宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

中島義道『晩年のカント』「第7章」(続)『オプス・ポストゥムム(遺稿集)』:われわれが創造したのでもない「質料」(物質)は、なにゆえに人間理性に従いえるのであろうか?

2021-01-31 20:08:39 | Weblog
※《参考》中島義道(1946-)『晩年のカント』(講談社現代新書)2021年

第7章(続)カント『オプス・ポストゥムム(遺稿集)』:「質料」の中に分け入る!(208-209頁)
(9)《自然科学の形而上学的原理》から《物理学》への移行というテーマ! 
J カントは1786年(62歳)『自然科学の形而上学的原理』を刊行。それ以後、カントは「《自然科学の形而上学的原理》から《物理学》への移行」という大きなテーマに挑む。(208頁)
(9)-2 カントの超越論的観念論:世界は、人間理性の構築物にほかならず、『現象』にすぎない!
J-2 「カントの《超越論的観念論》という壮大な体系において、その『そと』に位置する『物自体からの触発』が、はじめから『躓きの石』であった。」(208頁)
J-3 「たしかに、世界は、人間理性の構築物にほかならず、『現象』にすぎない。あらゆる学問が描き出すのは《絶対的真理》ではなく、あくまでも《人間にとっての真理》なのであって、《人間理性の限界》をわれわれ人間は超えられない。」(208頁)
(9)-2-2 世界の「質料」:われわれには「質料」(物質)が「与えられている」!
J-4 「とはいえ、世界は単なる形式(概念)にのみではなく、質料(世界の実質を成しているもの、ここでは『物質』としておく)によっても成り立っている。」(209頁)
J-4-2 「われわれ人間が世界の質料(物質)を創造したのでない。」(209頁)
J-4-3 「われわれには質料(物質)が『与えられている』のであって、そのもとで人間理性は形式(概念)によって世界を現象として描き出すのだ。」(209頁)
(9)-2-3 われわれが創造したのでもない「質料」(物質)は、なにゆえに人間理性に従いえるのであろうか?
J-5 「こうして、《現象としての世界》もまた質料(物質)を取り込んで成立している。」(209頁)
J-5-2 「そうだとすると、われわれが創造したのでもない質料(物質)は、なにゆえに人間理性に従いえるのであろうか?」(a)「このことは単なる偶然なのだろうか?」それとも(b)「質料(物質)の中に人間理性と呼応する何かがすでに潜んでいるのであろうか?」(209頁)

(9)-3 「『質料』(物質)は、なにゆえに人間理性に従いえるのかの秘密」が「化学」に隠されていると信じて、カントは晩年、化学に取り組んだ!
J-6 「およそ、こういう思考過程((9)-2, (9)-2-2, (9)-2-3)を経て、カントは『自然科学の形而上学的原理』を刊行したときから、さらに質料(物質)の中に分け入ろうとした。」(209頁)
J-6-2 「カントは物質を扱う『化学』の中にその秘密が隠されていると信じて、晩年とくに化学に取り組んだ。」この試みは断片にとどまり、膨大な『オプス・ポストゥムム(遺稿集)』に収められている。(209頁)

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中島義道『晩年のカント』「第7章」:『人間学』は「事実学」であって、ア・プリオリな「規範学」でない!文学者は哲学者でない!カント『自然地理学』におけるカントの理性主義・理性信仰!

2021-01-31 19:55:21 | Weblog
※《参考》中島義道(1946-)『晩年のカント』(講談社現代新書)2021年

第7章「地上のあらゆるものへの興味――『人間学』『自然地理学』」(185-211頁)
(8)カント『実用的見地における人間学』(『人間学』)(1798年):「事実学」であって、ア・プリオリな「規範学」でない!(186頁)
I カント『実用的見地における人間学』(『人間学』)が1798年(74歳)に刊行された。
I-2 「実用的」(pragmatisch)とは「事実学」であって、ア・プリオリな「規範学」でないということだ。
I-3 「人間学」は事実学であり、「倫理学」は規範学だ。
I-3-2 「倫理学」に属する著書は、「実践的」(praktisch)の語が使われる。Ex. 『実践理性批判』。
I-4 『実用的見地における人間学』(『人間学』)は一般市民相手の通俗講義であり、面白く人気があった。

(8)-2 カント『人間学』における(a)女性論!(b)芸術に哲学は不要!(c)文学者は哲学者でない!
I-5 (a)カントが「女性」について言う。「男性は恋している時は嫉妬深い。婦人は恋していなくても嫉妬ぶかい。」 あるいは「『世間の言うことが真理で、世間のすることが善だ』というのが女性の原則である。」(188頁)
I-6  (b)カントが「芸術」について言う。「みずから美しい作品(Ex. 音楽、絵画。彫刻)を生み出すことのできるひとは、それについて哲学することなどしないで、作品一本に打ち込んだ方がよい。」(190頁)
I-6-2 なお「カントは美に対する感受性をほとんどもっていなかった。」(ショーペンハウアー)(190頁)
I-7 (c)カントは「文学者は哲学者でない」と言う。(191頁)
I-7-2 哲学者は「世界とは言語によって構築されている幻想かもしれない、いやそうでないかもしれない」という疑いに、あるいは「言語が真実を正しく表現しているのか、そうでないのか」という問いにとらわれた者のことだ。(191頁)
I-7-3 文学者は「いったい世界はあるのか」という存在論にコミットしない。彼はその限りで哲学者でない。(192頁)

(8)-3 カント『自然地理学』(1802年、78歳):高慢と偏見に満ちた人種・民族論!だが他方でカントの理性主義・理性信仰!
I-8 カント『自然地理学』(1802年)は、1756年(32歳)から1796年(72歳)まで40年間の講義録だ。その人種・民族論は高慢と偏見に満ちる。カントは言う。「人類は白人の人種において、最大の完成に達している。黄色のインド人はすでにより少ない才能しかない。ニグロはさらに低い。」(195-196頁)
I-8-2 「東洋の諸民族は、理念・・・・を解する力を持たず・・・・美の精神をまったく欠いている。同じように彼らは、悟性の概念をもって事物を観察することがなく、あるいは道徳に関する事柄において、心術の純粋な原則の概念をもつこともまたない。」(197頁)
I-8-3 ただし、こうした高慢と偏見に満ちた人種・民族論はヨーロッパ人に共通だ。リンネ(1735年)はアフリカ人が「奇形」であり人間の「最下位」だとした。ヒューム(1711-1776)は「ニグロや一般にその他すべての人種・・・・は白人に比べると当然劣っている。・・・・白人以外に有色民族の文明国家は存在したことがない」と述べた。(199頁)
I-8-4 だが他方でカントの理性主義・理性信仰は強固だ。異人種も白人(西洋人)と完全に同じ「理性」を持つが、環境・状況がその発現を妨げている。適切な教育を施せば、西洋人と同じ「道徳法則」を承認するはずだとカントは考える。(200頁)!
I-8-5 カントはドイツ人医師エンゲルベルト・ケンプファーの旅行記(1690-92に日本滞在)を読み、日本に好意的だ。「日本人は躾が非常によく、きめが細かく、知識があり、すべての芸術はシナ人よりすぐれて洗練されている。」(カント)(203頁) 

(8)-4 カント『自然地理学』(続):カントの知識欲は旺盛だ!動物、植物、鉱物について述べる!(204-208頁)
I-9 カント『自然地理学』には多様な動物について述べられている。カバ、ロバ、ナマケモノ、モグラ、ネズミ・・・・。またカントはクジラに相当、興味を持っていた。また貝類、害虫(ナンキンムシ、カetc. )・・・・さらに植物、鉱物についても述べる。カントの知識欲は旺盛だ。

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中島義道『晩年のカント』「第6章」:哲学部は「その本性に従って自由である理性」に仕える!哲学の「世界概念」とは「認識と《人間理性の本質的な諸目的》との連関についての学」だ!

2021-01-30 18:42:39 | Weblog
※《参考》中島義道(1946-)『晩年のカント』(講談社現代新書)2021年

第6章「宗教に対する態度――『学部の争い』」(167-184頁)
(7)「哲学部」は「真理」に仕えるが、「神学部」は「有用性」に仕える!
H 『学部の争い』(1798年)でカント(74歳)は、大学の「哲学部」は「その本性に従って自由である理性」に仕える学部だ。かくて哲学部においては「真理こそが肝要である」。ところが「神学部」においては真理より「政府のために約束する有用性」が大事である。(169-171頁)

(7)-2 キリスト教は「理性宗教」の部分と「啓示宗教」の部分からなる!
H-2 カントによれば、キリスト教は「理性的な部分」と「非理性的な部分」に分かれる。前者は、「実践理性」によって解明される「理性宗教」であり、後者は、キリスト教の歴史に由来する非理性的な「啓示」を主とする「神学」である。(173頁)
H-2-2 カントは「理性宗教」が「本来的な宗教」だと言う。「啓示宗教」は「非理性的な啓示を主とする非本来的な宗教」だ。(173-4頁)
H-2-3 要するカントによれば、キリスト教は「《実践理性》によって認識されるところまでが《本来的な宗教》であって、それを超える《歴史的な啓示宗教》の部分は、ただ《有用性》から容認されるだけの《非本来的な宗教》である。」(174頁)

(7)-3 カントは哲学の「学校概念」から抜け出して、哲学の「世界概念」にそって生きようと志した!
H-3 カントは、2000年来の「権威」にがんじがらめになった「教会=学校」の外に出て、自らの「理性」だけを頼りに思考する「世俗=世間=世界」に出ると決意した。カントは哲学の「学校概念」から抜け出して哲学の「世界概念」にそって生きようと志した。(182-183頁)
H-4 『純粋理性批判』(1781年、57歳)の「超越論的方法」において、すでにカントは哲学の「学校概念」と「世界概念」について語った。(180頁)
H-4-2  哲学の「学校概念」とは「知識の体系的統一以上の何ものかを、したがって認識の論理的完全性以上の何ものかを、目的としてもつことの《ない》認識の体系」である。これに対し哲学の「世界概念」とは「すべての認識と《人間理性の本質的な諸目的》との連関についての学」である。(180-181頁)
H-4-3  カントは、哲学の「学校概念」に携わる哲学者を「理性の技術者(Techiniker)」、哲学の「世界概念」に携わる哲学者を「理性の立法者(Gesetzgeber)」と呼ぶ。(181頁)

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中島義道『晩年のカント』「第5章」:カントにとって「生命」は最高の価値ではない!「生命」を超える価値をカントは「内面的価値」あるいは「人格」と呼ぶ!

2021-01-29 22:19:09 | Weblog
※《参考》中島義道(1946-)『晩年のカント』(講談社現代新書)2021年

第5章「法と道徳――『人倫の形而上学』」(139-165頁)
(6)形而上学とは何か:カントでは、形而上学は「実在性」に関わる学であり、《自然》という理論的実在性と《道徳》という実践的実在性に関わる学である!
F アリストテレスでは、「形而上学」は「一般形而上学」(「存在論」Ontologie)と「特殊形而上学」(「神学」・「宇宙論」・「魂論」)に区分される。(140頁)
F-2 カントでは「形而上学」は「『実在性』に関わる学」であり、「《自然》という理論的実在性に関わる学」(「自然の形而上学」)と「《道徳》という実践的実在性に関わる学」(「人倫の形而上学」)からなる。(140頁)
F-3  かくてカントは、『自然の形而上学』は、その序章として『自然科学の形而上学的原理』(1786年、62歳)を刊行した。また、その後『人倫の形而上学』(第一部「法論の形而上学的基礎論」、第二部「徳論の形而上学的基礎論」)(1797年、73歳)を刊行した。(140頁)

(6)-2 『人倫の形而上学』第一部「法論の形而上学的基礎論」:「私法」に関しカントは「法の普遍的法則」として《所有権という物権》と《契約によって発生する債権》の絶対性を主張する!
G 「私法」に関し、「カントが『法の普遍的法則』の名のもとに具体的に考えているのは、《所有権という物権》と《契約によって発生する債権》の絶対性である。すなわち理性的である限り、各人は他人の《所有権》を侵害してはならず、他人との《契約》を履行する義務を有する。これをカントは疑っていなかった。」(140頁)
G-2 カントは「所有権の起源」を論じ、《事実としての「占有」》と《権利としての「所有」》を峻別する。
G-2-2 「カントは事実上の『占有』(Cf. 自分の土地であると宣言するor耕作などしてその土地に労働を投与した)を《現象》とし、それと区別される権利としての『所有』を《物自体》として峻別し、《権利》の発生はいかなる《事実》からも生じえないとした。」(145頁)

(6)-2-2 「公法」に関し、カントは「同害報復の法理(ius talionis)」から死刑制度を肯定する!
G-3 「公法」に関し、カントは「同害報復の法理(ius talionis)」から死刑制度を肯定する。カントは述べる:「このことは、ア・プリオリに確立された《普遍的法則》に従っての司法権の理念という意味における《正義》が要請するところである。」(147頁)
G-3-2 カントは述べる:「公民的社会が全成員の合意によって解散する・・・・といった場合にも、その前にあらかじめ、牢獄につながれた最後の殺人犯人が処せられ・・・・なければならない。」すなわち「殺人犯に対する死刑は、『ア・プリオリに確立された《普遍的法則》』である」。(148頁)

(6)-2-3 カントにおける「死刑の肯定」と「自殺の禁止」!カントにとって「生命」は最高の価値ではない!「生命」を超える価値をカントは「内面的価値」あるいは「人格」と呼ぶ!
G-4  カントは、一方で死刑を肯定し、他方で自殺を禁止する。「カントにとって生命は最高の価値ではないから、それ以上の価値(内面的価値=道徳的価値)のために生命を犠牲にすることは正当化され、それ以下の価値(不幸の回避、幸福の増大)のために生命を奪うことは禁止される」。(151頁)
G-4-2 「己の生命を守るために敵前から逃げ去る・・・・者は、卑怯者である。しかし己と己の戦友たちを死に至るまで防衛する者は、自殺者ではなく、気高い高潔な心の持主と考えられる。」(『カントの倫理学講義』)
G-4-3 「生命は・・・・最高善ではない。」(同上)
G-4-4 「生命」を超える価値をカントは「内面的価値」あるいは「人格」と呼ぶ。「内面的価値」」を持つ人は「卑劣な行為をするよりは、むしろ己の生命を犠牲にするだろう」。(同上)

(6)-3 『人倫の形而上学』第二部「徳論の形而上学的基礎論」:「嘘をつくべきではない義務」は、「内的な(すなわち徳的な)完全義務」であると同時に「外的(すなわち法的)完全義務」である!
G-5 カントは「義務」を(a)「完全義務」と(b)「不完全義務」に区別する。(a)「完全義務」は法的義務とも呼ばれ、それを成すことは当然であり、なさないと罰せられる。(Ex. 契約の履行。)「自分自身に対する(内的)完全義務」と「他人に対する(外的)完全義務」がある。(b) 「不完全義務」は徳的行為とも呼ばれ、それをなすと称賛されるが、それを成さなくても罰せられない義務である。(Ex. 他人に親切にする。)「自分自身に対する(内的)不完全義務」と「他人に対する(外的)不完全義務」がある。(152-153頁)
G-6 「嘘は、自己の《人間としての尊厳》を放棄することである」とカントは言う。(154-155頁)
G-6-2 カントは「嘘をつくべきではない義務」を、「内的な(すなわち徳的な)完全義務」であると同時に「外的(すなわち法的)完全義務」であるとする。(158頁)

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中島義道『晩年のカント』「第4章」:「永遠平和」とは、自由な各人のあいだの平和状態(普遍法則=定言命法=道徳法則に従うこと)を国家にまで拡大したものだ!

2021-01-28 18:00:04 | Weblog
※《参考》中島義道(1946-)『晩年のカント』(講談社現代新書)2021年

第4章「政治に対する態度――『永遠平和論』」(111-138頁)
(5)『永遠平和論』(1795年)には、『宗教論』の筆禍事件(1794年)への反省が影を落としている!
E 『宗教論』(1793年)の筆禍事件(1794年、70歳)で挫折したカントが、1795年『永遠平和論』を刊行する。(112頁)
E-2 そもそもカントにとっては「自由」とは、「各人は(理性的である限りにおける)自己自身の命令にのみ従い、他のいかなる権威にも権力にも従わず行為を開始する」という「自律」(Autonomie)である。(112-113頁)
E-3 ところが『宗教論』に対するプロイセン官憲の命令(今後、宗教に関する講述を禁止する)をカントが受け入れたことは、彼が「自律」を放棄したことだ。(113頁)
E-4 カントの『永遠平和論』(1795年)には、『宗教論』に対する筆禍事件(1794年)への反省が影を落としている。(114頁)

(5)-2 自由な国家間の平和状態の実現(「永遠平和」)とは、自由な各人のあいだの平和状態(普遍法則=定言命法=道徳法則に従うこと)を国家にまで拡大したものだ!
E-5 「カントによれば、永遠平和は、法の普遍的法則のバリエーションとして導き出される。すなわち法の普遍的法則(※定言命法or道徳法則)における『汝』に『汝の(属している)国家』を代入するだけである。」(114頁)
E-5-2 すなわち「汝の(属している国家の)意思の自由な行使が普遍的法則に従って何びとの(属している国家の)自由とも両立しうるような仕方で外的に行為せよ」と『永遠平和論』でカントは主張する。(114頁)
E-5-3 「自由な国家間の平和状態の実現とは、自由な各人のあいだの平和状態を、国家にまで拡大したものだ」。「理性的で自律的な各人が、他人の自律を侵害しない平和な共同体を形成すべきであるように、理性的で自律的な各国家は他国の自律を侵害しない平和な国際社会を形成すべきだ」とカントは言う。(115頁)

(5)-3 カントの「理性信仰」&「世界市民」!
E-6  1758年~1763年(カント34~39歳)、ロシアがケーニヒスベルクを占領した時、カントはロシア女帝に忠誠を誓い、ロシアの将校たちとも偏見をもたずつき合った。(121頁)
E-6-2 またカントは自分の家系はスコットランドに由来すると信じていた。(間違いと今は判明している。)(121頁)
E-6-3  カントは「世界市民」の存在を信じていた。(121頁)
《感想》カントは人間の「理性」(Vernunft)を固く信じていた。人間は「理性」をもつ存在だ。人間は「理性」をもつ存在として「世界市民」だ。
E-7 カント『人倫の形而上学』(1797年)の「はじめに」に次のように述べられている。「客観的にみるならば、ただ一つの人間理性があるだけなのであるから、たとえ人びとが或る同一の命題をめぐってどれほど多様な仕方で・・・・哲学してきたにしても、多数の哲学が存在するはずはなく、言いかえれば、原理から発する哲学の真の体系はただ一つしかありえない。」(131頁)
E-7-2 これは「理性信仰」の告白だ。(131頁)
E-7-3  「理性信仰」をせせら笑うのが、「現代の分析哲学者」たちや、「ポストモダンを標榜する反理性主義者」たちだ。「これらすべを脱却しているかに見える(広義の)相対主義者」たちもいる。
《感想》評者は「理性信仰」の立場に立つ。「相対主義」は「究極の真理」に至る過渡形態だ。

《参考1》「仮言命法」と「定言命法」:「もし行為が何か別の或るものを得るための手段としてのみ善である」なるならば、その場合の「命法」(※義務的命令)は「仮言的」である。「行為が、それ自体として善である」、したがって「行為が《理性に従う意思》つまり《理性を自分の原理とする意思》において必然的である」ならば、その場合の「命法」は「定言的」である。
《参考2》主観的「格率」と普遍的な「道徳法則=定言命法」:「格率」は主観的なものであり、普遍性がないので、道徳法則と見なすことはできない。「普遍的立法」(「定言命法」)のみが「道徳法則」(普遍的法則としての道徳法則)だ。
《参考3》定言命法(普遍的立法)or普遍的法則or道徳法則:「あなたの意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理(※理性的に意志された立法=義務)として妥当しうるように行為せよ」(Wkipedia“定言命法”)
《参考4》「常にいや増す新たな感嘆と畏敬の念とをもって我々の心を余すところなく充足する二つの物がある、すなわち私の上なる星をちりばめた空(※自然法則)と私のうちなる道徳的法則である。」(『実践理性批判』:篠田英雄/訳317頁参照)

《参考5》「カントが唱えた批判主義とは何か?」※参照:「近代哲学の祖、カントが唱えた批判主義と道徳とは?」朝倉 輝一(東洋大学“LINK@TOYO”)。
(ア)「批判」とは何か?
カントが『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書により提唱した「批判」とは、物事を根源的に吟味することだ。
(イ)「三批判書」:「私は何を知りうるか」「私は何を為しうるか」「私は何を望みうるか」!
カントのいう「批判」とは、「理性」・「感性」などの人間の諸能力を、個々の経験を離れ吟味することだ。「理性」の関心とは、結局「人間とは何か」であり、その問いは「私は何を知りうるか」「私は何を為しうるか」「私は何を望みうるか」(Cf. 美学)の三つに分けられる。それぞれの問いが『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』に対応している。
(ウ)形而上学的な疑問!
それまで哲学者は「神は存在するのか」、「世界に限りはあるのか」(Cf. 魂の不死)、「人間は自由なのか」といった形而上学的な疑問について論じた。しかし、カントは「そもそもこうした形而上学的な知識が可能か」という根本的な問いから出発する。
(エ)「超越論的哲学」:「『経験』が成り立つためには必ず満たさなければならない制約」を探求する!
カントは探求の結果、「世界のどんな事柄であれ「『経験』から独立してあるがままに認識することはできない」という結論に達する。カントは、「『経験』が成り立つためには必ず満たさなければならない制約」を探求することを「超越論的」と名づける。カントは、自らの哲学を「超越論的哲学」と呼ぶ。
(オ)《認識された世界》は《世界そのもの》ではない!
人間はどのように「世界」を認識しているのか。《存在している世界そのもの》と《私たちが感覚器官などを通じて認識する世界》との関係はどうなっているのか。カントによれば後者つまり《認識された世界》は、前者つまり《世界そのもの》ではない。カントは「人間の認識は、感性という形式、悟性(知性)という形式、理性の形式によって制限されている」と唱えた。
(カ)認識の三形式:「感性」、「悟性(知性)」、「理性」!
カントによれば、人間の認識とは①「五感から入ってきた情報を時間と空間という形式によってまとめあげる能力」としての「感性」、②概念に従って整理する能力としての「悟性(知性)」に基づき、③考える能力としての「理性」によって統一像にもたらされたものだ。つまり私たちは「物をそれ自体として認識する」のでなく、「物が私たちに現れる仕方でしか認識できない」ということだ。これは認識論における「コペルニクス的転回」と呼ばれる。

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中島義道『晩年のカント』「第3章」:カントの批判哲学は「論理学から実在性(物自体)を排斥する」!フィヒテは「論理学にはじめから実在性を含める」=「実在性から論理学をみちびきだす」!

2021-01-28 11:03:19 | Weblog
※《参考》中島義道(1946-)『晩年のカント』(講談社現代新書)2021年

第3章「フィヒテとの確執」(69-109頁)
(3)カントは、フィヒテの「スコラ哲学的」方法(概念だけで真理に達しようとする方法)を批判した!
C 1791年カント(1724-1804)67歳の時、ケーニヒスベルグに29歳のフィヒテ(1762-1814)が『あらゆる啓示の批判の試み』の原稿をもってやってきた。カントは「きわめて程度の高いもの」との感触を得て、出版社を紹介した。この本は1792年に匿名で(フィヒテの名でなく)公刊された。
C-2 するとこの『あらゆる啓示の批判の試み』(1792年)は、「カントが匿名で公刊した」との噂がたった。そこで、カントが、「フィヒテ君」の著作だと声明を出した。このカントの声明で「無名の新人フィヒテ」はドイツ哲学界の有名人となり、フィヒテ(32歳)は1794年、イエナ大学の助教授となった。
C-3 だがカントは、フィヒテの「スコラ哲学的」方法を批判した。「『スコラ哲学』とは思弁(概念)だけで認識(真理)に達しようとする方法一般を意味する」。
C-3-2 「まさにカントは生涯かけてこうした方法を批判した。」(90頁)
C-3-4 ところが「フィヒテは、自分が探求しているカントこそ『ほんとうのカント』だと確信していた。」(90頁)

(3)-2 カント:純粋自我(超越論的統覚)はあらゆる形式の源泉であり、論理学を基礎づけるが、実在性(物自体)を基礎づけることはできない!
C-4 フィヒテは自らの哲学体系を「知識学」と呼ぶ。Cf. フィヒテ『全知識学の基礎』(1795年)。(91頁) 
C-4-2 カントはフィヒテの「知識学」(スコラ哲学)に憤懣やるかたなく、1799年、カント(75歳)は「フィヒテ(37歳)に対する最終声明」を発表した。「私はフィヒテの知識学を全く根拠のない体系と考える。」なぜなら「純粋知識学は単なる論理学以上でも以下でもないから」であり、また「論理学から実在的な客観を取り出すということはむだな仕事・・・・だからである。」(カント)(94頁)
C-4-3 「カントにとって純粋自我(超越論的統覚)はあらゆる形式の源泉であるから、論理学を基礎づけることはできるが、実在性を基礎づけることはできない。実在性はあくまでもわれわれに与えられているのであり、よって実在性を与える物自体は残る。」(95頁)
C-4-4  なおフィヒテについて、カントには「誤解」があると中島氏は言う。フィヒテは「論理学から実在性をみちびきだそうとした」のではない。(95頁)
C-4-5 フィヒテは「実在性から論理学をみちびきだそうとしたのであり、その実在性の根源こそ自我だとした」と、中島氏は言う。(95頁)

(3)-3 「論理学から実在性(物自体)を排斥する」カントの批判哲学のとらえ方と、「論理学にはじめから実在性を含める」フィヒテのとらえ方!
C-5 カントとフィヒテの相違は「概念と実在との関係」の基本的なとらえ方の相違だ。カントの批判哲学は「論理学から実在性を排斥する」。だが「論理学にはじめから実在性を含める」=「実在性から論理学をみちびきだす」フィヒテのとらえ方は「発想の大転換」であり、すぐ後の「ヘーゲルやシェリングなどの(いわゆる)ドイツ観念論」の根幹をなす。(98頁)

(4)三批判書は、カント本人にとっては、本来の主著である『形而上学』のための「方法」を提示した「予備学」にすぎなかった!
D  フィヒテ事件(1791-1799年)が勃発した時のカントの状況について見れば、1781年『純粋理性批判』、1787年『実践理性批判』、そして1790年に「三批判書」の最後をなす『判断力批判』を書き終えた時、カント(1724-1804)は66歳だった。カントは、これからすぐに『形而上学』に着手しなければならない。「三批判書」は、『形而上学』のための方法論にすぎない。(106頁)
D-2 カントは1797年『人倫の形而上学』を刊行するが、これは法と徳に関する断片の集合にすぎなかった。また「自然の形而上学」につては、1786年『自然科学の形而上学的原理』で、中断されたままに終わった。(108頁)
D-3 「三批判書」は、カント本人にとっては、本来の主著である『形而上学』のための「方法」を提示した「予備学」にすぎなかった。だがカントが老体に鞭打ってまとめ上げた「形而上学」は「すでに『時間切れ』であり、誰も見向きもしない低レベルの作品に終わってしまった」。(109頁)

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中島義道『晩年のカント』「第1章」カントが自宅を買ったのは63歳(1787年)の頃だった!「第2章」カントのキリスト教批判はまるでニーチェが書いたかのようだ!

2021-01-27 10:10:32 | Weblog
※《参考》中島義道(1946-)『晩年のカント』(講談社現代新書)2021年

第1章「老哲学者の日常生活」(20-35頁)
(1)カントが自宅を買ったのは63歳(1787年)の頃だった!
A カント(1724-1804)は貧しい職人の子に生まれ、学生時代も15年間の私講師時代も貧しい生活だった。46歳でやっとケーニヒスベルク大学正教授になる。自宅を買ったのは63歳(1787年の頃)だった。しかし質素な生活だった。
A-2 彼は76歳まで、自宅および大学で講義を行った。
A-3 そして昼から午後は、昼食と食卓の会話の会(4時間から5時間も続いた)を毎日開いた。ここでは「哲学的テーマ」は避けられ、カントは客に哲学の教授は招待しなかった。彼が招待したのは、公務員、商人、旅行者、(哲学以外の)著述家だった。カントは「哲学以外の」知識を収集した。
A-3-2 カントは女性を招待しなかった。カントは女性の「学識」は「お飾り」にすぎず、かつそれは「止まっている時計」のようなものだと思っていた。(中島28-29頁)
A-4 カントの有名な定刻の散歩の習慣は、63歳頃、我が家を獲得してからだった。
《感想1》63歳を過ぎて、食卓(昼食)の会話の会(4時間から5時間も続いた)を毎日開いたとは、カントの「好奇心」に敬服する。
《感想1-2》カントは女性を「感情的」と見ていて、「理性的」と見ていない。今なら《女性差別》と非難される。

第2章「『宗教論』による筆禍事件」(37-68頁)
(2)カントのキリスト教批判はまるでニーチェが書いたかのようだ!
B カントは「道徳神学(理性宗教)」を主張し、「プロイセン国家宗教としての非理性的なものに満ちたキリスト教」を批判した。(58頁)かくて『宗教論』(1793年、69歳)がプロイセンの官憲によって「有害」とみなされ「将来」、宗教に関する発言をしないことを、国王から命令された。(41-42頁)
B-2 カントは、この命令(勅命)に従う。カントは「宗教に関しては・・・・一切の公共的な講述を断念する」と表明した。これは「保身のため」であり(68頁)、「根本悪」(後述)を免れていない。
B-3 『宗教論』で「カントは、すべての人が窮地に陥れば『幸福の原理(※感性的存在者としての人間が、自分が不幸になったり損害を被る場合、真実に従わないこと、つまり原罪!)が、真実性の原理(※理性にかなった自然法則や道徳法則に従うこと、つまり真実を語れという理性の命令に従うこと!)を条件づける(※凌駕する)』ような『根本悪』に陥る」と主張している。(47頁)
B-4 「《理性的かつ感性的存在者》という矛盾的存在者」である人間が避けがたく背負う悪が「根本悪」だ。(43頁)
B-5 勅命を受け入れたカント自身の言動は、「真実より幸福を優先する」という「根本悪」を免れていない。(59-60頁)
B-6  カントは「キリスト教の真理性」に立ち入らず(※奇蹟などは否定するが、真理性を明瞭に否定しない)、しかしキリスト教の道徳的「有用性」を強調する。
《感想2》なおカントには、自分が哲学者として《大物》だという自信がある。(56頁)
《感想2-2》『宗教論』でカントははっきりと次のように主張する。(ア)イエスは「自然に生み出された人間以外の者(※神)であると想定する原因をもたない」(51頁)。(イ)キリスト教の歴史は「非道徳」的で、奇蹟は「民衆を盲目的迷信の下に抑圧」するもので、おのれのみを正しいとする「聖書解釈者」たちは狂信の極みだった。カントのキリスト教批判は、まるでニーチェが書いたかのようだ。(53頁)
《感想2-3》『宗教論』の筆禍事件におけるカントの対応は、ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)を思い出させる。

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中島義道『晩年のカント』「はじめに」:カントの「解答することができない問い」①「神の現存在」、②「魂の不死」、③「自由」!

2021-01-26 22:42:42 | Weblog
※中島義道(1946-)『晩年のカント』(講談社現代新書)2021年

(1)「傲慢さ」なしに生きることは出来ない!「自己の生の肯定」(生き続けようとすること)は根本的に「傲慢」だ!
哲学に携わり老境に至った者の二つの「傲慢さ」。(a) 「自分は少なくとも他の哲学者より真理に近づいている、物が見えている」という「傲慢さ」。(b)「『どうせわかるわけはない』という投げやりな態度」。これも「傲慢」である。(中島)
《感想1》「傲慢さ」なしに生きることは出来ない。「意味のない」(これは否定的な意味でなく、本人の意図・目的に従って生まれて来たのでないということだ)生誕の後の「生」を生き抜くためには、自分の「生」を肯定しなければならない。「自己の生の肯定」(生き続けようとすること、Ex.フロイトの「生の欲動」)は、根本的に「傲慢」だ。
《感想1-2》(a)《他の仕事上の競争者より「優れている」》or《商売人・職人・組織人・学者等々など同業者と比較し「人並み」だと合格点を自己に対して出す》「傲慢」は、生き続けるために(「自己の生の肯定」のために)不可欠だ。
《感想1-3》(b)哲学を「生業」とする者が、「哲学的問い」に対して「『どうせわかるわけはない』という投げやりな態度」をとったとしても、「生業」で生きていければ、それも一つの業態だ。この場合、さらに「積極的」な哲学の業態としては、どうして「わかるわけはない」のかを説明すればよい。これで十分に文章・学説は「商品価値」を持つ。

(2)カントの「解答することができない問い」:①「神の現存在」、②「魂の不死」、③「自由」!
カントにとって「課せられているが、解答することができない問い」とは、①「神の現存在」であり、②「魂の不死」であり、③「自由」であった。「私(中島)の場合、この3つが『私が現にある』とはいかなることか、という唯一の問いのかたちをとって、私に迫ってくる。」(中島)
《感想2》①「神」は、「存在」(=「有」=「宇宙」=「モナド」)の根拠であって現れ出ているわけでないから、確かに、「神の現存在」について答えようがない。
《感想2-2》「存在」(=「有」=「宇宙」=「モナド」=「超越論的意識(主観性)」=「超越論的モナドの共同体」)は現れ出ている「事実」or「出来事」だから、「事実」or「出来事」に関する問いは答えられる。

(3)カントの①「神の現存在」の問い:「私の存在」に、《偶然》を超えた確固とした理由があるのか?
「私が現存していること」に、《偶然》を超えた何らかの確固とした理由があるのであろうか?これが、カントの①「神の現存在」の問いにほかならない。(中島)
《感想3》評者(「私」)は「科学」の時代(今の日本)に生まれたので、①「神」を信じないから、「私」の存在は「神」の「被造物」という必然性は持たず、「偶然」にすぎない。
《感想3-2》評者の考えでは「私」とは《目覚めている=自己意識している》宇宙であり、ただし宇宙の「身体」領域に縛られた《目覚めている=自己意識している》宇宙だ。
《感想3-3》「身体」領域に縛られていることの一つが、「身体」に寿命があることで、身体の死滅とともに、《目覚めている=自己意識している》宇宙が再び眠る。(永眠!!)
《感想3-4》これらの意見(《感想3, 3-2, 3-3》)は、世の中(今の日本)のいわゆる「常識」とほぼ同じ見解だ。

(4)カントの②「魂の不死」の問い:私は死んでしまったら「完全な無」なのであろうか?
私は死んでしまったら「完全な無」なのであろうか?これが、カントの②「魂の不死」の問いである?(中島)
《感想4》評者(「私」)は、死は「完全な無」だと推定する。他なる膨大な「死」の例からみて、「私」だけ違うと言える理由がない。「私」は「科学の子」だ!(Cf. 「科学の子」は鉄腕アトムだけでない。)そして今の「常識」は「科学の子」の常識だ。
《感想4-2》ただ、もしかして「死後が《無》でなかったらどうしよう」という恐怖はある。もしかしたら自分は「地獄」に堕ちる。なんという不吉な「文化」のもとに生まれたことだろう!「地獄」に堕ちないためには、Ex. 「仏教的涅槃を目指す」or「功徳を積み阿弥陀如来の来迎を待つ」etc.しか救われる道がない。Cf. 他の文化で「死後が《無》でない」場合の救済は、Ex. キリスト教的救済、イスラム教的救済等々がある。

(5)カントの③「自由」(善悪あるいは生きる目的)の問い:生きることに何の意味があるのか?
生きることに何の意味があるのであろうか?これが、カントの③「自由」((ア)善悪あるいは(イ)生きる目的)の問いである。(中島)
《感想5》「自由」(自由意志)とは「決定論」に支配されないことだ。評者(「私」)は「決定論」は単なる「反省」の立場であってor「過去」のみ扱う態度にすぎないと思う。
《感想5-2》「自由」(自由意志)は(「決定論」と異なり)「未来」にかかわる。「自由」は何をめざすか?中島は(ア)「善悪」、(イ)「生きる目的」を挙げる。
《感想5-3》「自由」がめざす(ア)「善悪」とは、すなわち(ア)-1「善」つまり「利他主義(altruism)」・「共感」であるか、あるいは(ア)-2「悪」つまり他者の破壊・収奪・奴隷化だ。(これは「悪魔主義」だ。)
《感想5-4》「自由」がめざす(イ)「生きる目的」はより広範な概念だが、「意志」的だ。例えば、「意志的」に「善」をめざす、「悪」をめざす。あるいは「意志的」に快追求・不快回避の行動・傾向に従う(Ex. 刹那主義)。
《感想5-5》「自由」が(ア)「善悪」や(イ)「生きる目的」と無縁な場合もある。(中島は(ア)(イ)以外のケースに言及していない。)つまり(ウ)「非意志的」な「自由」もある。これはそもそも「目的」として定立されたのでない(ウ)-1「快追求・不快回避」の行動・傾向だ。時には正反対に、(ウ)-2「不快追求・快回避」のこともある。(Cf. フロイトの「快感原則の彼岸」すなわち「死への欲動」!)

(6)「食える」「しのげる」「糊口の道が得られている」なら人生は《成功》だ!
「私(中島)は、これらの問いに確定的に答えることはできないことを予感しつつも、これらに関わり、これらに引きずり回されている。なぜなのか?この人生において、どうしても他に価値のあることを見出せないからである。」(中島)
《感想6》評者(「私」)が思うには、「人生」を全うするためには、まず生活しなければならない。「この人生において、どうしても他に価値のあることを見出せない」ということで中島氏は大学教員・著述家を続けているが、それで「食える」「しのげる」「糊口の道が得られている」のだから、それは《大成功の人生》ということだ。
《感想6-2》評者(「私」)も今、何とか「食える」「しのげる」「糊口の道が得られている」から私の人生も、ぎりぎり《成功》だ。

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浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』 (20) 百田氏の誤り:「下関条約」により、日本のおかげで李氏朝鮮が「大韓帝国」(1897)となったのではない!親ロシア政権が国号を改めた!

2021-01-26 11:27:38 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「世界に打って出る日本」の章(67-148頁)  

(20)百田氏の誤り:日本のおかげで「大韓帝国」となったのではない!親ロシア政権が国号を「大韓帝国」と改めた!(87-89頁)
T 百田尚樹『日本国紀』は、日清戦争の講和条約である「下関条約(1895年4月)により、李氏朝鮮は初めて清から離れて独立した。李氏朝鮮は二年後に国号を大韓帝国と改め、君主はそれまでの『王』から『皇帝』を名乗った」(百田307-308頁)と述べる。百田氏は《「下関条約」により、日本のおかげで李氏朝鮮は「大韓帝国」となった》と主張する。だがこれは誤りだ。親ロシア政権が国号を「大韓帝国」と改めた。
T-2 日本は、朝鮮の独立を清国に認めさせ、「利益線」である朝鮮から清国の勢力を排除した。しかしロシア・ドイツ・フランスによる「三国干渉」で日本は「遼東半島」を返還させられる。
T-3 朝鮮半島は、清・日本・ロシアが影響化に置こうと争っていた。
(ア)もともと日清戦争中、朝鮮の国王がロシアに匿われていたこともあり。閔氏(ビンシ)政権は、1895年7月、親ロシアの方針を取るようになる。
(イ)日本公使三浦梧楼(ゴロウ)はこれに危機感をおぼえ、日本の軍人らとともにクーデターを決行。閔妃(ビンヒ)を殺害して、大院君を擁立する。(閔妃殺害事件)
(ウ)ところが今度は1896年2月、ロシアが後ろ盾となってクーデターが起こり、国王高宗はロシア公使館に移り(露館播遷 ロカンハセン)、親ロシア政権が誕生する。そして1897年、国号を「大韓帝国」と改め、国王は「王」から「皇帝」となって清や日本との対等を表現した。
(ウ)-2 このことを記念して「独立門」が建てられた。(ロシア人建築家サバチンの設計施工)。独立門は「日本と清からの独立」を記念して建てられた。

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浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』 (19) 百田氏の誤り:①日清戦争の目的は朝鮮の独立「だけ」でない!②朝鮮の「独立」は朝鮮を日本の影響下に置くことを可能にした!

2021-01-24 14:03:46 | Weblog
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「世界に打って出る日本」の章(67-148頁)  
(19)百田氏の誤り①:日清戦争の目的は朝鮮の独立「だけ」でない!(83-87頁)
S 百田尚樹『日本国紀』は、「『下関条約』[1895年]の第1条は『清は、朝鮮半島の独立を認めること』だった。つまり日本が清と戦った一番大きな理由は、朝鮮を独立させるためだった」(百田307頁)と述べる。
S-2  百田氏の誤り①:日本は朝鮮半島の独立させるため「だけ」でなく「遼東半島」や「台湾」の領有を望んでいた。日本は「朝鮮半島から清軍を撃退した段階で戦争をやめず」(浮世84頁)、遼東半島を占領し、また台湾海峡の要衝、澎湖列島も占領した。かくて「下関条約」は「台湾」と「遼東半島」の日本への割譲を定めた。

(19)-2 百田氏の誤り②:朝鮮の「独立」とは清の影響力を排除し、朝鮮を日本の影響下に置くことだった!
S-3  百田氏の誤り②:講和会議で清は「朝鮮の独立は清だけでなく日本も認めること」と主張。しかし日本は「朝鮮の独立については、両国が認める形式にはしない」と主張。かくて「下関条約」は「清は、朝鮮半島の独立を認めること」と規定したが、「日本」が「朝鮮半島の独立を認めること」を規定しなかった。朝鮮の「独立」は、朝鮮から清の勢力を排除し、朝鮮を日本の影響下に置くことを可能にした。(浮世85-87頁)
《感想》日清戦争は「朝鮮を独立させる」ため(百田307頁)だったのでなく、結局、日本に《従属》させるためだった。

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