宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その2):「ルネサンス時代から近代の自然研究」!「中世のアセティスィズム」があって初めて「近世的な理性」が生まれた!

2024-06-17 14:52:14 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その2)(163頁)
(33)「自然観察」の段階は「ルネサンス時代から近代の自然研究」を取り扱ったものだ!「中世のアセティスィズム(禁欲主義)」があって初めて「近世的な理性」が生まれた!
★『精神現象学』には「歴史哲学」がはいっているが、この点からすると、「自然観察」の段階は「ルネサンス時代から近代の自然研究」を取り扱ったものだ。(163頁)

★このことはB「自己意識」の最後の段階のB「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」(※金子武蔵(二)「自己意識」3「自由」)との関係からして明らかだ。(163頁)
☆「不幸なる意識」は「中世クリスト教」を材料としたものであって、そこでは人間は「超越と内在」、「普遍と個別」、「主体と客体」などの矛盾に苦悶する。(163頁)
☆しかし「不幸なる意識」(「中世クリスト教」の宗教意識)は徹底した「アセティスィズム」を敢行することによって、これらの矛盾を克服し、「あらゆる実在性である」という確信を抱く。(163頁)
☆かくて「自己意識」は、「不幸なる意識」(「中世クリスト教」の宗教意識)としてこれまでのように「超越的なもの」に拘束せられず、また「内面的な世界」にもとじこもらないで、「現実の世界」のうちに足を踏み入れ、そうしてまず最初には「自然の観察」を行うというわけだ。(163頁)

★歴史哲学的には、『精神現象学』のうちにはいつも「実体性の段階」と「反省の段階」と「実体性恢復の段階」とがある。「観察の段階」も背後に「実体性の段階」として「中世クリスト教」を負うている。しかしまさにここにヘーゲルの特色もまた弱点もある。(後述)(163頁)

《参考1》(「観察的理性」における)「観察」とは、全般的に言えば「記述」に出発して「標識」を見いだすことを通じて「法則」を定立することだ。(161頁)
☆発見せらるべき「法則」には「自然」の法則、「精神」の法則、「自然と精神の関係」の法則の3つがある。(161頁)

《参考2》ヘーゲル『精神現象学』の目次!(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」(A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」)
《参考2-2》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」

《参考3》 (C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」の段階の課題は、「範疇」(※理性)をまず①「対象」に即して展開すること、次に②「自己意識」に即して展開すること、最後に③「『対象』と『自己意識』の統一」に即して展開することだ。これらの3つが(金子武蔵の目次においては)(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」である。(160頁)
《参考3-2》ヘーゲル『精神現象学』の目次では、(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」(A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」)である。

《参考4》「個別」(「個人」・「信者」)が完全に「普遍」(「神」or「教会」)を実現し、「主体」が「客観」に転換するとき、「自己意識」は「対象意識」に結びつく!この結びつきにおいて「理性」がでてくるが、これがヘーゲルの「絶対知」の根本的境地だ!(142頁)
☆「禁欲主義(アセティスィズム)」によって、「個人」がかえって「絶対的自由」を獲得することにおいて、かくて「個別」(※「個人」・「信者」)が完全に「普遍」(※「神」or「教会」)を実現し、「主体」(※「個人」・「信者」)が「客観」(※「神」or「教会」)に転換するとき、「自己意識」(※「個人」・「信者」)は「対象意識」(※「神」or「教会」)に結びつく。(142頁)
☆この結びつきにおいて「理性」がでてくるが、これがヘーゲルの「絶対知」の根本的境地だ。(142頁)
☆この意味で「免罪」というのは「教会や神」がゆるすのではなく、「絶対」の機能をもつようになった「自己意識」が自己自身でゆるすことになる。(142頁)
☆それで「中世のアセティスィズム(禁欲主義)」があって初めて「近世的な理性」が生まれることができると、ヘーゲルは考えている。(142頁)
《参考4-2》このようにして今や、(A)「(対象)意識」から、(B)「自己意識」をへて、両者の統一としての(C)「理性」の段階にまでたどりついた!(142頁)

《参考5》「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(62-66頁)
★(イ)《精神》における「実体性の段階」、すなわち「中世キリスト教」の信仰の時代!
★(ロ)《精神》における「反省の段階」あるいは「媒介の段階」、すなわち「ルネッサンス」から「啓蒙」の時代!
★ヘーゲルは現代を、(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」と考える。これには2通りあるとヘーゲルは言う。すなわち(A)「直接知」の立場と(B)「絶対知」の立場だ。(65頁)
☆(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(A)「直接知」の立場:これは(ロ)「反省・媒介の段階」すなわち「ルネッサンス」・「啓蒙」の時代の「有限性」の立場を嫌悪するのあまり、「悟性」を抹殺して直接に「絶対性」の立場へ逆転しようとする立場!「永遠なもの・絶対的なもの・無限なもの」を「悟性」を媒介することなく、直接的に「感情・情緒」といったもので捉えることができると考える。かくて「悟性」とか「反省」を全く軽蔑する!「ロマンティスィズム」の立場!(65頁)
☆(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場:「悟性の反省」の媒介の意義を十分に認めたうえで「実体性」=「直観され表象された全体」を恢復する!「定立」と「反定立」とを区別した上で「統一づける」という「思弁的理性の立場」!(65頁)

《参考6》ヘーゲルにおいて「精神」の立場・「理念」の立場は、物事を「全体」的に見てゆこうとする立場だ。「真理は全体である」。(35頁)

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