宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」(続):「理性」における A「対象意識の側面」=「観察」、B「自己意識の側面」=「行為」、C「対象と自己の統一の側面」=「社会」!

2024-06-13 16:25:02 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」(続)(158-159頁)
(31)-3 「理性」の「確信」を「真理」にまで高める運動にも、「理性」の規定からして、おのずからA「対象意識の側面」すなわち「観察」と、B「自己意識の側面」すなわち「行為」と、C「これら両者(対象と自己)の統一の側面」すなわち「社会」の3つがある!(158-159頁)
★当面の段階たる(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」の段階は、1「観察」、2「行為」、3「社会」に大別される。(ただし「行為」と「社会」というのは金子武蔵氏が工夫した表現で、ヘーゲルのテキストにはない。)(158頁)
★さて(C)(AA)「理性」においては(A)「対象意識」(意識)と(B)「自己意識」とが統一をえ、「対象と自己が一つになっている」ところからしては、すでに「絶対知」の段階に到達せられている。(158頁)

《参考1》「個別」(「個人」・「信者」)が完全に「普遍」(「神」or「教会」)を実現し、「主体」が「客観」に転換するとき、「自己意識」は「対象意識」に結びつく!この結びつきにおいて「理性」がでてくるが、これがヘーゲルの「絶対知」の根本的境地だ!(142頁)
☆「禁欲主義(アセティスィズム)」によって、「個人」がかえって「絶対的自由」を獲得することにおいて、かくて「個別」(※「個人」・「信者」)が完全に「普遍」(※「神」or「教会」)を実現し、「主体」(※「個人」・「信者」)が「客観」(※「神」or「教会」)に転換するとき、「自己意識」(※「個人」・「信者」)は「対象意識」(※「神」or「教会」)に結びつく。(142頁)
☆この結びつきにおいて「理性」がでてくるが、これがヘーゲルの「絶対知」の根本的境地だ。(142頁)
☆この意味で「免罪」というのは「教会や神」がゆるすのではなく、「絶対」の機能をもつようになった「自己意識」が自己自身でゆるすことになる。(142頁)
☆それで「中世のアセティスィズム(禁欲主義)」があって初めて「近世的な理性」が生まれることができると、ヘーゲルは考えている。(142頁)
《参考1-2》このようにして今や、(A)「(対象)意識」から、(B)「自己意識」をへて、両者の統一としての(C)「理性」の段階にまでたどりついた!(142頁)

★(C)(AA)「理性」において「自己と対象とが一つである」といっても、まだそういう「主観的確信」がもたれているだけであって、この「確信」が「客観的な真理性」をもっているわけでない。(158頁)
☆かくて「確信」を「真理」にまで高める運動が必要になってくる。(158頁)
☆これが(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」という題がつけられるゆえんだ。(158頁)

★「理性」の「確信」を「真理」にまで高める運動にも、「理性」の規定からして、おのずからA「対象意識の側面」すなわち「観察」(A「観察的理性」)と、B「自己意識の側面」すなわち「行為」(B「理性的自己意識の自己自身による実現」)と、C「これら両者(対象と自己)の統一の側面」すなわち「社会」(C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」)の3つがある。(158-159頁)

《参考2》ヘーゲル『精神現象学』の目次!(333-336頁)
(A)「意識」(対象意識):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」(A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」)
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」(A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」・Ⅱ「啓蒙」・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」(A「自然宗教」、B「芸術宗教」、C「啓示宗教」)、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

《参考2-2》『精神現象学』の構成(目次)については、さしあたっては「(A)意識、(B)自己意識、(C)理性」の3つについて考えていけばよい。「(A)意識」が客体的な方向(Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性)、「(B)自己意識」が主体的な方向(Ⅳ自己確信の真理性)、「(C)理性」が主客統一の方向(Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知)である。(56頁)

《参考2-3》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」
1「感覚」、
2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、
3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」
1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、
2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、
3「現代(あるいは絶対知)」

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小池 龍之介『いま、死んでもいいように 執着を手放す36の智慧』 2017年(39歳):「私の肉体は汚(ケガ)れに満ち、死へと近づくものであり、破壊されてゆく死体のようなもの」(「長老尼偈」)!

2024-06-13 11:57:04 | Weblog
※小池 龍之介 (1978生)『いま、死んでもいいように 執着を手放す36の智慧』 2017年(39歳)(幻冬舎文庫)
(1)「この身体はなんとも儚く、もろく、壊れやすくやがて病んで朽ち果てる」(『法句経』)(18頁)
《感想》まことにその通り。老人になったら若いときのように「ひたすら欲望を追う」ことはやめてもいいかもしれない。Cf. 小池氏は「『若者』ぶる老人は醜いだけで、尊敬にも値しない」(21頁)と言う。

(2)「巨大な満足感を感じ取る者は、ちっぽけな快楽にはとらわれないであろう」(『法句経』)(24頁)
《感想》「欲望」は次々と生まれきりがない。そして「次の欲望へと急がせる市場の誘惑」(28頁)。だが「永遠の幸福」(「巨大な満足感」)の「永遠の一瞬」というものがありうる。人生の意味は、その「一瞬」にのみある。

(3)「生も苦、老も苦、病も苦、死も苦」(『諸転法輪経』)(30頁)
《感想1》小池氏は(or小池氏の仏教は)実に「後ろ向き」だ。「生きること」は無意味なのだ。「生」は「苦」が多いが「苦あれば楽あり」と「生」には「楽」もある。人は「幸せ」を求めて生きる。
《感想2》だが「苦」ばかりに襲われる、「苦」のまっただ中に生きるとき、「生も苦、老も苦、病も苦、死も苦」も真底からの真実だ。子供の「かわいらしさ」、「愛の幸福」、「美」と無縁の人生の「苦しみ」!

(4)「生まれた者には、もれなく死がついてくる。生まれたなら、もれなく苦を受け取る。苦につかまえられ、最後には殺され、責め苦を受ける。それゆえ、生れることを喜ぶのは愚かなこと」(『相応部経典』)(44頁)
《感想1》「生まれたなら、もれなく苦を受け取る」。確かにこのような「生」を生きる者もいる。(あるいは、そうしか思えないときもある)その場合は、確かに「生れることを喜ぶのは愚かなこと」だろう。
《感想1-2》だが人は「苦」の中にも「幸福」を求め、探してのみ生きることができる。
《感想1-3》小池氏は、「HappyBirthday!」や、「日々の喜び」や、「幸せ」の追求を無意味だと、ことごとく否定する。このように否定するのは、「ひねくれ者」だ。
《感想1-4》》小池氏は、「この世」の無意味、「人生」の無意味を説いて、なんと「この世」で(有意味な)「金儲け」をする。こうして小池氏は「この世を謳歌する」。「いい気」なものだ。(Cf. 「嫌味」を言ってしまった!)

《感想2》「生まれた者には、もれなく死がついてくる」!それは事実だ。だからと言って「生」が無意味でない。「生」のうちには「一瞬の永遠」とでも呼ぶべきものがある。「一瞬の永遠」である「喜び」・「美」・「幸福」などのうちにこそ人は生きる。「死」を怖れる必要がない。「永遠」(イデア)が宿ることが「死」を超える。

(5)「私の肉体は汚(ケガ)れに満ち、死へと近づくものであり、破壊されてゆく死体のようなもの」(「長老尼偈」)(62頁)
《感想》かわいらしい子供(「かわいらしさ」)、愛する恋人(「愛の幸福」)、人の所作の美(「美」)など、これらは「肉体」に宿る「永遠」(イデア)だ。「肉体」がやがて死のうと、腐敗しようと、例えば「かわいらしさ」・「愛の幸福」・「美」そのものは、そこに存在する「永遠」(イデア)だ。人は「永遠」(イデア)に一瞬出会うことができる。それが「生きること」の意味だ。「生きること」は無意味でない。「死」は必然だが、「死」も「永遠」を壊すことができない。「永遠」とは「イデア」的存在のことだ。「かわいらしさ」・「愛の幸福」・「美」などのイデア(「永遠」)が、死すべき肉体に、一瞬宿ることがあるのだ。

(6)「シュッと独立している筍(タケノコ)のように、独り歩め。そうシャキンと一本だけ突き出した、犀(サイ)の角(ツノ)のように」(『経集(スッタニパータ)』より「犀角経」)(74頁)
《感想》これには先行する文がある。「子供や妻への愛情のある者は、枝葉の茂った竹がお互いに絡みつき合い、縛り合うようなものだ」と。「子供や妻への愛情」を否定し、彼らを捨てて「出家」するとは「無責任」だ。相当、自分勝手と言うべきだ。

(7)「諸行はまことに無常にて、生じては滅する本性を持つ、生じ滅する揺れ動きが、滅することこそ安らぎだ」(『大般涅槃経』より「無常偈」)(92頁)
《感想》かくて、例えば日常生活で「不動心」が重要だとされる。「浮足立つな!」ということ。「生じ滅する揺れ動き」にとらわれないこと。まず「生きる」ことが先決だ。「滅すること」=「死」は「生きること」の最後にやってくる。「死」とは「生きる」ことが終わることだ。「死」は「生きる」ことの一部だ。

(8)「悲しみ嘆くのはおやめなさい、アーナンダよ。私は今まで何度も君に言ってきたでしょう?愛し、好み、執着したどんなものであれ、必ずや別れ、手放し、失わねばならないものだと。すべての生じたもの、存在するもの、つくられたものは壊れ、崩壊する運命なのに、“壊れませんように”という願いが、どうして叶うことがあろうか?」(『大般涅槃経』)(210頁)(Cf.  ブッダその人自身が、齢八十にしていよいよ入滅しようとするにあたって、それを悲しむ侍者である愛弟子アーナンダに語りかけた言葉。)
《感想》仏陀の言葉は愛に満ち、優しい。アーナンダ(阿難)は釈迦(仏陀)の帰郷に際し出家して最初の沙弥(少年僧))となった。釈迦の10大弟子のひとり。

《参考1》人生に対し否定的見解、厭世観を述べてるだけに思える。①「アイドル」も(その内部は)「肉と骨の汚物」にすぎないというように極端に解釈する。「アイドル」に熱狂することを否定する。②「旨いもの」を食う、「良いもの・美しいもの・楽しいもの・幸せな気分にするものなど」を手に入れようとするという「欲」をすべて否定する。つまり人の「生」を否定する。「死」を推奨する。Cf. 「物を大切にしつつ過剰な欲を抑える」といったアプローチの方が普通だ。③しかも小池氏は「楽しみ」や「快楽」が全て「錯覚」とまで言う。「シャバで生きる人の人生」は・空虚・無意味とされる。そしてそもそも「娑婆で生きる他者」への「共感」がない。(むしろバカにしている。)「慈悲」を語る仏に仕える者と思えない。④「一般的な人々」「平均的な人たち」をバカにして、大乗的な仏教の教えと思えない。⑤「シャバの快楽を《全て》捨てよ」と「一般人」に語っても役に立たない。

《参考2》内容的に「若い人」や「鬱っぽい人」は読まない方が良いかもしれません。
《参考3》筆者の(東大卒という)「高学歴」(?)がそうさせているのか、いちいち理屈っぽい。この人の言葉は論理と理屈でばかり成り立っている。国語の試験問題を解説している予備校の講師みたいだ。

《参考4》①「絆があっても、絆がなくても孤独」「内臓水油などの詰まった人間は綺麗じゃない」など、ともかく「一切が苦だ」という話に逆に救われました。ブッダは「事実しか言わない」ので、気が楽になります。②「一人あることの大切さ」、有名な「サイのツノ」の例話が、やはり凄いです。「何にも頼れないこと」、「自分自身に頼ること」、しかし「自分自身でさえ自分のものでないこと」など、通常の価値感と違い、ハッとさせられます。③小池氏は「心」の状態を、「神経伝達物質」、「人間は《本能》に組み込まれたものに支配されているに過ぎない」などと淡々と説明してくれるので、冷静に考えやすいです。④「これがないから出来ない」、「あれがないから人より不幸」などの考え方を改めて、「一人で立つ」ことを目標にしようと思いました。

《参考5》『考えない練習』は、サラサラと身体に入りましたが、こちらは、「人が死ぬこと前提」での記述となっており、読んでいても、「前向きな気持ち」になれませんでした。「大切であること」は理解できますが。

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