宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その4):「精神」が、「次の段階に移った」とき、「認識主観だけがその見方を変える」のか、または「認識対象も変わる」のか

2024-06-20 19:17:35 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その4)(169-172頁)
(35)-5 (三)「理性」1「観察」の「自然観察」で、「有機的自然」の「観察」が主として扱われるのは、ヘーゲルにおいては、「法則」が「概念」と考えられることに基づいている!
★ヘーゲルにとって「法則」は、「固定的に考えられた要素間の関係」(※諸契機の間の「数量的関係」)ではなく、「相互に他に転換して生きた全体を形づくるべき契機の関係」であるから、「法則」は実は「概念」である。(169頁)
☆これをもっともよく現わしているものは「有機体」だ。(169頁)
☆かくてヘーゲルは結局、「有機体」の「観察」に移ってゆく。(169頁)

★「自然の観察」が①「記述」と②「標識の指示」と③「法則の定立」という3つの段階をとって行われるという時には、これは「有機的自然」にのみ限ったことではなく、当然、「無機的自然」にもあてはまる。(169頁)
☆にもかかわらず、実際には「有機的自然」の「観察」が主として扱われるのは、ヘーゲルにおいては、「法則」が上述のように「概念」と考えられることに基づいている。(169頁)

(36)「精神」が「ある段階から次の段階に移った」ときに、「認識主観の方だけがその見方を変える」のか、それとも「認識対象も変わる」のか?「物」も、我々の「精神」とか「自己」とかと格別異なったものではない?ヘーゲルにおける「クリスト教的前提」:「事物」は「不完全ではあるにしても、しかしやはり『神によって造られたもの』として『精神的なもの』をもっている」!    
★じつはここに重要な問題が介在する。それは一般的にいうと、「精神」が「ある段階から次の段階に移った」ときに、(あ)「認識主観の方だけがその見方を変える」のか、それとも(い)「認識対象も変わる」のかという問題だ。(169頁)

★たとえば(A)「対象意識」から(B)「自己意識」に移っていくときのことを考えてみよう。(169頁)
☆(A)「対象意識」の段階が「事物」の認識を、(B)「自己意識」の段階が「相互承認」という形で「人格と人格との関係」を問題にしている。(169頁)
★(A)「対象意識」から(B)「自己意識」に移っとき、(あ)「主観の方だけが見方を変える」にすぎないとすれば、それは「事物」の認識をやめて、「人間のことだけ」を問題にするということだから、この場合には問題はない。(169頁)

★だが(A)「対象意識」から(B)「自己意識」に移ったとき、(い)「対象自身もその姿をかえる」とすると、すなわち「一見、『物』のように見えても、本当の姿においては『物』も我々の『精神』とか『自己』とかと格別異なったものではない」というように「対象も正体を変える」とすると、非常に困難な問題が起って来る。(169-170頁)
☆実際ヘーゲルでは、(A)「対象意識」から(B)「自己意識」に移ったとき、(あ)「主観の方だけが見方を変える」にすぎないとするのか、(い)「対象自身もその姿をかえる」とするのか、曖昧だ。(あ)「意識の方だけ変わる」と言っている時もあるし、(い)「対象の方まで変わる」と言っている時もある。(170頁)
☆だが結局は(い)「対象の方も変わる」というのが、ヘーゲルの意見と思われる。(金子武蔵)(170頁)

★(A)「対象意識」から(B)「自己意識」に移ったとき、(い)「対象自身もその姿をかえる」(※「一見、『物』のように見えても、本当の姿においては『物』も我々の『精神』とか『自己』とかと格別異なったものではない」というように「対象も正体を変える」)とすると、「このコップが自分と同じものだ」と考えることになる。しかしこれは、到底困難だ。(金子武蔵)(170頁)
☆だが「ヘーゲル哲学の根底にクリスト教がひそんでいる」ことを想起すべきだ。(170頁)
☆もしこの前提を容れるとすると、ヘーゲルは以下のように考えていたと思われる。「(a)神はこの世を造った。(b)この世におけるすべては神を映現している。むろん(c)人間は神の肖像(似姿)として精神的である。だが(d)人間以外のものもすべて神の御手によって成ったものだから神の叡知をなにかの形において示したものだ」。(170頁)

☆かくて「『コップ』の正体もやっぱり『精神的なもの』だ」ということになる。(170頁)
☆非常に困難だが、「クリスト教的前提」を認めたとすれば、つまり(「神」による)「始点と終点」を認めたとすれば、「そういうこと」(Ex.「コップ」も「精神的なもの」だ)も成立しえないわけでもない。(170頁)
☆むろん「外物」(「事物」)と比べれば、「人間」の方が「神の似姿」として造られたものとして、より「精神的」であり、これに対し「事物」は「不完全ではあるにしても、しかしやはり『神によって造られたもの』として『精神的なもの』をもっている」ことになる。とにかく「クリスト教的前提」を容れれば理解は何とかつく。(170頁)

《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次!(333-336頁)
(A)「意識」(対象意識):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」(A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」)
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」(A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」・Ⅱ「啓蒙」・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」(A「自然宗教」、B「芸術宗教」、C「啓示宗教」)、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

(36)-2 ヘーゲルの「クリスト教的前提」からすれば、「対象意識を自己意識に帰一させる」ことも考えられないわけではない!   
★『精神現象学』の全体を通じて、根本的なのは(A)「対象意識」と(B)「自己意識」の区別だが、「対象意識」が「事物」を相手とする意識であるのに対し、「自己意識」は「他人」を相手にする意識だ。(171頁)
☆これら2つ(「対象意識」と「自己意識」)は、一応は区別されるが、現実には互いにからまる。例えば(「自己意識」における)「親と子の関係」といっても、「精神的な人格的な関係」だけではなく、「同じ家で毎日寝起きして一緒に食事をしている」とかいうように「事物との関係」(※「対象意識」)も入ってくる。「事物との関係」を抜きにして「人格的関係」もない。(171頁)
☆かくて宗教的な境地(すなわち「事物」は「不完全ではあるにしても、しかしやはり『神によって造られたもの』として『精神的なもの』をもっている」との「クリスト教的前提」)からすれば、「対象意識を自己意識に帰一させる」ことも考えられないわけではない。(171頁)
☆「クリスト教的前提」に立ったとして、大体、ここいらまでがギリギリのところではないかと思う。(金子武蔵)(171頁)

《参考》(A)「対象意識」から(B)「自己意識」に移ったとき、(い)「対象自身もその姿をかえる」(「一見、『物』のように見えても、本当の姿においては『物』も我々の『精神』とか『自己』とかと格別異なったものではない」というように「対象も正体を変える」)とすると、「このコップが自分と同じものだ」と考えることになる。だがこれは、到底困難だ。(金子武蔵)(170頁)

★かくて「キリスト教的前提」を切り離してしまうと、「事物」は「不完全ではあるにしても、しかしやはり『神によって造られたもの』として『精神的なもの』をもっている」とのヘーゲルの見解は、非常に困難なことになる。(171頁)
☆しかしヘーゲルを含めすべての哲学者に時代的な制限がある。(171頁)
☆人間の尊厳をあれほどまでに自覚し、自由な立派な考えをもっていたプラトンとかアリストテレスでさえ、奴隷制を認め、奴隷をもって人間の道具だとしている。このような時代的な制限があるからといって、プラトン哲学が全体として無意味になるわけでない。(171頁)

☆これと同じようにヘーゲルにも「欠陥」(※「キリスト教的前提」)はある。しかし同時に、いろんな考え方に関して、特に「ある立場から他の立場への転換」に関して『精神現象学』が我々を指導する力をもっていることはこれを認めなくてはならない。(171頁)
☆これはヘーゲルにかぎらないことで、いかなる哲学者の場合でも、「非常に時代的かぎられた点」と「時代を越えた普遍的な面」と両方がある。(171-172頁)

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