Ⅶ 自生的秩序の進化:ハイエク
Ⅶ-1 「自生的秩序」としての一定のルール(「見えざる手」)が価格機構を可能にする
1714年、マンデヴィル『蜂の寓話』は利己心がビジネスを生み出し人々を豊かにすると述べる。
しかしここには泥棒、贋金は許さないとの一定のルールが「自生的秩序」としてある(ハイエク)。マンデヴィルが「人間の知恵は時間の子である」と述べる。
ハイエクは秩序をギリシア的に二つに区分。「人為的秩序(タクシス)」(Ex. 官庁、企業)と「自然発生的な秩序(コスモス)」(Ex. 言語)である。
ハイエクはヒューム「道徳のルールは理性による結論ではない」に従う。
計画主義の誤りはハイエクによれば人間世界の自生的秩序を人工的な組織の秩序と同一視することにある。
社会全体に与えられた目的はなく(※ カントの形式的な目的の王国!)、人々は利己心にもとづき行動するので集権的コントロールはできない。各自の行動の合成が意図しなかった秩序or混乱を生み出す。
マンデヴィルがスミスの「見えざる手」(『国富論』、『道徳情操論』に各1回出てくる)に影響を与える。
『道徳情操論』は他人に対する「共感」が秩序の基礎と述べる。「共感」とは相手or第三者(※内なる観察者)を意識することである。「社会的自我」が見えざる手である。
スミスにとって「見えざる手」は神である。神が法則に支配される世界(Ex. ニュートン力学の世界)を作った。世界は自動的にルールにのっとって動く、スミスは理神論を信じる。
ただしスミスは独占、談合の規制を要求。この限りではスミスは自由放任でない。
Ⅶ-2 ルールなしに市場メカニズムは機能しない
人々のばらばらな経済行動がなぜ福祉を最大化するのか?
ワルラス以来の新古典派経済学はニュートン力学(古典力学)をモデルにする。価格の変動を超過需要(需要と供給の差)の関数とすると、価格変動は(ニュートンの運動方程式と同じ)微分方程式で記述でき、一般均衡は連立方程式の解を求める問題となる。
ハイエクは時間の概念が入っていないと新古典派経済学を批判。
ハイエクは適者生存の生物学モデルで経済の非効率排除のメカニズムを説明する。
しかし経済はただの適者生存でなくルールが存在する。Ex. 盗み禁止。Ex. 契約の一方的破棄禁止。Ex. 国家権力の恣意的財産強奪禁止。
共産圏崩壊後の一挙の市場メカニズム導入を目指したビッグバン・アプローチは、全くの自由放任で失敗。旧ソ連のGDPは半減した。ルールなしに市場メカニズムは機能しない。
実際、晩年のハイエクは法的な制度設計、議会制度の改革を唱える。
経済システムの進化にはルールが必要。
恣意的な官庁の規制、政府の裁量的介入を排し、市場経済のルールを明確化することが重要。
Ⅶ-3 目的を「社会的効用」として集計はできない
効用は個人間で比較できないので集計は不可能。新古典派でも効用は序数的な概念(選好の順序)としてしか定義できない。しかし人々の選好順序も首尾一貫した「社会的福祉関数」として集計すること不可能。(アロウの不可能性定理。Ex. グー、チョキ、パー)個人の合理的選択を集計して一義的な結果を常に出すメカニズムは存在しない。
「最大多数の最大幸福」(効用の社会的最大化)をめざす功利主義は不可能。パレート最適のような福祉最大化も不可能。
望ましいのは自由度を最大化するルール。ルールの功利主義。
目的さえ決まっていれば社会主義が優れている。
豊かになり製品が複雑化し変化も激しくなった60年代から社会主義が停滞する。
資本主義は与えられた目的を最大化することでなく、常に目的を探し変更する自生的秩序として高い成長率を達成。
Ⅶ-4 個人が欲望のままに行動しても予定調和が生じる:部族社会の利他的遺伝子
メンバーの利害が一致しない社会では無条件に相手を裏切り続ける「邪悪な」戦略が最強である。
集団淘汰論は利他的な個体が多いと集団が生き残ると主張。しかし集団内では善良な固体は邪悪な個体に裏切られ淘汰されるので集団淘汰論は不可能。
血縁淘汰の理論は繁殖力が最大(=自分の遺伝子の拡大力最大)の個体が生き残る。
ところが細菌が宿主に感染する場合、細菌の繁殖力があまりに強いと宿主を殺し細菌全体=集団が滅亡。
個体レベルの淘汰と、集団レベルの淘汰の相互作用からなる多レベル淘汰が考えられなければならない。
利己的に行動する経済人は互いの足を引っ張り合い集団を自滅させる。集団同士が戦争状態に常にあるような「部族社会」では集団内に利己的な裏切り者が出ては集団が滅びる。
人間は何万年も部族社会に生きてきたので利他的な遺伝子がある。これが個人の、欲望のままの行動に枠をはめる。つまりルール、あるいは予定調和の誕生である。
Ⅷ 自由な社会のルール
ハイエク『法と立法と自由』(1976, 1979)は自由な社会のために必要なルールが何かについて述べる。
「約束を守る」、「他人のものは盗まない」が市場経済の秩序を保つルール。
このルールの欠如が1989年以後の東欧社会主義の市場経済化の失敗の理由である。
Ⅷ-1 法実証主義批判
市場経済の秩序を保つルールの問題は法実証主義 legal positivism、言い換えれば実定法(positive law)主義では解けない。
法実証主義のケルゼンはすべての価値から中立な純粋法学を目指す。法の正統性の根拠は国家の目的に依拠せず、制定手続きの論理整合性にのみ求められる。法の正統性の根拠は伝統や自然権にはない。
実定法主義のケルゼンはナチ政府の下でも法は法だと述べる。
法は数学の定理のように具体的な内容(Ex. 人権抑圧、Ex. 非効率な経済運営)と無関係な形式である。実際、ケルゼンの実定法主義は社会主義国の公認の哲学。
Ⅷ-2 分節的知識
ポラニーの「分節化」の概念によれば分節言語で表現されるのは本源的知識のごく一部。Ex. 自分の顔を言語で表現する困難。またEx. 音楽は楽譜ではない。
感覚など本源的知識は「縁辺系」の古い脳がつかさどる。言語など分節的知識は新しい脳、「新皮質」がつかさどる。
Ⅷ-3 テシス(成文法・実定法)はノモス(慣習法)の上に作られる
慣習法を国家権力が実定法として表現する。Ex. ハムラビ法典。
西欧では市民の契約のルール=私法が文書化される。Ex. ローマ法大全。
また西欧では部族的ゲルマン法、あるいは地域・領主に依存した法から中立・普遍的な教会法が成立し「法の支配」にいたる。
ハイエクは慣習法をノモス、実定法(legislation, statute)をテシスと呼ぶ。Lawはあいまい。
大陸法の独・仏は実定法を重視する。
英米法は慣習法、判例の積み重ねの上に成文法があると考える。慣習法は「常識」の語に近い。テシス(成文法)はノモス(慣習法)の上に作られる。
例えば、アメリカ合衆国憲法(1779)はもともとバラバラの州法の矛盾を調整するルールである。またアメリカでは法と法の矛盾を解釈する裁判所の立場が強い。
Ⅷ-4 テシス(成文法・実定法)は政府、企業、追いつき型近代化に有効
実定法(テシス)は企業・政府など一定の目的のもとに組織された秩序では有効。
新古典派経済学も戦時経済や、企業内の資源配分のように、目的が一定の場合、有効である。
大陸法はすべての権限が行政に集中しまた国力を総動員する「追いつき型近代化」(Ex. 日本)で有効。実際、英米法のインドは近代化が遅れた。
日本は教条的な大陸法型で優秀な官僚のエネルギーが法の膨大な「補修」(整合性の確保)に追われる。
Ⅷ-5 自由な社会のルールの中心:財産権
ハイエクによれば慣習法(ノモス)の価値の中心は財産権である。
個人の自由を紛争なしに実現する問題の答として、人類の見出した唯一のものが財産権。財産権の法的保障なしに自由な行動は不可能である。「よい塀はよい隣人をつくる。」塀の中では各人は隣人と衝突なしに自由に行動できる。
財産権・法・自由は三位一体である(ハイエク)。
カール・ポラニーが未開社会に経済交換はなく社会的交換=象徴交換しかないと述べたのは誤り。市場は社会とともにあり、財産権・貨幣は歴史とともに古い。私有財産の肯定はプロテスタンティズムの職業倫理にあったとのウェーバーの説は疑わしい。
遊牧生活から定住生活への移行はわずか1万年前に過ぎず、遊牧生活の部族社会の私的欲望への非難の感情が常に普遍的に人間のうちにある。
利己心を積極的に認めたのは近代西洋である。近代西欧、特にイギリスとオランダが財産権を法的に確立し(=私的欲望を正当化し)、市場経済を成立させて産業革命を進めた。
またキリスト教の攻撃的な自然観が近代科学を築く。(なおハイエクは科学の「知識の共有」と矛盾する知的財産権に対しては否定的。)
Ⅷ-6 「正しい分配」は算出不可能
ハイエクは「正しい分配」は算出不可能だと言う。
そして各人が受けるに値するもの(分配)を当局が押し付けるのは自由文明の破壊である。(※あらゆるものに交換可能な貨幣の分配は自由の破壊ではない?)最低生活の保障はもちろん必要。
人々の効用は同一でなく比較不可能なので「効用の最大化」が算出できない。
Ⅷ-7 利己心を「財産権」として中核に置く資本主義は倫理的弱さの点で崩壊する
「平等な分配」、「格差是正の要求」は遊牧的部族社会の感情(=倫理)である。それは集団的狩猟での公平な分配の感情(=倫理)。グループの崩壊を避けようとする遺伝子が今もある。
利己的行動を「合理的行動」として肯定し、独占欲を「財産権」として中核に置く資本主義は、倫理的弱さの点で崩壊するかもしれない。ハイエク、シュンペーターの見解。
Ⅸ インターネット:ハイエクの「自律分散」の思想の実現
ハイエクが『感覚秩序』でニューラルネットの原理を予言した頃、ウィーナーの『サイバネティックス』が自己組織系の非ノイマン型コンピューターを考える。(フォン・ノイマン型コンピューターは外部からの命令をメカニックに処理する。)
20世紀の科学はニュートン、フォン・ノイマンの機械論的モデルにもとづく。21世紀の科学はハイエク、ウィーナーの進化論的モデルにもとづく。
インターネットはワルラス的な均衡を実現するシステムでなく、ウィーナー、ハイエク的な絶えず自己破壊を繰り返して進化する複雑系。
ブラウザと呼ばれるソフトウェアの開発がインターネットを成功させた。マルチメディア(Ex. アメリカの情報ハイウェイ)は失敗する。インターネットは偶然成立したスーパーハイウェイ。
ハイエクはインターネットの「自律分散」の思想を1945年にすでに提唱。インターネットを知らないままハイエクは1992年に死去。
Ⅸ-1 自由を最大化させるルール
インターネットを作ったデヴィッド・クラークは「我々は王も大統領も投票も拒否する。信じるのはラフな合意と動くコードだ」と述べる。インターネットは不完全な知識のユーザーで動き、問題があれば後から直す「進化的」発想。
ルールは常に未完成で多くの人々に修正されて発展する。インターネットの「いい加減な」ルールは慣習法のようなノモス。
知的財産権は国家のコントロールによって知識の自由な利用を妨げる。本来の財産権と異なる。
自由を最大化させるルールが必要。自由を阻害する法は廃止。
Ⅸ-2 イノベーションと企業家精神(=どこに利潤機会があるかを察知する感度)
研究開発やイノベーションが重要になって、社会主義は停滞した。重化学工業化による経済建設は「ユートピア社会工学」の成功。しかしイノべーションは事前に計画できない。
イノベーションとは不確実な世界で答えを探すことである(ミーゼス)。
イズラエル・カーズナーによれば分散した情報のなかで利潤を追求する企業家精神が競争の本質である。企業家精神とはどこに利潤機会があるかを察知する感度である。
新古典派経済学は消費者がすべての財について情報を知っていると前提する。広告を浪費と考える。しかし「いいものを作れば売れる」わけでない。広告が重要。
Ⅸ-3 市場の情報機能
市場(=価格)の情報機能が重要である。感度が生産性を決める鍵になる。検索エンジンのようなサービスが経済の中核になる。
どこに利潤機会があるかを察知する感度の競争が機能していればよい。独占はそれ自身が問題なのではなく、新規参入を阻止する限りで問題である。
イノベーションに法則はない。アップルはiPodで一発当てた。
IT産業の商品、必需品でないものは、需要が予測できない。
Ⅸ-4 政府の役割①:ボトルネックをなくし参入を自由にしなければならない
日本では検索エンジンは著作権法上違法なのでグーグルやヤフーへのアクセスではアメリカのサーバーにアクセスする。国際通信料金がインターネット・サービス・プロバイダーの負担。
電波もボトルネック。デジタル放送に240メガヘルツ割り当てられているが必要なのは60メガヘルツ。180メガヘルツが空いている周波数(ホワイトスペース)。これは携帯電話会社の周波数合計に相当する。ホワイトスペースを開放すれば新しい産業が生まれる。
Ⅸ-5 政府の役割②:安全重視の銀行型ファイナンスはイノベーションに不利
ベンチャーキャピタル型投資を政府が促進すべき。
Ⅸ-6 政府の役割③:正社員を非正規労働者化する
非正規雇用の正規雇用化を義務付ければかえって労働需要を減退させ失業率を高める。非生産的な部門に滞留する労働力の生産的部門への移転のためにも非正規労働者化が必要。
Ⅹ ハイエク問題
晩年のハイエクは市場が自生的に存続できないことに注目した。実際、資本主義が自生的秩序として生まれたのでないケースがある。フランスでは資本主義は暴力革命で生まれたし、西欧以外では人工的に移植された。一種の計画主義の結果である。
社会主義・全体主義も歴史の積み重ねの中で生まれたのだから自生的な秩序である。自由を守るためこれらを転覆せよというのは計画主義である。
ハイエクらの保守主義には最適解が全体最適とは限らないという問題がある。局所解かもしれないという問題。
労働・資本市場の改革で参入・退出を容易にし試行錯誤によって局所解を脱却する創造的破壊を行い全体最適解を探し続ける必要がある。
かくてハイエクの進化論的経済思想が現代においても意味がある。
おわりに
1 自由な社会のために宗教的ルールの人格化(神)も必要
ハイエクは『隷従の道』(1944)で社会主義より自由社会が以下に優れているか述べる。
『自由の条件』(1960)は暴力革命など「社会工学」を否定。バーク的保守主義が望ましいとし自生的秩序を強調する。
これと対照的に『法と立法と自由』(1973, 76, 79)は自由な社会は自動的にできるのでなく、ルールによって維持される、ルールの設計が重要とする。
最晩年、ハイエクは悲観的となる。人間には「部族社会の感情」が遺伝的・社会的に埋め込まれている。政府のパターナリズムが阻止できない。自由な社会のために宗教的ルールの人格化(神)も必要と述べる。(The Fatal Conceit, 1988)
2 現実の人間は怠惰で習慣的に行動する:「自由」が重要でない
「(選択の)自由」はそんなに重要か?
実験経済学は人々が「効用最大化」の計算をしないことを示す。ほとんどの行動が習慣的行動である。
自分の利益を最大化しようとする「経済人(ホモ・エコノミクス)」モデルをとるハイエクは新古典派経済学と同じ。
だが現実の人間は怠惰。
3 古典的自由主義のルールとアジア的共同体の掟
飢えとの戦いが重要であって自生的秩序は多くは村落共同体の掟として成立した。イギリス的慣習法による自生的秩序=資本主義的市場経済は例外である。アジア的共同体の問題。
中国や朝鮮では儒教の実定法的硬直性が市場や科学技術を拒否した。日本は儒教が弱く市場=古典的自由主義のルールを受け入れた。
ハイエクの古典的自由主義の移植は発展途上国の慣習法の形を考慮しないとうまくいかない。
4 グローバルな資本主義という魔物
英米型の株主資本主義=グローバルな資本主義という魔物は地下に戻せない。その魔物の基本思想がハイエクである。
5 サイバースペースに自生的秩序が生まれる必要がある
ムーアの法則によれば情報の量が増えると価値が下がる。これがインターネットの時代。ここでのボトルネックは情報選択、紛争処理の価格が上昇すること。人手に頼るため。
サイバースペースに自生的秩序が生まれる必要がある。紛争処理を行政が行うのは表現の自由を侵害しうるし非効率。
「鎖国」政策でインターネットから逃れるのは競争からの脱落。
P.S. 2008年9月のリーマンショックをこの本の著者はまだ知らない。
Ⅶ-1 「自生的秩序」としての一定のルール(「見えざる手」)が価格機構を可能にする
1714年、マンデヴィル『蜂の寓話』は利己心がビジネスを生み出し人々を豊かにすると述べる。
しかしここには泥棒、贋金は許さないとの一定のルールが「自生的秩序」としてある(ハイエク)。マンデヴィルが「人間の知恵は時間の子である」と述べる。
ハイエクは秩序をギリシア的に二つに区分。「人為的秩序(タクシス)」(Ex. 官庁、企業)と「自然発生的な秩序(コスモス)」(Ex. 言語)である。
ハイエクはヒューム「道徳のルールは理性による結論ではない」に従う。
計画主義の誤りはハイエクによれば人間世界の自生的秩序を人工的な組織の秩序と同一視することにある。
社会全体に与えられた目的はなく(※ カントの形式的な目的の王国!)、人々は利己心にもとづき行動するので集権的コントロールはできない。各自の行動の合成が意図しなかった秩序or混乱を生み出す。
マンデヴィルがスミスの「見えざる手」(『国富論』、『道徳情操論』に各1回出てくる)に影響を与える。
『道徳情操論』は他人に対する「共感」が秩序の基礎と述べる。「共感」とは相手or第三者(※内なる観察者)を意識することである。「社会的自我」が見えざる手である。
スミスにとって「見えざる手」は神である。神が法則に支配される世界(Ex. ニュートン力学の世界)を作った。世界は自動的にルールにのっとって動く、スミスは理神論を信じる。
ただしスミスは独占、談合の規制を要求。この限りではスミスは自由放任でない。
Ⅶ-2 ルールなしに市場メカニズムは機能しない
人々のばらばらな経済行動がなぜ福祉を最大化するのか?
ワルラス以来の新古典派経済学はニュートン力学(古典力学)をモデルにする。価格の変動を超過需要(需要と供給の差)の関数とすると、価格変動は(ニュートンの運動方程式と同じ)微分方程式で記述でき、一般均衡は連立方程式の解を求める問題となる。
ハイエクは時間の概念が入っていないと新古典派経済学を批判。
ハイエクは適者生存の生物学モデルで経済の非効率排除のメカニズムを説明する。
しかし経済はただの適者生存でなくルールが存在する。Ex. 盗み禁止。Ex. 契約の一方的破棄禁止。Ex. 国家権力の恣意的財産強奪禁止。
共産圏崩壊後の一挙の市場メカニズム導入を目指したビッグバン・アプローチは、全くの自由放任で失敗。旧ソ連のGDPは半減した。ルールなしに市場メカニズムは機能しない。
実際、晩年のハイエクは法的な制度設計、議会制度の改革を唱える。
経済システムの進化にはルールが必要。
恣意的な官庁の規制、政府の裁量的介入を排し、市場経済のルールを明確化することが重要。
Ⅶ-3 目的を「社会的効用」として集計はできない
効用は個人間で比較できないので集計は不可能。新古典派でも効用は序数的な概念(選好の順序)としてしか定義できない。しかし人々の選好順序も首尾一貫した「社会的福祉関数」として集計すること不可能。(アロウの不可能性定理。Ex. グー、チョキ、パー)個人の合理的選択を集計して一義的な結果を常に出すメカニズムは存在しない。
「最大多数の最大幸福」(効用の社会的最大化)をめざす功利主義は不可能。パレート最適のような福祉最大化も不可能。
望ましいのは自由度を最大化するルール。ルールの功利主義。
目的さえ決まっていれば社会主義が優れている。
豊かになり製品が複雑化し変化も激しくなった60年代から社会主義が停滞する。
資本主義は与えられた目的を最大化することでなく、常に目的を探し変更する自生的秩序として高い成長率を達成。
Ⅶ-4 個人が欲望のままに行動しても予定調和が生じる:部族社会の利他的遺伝子
メンバーの利害が一致しない社会では無条件に相手を裏切り続ける「邪悪な」戦略が最強である。
集団淘汰論は利他的な個体が多いと集団が生き残ると主張。しかし集団内では善良な固体は邪悪な個体に裏切られ淘汰されるので集団淘汰論は不可能。
血縁淘汰の理論は繁殖力が最大(=自分の遺伝子の拡大力最大)の個体が生き残る。
ところが細菌が宿主に感染する場合、細菌の繁殖力があまりに強いと宿主を殺し細菌全体=集団が滅亡。
個体レベルの淘汰と、集団レベルの淘汰の相互作用からなる多レベル淘汰が考えられなければならない。
利己的に行動する経済人は互いの足を引っ張り合い集団を自滅させる。集団同士が戦争状態に常にあるような「部族社会」では集団内に利己的な裏切り者が出ては集団が滅びる。
人間は何万年も部族社会に生きてきたので利他的な遺伝子がある。これが個人の、欲望のままの行動に枠をはめる。つまりルール、あるいは予定調和の誕生である。
Ⅷ 自由な社会のルール
ハイエク『法と立法と自由』(1976, 1979)は自由な社会のために必要なルールが何かについて述べる。
「約束を守る」、「他人のものは盗まない」が市場経済の秩序を保つルール。
このルールの欠如が1989年以後の東欧社会主義の市場経済化の失敗の理由である。
Ⅷ-1 法実証主義批判
市場経済の秩序を保つルールの問題は法実証主義 legal positivism、言い換えれば実定法(positive law)主義では解けない。
法実証主義のケルゼンはすべての価値から中立な純粋法学を目指す。法の正統性の根拠は国家の目的に依拠せず、制定手続きの論理整合性にのみ求められる。法の正統性の根拠は伝統や自然権にはない。
実定法主義のケルゼンはナチ政府の下でも法は法だと述べる。
法は数学の定理のように具体的な内容(Ex. 人権抑圧、Ex. 非効率な経済運営)と無関係な形式である。実際、ケルゼンの実定法主義は社会主義国の公認の哲学。
Ⅷ-2 分節的知識
ポラニーの「分節化」の概念によれば分節言語で表現されるのは本源的知識のごく一部。Ex. 自分の顔を言語で表現する困難。またEx. 音楽は楽譜ではない。
感覚など本源的知識は「縁辺系」の古い脳がつかさどる。言語など分節的知識は新しい脳、「新皮質」がつかさどる。
Ⅷ-3 テシス(成文法・実定法)はノモス(慣習法)の上に作られる
慣習法を国家権力が実定法として表現する。Ex. ハムラビ法典。
西欧では市民の契約のルール=私法が文書化される。Ex. ローマ法大全。
また西欧では部族的ゲルマン法、あるいは地域・領主に依存した法から中立・普遍的な教会法が成立し「法の支配」にいたる。
ハイエクは慣習法をノモス、実定法(legislation, statute)をテシスと呼ぶ。Lawはあいまい。
大陸法の独・仏は実定法を重視する。
英米法は慣習法、判例の積み重ねの上に成文法があると考える。慣習法は「常識」の語に近い。テシス(成文法)はノモス(慣習法)の上に作られる。
例えば、アメリカ合衆国憲法(1779)はもともとバラバラの州法の矛盾を調整するルールである。またアメリカでは法と法の矛盾を解釈する裁判所の立場が強い。
Ⅷ-4 テシス(成文法・実定法)は政府、企業、追いつき型近代化に有効
実定法(テシス)は企業・政府など一定の目的のもとに組織された秩序では有効。
新古典派経済学も戦時経済や、企業内の資源配分のように、目的が一定の場合、有効である。
大陸法はすべての権限が行政に集中しまた国力を総動員する「追いつき型近代化」(Ex. 日本)で有効。実際、英米法のインドは近代化が遅れた。
日本は教条的な大陸法型で優秀な官僚のエネルギーが法の膨大な「補修」(整合性の確保)に追われる。
Ⅷ-5 自由な社会のルールの中心:財産権
ハイエクによれば慣習法(ノモス)の価値の中心は財産権である。
個人の自由を紛争なしに実現する問題の答として、人類の見出した唯一のものが財産権。財産権の法的保障なしに自由な行動は不可能である。「よい塀はよい隣人をつくる。」塀の中では各人は隣人と衝突なしに自由に行動できる。
財産権・法・自由は三位一体である(ハイエク)。
カール・ポラニーが未開社会に経済交換はなく社会的交換=象徴交換しかないと述べたのは誤り。市場は社会とともにあり、財産権・貨幣は歴史とともに古い。私有財産の肯定はプロテスタンティズムの職業倫理にあったとのウェーバーの説は疑わしい。
遊牧生活から定住生活への移行はわずか1万年前に過ぎず、遊牧生活の部族社会の私的欲望への非難の感情が常に普遍的に人間のうちにある。
利己心を積極的に認めたのは近代西洋である。近代西欧、特にイギリスとオランダが財産権を法的に確立し(=私的欲望を正当化し)、市場経済を成立させて産業革命を進めた。
またキリスト教の攻撃的な自然観が近代科学を築く。(なおハイエクは科学の「知識の共有」と矛盾する知的財産権に対しては否定的。)
Ⅷ-6 「正しい分配」は算出不可能
ハイエクは「正しい分配」は算出不可能だと言う。
そして各人が受けるに値するもの(分配)を当局が押し付けるのは自由文明の破壊である。(※あらゆるものに交換可能な貨幣の分配は自由の破壊ではない?)最低生活の保障はもちろん必要。
人々の効用は同一でなく比較不可能なので「効用の最大化」が算出できない。
Ⅷ-7 利己心を「財産権」として中核に置く資本主義は倫理的弱さの点で崩壊する
「平等な分配」、「格差是正の要求」は遊牧的部族社会の感情(=倫理)である。それは集団的狩猟での公平な分配の感情(=倫理)。グループの崩壊を避けようとする遺伝子が今もある。
利己的行動を「合理的行動」として肯定し、独占欲を「財産権」として中核に置く資本主義は、倫理的弱さの点で崩壊するかもしれない。ハイエク、シュンペーターの見解。
Ⅸ インターネット:ハイエクの「自律分散」の思想の実現
ハイエクが『感覚秩序』でニューラルネットの原理を予言した頃、ウィーナーの『サイバネティックス』が自己組織系の非ノイマン型コンピューターを考える。(フォン・ノイマン型コンピューターは外部からの命令をメカニックに処理する。)
20世紀の科学はニュートン、フォン・ノイマンの機械論的モデルにもとづく。21世紀の科学はハイエク、ウィーナーの進化論的モデルにもとづく。
インターネットはワルラス的な均衡を実現するシステムでなく、ウィーナー、ハイエク的な絶えず自己破壊を繰り返して進化する複雑系。
ブラウザと呼ばれるソフトウェアの開発がインターネットを成功させた。マルチメディア(Ex. アメリカの情報ハイウェイ)は失敗する。インターネットは偶然成立したスーパーハイウェイ。
ハイエクはインターネットの「自律分散」の思想を1945年にすでに提唱。インターネットを知らないままハイエクは1992年に死去。
Ⅸ-1 自由を最大化させるルール
インターネットを作ったデヴィッド・クラークは「我々は王も大統領も投票も拒否する。信じるのはラフな合意と動くコードだ」と述べる。インターネットは不完全な知識のユーザーで動き、問題があれば後から直す「進化的」発想。
ルールは常に未完成で多くの人々に修正されて発展する。インターネットの「いい加減な」ルールは慣習法のようなノモス。
知的財産権は国家のコントロールによって知識の自由な利用を妨げる。本来の財産権と異なる。
自由を最大化させるルールが必要。自由を阻害する法は廃止。
Ⅸ-2 イノベーションと企業家精神(=どこに利潤機会があるかを察知する感度)
研究開発やイノベーションが重要になって、社会主義は停滞した。重化学工業化による経済建設は「ユートピア社会工学」の成功。しかしイノべーションは事前に計画できない。
イノベーションとは不確実な世界で答えを探すことである(ミーゼス)。
イズラエル・カーズナーによれば分散した情報のなかで利潤を追求する企業家精神が競争の本質である。企業家精神とはどこに利潤機会があるかを察知する感度である。
新古典派経済学は消費者がすべての財について情報を知っていると前提する。広告を浪費と考える。しかし「いいものを作れば売れる」わけでない。広告が重要。
Ⅸ-3 市場の情報機能
市場(=価格)の情報機能が重要である。感度が生産性を決める鍵になる。検索エンジンのようなサービスが経済の中核になる。
どこに利潤機会があるかを察知する感度の競争が機能していればよい。独占はそれ自身が問題なのではなく、新規参入を阻止する限りで問題である。
イノベーションに法則はない。アップルはiPodで一発当てた。
IT産業の商品、必需品でないものは、需要が予測できない。
Ⅸ-4 政府の役割①:ボトルネックをなくし参入を自由にしなければならない
日本では検索エンジンは著作権法上違法なのでグーグルやヤフーへのアクセスではアメリカのサーバーにアクセスする。国際通信料金がインターネット・サービス・プロバイダーの負担。
電波もボトルネック。デジタル放送に240メガヘルツ割り当てられているが必要なのは60メガヘルツ。180メガヘルツが空いている周波数(ホワイトスペース)。これは携帯電話会社の周波数合計に相当する。ホワイトスペースを開放すれば新しい産業が生まれる。
Ⅸ-5 政府の役割②:安全重視の銀行型ファイナンスはイノベーションに不利
ベンチャーキャピタル型投資を政府が促進すべき。
Ⅸ-6 政府の役割③:正社員を非正規労働者化する
非正規雇用の正規雇用化を義務付ければかえって労働需要を減退させ失業率を高める。非生産的な部門に滞留する労働力の生産的部門への移転のためにも非正規労働者化が必要。
Ⅹ ハイエク問題
晩年のハイエクは市場が自生的に存続できないことに注目した。実際、資本主義が自生的秩序として生まれたのでないケースがある。フランスでは資本主義は暴力革命で生まれたし、西欧以外では人工的に移植された。一種の計画主義の結果である。
社会主義・全体主義も歴史の積み重ねの中で生まれたのだから自生的な秩序である。自由を守るためこれらを転覆せよというのは計画主義である。
ハイエクらの保守主義には最適解が全体最適とは限らないという問題がある。局所解かもしれないという問題。
労働・資本市場の改革で参入・退出を容易にし試行錯誤によって局所解を脱却する創造的破壊を行い全体最適解を探し続ける必要がある。
かくてハイエクの進化論的経済思想が現代においても意味がある。
おわりに
1 自由な社会のために宗教的ルールの人格化(神)も必要
ハイエクは『隷従の道』(1944)で社会主義より自由社会が以下に優れているか述べる。
『自由の条件』(1960)は暴力革命など「社会工学」を否定。バーク的保守主義が望ましいとし自生的秩序を強調する。
これと対照的に『法と立法と自由』(1973, 76, 79)は自由な社会は自動的にできるのでなく、ルールによって維持される、ルールの設計が重要とする。
最晩年、ハイエクは悲観的となる。人間には「部族社会の感情」が遺伝的・社会的に埋め込まれている。政府のパターナリズムが阻止できない。自由な社会のために宗教的ルールの人格化(神)も必要と述べる。(The Fatal Conceit, 1988)
2 現実の人間は怠惰で習慣的に行動する:「自由」が重要でない
「(選択の)自由」はそんなに重要か?
実験経済学は人々が「効用最大化」の計算をしないことを示す。ほとんどの行動が習慣的行動である。
自分の利益を最大化しようとする「経済人(ホモ・エコノミクス)」モデルをとるハイエクは新古典派経済学と同じ。
だが現実の人間は怠惰。
3 古典的自由主義のルールとアジア的共同体の掟
飢えとの戦いが重要であって自生的秩序は多くは村落共同体の掟として成立した。イギリス的慣習法による自生的秩序=資本主義的市場経済は例外である。アジア的共同体の問題。
中国や朝鮮では儒教の実定法的硬直性が市場や科学技術を拒否した。日本は儒教が弱く市場=古典的自由主義のルールを受け入れた。
ハイエクの古典的自由主義の移植は発展途上国の慣習法の形を考慮しないとうまくいかない。
4 グローバルな資本主義という魔物
英米型の株主資本主義=グローバルな資本主義という魔物は地下に戻せない。その魔物の基本思想がハイエクである。
5 サイバースペースに自生的秩序が生まれる必要がある
ムーアの法則によれば情報の量が増えると価値が下がる。これがインターネットの時代。ここでのボトルネックは情報選択、紛争処理の価格が上昇すること。人手に頼るため。
サイバースペースに自生的秩序が生まれる必要がある。紛争処理を行政が行うのは表現の自由を侵害しうるし非効率。
「鎖国」政策でインターネットから逃れるのは競争からの脱落。
P.S. 2008年9月のリーマンショックをこの本の著者はまだ知らない。