宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

浮世博史『もう一つ上の日本史』百田氏の誤り:(77)①定信が「失脚」してもその後25年間は「定信の政策」が引き継がれた!②「化政文化」の背景は「寛政の改革」の地道な成果だ!

2020-11-30 10:48:30 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、古代~近世篇」(2020年)「江戸時代」の章(213-327頁)

(77)百田氏の誤り:①定信「失脚」後も「定信の政策」が引き継がれた!②「化政文化」の背景は「寛政の改革」だ!(284-286頁)
H 百田尚樹『日本国紀』は、「定信が失脚した後は、将軍家も贅沢三昧な生活を送り、社会も再び活性化する。景気がよくなる中で・・・・『化政文化』と呼ばれる町人文化が花開く。」(百田211頁)(Cf. 文化文政は1804-1830年だ。)
H-2 百田氏の誤り①:百田氏は「定信が失脚した」ことを「寛政の改革」の終わりと考える。だがこれは誤りで、定信の老中在任が6年間(1787-93)で終わっても、1818年までその後25年間は、「寛政の改革のスタッフがそのまま残留し、老中松平信明が定信の政策を引き継いで政治をしていた」。(浮世285頁)将軍家斉(在任1787-1837)は定信と対立したが、その改革までは否定しなかった。
H-3 百田氏の誤り②:百田氏は「寛政の改革」が終わったから「化政文化」が花開いたと言うがこれは誤りだ。「化政文化」を生む背景には「寛政の改革」(「定信の政策」)の地道な成果があった。定信の改革は「現実とは乖離」(百田209頁)していない。
(a) 「寛政の改革」の本百姓体制再編の効果が10年間で表面化し、連続して豊作となり幕府は約550万両もの利益をあげた。
(b) 「寛政の改革」の七分積金や町会所などの福祉政策によって「日々の不安」「将来の不安」が解消され、庶民のあいだに「消費への活力」が生まれていた。

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浮世博史『もう一つ上の日本史』(76)百田氏の誤り:松平定信の「寛政の改革」は「現実とは乖離したもの」ではない!①小児養育金、②綿花・菜種の生産、③囲米、④七分積金!

2020-11-29 10:56:17 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、古代~近世篇」(2020年)「江戸時代」の章(213-327頁)

(76)松平定信の「寛政の改革」!(280-284頁)
G  百田尚樹『日本国紀』は、松平定信の「寛政の改革」(1787-1793)について、「定信の理想主義は現実とは乖離したもので・・・・」(百田209頁)と述べるが、「現実とは乖離したもの」ではない。
G-2 そもそも田沼意次が失脚(1786)したのは、「天明の大飢饉」(1782-88)とそれに伴う全国的な一揆・打ちこわしによるものだった。
G-3 松平定信の「寛政の改革」はこのような「幕藩体制の弱体化」への対策が目的であり、「現実とは乖離したもの」ではない。(浮世282頁)
G-4 幕藩体制の基盤である「小農経営、いわゆる本百姓体制」の維持と再建を定信は目指す。①「間引き」による人口減少を食い止めるため「小児養育金」を支給(15万両)。②商品作物を換金性の高い綿花・菜種の生産に絞らせる。
G-5 また飢饉対策では、③備蓄米として1万石につき50石の「囲米」(カコイマイ)を大名に命じた。④江戸の町の対策として「七分積金」(シチブツミキン)を行わせた。(町の運営費節約の7割を積み立て困窮者への低利融資などに充てる。)実際、これによって天保の飢饉の時、江戸で打ちこわしが起きなかった。

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浮世博史『もう一つ上の日本史』:(74) 貨幣改鋳の目的は「出目」を稼ぐこと!(75) 百田氏の誤り①株仲間から「冥加金」を取ったのは田沼でなく吉宗が最初!②株仲間は田沼が「結成」させたのでない!

2020-11-28 12:06:06 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、古代~近世篇」(2020年)「江戸時代」の章(213-327頁)

(74)幕府の貨幣改鋳の目的は単純に「出目」を稼ぐことだけだった!(273-274頁)
E  幕府の貨幣改鋳の目的は単純に「出目」(デメ)を稼ぐことだけだった。「インフレ」を目的にしていない。インフレは副次的結果(効果)にすぎない。(Ex. 1840年、幕府の歳入の内、「出目」の利益は20%に達していた。幕府にとって貨幣改鋳はオイシイ政策だった。)

(75)百田氏の誤り:①株仲間を公認し「冥加金」を取ったのは田沼でなく吉宗が最初だ!②株仲間は田沼が「結成」させたのでない!(274-277頁)
F 百田尚樹『日本国紀』は、「田沼は、商品流通を行うための株仲間(幕府から営業の独占権を与えられた商人の集まり)を結成し、そこから冥加金を取った。これは現代の事業税に近いものがある。この政策はあまり評価されていないが、私は画期的なことであったと思う。江戸幕府が開かれて150年以上、どの将軍も老中も思いつかなかったことだ。」(百田206頁)
F-2 百田氏の誤り①:「徳川吉宗は、株仲間を公認し、冥加金を納めれば販売権の独占を認めました。ですから田沼意次が最初に始めたことではありません。」(浮世275頁)
F-3 百田氏の誤り②:株仲間は田沼が「結成」したものでなく、「早い時期に存在しており」、「田沼より100年余り前の1648年から1670年の間に、幕府は株仲間を禁止する法令を何度も出している。」(浮世275頁)

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「大食いの娘」『スペイン民話集(エスピノーサ篇)』(第13話):「大食い」(暴食)はカトリック教会の「七つの罪源」(「七つの大罪」)の一つだ!

2020-11-26 14:07:12 | Weblog
(1)
昔、一人の娘のいる男(父親)がいた。ある朝、父親が仕事に出かけるとき、娘に「飼っている雌鶏を殺し料理しておくように」と言いつけて出かけた。
(2)
娘は雌鶏を殺し料理した。雄鶏だけが残った。娘は料理の味見をした。手羽を1本引き上げ味見し食べてしまった。もう1本の手羽も味見し食べてしまった。そして脚を1本、もう1本等々、引き上げ引き上げ、次々味見し、とうとう雌鶏を1羽、みんな食べてしまった。
(3)
娘は困った。あと雄鶏しかいない。娘は思った。「私の白くて柔らかいお尻の肉を数切れ切り取って料理すれば、おとうさんは雌鶏の肉と思うでしょう。」
(4)
娘は、自分のお尻の肉を切り取って料理した。帰ってきた父親はとても疲れており、お尻の肉を雌鶏の肉と思って食べた。
(5)
父親が食べ終わった時、雄鶏が鳴きだした。「キキリキー、ここではお尻の肉を食うのかい!」父親が、「どうして雄鶏はあんな風に鳴くんだ?」と娘に聞いた。娘は、「何とでも歌わせておきなさい。私たちには関係ないわ」と言った。
(6)
だが雄鶏がまた「キキリキー、ここではお尻の肉を食うのかい!」と鳴いた。父親は「きっと何か理由があるに違いない」と思い、再び娘に「本当のことを言ってごらん」と問いただした。
(7)
そして父親は娘の体から血が流れているのを知った。娘もとうとう、本当のことを父親に白状した。

《感想1》「大食い」はカトリック教会の「七つの罪源」(「七つの大罪」)の一つだ。「大食い」(暴食or大食)はカトリック(※スペインはカトリック国!)では重い罪だから、娘は自分の「お尻の肉」を切り取ってでも「大食い」を隠そうとしたのだ。
《感想2》カトリック教会の「七つの罪源」は、傲慢superbia(pride)、強欲(貪欲)avaritia(greed)、嫉妬invidia(envy)、憤怒(激怒)ira(wrath) 、色欲(邪淫)luxuria(lust) 、暴食(大食)gula(gluttony) 、怠惰pigritia/acedia(sloth) だ。
《感想3》ピーテル・ブリューゲル「7つの罪源」シリーズの版画がある。(下記はブリューゲル「7つの罪源」より「大食」!)


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浮世博史『もう一つ上の日本史』:百田氏の誤り(73)「検見法」と異なり、《増産分はすべて農民の取り分になった》ので「定免法」を歓迎した農民のほうが多い!

2020-11-26 10:55:31 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、古代~近世篇」(2020年)「江戸時代」の章(213-327頁)

(73)吉宗は「生きた経済」をわかっていた!「検見法」と異なり、「定免法」は幕府財政にも農民にもプラスだった!(270-272頁)
D 百田尚樹『日本国紀』は、「[定免法により]幕府の収入は安定したが、農民にとっては不作や凶作の時には、非常に厳しい状況になった」(百田202頁)と言うが、これは誤りだ。
D-2 定免法で「農民にとっては不作や凶作の時には、非常に厳しい状況になった」場合は少なく、むしろ「開墾や農具の改良や肥料の使用による増産分はすべて農民の取り分になったので、定免法を歓迎した農民のほうが多い」。例えば、「郡上(グジョウ)一揆」は「定免法をやめて検見(ケミ)法に戻そうとしたことに反対する一揆」だった。(浮世271頁)
《感想1》検見法の場合、隠して増産した分が探し出され課税される。定免法なら、定額を年貢として納めればよいから、農民の増産意欲が高まる。
《感想2》年貢が一定なら、不作や凶作時の年貢分を備蓄しておけば、「不作や凶作の時」に対応できる。
D-3 幕府にとっては「豊凶によって税収が変わる状態で予算」をくむ「検見法」より、「定免法」の方が財政を安定させ、また「年貢の増徴」にもなった。
D-4 百田氏は「[定免法は]・・・・幕府にとっても農民にとっても益は少なかった。このあたり、吉宗は生きた経済がわかっていなかった」(百田202頁)と言うが、これは誤りで、吉宗は「生きた経済」をわかっていたと言うべきだ。

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浮世博史『もう一つ上の日本史』:(72) 吉宗の緊縮財政、宗春の積極財政ゆえに、「吉宗の宗春に対する憎悪は凄(スサ)まじいものがあった」との百田氏の見解は根拠薄弱&誤りだ!

2020-11-25 14:11:24 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、古代~近世篇」(2020年)「江戸時代」の章(213-327頁)

(72)「吉宗の宗春に対する憎悪は凄(スサ)まじいものがあった」との百田氏の見解は根拠薄弱=誤りだ!「尾張藩内の政争」つまり「藩主押込」(オシコメ)だ!(浮世264-270頁)
C 百田尚樹『日本国紀』は、「吉宗の宗春に対する憎悪は凄(スサ)まじいものがあった。宗春を強引に隠居させ、名古屋城の三の丸に蟄居を命じ、死ぬまでその屋敷から出ることを禁じたばかりか(父母の墓参りさえ許さなかった)、死後も墓に金網をかけたほどだ」(百田204頁)と述べるが、「凄まじい」とする根拠が薄弱&誤りだ。(浮世264頁)
C-2 吉宗の緊縮財政・デフレ政策・規制強化、宗春の積極財政・インフレ政策・規制緩和を対比させるのは「経営者や金融アナリスト」たちで、一面正しい指摘もあるが、歴史の事実とかけ離れてしまう。(浮世265頁)
C-3 宗春の隠居・蟄居は、(ア)「尾張藩内の政争」つまり「藩主押込」(オシコメ)の側面、(イ)「老中松平乗邑(ノリサト)との関係」、(ウ)「幕府と朝廷の対立」によるもので、「単に宗春が吉宗の享保の改革に逆らったため、という考え方は希薄になっている。」(浮世264, 266-270頁)
C-3-2 尾張家藩主・徳川宗春は吉宗と政策上の対立を起こし隠居させられたのでない。(ア)徳川宗春は尾張藩主として大変な浪費家で藩財政を極度に悪化させ、家臣たちの一部が「押込(オシコメ)」を望んだ。(イ)朝廷(北朝系)が、緊密な縁戚関係にあった徳川宗春に、水戸光圀『大日本史』(南朝系を擁護)の回収を依頼。家臣の一部は尾張藩が幕府から危険視されることを懸念し、「押込(オシコメ)」を望んだ。(ウ)尾張藩内は宗春派と反宗春派(武腰派)に割れており、反宗春派はコネで老中松平乗邑(ノリサト)に働きかけ、財政破綻・朝廷問題から反宗春派(武腰派)家老たちがクーデターを起こす。吉宗が奥に籠り不在の1739年、松平乗邑が尾張藩に「宗春蟄居・謹慎」を吉宗の命として申し渡した。

(72)-2 「宗春蟄居・謹慎」は吉宗にとって「やむをえない措置」にすぎなかった!(浮世264-265頁)
C-5 「吉宗の宗春に対する憎悪は凄(スサ)まじいものがあった」との百田氏の見解は当てはまらない。「宗春蟄居・謹慎」は吉宗にとって「やむをえない措置」だった。例えば、(a)吉宗は徳川宗春をもともとお気に入りの譜代衆として遇していた。(b) 吉宗は宗春に自分の名前の「宗」を贈っているが、蟄居・謹慎後も没収していない。(c) 蟄居・謹慎後も、宗春に使いを送り(気色伺い)、吉宗は宗春の生活の様子を心配している。(d)宗春は蟄居・謹慎後も「尾張前黄門(サキノコウモン)」(※黄門は中納言のこと)の名乗りが許されたままだ。(e) 宗春が「閉じ込められた」とされる名古屋城三の丸は六代藩主の実母の邸で広く、宗春は陶器を焼いたり吉宗から拝領した朝鮮人参を栽培したり悠々自適の御隠居状態だった。

(72)-3 百田氏の誤り(f)「屋敷から出ることを禁じた」、(g)「父母の墓参りさえ許さなかった」、(h)「死後も墓に金網をかけた」!(浮世265頁)
C-6  (f)「(宗春が)死ぬまでその屋敷(※名古屋城三の丸)から出ることを(吉宗が)禁じた」との百田氏の叙述は誤りで、宗春は後に前藩主専用の7万坪の御隠居屋敷に移っている。(側室二人も一緒に生活。)(g)百田氏は、吉宗が宗春に「父母の墓参りさえ許さなかった」と述べるが、これも誤り。宗春は蟄居・謹慎後、菩提寺に参詣し「市中の人々が提灯を軒先に並べ参拝を迎えた」という記録がある。(h)吉宗が「(宗春の)死後も墓に金網をかけた」と百田氏が述べるが、これもウソだ。Cf. 「江戸の小塚原で罪人の墓に金網をかける」ことはあったが「御三家の御隠居の墓に金網をかける」などない。(浮世265頁)

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『伊勢物語』(Cf. 在原業平825-880)「第23段 筒井筒(ツツイヅツ)」(その3):上流貴族の男には、上流貴族の妻=「もとの女」の生活様式・エチケットこそしっくりする!

2020-11-25 10:42:09 | Weblog
男は、河内の「高安の女」のもとにしばらく行かなかったが、ある時、男は、ごくまれのことに(「まれまれ」)高安に行った。ところが女は男に気を許し(「うちとけて」)、きちんと装いし化粧することもなく、また(侍女に給仕させず)自分で杓子をとって笥子(ケコ、飯を盛る器)に飯を盛ったので、男は嫌になって、また行かなくなってしまった。
《感想1》男は上流貴族。女は中流貴族。男には、女の「うちとけ」た態度が下品に思われ、すっかり嫌になって(「心憂がりて」)しまった。

河内の「高安の女」は男が来ないので、男が住む大和の方を見て歌った。

「君があたり見つつ居(ヲ)らむ生駒山(イコマヤマ)雲なかくしそ雨はふるとも」I wait for you seeing Mt. Ikoma beyond which you live. A cloud shouldn’t hide Mt. Ikoma even when it rains.(あなたがいらっしゃる大和の方を見てお待ちしていましょう。大和との境の生駒山を、雲よ、隠さないでほしい。雨が降るとしても。)
《感想2》「高安の女」は、「男」を愛している。だが上流貴族と中流貴族では生活様式・エチケットなどが違う。中流貴族の女は、上流貴族の男に嫌われてしまった。
《感想2-2》男は、そもそも「女」の財産目当てだった。だが上流と中流の違いで、やはり男は女が気に入らない。《自分勝手》な男だ!。

「高安の女」がこうして歌を詠み贈ると、ようやく男から「行きます」(「来む」)と返事があった。女は喜び、男を待ったが、男は「行きます」と度々言うばかりで、来ない。女が歌を贈った。

「君来むといひし夜ごとに過ぎぬれば頼まぬものの恋ひつつぞ経(フ)る」May times, you said you would come to me, but in vain every night. Now I don’t hope you will come to me, but I continue to love you. (あなたが「来る」と言ったその夜ごとにお待ちしましたが、いつも空しく過ぎてしまいました。今はあてにしないものの、恋しい思いで、月日を過ごしています。)

だが男はついに通うことがなかった。

《感想3》男は女泣かせの色男だ。「もとの女」を泣かせ、「高安の女」も泣かせた。
《感想3-2》「もとの女」(妻)は上流貴族だ。男が「高安の女」のもとに出かけてしまった時も、妻は、念入りに化粧して(「いとよう化粧(ケサウ)じて」)、歌を詠んだ。上流貴族の男には、上流貴族の妻の生活様式・エチケットこそしっくりするのだろう。

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浮世博史『もう一つ上の日本史』:百田氏の誤り(70) ①「正徳小判」は家宣死後!(71)②庶民は鎌倉時代、すでに政治に口を出した!③「目安箱」は戦国時代にあった!④ヨーロッパ諸都市&イギリス議会!

2020-11-24 22:11:33 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、古代~近世篇」(2020年)「江戸時代」の章(213-327頁)

(70)百田氏の誤り:①「正徳小判」の発行は1714年で、家宣の死後だ!(259-261頁)
A  百田尚樹『日本国紀』は、「[六代]家宣(任1709-1712)は・・・・元禄時代に改鋳した貨幣の金銀含有量を元に戻した」(百田201頁)と述べるが、これは誤りだ。金銀含有量を「慶長小判」に戻した「正徳小判」の発行は1714年で、家宣の死後だ。
A-2 徳川家宣・家継の時代、新井白石が侍講(ジコウ)(政治顧問)(任1709-1716)に登用されており、「正徳の治」と呼ばれる。
A-3 白石の「正徳の治」の時代(1709-1716)も、前半は荻原重秀が経済政策を担当し、1710年発行の「宝永小判」はさらに金の量が減らされた。荻原重秀が勘定奉行を解任されたのは1712年だ。

(71)百田氏の誤り:②「目安箱」以前に「庶民は政治に口を出すことはできなかった」と言うのは誤り!③「目安箱」に相当するものは戦国時代からあった!④日本は、「庶民」の政治参加・政治的発言に関し、ヨーロッパよりはるかに後発だ!(261-263頁)
B 百田氏は吉宗の「享保の改革」の「目安箱」について、「大和朝廷成立以来、庶民は政治に口を出すことはできなかった。(直訴は極刑)。その伝統を打ち破って、広く庶民の訴えを聞くというシステムは、近代の先進国でもおそらく初めてのことではないだろうか」(百田203頁)と述べる。

B-2 百田氏の誤り②:上記の内、「大和朝廷成立以来、庶民は政治に口を出すことはできなかった。(直訴は極刑)」と百田氏が言うのは誤りだ。例えば、(ア)鎌倉時代、1275年の紀伊国「阿氐河荘(アテガワノショウ)の荘民の訴状」は、地頭の横暴を訴えた農民のカタガナ書きの訴状だが、農民たちは極刑に処せられていない。(イ)室町時代の年貢減免を訴える愁訴もある。また(ウ)1441年「嘉吉の徳政一揆」では、幕府は要求を認め「徳政令」を発令している。(浮世261-262頁)

B-3 百田氏の誤り③:「広く庶民の訴えを聞くというシステム」に関し、吉宗の「目安箱」が日本で初めてと百田氏が言うのは誤りだ。「目安箱」に相当するものは「戦国時代からあった」。Ex. 北条氏康、武田信玄、今川義元。(浮世262-263頁)

B-4 百田氏の誤り④:同じく「広く庶民の訴えを聞くというシステム」に関し、「目安箱」が「近代の先進国」でも「初めて」と百田氏が言うのは、ヨーロッパ史についての無知=誤りだ。そもそもヨーロッパでは「広く庶民の訴えを聞くというシステム」どころか、例えば(a)「中世ヨーロッパの諸都市ではすでに市民が市政の運営を行っていた。」また(b)「享保改革とほぼ同じ頃の18世紀初期・・・・イギリスでは本格的に議会が機能していて責任内閣制も始まっていた」。「目安箱」のように「庶民の訴えをお上が聞き届ける、という形式は・・・・前近代的」だ。(浮世263頁)
《感想》ヨーロッパは、「庶民」の政治参加・政治的発言に関し、日本に先んじている。

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宇野昌人(1931-2014)「他者性――精神医学的断想」:躁病者は、「代表象」機能の欠落によって、「他者」を構成できない!

2020-11-24 12:07:41 | Weblog
※新田義弘・宇野昌人編『他者の現象学:哲学と精神医学からのアプローチ』北斗出版、1982年所収

(1)ビンスワンガー『うつ病と躁病』!
ビンスワンガー(1881-1966)は、ハイデガーの現存在分析(Daseinsanalytik)に依拠した精神医学的分析を行っていたが、『うつ病と躁病』(1960年)ではフッサールに依拠し、意識の「志向性」に目を向けうつ病と躁病を分析した。(36頁)

(2)代表象(Appräsentation、間接呈示)!
ビンスワンガーは代表象(Appräsentation、間接呈示)が「他者の身体的現表象(Präsentation)に付け加わる」ことで他我の経験が可能となると言う。(38頁)

(3)躁病者は、「代表象」機能の欠落によって、「他者」を構成できない!
ビンスワンガーによれば、「躁病者は、代表象機能の欠落によって、他者・・・・を構成することが不可能となり、各瞬間に現前する現表象の断片の中に生きている。」かくて「躁病者につきものの、思考における、あるいは行為における抑制欠如または誇大妄想は、代表象が機能しないことの表現にほかならない。」(39頁)

(4)「常態→病態→常態」という治療の視点(動態への視点)!
宇野氏は、「常態→病態→常態」という治療の視点(動態への視点)がない点で、ビンスワンガーを批判する。「ビンスワンガーは、《他者構成機能を喪失し、他者との一切の出会いを失った躁病》の状態から、他者構成機能の《常態》への通路を示していない。」(40-41頁)

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浮世博史『もう一つ上の日本史』(69) 百田氏の誤り:①17世紀後半の「代表越訴型」一揆のみが江戸時代の一揆でない!②一揆は「交渉」のような穏便なものでない!

2020-11-23 13:38:44 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、古代~近世篇」(2020年)「江戸時代」の章(213-327頁)

(69)百田氏の誤り:①17世紀後半の「代表越訴型」一揆のみが江戸時代の一揆でない!②一揆は「交渉」のような穏便なものでない!(253-258頁)
X 百田尚樹『日本国紀』は、「江戸時代の一揆は、農民が集団で、あるいは代表を立てて、領主や代官と交渉するという形がほとんどである」(百田200頁)と述べるが、「ほとんど」でない。
X-2 百田氏が示した一揆は(イ)「代表越訴型」で17世紀後半の一揆だ。
X-3 江戸時代は260年間ある。一揆は4類型が区別できる。(ア)17世紀前半は、中世的な「土一揆」型だ。武力蜂起や逃散(チョウサン)だった。(イ)17世紀後半が「代表越訴型」だ。なお百田氏はこれを「交渉」と呼ぶが、首謀者は厳しく取り締まられ、普通「磔(ハリツケ)」だった。(ウ)17世紀末からは「惣百姓(ソウビャクショウ)一揆」だ。これも「交渉」のような穏便なものでない。これは、『山川日本史小辞典』によれば、徒党という多数の威力を背景に打ちこわしをともなう強訴、さらに全藩的規模での大規模な一揆、時に藩領をこえた広域闘争だった。(エ)最終段階は、開国に伴う国内の混乱・物価騰貴による「世直し一揆」だ。国学の尊王思想を背景に(口実として)「世直し」が叫ばれた。

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