアウグスティヌスは「自分は人間の意志の自由な選択の確保のために奮闘したが、神の恩恵の重要さがこれにまさった」と振り返っている。(83-84頁)
(r)さらにアウグスティヌスは③「マニ教論駁」も精力的に継続する。例えば『二つの魂』(391-2年・37-8歳)では冒頭で「神のあわれみに助けられて、マニ教徒たちの罠が打ち砕かれて、ついにカトリック教会のふところに立ち返った私は、今やっと少なくとも当時の私のみじめさをじっくりと眺め嘆くことができるようになった」と記している。(84頁)
(r)-2「マニ教論駁」はその後も50歳になるまで続けられる。『告白』全13巻(400年・46歳)もこうした文脈のなかで執筆されたことを考えると、アウグスティヌスの若き日の「漂泊(誤謬)」への悔恨の深さと、それからの解放の喜びの大きさが見て取れる。(84頁)

(20)-3 「アウグスティヌスの修道規則」(395年・41歳)!ヒッポの町の司教となる(396年・42歳)!
(s)395年(41歳)、アウグスティヌスはヒッポの町の補佐司教となる。司教としての執務と生活を両立させるために、アウグスティヌスは「庭園の修道院」(Cf. 聖アウグスティヌス修道会)を仲間で運営できるように規則を制定した。これが「アウグスティヌスの修道規則」である。(85-86頁)
(s)-2 「兄弟たちよ、すべてにおいて神を愛し、また、あなたたちの隣人を愛しなさい。なぜならこれは私たちに与えられた最も大切な掟だからです。」このように修道規則は始まる。
(s)-3 そして「まずあなたたちが一つに寄り集う主な目的は、神に向かって心も思いも一つにして、一つの家で思いを一致させて生活することです。何物も自分のものとは言わないですべてのものを共有にしなさい」と、信徒たちに指示を与える。(86頁)
《参考》11世紀から12世紀のイタリアには「アウグスティヌスの修道規則」を基本とする修道者の団体が複数存在していた。さらに13世紀初頭にはスペイン、ドイツ、フランスにも同様の修道院が設立された。1244年、ローマ教皇インノケンティウス4世はこれらの修道者に「アウグスティヌスの修道規則」を課し統合を命じた。これが「聖アウグスティヌス修道会」の始まりとされる。

(t) 396年(42歳)、アウグスティヌスはヒッポの町のキリスト教の全責任を受け持つ正式な司教となる。当時、アフリカ全体を統括する首位司教は、カルタゴの司教アウレリウスであった。アウグスティヌスは、この司教の盟友としてアフリカ教会のためにも働くことになる。(87頁)

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