宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

「2000年代 戦争と格差社会」(その9):「9・11とイラク戦争」岡田利規『三月の5日間』、宮沢章夫『ディラン・・』、伊藤計劃『虐殺器官』、中原昌也『花束・・』(2001)!(斎藤『同時代小説』5)

2022-04-30 16:56:58 | Weblog
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(57)「9・11とイラク戦争」:「戦争の気配を感じる作品」岡田利規『三月の5日間』(2007)、宮沢章夫『ボブ・ディラン・グレーテスト・ヒット第三集』(2011)!
I  2000年代の「戦争小説」の第2のタイプは、「9・11やイラク戦争」を直接的、間接的に描いた小説だ。(201頁)
Cf. 「戦争小説」の第1のタイプは「戦時下の国」を描いた小説だ。(195頁)

I-2  「戦争の気配」を感じる作品として岡田利規(トシキ)(チェルフィッチュ主宰)(1973-)『三月の5日間』(『わたしたちに許された特別な時間の終わり』所収、2007、34歳)(戯曲)がある。舞台は「ブッシュがイラクに宣告した『タイムアウト』が刻一刻と近づいてくるのを、待ち構えるよりほかなく待っている最中」の2003年3月。(※イラク戦争の開始は2003年3月20日。)渋谷でピースウォークと題した反戦デモが行われている。「彼」と「彼女」は渋谷のラブホテルに5日間しけこむ。2人は戦争の報道を拒否するかのように、テレビをつけず、携帯電話の電源も切り、時計も見ない。そのあと「あ、なんだよ、もう終わってるじゃん戦争」と思い描く。(198-199頁)
《書評1》「とらえどころのない日本の現在状況を、巧みにあぶり出す手腕」が、第49回岸田國士戯曲賞受賞時に注目された。
《書評2》イラク戦争の開戦を背景に、3月の5日間の渋谷での出来事が、口語体で代行的に語られる。登場人物はすべて、聞いた話や事後的な話として出来事を語り、そこにあるはずの当事者性や責任が奇妙な形で回避される。「9.11」以降の日本的な空気感を絶妙な言語感覚で捉えた傑作。
《書評3》話の内容は男女間のささいな日常を、「本人不在」で私達に伝えようとするために、その仕草や語り方がちぐはぐになってしまい、「話を、概要を掴むためにその演劇の中に入らざるを得ない」というものだろうか。

I-3 宮沢章夫(1956-)『ボブ・ディラン・グレーテスト・ヒット第三集』(2011、55歳)は、新宿を舞台に2001年9月1日から11日までの10日間を描く。(※2011/09/11アメリカ同時多発テロ事件。)舞台は新宿。9月1日は歌舞伎町の雑居ビルで44名の死者を出す火災(実際の事件)があった日。主人公・内田はその日の明け方、泥酔して帰って来たのだが、周囲は彼が放火したのではないかと疑う。彼も自分が信じられなくなる。10日後、半睡状態の中で内田はニュースを目にする。「二つの巨大なビル/煙が上がっている/ニュースキャスターらしき男が叫んでいる」。(199頁)
《書評1》2001年9.1の歌舞伎町ビル火災から「9.11」までの10日間の「時代の空気」と「ある個人の物語」を重ねて描く。「時代と個人の関連」とともに、「時代と無関係に自身を保つ回路」の重要性を提示する。
《書評2》1995年の「阪神・淡路大震災」と「地下鉄サリン事件」、2001年の「歌舞伎町ビル火災」と「9・11」。痛ましい事件の連続に、「世界をしかとはつかみきれない」、「事の次第をもはや私たちはどんなに努めても捉えきれない」という諦めにも似た思い!しかし「その諦念の中に安住することは危険だ」という思いもまたかみしめたい。

(57)-2 「テロと戦争」のど真ん中に斬り込んだ異色の戦争小説:伊藤計劃『虐殺器官』(2007)! 
I-4  上記2作品が「戦争の気配」を感じる作品だとしたら、伊藤計劃(ケイカク)(1974-2009)『虐殺器官』(2007、33歳)は「テロと戦争」のど真ん中に斬り込んだ異色の戦争小説だ。(199頁)
I-4-2  「ぼく」(クラヴィウス・シェパード)は、アメリカ情報軍の暗殺部隊の大尉。「ぼくは殺し屋だ」と彼は認識している。「9・11」以来、アメリカは「何かと理由をつけていつでも戦争がはじめられる国」になった。かくて彼はある人物(ジョン・ポール)の暗殺を命じられる。「虐殺器官」は脳内の器官で、それが暴走すれば虐殺が可能になる。やがて「ぼく」は気づく。「虐殺器官」は誰にも装備されている。(199-200頁)

《書評1》近未来を舞台に戦争を考える「哲学SF」。「戦争の是非」、「世界の不公平」。ストーリーは大きなスケールの「闇」を追いながらも、主人公個人の「良心」、「罪と罰」を中心に据え、「罪を背負う選択を、みずから意識すること」が人間の負うべき「自由」だと語られる。
《書評2》軍人として命じられれば誰でも殺す。そこに罪悪感はなく、後悔もない。世界で多発する「虐殺」を止めるため、一人の男(ジョン・ポール)を暗殺する計画を立てる。・・・・世界から戦争・虐殺はなくならない。それらを生み出しているのは紛れもなく一人一人の人間(=「虐殺器官」)なのだ。
《書評3》「9・11のテロ事件」以降、過度に情報統制された近未来社会を描くSFなのだが、その脅威がいつ実現してもおかしくないと思うほどリアル。 人間に元来備わった「虐殺器官」。危険すぎる概念だが、世界中で起こる「虐殺」にひとつの解を得たと思ってしまうほどだ。
《書評4》各地の「虐殺」の影に垣間見える謎の男、ジョン・ポール。彼は発見した人間の言語に潜む「虐殺の文法」を用いて、各地の「虐殺」をコーディネートしていく。

I-4-3  この続編が伊藤計劃『ハーモニー』(2008、34歳)だ。(200頁)
《書評1》「Watch Me」というデバイスを身体に埋め込み、病気を完全に克服することに成功する一方で、各個人の行動もすべて監視、管理されている世界。それを徹底し、ついに「個人の意識や意志すらないことこそが世界に『ハーモニー』をもたらす」として、そこに向かおうとする。
《書評2》「完成されたユートピア」は「ディストピア」にもなりうる。現代社会において、不摂生を予防するため「健康を管理する」ことは是とされるけれど、徹底すればこの本のような世界となる。
《書評3》この世界に人間がなじめず死んでいくのなら、「人間」をやめたほうがいい、というより、「意識」であることをやめたほうがいい。自然が生み出した継ぎ接ぎの機能に過ぎない「意識」であることを、この「身体」の隅々まで徹底して駆逐し、骨の髄まで「社会的な存在」に変化したほうがいい。「わたし」が「わたし」であることを捨てたほうがいい。「わたし」とか「意識」とか、環境がその場しのぎで人類に与えた機能は削除したほうがいい。そうすれば、「ハーモニー」を目指したこの社会に、本物の「ハーモニー」が訪れる。
《書評4》衝撃だった。世界が行き着く先の「ユートピア」。すなわちWatchMeとメディケアで体を徹底管理する「生命至上主義社会」、「優しさと慈愛」が実現した世界では、プライバシーもない。「プライバシー」は「卑猥」な言葉とされる。「健康で温かい社会」はどこか不自由で息苦しい。「ユートピア」の到達点(=「ハーモニー」)は「意識の喪失」だ。

I-4-4  伊藤計劃が2009年に夭折したこともあり、両作品は「伝説的なSF小説」として語り継がれる。だが『虐殺器官』(2007)は、日本の「戦争小説」として、戦争の本質に斬り込んだ作品として外すことができない。(200頁)

(57)-3 「9・11」米国多発テロをまるで予告しているかのような光景:中原昌也『あらゆる場所に花束が・・・・・・』(2001)!
I-5 偶発的な「戦争小説」の例としては、支離滅裂、意味不明と評された中原昌也(マサヤ)(1970-)『あらゆる場所に花束が・・・・・・』(2001、31歳)が、意外と予言的な作品だった。(200頁)
I-5-2  中原昌也は「進化しすぎて袋小路のドツボにハマったポストモダン」みたいな作家(斎藤美奈子氏評)だが、『あらゆる場所に花束が・・・・・・』は全編これ暴力のイメージに溢れ、最後は落ちてきた「白い熱気球」が引き起こした「救急車やパトカーが何台も駆けつけるほどの惨事」で幕を閉じる。(200頁)
I-5-3  この小説の出版が2001年6月で、同年「9・11」米国同時多発テロをまるで予告しているかのようだった。(201頁)(Cf. 『中原昌也の作業日誌』2008について、高橋源一郎が「グチと泣き言ばかり」と述べている。)

《書評1》又吉直樹のオススメ本。第14回(2001年) 三島由紀夫賞。作者はミュージシャン。描くのは無意味な暴力と性衝動ばかり。なぜ、これが受賞したのか理解ができない。論評も「文章がとにかく幼稚」「内容が愚劣」とある。一部「文壇へのカンフル剤」と賞賛。文章もストーリーもカオス。
《書評2》絶句。唖然。たくさんの暴力、たくさんの死。カルトというかホラーというか。カオスすぎて、「読書をした」という気分には到底なれない。オススメしてくれた又吉さんには申し訳ないが、良さがさっぱりわからなかった。
《書評3》「筋書のある小説の破壊or挑発」というわけでなく本当は、著者は「ただただ何も言いたくないだけ」なんじゃないかと思った。

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「2000年代 戦争と格差社会」(その8):「戦時下のもうひとつの日本」三崎亜記『となり町戦争』、吉村萬壱『バースト・ゾーン』、前田司郎『恋愛の解体と北区の滅亡』!(斎藤『同時代小説』5)

2022-04-28 19:30:48 | Weblog
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(56)「戦時下にある、もうひとつの日本」:三崎亜記『となり町戦争』(2005)(a)いつの間にか始まっていた戦争、(b)知らず知らずに巻き込まれる市民、(c)非常時にあっても状況がつかめぬ主人公!
H  2000年代のもう一つのトレンドは「戦争」だった。Cf. 2000年代のトレンドの「殺人」(or「テロ」)については既述。(195頁) 
H-2  陣野俊史(トシフミ)(1961-)『戦争へ、文学へ――「その後」の戦争小説論』(2011、50歳)は「イラクへ空爆が開始された2003年3月以後、主として若い小説家を中心に戦争小説が数多く書かれた。こんなことは日本の文学史の中で嘗てなかったのではないか」と述べる。(195頁)
H-2-2  映像で見た9・11のショック(2001)、陸自が派遣されたイラク戦争(2003)。「戦争」は作家にいわば「燃料」を与えた。(195頁)

H-3 「戦争小説」の第1のタイプは「戦時下の国」を描いた小説だ。(195頁)
Cf  これに対し「戦争小説」の第2のタイプは「9・11やイラク戦争」を直接的、間接的に描いた小説だ。(後述。)(198頁)
H-3-2  三崎亜記(ミサキアキ)(1970-)『となり町戦争』(2005、35歳)は日本に似たある国が舞台だ。主人公の「僕」(北原修路)ある日、町の広報誌に「となり町との戦争のお知らせ」の記事が載り、戦死者数が書かれているのを見つける。やがて「僕」に「戦時特別偵察業務従事者の任命」の通知が届き、「町役場総務課となり町戦争係」の香西(コウサイ)瑞希という女性と偽装結婚し、不可解のまま「偵察役」になる。(196頁)
H-3-3 「戦争が畢竟、お役所仕事であること」をこの小説はやんわり伝える。(a)いつの間にか始まっていた戦争、(b)知らず知らずに巻き込まれる市民、(c)非常時にあっても状況がつかめぬ主人公。(196頁)(※これらはまるで「2022/02/24ウクライナ侵攻を開始したロシア」の一般市民・兵士の状況だ!)

《書評1》「戦争って一体なんなの?」というところがファジーなままで、「挿入されているラブストーリー」も、本編と馴染まずパッチワークじみていると感じる。
《書評2》「となり町との戦争」でも、変わらない日常が続き「戦争って本当に始まってるのか?」と思っていると、翌月の広報誌で「人の動き」として転出入、出生、死亡(うち戦死者12人)と小さく記載される。まるで下水道工事と同じ扱いで、事務的に行政の一環として戦争が進められる。
《書評3》突然のとなり町との戦争。公共事業としての戦争。大まじめで、戦死者もいる。でも、だれがどこでなぜ戦争をしているのかさっぱりわからない。パラレルワールドの出来事のよう。結局わからないまま終わったが、この首を傾げるような不可解さ。

(56)-2 国は「テロリン」たちによる大規模・長期の破壊活動とサイバーテロと戦っている:吉村萬壱(マンイチ)『バースト・ゾーン――爆裂地区』(2005)!
H-4  吉村萬壱(マンイチ)(1961-)『バースト・ゾーン――爆裂地区』(2005、44歳)も架空の国が舞台だ。道路で子供たちが「テロリンだ!」「やっちまえ!」と叫び、テロリン役の子を追いかける遊びをしている。「テロリン」とは「テロリスト」のことだ。国は「テロリン」たちによる大規模・長期の破壊活動とサイバーテロと戦っている。不安と恐怖に陥った人々は、無実の市民を「テロリン」として血祭りにあげ、愛国心に燃える人々が志願兵となって大陸に渡る。しかし「テロリン」の正体は誰も知らない。(196-197頁)

《書評1》これまで読んだディストピア作品の中でダントツに酷く、なんら救いがない。だからこそ戦争に従事したり、武力により治安が脅かされた状況はこんな風ではないかと思わせる。「追い詰められた人間が出す毒のような汚さ」を嫌と言うほど見せつける。灰色と血の色に染まった小説。
《書評2》テロが横行し無政府状態に近い世界(第1章)。テロの本拠地を叩くべく志願兵として大陸に渡る登場人物たちを描く(第2章)。そしてその後を描く(第3章)。人間の醜さをこれでもかというほど見せつけられ、吐き気すら憶えるが、過去の戦争で南方に従軍した人は同じような地獄をみていたと思う。 決して後味の良い話ではないが、いろいろ考えさせられた。
《書評3》異国のテロリストを殲滅せんと、戦闘員となった市井の人々が奏でるSFテイストの群像劇。登場人物たちは品性下劣で、誰もが持つ根源的ないやらしさを突きつけてくる。人は、欲望のままに行動し、他者を蹂躙しても生き残っていく。

H-4-2  なお吉村萬壱(マンイチ)は『ハリガネムシ』(2003、42歳)で芥川賞を受賞した。(196頁)
《書評1》凄惨。読んでいて「倫理もへったくれもない」と思った。だけど誰しも何かしら「闇」みたいなのを抱えていて、きっかけ次第でひょっこり出て来る時ってあるのかもと思いゾッとした。
《書評2》高校で「倫理」を教える慎一のところに、1度しか面識のなかった風俗嬢サチコから連絡が入り、そこから「どうしようもなくキツい話」、グロいシーンと暴力的なシーンが展開していく。全然共感できずに終わってしまった。
《書評3》「ハリガネムシ」はカマキリに寄生する線状の生き物。ハリガネムシに寄生されると、ハリガネムシの意思で行動するらしい。この物語の場合は、主人公の高校教師にサチコが入り込んでしまったということか。楽しい話でなかった。
《書評4》この小説の中でハリガネムシは、人間の中に巣食う醜さ、欲望、暴力といったマイナスなものを暗示している。人間の残酷な本質。
《書評5》倫理教師の中岡とソープ嬢サチコの話。吉村氏は「汚くて、読んでるだけで鼻をつまみたくなるような話」が上手いが、今回は「汚物」よりも「暴力的な描写」が多かった。

(56)-3 「戦争に直面した人々」のリアルな姿:前田司郎『恋愛の解体と北区の滅亡』(2006)!
H-5  前田司郎(1977-)『恋愛の解体と北区の滅亡』(2006、29歳)の舞台は「2年前に宇宙人が飛来した世界」。宇宙人が今日、記者会見し、「今日で地球が終わるかもしれない」状況だ。そんな日の「僕」のたわいもない1日が描かれる。(ア)新宿のコンビニでガタイをいい男に順番を抜かされた屈辱感、(イ)それが殺意に発展し書店でナイフの本を立ち読み、だが(ウ)隣にエロ本が並んでいたことから無料風俗案内所に出向く、(エ)気づけばSMクラブで女王様に対面している・・・・。(197頁)
H-5-2  そのときテレビが伝える。「宇宙人による北区への報復攻撃が開始だれました!」そして「僕」は叫ぶ。「うわー、すっげー、これ日本だよ」。(197頁)
H-5-3  ここに描かれているのは荒唐無稽な話でない。それは「戦争に直面した人々」のリアルな姿だ。(斎藤美奈子氏評。)(197頁)

《書評1》宇宙人が地球に攻撃をしかけるかもしれないという夜に、たいした目的も持たずにそこかしこと街をぶらついているダメ男のお話。北区が滅亡するかもという事態に大した危機感も感じず、コンビニ、本屋、風俗といったありきたりな日常を消費する主人公。その希薄なリアリティーや起伏のない生活感が何とも現代的でおもしろい。
《書評2》演劇集団「五反田団」主催、前田司郎の小説。宇宙人が侵略しつつある世界という異常なシチュエーションにありながら、ほとんどそれと関係なく特別な行動も起こさず脳内独り言によって進んでいく日常との対比。その両者がまったく批判的にではなく、ただ横置きされているという前衛さが不気味。

(56)-4 「戦時下」ないしは「戦争前夜」の空気を描いた小説:星野智幸『ファンタジスタ』(2003)、伊坂幸太郎『魔王』(2005)!
H-6  一見、いずれも戦争小説に見えないが、明らかに「戦時下」ないしは「戦争前夜」の空気を描いた小説がある。政治的熱狂と権力者の暴走。ナショナリズムの高揚。9・11後のアメリカや日本を連想させる。(198頁)
H-6-2  星野智幸(1965-)『ファンタジスタ』(2003、38歳)は、首相公選制が敷かれた「もうひとつの日本」で、「かつてプロのサッカー選手だった首相候補」に人々が熱狂する危うさを描く。(197-198頁)
《書評1》カリスマ政治家がアジアを「各民族の共存共栄みたいなAリーグの理念」で覆ってしまおうとする。この作品で描かれているのは「ファシズムの空気」だ。
《書評2》階層化が進んだ社会。現代社会を覆う閉塞感。作品は、リアリティーがあるようなないような、幻想的であるようなないような〈ホシノワールド〉。
《書評3》中国の経済力が支配的な「架空の日本」の話。二人が、明日の首相選挙をどうするか饒舌に語り続ける。饒舌の煙幕で覆い、難しい言葉をちりばめ、何らかの意味ある思想が潜んでいるような気にさせる。

H-6-3  伊坂幸太郎(1971-)『魔王』(2005、34歳)は、「カリスマ的な人気を誇る野党政治家」の危険を察知した主人公が、「特殊な能力」(※腹話術のように他人の口から言葉を発することができる能力とある程度の確率なら必ず勝てる能力を持った兄弟)を武器に「流れ」を変えようとする姿を描く。(198頁)
《書評1》色々考えさせられる。(ア)大衆心理or群集心理(流れに身を任せ、何も考えない群衆)、(イ)声が大きいとそれが正しいように聞こえる、(ウ)何か事件があると目をそらさせるように他の事件が起きる、(エ)マスコミの情報統制、(オ)情報操作、(カ)偏った情報。しっかり意思を持って立っていないと流される。
《書評2》この本を通して「考えて生きる」ことの重要さを知る。でも「世間の出来事より身近の物事を優先する行為」は生きていく上で仕方ないにも納得。考えたとして、それが正しい方向かわからないけれど考える行為が大事。
《書評3》ファシズムや巨悪と戦う話。伊坂幸太郎は「巨悪と戦う少数派」を描くのが好きだ。ただ犬養も魅力的に描いていて、物語として楽しめる。
《書評4》一政治家が熱狂的な支持を集め国のトップになり、憲法改正の議論を巻き起こす。大衆かムードに流されるなか、「流されまい」と必死に抵抗する兄弟。

(56)-5 架空の戦争の全体像を俯瞰的に描く:村上龍『半島を出よ』(2005)!
H-7  村上龍(1952-)『半島を出よ』(2005、53歳)は、「架空の戦争」の全体像を俯瞰的に描く。(198頁)
《書評1》経済政策に失敗し日本が世界から孤立する。財政破綻した日本に対し「内部からの反米」を生み出すため、北朝鮮が福岡博多を占領する。危機が迫っても強く抵抗することなく「死んだ目」で受け容れてしまう日本人。作者の「ありえそう」と思わせる説得力がすごい。舞台は2011年の日本。
《書評2》「間抜けで何も決められない日本人」(有事であっても政治家、官僚の無責任さ、ドタバタしてるのに何も進んでない他人事感)に、「抜け目なく逞しく優れた北朝鮮人」って感じの話が続く。 村上龍は北朝鮮を礼賛するつもりで本作を書いているのかな?日本政府の狼狽、危機管理の欠落など日本側のドタバタに対して、シミュレーション通り侵攻する北朝鮮側!

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「2000年代 戦争と格差社会」(その7):「心に銃を持った若者」中村文則『銃』、阿部和重『ニッポニアニッポン』、平野啓一郎『決壊』、重松清『疾走』、吉田修一『悪人』!(斎藤『同時代』5)

2022-04-26 20:22:18 | Weblog
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(55)「心に銃を持った若者たちが暴走する」:中村文則(フミノリ)『銃』(2003)心の中に「銃」を持ってしまった者の悲劇!
G  中村文則(フミノリ)(1977-)『銃』(2003、26歳)は、退屈な大学生活を送っていた「私」が拳銃を拾ったところから話が始まる。「私」の意識は銃から離れられなくなり、外に銃を向けるようになる。心の中に「銃」を持ってしまった若者の悲劇。(191頁)
《書評1》「銃を所持する」という非日常感が、思春期の退屈・憂鬱を暴走させてしまう話。 銃のメリットは、ナイフと違って「殺す時の人間の感触を味わわずに済むこと」としておきながら、最後は銃で存分にそれを味わうところに主人公の闇の深さを感じる。
《書評2》「銃を所有するアメリカ市民」として、読後感は複雑。「市民が銃を持つことが違法である日本」では、銃を持つと、いきなり力強い気持ちになる。ところで米国では、なぜこれほど多くの「平和を愛する人々」が最終的に銃を所有することを選択するのか?「殺したくないが、殺されたくない」という「自己防衛」だ。
《書評3》犯罪をするまでの心理描写がリアルで実体験のようだ。拳銃を手にしたことで、「主人公の内なる凶暴性」がその姿を現し狂っていく姿は、「私が拳銃に使われている」という文そのものだ。

G-2  Cf.  中村文則『土の中の子供』(2005、28歳)(芥川賞受賞)もまた、緊迫した雰囲気を持つ。(191頁)
《書評1》暗い、ひたすらに暗い。虐待描写がきつい。危険な状態に陥ると分かっていて、わざわざその状況を作ってしまう主人公。それは子供の頃に受けた壮絶な虐待のせいなのか、それとも恐怖や痛みが快感になってしまっているのか。
《書評2》引き取られた遠い親戚の家から日常的な虐待を受け、山中の土の中に埋められるが、そこから這い出る幼い私。「集団自殺するネズミの様に日本中の若者がダメになっていったら素敵」と語る白湯子。「恐怖」に感情が乱され続け、「恐怖」が身体に血肉のように染み付き、自ら「恐怖」を求めるほど病に蝕まれた幼い私。だが今や私は「恐怖を克服するために恐怖を作り出し、それを乗り越えようとした」と自己分析する。 

(55)-2 「ネット上の情報で育まれた妄想」にかられる戯画化されたテロリスト:阿部和重『ニッポニアニッポン』(2001)!
G-3  阿部和重(1968-)『ニッポニアニッポン』(2001、33歳)は10代のテロリストを出現させる。主人公の鴇谷春生(トウヤハルオ)は17歳の高校生。彼が心を奪われたのは、鴇(トキ)だった。(自分の名前に「鴇」が含まれるため。)「日本産のトキの復活のため、中国産のトキを繁殖させるのはおかしい、トキは放すか殺すかだ」と考えた彼は、トキの情報をネットで集めまくり、18歳になると佐渡のトキ保護センターに乗り込む。(192頁)
G-3-2  春生(ハルオ)は妄想にかられる戯画化されたテロリストであり、妄想はネット上の情報で育まれた。(192頁)
《書評1》妄想からの暴走と破滅。恋慕する同級生へのストーカー行為により、地元に居られなくなった鴇谷春生。高校中退し、東京で知人の菓子店に勤務するもすぐに欠勤し退職。大検を受ける言いながら、自身の名字にある鴇にのめり込む。人間の都合で絶滅危惧種となった鴇を繁殖させる国の事業に憤慨し、トキ保護センターに乗り込む
《書評2》引きこもりの少年ハルオが、佐渡で保護されているトキ(鳥)を殺しに行く。ハルオの性格が暗いので読んでいると陰鬱な気分になる。野生絶滅したにも関わらず「ニッポニアニッポン」という学名ゆえに中国から持ち込まれ無理やり繁殖させられているトキと、自分自身を重ねる。

(55)-3 「リアルな社会を生きる自分」と「ネット上のバーチャルな自分」の分裂がもたらす凶悪な物語:平野啓一郎『決壊』(2008)!
G-4  平野啓一郎(1975-)『決壊』(2008、33歳)は「リアルな社会を生きる自分」と「ネット上のバーチャルな自分」の分裂がもたらす凶悪な物語だ。(192頁)
G-4-2 舞台は2002年、小泉訪朝、9・11後のアメリカが遠景をなす。一方で、兄・澤野崇(タカシ)は東大出のエリート公務員、弟・澤野良介(リョウスケ)は平凡な会社員。弟の良介はブログ(日記サイト)を持つ。他方で、中2生・北崎友哉は「孤独な殺人者の夢想」という妄想だらけの日記を公開している。そして事件が起きる。弟・良介が残酷に殺害され、犯行声明文が発表され、兄・崇が容疑者として浮上する。(192頁)
G-4-3  やがて「悪魔」を名乗る人物が先導する何件もの事件が起きる。(192-193頁)

《書評1》罪は「遺伝」と「環境」からもたらされる。平野氏は述べる。「圧倒的に多様な個体が、それぞれに、ありとあらゆる環境の中に投げ込まれる。そうした中で、一個の犯罪が起こったとして、当人の責任なんて、どこにあるんだい?殺された人間は、せいぜいのところ、環境汚染か、システム・クラッシュの被害の産物程度にしかみなされないよ。犯罪者なんて存在しない。」
《書評2》三島由紀夫『美しい星』で、「人類滅亡」を望む宇宙人と「人類救済」を願う宇宙人の間で激論が交わされる。この本で「悪魔」と「北崎少年」の間で交わされる会話もどこかそんな三島の意識みたいなものを感じた。
《書評3》猟奇的なバラバラ殺人事件。狂気と悪意と噂を増幅させていくインターネット。理知的ながらもあまり感情を吐露しないため、周りからどこか厭まわれて、冤罪すらかけられそうになる「崇」。あまりにも陰鬱な作品。
《書評4》ネット社会に潜む「社会に対する憎悪」や「理不尽な正義感」が交錯しながら物語が展開。「真犯人、篠原勇治(悪魔)」と「悪魔の囁きに導かれた中学生、北崎友哉」。
《書評5》「救いのない物語」だ。被害者(良介)は何の関係もないのに残忍な殺され方をした挙げ句、家族も自殺したり病んだりする…。「崇」のような聡明な人や、「良介」のようなもがき苦しみながらも前に進もうとする人が、いきなり理不尽なやり方で人生を奪われるって、やりきれない。「酒鬼薔薇」に憧れるような若い人がこれ読めばいいと思う。
《書評6》意外な所から判明する真犯人と黒幕。犯行を写したDVDで語られる「遺伝と環境が人間を選り分ける。現代社会のファシズムを破壊する」とのメッセージ。「崇」はそれに共感を覚え「自分が弟を殺した共犯者」だと考え、絶望し自殺する。匿名性の高いネットの怖さ、大衆の迎合性、親子、夫婦、兄弟等家族の弱さ等現代社会の持つ問題点を指摘する。秀作。
《書評7》「悪魔」と称する男がカラオケボックスで中学生の北崎友哉をそそのかす。「悪魔」は「純化された殺意」として、つまり「まったく無私の匿名の観念」として殺人を奨励し、「殺人者は存在せず、ただ、殺意だけが黙々と、まるでシステム障害のように止める術なく殺人を繰り返す」世の中を希求する。北崎少年は「悪魔」の指示通りに動く。「悪魔」すなわち篠原勇治を生んだのは悲惨な生い立ちだ。(「荒んだ家庭環境のせいで悪魔的人間になった」という短絡性あり。)
《書評7-2》だが真の首謀者は沢野崇だと思わせる余地もある。Ex. バラバラ殺人事件のニュースを「瞳に異様な耀きを灯しながら画面に見入っている」崇の反応。Ex. 崇の口から放たれる意味深長なモノローグ。「俺は、取り返しのつかないことをしてしまった」(5章)。Ex. 「あいつが死んだのは、単なる偶然じゃない! 適当に選ばれたなんて、俺はこの期に及んで、自分を庇い立ててる! 分かってるんだって、それは! 俺にも責任がある!」と6章で崇が言う。Ex.、崇と篠原が国会図書館で接触していた可能性が8章で示唆される。

(55)-4 閉じた地域社会(地方都市)の息苦しさ:重松清『疾走』(2003)!
G-5 重松清(1963-)は『ナイフ』(1997、34歳)、『エイジ』(2000、37歳)など、1990年代からさまざまな家族や少年少女を描いてきた。(193頁)
★重松清(1963-)『ナイフ』(1997)
《書評1》いじめられながら誰にも助けを求めることができない「被害者」、被害者の近くにいながら「止められない者」、「見て見ぬふりをする者」、「被害者の家族」・・・・と、様々な人々の心理が描かれ、どの人物にも感情移入できてしまい、しんどい。
《書評2》「学校での理不尽ないじめと闘う子ども」や、「現実から逃げてしまう弱い自分と闘う親」など、共通しているテーマは「闘い」だ。「いじめを受けている子ども」が先生や親に相談せず、気丈に振る舞う姿が特に印象的だった。
《書評3》「弱い者、違う者を差別し痛めつける事で自分の存在を肯定する」という人の性がある限り、いじめを完全に無くすのは難しい。理不尽ないじめの中で被害者は自分の尊厳を守るため戦う。

★重松清(1963-)『エイジ』(2000)
《書評1》中2のエイジの住む町で起こった「連続通り魔事件」の犯人は、クラスメイトだった。ごく普通の目立たない少年が、なぜ「向こう側」へ行ってしまったのか?「犯人の少年の心情」は描かず、エイジを含む「周りのクラスメイト」のもがき苦しむ様子で、少年たちの葛藤を描き切る。
《書評2》「通り魔」という社会的な事件が身近に起こること、そして14歳「思春期」の変化が起こること。2つの揺さぶりによってエイジ達に変化が表れる。彼らは自分と周囲が「分からない」事に葛藤する。「自と他」、「子供と大人」、「男と女」、「A級とB級」、「先輩と後輩」、「善意と悪意」、そして「犯罪者と普通の人」。曖昧で中途半端な自分に苛立ちながら、自分なりの受け取り方を探す。やがて確かに自分の考えと位置があることに気付き、成長する。一歩大人になった彼らの姿はお日さまのように清々しい。

G-5-2  重松清(1963-)『疾走』(2003、40歳)のキーワードは「地方都市」だ。閉じた地域社会(地方都市)の息苦しさをあますところなく伝える。優秀な兄・シュウイチは高校でカンニングを疑われ停学処分、そのショックで放火事件を起こし少年院送りとなる。4歳年下の弟・シュウジは「赤犬(放火犯)」の身内として激しいいじめにあう。大工だった父は行方不明、化粧品販売で生計を支える母はギャンブルに逃避。中学卒業を前にしてシュウジは家出し、大阪、さらに東京で忌まわしい事件の当事者となる。(193頁)
《書評1》もう「これでもか」っていうくらい不幸が続いて、その度に手を差し伸べてくれる存在がいるのが救いではあるが、全体的に「いじめや暴力」の場面が多く、暗く気が滅入る。
《書評2》暗い話ばかりが続く。そして暗さも重さも増していく。でも、物語に引き込まれ一気に読んだ。シャッターに「私を殺してください」と書く「ひとり」と、「だれか一緒に生きてください」と書く「ひとり」。シュウジとエリ、それぞれが背負わされた、強烈な孤独と底知れぬ寂しさ。
《書評3》救いのない話。15歳の少年が駆け抜けた人生の話で、読めば読むほど重くなる。「どこかに救いがあるかも?」と思い、気になって数時間で読み終えたけど、結局どこにも救いはなかった。

(55)-5 地方都市の閉塞感、出会いの場さえない若者たちのあきらめにも似た気分:吉田修一『悪人』(2007)!
G-6  吉田修一(1968-)は『パーク・ライフ』(2002、34歳)(芥川賞受賞)など、それまでポヨヨンとした人間関係を描いてきた。(193頁)
《書評1》電車の中で知り合いと間違え話しかけたら普通に答えてくれた彼女。毎日のように行く日比谷公園で彼女と再会、名前も知らないのに少し会話をするようになる。淡々とした日常とちょっとした出来事が描かれる。
《書評2》ストーリーが存在せず、ただシーンが次から次へと流れていくだけのようだ。
《書評3》なんて初々しいのだろう!ちょっと背伸びするような、いっぱいのおしゃれで飾られた、日比谷公園を中心に展開される、都会生活の日々の情景。

G-6-2  これに対し吉田修一『悪人』(2007、39歳)は、吉田のブレイクポイントになった作品であり、そのキーワードは「地方都市」だ。(193頁)
G-6-3 主人公の清水祐一(ユウイチ)(27歳)は長崎の工業高校を出た後、健康食品会社に就職するが、すぐ辞め、カラオケボックス、コンビニでバイト、今は親戚が営む土建屋で日雇労働だ。すでに4年。その彼が福岡の生保会社に勤める石橋佳乃(ヨシノ)を図らずも殺す。その直後、祐一は、同い年の馬込光代(ミツヨ)を呼び出し、2人は、自動車で絶望的な逃避行をする。(光代は佐賀県の高校を出て食品工場に就職したが、人員削減で失職、今は国道沿いの紳士服量販店に勤める。)(194頁)  
G-6-3-2 祐一と佳乃が出会ったのも、祐一と光代が知り合ったのも「出会い系サイト」。先の見えない「地方都市」の閉塞感、出会いの場さえない若者たちのあきらめにも似た気分が、作品全体にあふれる。(194頁)
《書評1》結局誰が本当の「悪人」だったのだろう。作中には悪い奴がいっぱいだ。殺された佳乃も酷いし、増尾(佳乃をナンパした裕福な大学生)も腐ってる。人を殺すことは悪だが、殺人者が「悪人」なのかというとまた違う。「法を犯さなければ何をやってもいい」という訳でない。「善人」と「悪人」の差って何だろう。いろいろ考えさせられた。
《書評2》「解体工の男(祐一)が保険外交員(佳乃)を殺した」と、犯人は冒頭に明かされる。そこから被害女性、加害青年、彼ら・彼女らを取り巻く人物視点のドラマが展開される。タイトルの通り、誰が「悪人」なのか、わからなくなってくる。
《書評3》登場人物一人一人が丁寧に描かれる。良い人も悪い人も、 強い人も弱い人も みんなそれぞれが送ってきた人生がある。最後は「悪人」にならないと 周りの人を救えなかった、 そんな祐一の行きどころのない思いが 重く切ない。

(55)-6 社会から見捨てられた若者:行き場のない怒りと焦り、そして「殺人」!
G-7  2000 年代の特徴は「殺人」が純文学の世界にも津波のように押し寄せてきたことだ。社会から見捨てられた若者、行き場のない怒りと焦り、彼らに同情するも、どうにもできない女たち。(195頁)
G-7-2  2000年代の小説世界はムルソー(『異邦人』1942)、ラスコーリニコフ(『罪と罰』1866)、スメルジャコフ(『カラマーゾフの兄弟』1880)だらけだ。(195頁)
《参考1》ムルソー:母の死に無感情。「太陽が眩しかったから」とアラブ人を射殺。裁判で死刑を宣告される。
《参考2》ラスコーリニコフ:奪った金で世のために善行をしようと、金貸しの強欲な老婆を殺害する。だが偶然居合わせたその妹まで殺害してしまう。
《参考3》スメルジャコフ:カラマーゾフ家の使用人、卑屈で臆病。実は、家長フョードルの息子たち(退役将校ミーチャ、無神論者イワン、修道院で暮らすアリョーシャ)とは腹違いの兄弟。フョードルを殺す。

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「2000年代 戦争と格差社会」(その6):「希望のない国&殺人」村上龍『希望の国のエクソダス』『共生虫』、高見広春『バトル・ロワイヤル』、柳『ゴールドラッシュ』!(斎藤『同時代小説』5)

2022-04-22 13:32:21 | Weblog
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(54)「希望のない国のトレンドは殺人だった」:村上龍『希望の国のエクソダス』(2000)この国には「希望」がない!(a)「人格を二重化」してやりすごすか、(b)「復讐」でもしなければやってられない!
F  村上龍(1952-)『希望の国のエクソダス』(2000、48歳)は、ネットを通してつながりあった中学生たちが集団不登校や大人相手のビジネスに走る、という近未来小説だ。(189頁)
F-2  作中の「中学生」はこんな台詞を吐いている。「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが希望だけがない」。(189頁)
F-2-2  ①「いじめ」が常態化した「学校」。(189頁) 
※①-2 だが「いじめ」は学校だけでない。企業が基本的に「ブラック」だ。
※②企業がブラックなのは、労働者が「使い捨て」だからだ。「非正規雇用」が4割だ。
※③大学・大学院等の研究者でさえ「使い捨て」だ。 
※③-2大学院を出ても「日雇い」のようなものだ。この国の基礎は壊れつつある。
※④「ブラック」「使い捨て」「非正規雇用」「日雇い」のような状況では、結婚・子育て・子どもの教育費を賄う可能性も小さい。
⑤さらに「家庭」も100%安心な場と言えない。(※DVなど。)
かくて「中学生」にとって、この国に「希望」はない。(189頁)

F-2-3 『希望の国のエクソダス』の語り手は言う。「中流というか階級が消滅しつつあった。経済格差に慣れていない大多数の日本人にとって、それは耐えがたいことだった。八割から九割の国民が没落感に囚われ、羨望と嫉妬が露わになった。人々は怒りに駆り立てられ、無力感に襲われた。当然のことのように新しいナショナリズムが起こり、いくつかの新右翼の政党が生まれ、無力感に沈む人々は新興宗教に吸い込まれていった。」(189頁)
F-2-4 2000年代以降の日本を、この言葉はほぼ正確に予言している。(※つまり日本を覆う「没落感」、勝ち組への「羨望と嫉妬」、「怒り」、「無力感」!)(189頁)

★村上龍(1952-)『希望の国のエクソダス』(2000、48歳)
《書評1》経済が停滞し閉塞感の漂う日本。2001年、CNNで報じられた「日本を捨てパキスタンで地雷処理に従事する16歳の少年」の報道に触発され、日本に絶望した約80万人の「中学生」が学校を捨てる。彼らはネットワーク『ASUNARO』を結成し、インターネットを駆使して新たなビジネスを始める。そして、ついに北海道に広大な土地を購入30万人規模で集団移住し、都市および経済圏を独自に作り上げ、「日本からの実質的な独立」を果たす。日本経済が低迷する理由は「思考停止した大人達が既存システムに留まり続けた」ためであり、「中学生」達がそこに変革を起こすと小説は述べる。
《書評2》2001年インターネットで繋がった全国の「中学生」が集団不登校→IT関連産業の起業等を通じ経済的な自立→北海道へ集団移住。この小説が書かれた時(2000年)から今(2022年)まで、相変わらず「希望」なんて何処にもないけど、「希望」を見出す目的で改革するのも一策だと思った。
《書評3》読んでいて不快になることが多かった。 この本の「中学生」達に近い歳の私だけど、自分は全く「経済」の知識がない。「法律」もわからない。周りもそう。14、15歳なんかまだまだ主要五教科を勉強している歳なのに、いきなり「ビジネス」を始めてあそこまで成功すると思えない。「インターネット」の力を過信しすぎている気もする、また人は子供だとしてもそう簡単に「団結」しない。
《書評4》小中高生は「大人が作った教育現場」で教育を受けるのだから、そんな「若者」(「中学生」)に未来を託しても無理だ。リアルは「インターネットで文句をいう」くらいしかできない。「何かを変えたい」と思うなら何よりも「大人」達がするべきだ。

(54)-2 「希望のない社会」に対し、(a)「人格を二重化」してやりすごす:Ex. 『インストール』、『野ブタ。』、『蛇にピアス』、『黒冷水』! ※既述(52)(53)
F-3  「希望のない社会」でどうやって生きろというのか。(a)「人格を二重化」してやりすごすか、(b)「復讐」でもしなければやってられない。(189頁)
F-4  「希望のない社会」をやりすごすための「人格の二重化」は、他方でネットメディア抜きにはやはり考えられない。(ア)綿矢りさ『インストール』(2001)では、「私」(17歳の高校生)はインターネット上で風俗嬢になりすまし、客と「エロチャット」をする。不特定多数を相手にした掲示板などは「リアルな私」と切り離された、匿名性の高い「バーチャルな私」の世界だ。(187頁)
F-4-2  (イ)『野ブタ。をプロデュース』の「俺」こと桐谷修二は、この「人格の二重化」をリアルな世界でやろうとする。(187頁)
F-4-3 (ウ)『蛇にピアス』のルイは「二重化」が当たり前になった世界で、「身体性」をとりもどそうとする。(187頁)
F-4-4  (エ)父母の前では平然と生活しつつ、裏でステルス攻撃に熱中する『黒冷水』の兄弟も、表と裏、「二重の人格」を使い分ける。(187頁)

(54)-3 「希望のない社会」に対する(b)「復讐」(少年少女たちの破壊衝動):高見広春(タカミコウシュン)『バトル・ロワイヤル』(1999)が若い世代に支持される!
F-5  高見広春(タカミコウシュン)(1969-)『バトル・ロワイヤル』(1999、30歳)が、若い世代に支持され100万部を超すベストセラーになったのはなぜか?それは「希望のない社会」で、少年少女たちの「破壊衝動」(「復讐」)が一般化した時代だからだ。なんらかの事情で「復讐」を考えてもおかしくない時代に、私たちが生きている。(188-190頁)
F-5-2  高見広春『バトル・ロワイヤル』の舞台は全体主義の国「大東亜共和国」だ。そこでは毎年「防衛上の必要から行っている戦闘シミュレーション」として殺人ゲームを「中学生」にさせる実験を行っていた。1997年香川県城岩町城岩中学校3年B 組42人が実験の対象に選ばれる。かくして最後の1人が残るまで殺し合うゲームが始まる。(188頁)

F-5-3 神戸連続児童殺傷事件(1997)(※男子中学生14歳が相次いで小学生5人を殺傷し、うち2人死亡させた。酒鬼薔薇聖斗サカキバラセイトと名乗る)、佐世保小6女児同級生殺害事件(2004)(※6年生の女子児童が同級生の女児にカッターナイフで切り付けられて死亡した事件。)など、1990年代後半から2000年代前半の日本は「少年の凶悪犯罪」に呆然とした。(統計的に見れば少年の凶悪犯罪は年々減少していて、1960年代のほうがはるかに多い。)(190頁)
F-5-3-2  佐世保の少女が読んでいたことで、『バトル・ロワイヤル』は攻撃の対象となった。だが問題は、実際の事件と小説の因果関係ではない。問題は、少年少女たちの破壊衝動が一般化した時代、彼らが「復讐」を考えてもおかしくない時代に私たちが生きていることだ。(190頁)

★高見広春(タカミコウシュン)(1969-)『バトル・ロワイヤル』(1999、30歳)
《書評1》個々の心理描写が描かれていて、みんなが極限状態の中で「大人が決めたルール」に付き合わされ、それでも必死に戦い抜いていく姿が見えた。
《書評2》「42人もいて中弛みしないだろうか」と思ったが書き切る筆力は圧巻。「ありえないシチュエ―ションで、それぞれの個性また運命を書き切る」にはこれだけのページが必要ということだろう。
《書評3》残酷さが目立つ作品ではあるけれど、死を目の前にした中学生たち1人1人の行動や感情が儚く切ない。読後の喪失感が凄まじくてしばらくボーッとしていた。面白かった。
《書評4》様々な人(親しい友人、恋人、ただのクラスメイト等)がいる中で「信頼すること」の難しさと重要性がテーマとして描かれる。中学生という多感な時期を描いているので、「心の揺れ動き」がより如実に伝わった。 終盤で人生について語る場面があり、印象的だった。「結局、いい家や車に乗って自分を着飾っても最後には死ぬ。だったら何の為に生きるのか?人生は虚無と言えるかもしれない。しかし、嬉しいとか悲しいとかを感じることができれば埋めることができるだろ?」

F-5-4  しかし『バトル・ロワイヤル』は意外に正攻法の少年文学だ。42人の中学生は好きで戦っているのでなく、国家権力によって殺し合いを強制されているわけで、中学生(兵士)と教師(上官)、その背後にある国家権力の関係は、「戦争」そのものと言える。(斎藤美奈子氏評。)(188頁)
F-5-4-2  その構造に気づいている生徒のひとり、川田章吾が言う。「俺は復讐したい、それが自己満足に過ぎなくても、この国に一発食らわせてやりたい。」(188頁)

(54)-4  2000年代の文学のトレンドは「殺人」と「テロ」で、1990年代末からこの傾向ははじまっていた!柳美里『ゴールドラッシュ』(1998)、村上龍『共生虫』(2000)!
F-6  再度言えば、2000年代の文学のトレンドは「殺人」と「テロ」だった。1990年代末からこの傾向ははじまっていた。(190頁)
F-6-2  柳美里(1968-)『ゴールドラッシュ』(1998、30歳)は、神戸連続児童殺傷事件(1997)に触発されたという作品で、崩壊した家庭に育った少年が「父親」を殺害する物語。(190頁)
《書評1》パチンコ店を経営する父、金はあるが家族はばらばらだった。母は別居、兄は精神疾患を患い、姉は遊びまくって父に反抗、主人公は三番目の少年、かずき。父はこの少年を跡取りにしようとする。少年は自分が「大人と対等」と勘違いし、「金があれば何でも自分の思い通りになる」と思う。やがて少年は、「父を殺し、経営を自分で行う」ことを考える。背筋が凍り、目をそむけたくなる描写がある。「ドロドロした少年の心」を救えない大人たち。
《書評2》心理的に恵まれない境遇の少年が「親殺し」に手を染めた後、「親殺し」が自身の救済につながらないことに気づき、主人公が現状を受け入れ精神的にほんの少しだけ成長するという小説だ。「やさぐれている思春期の読者」には強く響くだろうが、それ以外の読者には「グロテスクさ」のため敬遠されるか、「幼稚な世界観」のため冷笑されるだろう。自身の子どもが思春期で、「ナイフ」を携帯したり、「麻薬」を常用したり、「いじめの主犯」だったり、「売春」するなど、酷く荒れているのであれば、参考となる小説かもしれない。

F-6-3 村上龍(1952-)『共生虫』(2000、48歳)は、インターネットを通じて自分は選ばれた者だと思い込んだ「引きこもり」の青年が、自分を翻弄した連中の殺戮に向かう物語だ。(190頁)
《書評1》主人公「ウエハラ」とウエハラが作りあげた妄想である「共生虫」。これに寄生された人物には殺戮が許されると「インターバイオ」の連中が嘘を吹き込む。「ウエハラ」は父と兄を撲殺し、インターバイオの3人を毒殺する。この小説は、主人公の成長を描いた一種の「教養小説」(Bildungsroman)とも言える。
《書評2》「引きこもり」のウエハラには、彼が信じる「共生虫」が絶対だ。自分の家族も、将来も、仲間も、「共生虫」に及ばない。そんなウエハラが、共生虫を理解してくれる団体「インターバイオ」をHPで得てから活動が始まる。これまでの「引きこもり」が嘘のように、行動力抜群のウエハラ。父と兄をバットで殴り殺し、ウエハラを操ろうとした3人の男には毒ガス。ウエハラの視界には生贄を物色することしか無い。

F-6-4  2000年代に入ると、「殺人」や「テロ」の物語はさらに増加する。それは新人作家も中堅作家もベテラン作家も巻き込んだ動きだった。(190頁)

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「2000年代 戦争と格差社会」(その5):「バーチャルな敵と戦う若者たち」羽田圭介『黒冷水』、舞城王太郎『阿修羅ガール』、佐藤友哉『灰色のダイエットコカコーラ』!(斎藤『同時代小説』5)

2022-04-19 22:54:16 | Weblog
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(53)「バーチャルな敵と戦う若者たち」:羽田圭介の17歳のデヴュー作『黒冷水』(コクレイスイ)(2003、17歳)、兄弟げんかの域を超えた壮絶なバトルで弟が廃人化する!
E  「良識のある大人」が目を白黒させそうな作品がまだある。(184頁)
E-2  羽田(ハダ)圭介(1985-)の17歳のデヴュー作『黒冷水』(コクレイスイ)(2003、18歳)は、高校2年生の兄と、中学2年生の弟が、兄弟げんかの域を超えた壮絶なバトルを繰り広げる物語だ。
E-2-2  弟が、兄の部屋に忍び込んで秘密の文書(Ex. エロ雑誌・エロ動画)を物色する。復讐として自分の部屋に様々な罠を仕掛ける兄。陰湿でフィジカルな攻撃に出る弟、頭脳戦で弟の自尊心をずたずたにする兄。それはやがて日常をおびやかし、最後は弟が廃人化する。(184頁)

《書評1》兄弟喧嘩ではすまない、陰湿で過激な復讐。発端は、弟修作の兄の部屋に無断で入る行為。その仕返しが怪我をさせるほどで、弟も気持ち悪いが、兄のやり口が酷すぎて、それを正義感だとしている兄が怖い。後輩に弟の愚痴を聞いて貰っていたら、その後輩は更に上をいく悪で、すでに弟を薬漬けにしていた。流石に兄は焦って弟を立ち直らせる・・・・。(ところが、どんでん返し。これらが小説の中の小説で・・・・)
《書評2》うーん。重い。描写が気持ち悪い。 憎しみ合う兄弟の話で、最終的に「全てが兄の書いた小説だった」という構成。 私も兄弟仲が良くないので「分からないでもない」が、あまりにも陰湿だ。「殺したい」とは、さすがに理解不能。なんとも胸が重苦しい。でも、相手やそれまでの関係性から「そう思ってしまうこともあるのかな?」 どちらにせよ、私に向かない。もうこの作家さんの本は読まないだろう。
《書評3》「黒冷水」ってどういう意味か、読み進めていけば分かるだろうと思い読み始めた。「黒く冷たい水」というと「陰」なイメージだが、「陰」なんてもんじゃない。真黒でどろどろし、負の感情すべてをごちゃまぜにしたような、気持ち悪くなるほどの「黒」描写だ。

(53)-2 バーチャルな世界とリアルな世界がないまぜになり、非現実的なことが突然起こる:舞城王太郎(1973-)『阿修羅ガール』(2003、30歳)!
E-3  女子も無事ではいられない。舞城王太郎(マイジョウオウタロウ)(1973-)『阿修羅ガール』(2003、30歳)の主人公アイコ(調布に住む女子高生)の初体験の相手は佐野。佐野が行方不明となり殺害された可能性が浮上。佐野に最後に会った人物となったアイコがリンチの対象となる。ネット上の匿名の掲示板に「アルマゲドンin調布」と無差別殺人を予告するスレッドが立つ。アイコはおびえながらも掲示板に「カツララブ子は超悪魔。便所。自宅の近くをうろうろしてるから狩ってマワして殺して良し!」と書き込む。こうしてアイコは現実とも夢とも妄想ともつかぬ戦場で逃げ惑う。(※街では連続幼児殺人犯『グルグル魔人』が暴れており、匿名掲示板『天の声』では中学生狩りが始まり、アイコが住む調布市はアルマゲドン状態となる。)(184-185頁)
E-3-2  バーチャルな世界とリアルな世界がないまぜになり、非現実的なことが突然起こる舞城王太郎の世界。(185-186頁)
E-3-3  『阿修羅ガール』では女子高生の日常語による一人称で緊張感のある世界が描かれる。(186頁)

《書評1》ほとんど改行なしで見開きいっぱいに埋まった文字、しかも女子高生の一人語り。奇妙な事件。圧倒される。なるほどこれが噂に聞いた「21世紀の新しい才能」か。注目されるのも何となく分かる・・・・しかし苦労して340ページを読み切っても、結局大した落ちはない。心が微塵も動かない。どうでもいい他人の夢を、山も谷もない妄想を、延々聞かされた気分になった。
《書評2》「ねえよねえよねえんだよ。」跳ねる女子高生の語り口とクサクサしてる感じが面白いと思っていたら、ヒュッと息を呑む展開。第二部に突入すると、なんの世界なのか勢いを増すカオスに此処は何処状態。しかし第三部で全てがわかり穏やかな風を感じるラスト。こんな幕引き想像できるはずもなく、圧巻だった。密かな片思いというミクロから、自意識と自己の存在というマクロへの飛翔。怪作!

E-4  兄弟で罠をしかけあう『黒冷水』(コクレイスイ)といい、匿名の掲示板が凶器と化す『阿修羅ガール』といい、青春小説の域を超えた「異常な世界」だ。彼らは「目に見えない相手」と戦っており、しかも自分の中の「破壊衝動」を抑えることができない。(斎藤美奈子氏評。)(186頁)

(53)-3 佐藤友哉(ユウヤ)『灰色のダイエットコカコーラ』(2007):「僕」は、「肉のカタマリ」である普通の大人だけにはなりたくないと焦り、人波にダンプカーで突っ込む!
E-5  『黒冷水』と『阿修羅ガール』と同質の少年が、佐藤友哉(ユウヤ)(1980-)『灰色のダイエットコカコーラ』(2007、27歳)にも描かれる。Cf. なお佐藤友哉『1000の小説とバックベアード』(2007)は一種のメタフィクション(※小説というジャンル自体に言及・批評するような小説、Ex. 作中作、詩中詩、劇中劇)だった。(186頁)
《書評:『1000の小説とバックベアード』》「小説」を書きたかったけど「小説のようなもの」である「片説」しか書けなかった「僕」に、なぜか小説の執筆を依頼する女性が現れる。「僕」は他の者たちからの妨害や助言を受けながら、なんとか「小説」を書こうする。佐藤友哉が「小説」に対し悩み、考え、感じたこと、つまり、自分の創っている「小説」について、「本物か偽物か」あるいは「価値or意味あるものか」という佐藤友哉の悩みと、それに対する彼なりの回答が描かれている。

E-5-2  『灰色のダイエットコカコーラ』の主役は「中二病」(※思春期に見られる背伸びした言動、態度が過剰に発現している状態)のテロリスト志望者だ。(186頁)
《参考》「中二病」の症例:「親に冷たい態度をとる」、「孤高を持する」、「ロックや洋楽を聴き始める」、「無理してブラックコーヒーを飲み始める」、「何でもやれば出来ると思う」、「売れたバンドを売れる前から知っていたとムキになる」等。

E-5-3  19歳の「僕」は北海道の冴えない町でくすぶるフリーター。(a)「僕」は、「覇王」の別名を持つ亡き祖父と、中学時代の友人「ミナミ君」を尊敬する。(b)「僕」が6歳のときに死んだ祖父は、町の権力を握った「怪人」。(c) 「ミナミ君」は「計画書」と題したノートに、圧殺、爆殺、刺殺、絞殺、殴殺、毒殺・・・・といった文字を書き連ね、「僕」を興奮させた。(c)-2 しかし「ミナミ君」は「神戸連続児童殺人事件」(男子中学生14歳が相次いで小学生5人を殺傷し、うち2人死亡させた。酒鬼薔薇聖斗サカキバラセイトと名乗る)の少年Aに嫉妬し、17歳で自ら命を絶った。(d)取り残された「僕」は、彼が「肉のカタマリ」と呼ぶ普通の大人だけにはなりたくないと焦り、人波にダンプカーで突っ込む。(186-187頁)
E-5-3-2 「僕」は思う。「これが見たかった/これがしたかった/アクセルを一気に踏み込む」、「右往左往する肉のカタマリ/逃げ遅れる肉のカタマリ/お前たちの存在意義は、ここで僕に殺されることだ」。(187頁)

《書評1》かつて63人もの人間を殺害し、暴力と恐怖の体現者たる「覇王」として君臨した今は亡き偉大な祖父。その直系たる「僕」がこの町を、この世界を支配する―そんな「虹色の未来の夢」もつかの間、「肉のカタマリ」として「未だ何者でもない灰色の現実」を迎えることに「僕」は気づく・・・・「僕」の全力の反撃が始まる・・・・
《書評2》(a)自身を他人(「肉のカタマリ」)とは違う格上(カクウエ)の存在と盲信、(b)見識の狭さから来る過剰な自意識、(c)実は喧嘩に強い、気が付けばハーレム状態を構築しているといった「イキリオタク夢想(無双)」的展開の陳列棚。(※「イキる」:偉ぶっている・調子に乗っている。)(※「無双」:あることが立て続けに起こること・状態。)
《書評3》青年期、誰もが一度は悩んだ事柄。「自分はこのままでいいのか? 日常をだらだら生きて、何者にもならないまま死ぬ。そんなの絶対に嫌だ。」だからといって、なにか特別な才能があるわけでもない。別段何かに力を注いでいるわけでもない。主人公には偉大な祖父がいた。彼は祖父のようになりたいと思った。しかしどうすればいいのかわからない。だけど、ただの「肉のカタマリ」になるのは嫌だ!
《書評4》最後に主人公は実は、見下していた「肉のカタマリ」としての生活を受け入れ、そしてその生活に喜びを見出す。しかしハッピーエンドとは程遠い印象が残る。

E-5-4 『灰色のダイエットコカコーラ』のダンプカーで突っ込むシーンは後の「秋葉原通り魔事件」(秋葉原無差別殺傷事件)(2008)を連想させる。(※秋葉原の歩行者天国において17名がトラックで撥ねられ、またナイフで刺され、うち17名が死亡。)(187頁)

E-5-5  佐藤友哉『灰色のダイエットコカコーラ』(2007)は、中上健次(1946-1992)の短編『灰色のコカコーラ』(1975、29歳)にインスパイアされた作品だ。(186頁)
《書評》中上健次『灰色のコカコーラ』:鎮静剤中毒の予備校生の無為な日々の物語。全篇に漂う無力感、静寂感、そして緊張感。一人称で「らりって」いる主人公が語り続ける。幻覚が現れ、また突然、何の関係もない人物が現れ去る。薬とモラトリアムの世界。主人公は幻覚のもとで、アイスピックで人を襲い、車を破壊し、女子学生を拉致し無免許運転し事故を起こす。鎮痛剤でふらふらに酔った主人公は、無感情で突如、暴力的行動に出る。理由なき暴力のリアリティー。

E-6  兄弟げんか(中2と高2)の域を超えた壮絶なバトルで弟を廃人化させる兄(『黒冷水』)、バーチャルな世界とリアルな世界がないまぜになり、現実とも夢とも妄想ともつかぬ戦場で逃げ惑うアイコ(女子高生)(『阿修羅ガール』)、「肉のカタマリ」である普通の大人だけにはなりたくないと焦り、「肉のカタマリ」どもにダンプカーで突っ込む「僕」(中2)(『灰色のダイエットコカコーラ』)。それにしても、この時代(2000年代)の青少年(中高生)は、いったいどうなってしまったのか?(187頁)

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「2000年代 戦争と格差社会」(その4):「『私』をインストールする若者たち」!綿矢りさ『インストール』、金原ひとみ『蛇にピアス』、白岩玄『野ブタ。・・・・』!(斎藤『日本の同時代小説』5)

2022-04-17 20:05:34 | Weblog
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(52)「『私』をインストールする若者たち」:「別人格を演じる」あるいは「複数の人格を使い分ける」若者たちor人格の二重化!綿矢りさ『インストール』(2001)、金原ひとみ『蛇にピアス』(2003)!
D 『セカチュー』がブームになっていた2004年、当時19歳だった綿矢(ワタヤ)りさ(1984-)『蹴りたい背中』(2003)と、20歳だった金原(カネハラ)ひとみ(1983-)『蛇にピアス』(2003)が芥川賞を同時受賞した。(182頁)
D-2  2冊がベストセラーになったのは、(ア)作者の年齢故だったとしても、(イ)1980年代からじわじわと成長してきた「広義の少女文学」がとうとう時代を席券したといえなくもない。(182頁)

★綿矢りさ(1984-)『蹴りたい背中』(2003、19歳)
《書評1》どこにでもいそうな「長谷川」と「にな川」の日常を淡々と描く。周囲に馴染めない「変わり者」同士。だけど、「どこか違う」人間。孤独、執着、満たされないなにか・・・・。誰の中にもありそうな感情が綴られている。大人になってもたまに読んで自分を見つめ直したくなるような作品。
《書評2》「にな川」という男子、いまいちつかみどころのないやつ。にな川は普通の人なら当然怒ることをされても、さらっと受け流す。かといってただ鈍感なやつという訳ではなく、非常に周りが見えていて、やさしい男だ。そんな「にな川」の背中をなぜか主人公は「蹴りたい」と思う。これは一種の愛情表現なのか?

D-3  綿矢りさ(1984-)は、注目すべきはむしろ17歳のデビュー作『インストール』(2001)だ。「私」こと朝子は17歳の高校生。不登校になり、自らをリセットすべく部屋の家具を全部捨てる。そして母を騙し、昼間学校に行くふりをしつつ、奇妙なバイトに手を染めだした。同じマンションに住む小学6年生の「かずよし」に紹介された。インターネット上で風俗嬢になりすまし、客と「エロチャット」をする仕事だ。(182頁)
《書評1》この世界の裏側から現実を見つめる少女は、「欲望」と「一切を省いた直接的な人間関係」に興味をもち次第にのめりこんで行く。
《書評2》主人公と「パソコン」を重ねて見てもよいのかもしれない。壊れたように見えて壊れてない、再起動させたり、新しいソフトを入れるだけで「変われる」パソコンor主人公。インストールするものが変わるだけで、本体(パソコンor主人公)は変わらない。
《書評3》現状に行き詰った女子高生が、物を全部処分したり、小学生男子と組んでチャット嬢をやるが、最後は何も変わらないように「日常に戻っていく」。前向きな気持ちで戻っていく主人公を見て、スッキリした読後感を味わえた。無駄なように見えるけど、こういう時間も時には必要かもしれない。

D-4  金原ひとみ(1983-)『蛇にピアス』(2003、20歳)は身体性の高い小説だ。「私」ことルイは19歳。同性中の男「アマ」に感化され、もっか舌の改造中。アマは全身に刺青、瞼にも唇にもピアスを入れている上、スプリットタン(舌先が二つに割れた舌)を持つ。「私」もスプリットタンを目指し、舌先にあけたピアスの穴を拡張する施術(舌ピ)を繰り返す。また刺青師「シバさん」に頼んで、背中に「龍と麒麟」の刺青を入れる。(182-183頁)
D-4-2  「外見で判断される事を望んでいる。」「私が生きている事を実感できるのは、痛みを感じている時だけだ。」(183頁)

《書評1》何かに依存しなければ生きていけない。「痛み」でしか感じられない。痛ましい若者の刹那の生。飾り気のない文章がそれを引き立たせる。
《書評2》わたしも19歳で、舌にピアスが開いている。 主人公のように「アンダーグラウンドの世界で影として生きていきたい」、そういったところに共感した。 若いからこそ、のお話なのかなとも思った
《書評3》空っぽな自分を持てあますルイが痛々しい。ルイの心の空洞を埋められるものは何だったのか。アマか、シバさん(刺青師)か、刺青やスプリットタンか。きっとどれも、その場しのぎにしかならないんだろう。
《書評4》この著者は「書くことで生き繋いできた」と述べている。ピアスの穴開けは、一種の自傷行為だ。著者自身の自傷行為は、10歳からだったそうだ。
《書評5》ルイは「ピアスの痛み」に生かされていたが、「アマの不器用な優しさ」にも生かされていた。だが「アマはシバさんに殺された」。「蛇が丸呑みしたかの如くシバさんがアマを所有した」。そして「そのシバさんをルイが所有する」ことで、それが拠り所になりルイは生き続けていくのだろう。
《書評6》ルイは、死に対しギリギリだけれど、たぶこれからも「死なない」気がした。
《書評7》あまりにも自分を傷つける描写が多く、凄く薄い本なのに読み終えるまでに時間がかかった。 全体が常に赤黒く染められている様な感じがして、行動もマネできないし、マネしたくもない。「このような世界もあるのだ」と知らせてくれた作品だった。

D-5  綿矢りさ『インストール』と金原ひとみ『蛇にピアス』は、まるで違った小説のようだが、「『私』のアイデンティティが分裂している」点で共通している。(a)ネット上での「なりすまし」や、(b)ボディピアスなどの肉体改造によって、「別人格を演じる」あるいは「複数の人格を使い分ける」若者たち。(183頁)
D-5-2  「私らしさ」にこだわった「1980年代の少女たち」と比べると、まるで宇宙人のようだ!(183頁)

(52)-2 「人格」の「二重化」・「キャラクター化」or「どんな自分を演じるか」:白岩玄(シライワゲン)『野ブタ。をプロデュース』(2004)!
D-6  「人格の二重化」を別の形で描いたのが白岩玄(シライワゲン)(1983-)『野ブタ。をプロデュース』(2004、21歳)だ。「俺」こと桐谷修二は、朝起きると「さてと。きょうも俺をつくっていかなくては」と考えるような高校生だ。彼は家族の前でも級友の前でも「素晴らしい高校生」を演じる。(183頁)
D-6-2  そんな「俺」の前に、転校生、小谷信太(コタニシンタ)(野ブタ)が現れる。信太は「気持ち悪いほどオドオドしたデブ」だ。信太に「弟子にしてください」と頼まれた「俺」は、「そうだ、プロデュース。それだ」とおもいつき、信太の改造計画に乗り出す。(※人間関係を華麗にさばき、みんなの憧れのマリ子を彼女にする桐谷修二は、クラスの人気者。ある日、イジメられっ子の転校生・小谷信太が、修二に弟子入りを志願するが…はたして修二のプロデュースで、信太=野ブタは人気者になれるのか?!舞台は教室。プロデューサーは俺。イジメられっ子は、人気者になれるのか?!)(183-184頁)
D-6-3  人格はすでにキャラクター化しており、「どんな自分を演じるか」だけの問題に還元されてしまったかのようだ。(184頁)

《書評1》主人公は、「桐谷修二」のいわば「着ぐるみ」を着る高校生。オシャレで清潔、テンポの良い会話、かわいい彼女(まり子)有り、人気者グループに所属。でも、それは高校生活を快適にするための演出にすぎず、「本当は誰のことも、好きではないし大事じゃない」。適当な会話と笑いで、仲のいいフリをしながら、「心地良い距離」を保つ。
《書評1-2》そんな「自己演出」の才能ある修二が、自分の才能を試すため、いじめられっ子の「野ブタ」(信太)をプロデュースする。そしてそれは成功する。だがいい気になっていた「桐野修二」というキャラは、あえなくひきはがされ、彼は孤独の底へまっしぐらだ。
《書評2》信太(シンタ)がいじめの対象になり、深刻な暴力さえ受けるようになって、修二は信太を気にする。だが修二は「本気で信太を心配する」わけでなく、「退屈しのぎ」の「ゲーム」として、いじめられっ子の信太を人気者へ変貌させる「プロデュース」を行う。
《書評3》「人生はつまらない。この世の全てはゲームだ」と考える桐谷修二。彼は、大した努力もせずに、なんでもこなせる文武両道な人気者。優秀さに驕り、表向きは仲良く接している周囲の人々を「自分よりも劣る者」として内心では嘲る。
《書評4》修二の様々なプロデュースの結果、信太(シンタ)へのいじめはなくなる。信太は人との接し方が不器用だったが、「誠実で優しい人柄」だったため本当の人気者となる。「外面」を良く見せることで人気者の地位を保っていた修二は、「素のままで周囲からの支持を得る野ブタ」に嫉妬さえ感じる。
《書評4-2》あるトラブルで修二は、友人たちからの信頼を失なう。そのとき初めて修二は①自分が内心で抱いてきた周囲の人々に対する「侮蔑」が実は隠し切れていなかったこと、②そのことを見抜いた上で周囲は修二の「幼さ」を黙って受け入れてくれていたことを思い知る。プライドを打ち砕かれる修二。「人気者」信太(シンタ)と「蔑まれる者」修二。いつの間にか修二と信太の立場は入れ替わっていた。
《書評4-3》修二は、まり子や信太(シンタ)のとりなしを拒み続けて孤立し、結局転校する。新しい学校で、今度は自分自身を「プロデュース」し、誰にも見破られないよう完璧な人気者を演じ切るのだと誓う修二。だが「素の自分」を殺し生きることで、修二の「二面性」はますます強まる。

《感想》身体が一つしかない(ドッペルゲンガーは現実にはいない)から、身体アイデンティティは一つだ。かくて国家は一つの身体アイデンティティに対して、一つの身分証明を行う。(Ex. 戸籍、住民登録、マイナンバー)

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「2000年代 戦争と格差社会」(その3):「悲恋に走るケータイ小説」本田透、速水健朗! 住野よる『キミスイ』!片山恭一『セカチュー』!『ハリー・ポッター』!(斎藤『同時代小説』5)

2022-04-15 22:54:16 | Weblog
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(51)「悲恋に走るケータイ小説と『セカチュー』」:ケータイ小説の7つの特徴的なモチーフ(本田透)「①売春、②レイプ、③妊娠、④薬物、⑤不治の病、⑥自殺、⑦真実の愛」!「不幸満載」のケータイ小説!
C はたしてケータイ小説とは何だったのか?本田透(トオル)(1969-)『なぜケータイ小説は売れるのか』(2008、39歳)は「ケータイ小説に描かれる7つの大罪」と称し、ケータイ小説の特徴的なモチーフを7つあげる。「①売春、②レイプ、③妊娠、④薬物、⑤不治の病、⑥自殺、⑦真実の愛」だ。(179頁)
C-2  ケータイ小説は、本田によれば、「文学」として「陳腐」であっても、それは関係ない。ケータイ小説は、それを書いたり読んだりする女子高生にとって「傷つき疲弊した『自我』を回復させようとする精神のリハビリテーション」なのだ。(179頁)

《書評1》一応、ケータイ小説の分析だが、最終的には、「二次オタ最高!」(※「二次元萌え」の「現実の恋愛」に対する優位を主張)、「恋愛資本主義(※マスメディアの恋愛観)はクソ!」という「電波男」の哲学に収束する。要は、ケータイ小説をダシにしたいつもの本田透である。本田透は、努めて冷静にケータイ小説を読みこむ。その過程が深読みしまくりで、真面目なのか小馬鹿にしてるんだか分からないシュールさが出ていて面白い。
《書評2》既存の小説は、「地方の少女たち」が求める物語を供給できなかった。そこに登場した「ケータイ小説」。若い頃は、「悪い事する私かっこいい」等、カッコ良さが全て。オタクの様に「空想」に浸れない少女たちは、「リアル」を舞台にするしかなく、「レイプ」、「妊娠」、「いじめ」等ぐらいしか刺激的なネタがないという分析。「何もない田舎の空虚さを示している」という点は、結構納得する。
《参考》本田透(トオル)は、三次元の女性に興味を持たず、軋轢(アツレキ)を避けることを「護身」と称し、「脳内妻」や「脳内妹」などの「脳内家族」と満ち足りた生活を送っていると主張している。

C-2-2  速水健朗(ハヤミズケンロウ)(1973-)『ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち』(2008、35歳)は、ケータイ小説が1990年代の「壮絶人生系」ノンフィクション(Ex. 乙武洋匡、大平光代、柳美里、飯島愛)と親和性の高いジャンルであると言う。そして「不幸満載のケータイ小説は、携帯電話普及以前からヤンキー少女的世界に存在していた『不幸自慢』文化の延長であると考えられる」と述べる。(179頁)

《書評》著者・速水健朗は1986年の山根一眞(カズマ)『変体少女文字の研究』から宮台真司(1959-)(Ex. 『制服少女たちの選択』1996)、大塚英志(エイジ)(1958-)(Ex. 『物語消費論――「ビックリマン」の神話学』1989)、東浩紀(アズマヒロキ)(1971-)、土井隆義(1960-)(Ex. 『非行少年の消滅 - 個性神話と少年犯罪』2003)らの評論もきちんと視野に入れている。その上で浜崎あゆみと尾崎豊の違い、『ティーンズロード』(1989-1998、レディース暴走族のファッションやライフスタイルを扱う)などの雑誌やマンガ『ホットロード』(1986-1987、紡木ツムギたく、暴走族の和希カズキと洋志ヒロシの物語)、『NANA』(1999-2009、矢沢あい、同い年の奈々とナナの物語)、『頭文字D』(イニシャル・ディー)(1995-2013、しげの秀一、峠道で自動車を高速走行させる走り屋の若者たちを描く)などを例に、ヤンキー文化(郊外型、地元つながり、コミュニケーション依存、DV傾向)について分析を試みる。そこから、「不幸自慢のインフレスパイラル」としての「自分語り」であるケータイ小説の性格が露わになる。なお「ヤンキー文化と相性のいい相田みつを」など、独自の視点が、なかなか説得力があり面白かった!!

(51)-2 ケータイ小説のキーワードは「地方都市」だ!
C-2-3  ケータイ小説にかんして本田透(トオル)と速水健朗(ケンロウ)がキーワードとしてあげるのは「地方都市」だ。(a)物語の舞台が「地方都市」、(b)本が売れているのも郊外の大型ショッピングモールの書店、(c)東京との情報格差、文化格差が広がった「地方都市」。(179頁)
C-2-3-2  そこで辛うじて「リアル」と感じられるのは恋愛、セックス、妊娠、病気、死といった「本能的、生物学的なイベント」だけではないのか?(斎藤美奈子氏評。)(179頁)

(51)-3  ケータイ小説の興隆の背景:①「都市型消費社会のニヒリズム」、②「大きな物語」の崩壊、③物語を解体するばかりで、新しい物語を構築しようとしなかったリベラル派知識人!「WEB小説」『君の膵臓をたべたい』(2015)!:
C-2-4 ケータイ小説の興隆の背景について、本田透が言う。「1990年代、①都市型消費社会のニヒリズムは『援助交際』にまで行き着いていた。ポストモダン思想的に言えば②『大きな物語』が崩壊し、リベラル派社会学者・宮台真司あたりが、その種の少女を妙に持ち上げていた時期である。」(180頁)
C-2-4-2 だがその先に救いはなく、結局それ(※「援助交際」を持ち上げたりすること)は「ニヒリズムの裏返しであり、物語の放棄だった。」(本田透)(180頁)
C-2-4-3 ③「若者たちは、《物語を解体するばかりで、新しい物語を構築しようとしないリベラル派知識人》の言葉を信じなくなり、代わりに保守主義・・・・《古びたはずの過去の物語》が台頭した。」(本田透)(180頁)
C-2-4-4 つまりケータイ小説の興隆には、ポストモダンの掛け声に浮かれ、冷戦終結後のビジョンを示せなかった知識人に(文学にも?)責任があると、本田透は言う。(180頁)

C-2-5  ケータイ小説は一過性のブームに終わり、2010年代に入る頃には「WEB小説」というジャンルに進化、発表先は「小説家になろう」という新しいプラットホームに移行する。
C-2-5-2 ここから生まれたベストセラーが、やはり「難病モノ」の住野よる『君の膵臓をたべたい』(2015)(『キミスイ』)だ。(180頁)
《参考1》「僕」:友人や恋人などの関わり合いを必要とせず、人間関係を自己完結する。小説を読むのが好きで、一番好きな小説家は太宰治。ある日、病院で偶然、山内桜良の秘密の日記帳「共病文庫」を読んでしまう。桜良との交流により、「僕」は人を認め、人と関わり合う努力を始める。
《参考2》「山内桜良(サクラ)」: よく笑い、元気で表情豊かな少女。膵臓の病気のため、「僕」と会った時に余命1年だった。桜良は「自分の運命を恨まない」と決め、日記のタイトルを「闘病日記」の代わりに「共病文庫」とつけた。だが桜良は、余命を全うすることなく、通り魔に刺されて亡くなる。

(51)-4 「古びたはずの過去の物語」の復活(「難病モノ」):片山恭一『世界の中心で、愛を叫ぶ』(2001)(『セカチュー』)!
C-3  「古びたはずの過去の物語」の復活は、ほかにもあった。片山恭一(1959-)『世界の中心で、愛を叫ぶ』(2001、42歳)(略して『セカチュー』)の爆発的なヒットだ。(2004年までに300万部!)(180頁)
C-3-2  『セカチュー』は「難病モノ」だ。純愛と難病が好きな「ケータイ小説」の高級バージョンと言えるかもしれない。30代になった語り手「僕」(松本朔太郎)が失った恋人・廣瀬亜紀との日々を回想する。亜紀は17歳のとき、白血病で死んだ。(181頁)

《書評1》読み終わるまで本から目が離せない。当時高校生だった私は、深夜まで読み、翌日ひどく腫れたまぶたで登校し友人に心配された。この作品を皮切りに「ラストには愛しき人が亡くなる」とか、「病気の恋人が・・・・」という手の作品が増えた気がする。それほど、世の中に影響を与えた作品だ。また「純愛」という言葉を知らしめたのもこの作品だと思う。
《書評2》「僕」(朔太郎)は、アキとの「ロマンチックすぎる」話を今の彼女に話す。それはアキとの別れという悲しい出来事を、「物語」として語り、自分の心に定着・受容させる作業だった。アキとの別れからしばらくは、「僕」は「あらゆる感情を洗い流してしまうような場所」にいた。「物語」を語り終え、かつてアキと通った中学校でアキの遺灰をまくとき、それは「美しい桜吹雪」の中だった。

C-3-3  若くして死んだ女を、生き残った男が振り返る「難病モノ」の歴史は古く、「涙と感動」を求める読者に愛好されてきた。例えば次の通り。(181頁)
(a)徳富蘆花(1868-1927)『不如帰』(ホトトギス)(1898-99、30-31歳)(※浪子は結核のため離縁され、夫・武男の出征中に死ぬ。)
(b)伊藤左千夫(1864-1913)『野菊の墓』(1906、42歳)(※15歳の少年・政夫と2歳年上の従姉・民子との非恋を描く。)
(c)堀辰雄(1904-1953)『風立ちぬ』(1936-38、32-34歳)(※結核に冒されている婚約者・節子に付き添う「私」が、節子の死を覚悟し2人の限られた日々を生きる物語。)
(d)河野実(マコト)(1941-)・大島みち子(1942-1963)『愛と死をみつめて』(1963、22歳・21歳)(※実=マコと、軟骨肉腫に冒され21年の生涯を閉じたみち子=ミコとの、3年間に及ぶ文通を書籍化したもの。)(181頁)

C-3-3-2  とはいえ、なぜ21世紀にもなって「難病モノ」の『セカチュー』のような「こんな手垢のついた小説」(斎藤美奈子氏評)を読まなければならないのか。それは「小説に新しさを求める文学ファン」を萎えさせるものだった。(181頁)

(51)-5 社会現象になった『ハリー・ポッター』シリーズ第1-7巻(1999-2008)!
C-4  さらに、ここに翻訳小説が襲来する。世界的ベストセラーになったJ・K・ローリング(1965-)『ハリー・ポッター』シリーズ(原著1997-2007)だ。11歳の誕生日に自分が魔法使いだと知った孤児のハリ―・ポッターが、ホグワーツ魔法魔術学校へ入学し、さまざまな魔法を学んで成長していくという子供向けファンタジー小説だ。第1巻『ハリー・ポッターと賢者の石』(日本語版、1999)以降、第7巻『ハリー・ポッターと死の秘宝』(日本語版、2008)まで、ほぼ年に1冊のペースで刊行された。このシリーズは社会現象になった。(181頁)

C-5  では2000年代の既成の文学はどうだったかというと、こっちはこっちで大変なことになっていた。2000年代の小説のトレンドは、「殺人」と「テロ」と「戦争」だった。(182頁)

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大橋秀夫(1947-)「親鸞の煩悩とその『密意』」:親鸞の過剰な「自己非難(悲嘆)」「無限の許しと抱擁を期待できる母(法然)」を求めつつ「父親(法然)殺し」、ここから生じる「罪悪感」!

2022-04-13 16:33:40 | Weblog
※新田義弘・宇野昌人編『他者の現象学Ⅱ:哲学と精神医学のあいだ』北斗出版、1992年所収

(1)親鸞の過剰な「自己非難(悲嘆)」!
親鸞「愚禿悲嘆述懐和讃」は86歳の作だ。このような年にいたってなお、これほどわが身を責めるのは、どういうことか?「鬱病」か、「偽悪的な人」か、「欲望がよほど強い」のか、あるいは「良心の過敏な人」か?本論では、親鸞の過剰な「自己非難(悲嘆)」の意味を推定したい。(152頁)

(2)親鸞29歳、法然(源空、69歳)の浄土門下に入る!「綽空」(シャックウ)!
親鸞を懐妊した時、夢に如意輪観音が現れ、「優れた子の出生」を予告する夢を母親が見た。親鸞はそのことを母親から聞かされ育った。親鸞(1273-1263)は9歳の時出家し、比叡山に入る。僧としての名は「範宴」(ハンネン)だった。29歳の時、比叡山をくだり、夢告を得て、法然上人(源空、69歳)に面会。百か日通い詰めて、法然の浄土門下に入る。法然により「綽空」(シャックウ)の名を与えられた。1201年のことだ。(153-154頁)
(2)-2 親鸞(「善信」)35歳、越後配流!「非僧非俗」と自らを呼び、「愚禿親鸞」と名乗る!
その5年目、1205年、法然73歳の時、親鸞(33歳)は新たに「善信」の名を得る。法然に対して南都(興福寺)・北嶺(延暦寺)などから激しい攻撃があり、1207年専修念仏停止の院宣が下る。法然75歳は土佐へ、親鸞(善信)35歳は越後へ流される。越後流罪後、親鸞(「善信」)は自らを「非僧非俗」と呼び、「愚禿親鸞」と名乗った。この時すでに、9歳年下の恵信尼がいた。(154-155頁)
(2)-3 1211年、親鸞の流罪許される!1212年、法然80歳で寂滅(親鸞40歳)!親鸞、1214年関東・常陸国に移り、以後約20年過ごす!
1211年、親鸞の流罪が許される。すでに法然は1207年末に流罪が許されたが、帰洛は1211年だった。しかし法然は1212年に寂滅(80歳)。親鸞は40歳だった。親鸞は赦免後、京都にもどらず、1214年(親鸞42歳)、関東・常陸国に向かう。3年間下妻に滞在後、笠間郡稲田に移り、そこに庵を結び、以後約17年間過ごすことになった。(155-156頁)
(2)-4 親鸞62、63歳頃、京都に帰る!1256年親鸞84歳の時、子の善鸞を義絶!1262年親鸞死去(90歳)!
親鸞62、63歳頃、京都に帰る。親鸞は『教行信証』の推敲等、著作活動に没頭する。だが関東では門弟の教義に関する動揺対立が顕在化する。①諸神仏の軽蔑、②悪人こそ阿弥陀仏の正客であるとして、ことさらに悪を行う造悪無碍(ゾウアクムゲ)(悪を造ることに 碍サマタゲ無し)の邪義が広がった。異解を正そうと、親鸞は息子善鸞を関東に派遣する。ところが善鸞は、造悪無碍を正そうとして、他力よりも自力信仰を主張。混乱は一層拡大し、親鸞は善鸞を義絶(親子の縁を切る)。1256年、親鸞84歳だった。その6年後、1262年親鸞は90歳で亡くなった。(156-158頁)

(3)釈迦の教え(原始仏教)と大乗仏教!大乗の教えの一つが浄土思想!
釈迦の教え(原始仏教)は「自力の自己救済思想」だった。釈迦の入滅後、数百年たつと、「自己の悟り」だけでなく、「他者の救済」にも力点を置く大乗仏教運動が起こった。大乗の教えの一つが浄土思想である。浄土宗の開祖法然(源空)によって、これが一つの宗派として日本で確立した。(158-159頁)
(3)-2 法然の「自力を含む他力」の救済思想!
法然『選択(センチャク)本願念仏集』は、「南無阿弥陀仏(南無とは帰依の意)と念仏(称名)すれば西方極楽浄土に往生すると信じ、一心に専ら念仏に励め、そうすれば死に臨んで阿弥陀仏が来迎し、極楽浄土に往生する」と説く。つまり法然の思想は「他力・易行」であるが、念仏が「自力」の行である限り、「自力を含む他力」の救済思想だ。(160-162頁)
(3)-3 親鸞の「絶対他力」の救済思想!
親鸞によれば、「阿弥陀仏への真実信の獲得」、「浄土往生」(往相)、「現世回帰衆生済度の活動」(還相)は、阿弥陀仏の誓願力(阿弥陀仏の回向)によりなされ、自己のいかなる努力(計らい)にもよらない。それ故、この信心を「絶対他力」、「金剛の信心」という。(164頁)
(3)-4 法然(回向は可能)と親鸞(回向は不能)の救済思想の差違!
法然の「自力を含む他力」の救済思想と、親鸞の「絶対他力」の救済思想は対立する。つまり(a)親鸞は人間を回向(自己の修した善根功徳を浄土往生のため回し向けること)不能と断じる。人間は清浄心(真実心)が有り難く、善行を修めても煩悩(悪)の毒が雑るからだ。これに対して(b)法然は、己を煩悩具足の凡夫と自覚しつつも、善は、悪(煩悩)から分画できるので、回向が可能と解した。(167-169頁)

(4)「女犯の夢告」と法然への「惚れ込み」、「同性愛的感情」、「対象希求的な一体化欲求」!
親鸞は法然に対し「信頼」以上に、無意識下の「惚れ込み」、「同性愛的感情」(フロイト)、「対象希求的な一体化欲求」(土居建郎「甘え」)のもとにあった。親鸞(範宴)が法然門に入ったきっかけは、頂法寺六角堂の「女犯の夢告」だった。夢に観世音菩薩が現れ「我は玉女の身となりて犯せ被(ラ)れむ」と語った。夢で性の受容(これは心理的合一でもある)を観世音菩薩に保証され、皆にも伝えよとの一般性(合法性)を獲得した青年僧「範宴」(ハンネン)は、現実にも法然によってその支えを得たのだ。(171-173頁)
(4)-2 親鸞の法然排除、否定の行為における無意識の「父親殺しの欲動」!
だが親鸞は、法然からもらった名である「善信」から、越後流罪後、自ら「親鸞」と名乗る。親鸞は法然の影を払拭し、繋がりを断ったのだ。親鸞は「自力回向を保持する法然」との関係を断った。すなわち「自力を含む他力思想」「念仏至上主義」を排除した。親鸞の法然排除、否定の行為は「父親殺しの欲動」に駆られてのものだ。ただしこの「父親殺し」「法然排除」の欲動は親鸞の意識に上っていたわけでない。無意識下のものだ。隠された親鸞の「父親殺し」である。(174-176頁)
(4)-3 親鸞の「法然」に対するアンビバレンス:「排除すべき父」&「無限の許しと抱擁を期待できる母」!
親鸞は、あからさまに法然を否定せず、意識において最後まで忠実であった。親鸞は法然を必要としていた。破戒僧親鸞にとって、法然は暗黙裡に持戒を要求し、それゆえ「排除すべき父」であると同時に、「無限の許しと抱擁を期待できる母」でもあった。親鸞の「法然」に対するアンビバレンス!(177頁)
(4)-4 「無限の許しと抱擁を期待できる母」を求める親鸞の無意識下の欲求が「純粋受動、絶対他力の信仰」を生んだ!
法然を「無限の許しと抱擁を期待できる母」として求める親鸞の無意識下の「惚れ込み」、「同性愛的感情」(フロイト)、「対象希求的な一体化欲求」(「甘え」)が、「救い」に関する「純粋受動、絶対他力の信仰」となった。(177頁)

(5)親鸞の過剰な「自己非難(悲嘆)」:「無限の許しと抱擁を期待できる母(法然)」を求める無意識下の欲求の挫折から生じた「父親(法然)殺し」、ここから生じる「罪悪感」!強迫病者的だ!
(ア)親鸞の過剰な「自己非難(悲嘆)」は、一方で「無限の許しと抱擁を期待できる母(法然)」を求める無意識下の欲求、他方でその挫折から生じた「父親(法然)殺し」、ここから生じる「罪悪感」にもとづくと推定しうる。(178頁)
(イ)しかもこの「罪悪感」は、持続とその程度において病的であり、強迫病者のそれと言ってよい。(178頁)

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「2000年代 戦争と格差社会」(その2):「インターネットから生まれたベストセラー」『世界がもし100人の村だったら』!『電車男』!『恋空』、『赤い糸』、『君空』!(斎藤『同時代小説』5)

2022-04-12 15:08:53 | Weblog
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(50)「インターネットから生まれたベストセラー」:池田香代子再話『世界がもし100人の村だったら』(2011)!中野独人(ヒトリ)『電車男』(2004)!「ケータイ小説」!
B 2001年米国同時多発テロ「9.11」は空前のベストセラーを生んだ。それが、池田香代子(1948-)再話『世界がもし100人の村だったら』(2011)だ。同時多発テロ後、インターネット上で世界を駆け巡った文書を日本語に訳した小型の絵本だ。(176頁)
B-2 コンセプトは「世界には63億人の人がいますが/もしそれを100人の村に縮めるとどうなるでしょう」というものだ。「90人が異性愛者で/10人が同性愛者です」、「70人が有色人種で/30人が白人です」など。内容は世界の人々の多様性を説き、富の偏在を批判する。(176頁)
B-2-2  アメリア国内で湧き上がった愛国心、イスラム排除の雰囲気に対抗する言説だ。(176頁)
B-2-3  しかし「世界の矮小化」と言えなくもなかった。(176頁)
《書評1》日本がどれだけ「恵まれた国」なのかということに気づかされる。「20人は栄養がじゅうぶんではなく1人は死にそうなほどです」、「17人は、きれいで安全な水を飲めません」、「自分の車をもっている人は7人です」、「1人が大学の教育を受け、2人がコンピュータをもっています」など。栄養が十分ではなく汚い水を飲むしかない国の人々がいて、日本に生まれただけで自動車やコンピュータを持つ機会に恵まれたということに気づかされる。
《書評2》かねてから評判を耳にしており、期待を込めて購入した。しかし、残念ながら噂ほどでなかった。絵本のような体裁で、詰めれば10ページほどの内容で、30分程度で読み終えることができる。例が非常に少ない。なお「地球上の富の6割をアメリカ人が保有している事実」には考えさせられた。
《書評3》日本語と英語と併記されている点が良い。子供たちと一緒に読み、そのあと書かれている内容について議論できる良書だ。世界の富の問題、食料の問題、戦争や紛争が人間にあたえる影響、同性愛、異性愛、人種などについて議論でき、何度も読み返せる。

B-3  ネットから生まれた別のヒット商品が中野独人(ヒトリ)『電車男』(2004)だ。インターネット上の巨大掲示板「2チャンネル」の独身男性版(「毒男板」ドクオトコイタ)の「書き込み(レス)」が整理され本にされた。(中野独人は彼らの総称だ。)(176頁)
B-3-2  内容的には「モテないアキバ系の男性(電車男)」と、「彼が電車の中で痴漢から救った女性(エルメス)」との恋愛が成就するまでのドキュメント。いわば「スレッド文学」だ。(176-177頁)
B-3-3  後に映画化、テレビドラマ化され、100万部超のベストセラーとなった。(177頁)
《書評1》最初のエルメスを誘うときの煮え切らなさが、アキバオタクそのままで思わず「お前は俺かwww」と突っ込んでしまう。ですが、エルメスを誘うごとに徐々に女性慣れしていったのか、自分から服を買いに行き美容院に行き、デートでは映画の話題を振ったりと、最初とは比べものにならない成長を遂げて行く。あのひ弱な雰囲気の「電車男」がこんなにも逞しい男になって!「もうスレのみんなの助けなんていらない」と微笑ましくなる物語だった。
《書評2》「電車男」と「無名の書き込み者たち」とのやりとりのいきいきしていること!若干内輪ウケに走っている部分もあるが、匿名掲示板ゆえのホンネのぶつけあいは、普通の小説にないライブ感のような活気に満ちている。「悪口」や「荒らし」を差し引いてもなお、残った「善意」がネット掲示板には確かにあった。「パンドラの箱」を開けてしまった後でもなお「希望」が残った、という逸話にも似た暖かい世界が確かにある。
《書評3》要は「モテない君」が、ある機会で「こんな性格、外見の子だったらいいな~って大概の人が思うような女性」を知って、「ネット」という匿名性のあるところから多くのアドバイスをもらい、恋を成就させるという「めでたしめでたし」のお話。

B-4  2000年代には「ケータイ小説」という新ジャンルが爆発的に流行した。ケータイ小説は携帯電話(まだスマートフォンが普及していない)を使った投稿小説だ。(このシステムを普及させたのは「魔法のiランド」という無料ホームページ作成サイトだ。)この中の人気作品が、紙の本として出版された。(177頁)
B-4-2  作者の名前は匿名(ハンドルネーム)で、本名・プロフィールも非公開。本文は横書き。内容はどれも似ていて、「女子高生の主人公が数々の不幸を体験した末に純愛を知る」という話が多い。加えて「実話です」、「実話を元に作成しています」と断り書きがつく。(177頁)
B-4-3  ケータイ小説は作者も読者も「十代の女性」だと言われる。ポエム風の文章、改行の多さ、内容的にも「小説と呼ぶのがためらわれるレベル」だ。Ex. 『恋空』。(斎藤美奈子氏評。)(178頁)
B-4-4 2007年年間ベストセラーランキング(トーハン調べ)によると文芸書部門のトップ3は、書籍化されたケータイ小説が独占した。[1位]美嘉『恋空』(2006)、[2位]メイ『赤い糸』(2007)、[3位]美嘉『君空』(2007)。このことは出版界を驚愕させた。(178頁)

B-4-4-2  美嘉『恋空』(2006)!(178頁)
《参考》あらすじ:美嘉は女子高生。偶然ヒロと知り合い合う。ヒロは美嘉との交際に、始め、本気でなかったが、次第に本気になっていく。そんな中、美嘉はヒロとの子供を妊娠する。しかし美嘉は流産する。2人は大きなショックを受けるが、また強い絆で結ばれていく。ところがある日、ヒロは美嘉に突然の別れを告げる。美嘉は、やがてヒロが末期のガンを患っており「美嘉に幸せになってほしい」という願いから別れを選んだと知る。美嘉は、大好きな今の彼と別れ、ヒロの元へ走る。ヒロは、適切な抗がん剤治療で3年生きながらえるが、ついに亡くなる。ヒロの死後、美嘉は彼の忘れ形見を身ごもっていると知り、今度こそ産み、彼の分まで育てることを決心する。
《書評1》二人目の赤ちゃんまでもが、天国に旅立ってしまった事が辛すぎました。また、読み切ってから実話だと言うことを知って驚かされました。 でも、友達や優さんに凄く助けられて、美嘉さんは幸せですね。 これからも、頑張ってください。
《書評2》遊びのことばかりで、将来のことなんてろくすっぽ考えていない、かなり幼稚な人たちのリアルだと思う。狭い価値観の中での話。罪とか命の重さとかは彼らが語ると薄っぺらく感じる。
《書評3》高校生の主人公が流産したり、自殺未遂したり、恋人がシンナーを吸ったりと壮絶な体験をする。その時その時では色々と感情を表すものの、基本的には「そんなこと」扱いで、野生動物的たくましさ(?)がある。「作中には飲酒喫煙シーンがあるけど、未成年はそういうことしちゃだめだよ」という注意書きがあり、本書の読者層を意識したものであると、面白く思った。

B-4-4-3  メイ『赤い糸』(2007)!(178頁)
《書評1》「愛してる」とかって言葉を軽々しく使って欲しくない。「本当に相手のためを考えての言動」がまるっきりない。こんなのが今の若者のリアルですか、感動ですか、その事実がショックです。「主人公のあまりの移り気」に怒りを通り越し、呆れます。
《書評2》未成年の飲酒喫煙、薬物、軽々しい性行為・・・・。登場人物の非常識さに、今時の女子中高校生は何とも思わないのでしょうか?
《書評3》「たかチャン」と付き合ったメイ。 最初は幸せだったものの次第に「たかチャン」の束縛は強くなり、メイを苦しめる。こんな器の小さい「たかチャン」は男じゃない!早くこんな最低な男、いやおサルさんとは早く別れろ、メイ! 幸せな時期に彼にちなんで、中学生なのにタトゥーを入れたメイ。(そのタトゥーどうするの?一度入れたタトゥーは一生消えないとわかってるの? )
《書評4》上下巻と読み進めてきたが、よく意味がわからない。この本は何を伝えたかったんだろう。「赤い糸」?ただのヒステリックな人たちの集まりというかなんというか。面白いと思えなかった。

B-4-4-4 美嘉『君空』(2007)!(178頁)
《書評1》『恋空』のアナザーストーリー。「恋空」をヒロの視点で描いた作品。ただし、あとがきで美嘉さんは「『恋空』のサイドストーリー」としてでなく、「桜井弘樹という一人の人間が歩んできた、世界にたった一つの人生」として読んでほしいと書いている。
《書評2》自分は自殺しようと考えました。けど、これを読んで生きようと思いました。 美嘉さんこれを書いてくれて本当にありがとうございました。
《書評3》辛口コメントも多々あるようですが、号泣しながら読みました。

B-5  『100人村』(2011)、中野独人(ヒトリ)『電車男』(2004)、「ケータイ小説」には大きな共通点がある。①インターネットを介してできた本である。②物語として消費された。③作者がはっきりしない。(177-178頁)
B-5-2  近現代小説は「作者」という特権的な個人によって支えられてきた。ネットメディアは、そんな基盤を揺るがした。
B-5-2-2 ロラン・バルトはかつて、作品(テキスト)を作者の背景抜きに純粋に読むため、「作者の死」という概念を唱えたが、21世紀に入り今や「作者」は本当に消滅した。(斎藤美奈子氏評。)(177-178頁)

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「2000年代 戦争と格差社会」(その1):「同時多発テロと新自由主義経済」2001年「9・11」・アフガン戦争、2003年イラク戦争!2001年小泉内閣の新自由主義!(斎藤『日本の同時代小説』5)

2022-04-11 15:58:14 | Weblog
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(49)「同時多発テロと新自由主義経済」:2001年米国同時多発テロいわゆる「9・11」とアフガニスタン戦争開始!2003年イラク戦争開始!
A  21世紀は、2001年9月11日米国同時多発テロ、いわゆる「9・11」が世界を一変させた。ハイジャックされた複数の民間機がニューヨークの世界貿易センタービル等に激突し、全体で3000人以上の死者を出す大惨事となった。米国(ジョージ・ブッシュ大統領)は10月にアフガニスタン戦争を開始する。さらに2003年3月には国連の合意がないままイラク戦争を開始した。(174頁)
A-2  日本(小泉純一郎内閣)は「9・11」後ただちに、アメリカ支持を表明し、2003年8月「イラク特措法」を成立させイラクに陸上自衛隊を派遣した。(174頁)

(49)-2「同時多発テロと新自由主義経済」(続):2001年小泉内閣の「聖域なき構造改革」すなわち市場原理主義にもとづくネオ・リベラリズム、かくて(ア) 「規制緩和」が進み労働環境が悪化!(イ)「経済のグローバル化」!(ウ)2008年9月リーマンショック!(エ) 1990年代と2000年代は「失われた20年」だった!かくて2000年代後半に「格差社会」の出現!
A-3  2001年4月に発足した小泉内閣は「聖域なき構造改革」の名の下、市場原理主義にもとづく「新自由主義経済」(ネオ・リベラリズム)寄りの性格を明確に打ち出した。かくて(ア)「規制緩和」が進み労働環境が悪化。(174-175 頁) 
A-3-2  さらに(イ)「経済のグローバル化」もあいまって、所得格差が広がる。(175 頁)
A-3-3  かくて2000年代後半に「格差社会」という言葉が出現。「ワーキングプア」、「ネットカフェ難民」などが問題となる。(175 頁)
A-3-4 これに拍車をかけたのが、(ウ)2008年9月の世界的な金融危機(リーマンショック)だった。(175 頁)
A-3-5  それでなくとも、(エ)バブル崩壊後、景気低迷が続き1990年代と2000年代は「失われた20年」だった。(175 頁)

(49)-3 (a)橘木俊詔『日本の経済格差:所得と資産から考える』(1998)、(b)佐藤俊樹『不平等社会日本――さよなら総中流』(2000)、(c)山田昌弘『希望格差社会――「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』(2004)、(d)三浦展『下流社会 新たな階層集団の出現』(2005)、(e)湯浅誠『反貧困――「すべり台社会」からの脱出』(2008)!
A-4  この時期には、次のような著作が次々と話題となった。
(a)橘木俊詔(タチバナキトシアキ)(1943-)『日本の経済格差:所得と資産から考える』岩波新書(1998、55歳)
《書評》1998年の著。データから日本の格差を分析。戦後アメリカの政策で財閥解体、独禁制、農地改革、労働民主化、税制改革、教育機会均等で「平等化」が進んだ。高度成長で、就業構造の変化(一次→二次産業)、都市への移動、核家族化、農/非農格差。バブル期は財産による「不平等化」。この時点では格差は大きくないが不平等に向かっていて、不平等阻止政策を著者は主張する。日本とは異なる精神の「格差社会米国の効率優先の政策」を真似たのが「不平等化」の要因という。「まだこのころは良かった」が、この後すでに20年以上たち、格差は一層広がった。

(b)佐藤俊樹(1963-)『不平等社会日本――さよなら総中流』中公新書(2000、37歳)
《書評1》「エリートがどんなに立派な計画を立てても、どんなに完全なマニュアルを考案しても、実行するのは現場の人間である。現場の人間が自分の将来に希望が持てなくなれば、社会も企業も腐っていくだけだ。」「『努力すれば何とかなる』、『たとえ自分がだめでも子供に夢を託せる』、そういう社会への信頼があったからこそ、まじめに働く気になれたのだ」といった内容が書かれた本だ。
《書評2》高い学歴を持つ人は「自責主義」に傾く。つまり自分の地位が実力によるものだとみなす。「親の学歴や職業」といった資産が、「選抜システム」の中でロンダリングされている。
《書評3》「『機会の平等』が日本では実は保たれていない」ということを、データを用い立証している。(ただしそのデーターに出てくる指標がなじみ薄くわかりにくい。)「責任感を持てないエリート」と「将来に希望のない現場」が生まれる。
《書評4》著者の制度設計:①年齢を問わず「階層間の横断」を可能とするような「教養教育・職業教育制度」の拡充、②「ブルカラーの専門性」を社会的に承認する「ラベリング」、それに見合う収入、などを提示。

(c)山田昌弘(1957-)(※「パラサイトシングル」「格差社会」「婚活」という語を作った社会学者)『希望格差社会――「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』ちくま文庫(2004、47歳)
《書評1》「親の収入や生まれた環境によって左右される時代が来た」と著者は言う。収入の多い夫婦のほうが、収入の少ない若年夫婦よりも共働き率が多く、強者がより強者になってゆく。高い収入から、高い教育が可能になり、“平等”と言われている勉学さえも、親の収入や生まれた環境によって左右される時代が来た。
《書評2》(ア)「いい大学→いい企業→終身雇用・年功序列」という予測可能な人生パターンが崩壊しつつあり、「先行きが予測できない社会」になってしまった。将来の人生がどうなるかわからないリスク化社会。つまり今の社会では、(ア)-2 一生この企業に勤められるかわからない、(ア)-3 一生懸命勉強していい大学に入っても、社会人になって安定した生活を送れるかわからない。(イ) 年金がもらえるかもわからない。(ウ) 希望喪失し、目先の生活に追われる若者の出現。(エ) 希望に格差が生まれる。(オ) 学力低下は勉強しても思う職に就くことが出来ない現実が引き起こしている。(オ)-2 大学院生がいっぱいいるが、ほとんど就職できない。

(d)三浦展(アツシ)(1958-)『下流社会 新たな階層集団の出現』光文社新書(2005、47歳)(※80万部のベストセラーとなった。)
《書評1》団塊ジュニアが「下流」化しているとし、「所得が低い」だけでなく「意欲や能力が低い」のが「下流」だと主張する。表やグラフを多数載せ、客観的なフリをしている。
《書評2》「マーケティングの本だ」という感想に尽きる。著者はマーケティングアナリストだ。この本を今後のマーケティングに活用しようと考える人もいるだろう。しかし、このような階層区分がまことしやかに、なにか裏付けがあるかのように扱われることには疑問がある。
《書評3》著者の「独断と偏見」が見え隠れする。フリーターやニートが生まれる素地として、親の学歴や年収の良し悪しを上げたり、33歳以上のパラサイトしている女性はすべて「下流」と決めつけるなど、「下流」の定義も曖昧な中で、かなり不快感をもった。一流大学を出てヒルズ族になっているような人々を「上流」と定義するのかもしれないが、上っ面の現象を個人的な偏見で味つけし、「すべて金が物を言う」と述べ、「所得の低い層」や「利便性の低い地方」への差別感にあふれる。

(e)湯浅誠(1969-)(※2008年「年越し派遣村」の「村長」)『反貧困――「すべり台社会」からの脱出』岩波新書(2008、37歳)
《書評1》2008年の本。うっかり足を滑らせたら、すぐどん底まで転げ落ちる「すべり台社会」。今も、「たいして変わらない」と感じるのは、間違いでない気がする。「人間社会の繋がりをとことん切断するコロナ禍」の今、ゲストハウス、ネットカフェの人々は無事なんだろうか?この手のものを見てしまうと、「正社員」辞められない…。
《書評2》生活保護について「自己責任だ」、「頑張ればそんなことにはならない」というような話をよく聞く。本書を読んで改めて思うが、それは想像力の欠如だ。また「自己責任論」は、自分自身の首を絞めることにも繋がる。「自己責任論」を振りかざし、足を引っ張り合うのでなく、「強い社会」をどうにかしてつくる努力をしなければいけないなと思った。
《書評3》書店に「平成の名著」として陳列されていたのを見て手に取る。リーマンショック(2008)直前に出版された本だ。その後の年越し派遣村、政権交代、東日本大震災と激動の10年が思い返される。現代社会を通底する「自己責任論」はどうにかならないのかと思う。
《書評4》「反・自己責任論」の本だ。自己責任という印籠をかざす生活弱者切り捨てを非難する。
《書評5》日本は、「雇用・社会保険・公的扶助」の三層のセーフティネットをすり抜ける人がたくさんいる「すべり台社会」だという。「その道を選んだ者が悪い」と「自己責任論」を説くものも多いが、「貧困」とは「選択肢が奪われていき、自由な選択ができなくなる」ことだ。貧困に陥るものは、人との繋がりなどの「溜め(タメ)」がない。「社会資源」を充実させること、当事者に自信をつけさせることが、「溜め」を拡大し、貧困者を助ける糸口になる。 一人一人のエピソードが胸に刺さった。誰しもが人権を守られる社会でないと、良い社会であると言えない。10年経って、社会は変わったのか?
《書評6》本書において著者は「溜め(タメ)」の重要性を説く。「溜め」とは「潜在能力」のことだ。大きな溜池を持っていれば、多少雨が少なくても慌てることはない。「溜め」は外界からの衝撃を吸収してくれる緩衝材であると共に、エネルギーの源泉となる。金銭的な「溜め」、人間関係の「溜め」、あらゆるものに「溜め」の機能は備わる。著者は、「貧困」とはそのような「溜め」が失われた状態だと語る。つまり、金が無い状態だけでなく、頼れる仲間がいない状態も「貧困」である。

A-5 2000年代の出版界は、インターネットの普及で、雑誌や書籍の費用が通信費に回され、紙メディアは大苦戦に陥った。小説そのものもネットメディアに大きな影響を受ける。(次節「インターネットから生まれたベストセラー」参照。)(175-176頁)

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