宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3-4):「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)絶対知の立場:思弁的理性の立場!

2024-03-31 19:52:14 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3-4)
(10)-2-4 「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場(続3):「思弁的理性の立場」からの(悟性的な)「定立」と「反定立」の「統一」!
★「悟性の立てる規定」は「それとは反対の規定」を呼び起こし、「定立」(テーシス)が「反定立」(アンチテーシス)に転じないわけにいかない。こうして一つの思惟規定に対し、反対の思惟規定が立てられ、これら二つの思惟規定が「互いに他に転換する」ことによって「統一づけ」られる。(67頁)

★この「統一づけ」は2つあるとヘーゲルは考える。一つは(悟性的な)「定立」と「反定立」とを区別した上で「統一づける」という「思弁的理性の立場」だ。(67頁)
☆もう一つは「定立」と「反定立」の区別を全然なくして「統一づける」という「神秘主義の立場」だ。だがこれは、「直接知」の立場にほかならない。これは最初の(イ)「実体性の立場」に簡単に帰ってしまうものだ。(67頁)
☆これではいけないのであって(悟性的な)「定立」と「反定立」とを統合しはするけれども、どこまでも悟性的な区別を認めた上での統一であることが必要だ。真の理性は悟性的理性だ。これが「思弁的理性の立場」からの(悟性的な)「定立」と「反定立」の「統一」だ。(67頁)

★このようにして、最初に「直観され表象される具体的な《全体》」(「統一」)がありこれが「悟性」によって「分割」され(「定立」と「反定立」)、その「分割」を通じて「統一」が再び恢復され、その「恢復された統一」において初めて「真の真理」が実現される。(67頁)

★このことをヘーゲルは次のように述べる。(68頁)
「《生き生きとした実体》は真(マコト)は『《主体》であるところの有(※存在)』であって、換言すれば『《自分自身を定立するという運動》、または《自分自身の他者となること(※悟性的諸規定)と自分自身とを媒介し調停する働き》であるかぎりにおいてのみ、真に現実的であるところの有(※存在)』である。
・かかる実体は《主体》であるから、①全く純然たる否定の働きであり、だからこそ単純なるものを分割して二重にする働き(※悟性的諸規定の付与)ではあるけれども、それでいて②《相互に交渉なきこの差異項とその対立》(※悟性的諸規定)とを再び否定しもする。
・《真理》とはかかる《再興される同一》または《他在(※悟性的諸規定)のうちから自分自身への『還帰』(反省)》にほかならないのであって、《根源的なる統一》または《無媒介の統一》そのものではない。
・《真理》とは《おのれ自身となる過程》であり、《終わりを目的として予め定立して初めとなし、そうしてただ実現と終わりとによってのみ現実的であるところの円周》である。」

★「根源的統一」というものは「真理」でなく、「一度分割されることを通じて再興された統一」が初めて「真理」である。こういう「弁証法」Dialectic が無限に繰り返されてゆくところに、「《真理》が《主体》である」というゆえんがあり、また「絶対知」が成立をみるというわけだ。(68頁)

★「悟性の反省」(※悟性的諸規定を与えること)は、たしかに「人間」を「普遍的・全体的・絶対的なもの」から「個別的・部分的・相対的なもの」に導き、したがって実生活においても個人の悦楽や幸福を求めさせることになる。(Cf. 《世間知》《専門知識》を得て実利を得ること?)(68頁)
☆「悟性の反省」は「ただ漠然と直観せられ表象せられ情感せられている《全体》」を、「明確なる《思惟規定》」、しかも「自我一般のもつところの《思惟規定》」にまで分割し分析し、最初の「直観や表象」のまぬがれえなかった「個人性や主観性」を洗い落とすところに積極的意義をもつ。(68-69頁)

☆ただ「悟性」の欠点は、個々の「思惟規定」に執着して動きのとれないところにあるが、しかし固執も極限まで行けばかえって「反対の規定」を喚起するから、それはおのずと「理性」となって最初の「全体性」が恢復せられ(「規定」の「統一」がなされ)、しかも「悟性」の与えるものは「自我一般」の「思惟規定」であるから、その「統一」はもはや「実体」ではなくして「主体」である。(69頁)

《参考》「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(62-66頁)
★(イ)《精神》における「実体性の段階」、すなわち「中世キリスト教」の信仰の時代!
★(ロ)《精神》における「反省の段階」あるいは「媒介の段階」、すなわち「ルネッサンス」から「啓蒙」の時代!
★ヘーゲルは現代を、(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」と考える。これには2通りあるとヘーゲルは言う。すなわち(A)「直接知」の立場と(B)「絶対知」の立場だ。(65頁)
☆(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(A)「直接知」の立場:(ロ)「反省・媒介の段階」すなわち「ルネッサンス」・「啓蒙」の時代の「有限性」の立場を嫌悪するのあまり、「悟性」を抹殺して直接に「絶対性」の立場へ逆転しようとする立場!「永遠なもの・絶対的なもの・無限なもの」を「悟性」を媒介することなく、直接的に「感情・情緒」といったもので捉えることができると考える。かくて「悟性」とか「反省」を全く軽蔑する!「ロマンティスィズム」の立場!
☆(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場:「悟性の反省」の媒介の意義を十分に認めたうえで「実体性」=「直観され表象された全体」を恢復する!「定立」と「反定立」とを区別した上で「統一づける」という「思弁的理性の立場」!

《参考(続)》ヘーゲルにおいて「精神」の立場・「理念」の立場は、物事を「全体」的に見てゆこうとする立場だ。「真理は全体である」。(35頁)

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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3-3):「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(A)直接知の立場と(B)絶対知の立場!

2024-03-30 13:52:53 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3-3)
(10)「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(A)「直接知」の立場!
★ヘーゲルは現代を「実体性恢復の時代」だとする。すなわち(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」だ。これには2通りあるとヘーゲルは言う。すなわち(A)「直接知」の立場と(B)「絶対知」の立場だ。(65頁)

★《精神》における(ハ)「実体性恢復の段階」(A)「直接知」の立場は、(ロ)「反省・媒介の段階」すなわち「ルネッサンス」・「啓蒙」の時代の「有限性」の立場を嫌悪するのあまり、「悟性」を抹殺して直接に「絶対性」の立場へ逆転しようとする立場だ。(65頁)
☆つまり人間が「永遠なもの・絶対的なもの・無限なもの」を「悟性」を媒介することなく、直接的に「感情・情緒」といったもので捉えることができると考える。かくて「悟性」とか「反省」を全く軽蔑する立場だ。
☆それは「ロマンティスィズム」の立場だ。ノヴァーリス(1772-1801)、シュレーゲル(1772-1829)、シュライエルマッヘル(1768-1834)などだ。

Cf.  ノヴァーリス『青い花』岩波文庫(18-19頁)「このとき青年がいやおうなしに惹きつけられたのは、泉のほとりに生えた一本の丈の高い、淡い青色の花だったが、そのすらりと伸びかがやく葉が青年の体にふれた。この花のまわりに、ありとあらゆる色彩の花々がいっぱいに咲きみだれ、芳香があたりに満ちていた。青年は青い花に目を奪われ、しばらくいとおしげにじっと立っていたが、ついに花に顔を近づけようとした。すると花ははつと動いたかとみると、姿を変えはじめた。葉が輝きをまして、ぐんぐんと伸びる茎にぴたりとまつわりつくと、花は青年に向かって首をかしげた。その花弁が青いゆったりとしたえりを広げると、なかにほっそりとした顔がほのかにゆらいで見えた。この奇異な変身のさまにつれて、青年はここちよい驚きはいやが上にも高まっていった。と、突然、母の声がして目を覚ますと、すでに朝日で金色にそまったわが家にいる自分に気がついた。」

☆ヘーゲル((1770-1831))自身もフランクフルト時代(1796-1800年、26-30歳)には「ロマンティスィズム」の傾向を示していた。
☆「ロマンティスィズム」は、『精神現象学』(C)「理性」(BB)「精神」Ⅵ「精神」の終わりにある「良心」あるいは「美魂」の立場に反映している。

《参考》『精神現象学』の目次:(C)「理性」(BB)「精神」Ⅵ「精神」は、「A 真実なる精神」・「B自己疎外的精神、教養」・「C 自己確信的精神、道徳性」(「a 道徳的世界観」・「b ずらかし」・「c 良心、美魂、悪とその赦し」)からなる。

(10)-2「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場!「悟性の反省」の媒介の意義を十分に認めたうえで「実体性」=「直観され表象された全体」を恢復する!
★《精神》における(ハ)「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場は、「実体性」を恢復しようとするが、しかし「直接知」のように「反省」の媒介を抹殺するのでなく、「反省」の意義を十分に認めたうえで「実体性」を恢復する。(65頁)

《参考1》カントの第一批判『純粋理性批判』における認識能力の発展段階は、最初に①「直観」あるいは「感性」がある。それから②「悟性」の能力がある。「悟性」は「直観」によって与えられたものを、総合的に統一づける。だがそれはまだ部分的認識であり、全体的認識でない。そこで③「理性」が全体をとらえようとする。(35頁)
《参考1-2》カントの第一批判『純粋理性批判』の「直観」-「悟性」-「理性」という段階は、ヘーゲルに、その意味を変えてではあるが大きな影響を与えている。(38頁)
《参考2》ヘーゲル『精神現象学』の目次は次のようになっている。(36-38頁)(53-54頁)(333-336頁)
(A)意識:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)自己意識:Ⅳ自己確信の真理性
(C)(AA)理性:Ⅴ理性の確信と真理、
(BB)精神:Ⅵ精神(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」、C「自己確信的精神、道徳性」)、(CC)宗教:Ⅶ宗教、
(DD)絶対知:Ⅷ絶対知
《参考2-2》これを分析すると2つの分け方が組み合わせてされている。(53-54頁)
・一方の分け方では、(A)意識、(B)自己意識、(C)(AA)理性
・他方の分け方では、Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性、Ⅳ自己確信の真理性、Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知

★「反省」の意義はどこにあるのか?(ここで「直観」と「悟性」と「理性」の関係について見ておく必要がある。)(65-66頁)
☆「実体」とは「直観せられ、表象せられ、情感せられる」ものだ。すなわち「生きた全体」(※「実体性」)は「直観せられ表象される」べきものだ。(66頁)

★だが「直観や表象」はまだ「感性」的なもので、個別性・主観性をまぬがれることができない。それゆえそこに②「悟性」の分析が必要となる。(66頁)
☆「悟性」はいわゆる「意識一般」を意味するから、「意識一般」の立場から(※「実体」・「生きた全体」に)思惟規定を与えること、また一々の思惟規定を与えるという意味における「分析」が必要となる。
☆「直観され表象された全体」は、その部分が渾然融合した全体だ。その「全体」を成り立たせる「要素」にまで「分析」するのが「悟性」であり、あるいは「悟性の反省」だ。

《参考》「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」
・(イ)《精神》における「実体性の段階」、すなわち「中世キリスト教」の信仰の時代!
・(ロ)《精神》における「反省の段階」あるいは「媒介の段階」、すなわち「ルネッサンス」から「啓蒙」の時代!
・(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(A)「直接知」の立場!
・(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場:「悟性の反省」の媒介の意義を十分に認めたうえで「実体性」=「直観され表象された全体」を恢復する。

★「悟性」は「一つのまとまったもの」(「全体」)を「分析」し、その側面を区別し、一般的な思惟規定を与える。かくて「直観とか表象とか感情とか」を高く評価する人は「悟性」を嫌う。「悟性」は「全体」のまどやかな統一を殺してしまうので敬遠される。(Cf. (ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(A)「直接知」の立場!)(66頁)

(10)-2-2 「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場(続):「悟性」は常に「独断論」の立場だ!
★「直観や表象」は「感性」的たるをまぬがれないから、「悟性の反省」が必要だ。しかし「悟性」の欠点は固定させるところにある。(66-67頁)
☆「直観」的に与えられたものについて、そのいろいろな側面を区別し、思惟規定を与えるのが「悟性」(Verstand)の長所だ。
☆しかしその一つ一つの規定に固執し停滞してそこから動かないのが「悟性」の短所だ。つまり「悟性」は「有限」的だ。その意味でヘーゲルに言わせると「悟性」は常に「独断論」の立場だ。「独断論」は、ある一つの問題について、一つの簡単な「命題」を立て、あるいは一つの「判断」をくだすことによって、その「真理」をとらえうると考える。

(10)-2-3 「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場(続々):「懐疑主義」によって「悟性」の「独断論」は破砕される!
★だが「悟性の立てる思惟規定」は決して完全なものでありえない。なぜなら「悟性の立てる思惟規定」は「分析」の産物であり、したがって決して「具体的全体」をつくしたものでなく、その一面にすぎないからだ。(67頁)
☆かくて「悟性の立てる規定」は「それとは反対の規定」を呼び起こし、「定立」(テーシス)が「反定立」(アンチテーシス)に転じないわけにいかない。かくて「悟性」の「独断論」は破砕される。ここに「独断論」に対する「懐疑主義」Skeptizismus の意義があるとヘーゲルは考える。

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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3-2):「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ロ)《精神》における「反省・媒介の段階」、すなわち「ルネッサンス」・「啓蒙」の時代!

2024-03-27 12:16:04 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3-2) 
(9)「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ロ)《精神》における「反省の段階」あるいは「媒介の段階」、すなわち「ルネッサンス」から「啓蒙」の時代!
★《精神》における(ロ)「反省の段階」あるいは「媒介の段階」は「ルネッサンス」から「啓蒙」の時代をさす。(64頁)
☆《精神》の(イ)「実体性の段階」では、「絶対的・普遍的・全体的なもの」のうちに「個別的・相対的・有限的・分別的なもの」は埋もれていた。
☆これに対してしだいに「個人」が自覚をえ、独立してくる。その自覚は「反省」あるいは「悟性」によってなされる。
・「彼岸」よりも「此岸」に人間の注意が向けられ、「此岸つまり現世」における労働とか幸福とかが人間生活の主要な問題となる。
・これが《精神》における(ロ)「反省の段階」あるいは「媒介の段階」だ。
・こういう気風が「ルネッサンス」から「啓蒙」にまで続く。

★ところが「相対的・有限的・時間的なもの」に人間が自分の注意と努力とを向けるという態度がまた、極限にまで行ってしまうと、もはや人間はそういう立場に倦怠を感じ、そうして再び「永遠的・絶対的なもの」を恢復したいと思うようになる。(64-65頁)
☆そこでヘーゲルは現代を「実体性恢復の時代」だとする。すなわち(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」だ。
☆『精神現象学』(1807)を書いている時代が「精神史的に非常な変革期」にあるとヘーゲルが考えているゆえんは、ここにあると思われる。(金子武蔵)

《参考》★「哲学が絶対知の立場にたたねばならない」というのはヘーゲルの考えであるが、さらに「時代がこれを要求している」のだ、すなわち「絶対知の哲学が出現すべき時代がやってきている」のだとヘーゲルは言う。(金子武蔵61-62頁)
☆ヘーゲル(1770-1831)は現代が「精神史における転換期である」と考える。(Cf. フランス革命1789年。)「我々は《精神》が飛躍して、従前の形態を越えて新たなる形態を獲得するという重大な転換期に、発酵の状態のうちにあるのをみる。」「哲学は《精神》を永遠なものとして認め、それに敬意を表さなくてはならぬ。」(ヘーゲル1806/9/18、36歳)
☆ヘーゲルは「絶対知の哲学は時代の要求しているものだ」、「世人の大多数も暗黙のうちに本能的に絶対知の哲学が出現しなければならぬことを認めている」と言う。

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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3):「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(イ)《精神》における「実体性の段階」すなわち「中世キリスト教」の信仰の時代!

2024-03-26 17:05:21 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3) 
(7)「絶対知の哲学」が出現すべき時代がやってきている!
★「哲学が絶対知の立場にたたねばならない」というのはヘーゲルの考えであるが、さらに「時代がこれを要求している」のだ、すなわち「絶対知の哲学が出現すべき時代がやってきている」のだとヘーゲルは言う。(61-62頁)
☆ヘーゲル(1770-1831)は現代が「精神史における転換期である」と考える。(Cf. フランス革命1789年。)「我々は《精神》が飛躍して、従前の形態を越えて新たなる形態を獲得するという重大な転換期に、発酵の状態のうちにあるのをみる。」「哲学は《精神》を永遠なものとして認め、それに敬意を表さなくてはならぬ。」(ヘーゲル1806/9/18、36歳)
☆ヘーゲルは「絶対知の哲学は時代の要求しているものだ」、「世人の大多数も暗黙のうちに本能的に絶対知の哲学が出現しなければならぬことを認めている」と言う。

《参考》ナポレオン戦争(1796-1815):フランス革命を外国の干渉から守る「革命防衛戦争」として始まるが、しだいに「革命の理念の拡大」の戦争、一面では「侵略戦争」へと変質。1812年のモスクワ遠征失敗を境にナポレオンの「帝国防衛戦争」に転化。ヨーロッパの「封建体制」を崩壊させ「市民社会」を拡張したが、周辺諸民族を抑圧した。軍事史的には「傭兵」による絶対王政期の軍隊から、「徴兵制」に基づく「国民軍」を主体とする戦争への転換をもたらした。

☆ナポレオン(1769-1821)の軍事行動はフランス革命末期の「総裁政府」のもとで、オーストリアとイギリスの干渉から「革命を防衛するための戦争」をナポレオンが指揮するところから始まる。ナポレオンは1796年、26歳で「イタリア遠征(第1次、1796-97)軍司令官」に任命され、オーストリアに勝利し、第1回対仏大同盟を終わらせた。
・さらにイギリスのインド支配を妨害するためナポレオンは「エジプト遠征」(1798-99)を行うが、ネルソンの率いるイギリス海軍に敗れる。イギリスは第2回対仏大同盟結成。
・ナポレオンは1799年に「ブリュメール18日のクーデタ」で実権を握り、「統領政府」(1799-1804)の第一統領となる。(ナポレオン30歳、ヘーゲル29歳。)

☆「ヨーロッパ征服の戦争」:権力を握ったナポレオンは、フランスのブルジョワ・農民の支持を背景に「革命の理念を全ヨーロッパに広げる」という大義の下、征服戦争を開始。「イタリア遠征」(第2次、1800)で再びオーストリア軍と戦い勝利。イギリスとは1802年のアミアンの和約で一旦和平を実現した。
・1804年「ナポレオンの皇帝即位」(ナポレオン35歳、ヘーゲル34歳)を受けて第3回対仏大同盟が成立。ナポレオンはイギリス征服をもくろむが「トラファルガー海戦」(1805)でネルソン率いるイギリス海軍に敗れた。
・しかし大陸での戦いは、「アウステルリッツの三帝会戦」(1805)でオーストリア・ロシア連合軍と戦いナポレオンが勝利、「イエナの戦い」(1806)でプロイセン軍と戦い勝利し、ベルリンを占領。(ナポレオン37歳、ヘーゲル36歳)
・ナポレオンは、さらにポーランドに侵攻、ポルトガル征服(1807)、スペイン征服(1808年、スペインの反乱を鎮圧するためナポレオン自ら侵攻)などで勝利を続けた。ただしスペインではゲリラ戦に悩まされて苦戦。

☆ナポレオンの「帝国防衛戦争」:ナポレオン帝国の最大の敵であるイギリスを弱体化するため、ナポレオンは1806年「大陸封鎖令」を出したが、各国の足並みが揃わず、特にロシアがその命令に従わなかった。かくてナポレオンは1812年にロシア遠征に踏み切る。モスクワに入城するが冬将軍に敗れ撤退。
・それをきっかけに「ライプツィヒの戦い」(1813「諸国民戦争」)でヨーロッパ諸国連合軍にナポレオンが敗れる。連合軍がパリに入城し、ナポレオンは1814年、退位した。
・1815年(ナポレオン46歳、ヘーゲル45歳)、ナポレオンはエルバ島を脱出し皇帝に復帰。だが「ワーテルローの戦い」で敗れセントヘレナ島に流された。(ナポレオンの「百日天下」。)

☆ナポレオン戦争の意義:約20年にわたり、全ヨーロッパを巻きこんだナポレオン戦争(1796-1815)は、多大な犠牲を払った「近代への移行」であった。フランス軍は革命中に始まる「徴兵制」によって編制された「国民軍」であり、彼らは「自由と権利」のために戦うとともに「ナショナリズム」にも燃えていた。フランス軍を迎え撃つヨーロッパ各国は敗北によって、封建的な「傭兵」部隊の時代が過ぎ去ったことを痛感させられ、各国とも「国民軍」を創設して「常備軍」の強化に向かった。

Cf. ヘーゲル(1770-1831)の生涯の略年譜③(1807-1831年、37-61歳・死)(46-47頁)
★イエナ大学が閉鎖され、1807-08年(37-38歳)、ヘーゲルはバンベルク市の新聞 Bamberger Zeitung を主宰。へーゲルがこの職を選んだのは、元来政治に興味があったことを示している。
☆1807年(37歳)ヘーゲル『精神現象学』。
★1808-1816年(38-46歳)、ヘーゲルはニュールンベルクのギムナジウム校長をつとめる。
☆1812-16年(42-46歳)ヘーゲル『大論理学』第1巻・第2巻
★1816-1818年(46-48歳)へゲルはハイデルベルク大学教授をつとめる。
☆1817年(47歳)『エンチュクロペディー』初版。
★1818-1831年(48-61歳)ヘーゲルはベルリン大学教授をつとめる。(47頁)
☆1821年(51歳)ヘーゲル『法哲学』。
☆1831年(61歳・死)英国選挙法改正の論文。(1830年フランスに7月革命があって、この波がドイツへも押し寄せてくる。こういう政治情勢に対して、ヘーゲルが態度を決しようとした論文。)

(8)「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(イ)《精神》における「実体性の段階」、すなわち「中世キリスト教」の信仰の時代!
★ヘーゲルは「自分の哲学の精神史的必然性」を説明する。そこには「3つの段階」が区別される。それは《精神》における(イ)「実体性の段階」、(ロ)「反省の段階」あるいは「媒介の段階」、(ハ)「実体性恢復の段階」である。(62頁)

★(イ)《精神》の「実体性の段階」:「中世キリスト教」の信仰の生きていた時代!(63頁)
☆「実体性」とは「普遍的・全体的・絶対的なもの」のことだ。これに対して「部分的・個別的・相対的・有限的なもの」は(「実体」に対する)「属性」にあたる。「属性」は「実体」に依存するだけで、「実体」からの独立性をもたない。(63-64頁)
☆「有限的・相対的・個別的・部分的なもの」は、すべて「絶対的・全体的・普遍的なもの」に依存しているという状態が「実体性の段階」だ。
☆これは具体的には「中世キリスト教」の信仰の生きていた時代だ。すなわち人間がキリスト教において「絶対的普遍的」なものに帰依し、それを信仰している段階だ。
「かつて人間は思想と表象との広大なる富をもって飾られた天国を所有していて、ありとしあらゆるものは光の糸によってこの天国に繋がれ、この糸によってその意義をえていた。人間のまなこも『この』現在に停滞することなく、光の糸をたどって現在を越えて神的なる実在を、いわば彼岸の現在を仰ぎ見ていた。」(ヘーゲル)

★『精神現象学』の本文でヘーゲルが「(イ)《精神》の「実体性の段階」:「中世キリスト教」の信仰の生きていた時代」について述べるのは、『精神現象学』が「(A)意識、(B)自己意識、(C)理性」の3段階から成りたっているという見方からすれば「(B)自己意識」の最後の段階である「不幸なる意識」においてだ。(63-64頁)
☆また『精神現象学』が「Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性、Ⅳ自己確信の真理性、Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知」の8つの段階から成りたっているという見方からすれば、ヘーゲルが「(イ)《精神》の「実体性の段階」について述べるのは、「Ⅶ宗教」のうちの最高のものである「絶対宗教」(※「啓示宗教」)においてである。(64頁)

《参考1》《『精神現象学』目次》「(B)自己意識」「Ⅳ 自己確信の真理性」:「A 自己意識の自立性と非自立性、主と奴」「B 自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」(333頁)
《参考1-2》 《『精神現象学』目次》「(C)理性(CC)宗教」:「Ⅶ 宗教」「A 自然宗教」a光、b植物と動物、c工作者;「B 芸術宗教」a抽象的芸術品、b生ける芸術品、c精神的芸術品;「C 啓示宗教」

《参考1-3》 『精神現象学』の構成(目次)を分析すると「2つの分け方」が組み合わせてされている。
・一方の分け方では、「(A)意識、(B)自己意識、(C)理性」である。
・他方の分け方では、「Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性、Ⅳ自己確信の真理性、Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知」である。
・「(A)意識」が客体的な方向(Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性)、「(B)自己意識」が主体的な方向(Ⅳ自己確信の真理性)、「(C)理性」が主客統一の方向(Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知)である。

《参考2》ヘーゲル『精神現象学』において、「Ⅶ宗教」は「Ⅷ絶対知」の直前に置かれる。「宗教」は「絶対知」の直前に位置するにふさわしい高度な「精神」の形と考えられている。
《参考2-2》なおヘーゲルは「神」(「宗教」)を人間の「精神」のとる一つの形だとするので、しばしば、「無神論者」と攻撃された。

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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(五)「精神現象学の目的」(その2-2):「普通の意識」が、種々の経験をして「絶対知」に高まる!「絶対知」は『精神現象学』の「全体」において示される!

2024-03-25 12:16:36 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(五)「精神現象学の目的」(その2-2) 
(6)-3-2 『精神現象学』は「意識経験の学」であり「現象知」の叙述である:「普通の意識」が、種々の経験をして「絶対知」にまで高まってゆく!
★『精神現象学』は「意識経験の学」とも呼ばれる。この場合の意識とは「普通の意識」である。この「普通の意識」は「対象は自己とちがう、自己も対象と違う」と考えている意識だ。その「普通の意識」が、種々の経験をしていくことによって「絶対知」(or「哲学的認識」)にまで高まってゆくプロセスを叙述するのが「意識経験の学」すなわち『精神現象学』である。(60頁)
☆かかる「意識経験」は、「相対知」であり「現象知」である。かくて『精神現象学』は「現象知」(「相対知」)の叙述である。

★『精神現象学』の構成は、(A)「意識」、(B)「自己意識」、(C)「理性」となっている。(A)「意識」は対象の意識、自己とちがった対象を意識するもの、(B)「自己意識」は、対象とちがった自己を意識するものだ。この「対象意識」と「自己意識」が一つになるのが(C)「理性」の段階だ。つまり(C)「理性」は、「絶対の他在のうちに純粋に自己を認識する」という「絶対知」にほかならない。(60-61頁)
☆「絶対の他在のうちに純粋に自己を認識する」とはどういうことか、「絶対知」がどういうものであるかは、『精神現象学』の「全体」において、はじめて示すことができる。

《参考》★「精神現象学の構成」(目次)(53-54頁)
(A)意識:Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性
(B)自己意識:Ⅳ自己確信の真理性
(C)理性(AA)理性:Ⅴ理性の確信と真理、
(C)理性(BB)精神:Ⅵ精神(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」、C「自己確信的精神、道徳性」)、
(C)理性(CC)宗教:Ⅶ宗教、
(C)理性(DD)絶対知:Ⅷ絶対知
☆これを分析すると「2つの分け方」が組み合わせてされている。
・一方の分け方では、「(A)意識、(B)自己意識、(C)理性」である。
・他方の分け方では、「Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性、Ⅳ自己確信の真理性、Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知」である。
☆『精神現象学』の構成(目次)については、さしあたっては「(A)意識、(B)自己意識、(C)理性」の3つについて考えていけばよい。「(A)意識」が客体的な方向(Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性)、「(B)自己意識」が主体的な方向(Ⅳ自己確信の真理性)、「(C)理性」が主客統一の方向(Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知)である。

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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(五)「精神現象学の目的」(その2):「普通の認識」は「精神の現象」にすぎない!だがその「現象」をほかにしては「精神」自身が現れることができない!

2024-03-23 13:18:58 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(五)「精神現象学の目的」(その2) 
(6)-3 「学一般の知」=「絶対知」の「生成」こそは「精神現象学」が叙述するところのものである!
★これまでは「普通の認識」の立場から、『精神現象学』は「普通の意識」から、頂上である「絶対知」へ至るまでの「道案内」あるいは「梯子」(ハシゴ)だと述べた。(58頁)

★逆に「絶対知」あるいは「哲学的認識」の立場からも、『精神現象学』が必要となってくる。なぜなら「絶対知」が真実だとしても、それが「普通の現実的な認識」のうちに滲透し現実的な意義をもつことが承認されなくては、「絶対知」は「現実性」をもてないからだ。「現実性」をもてなければ「真実性」も充分に明らかにできない。(58-59頁)
☆かくて「絶対知」自身が一度「普通の意味の知識」(or「普通の意識」or「普通の認識」)の立場に立って、それ自身の性格にしたがって次第に「絶対知」まで上ってゆかねばならない。
☆このような「媒介」を行わずに、突如として「絶対知」の哲学を展開しても、なんら「現実性」をもたない。
☆したがって「真の哲学」(or「絶対知」or「哲学的認識」)が展開されるためには、どうしても『精神現象学』が必要となる。

★「普通の認識」は真の意味の「精神」でなく、「精神の現象」たるにすぎない。だがその「現象」をほかにしては「精神」自身も現れることができない。(59頁)
☆「現象」だからといって、「普通の認識」をおろそかにできない。
☆「学一般の知」=「絶対知」の「生成」こそは『精神現象学』が叙述するところのものである。「絶対知」(「絶対の他在のうちに純粋に自己を認識すること」)が、どのようにして生まれるかを叙述するのが『精神現象学』だ。

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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(五)「精神現象学の目的」(その1):「普通の認識」から「絶対知」(「哲学的認識」)へ行くのに媒介(道案内・梯子)が必要だ!その媒介が『精神現象学』だ!

2024-03-22 13:33:06 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(五)「精神現象学の目的」(その1) 
(6)ヘーゲルの「精神」は、カントで言えば「理性」にあたり、「理性」は「理念Idee」あるいは「無制約者」を認識する!つまり「理性」は「絶対者」を認識する!「絶対者」を認識するものが「絶対知」だ!
★ヘーゲルは『精神現象学』(1807)は、「絶対知の生成」に関する「認識論的な序論」or「学の体系第一部」であると述べる。(57頁)
★ヘーゲルの「精神」は、カントで言えば「理性」にあたり、「理性」は「理念Idee」あるいは「無制約者」を認識する。つまり「理性」は「絶対者」を認識する。「絶対者」を認識するものが「絶対知」だ。(57-58頁)
☆「絶対知」は「絶対の他在における自己認識」だ。
☆「絶対の他在のうちに純粋に自己を認識すること」、これが「絶対知」の規定だ。
☆カントのあの有名な「二律背反論」を積極的に生かして、互いに対立しているものを総合するヘーゲルの哲学的認識が、この「絶対知」だ。
☆「主体」があり、またこの主体に対して全く異なった「客体」があるとき、「その主体と客体とを総合する、つまり絶対の他在のうちに自己を見てゆく」のが「絶対知」だ。

(6)-2 「普通の認識」と「哲学的認識」(=「絶対知」)!
★「普通の認識」の立場では、対象を認識することは他者(他在)を認識することで、自分自身を認識することではない。つまり「対象」を認識するときに、その対象は自己と違ったものであり、認識する「自己」も対象とは違ったものであると考えるのが、ヘーゲルの言う「(A)意識」の立場だ。

《参考》「精神現象学の構成」(目次):「(A)意識」が客体的な方向(Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性)、「(B)自己意識」が主体的な方向(Ⅳ自己確信の真理性)、「(C)理性」が主客統一の方向(Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知)である!(53-56頁)(Cf. 333-336頁)
☆ヘーゲル『精神現象学』の目次は次のようになっている。
(A)意識:Ⅰ《感覚》感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ《知覚》真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ《悟性》力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)自己意識:Ⅳ自己確信の真理性
(C)理性(AA)理性:Ⅴ理性の確信と真理、
(C)理性(BB)精神:Ⅵ精神(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」、C「自己確信的精神、道徳性」)、
(C)理性(CC)宗教:Ⅶ宗教、
(C)理性(DD)絶対知:Ⅷ絶対知

★それ(「普通の認識」)に対して、「哲学的認識」(「絶対知」)においては「絶対の他在のうちに自分自身を認識する」。(58頁)
☆かくて「哲学的認識」を行うことは、「普通の認識」つまり「普通の意識」(「(A)意識」)に対してはまるで逆立ちして歩けというようなものだ。いきなりそんな要求をしても、それはとうてい行えない。
☆「普通の認識」から「絶対知」(「哲学的認識」)へと行くまでに媒介が重要だ。「絶対知」の立場は非常に高い山の頂上のようなものであり、山の麓である「普通の意識」から頂上である「絶対知」へ至るまでの「道案内」あるいは「梯子」(ハシゴ)が必要だ。その「梯子」をかける役目、「道案内」をするのが『精神現象学』だ。

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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(四)「精神現象学の構成」:「(A)意識」が客体的な方向、「(B)自己意識」が主体的な方向、「(C)理性」が主客統一の方向(理性、精神、宗教、絶対知)である!

2024-03-21 13:41:55 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(四)「精神現象学の構成」 
(5)「(A)意識」が客体的な方向(Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性)、「(B)自己意識」が主体的な方向(Ⅳ自己確信の真理性)、「(C)理性」が主客統一の方向(Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知)である!
★ヘーゲル『精神現象学』の目次は次のようになっている。(53-54頁)(Cf. 333-336頁)
(A)意識:Ⅰ《感覚》感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ《知覚》真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ《悟性》力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)自己意識:Ⅳ自己確信の真理性
(C)理性(AA)理性:Ⅴ理性の確信と真理、
(C)理性(BB)精神:Ⅵ精神(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」、C「自己確信的精神、道徳性」)、
(C)理性(CC)宗教:Ⅶ宗教、
(C)理性(DD)絶対知:Ⅷ絶対知

☆これを分析すると「2つの分け方」が組み合わせてされている。(53-54頁)
・一方の分け方では、「(A)意識、(B)自己意識、(C)理性:(AA)理性・(BB)精神・(CC)宗教・(DD)絶対知」である。
・他方の分け方では、「Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性、Ⅳ自己確信の真理性、Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知」である。
・これを組み合わせると「(A)意識(Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性)、(B)自己意識(Ⅳ自己確信の真理性)、(C)理性:(AA)理性(Ⅴ理性の確信と真理)・(BB)精神(Ⅵ精神)・(CC)宗教(Ⅶ宗教)・(DD)絶対知(Ⅷ絶対知)」となる。

★『精神現象学』の目次の「2つの分け方」の成立の順序からいうと。「Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性、Ⅳ自己確信の真理性、Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知」が多分、先にできた。(56頁)
☆しかし段階の数があまり多いのであとから「(A)意識、(B)自己意識、(C)理性」の3つに要約したと考えられる。☆すなわち「(A)意識(Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性)、(B)自己意識(Ⅳ自己確信の真理性)、(C)理性:(AA)理性(Ⅴ理性の確信と真理)・(BB)精神(Ⅵ精神)・(CC)宗教(Ⅶ宗教)・(DD)絶対知(Ⅷ絶対知)」!

★『精神現象学』の構成(目次)については、さしあたっては「(A)意識、(B)自己意識、(C)理性」の3つについて考えていけばよい。(56頁)
☆「(A)意識」が客体的な方向(Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性)、「(B)自己意識」が主体的な方向(Ⅳ自己確信の真理性)、「(C)理性」が主客統一の方向(Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知)である。
☆ここにヘーゲル哲学の根本的立場が成立する。

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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(三)「近代精神史上の位置」:『精神現象学』は「近代精神」の3特徴一「人間の無限性」、二「作用性」、三「自己意識」(主体性)を極端にまでもっていった!

2024-03-21 12:15:27 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(三)「近代精神史上の位置」(49-52頁) 
(4)ヘーゲル『精神現象学』は「近代精神」の3つの特徴①「人間の無限性」、②「作用性」、③「自己意識」(主体性)を、極端にまでもっていった!
★「近代精神」には3つの特徴がある。①「人間の無限性」、②「作用性」(実体よりも作用を尊ぶこと)、③「自己意識」(主体性)!(49頁)
☆ヘーゲルの『精神現象学』はこの3つの特徴を極端にまでもっていったものである。

★「近代精神」の第①の特徴、「人間の無限性」について言えば、それは「人間は絶対者を知り、またこれに到達することができる」というヘーゲルの主張にきわめて明瞭に現れている。(49頁)
《感想》「近代精神」(Ex. 哲学者や科学者)orヘーゲルのなんという傲慢!
《感想(続)》ただし「神との合一」、あるいは「神の憑依」の意識は、人間には太古からあった。

★「近代精神」の第②の特徴、「作用性」(実体よりも作用を尊ぶこと)について、ヘーゲルは次のように言う。「真なるものとは、おのれ自身となる生成であり、己れの終わりを己れの目的として予め定立し前提し、また初めとしてもち、そうしてただ目的を実現して終わりに達することによってのみ現実的であるところの円環である。」(49-50頁)
☆このように「真理」は、それを「固定した結果」と見ずに、「つねに生成してゆくプロセス」として見た時にのみ本当に成り立つと、ヘーゲルは考える。
☆この「生成」Werden ということを非常に尊ぶということからいって、ヘーゲル哲学においては「作用性」の特徴がほとんど極点にまで押し出されている。

《参考》ハイデガー『存在と時間』(1927)「第44節」(a)は、「真なるもの」or「真理性」について、「言明が真であるということ(真理性)は、存在者をそれ自体のありさまで発見することである」と述べている。(※頁は細谷貞雄訳1994)
☆1 「言明は発見的である。」つまり「言明において志向されていた存在者そのもの」が、「それがそれ自体においてある通りのありさまで現れてくる。」(218頁)
☆2 「知覚」によって「証示さるべきことは、認識と対象との合致ではなく・・・・存在者そのものが発見されてあること、その被発見態のありさまにおける存在者そのものである。」(218頁)
☆3 「言明が真であるということ(※真理性)は、存在者をそれ自体のありさまで発見することである。」「言明が真であること(真理性)は、発見的であることとして理解されなくてはならない。」(218頁)
☆4 「言明は、言明し挙示する、すなわち存在者をその被発見態において『見えるようにする』」。(218頁)
☆5 かくて「真理性は、ある存在者(主観)が他の存在者(客観)へ同化するという意味での、認識と対象との合致というような構造をなんらそなえていない。」(219頁)
☆6 「発見的であるという意味での真であることは、存在論的には、世界内存在にもとづいてのみ可能である。」(219頁)

★「近代精神」の第③の特徴、「自己意識・主体性」は、「絶対者は主体である」とのヘーゲルの主張に現れている。(50-51頁)
☆「絶対知」はヘーゲルの場合、「絶対宗教」と深い関連にある。そして「キリスト教」が「絶対宗教」と解されている。
☆「絶対宗教」とは、「神が、自己確信的精神の深底である」という「知」だとヘーゲルは述べる。つまり我々は「自己自身を確信する精神」をもっているが、そういう精神の「一番深い底」にあるものが「神」にほかならないのだ。
☆かくて「神はあらゆる人間の自己である」ことになる。「神」は「実在」であり「純粋思惟」であるが、この「抽象性を外化する」つまり「抽象性を捨てる」ときには、「神」は「現実の自己」である。
☆裏から言えば「現実の自己」つまり「普通の空間的・時間的定住を持っている人間」が、「神」だということだ。かくて「神性・神の性質」は、「人性・人の性質」と異なったものでないともヘーゲルは述べる。これは「主体性および自己性」をヘーゲルが極端にまでもっていったものだ。

★このような意味でヘーゲル『精神現象学』は「近代精神」を決定化したものであるということができる。(51頁)
☆カントにおいても「近代精神」の3つの特徴、①「無限性」、②「作用性」(実体よりも作用を尊ぶこと)、③「自己性」ということは、もちろんいえる。しかしカントにおいては、まだ控え目であって極限にまで至っていない。
☆ヘーゲルの場合は、「近代精神」の3つの特徴、①「無限性」、②「作用性」(実体よりも作用を尊ぶこと)、③「自己性」(「自己意識・主体性」)は、極限にまで推し進められている。
☆かくて、ヘーゲルは「近代哲学を完成した」と言える。
☆同時にヘーゲルは「近代哲学の転換を不可避にした」。即ちヘーゲル(1770-1831)を通じてキェルケゴール(1813-1855)、マルクス(1818-1883)といった人たちが現れてきて、「近代哲学」への反抗が始まり、「現代哲学」へと移ってゆく。
☆『精神現象学』はそれを極めてよく現わしている。
☆ヘーゲル『精神現象学』の「近代精神史上の位置」は、大体このように決めることができる。(金子武蔵)

★ハイデガーは「ヘーゲル哲学は近代哲学をある意味で完成したものである」と述べる。(51-52頁)
☆ヘーゲルは確かに「近代科学、近代技術」について内面的な理解を持っていない。しかし根本の精神においては「ヘーゲル哲学」と「近代科学、近代技術」は同じだ。
☆一方で「近代科学、近代技術」は「人間が世界全体を人間の支配の下に置こうとした」。他方で「ヘーゲル哲学」は「精神的に世界を支配しようとした」。
☆「ヘーゲル哲学」は「近代科学、近代技術」に何らの理解ももっていないが、しかし両者は根本の性格において同じものだ。ただ一方(「ヘーゲル哲学」)が「精神的に内面的に」人間による世界支配を行うのに対し、他方(「近代科学、近代技術」)は「現実的に現象に現れるように」人間による世界支配を行う。
☆「ヘーゲル哲学は近代精神の性格をはっきり現わしたものだ」とハイデガーは主張する。これは金子武蔵氏の主張と同じだ。

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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(二)「ヘーゲル哲学における『精神現象学』の位置」:『エンチュクロペディー』が正式の体系総論だが、『精神現象学』もはるかに精彩に富む体系総論だ!

2024-03-15 14:32:10 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)

I 序論(二)「ヘーゲル哲学における『精神現象学』の位置」 
(3)ヘーゲル(1770-1831)の生涯の略年譜①(1789-1800年、19-30歳):ヘーゲルは1789年、フランス革命を喜び迎える!1796-1800年、26-30歳はヘーゲルのロマンティシズムの時代で、運命、愛、和らぎというようなことが話題になっている!(39-42頁)
★ヘーゲルはヴュルテンベルク公国(現在のドイツに属す)の首都シュトゥットガルトに生まれた。父はカール・オイゲン公の財務官。母の生家は君公に対抗するほどの勢力を持つ民会の役員だった。家庭には新教徒の敬虔な雰囲気があった。(39-40頁)
☆両親との関係から政治と縁の深い家柄で、ヘーゲルは若い頃から、宗教のほか政治にも深い興味を持っていた。
☆ヴュルテンベルクは多くの学者・詩人(例えば、ケプラー、シラー、シェリング、ヘルダーリン)を出しており、ヘーゲルはこの故郷を誇りにしていた。

《参考1》ケプラー(1571-1630)「ケプラーの法則」を発見した。「ケプラーの法則」は惑星の運動に関する三つの法則である。(1)第一法則。惑星は太陽を焦点とする楕円軌道を描く。(2)第二法則。一つの惑星について惑星と太陽とを結ぶ直線(動径)は、一定時間に常に同じ面積を描く。面積速度一定の法則。(3)第三法則。惑星の公転周期の二乗は、太陽からの平均距離の三乗に比例する。調和の法則。「ケプラーの法則」はニュートン(1642-1727)の万有引力発見のもとになった。

《参考2》シラー(1759-1805)ドイツの詩人、劇作家。処女戯曲「群盗」を書き、ゲーテと並び個性解放の文学運動シュトルム・ウント・ドランクを代表。のちカント哲学の影響をうけ、歴史の流れと個人の自由の葛藤を描いた歴史劇のほか、思想詩、美学論文などを残す。
Cf.  ベートーヴェン(1770-1827)『第9交響曲』「歓喜の歌」(1824):フランス革命(1789)直後、シラーの詩「自由賛歌」がラ・マルセイエーズのメロディーでドイツの学生に歌われていた。その後、シラーが書き直した「歓喜に寄せて」(An die Freude )をベートーヴェンが歌詞として引用、書き直したのが「歓喜の歌」だ。ベートーヴェンは1792年にこのシラーの詩の初稿に出会い感動して曲を付けようとしたが、『第9交響曲』は1824年に完成した。

《参考3》シェリング(1775-1854)ドイツ観念論とロマン主義の立場に立つ哲学者。5歳年長のヘーゲルおよびヘルダーリンと親交を結び、フランス革命への熱狂的な共感を共有した。主客の根源的同一性を原理とする「同一哲学Identitätsphilosophie」を打ち出し,ヘーゲルに影響を与えた。晩年のシェリングは,神秘主義に傾く。

《参考4》ヘルダーリン(1770-1843)チュービンゲン大学で神学生としてヘーゲル、シェリングとともに哲学を学ぶ。1789年のフランス革命に感動。卒業後は各地で家庭教師をしながら詩作を行った。30代で統合失調症を患いその後人生の半分を塔の中で過ごした。生前はロマン派からの評価を受けるが、大きな名声は得られなかった。しかし古代ギリシアへの傾倒から生まれた汎神論的な文学世界は、ロマン主義、象徴主義の詩人によって読み継がれ、またニーチェ、ハイデッガーらにも影響を与えた。

★ヘーゲルは1790-1793年(20-23歳)チュービンゲン大学神学科在学。(神学科といっても、今の日本では哲学科にあたる。)シェリング、ヘルダーリンも在学。彼ら3人は1789年、フランス革命を喜び迎えた。(40-41頁)
☆1793(秋)-1796年(23-26歳)ヘーゲルは、スイスの名門シュタイガー家で家庭教師をつとめる。この頃は哲学を勉強した人は他に就職口もないので家庭教師になるのが普通だった。(カント1724-1804、フィヒテ1762-1814、ヘルダーリン1770-1843、皆然り。)

《参考5》フィヒテ(1762-1814)ドイツの哲学者。カント哲学から出発して、自我の実践性を理論的に基礎づけ、倫理的色彩の濃い思想体系を樹立。ナポレオン占領下のベルリンでの講演「ドイツ国民に告ぐ」(1807-08)は有名。

★1796年(26歳)、ヘーゲルは故郷シュトゥットガルトに帰る。ヴュルテンベルク公国において政治的改革を実施すべしとの激越な政治パンフレットを書く。(41-42頁)
☆1796-1800年(26-30歳)、ヘーゲルはフランクフルト市の銀行家ゴーゲル家で家庭教師をつとめる。この頃はヘーゲルのロマンティシズムの時代で、「運命」、「愛」、「和らぎ」というようなことが話題になっている。

(3)-2 ヘーゲル(1770-1831)の生涯の略年譜②(1801-1807年、31-37歳):イエナ大学私講師、員外教授時代!「全哲学」即ち「思弁哲学(論理学・形而上学)と実在哲学(自然哲学・精神哲学)」!(42-46頁)
★イエナ大学でのヘーゲルの講義題目は例えば「1804-05年冬学期」は「全哲学」即ち「思弁哲学(論理学・形而上学)と自然哲学と精神哲学」。(44-46頁)
☆ヘーゲルは「1805-06年冬学期」から、「思弁哲学(論理学・形而上学)」に対して、「自然哲学と精神哲学」は「実在哲学」と呼び内容的な哲学となる。またヘーゲルがこの冬学期に「哲学史」の講義を行なったことは『精神現象学』にとって重大な意義を持つ。というのは『精神現象学』はヘーゲル哲学の「認識論的序説」であると同時に「歴史哲学」だからだ。(45頁)

(3)-3 ヘーゲル(1770-1831)の生涯の略年譜③(1807-1831年、37-61歳・死):『精神現象学』(1807)・『大論理学』(1812-16)! (46-47頁)
★イエナ大学が閉鎖され、1807-08年(37-38歳)、ヘーゲルはバンベルク市の新聞 Bamberger Zeitung を主宰。へーゲルがこの職を選んだのは、元来政治に興味があったことを示している。(46頁)
☆1807年(37歳)『精神現象学』。
★1808-1816年(38-46歳)、ヘーゲルはニュールンベルクのギムナジウム校長をつとめる。(46頁)
☆1812年(42歳)『大論理学』第1巻第1部。
☆1813年(43歳)『大論理学』第1巻第2部。
☆1816年(46歳)『大論理学』第2巻。

(3)-4 ヘーゲル(1770-1831):ハイデルベルク大学教授&ベルリン大学教授!『エンチュクロペディー』(1817)・『法哲学』(1821)!(47-48頁)
★1816-1818年(46-48歳)ハイデルベルク大学教授。(46-47頁)
☆1817年(47歳)『エンチュクロペディー』初版。
★1818-1831年(48-61歳)ベルリン大学教授。(47頁)
☆1821年(51歳)『法哲学』。
☆1831年(61歳・死)英国選挙法改正の論文。(1830年フランスに7月革命があって、この波がドイツへも押し寄せてくる。こういう政治情勢に対して、ヘーゲルが態度を決しようとした論文。)

(3)-5 ヘーゲル(1770-1831)の4著作:『精神現象学』、『大論理学』、『エンチュクロペディー』、『法哲学』!(48頁)
★ヘーゲルが公にした哲学的著作は『精神現象学』(1807)、『大論理学』(1812-16)、『エンチュクロペディー』(1817)、『法哲学』(1821)の4つだけだ。宗教哲学、美学、歴史哲学、哲学史など多くの講義が刊行されているが、それらは皆ベルリン時代の講義を弟子たちが編集したもので、ヘーゲル自身の著書ではない。(47-48頁)
★『精神現象学』(1807)はきわめて重要な著作であり、ヘーゲル哲学の全体において、体系序論であるのほか、体系総論の位置を占める。(詳しい理由につては追々後述する。)(48頁)

★むろん正式に体系総論であるのは『エンチュクロペディー』(1817)だ。これは第1部「論理学」、第2部「自然哲学」、第3部「精神哲学」の3部からなる。(48頁)
・第1部「論理学」は、いわゆる『大論理学』(正確には『論理の学』)(1812-16)を簡略にしたもので、普通に「小論理学」と呼ばれる。
・第3部「精神哲学」は「主観的精神」・「客観的精神」・「絶対的精神」という3つの段階からなる。これらのうち「客観的精神」の段階を特別に詳しく取り扱ったものが『法哲学』(1821)だ。

★『エンチュクロペディー』(1817)が正式には体系総論だが、しかし『精神現象学』(1807)も独自の境地においてそのすべての問題を取り扱ったものであり、しかも叙述ははるかに精彩に富んでいる。『精神現象学』は体系総論の意味をもつ。(詳しい理由は追々述べていく。)(48頁)

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