宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

高峰秀子(1924-2010)『私の梅原龍三郎』潮出版社、1987年  

2016-11-23 08:18:26 | Weblog
§1 1986年(S61)、梅原龍三郎画伯逝去
(1)はじめに(1997年、文春文庫再版):梅原龍三郎画伯(1888-1986)が亡くなって、1年経たないとき、残った写真がたくさんあり、それらに説明をつけるため、この本を書いた。
(2)仏壇コーナー:梅原龍三郎先生のための仏壇コーナーが、高峰秀子の家にある。先生のパレットと手首のブロンズ像を、置く。

§2  S23「チャーチル会」&S25「カニ」(「高峰秀子像」)
(3)初対面:S23、絵を描く素人の会「チャーチル会」発足。そこで高峰が、初めて梅原龍三郎と出会う。
(4)カニ:後に、近代美術館に寄贈した「高峰秀子像」。S25夏、初めて梅原先生のモデルになる。雨の日で、先生(62歳)は浅間山を描けず、私(26歳)はロケが出来ずゴロゴロしていた。できた絵が「カニ」に似ていた。この絵は、以後、ずっと「カニ」と呼ばれた。
 梅原先生が、「カニ」を高峰氏に贈呈した時、添えられた手紙に、高峰氏は感激する。「簡潔だが、人の心を思いやる優しさの溢れたお手紙で、私は感激した。」彼女は、以後、梅原先生のためなら「エンヤコラ」と、付き合うことを決める。
(4)-2 眼玉:S25、「秀子さんは、眼が大きいのでなく、眼の光が強い」と先生が言った。
(4)-3 色鉛筆画:先生が亡くなる2年前に、私に進呈してくれた。
(4)-4 雨の日の画:先生は、私の眼に重きを置いていた。
(4)-5 習作:偶然、画廊で見つけた私の画(梅原作)を、自分で買った。
(4)-6 小さな椅子:先生からは、「秀子」様でなく、いつも「季子」様と手紙が来た。先生は「間似合(マニアイ)」紙が好きだった。(エジプトから伝わった紙。)

§3 パリ、チュイレリー公園他
(5)チュイレリー公園の木:S50(87歳)、梅原先生が、パリの「ホテル・ムリス」から、チュイレリー公園を見て言った。「50年前は、木がまだ育ってなくて、公園がよく見えた。」
(6)「果物図」:敗戦直後、梅原先生の「果物図」を“やんごとなき筋”から買った。まだ先生のことを、知らないときだった。
(7)アトリエ:これまで6、7回、梅原先生のモデルになった。いつも、「気迫と緊張に満ちた時間だった。」
(8)文鳥:「ボクは、強いものには強いが、弱いものにはすこぶる弱くてね」と先生。艶子夫人が亡くなった直後、先生の部屋に、文鳥が迷い込んできた。
(9)サイン:「絵にサインなんか要らない。」「売ろうと思って描くものではない」と先生は言った。アトリエは、吉田五十八氏設計。
(10)二十五分の画:S28、「フィルム撮影で照明の位置が変わると絵が描けない」と、梅原先生が、照明の位置が変わらない間に、二十五分で描いた画がある。
(11)絵の具の匂い:S33、ヴェニスの最高級ホテル『ダニエリ』のスイートで、先生は、絵を制作。

§4 カマボコ夫人(艶子夫人)他
(12)カマボコ夫人:艶子夫人の肌は、「上等のカマボコ」のように白く美しかった。陽に焼けない努力。
(12)-2 和服:生涯、艶子夫人は和服だった。
(13)帯枕:艶子夫人の帯枕は、15センチの厚さの弁当箱ほどで、なんと100ドル札の束だった。画商が、どんどん、お金を置いていったとのこと。
(14)手紙はヘドロ:手紙は「ヘドロ」みたいなもので、「公開してもいっこう差しつかえないサ」と先生。
(15)スカンピンのからまわり:イタリー料理の「エビとイカの天ぷら」(スカンピ・カラマリ)を、先生は、そう呼んだ。
(16)愛の告白:「オバアとは、ほとんど見合い結婚だった」と梅原先生。「無個性で素直なのがいい」とオジイ(先生)。そのオバアは、「不幸の手紙、三枚、自分あてに出しちゃった、ふふふ」と言ったりする人だった。艶子夫人は、1977年、死去。87歳。
(17)ふろしきスカーフ:梅原先生は、カンヌの「ホテル・レゼルヴ」で、風呂敷をスカーフにして首に巻いていた。
(17)-2 鳩のロースト:カンヌに、鳩のローストが美味しいレストランがある。

§5 ピカソ、もてなし、ライオン他
(18)ピカソ:先生は、ピカソが好きでなかったが、「ピカソのファイトとエネルギーは立派だ」と言った。
(18)-2 グレコの画:プラド美術館のグレコの「キリスト像」に、梅原先生は大変、興味を持った。
(19)天衣無縫:沖縄返還決定後の佐藤栄作首相に対し、「アメリカへうんと高く売っちまったらどうだったのかナ」と先生。
(20)中国料理:フカのヒレとナマコの紅焼が、先生の好物。食欲旺盛。
(20)-2 酒豪:梅原先生は、飲み且つ食す。
(21)中国服:「留園」会長、盛氏。大財閥の領袖。
(21)-2 「名哲会」:秋山ちえ子、曽野綾子、美濃部亮吉、三浦朱門など
(22)もてなし:梅原先生はフランス料理と中国料理。谷崎潤一郎先生は、祇園「一力」でもてなし。
(23)ライオン:「ライオンは肉食でも太っていない。」&「来世はライオンになりたい」と先生。S33、カンヌで、ライオンと撮った記念写真がある。

§6 絵の値段、一匹狼、御祝儀他
(24)絵の値段:「自分の絵が、1号いくらか知らない」と梅原先生。
(25)段ボールの絵:「バラの梅原」と呼ばれた。なお、先生には、段ボールに描いたケシの画がある。
(26)手料理:先生の大ざっぱな料理。「全く料理のできないオバア」の気持ちを考え、料理人を雇わない。
(27)一匹狼:「梅原サロンは楽しかった」と高峰。「ぼくは一匹狼」と梅原先生。
(27)-2 アルコール:アルコールと先生は「切っても切れない仲」。
(27)-3 御祝儀:「君くらい、モノをやりにくい人間はいないよ」と梅原先生が、高峰に言う。
(27)-4 爪:高峰が、梅原の爪をきってあげる。
(28)獅子喰い:バーナード・リーチ、浜田庄司、志賀直哉、武者小路実篤に、もてなしとして、「うなぎ」を二人前ずつ頼む。

§7 虹彩炎、コマンドール勲章受章他  
(29)虹彩炎:S46(82歳)、ハワイへ行くが、先生は右の目が見えない。後に、虹彩炎とわかる。
(29)-2 ハワイ:心なしか、眼がまぶしそうだった。
(29)-3 チップ:「百ドルにしようか、先生」と高峰が尋ねる。「三百ドルじゃ多いかな」と先生。「多い。シャンペン2本でいいよ」と高峰。
(29)-4 律儀:ハワイ島へ行く。
(30)マリー・アントワネット:S47(84歳)、梅原先生が眼の手術をする。仏政府よりコマンドール勲章受章。レジオン・ド・ヌールはすでに授与されている。
(30)-2 コマンドール:S48、勲章受章式開催。谷川徹三氏出席。
(30)-3 胸像:高田博厚先生の作品。
(30)-4 飛び入り:有吉佐和子氏、スピーチ。
(31)意志:手術後1年間、煙草も酒もやめる。梅原先生の強い意志。

§8 「カニ」(「高峰秀子像」)を高峰氏が近代美術館に寄贈(S49、梅原86歳、高峰50歳)
(32)あいさつ:S49(1974年)、近代美術館に梅原龍三郎コーナーができた。約25年間、高峰家に飾ってあった「カニ」を、高峰氏が近代美術館に寄贈。その時の「記念夕食会」の高峰氏のあいさつ。
(32)-2 自分は「家庭の味や父の味を全く知らず」に育った。だから、36歳年下の私は、「梅原先生のためならエンヤコラ」と、これまでやって来た。梅原先生(86歳)、艶子夫人等出席。
(33)お誕生日:梅原ママが亡くなって2年目(1978年)。先生(90歳)の親衛隊20人が参加。先生は元気がなかった。
(33)-2 オナラ:寝たままベッドの中で食事した先生が、オナラをした。「窓をいっぱいに開けなさい」と先生が、お手伝いさんと秘書に命じた。この日が、「先生とのお別れになった。」
(34)孤独:80歳前後から先生に孤独の影。「先生のまわりをチョロチョロしている私に不快を持つ眼を感じないことはなかった」。私は先生の「便利屋」だった。「この人のために」と思える人に出会えてよかった。
(35)千鳥足:「両側」の先生と艶子夫人を、「真ん中」の「秀子サン」が支える。S50 。

§9 終幕 「梅原龍三郎展」S60(1985、97歳)、
(36)蛇の話:昔、梅原少年が書生に蛇を殺させ、書生は、何の言い訳もせず、クビになった。梅原先生の後悔。
(37)バラの花:「絵はトシで描くものじゃないヨ」と梅原先生。85歳の誕生日に、85本のバラの花を贈られ、先生は不機嫌だった。90歳を過ぎて先生はひとまわり小さくなった。
(38)不安:S54(91歳)、「転んだらお終いだよ」と梅原先生。
(38)-2 十五分の画:私がモデルになった最後の作品。
(39)自殺の話:「断食が一番だと思う」と梅原先生。艶子夫人が亡くなって、先生の食事の時間が乱れ始めた。
(40)夢:「ナポレオンの代役をやってくれ」と言われた夢etc.
(41)終幕:S60(1985)、「梅原龍三郎展」に先生が車椅子で出席(97歳)。奥村土牛(96歳)、川口松太郎(86歳)が出席。

§ 解説(川本三郎)、S 62(1987)
 ある週刊誌が「世界のミフネ、痴呆の車椅子」という記事を載せたことに対し、高峰さんはこの記事に怒る。これが、かつての大スターに対する態度だろうか、老人となったスターの「哀れな姿」だけを強調するマスコミが許されていいのか、と。「現在の彼を哀れという一言でくくるだけでは、彼の残した業績に対して失礼ではないか、と私は思う。」(高峰秀子)
 礼節を失った日本人に対し、高峰さんは「タンカを切った、ここが、高峰さんの良さである。」

《感想》
 梅原龍三郎画伯と、36歳年下の女優高峰秀子との、不思議な関係。こういう信頼関係・友情も成立するのだと、感動する。
 艶子夫人(「オバア」)は、「秀子サン」に、あなただったら「オジイ」のお妾さんになってもいいと言った。夫人にも好かれていた。もちろん「秀子サン」は、当然断った。

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