宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

「怖れ」という現象:《1》「怖ろしいもの」、《2》「怖れること自身」、《3》「怖れを抱く存在者自身、すなわち現存在のことが気にかかる」!:ハイデガー『存在と時間』(1927)「第30節」

2019-06-17 13:11:28 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第5章 内存在そのもの」「【A】現の実存論的構成」「第30節 心境(情状性)の一つの様態としての怖れ」

(1)「怖れ」という現象《その1》:「怖ろしいもの」!(140頁)
A 「心境(情状性)」の一つの様態としての「怖れ」という現象は3つの観点から考察できる。(140頁)
B 「怖れ」という現象《その1》:「ひとがそれに臨んで怖れるもの(das Wovor der Furcht)」つまり「怖ろしいもの」!(140頁)あるいは「おびやかしてくるもの」(141頁)
B-2 「怖ろしいもの」には、(a)「用具的なもの」、(b)「客体的なもの」、(c)「共同現存在」とかのあり方で、世界の内部で出会う。(140頁)
B-3 「怖ろしいもの」には「あぶない」という性格がある。(140頁)
B-4 「あぶない」とはどういうことか?①趣向(適所)連関のうちにおける「有害性」。②特定の範囲が狙われる、つまりあぶなさは一定の「方面」からやってくる。③「安心できないもの」。④「接近」してくるもの、刻々近づいてくるものだ。⑤「おびやかす性格」を持つ。⑥同時に「素通りしていくあらわな可能性」がある。この可能性は怖れを減殺せず、かえって募らせる。(140-141頁)

(2)「怖れ」という現象《その2》:「怖れること自身」!(141頁)
C 「怖れ」という現象《その2》:「怖れること自身」(das Fürchten selbst)。
C-2 「接近するものを確認した上で怖れる」のではなく(※ぼんやりした何かに怖れる!)、「怖れがはじめからそれ(※怖れ)をその怖ろしさにおいて発見する」。(※わからないものに怖れる!)(141頁)

(3)「怖れ」という現象《その3》:「怖れが何を案じて怖れるか」!「怖れを抱く存在者自身、すなわち現存在のことが気にかかる」!(141頁)
D 「怖れ」という現象《その3》:「何を案じて怖れるか(das Worum der Furcht)というと、それは怖れを抱く存在者自身、すなわち現存在のことが気にかかるからだ」。(141頁)
D-2 「怖れは現存在を、主として欠如的な様態で開示する。」つまり「怖れは困惑させ、うろたえさせる。」「怖れは、危険にさらされた内存在を見えるようにすると同時に閉ざしてしまう。」「怖れが退いたあとで現存在がようやく『正気』をとりもどす」。(141頁)

(4)「怖れ」という現象:《まとめ》!
E 「怖れ」は、「《1》なにかに臨んで、なにかを《3》案じて、《2》怖れを抱くという構造をそなえている。」(141頁)

(5)「《・・・・・・・(※ほかの人びと)のために心配する》」場合も、実は「やはり自分のことを気にかけて怖れを抱いている」!「心配」なのは「その相手との共同存在」である!
F 「ほかの人びと」にかかわる「怖れ」がある。(Ex. 「彼らのために心配する」。)「《・・・・・・・(※ほかの人びと)のために心配する》」場合。彼ら自身は、怖れていないことが多い。Ex.「向こうみずに突進していく」。(141-2頁)
F-2 「《・・・・・・・(※ほかの人びと)のために心配する》」場合も、実は「やはり自分のことを気にかけて怖れを抱いている」。「心配」なのは「その相手をなくすかも知れないというその相手との共同存在なのである」。(142頁)

(6)「怖れ」の様々な「変様」:①驚愕、②慄然たる恐怖、③たまげる恐怖、④おじけ、⑤憚り(ハバカリ)、⑥胸騒ぎ、⑨呆れ(アキレ)など!
G 「怖れ」には様々な「変様」がある。①「おびやかすもの」の突然の侵入である驚愕(Erschrecken)。②「おびやかすもの」が「まったく見も知らぬもの」の場合の「慄然たる恐怖(Grauen)」。③「慄然」とさせかつ遭遇的(意外性)な「たまげる恐怖(Entsetzen)」。(142頁)
G-2 そのほかの「怖れの転化」としては④おじけ、⑤憚り(ハバカリ)、⑥胸騒ぎ、⑨呆れ(アキレ)など。(142頁)

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「心境(情状性)」において「気分のゆらぐにまかせて『世界』を見ている」!:ハイデガー『存在と時間』(1927)「第29節 心境(情状性)としての現存在」(その4)

2019-06-16 13:06:56 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第5章 内存在そのもの」「【A】現の実存論的構成」「第29節 心境(情状性)としての現存在」(その4) 

(6)世界内存在が心境(情状性)的であるからこそ、「感動させられる」ということが可能になる!
K 「『感能(感官)』(Sinne)が存在論的には、心境(情状性)的な世界内存在というありかたをする存在者にそなわっている」からこそ、「『感能(感官)』が『感動させられる』とか、なにかに対する感受性をもつ」とかいうことがあって、「感動させるものが感触において現れてくる」ということも可能になる。(137頁)

(6)-2 「純粋な直観」は「客体的なもの」の存在をとらえても、「物騒なもの」は決してとらえられない!
L 「存在論的には、世界の第一義的な発見を、原理的に『たんなる気分(※心境=情状性)』にゆだねなくてはならない」。(138頁)
L-2 「純粋な直観」というようなものは、たとえ「客体的なものの存在」の骨髄にまで滲透したとしても、「物騒なもの」というようなものを発見することは決してできない。(138頁)

(6)-3 「心境(情状性)」において「気分のゆらぐにまかせて『世界』を見ている」!
M 「第一義的な開示力をもつ心境(情状性)」において、「われわれが定めなく気分のゆらぐにまかせて『世界』を見ている」ときこそ、手もとに現前するものごとが、それらの「一日としておなじ姿ではない特有の世界性」において現れてくるのである。(138頁)

(6)-4 「理論的注視」は世界を単純な客体の単調性に切り換える!
M-2 「理論的注視は、はじめからしぼりをきかせて、世界を単純な客体の単調性に切り換える」。(138頁)
M-3 だがこのような「観想、理論的態度」は「気分から脱却している」わけでない。それらは「・・・・・・のもとに落ち着いて立ちどまり、自適と消閑において接する」という「気分」のうちにある。(138頁)

(7)アリストテレスの『修辞学』は「相互存在の日常性の最初の体系的な解釈学」だ!
N 「心境(情状性)」は、存在的には「情念や感情」として考察されてきた。(138頁)
O アリストテレスが「情念」について『修辞学』第2巻で考究する。(138頁)
O-2 アリストテレスの『修辞学』は「相互存在の日常性の最初の体系的な解釈学」だ。(138頁)
O-3 「世間(das Man)の存在様相としての公開性(第27節参照)」は「気分をもっている」し、「気分を必要とし」、また「自分で気分を『かもし出す』」。(138-9頁)
O-4 「演説者はその気分に投じ、かつその気分に乗じて語る。それゆえ彼は気分をうまく呼び起こし、それを操るため、さまざまな気分の可能性についての理解を必要とする。」(139頁)

《参考2》第27節:①「疎隔性」(※他者との差異を意識すること!)、②「平均性」(※他者と同じようであることを求めること!人並みを求めること!)、③「均等化」が、「世間(das Man)」の存在様相としての「公開性」(※①②③が自明として受け取られること)をなす!「公開性はすべてを曇らせ、しかもこうして蔽われたものを、なにか周知のもの、万人に供されたものと公称する。」

(7)-2 「心的現象」=①「表象」+②「意志」+③「情念と感情」!
P 情念の解釈は、ストア派に継承され、それが教父神学、スコラ神学をつうじ、近世に継承された。(139頁)
P-2 だが今や、③「情念と感情」は「心的現象」のひとつにすぎず、①「表象」、②「意志」と並ぶ、第3類の「心的現象」とされ、「たんなる随伴現象」の地位に下落した。(※「心的現象」=①「表象」+②「意志」+③「情念と感情」!)(139頁)

(8)現存在が、心境(情状性)において、おのれ自身を回避する!「頽落」の現象!
Q 「心境(情状性)(Befindlichkeit)は、それ自身、現存在が、(ア)たえずおのれを『世界』へ引き渡し、(イ) 『世界』からの迫りを受け、こうして(ウ)あるありさまでおのれ自身を回避する、実存論的な存在様相のひとつだ」。(139頁)
Q-2 「この回避の実存論的構成は、やがて頽落(Verfallen)の現象において明瞭になるであろう。」(139頁)

《参考3》第29節:「心境(※気分)の第一の存在論的本質性格」:「心境(※気分)は現存在をその被投性において開示する。そしてその開示は、さしあたりたいていは、回避的背離(Abkehr)(※能動的に注視されていないこと)のありさまで起こる。」(136頁)

(9)現存在の根本的心境:不安(Angust)!その解釈の前提として「怖れ(Furcht)」という「心境の特定の様態」を考察する!
R その後、「現存在の根本的心境(情状性)(※気分)」、すなわち「不安(Angust)」の解釈を試みる。(第40節参照)(140頁)
R-2 それを念頭に置いて、「心境(情状性)」の現象のうち「怖れ(Furcht)」という特定の様態を、次に考察する。(140頁)

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「内存在」(※現存在)は、「内世界的なもの」によって「襲撃される」という形をとる!:ハイデガー『存在と時間』(1927)「第29節 心境(情状性)としての現存在」(その3)

2019-06-15 10:25:54 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第5章 内存在そのもの」
※「【A】現の実存論的構成」「第29節 心境(情状性)としての現存在」(その3)  

(5)心境の本質規定①:心境(※気分)は現存在をその「被投性」において開示する!
H 「心境(※気分)の第一の存在論的本質性格」:「心境(※気分)は現存在をその被投性において開示する。そしてその開示はさしあたりたいていは、回避的背離(Abkehr)(※能動的に注視されていないこと)のありさまで起こる。」(136頁)
H-2 「気分は襲ってくるものである。」「それは・・・・世界内存在のありさまとして、世界内存在そのものから立ち込めてくる。」(136頁)

(5)-2 心境の本質規定②:心境(※気分)はそのつど「世界内存在の全体を開示する」!
I 「気分(※心境)は世界内存在をいつもすでに全体として開示しており、そしてそれがはじめて《・・・・へ視を向ける》という指向性を可能にする。」(137頁)
I-2 「心境(※気分)は世界と共同現存在と実存とが同根源的に開示されていることの実存論的な根本様相なのである。」(137頁)

《感想7》私見では、現存在(「実存」)はモナドである。「共同現存在」は他モナドである。「世界」は諸モナド共同体である。
《感想7-2》ハイデガーは、モナド(現存在)が相互に出会いうる、つまり独我論は克服しうるとの立場だ。だが、いかにして、モナドは出会うのだろうか?つまり独我論はいかにして否定されるのか?

(5)-3 心境の本質規定③:心境(※気分)にもとづいて、「内存在」(※現存在)は、「内世界的なもの」によって「迫られる」=「襲撃される」という形をとる!
J 「あらかじめすでに開示されている世界が、内世界的なもの(※内世界的存在者)を出会わせる。内存在にはこのような世界の先行的開示態がそなわっているが、心境(※気分)もこの開示態の構成にあずかる。」(137頁)
J-2 「配視にみちびかれた配慮がものごとを出会わせることは・・・・襲撃される(打たれる)という性格のものである。」すなわち「内存在」(※現存在)は「内世界的に出会ってくるものによって迫られる」という形をとる。「迫られうるということ(Angänglichkeit)は心境(※気分)にもとづいている。」(137頁)

《参考1》第23節:B 現存在にそなわる空間性は、「内存在」(「内世界的存在者」に「親しみつつそれと配慮的に交渉している」(104頁)こと)にもとづいてのみ可能である。
《参考1-2》第23節:D 「内世界的存在者を出会わせる」ことは「空間を与えること」であり、これは「空間を許容すること(空間許容)」(Einräumen、容致)」と呼んでよい。

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「現存在」は「おのれの現のなかへ投げられている」!「被投性」!:ハイデガー『存在と時間』(1927)「第29節 心境(情状性)としての現存在」(その2)

2019-06-14 21:38:04 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第5章 内存在そのもの」「【A】現の実存論的構成」「第29節 心境(情状性)としての現存在」(その2)  

(4)「現存在」は「おのれの現のなかへ投げられている」!「被投性」!
F 「気分のなかで現の存在がその根源的事実において開示されている」という「現存在の存在性格」、つまり「《とにかくある》という事実を、われわれはこの存在者(※現存在)の、その現のなかへの被投性(Geworfenheit)となづける」。(135頁)
F-2 「現存在」は「おのれの現のなかへ投げられている」。(135頁)
F-3 「被投性」という言い方は、「この引き渡しの既成事実性(Faktizität der Uberantwortung)」を示唆する。(135頁)
G 「現存在の心境(※気分、気持ち)において開示された《ともかくもあり、そしてないわけにはいかない》
という『事実』」は、「客体性にそなわっている事実性(Tatsächlichkeit)」ではない。(135頁)
G-2 「心境(※気分、気持ち)のなかで開示された事実(Dass)」、「この事実性(Faktizität)は、ある客体的なものの・・・・事実性(Tatsächlichkeit)ではない。」(135頁)
G-3 「客体的なものの・・・・事実性(Tatsächlichkeit)」は「眺めやって確認する態度(※能動的注視)ではじめてみとどけられる」(「直観」)。(135頁)

《感想4》《意識》(※ハイデガーは「了解」と呼ぶ)は、現象学的に言うと《ノエシスとノエマの分裂的な統一》だ。今、ハイデガーが、その最も基礎的な様式について述べる。つまり、一方で、ただ漠然とした《ある》というノエマが構成され、他方で「気分」=「心境」と呼ばれるノエシスが(そのノエマを構成しつつ)受動的に(能動的にでなく)注視し、かつ両者は分裂的な統一の内にある。ハイデガーは、《ノエシスとノエマの分裂的な統一》のこの最も基礎的な様式について、「現存在」は「おのれの現のなかへ投げられている」=「被投性」(135頁)と表現する。(以下参照)
《感想5》「了解(Verstehen)に含まれている視(Sicht)(※「配慮」における「配視」及び「待遇」における「省視」(Rücksicht)!)」(133-4頁)に、普通、人(現存在)はとらわれている。これは能動的な注視だ。ハイデガーはその基礎にある受動的な注視を「被投性」(135頁)と呼ぶ。これは「事実性」(Faktizität)である。
《感想6》ハイデガーの「被投性」の議論は、ここでは実存主義的でない。認識論的かつ存在論的だ。
《感想6-2》ハイデガーは、無でなく有(存在)であることの謎を、それが起きてしまっているので、「被投性」と呼び、またそれを「事実性」(Faktizität)と呼ぶのだ。
《感想6-3》その「事実性」(Faktizität)とは、能動的注視に基づく「事実性(Tatsächlichkeit)」と異なる。
《感想6-4》「気分のなかで現の存在がその根源的事実において開示されている」こと、つまり「現存在」が「おのれの現のなかへ投げられている」こと(「被投性」)、そうした「事実性」(Faktizität)は、(※私見では)「気分」=「心境」において言わば受動的注視が起きていることだ。

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ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第5章 内存在そのもの」「【A】現の実存論的構成」「第29節 心境(情状性)としての現存在」(その1)

2019-06-13 17:12:10 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」

(1)「気分の根源的な開示力」:「現存在がそこで現としてのおのれの存在に直面させられる」!
A 存在論的に「心境(情状性)(Befindlichkeit)」と呼ぶものは、存在的には、「気分(Stimmung)、気持ち(Gestimmtsein)」のことだ。(134頁)
A-2 「現存在に、いつもすでに気分がある」。(134頁)
A-3 「現存在がそこで現としてのおのれの存在に直面させられる」ところの「気分の根源的な開示力」!(134頁)
A-3-2 これにくらべれば、「認識にそなわる開示力」の射程ははるかに及ばない。(134頁)

《感想1》いわゆる《意識》と呼ばれるものは、《ノエシスとノエマの分裂的な統一》だ。
《感想1-2》今、ハイデガーが、その最も基礎的な様式について述べる。つまり、一方で、ただ漠然とした《ある》というノエマが構成され、他方で「気分」=「心境」と呼ぶノエシスが(そのノエマを構成しつつ)受動的に(能動的にでなく)注視し、かつ両者は分裂的な統一の内にある。
《感想1-3》ハイデガーは、《ノエシスとノエマの分裂的な統一》のこの最も基礎的な様式について、「気持ち(※気分、心境)のなかで現存在(※そこにあることorそこ、Da)はいつもすでに気分(※気持ち、心境)的に開示されている」(134頁)と表現する。(以下参照)

(2) 「開示されている」ということは、「それとして認識されている」という意味でない!
B 「気持ちのなかで現存在はいつもすでに気分的に開示されている。」(134頁)
B-2 「それ(※現存在)は、《現存在がおのれの存在においてそれへ引き渡されているところの存在者》として開示されている。」(134頁)
B-3 ただし「開示されている」ということは、「それとして認識されている」という意味でない!(134頁)
C 「日常性のただなかでこそ、現存在の存在が、『とにかくあるし、ないわけにはいかない』という露骨な事実としてにわかに露頭することがある」。(134頁)
C-2 日常性のただなかで、「ただ『とにかくある』という事実だけが現れて」いる。(134頁)

《感想2》「それとして認識」するといういわば学問的態度は、派生的態度だ。「日常性」における態度こそ根源的な態度だ。ハイデガーはそう考える。
《感想2-2》ハイデガーは、「序に代えて」で、「存在了解」が、「われわれ自身がそれであるところの存在者」つまり「現存在」に備わっていると述べる。この「存在了解」が、日常的にいわゆる《意識》と呼ばれるものだ。

(3)「現存在はたいてい、存在的=実存的には、気分のなかで開示された存在を、回避している」!
D 「気分のなかで現の存在がその根源的事実において開示されている」。(135頁)
E だが「現存在はたいてい、存在的=実存的(ontisch-existenziell)には、気分のなかで開示された存在を、回避している。」(135頁)
E-2 「ということは、存在論的=実存論的には(ontologisch-existenzial)・・・・・・回避すること自身において、現は、開示されたものとして存在している。」(135頁)

《感想3》「了解(Verstehen)に含まれている視(Sicht)(※「配慮」における「配視」及び「待遇」における「省視」(Rücksicht)!)」(133-4頁)に、普通、人(現存在)はとらわれている。これをハイデガーは、「気分のなかで開示された存在を、回避している」という。
《感想3-2》ハイデガーは、言わば「メメント・モリ」(自分の死を忘れるな)を指摘する。実際、日常的な世渡りの内で、人は「配慮」における「配視」及び「待遇」における「省視」において、生きるしかない。
《感想3-3》ハイデガーは、こうした現世にとらわれた態度を批判する。現世の楽しみ・贅沢・権力・権威は空しいと強調する。
《感想3-4》だがいわば「忙中閑あり」で、日常的な世渡りの合間にふと気づくとき、人は死を考える。「メメント・モリ」だ!この場合、一方で、ハイデガー的に現世は空しいとする立場がある。
《感想3-5》だが「メメント・モリ」には、他方で、いずれ死ぬのだから「今を楽しめ」とする立場がある。Ex.「現在を享楽せよ。明日のことはあまり信ずるなかれ。」(ホラティウス)。これはハイデガーの立場でない。

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ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第5章 内存在そのもの」「第28節 内存在を主題的に分析する課題」(その3)

2019-06-11 18:39:49 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」

(6)「内存在そのもの」の解明すなわち「現の存在」の解明を担当する「第5章 内存在そのもの」は二部に分かれる!
【A】「現の実存論的構成」
【B】「現の日常的存在と現存在の頽落」

(6)-2 「内存在そのもの」つまり「現の存在」の解明(その1):【A】「現の実存論的構成」!
G 「現を存在する」ふたつの同根源的な構成的様相は、「心境(情状性)(Befindlichkeit)」と「了解(Verstehen)」である。(133頁)
G-2 心境と了解は、「話(語り)(Rede)」によって同根源的に規定されている。(133頁)
G-3 【A】「現の実存論的構成」(その1)(133頁)
一、「心境(情状性)としての現存在」(第29節)
二、「心境(情状性)のひとつの様態としての怖れ(恐れ)」(第30節)

《感想4》すでに評者の私見として、第4節で「現存在」はモナドあるいは超越論的主観性だと述べた。
《感想4-2》「現存在」(モナドあるいは超越論的主観性)は、《感覚》(物そのものの出現)、《感情、欲望、意図、夢、意味世界、意味世界の展開としての想像・虚構》からなる。(Cf. なお《思考》は意味世界の展開の一つなので、ここでは「意味世界」に含める。)
《感想4-3》ハイデガーが言う「心境(情状性)」とは、「現存在」(モナドあるいは超越論的主観性)のうち、《感覚》(物そのものの出現)は除き、《感情、欲望、意図、夢、意味世界、意味世界の展開としての想像・虚構》(狭義の主観性or狭義の心)にあたるものだ。(第29節)
《感想4-4》ハイデガーは、「現存在」の《感情》のうち「怖れ(恐れ)」に注目する。(第30節)

G-4 【A】「現の実存論的構成」(その2)(133頁)
三、「了解としての現存在」(第31節)
四、「了解(Verstehen)と解意(解釈)(Auslegung)」(第32節)

《感想5》すでに第12節A《感想1ー2》で評者の私見として、次のように述べた。《意識》は、ノエマ(意味)を構成しつつあるノエシス(両者は不可分)だ。ノエシスは《関心》と《注視》からなる。ハイデガーは、《関心》を、「配慮」(Besorgen)・「待遇」(顧慮)(Fürsorge)、さらに一般的に「関心」(Sorge)として分析する。
《感想5-2》また第16節(1)《感想2》で、評者の私見として、次のように述べた。「了解」とは、日常用語における《意識》に相当する。《意識》とは、モナド(超越論的主観性)において、常にノエシスとノエマの分裂が起きつつ、同時にノエシスはノエマを構成するということだ。(なおノエシスは、《関心》と《注視》からなる。)

G-5 【A】「現の実存論的構成」(その3)(133頁)
五、「解意(Auslegung)の派生的形態としての言明(陳述)(Aussage)」(第33節)
六、「現存在、話(語り)(Rede)、言語(Sprache)」(第34節)

《感想6》私見では、「解意」とは、既に構成されたノエマ(意味・類型)のうちに新たな体験を包摂すること、またそれにともないノエマ(意味・類型)間の関係の展開(再構成等を含む)のことだ
《感想6-2》「言明」は、《語》が指示するノエマ(意味・類型)のうちに新たな体験を包摂し、またそれにともない《語》が指示するノエマ(意味・類型)間の関係の展開(再構成等を含む)だ。つまり「言明」(Aussage)は「解意(Auslegung)の派生的形態」だ!

(6)-3 「内存在そのもの」つまり「現の存在」の解明(その2):【B】「現の日常的存在と現存在の頽落」!
H 【B】「現の日常的存在と現存在の頽落」(その1)(134頁)
一「話(Rede)という構成的現象」、二「了解(Verstehen)に含まれている視(Sicht)(※「配慮」における「配視」及び「待遇」における「省視」(Rücksicht)!)」、三「了解にそなわる解釈(解意)」にそれぞれ対応して、ここでは、「現の日常的存在」の3つの実存論的様態を扱う。(133-4頁)
一、「世間話」(第35節):「話(Rede)という構成的現象」の問題。
二、「好奇心」(第36節):「了解に含まれている視(Sicht)」の問題。
三、「曖昧さ」(第37節):「了解にそなわる解釈(解意)」の問題。

I  【B】「現の日常的存在と現存在の頽落」(その2)(134頁)
上記、三つの現象(一、「世間話」、二、「好奇心」、三、「曖昧さ」)において、「頽落(Verfallen)」という「現の存在のひとつの根本的様相」が浮かび上がってくる。(134頁)
四、「頽落」(第38節)

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ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第5章 内存在そのもの」「第28節 内存在を主題的に分析する課題」(その2)

2019-06-10 13:58:31 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」

(4)現存在(Dasin):《ここ》や《あそこ》が可能であるのは、ひとえに《そこ》(『現』、Da)においてだ!
D 「世界内存在ということによって本質的に構成される存在者(※現存在)は、みずから各自の『現』(『そこ』、Da)を存在している。」(132頁)
D-2 「《ここ》(※Ex.《ここにいる私》)や《あそこ》が可能であるのは、ひとえにある《そこ》(『現』、Da)においてである。」すなわち「《そこ》(『現』、Da)の存在としてすでに空間性を開示している存在者(※現存在)が存在するときにである。」(132頁)

《感想1》この場合、現存在の「現」(「そこ」、Da)とは《広がりを持った世界がある》ということだ。(そして、この世界はモナドである)。
《感想1-2》ハイデガーが「第12節H」で言う。「現存在はひとごとでない自己の存在を、ある意味でひとつの『事実』として、事実上現実に存在しているという意味で、了解している。」これが、現存在の「事実性」(Faktizität)あるいは「現存在に本来そなわっている『客体性』」と呼ばれる。
《感想1-3》かくて現存在の「現」(「そこ」、Da)とは、現存在の「事実性」(Faktizität)のことだ!
《感想2》評者は第4節D《感想2-2》で、「『現(Da)』とは私見では・・・・ (ア)身体をここ(Da)として中心とし、かつ(イ)今として、比喩的な意味でここ(Da)であり、さらに(ウ)現存在(※モナド)における《心》(⇔物)の在り方の固有性という意味でも、ここ(Da)だ」と述べた。
《感想2-2》だがハイデガーの「現」(「そこ」、Da)は、「ここ」(Da)(上述(ア)(イ)(ウ))を可能とする《広がりを持った世界がある》こと、すなわち現存在の「事実性」(Faktizität)あるいは「現存在に本来そなわっている『客体性』」のことだ。

(5)現存在は、おのれの開示態を存在するorその明るみを存在する!
E 「この存在者(※現存在)は、そのもっとも固有な存在において、閉ざされていない。」(132頁)
E-2 「《そこ》(『現』、Da)という表現は、この本質的な開示態を指そうとするものである。」(132頁)
E-3 「この開示性によって、この存在者(現存在)は、世界の現存とともに、おのれ自身にむかって《そこ》に存在している。(※かくて了解が可能となる!)」(132頁)
E-4 「現存在はおのれの開示態(Erschlossenheit)を存在する。」比喩的に言えば「人間(※現存在)は内に『照明』を含んでいる」(133頁)
E-5 「人間(※現存在)は・・・・・・みずからその明るみ(Lichtung)を存在する。」(133頁)

《感想3》無でなく有である(存在者が存在する)こと(※恐るべき謎だ!)を、「閉ざされていない」こと、「開示態を存在する」こと、「明るみを存在する」ことと、ハイデガーは表現する。「了解」以前に、何ものか「開示」されているという出来事こそが有(存在者の存在)なのだ。

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ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第5章 内存在そのもの」「第28節 内存在を主題的に分析する課題」(その1)

2019-06-08 20:39:42 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」

(1)「現存在」の根本的構成である「世界内存在」の3契機:①「世界」、②「誰か」、③「内存在」!
A 「現存在の実存論的分析論」は準備段階では、「この存在者(※現存在)の根本的構成」である「世界内存在」を主導的主題とする。(130頁)
A-2 これまでのところでは、「世界内存在の現象的な性格規定」は、①「世界」という構造契機(※「第3章 世界の世界性」)と、そして②「その日常性におけるこの存在者(※現存在)は『誰か』という問い」の解答(※「第4章 共同存在(共存在)と自己存在としての世界内存在、『世人(世間)』(Das “Man”)」)とへ向けられていた。(130頁)
B ①「世界」と②「誰か」の分析に続いて。今度は③「内存在」の現象を取り上げる。(※「第5章 内存在そのもの」)(131頁)
B-2 ここ(※③)ではさらに、「現存在そのものの根源的存在」を把捉する道をひらく。
B-3 「現存在の根源的存在」とはすなわち「関心」である。(131頁)

(2)内存在の存在性格は多様であり、それら多様な存在性格が同根源的である!
C 世界内存在について①「世界のもとでの存在(配慮Besorgen)」(Cf. 配慮とその配視Umsichit)、②「共同存在(待遇Fürsorge)」(Cf. 待遇とその省視Rücksicht)および②-2「自己存在」(誰かWer)以上に、さらに何が挙示できるか? それは③「内存在」の現象である。(131頁)
C-2 内存在という現象は、根源的であり、演繹できない。(131頁)
C-3 内存在の存在性格は、多様である。「多様な存在性格が、同根源的である。」「見境なしに・・・・『根本原因』からの由来を立証する」のは方法的に放埓だ(※勝手すぎる)。(131頁)

《参考1》「現存在が・・・・空間的な容器の内部に存在しているというような見方」を排撃する。(「第12節 世界内存在を、内存在そのものを手引きとして素描する」)
《参考2》現存在の基礎構造である「世界内存在」の構成契機は①「世界性」、②共同存在と自己存在(Mit- und Selbstein)、③「内存在」(das In-Sein)である。(「第1編」冒頭)
《参考3》「内存在」は、「ある物体的な事物(人体)が、ある客体的存在者の『なか』に客体的に存在している」ことを指すのでない。「空間的な意味で一方が他方の『なか』にあるという客体的関係」を指すのでない。(第12節)
《参考4》「内存在」(③)(あるいは「内」)は実存範疇であり、「・・・・・・のもとに住む」、「・・・・・・となじんでいる」、「・・・・・・のもとにある存在」を意味する!(第12節)
《参考5》「内存在の様式」は様々あるが、いずれも「配慮(Besrgen)という存在様相」を持つ。(第12節)
《参考6》「内存在の空間性は、『開離(Entfernung、遠ざかりの奪取)(※テーマ化)』と『付置(Ausrichtung、方向の切り開き)』という性格を示す。」(104頁)(第23節 世界内存在の空間性)
《参考7》「内存在は、ほかの人びととの共同存在(共存在)(das Mitsein)である。」(118頁)(第26節)
《参考8》現存在一般の存在が「関心」(Sorge)である:①用具的存在者における「配慮」(Besorgen)!②共同現存在における「待遇」(顧慮)(Fürsorge)!(121頁)(第26節)
《参考8-2》「現存在が共同存在というありさまで関わり合う存在者」(※共同現存在)は、それ自身、「現存在」である。「この存在者は、配慮(Besorgen)されるのではなく、待遇(顧慮)(Fürsorge)されるのである。」(121頁)(第26節)


(3)「世界内存在」および「内存在」についてのハイデガーのこれまでの説明:《参考1》「第9節」、《参考2》「第12節」、《参考3》「第12節」(続)、《参考4》「第13節」!

《参考1》「第9節」
(3)現存在の各自性(Je-meinigkeit):現存在はいつもおのれの可能性を存在している!つまりおのれの存在(可能性)にむかって「態度」をとっている!かくて現存在には、「本来性」と「非本来性」という二つの存在様態がある!
D 「みずから存在しつつこの存在そのものに関わり合っているこの存在者(※現存在)は、おのれの存在をひとごとならぬ可能性として、これにむかって態度をとっている。現存在はいつもおのれの可能性を存在している。」
D-2 現存在には各自性(Je-meinigkeit)という性格がそなわっている。
D-3 かくて現存在には、「本来性」(Eigentlichkeit)と「非本来性」(Uneigentlichkeit)という二つの存在様態がある。
D-4 「現存在は・・・・おのれの可能性を存在しているがゆえに、この存在者はその存在において①自己自身を『選びとり』、獲得し、あるいは②自己を失い、また③ただ「みかけだけ」自己を得ているだけで、いちども本当に得なかった、というようなこともありうる。」(※①②③は評者による。)


《参考2》「第12節」
(1)「現存在」の形式的な概念!
A 「現存在(Dasein)とは、みずから存在しつつこの存在にむかって了解的に態度をとっている存在者(Seiendes)である。」これが「実存」の「形式的な概念」だ。つまり現存在のあり方が「実存」(Existenz)とよばれる。
《感想1》「了解的」に態度をとる存在者とは、《意識》のことだ。「現存在」は《意識》だ。
《感想1ー2》《意識》は、ノエマを構成しつつあるノエシス(両者は不可分)だ。ノエシスは《関心》と《注視》からなる。ハイデガーは《関心》を、「配慮」(Besorgen)・「待遇」・「関心」(Sorge)として分析する。
《感想1ー3》A.シュッツは《関心》を、理由動機と目的動機に区分し、前者が後者を生み出すとした。より根源的な理由動機が、死への根本的不安(fundamental anxiety)だ。


《参考3》「第12節」(続)
(3)「内存在」(③)(あるいは「内」)は実存範疇であり、「・・・・・・のもとに住む」、「・・・・・・となじんでいる」、「・・・・・・のもとにある存在」を意味する!
D 「世界内存在」の構成契機のうち「内存在」(③)を取り上げ、全体の見通しをつける。
D-2 「内存在」は、「カテゴリー的」とよばれる存在論的性格を持つのでない。
D-4 つまり「内存在」は、「ある物体的な事物(人体)が、ある客体的存在者の『なか』に客体的に存在している」ことを指すのでない。「空間的な意味で一方が他方の『なか』にあるという客体的関係」を指すのでない。(54頁)。
E 「現存在」は、「客体的存在」(「現存在的でない存在様相を持つ存在者」)でない。「現存在の存在構成のひとつ」である「内存在」は、「実存範疇」である。
E-2 「内存在」あるいは「内」とは、実存範疇であり、「・・・・・・のもとに住む」、「・・・・・・となじんでいる」、「・・・・・・のもとにある存在」を意味する。
(4)「世界内存在」とは、「世界のもとにある存在」だ!
F かくて「世界内存在」とは、「世界のもとにある存在」(「世界のもとに住む」、「世界となじんでいる」)である。
F-2 世界の「もとにある」存在は、実存範疇として見れば、「現存在」という存在者と「世界」という存在者とが「ならび合っている」ということではない。(※これは、客体的存在者同士のカテゴリー的関係だ。)
(4)-2 「無世界的」であるふたつの存在者は《触れあう》ことがありえない!
G 「それ自体において『無世界的』であるようなふたつの存在者は、決して《触れ合う》ことがありえない。」
《感想3》これは、あるモナド(現存在、つまり超越論的主観性としての《意識》)と、他なるモナドの出会いの問題だ。独我論の問題。両モナドが共同体的に、一つの世界を構成しないかぎり、両モナドは出会えない。モナド(現存在)が、初めからモナド共同体である場合にのみ、あるモナドと、他なるモナドは、一つの世界のうちで出会うことができる。
(5)現存在の「事実性」(Faktizität)あるいは「現存在に本来そなわっている『客体性』」
H 「現存在はひとごとでない自己の存在を、ある意味でひとつの『事実』として、事実上現実に存在しているという意味で、了解している。」自己の現存在の事実。つまり現存在の「事実性」(Faktizität)。あるいは「現存在に本来そなわっている『客体性』」!
《感想4》「了解している」とは、《意識している》ということだ。
《感想5》現存在の「事実性」(Faktizität)あるいは「現存在に本来そなわっている『客体性』」とは《有》であって《無》でないということだ。《無》でない、つまり《有》であるとは、実に奇跡のような出来事(「事実性」or「客体性」)だ。
(5)-2 現存在の「事実性」(Faktizität)に含まれる事柄:①世界内存在、②現存在は「おのれ自身の世界の内部でおのれに出会うもろもろの存在者の存在に連帯している」!
H-2 現存在の「事実性」(Faktizität)には次のような事柄が含まれる。①「世界の内部にある」存在者の世界内存在ということ。
《感想5-2》世界内存在、つまり世界の「のもとに住む」とは、その存在者が、世界そのものだということだ。例えば君は世界そのもの、君において世界という出来事が出現している、君とは世界という出来事の出現そのものだ。君は世界or宇宙そのもの、君はモナド、フッサール的に言えば君は超越論的主観性だ。
H-2-2 ②しかも「この存在者はその『運命』において、おのれ自身の世界の内部でおのれに出会うもろもろの存在者の存在に連帯していることをみずから了解する」ということ。
《感想5-3》おのれのモナド(現存在)のうちで、他のモナド(現存在)に出会う。この出会いは「運命」的で避けがたい。なぜならおのれのモナドと他のモナドは、すでにあらかじめモナド共同体(フッサール)だからだ。


《参考4》「第13節」
(3)ハイデガーは「超越」を認めない!すべてが「内在」だ!(世界内存在!)
C 「認識する主観(※「内在」)は如何にしてその内的《圏》から出てそれとは《別種な外的圏》(※「超越」)に達するのか」という問いは、根拠がない。この場合、「認識する主観の存在様相をたずねる」ことが閑却されている。(60頁)
C-2 「『認識する』ことは、世界内存在の存在様式のひとつである」。
C-3 「認識は主観の超越においてはじめて世界に到達する」というのは誤りだ。「世界(※超越)が始めから自己の世界(※内在、内面、内的圏)にある」。(61頁)
《感想3》ハイデガーは「超越」を認めない。すべてが「内在」だ。
《感想3-2》「現存在」(※いわゆる《意識》)が「世界内存在」であるとは、超越とされる存在者(「自然」)(60頁)も、「内在」だということだ。(内面と外面が区別されない。)
《感想3-3》つまり「現存在」は超越論的主観性である。そして超越を認めないから、感覚される「物」は「物」(超越)の「像」(内在)でなく、物そのものだ。このような現存在はモナドである。
《感想3-4》この場合、外面(超越)があるとすれば、それは①他モナドである。②だがモナド共同体的に物世界が共有される。モナド共同体的物世界を外面と呼ぶことができる。
《感想3-5》これに対し《内面》とは モナド共同体的物世界と異なる、各モナドの《固有の感覚、感情、欲望、意図、夢、意味世界、意味世界の展開としての想像・欲望》(これらが普通《心》とよばれる)のことだ。
《感想3-6》現存在が世界内存在であるとは、ハイデガーが、超越を認めないということだ。現存在は「世界の内で(※世界は超越でない)世界へ向かってかかわる存在 」だ。(60頁)
《感想3-7》フッサールが語る《ヒュレー》とは、世界の《質料》であって、これがノエシスによってノエマ(意味、形相)へと形成される。

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ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第4章」「第27節 日常的自己存在(das alltägliche Selbstsein)と世間(世人)(das Man)」(その3)

2019-06-07 10:14:11 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」
※「第4章 共同存在(共存在)と自己存在としての世界内存在、『世人(世間)』(Das “Man”)」

(6)「世間(das Man)的自己」(※ミードの「me」)と「本来的自己」(※ミードの「I」)!
J 「日常的現存在の自己は、『世間的自己』(世人自己)(das Man-selbst)(※ミードの「me」)であるから、われわれはこれを『本来的(eigentlich)自己』(※ミードの「I」)、すなわちみずから選びとられた自己から区別しておく。」(129頁)
J-2 なお「現存在の世界は、そのつど出会う存在者を、世間(das Man)がなじんでいる趣向(適所)全体性(die Bewandtnisganzheit)へむかって、かつ世間(das Man)の平均性によって確定されている限界の内部で、明け渡す。」(129頁)

(7)「第4章 共同存在(共存在)と自己存在としての世界内存在、『世人(世間)』(Das “Man”)」:まとめ!
K 「世間(das Man)における共同存在および自己存在の解釈によって、われわれはここに、相互存在の日常性の『誰か』への問いに解答した」。(129頁)


《感想1》「第4章 共同存在(共存在)と自己存在としての世界内存在、『世人(世間)』(Das “Man”)」という標題において、「共同存在」とは、つまり「世間(das Man)」あるいは「世間(das Man)的自己」(※ミードの「me」)だ。(Cf. 127頁)
《感想1-2》また「自己存在」とは、「本来的自己」(※ミードの「I」)だ。
《感想2》私見では、「現存在(※モナド)は本質上、共同存在である(※モナド共同体である)」(第26節、120頁)が、これについてハイデガーは、いまだ言及しない。

(8)本来的な自己存在(das eigentlich Selbstsein)(※ミードの「I」)!
L 「本来的な自己存在とは、世間(das Man)から離脱した主観の例外的な状態に宿るものではなく、ひとつの本質的な実存範疇としての世間(das Man)を実存的に変容することなのである。」(130頁)
L-2 「本来的に実存する自己の自同性(die Selbigkeit des eigentlich existierenden Selbst)は、多様な体験のなかで存続する自我の同一性から、一つの深淵によって距てられている」。

《感想》ハイデガーは、「本来的自己」(※ミードの「I」)について、「世間(das Man)的自己」(※ミードの「me」)から出発して、説明しようとする。社会学的アプローチだ。

《参考》第9節参照:I 「実存範疇」と「カテゴリー」とは、存在の諸性格のふたつの根本的様態である。
I-2 「誰かとよばれる存在者」(現存在)の存在は「実存」であり、その存在諸性格が「実存範疇」である。
I-3 「何かとよばれる存在者」の存在は「客体性」であり、その存在諸性格が「カテゴリー」である。

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ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第4章」「第27節 日常的自己存在(das alltägliche Selbstsein)と世間(世人)(das Man)」(その2)

2019-06-06 13:34:09 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」
※「第4章 共同存在(共存在)と自己存在としての世界内存在、『世人(世間)』(Das “Man”)」

(3) ①「疎隔性」、②「平均性」、③「均等化」が、「世間(das Man)の存在様相」としての「公開性」(※自明として受け取られること)をなす!
F 共同存在つまり「世間(das Man)」の存在様相には①「疎隔性」(懸隔性)(Abständigkeit)(※他者との差異を意識すること!)のほかに次のものがある。
②「平均性」(Durchschnittlichkeit)(※他者と同じようであることを求める!人並み!)「世間(世人)(das Man)はその存在において・・・・平均性に関心を持っている。」「世間(das Man)は・・・・平均性のなかに住む」。(127頁)なお「疎隔性」(①)は「相互存在がもともと平均性を気遣うものであること」にもとづく。「平均的でないものを非とする」。(127頁)
③かくて「世間(das Man)」は「均等化(Einebunng)」のなかに住む。「あらゆる存在様式の均等化」!(127頁)
F-2 ①「疎隔性」、②「平均性」、③「均等化」が、「世間(das Man)の存在様相」として「公開性」(※自明として受け取られること)として知られているものを構成する。(127頁)
F-3 「公開性(※①+②+③)はすべてを曇らせ、しかもこうして蔽われたものを、なにか周知のもの、万人に供されたものと公称する。」(※「世間(das Man)は」「事象そのもの」へ立ち入らず、「水準や真価の差」にまったく無感覚だ。

《参考》「第15節 環境世界のなかで出会う存在者の存在」(8)-4 において、「着用者や消費者がその内で生活している世界」、「われわれの世界である世界」、「公開的世界」(die öffentliche Welt)とハイデガーは述べる。

(4)「世間(das Man)は各自の現存在から責任を取り去る」!「存在免責」!「世間(das Man)」の現存在への「迎合」!(127頁)
G だれもが「それは世間(das Man)の仕業だった」と言い、それをしたのは「だれのせいでもない」と言う。「世間(das Man)は各自の現存在から責任を取りさる」!(127頁)
G-2 「こうして世間(das Man)は、個々の現存在をその日常性において免責する。」つまり「存在免責」!(127頁)
G-3 「そもそも現存在(※この場合は「I」つまり主我!)には軽便安易につく傾向がある」ので「世間(das Man)が存在免責によってそのつどの現存在にたえず迎合し続ける」。(127-8頁)

《感想1》ハイデガーは、現存在がモナドであること、他の現存在もモナドであること。諸モナドが相互にどう出会うことができるかという哲学的問題に、今は触れない。
《感想2》ハイデガーの「第27節 日常的自己存在と世間(das Man)」の分析は、社会学的・心理学的である。現存在は、普通に人格的「人間」(自我)を指している。
《感想3》世間(das Man)はミードの「me」(客我)にあたる。ミードは自我を「me」(客我)と「I」(主我)に分ける。
《感想3-2》ハイデガーの現存在はミードの自我である。現存在(自我)は「世間(das Man)」(「me」)と「I」からなる。ハイデガーは「me」を「日常的現存在」あるいは「世間(das Man)」と呼ぶ。現存在(自我)の「I」に相当するものについて、ハイデガーはまだ述べていない。

(5)「日常的現存在」であるのは誰なのか?それは世間(das Man)(※ミードの「me」)であり、無人(誰でもない者)(Niemand )である!
H 「日常的現存在であるのは誰なのかという問いに答えるものは世間(das Man)(※ミードの「me」)であり、無人(誰でもない者)(Niemand )である。」(128頁)
I 現存在のもっとも身近な「恒存性」(不断性)(Ständigkeit)(※変化せず必ずそうであること)が、「日常的な社交生活の存在性格――疎隔性(①)、平均性(②)、均等化(③)、公開性、存在免責、迎合――」にはある。(128頁)
I-2 「このありかた(※日常的な社交生活の存在性格)において、現存在は・・・・実にens realissimum(もっとも実在的な存在者)なのである。」(128頁)

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