宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

『唯識(上)』多川俊映、第2回(その4):表面心と深層心の重層性!「本識」(第八阿頼耶識)と「転識」の重層構造:「阿頼耶識縁起」!原因「種子」と結果「現行」:「種現(シュゲン)因果」!

2022-12-24 16:41:40 | Weblog
『唯識(上)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年

第2回 さまざまな「心」の捉え方(続々々):唯識仏教における「心」(続)!
(8)「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」の構造①:表面心(「前五識」・「第六意識」)と深層心(「第七末那識」・「第八阿頼耶識」)の重層性!
S  唯識仏教は、心を表面心と深層心の重層性として捉える。五感覚の「前五識」と(当面の)自己そのものといえる「第6意識」は心の表面のはたらきだ。(56頁)
S-2  深層心の「第七末那識」(マナシキ)の自己愛ないし自己中心性のはたらきが表面心である第6意識に通奏低音のように囁き続ける。そして「前五識」・「第六意識」・「第七末那識」の七識の発出元として、最深層の「第八阿頼耶識」(アラヤシキ)がある。(56頁)(21-22頁)
S-2-2  こうした深層の二意識、「第七末那識」と「第八阿頼耶識」は無意識あるいは意識下である。(56-57頁)
S-2-3 フロイトの無意識の場合は、無意識識領域に抑圧されたことがらを意識化し、問題が解決される、つまり意識化が可能だ。だが唯識仏教の最深層の無意識である「阿頼耶識」は「不可知」とされる。(57頁)
S-2-4 川本臥風に「菱餅の上の一枚そりかえり」という雛の節句の俳句がある。これを唯識の心の構造に譬えると、反りかえる上の1枚は表面心の「前五識」と「第六意識」。それ以下は心の深層領域で、中の1枚が「第七末那識」、一番下の1枚が「第八阿頼耶識」と見立てることができる。(59-60頁)
S-2-4-2 深層領域の中と下の2枚は音無しの構えだが、表面心の上の1枚は何かと騒々しい。「第六意識」の例えば「瞋(シン)(排除する)」心所がむくむくと立ち上がり、それにつれ具体的な随煩悩の心所「忿(フン)(腹を立てる)」や「恨(コン)(うらむ)」などが相応してくる。「上の一枚そりかえり」という状況だ。(60頁)

(8)-2 「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」の構造②:「本識(ホンジキ)」(第八阿頼耶識)と「転識(テンジキ)」(前五識・第六意識・第七末那識)の重層構造:「阿頼耶識縁起」(頼耶縁起)!
T 「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」には、もう一つ重要な重層構造がある。それは「本識(ホンジキ)」(第八阿頼耶識)と「転識(テンジキ)」(前五識・第六意識・第七末那識)の重層構造だ。(60頁)
T-2  「本識(ホンジキ)」とは第八阿頼耶識のことで、すべては第八識の「本識」から発出・発現し、これを「転変(テンペン)」という。(60頁)
T-2-2 つまり八識でいえば、前五識も第六意識も、そして第七末那識もすべて、根本の識体たる第八識(第八阿頼耶識)から「転変」して現れたものと考えるので、前五識・第六意識・第七末那識を「転識」と言う。(60-61頁)

T-3  かくて唯識仏教では、ものごとは阿頼耶識にもとづき、阿頼耶識を主とし、阿頼耶識によってつくり出されるということになる。かくて唯識の縁起論(ものごとの成り立ちについての考え方)は「阿頼耶識縁起」(頼耶縁起)と呼ばれる。(61頁)
T-3-2  「第八阿頼耶識」(蔵識)は「種子(シュウジ)」を所蔵するので「一切種子識」(※知識の総体としての「知識在庫」)とも呼ばれる。
《参考》「阿頼耶識」は、「過去の行為行動の情報・残存気分」(※類型的知識)である「種子」(シュウジ)を所蔵する「心の深層領域」である。「種子」(シュウジ)は深層領域にファイルされるだけでなく、事後そして将来にわたって、条件が整えば類似の行動を発出する潜勢力である。言い換えれば、「阿頼耶」と呼ばれるこの深層心は、明日の自分をつくるものである。(50頁)

(8)-3 第八識(第八阿頼耶識)(※超越論的主観性)が所蔵するものは「種子」(シュウジ)つまり「過去の行為行動の情報・残存気分」(※類型的知識)だけでなく、第八識は「有根身(ウコンジン)」(肉体)とそれを取り囲む「器界」(器世間)(自然など)も所蔵する!
T-4  第八識(第八阿頼耶識)(※超越論的主観性)が所蔵するものは「種子」(シュウジ)つまり「過去の行為行動の情報・残存気分」(※類型的知識)だけでない。(61頁)
T-4-2  第八識は「有根身(ウコンジン)」(肉体)とそれを取り囲む「器界」(器世間)(自然など)も所蔵する。(61頁)

《参考》仏教一般では「業(ゴウ)」(行為・行動)を「身(シン)業」(身体的動作をともなうもの)・「口(ク)業」(言語によるもの)・「意業」(心中のさまざまな思い)の三業に分類する。唯識仏教では、それを「意」の一業に集約して考える。(※唯識仏教の「意業」の概念は、フッサールの「超越論的主観性」に似る。)(5頁)
《参考》唯識仏教は認識の仕組みに関し、外界実在論を否定する。(47頁)

《感想1》唯識仏教にとって、さまざまな事物は、「無規定な有(存在あるいは存在者)」である。この「無規定な有」が「心」の意味構成的諸作用(唯識における心のはたらき=「心所」)によって「規定された有」となる。
《感想2》唯識仏教は、「心」は「物」の世界を含まない、つまり「物」そのものは「心」の外に存在し、「物」が「心」に反映・模写するという見解をとらない。
《感想2-2》》唯識仏教は、「心」(超越論的主観性)は「物」の世界を含む、つまり「物」そのものが「心」のうちに出現する(Ex. 触覚)とする。
《感想3》「心」(超越論的主観性)のうちに出現する「対象」(「境」)は、「物」の世界だけでない。「心」には、「感情」の世界、「意志」の世界、「欲望」の世界、(抽象的な)「意味」の世界(Ex. 物一般の数的関係を扱う「数学」の世界、物の形態的関係を扱う「幾何学」の世界、「言語(言語的意味)」の世界)等々も出現する。
《感想4》「心」には、(「身体」と触れ合い連続して広がる)「物」としての「外界」、「感情」、「意志」、(抽象的な)「意味」(Ex. 「数学」、「幾何学」、「言語」)等々、あらゆる「対象」(「境」)が出現する。このような「心」は超越論的主観性(フッサール)である。
《感想5》さらに「この心」(超越論的自我としての超越論的主観性)のうちに、「他なる心」(超越論的他我としての超越論的主観性)も出現する。そして「他なる心」の出現は、「他なる身体」の出現においてはじめて確認される。Cf.  アルフレート・シュッツ(Alfred Schütz)(1899-1959)の「Umwelt」!

《参考》(1)唯識仏教によれば、「心」が対象を認識する場合、その認識対象をそのまま受け止めるというより、「心」が認識対象をいろいろと加工したり・変形したりして、それを捉える。こうしたプロセスを唯識仏教では「能変」と言う。Cf. フッサールの「構成」(意味構成)に相当する。(47-48頁)
(2)認識の対象(「境」)は、「心」が「能変」(※意味構成)したものである。(48頁)
(3) 唯識仏教では「心」(※超越論的主観性)は「能変の心」(※構成する心)と言い、認識対象(「境」)は「所変の境」(※構成された対象的意味・意味的諸規定)と言う。(48頁)
(4)認識対象は、「八識」それぞれの段階で変形(※構成)されたところのもの(「識所変」)(※構成された意味対象)であり、それを「心」が改めて見ている。(48頁)
(5)かくて「唯識(唯、識のみなり)」という見解に帰着する。(48頁)
(6)「唯識」の立場に立てば、あらゆることがらが「心」の要素に還元され、私たちは「わが心のはたらきによって知られたかぎりの世界」に住んでいるということになる。(48-49頁)

《感想》私たちは「わが心のはたらきによって知られたかぎりの世界」に住んでいるが、だがそれは、多数の人々が「ばらばらの世界」に住んでいるということではない。「唯識」の立場は、「多数の人々に共通の世界」(間主観的な世界)があることを否定するものでない。Cf. 「この心」(超越論的自我としての超越論的主観性)のうちに、「他なる心」(超越論的他我としての超越論的主観性)も出現する。
①「物」の世界は間主観的(多数の人々にとって共通)である。「物」の世界は、共通=間主観的に観察され、共通=間主観的に規則性(Ex. 構造、法則)が導きだされる。(なお、その前提として「物」の世界自身に属する規則性がある。)「物」の世界は、間主観的(多数の人々にとって共通)に構成された対象的意味(「所変の境」)である。
②物一般の数的関係を扱う「数学」の世界、物の形態的関係を扱う「幾何学」の世界も、間主観的(多数の人々にとって共通)に構成された対象的意味(「所変の境」)である。
③「言語(言語的意味)」の世界は、そもそも「所変の境」(※構成された対象的意味)が間主観的(多数の人々にとって共通)であることを前提している。
④「感情」の世界、「意志」の世界、「欲望」の世界も、さまざまにコミュニケーション可能である。すなわちコミュニケーション可能ということは、間主観的(多数の人々にとって共通)な構成された対象的意味(「所変の境」)が可能ということだ。
④-2 さらにこれら「感情」「意志」「欲望」に関して、多くの人々に共通の(間主観的な)規則性or法則も対象的意味(「所変の境」)として構成される。それら「感情」「意志」「欲望」の間主観的な規則性or法則にもとづき、多くの人間の間で、マヌーバー的・政治的・マキャベリ的・恋の手練手管的・経済的・心理的等々の「操作」が可能となる。

(8)-4 第八識(第八阿頼耶識)(※超越論的主観性)は「種子」(シュウジ)つまり「過去の行為行動の情報・残存気分」(※類型的知識)を所蔵する!原因である「種子」(シュウジ)に対して、「現行」(ゲンギョウ)は結果になる:「種現(シュゲン)因果」!
U 第八意識に所蔵された「種子」(シュウジ)つまり「過去の行為行動の情報・残存気分」(※類型的知識)は、単なる過去の行動情報でなく、事後ないし将来にわたって条件(「縁」)が整えば、類似の行動(「現行」ゲンギョウ)を発出する潜勢力でもある。〈62頁)
U-2  これが唯識仏教の、阿頼耶識(アラヤシキ)をめぐる「縁起」の考え方だ。〈62頁)
U-2-2 新たに引き起こされた類似の行為行動は「現行」(ゲンギョウ)と呼ばれる。かくて原因の「種子」(シュウジ)に対して、「現行」(ゲンギョウ)は結果になる。これを唯識では「種現(シュゲン)因果」という。〈62頁)
U-3  しかし同時に、「当面ではあるが自己そのものといってよい第六意識」こそ、日常生活者としては重要だ。
つまり「深層の阿頼耶識に所蔵される過去の行動情報」である「種子」(シュウジ)がそのまま再現されるのではない。「自覚的な心の第六識」の覚悟こそ明日の自己を改造する。第六識こそ、自己を育み・成長させるものであると思い定めたい。(多川俊映氏)(63頁)

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『唯識(上)』多川俊映、第2回(その3):「心」が、心の主体(「心王」)(※超越論的主観性)と心のはたらき(「心所」)によって、「対象」のいかなるものであるかを認知する!

2022-12-23 09:59:33 | Weblog
『唯識(上)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年

第2回 さまざまな「心」の捉え方(続々):唯識仏教における「心」!
(6)「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」!「第八阿頼耶識」=「蔵識」=「一切種子(シュウジ)識」!無意識の領域にうごめく「自己愛あるいは自己中心性」である「第七末那識(マナシキ)」!
K まず「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」については、唯識仏教では、前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)、第六意識の「六識」に、さらに第七末那識(マナシキ)、第八阿頼耶識(アラヤシキ)が想定された。(49頁)
《参考》唯識の「空」:龍樹(中観派)の「一切は空である」という主張に対して、「一切は空である」と認識する「心」のみは存在しなくてはならないと唯識は考える。(「広隆寺ホームページ」)
K-2  「第八阿頼耶識」は私たちの認識活動のみならず生存にも深くかかわり、心の大本(オオモト)である。「阿頼耶」はサンスクリット語のアーラヤで「蔵」を意味する。(49頁)《感想》「阿頼耶識」は、A・シュッツ「知識在庫」Stock of knowledgeに相当する。
K-2-2  「阿頼耶識」は、「過去の行為行動の情報・残存気分」である「種子」(シュウジ)を所蔵する「心の深層領域」である。《感想》「種子」(シュウジ)とは「過去の行為行動の情報・残存気分」に関する「類型的知識」である。(49頁)
K-2-2-2 かくて「阿頼耶識」は「一切種子識」(※知識の総体としての「知識在庫」)である。
(49頁)
K-2-2-3 「阿頼耶識」は一切の「種子」(シュウジ)を所蔵する「蔵識」と意訳さることがある。 
K-2-3 「種子」(シュウジ)つまり「過去の行動情報」(※類型的知識)は深層領域にファイルされるだけでなく、事後そして将来にわたって、条件が整えば類似の行動を発出する潜勢力である。(50頁)
K-2-3-2 言い換えれば、「阿頼耶」と呼ばれるこの深層心は、明日の自分をつくるものでもある。(50頁)

K-3  「第七識」の「末那識(マナシキ)」は、無意識の領域にうごめく「自己愛あるいは自己中心性」(Cf. フロイトの快感原則)のことで、自覚的な「第六意識」に絶えず影響力を行使する。(50頁)

(7)心のはたらき(「心所」)(※心の意味構成的諸作用):六位五十一心所!
L  「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」、すなわち「八識心王」に相応してはたらく「心所」(心のはたらき)(※心の意味構成的諸作用)は五十一ある。(50頁)
L-2  八識(※8つの「超越論的主観性の諸領野」)のうち「第六意識」(自覚的ないわゆる「心」、ふつういうところの「心」、当面の自己そのもの、表面における心)はこれら「五十一心所」のどの心所とも相応してはたらく。(50頁・55頁)
L-2-2  かくて「五十一心所」リストは私たちの日常行動を一覧するものでもある。(50頁)
L-2-3 「前五識」・「第七末那識(マナシキ)」・「第八阿頼耶識(アラヤシキ)」と相応する心所は限られている。それについては、ここでは割愛する。(50頁)

《参考1》「唯識」は、すべてを心の要素に還元し心の問題として捉えるが、心のはたらきは「心所」(シンジョ)と呼ばれ51の心所がある。(15頁)
《参考1-2》51の心所はその性質から6グループに分類される:「六位(ロクイ)五十一心所」。①「遍行」(ヘンギョウ)(どのような認識にもはたらく基本的なもの)、②「別境」(ベッキョウ)(特別な対象だけにはたらくもの)、③「善」(仏の世界に順ずるもの)、④「煩悩」(仏の世界に違反するもの)、⑤「随煩悩」(煩悩から派生した仏の世界に違反するもの)、⑥「不定」(フジョウ)(その他)。(17-18頁)
《参考1-3》五十一の心所リストは、日常の行為・行動のリストでもある。(18頁)
《参考1-4》なお仏教は「善と悪」という枠組みは使わず、「善と煩悩」、「善と不善」と捉える。(18頁)

《参考2》世親『唯識三十頌(ジュ)』は、「六識」(五感覚の「前五識」と自覚的な「第六意識」)を表面領域とし、その意識下にうごめく自己愛・自己中心性を「第七末那識」(マナシキ)と名づける。そして「前五識」・「第六意識」・「第七末那識」の七識の発出元として、最深層の「第八阿頼耶識」(アラヤシキ)を配置し、私たちの心を重層的に捉える。つまり世親は「阿頼耶識(アラヤシキ)縁起」(頼耶縁起)(ラヤエンギ)を提唱した。私たちは、私たち一人ひとりの「心のはたらき」(「心所」)によって知られたかぎりの世界に住む!(21-22頁)

M  五十一心所①「遍行」(ヘンギョウ):どのような認識にもはたらく基本的な心所(心のはたらき)(5心所)!(50-51頁)
(1)触(ソク):「心を認識対象に接触させる」という心所(心のはたらき)。
(2)作意(サイ):「心を起動させる」という心所(心のはたらき)。
(3)受(ジュ):「認識の対象を苦とか楽、憂とか喜、あるいはそのどちらでもないと受け止める」という心所(心のはたらき)。
《感想》「認識」を価値中立的な認識に限定しない。むしろ本来的に「認識」は価値判断的である(苦とか楽、憂とか喜、あるいはそのどちらでもないと受け止める)と、唯識仏教は考える。
(4)想(ソウ):「受け止めたものを自己の枠組みにあてはめる」という心所(心のはたらき)。
《感想》「認識」するとは「受け止めたもの」を「自己の枠組み」(Ex. 類型的知識)にあてはめること、つまり「類型化」すること、あるいはより一般的には「言語化」することだ。
(5)思(シ):「認識対象に具体的に働きかける」という心所(心のはたらき)。
《感想》唯識仏教においては、「認識」は単なる観想(認識対象との非価値的・非行動的関係)でない。「認識」とは「認識する主体・主観(心)」と「認識対象」との関係づけ(「具体的に働きかける」こと)であり、その関係は、観想的(非価値的・非行動的)関係、価値的関係、行動的関係のすべてを含む。

N  五十一心所②「別境」(ベッキョウ):特別な対象だけにはたらく心所(心のはたらき)(5心所)!(51頁)
(6)欲(ヨク):(認識対象を)「希求する」という心所(心のはたらき)。
《感想》唯識仏教においては、「認識」は単なる観想でない。認識対象を「希求する」心所(心のはたらき)(「欲」)も「認識」に含まれる。
(7)勝解(ショウゲ):(認識対象を)「深く了解する」という心所(心のはたらき)。
(8)念(ネン):(認識対象を)「記憶する」という心所(心のはたらき)。
(9)定(ジョウ):(認識対象に)「集中する」という心所(心のはたらき)。
(10)慧(エ):(認識対象を)「択び分け、正邪を判断する」という心所(心のはたらき)。
《感想》唯識仏教においては、「認識」は単なる観想(認識対象との非価値的・非行動的関係)でない。認識対象を「択び分け、正邪を判断する」心所(心のはたらき)(「慧」)も「認識」に含まれる。

O 五十一心所③「善」(ゼン):仏の世界に順ずる心所(心のはたらき)(11心所)!(51-52頁)
(11)信(シン):「自己を真理に委ねる」という心所(心のはたらき)。
《感想》ここでの認識対象は「自己と(人間的and自然的)世界・宇宙との関係において何を至高の価値とするか」という問いに対する答えである。答えは「自己を真理に委ねる」ことだ。
(12)慚(ザン):「自らを顧み、また教えに照らして恥じる」という心所(心のはたらき)。
《感想》「自己を真理に委ねる」という至高の価値を希求して生きる時、慚(ザン)つまり「自らを顧み、また教えに照らして恥じる」という心所(心のはたらき)は「善」である。
《感想》そもそも「自己を真理に委ねる」という至高の価値を希求して生きるとは、「仏の世界」を希求しつつ生きることである。かくて「仏の世界に順ずる心所」である「善」の心所(心のはたらき)が、唯識仏教において目標となった。
(13)愧(キ):「他に対して恥じる」という心所(心のはたらき)。
(14)無貪(ムトン):「むさぼらない」という心所(心のはたらき)。
《感想》キリスト教の「七つの大罪」(①嫉妬、②傲慢、③怠惰、④憤怒、⑤強欲、⑥色欲、⑦暴食)と比較すると、「(13)愧(キ):他に対して恥じる」という心所(心のはたらき)は、「七つの大罪」のうち「②傲慢」に陥いらないことだ。また「(14)無貪(ムトン):むさぼらない」という心所(心のはたらき)は、「七つの大罪」のうち「⑤強欲、⑥色欲、⑦暴食」に歯止めをかけることに相当する。       
(15) 無瞋(ムシン):「排除しない」(※憎しみのないこと)という心所(心のはたらき)。
《感想》「(15) 無瞋(ムシン)」は、「七つの大罪」のうち「④憤怒」に陥いらないことに相当する。
(16) 無癡(ムチ)(無痴):「真理・道理に即する」(※妄想をもたないこと)という心所(心のはたらき)。
《参考》「無貪(ムトン)・無瞋(ムシン)・無癡(ムチ)」の三つを「三善根」という。これに対し「貪瞋癡(痴)」(トンジンチ)(むさぼり執着すること・憎しみをもち排除すること・妄想をもち真理・道理に暗いこと)を「三毒」(三根・三不善根)と言う。
(17)勤(ゴン):「精進。たゆまず努める」という心所(心のはたらき)。
(18)安(アン):「軽安(キョウアン)。身心がのびやかで、はればれとしている」という心所(心のはたらき)。
《感想》「仏」は身も心もおだやかなのだ。素晴らしいことだ。
《感想(続)》「障害」(平均的な身体・心の機能・構造から離れていること)のある身・心(メンタルな機能・構造)であっても、「のびやかで、はればれとしている」ことは可能だ。だから「安」(アン)は「健康」(多数派的な身体・心の機能・構造で、「障害」の反対概念)とは異なる。
(19)不放逸(フホウイツ):「欲望をつつしむ」という心所(心のはたらき)。
《感想》無貪(ムトン)(むさぼらない)に似るが、「貪」は行き過ぎた欲望だ。不放逸は、欲望そのものをコントロールし節制することだ。Cf.「腹八分」は欲望のコントロールすなわち「不放逸」だ。これに対し「七つの大罪」の一つでもある「⑦暴食」は「貪」である。
(20)行捨(ギョウシャ):「平等にして、かたよらない」という心所(心のはたらき)。(※楽でも苦でもない不苦不楽の感覚状態 。心の平静。かたよりのないこと 。心が平等で苦楽に傾かないこと 。)
《感想》「行捨(ギョウシャ)」はエピクロス学派(通俗化され快楽主義と呼ばれる)が幸福の必須条件として主張した「アタラクシア」(静安)に似る。「アタラクシア」は他のものに乱されない,平静な心の状態。エピクロス学派では、幸福は「快楽」にあるが,「外的なものにとらわれず欲望にとらわれない内的な平静」が最大の快楽であるとする。Cf. キケロがエピクロスの説を通俗化し、享楽を正当化する唯物論的な「快楽主義」と同一視させた。詩人のホラティウスはふざけて自分を「エピクロスの獣群のなかの豚」と呼んでいた。
(21)不害(フガイ):「いのちをあわれみ、他を悩ませない」という心所(心のはたらき)。(※非暴力。他を害しないこと。他者への思いやりの心すなわち慈悲心。)

P 五十一心所④「煩悩」(ボンノウ):仏の世界に違反する心所(心のはたらき)(6心所)!(52-53頁)
(22) 貪(トン):「むさぼる」という心所(心のはたらき)。
(23) 瞋(シン):「排除する」(※憎しみをもつ)という心所(心のはたらき)。
(24) 癡(チ)(痴):「真理・道理に暗い」(※妄想をもつ)という心所(心のはたらき)。
《感想》これら(22) 貪(トン)・(23) 瞋(シン)・(24) 癡(チ)は、五十一心所③「善」(ゼン)のうちの(14)無貪(ムトン)(むさぼらない)・(15) 無瞋(ムシン)(排除しない、※憎しみのないこと)・(16)無癡(無痴)(ムチ)(真理・道理に即する、※妄想をもたない)と反対の心所だ。
《参考》「無貪(ムトン)・無瞋(ムシン)・無癡(ムチ)」の三つを「三善根」という。これに対し「貪瞋癡(痴)」(トンシンチ)(むさぼり執着すること・憎しみをもち排除すること・妄想をもち真理・道理に暗いこと)を「三毒」(三根・三不善根)と言う。

(25)慢(マン):「自己を恃み、他をあなどる」という心所(心のはたらき)。Cf. 五十一心所③「善」(ゼン)のうちの(13)愧(キ)(他に対して恥じる)と反対の心所だ。
(26)疑(ギ):「真理・道理をわきま得ず、疑う」という心所(心のはたらき)。
(27)悪見(アッケン):「誤った見解に立つ」という心所(心のはたらき)。
《感想》これら(26)疑(ギ)・(27)悪見(アッケン)は、五十一心所③「善」(ゼン)のうちの(11)信(シン)(自己を真理に委ねる)・(12)慚(ザン)(自らを顧み、また教えに照らして恥じる)と反対の心所だ。

Q 五十一心所⑤「随煩悩」(ズイボンノウ):煩悩から派生した仏の世界に違反する心所(心のはたらき)(20心所)!(53-54頁)
(28)忿(フン):「腹を立て、危害をくわえようとする」という心所(心のはたらき)。Cf. 諺に「短気は損気」、「ならぬ堪忍するが堪忍」とある。
(29)恨(コン):「うらむ」という心所(心のはたらき)。Cf. 諺に「人を呪わば穴二つ」とある。
(30)覆(フク):「隠し立てする」という心所(心のはたらき)。
(31)悩(ノウ):「他を悩ませる」という心所(心のはたらき)。
(32)嫉(シツ):「ねたむ」という心所(心のはたらき)。《感想》キリスト教の「七つの大罪」のひとつは「①嫉妬」だ。
(33) 慳(ケン):「ものおしみする」(※ケチで欲深い)という心所(心のはたらき)。
(34) 誑(オウ):「たぶらかす」という心所(心のはたらき)。
(35) 諂(テン):「へつらう」という心所(心のはたらき)。
(36)害(ガイ):「いのちへの思いやりがなく、他をなやませる」という心所(心のはたらき)。Cf. 五十一心所③「善」(ゼン)のうちの(21) 不害(いのちをあわれみ、他を悩ませない)(※非暴力、他を害しないこと、他者への思いやりの心すなわち慈悲心)と反対の心所だ。
(37) 憍(キョウ):「うぬぼれる」という心所(心のはたらき)。
(38)無 慚(ムザン):「自らを顧みず、また教えに照らして恥じない」という心所(心のはたらき)。Cf. 五十一心所③「善」(ゼン)のうちの (12)慚(ザン)(自らを顧み、また教えに照らして恥じる)と反対の心所だ。
(39) 無愧(ムキ):「他に対して恥じない」という心所(心のはたらき)。Cf. 五十一心所③「善」(ゼン)のうちの (13)愧(キ)(他に対して恥じる)と反対の心所だ。
(40) 掉挙(ジョウコ):「気持ちが騒がしく浮き立つ」(※心が昂ぶり頭に血が上った状態)という心所(心のはたらき)。
(41) 昏沈(コンジン):「気持ちが深く沈む」という心所(心のはたらき)。(※昏沈(コンジン)は「掉挙(ジョウコ)」の対義語。)
《感想》五十一心所⑤「随煩悩」(ズイボンノウ)(20心所)のうち、この(40) 掉挙(ジョウコ)と(41) 昏沈(コンジン)は、平静な心を失っているため煩悩とされる。Cf. これに対して五十一心所③「善」(ゼン)のうちの(20)「行捨(ギョウシャ)」は「平等にして、かたよらない」という心所(心のはたらき)だ。「行捨」は楽でも苦でもない不苦不楽の感覚状態 、心の平静、かたよりのないこと 、心が平等で苦楽に傾かないことだ。
(42)不信(フシン):「真理を顧みない」という心所(心のはたらき)。Cf. 五十一心所③「善」(ゼン)のうちの(11)信(シン)(自己を真理に委ねる)と反対の心所だ。
(43)懈怠(ケタイ):「なまける」という心所(心のはたらき)。Cf. 五十一心所③「善」(ゼン)のうちの(17)勤(ゴン)(精進、たゆまず努める)と反対の心所だ。《感想》キリスト教の「七つの大罪」のひとつは「③怠惰」である。
(44) 放逸(ホウイツ):「欲望のままにふるまう」という心所(心のはたらき)。Cf. 五十一心所③「善」(ゼン)のうちの(19)不放逸(フホウイツ)(欲望をつつしむ)と反対の心所だ。
(45)失念(シツネン):「記憶を失う」という心所(心のはたらき)。Cf. 五十一心所②「別境」(ベッキョウ)(特別な対象だけにはたらく5心所)のうちの(8)念(ネン)(記憶する)と反対の心所だ。
(46)散乱(サンラン):「集中を欠いて乱れる」という心所(心のはたらき)。Cf. 五十一心所②「別境」(ベッキョウ)(特別な対象だけにはたらく5心所)のうちの(9)定(ジョウ)(集中する)と反対の心所だ。
(47)不正知(フショウチ):「誤って理解する」という心所(心のはたらき)。

《感想》五十一心所④「煩悩」(ボンノウ)(6心所)および⑤「随煩悩」(ズイボンノウ)(20心所)は、仏への不信心と共に、日常的な悪い心がけ・態度・行為・感情・意図等の一覧と言える。

R 五十一心所⑥「不定」(フジョウ):その他の心所(心のはたらき)(4心所)!(※善にも悪・不善にも働く!)(※ともに起こる心所により善あるいは悪・不善となり、それ自体では一方的に性格づけられない!)
(48)悔(ケ):「くやむ」という心所(心のはたらき)。
(49)眠(ミン):「ねむたくなり、身心の自在を失う」という心所(心のはたらき)。
(50)尋(ジン):「認識の対象をおおざっぱに思いはかる」という心所(心のはたらき)。
(51)伺(シ):「認識の対象を詳細に思いはかる」という心所(心のはたらき)。

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『唯識(上)』多川俊映、第2回(その2):唯識仏教では「心」は「能変の心」(※構成する心)と言い、認識対象(「境」)は「所変の境」(※構成された対象的意味)と言う!

2022-12-21 10:37:30 | Weblog
『唯識(上)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年

第2回 さまざまな「心」の捉え方(続)
(5)唯識仏教の「心」:認識対象を「心」がいろいろと加工したり・変形したり(「能変」)して捉える!J 唯識仏教は認識の仕組みに関し、外界実在論を否定する。(47頁)
J-2  「むろん外界のさまざまな事物は、あるにはあります。」(多川俊映)(47頁)
《感想1》「あるにはある」外界のさまざまな事物は、「無規定な有(存在あるいは存在者)」である。この「無規定な有」が「心」の意味構成的諸作用(唯識における心のはたらき=「心所」)によって「規定された有」となる。
《感想2》「外界」は「物」に関して言えば、「身体」も含む。つまり「外界」とは「身体」と触れ合い連続して広がる「物」の世界だ。「心」は「物」の世界と異なるが、①「心」(主観性=主観)は「物」の世界(客観=対象)を含まない、つまり「物」そのものは「心」の外に存在する、つまり「物」が「心」に反映・模写するという見解と、他方で②「心」(超越論的主観性)は「物」の世界を含む、つまり「物」そのものが「心」のうちに出現する(Ex. 触覚)という見解がある。(《感想2-3》参照)
《感想2-2》「外界」は一般には、(認識)対象(「境」)すべてだ。この場合、「外界」は、「物」の世界より、ずっと広い。(《感想3》参照)
《感想2-3》「外界」(対象)はどこにあるのか?「外界」(対象)は意識されている、つまり「心」のうちに出現している。この場合、①「外界」(対象)は「心」の外にあるのか(対象の出現はいわば反映・模写である)のか?あるいは②「外界」(対象)は「心」のうちにある、つまり「外界」(対象)《そのもの》が「心」のうちに出現しているのか?
《感想3》「心」のうちに出現する「対象」は、「物」の世界だけでない。「心」には、「感情」の世界、「意志」の世界、「欲望」の世界、(抽象的な)「意味」の世界(Ex. 物一般の数的関係を扱う「数学」の世界、物の形態的関係を扱う「幾何学」の世界、「言語(言語的意味)」の世界)等々も出現する。
《感想4》「心」には、(「身体」と触れ合い連続して広がる)「物」としての「外界」、「感情」、「意志」、(抽象的な)「意味」(Ex. 「数学」、「幾何学」、「言語」)等々が出現する。このような「心」は超越論的主観性(フッサール)である。
《感想5》ところが「この心」(超越論的自我)のうちに、「他なる心」(超越論的他我)も出現する。そして「他なる心」の出現は、「他なる身体」の出現においてはじめて確認される。Cf.  アルフレート・シュッツ(Alfred Schütz)(1899-1959)の「Umwelt」!

J-3  唯識仏教によれば、「外界」にあるなにか(対象)を認識する場合、その認識対象をそのまま受け止めるというより、「心」が認識対象をいろいろと加工したり・変形したりして、それを捉える。こうしたプロセスを唯識仏教では「能変」と言う。Cf. フッサールの「構成」(意味構成)に相当する。(47-48頁)
J-3-2  認識の対象(「境」)は、「心」が「能変」(※意味構成)したものである。(48頁)
J-3-3  唯識仏教では「心」は「能変の心」(※構成する心)と言い、認識対象(「境」)は「所変の境」(※構成された対象的意味)と言う。(48頁)
J-3-4  認識対象は、「八識」それぞれの段階で変形(※構成)されたところのもの(「識所変」)(※構成された意味対象)であり、それを「心」が改めて見ている。(48頁)
J-3-5  かくて「唯識(唯、識のみなり)」という見解に帰着する。(48頁)
J-3-6  「唯識」の立場に立てば、あらゆることがらが「心」の要素に還元され、私たちは「わが心のはたらきによって知られたかぎりの世界」に住んでいるということになる。(48-49頁)
《参考》「唯識」とは「唯(タダ)、識(シキ)のみなり」ということである。唯識では「心(シン)・意・識」の三者を厳密に区別するが、当面は「唯識」の「識」は、ふつう言うところの「心」と思っていてよい。「唯識」は、あらゆることがらをすべて「心」の要素に還元し、心の問題として考える仏教である。(13-14頁)

《感想》私たちは「わが心のはたらきによって知られたかぎりの世界」に住んでいるが、だがそれは、多数の人々が「ばらばらの世界」に住んでいるということではない。「唯識」の立場は、「多数の人々に共通の世界」(間主観的な世界)があることを否定するものでない。
①「物」の世界は「所変の境」(※構成された対象的意味、つまり「物」の意味的諸規定)が間主観的(多数の人々にとって共通)である。「物」の世界は間主観的であり、共通=間主観的に観察され、共通=間主観的に規則性(Ex. 構造、法則)が導きだされる。(なお、その前提として「物」の世界自身に属する規則性がある。)
②物一般の数的関係を扱う「数学」の世界、物の形態的関係を扱う「幾何学」の世界も、間主観的(多数の人々にとって共通)な構成された対象的意味(「所変の境」)である。
③「言語(言語的意味)」の世界は、そもそも「所変の境」(※構成された対象的意味)が間主観的(多数の人々にとって共通)であることを前提している。
④「感情」の世界、「意志」の世界、「欲望」の世界も、さまざまにコミュニケーション可能である。すなわちコミュニケーション可能ということは、間主観的(多数の人々にとって共通)な構成された対象的意味(「所変の境」)が可能ということだ。
⑤さらに「感情」「意志」「欲望」に関して、多くの人々に共通の(間主観的な)規則性or法則も抽出可能であり、それにもとづき多くの人間のマヌーバー的・政治的・マキャベリ的・恋の手練手管的等々の「操作」が可能である。

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『唯識(上)』多川俊映、第2回(その1)倶舎仏教の「心」:心の主体(「心王」)と心のはたらき(「心所」)によって、つまり「心心所」(シンシンジョ)によって、「心」は「対象」をいかなるものか認知する!

2022-12-19 19:56:46 | Weblog
『唯識(上)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年

第2回 さまざまな「心」の捉え方
(4)「唯識」における「心」の「八識説」: 前五識、第六意識、第七末那(マナ)識、第八阿頼耶(アラヤ)識!前五識と第六意識は「初期仏教」以来のものである!
H  仏教はすでに初期の段階から十分に唯心的で、「心」に対する関心が旺盛だった。そうしたことを「唯識(唯、識のみなり)」と先鋭化したのが、西暦5世紀頃に体系化された唯識仏教だ。(36頁)
H-2  唯識が想定する「心」の概略は前五識、第六意識、第七末那(マナ)識、第八阿頼耶(アラヤ)識の「八識説」である。(36-37頁)
H-2- 2 「前五識」は眼(ゲン)識・耳(ニ)識・鼻識・舌識・身識である。(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚に相当する。)(37頁)
H-2-3  第6番目に「意識」が取り上げられるので、「第六意識」と言う。(37頁)
H-2-4  「唯識仏教」は「心」について「八識説」をとる。前五識と第六意識は「初期仏教」以来のもので、「唯識」仏教は、それらに第七末那(マナ)識と第八阿頼耶(アラヤ)識という深層の二識を追加した。(37頁)

(4)-2 初期仏教における身業・口業・意業!
H-3 行為(「業」ゴウ)について初期仏教は、身業(身体的行動)・口(ク)業(ことば)・意業(心中の思い)と「身・口(語)・意の三業」を並列に並べる。(42頁)
H-3-2  唯識は、すべてを「心」(※超越論的主観性に相当する)の要素に還元し、「身・口(語)・意の三業」についていえば、「身・口」の二業も、「意」の一業に集約して考える。(42頁)

(4)-3 倶舎(クシャ)仏教の「心」:心の主体(「心王」)と心のはたらき(「心所」)によって、つまり「心心所」(シンシンジョ)によって、「対象」のいかなるものであるかを認知する! 
I 部派仏教のグループの一つに「説一切有部」(セツイッサイウブ)があった。その「有部」の主要な論書の一つが(唯識を体系化する以前の)世親(ヴァスバンドゥ)が著わした『倶舎(クシャ)論』である。(43頁)
I-2 倶舎仏教の「心」は、初期仏教以来の「六つの心識」(前五識と第六意識)によって考えられている。(43頁)
I-3 また一般に「心身」というように、倶舎仏教も物質的な要素(身)と精神的な要素(心)を区別する。(43-44頁)
I-4 倶舎仏教は「心」が、心の主体(「心王」)(※主観性の諸領野)と心のはたらき(「心所」)によって、つまり「心心所」(シンシンジョ)によって、「対象」のいかなるものであるかを認知すると考える。(43-44頁)
I-4-2  倶舎仏教は「心王」(※主観性の諸領野)を「六識」(※6領野の主観性)とする。(45頁)
I-4-2-2 「六識」は根(感覚器官)と境(認識対象)の違いによって、眼(ゲン)識(眼ゲン根・色シキ境)、耳(ニ)識(耳ニ根・声ショウ境)、鼻識(鼻根・香境)、舌識(舌根・味境)、身(シン)識(身根・触境ソクキョウ)(※唯識の前五識に相当する)、さらに意識(意根・法ホッ境)(※唯識の第六意識に相当する)からなる。(45頁)
I-4-2-3 「意識」の感覚器官(「意根」)といっても、実は「意識」(心)には感覚器官がない。かくて倶舎仏教は、現在の認識の直前に滅した眼識ないし意識を「意根」とみなした。(現代風には「意根」とは脳神経かもしれない。)(46頁)
I-4-2-4 「意識」の認識対象は「法(ホッ)境」であるが、「法」とはものごと・ことがらの意味である。「意識」の認識対象は、「五識」のように感覚器官(感官)によって限定されるものでない。あらゆること(一切法)を広く認識しうるし、かつ現在のみならず、過去にさかのぼり、未来を展望する。(46頁)
I-4-3 倶舎仏教の見解では「心所」(心のはたらき)は46あり、「善」や「煩悩」などの性質によって6グループに仕分けされる、すなわち「六位四十六心所」とされる。なお唯識仏教はこれを整理・改訂し「六位五十一心所」とした。(詳しくは後述。)(46頁)

(4)-3-2  倶舎(クシャ)仏教の「心」(六識)の「対象」(「境」キョウ)は外界に実在するものだ!
I-5  倶舎論(倶舎仏教)の「心」(六識)の「対象」(「境」キョウ)は、いずれも外界に実在するものである。(46頁)
I-5-2  倶舎論においては、認識の成立は、まず外界に実在するものがあり、それを私たちの「六識」という「心」が認めるという順序だ。(47頁)

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『唯識(上)』多川俊映、第1回:(2)-2 「わが心のはたらきによって知られたかぎりの世界(現実)」!「唯識」は「すべてのことがらを心の要素に還元して考える!

2022-12-18 17:12:06 | Weblog
『唯識(上)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年

第1回 唯識仏教とその祖師たち
(2)「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される」!
B  仏教は心の宗教だ。「すべては心に基づく」とする。『ダンマパダ』(法句経)は「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される」と述べる。(8-9頁)
B-2  仏教の目標は「汚れた心から清らかな心へ」、つまり「散心(サンジン)から定心(ジョウシン)へ」移行させることだ。(9頁)
B-3  仏教は人を大きく成長させる力(根)をもつ「五つの心のはたらき」すなわち「五根五力」(ゴコンゴリキ)に注目する。「五根五力」とは、「信」(真理真実に身も心も委ねる)・「精進」(たえず努力する)・「念」(記憶)・「定」(ジョウ)(記憶したことがらへの集中)・「慧」(エ)(ものごとの本質を洞察する)である。「信」・「精進」・「念」・「定」(ジョウ)の心のはたらきがダイナミックな流れになった時、「慧」(エ)という心作用が大きく発動してくる。(13頁)

(2)-2 私たちは「わが心のはたらきによって知られたかぎりの世界(現実)」を相手にしている!「唯識」は「すべてのことがらを心の要素に還元して考える!
C  「唯識」と呼ばれる大乗仏教は4、5世紀頃にしだいに体系化されるようになった。(13頁)
C-2  「唯識」とは「唯(タダ)、識(シキ)のみなり」ということだ。唯識では「心(シン)・意・識」の三者を厳密に区別するが、当面は「唯識」の「識」は、ふつう言うところの「心」と思っていてよい。(13-14頁)
C-3  「唯識」は、あらゆることがらをすべて心の要素に還元し、心の問題として考える仏教である。(14頁)
C-3-2  そうはいっても、肉体、それをとりまく自然、宇宙があるが、それらも自身の心と無関係でなく、それどころか心の深層領域(「阿頼耶識(アラヤシキ)」)が管轄していると考える。(14頁)
《感想1》フッサールの現象学の「超越論的主観性」における「ノエシス—ノエマ」構造を思い起こさせる。
《感想2》フッサールによれば、意識の本質は「指向性」、つまり「――の意識」であることだ。その「指向」は、「思考作用であるノエシス」と「思考されたもの(対象的意味)であるノエマ」からなる。そして例えば「樹木の意識」における「樹木」は、燃やせばなくなる実在物としての対象でなく、「意味」的対象=ノエマとしての「樹木」である。

C-3-3  また各人が「現実」と認知していることがらも、視覚・聴覚など「感覚」能力という個体的条件が人それぞれなので、各人によって異なる。さらにものごとの「理解力」・「問題意識の有無や濃淡」、あるいはそのことについての「経験や知識」の積み重ねの程度によっても、目の前に展開することがら(「現実」)の見え方・認知が異なる。(14頁)
C-4  かくて私たちは「わが心のはたらきによって知られたかぎりの世界(現実)」を相手にしている。「唯識」はこうしたことを、「心の構造、そのはたらき」、あるいは「認識の仕組み」などを通して、「すべてのことがらを心の要素に還元して考える」。(14頁)
C-4-2  仏教では「業(ゴウ)」(行為・行動)を「身・口(ク)(語)・意の三業」といって、身(シン)業・口(ク)業(語業)・「意業」(心中のさまざまな思い)の三業に分類する。(14頁)
C-4-3 唯識仏教では、それを「意」の一業に集約して考える。例えば憎らしく思う気持ち(「意業」)がまず芽生え、それが暴言という「口業」になり、あるいは殴打の「身業」となる。(15頁)

D  唯識は、すべてを心の要素に還元し心の問題として捉えるが、唯識では心のはたらきを「心所」(シンジョ)といい51の心所がある。(15頁)(詳しくは後述!)
D-2  51の心所はその性質から6グループに分類される:「六位(ロクイ)五十一心所」。①「遍行」(ヘンギョウ)(どのような認識にもはたらく基本的なもの)、②「別境」(ベッキョウ)(特別な対象だけにはたらくもの)、③「善」(仏の世界に順ずるもの)、④「煩悩」(仏の世界に違反するもの)、⑤「随煩悩」(煩悩から派生した仏の世界に違反するもの)、⑥「不定」(フジョウ)(その他)。(17-18頁、下巻4-6頁)
D-2-2  五十一の心所リストは、日常の行為・行動のリストでもある。(18頁)
D-2-3 なお仏教は「善と悪」という枠組みは使わず、「善と煩悩」、「善と不善」と捉える。(18頁)

(3)唯識仏教の祖師たち(インド):アサンガ(無著)の唯識説!世親「阿頼耶識(アラヤシキ)縁起」!
E  唯識仏教は西暦4、5世紀の頃にインドで大成され体系化された。①アサンガ(無著or無着ムジャク、395-470頃)。唯識の教えは釈尊に始まり、弥勒菩薩を経て、無著にいたるとされる。(「三聖相伝」)。(19-20頁)
E-2  唯識説は無著から②世親(ヴァスバンドゥ、400-480頃、無著の実弟)に受け継がれる。(21頁)
E-2 -2 世親『唯識二十論』:唯識説への批判に対して、唯識ということが成立する事由を明らかにして論破した論書。(21頁)
E-2 -3 世親『唯識三十頌(ジュ)』:旧来の古い「六識」(五感覚の「前五識」と自覚的な「第六意識」)でなく、それらを表面領域とし、その意識下にうごめく自己愛・自己中心性を「第七末那識」(マナシキ)と名づける。そして「前五識」・「第六意識」・「第七末那識」の七識の発出元として、最深層の「第八阿頼耶識」(アラヤシキ)を配置し、私たちの心を重層的に捉える。つまり世親は「阿頼耶識(アラヤシキ)縁起」(頼耶縁起)(ラヤエンギ)を提唱した。私たちは、私たち一人ひとりの心のはたらきによって知られたかぎりの世界に住む!(21-22頁)
E-3  「(唯識)十大論師」:世親『唯識三十頌(ジュ)』は三十の偈頌(ゲジュ)なのでインドの著名な論師たちが注釈書をあらわした。特に優れた十人が「(唯識)十大論師」と言われる。ダルマパーラ(護法)(530-561)、シーラバドラ(戒賢)(529-645)など。(22頁)

(3)-2 唯識仏教の祖師たち(唐):玄奘三蔵、法相宗祖・慈恩大師基(キ)!『成(ジョウ)唯識論』が唐や日本の法相宗の根本聖典!
F  玄奘三蔵(602-664)のインド遊学(629-645)による唯識学習と、多くの原典請来およびその訳出で、唐における唯識をめぐる状況は一新された。玄奘らの新出の唯識教義は、後継の慈恩大師基(キ)によって法相宗(ホッソウシュウ)として確立する。(22-24頁)
F-2  法相宗祖・慈恩大師基(キ)(632-682)は『成(ジョウ)唯識論』(659)を玄奘と共訳した。『成(ジョウ)唯識論』は、世親『唯識三十頌(ジュ)』の注釈書で、護法論師の説を「正義(ショウギ)(正統な説)」とする。(24-25頁)
F-2-2 『成(ジョウ)唯識論』が唐や日本の法相宗の根本聖典になっている。(25頁)
F-2-3 法相二祖・淄州大師(シシュウダイシ)慧沼(エショウ)、また法相三祖・濮陽大師(ボクヨウダイシ)智周(チシュウ)。(25-26頁)

(3)-3 唯識仏教の祖師たち(日本):「元興寺伝」と「興福寺伝」!
G  唯識(法相宗)の日本伝来は、前後4回と言われる。初伝は玄奘に学んだ道昭(ドウショウ)が7世紀に元興寺(ガンゴウジ)(飛鳥の本元興寺)に伝えた。その後、第2伝が元興寺へ。(以上「元興寺伝」。)第3伝は新羅の僧により興福寺へ。第4伝は入唐した玄昉が735年に帰朝し興福寺に伝えた。(以上「興福寺伝」。)(26-27頁)
G-2  興福寺が「法相専寺」(法相を専ら学習する寺)であったので、やがて「興福寺伝」が元興寺伝を凌駕し吸収する。(27-28頁)
G-3  鎌倉時代の解脱上人貞慶(ジョウケイ)(1155-1213)の唯識教学は、ともすれば注釈学(Ex. 法相宗の根本聖典『成(ジョウ)唯識論』の注釈)に泥(ナズ)む教学を一掃し、「法相宗中興」と仰がれている。(30頁)

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『唯識(上)』多川俊映、「はじめに」:「業(ゴウ)」(行為)は「身(シン)業」(身体的動作)・「口(ク)業」(言語)・「意業」(心中の思い)からなるが、唯識仏教はそれを「意」の一業に集約する!

2022-12-17 12:25:38 | Weblog
『唯識(上)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年

(1)はじめに
A 「心」について仏教は釈尊(前5世紀頃)以来、強い関心を寄せてきた。(5頁)
A-2 とりわけ5世紀頃に体系化された「唯識仏教」は心への関心を先鋭化し、すべてを「心」の要素に還元した。(5頁)
A-2-2 仏教一般では「業(ゴウ)」(行為・行動)を「身(シン)業」(身体的動作をともなうもの)・「口(ク)業」(言語によるもの)・「意業」(心中のさまざまな思い)の三業に分類する。唯識仏教では、それを「意」の一業に集約して考える。(5頁)
《感想》唯識仏教の「意業」の概念は、フッサールの「超越論的主観性」に似る。
A-3 また唯識仏教は、自覚的ないわゆる「心」(第六意識)は実は表面的な心であり、その表面心を無意識の深層領域、すなわち第七「末那識(マナシキ)」(自己愛の根源)さらに最も深層の第八「阿頼耶識(アラヤシキ)」が支える構造として理解した。「阿頼耶識」は「過去を保存し・現在と未来の行為を発出する生存基盤」である。(5頁)
《感想》「阿頼耶識」の概念は、アルフレート・シュッツ(Alfred Schütz、1899 - 1959)の「知識在庫」(Stock of knowledge)に似る。
A-4  日本では奈良時代(8世紀)の仏教「南都六宗」のうち「法相(ホッソウ)宗」の教義が唯識の考え方である。(5頁)

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エドガー・アラン・ポー(1809-1849)『黒猫』(1843):「偶然」であると「理性」によって説明されても、「蓋然性」(確率)の程度が極めて低い出来事は、「怪奇現象」と説明される余地がある!

2022-12-14 15:44:40 | Weblog
(1)
明日、わたしは絞首刑になるが、そのような結果をもたらした事件の顛末を報告しておく。今わたしは、魂の重荷をおろしておきたいのだ。その事件は、「バロック的な怪奇趣味」によっても、冷静で論理的な「知性」(理性)によっても解釈しうるものだ。
(2)
わたしは子どもの頃からペットを飼うのが好きだった。わたしは若くして結婚したが、妻はわたしのペット好きを知ってわたしに大きくて美しい黒猫をプレゼントしてくれた。この猫は賢く、名はプルートー(死者の国の王)だ。猫黒はわたしのお気に入りのペットで話し相手、いつもわたしのあとをついてきた。
(3)
黒猫との友情は何年間も続いた。しかしわたしは「酒乱」だった。日に日に機嫌が悪くなるばかりで、やがて妻に暴力をふるい、プルートーにもわが不機嫌による被害が及んだ。《感想1》この小説は「酒乱」への警告でもある。アメリカでは1840年代に禁酒法の運動が始まっていた。(敬虔なキリスト教の宗派、特にメソジストがその先鋒を務めた。)
(3)-2
しかも人間には「天邪鬼」(アマノジャク)の衝動がある。「してはいけない」と熟知しているからこそ、それを破る衝動だ。わたしは罪もない黒猫への暴虐を、エスカレートさせていった。
(3)-3
ある日、わたしが泥酔して帰宅したとき、この黒猫が自分を避けているような気がした。わたしは黒猫を乱暴につかまえた。黒猫は驚き、わたしの手に嚙みついた。その刹那、悪魔の怒りに憑りつかれたわたしは、ナイフを取り出し、黒猫の喉を掴み、その片方の眼球を眼窩からくりぬいた。《感想2》「黒猫プルートーがわたしを愛しているのを知っていた」からこそ、わたしは黒猫を吊るした!人間がもつ「天邪鬼」(アマノジャク)の衝動!
(3)-4
黒猫プルートーは徐々に怪我から回復していったが、わたしが近づくと怯えきったようすで逃げ出していく。あれほど自分になついていた黒猫があからさまに嫌悪感を示すので、わたしは苛立ちがつのった。ついにある朝、わたしは黒猫の首に輪縄をかけ木の枝からつるし殺した。
(4)
この残虐なる犯行がなされた当日の晩、家が火事となり全焼した。わたしたち夫婦は命からがら逃げのびた。翌日、焼け残った仕切り壁に首にロープが巻き付いた猫の姿が浅浮彫のように残っていた。わが驚愕と恐怖は極致に達した。
(4)-2
これは信じられないような「怪奇現象」だが、「理性」的に説明できる。火事で家の周りに集まった群衆の誰かが、住人を叩き起こすために、開いていた窓からわたしの部屋へ投げこんだのだ。猫の死骸は漆喰壁とベッドの頭の部分にたまたま落ちた。燃えた石灰と死骸のアンモニアとが融合して、今見たような猫の姿が残ったのだ。
(5)
「理性」の上では解決がついたが、わたしは黒猫のまぼろしを振り払うことができなかった。ある晩、酒場で一匹の黒猫を発見した。プルートーと瓜二つだった。ただ胸にぼんやりと巨大な白の斑点があった。新しい黒猫はわたしを気に入り家にまでついてきた。そして翌朝、こいつの片目がプルートーと同じくえぐり取られていることに気づいた。わたしの中には、新しい黒猫への嫌悪感と憎悪が湧きでた。だが妻には慈愛に満ちた心があった。(それはかつてわたしが備えていた心だ!酒乱がわたしを変えてしまった。)妻はこの新しい黒猫をかわいがった。
(5)-2
何週間もたつうちに徐々に、「かつて惨殺した黒猫」を思い出させる新しい黒猫に、わたしはおぞましさを感じるようになった。黒猫の姿をみるとわたしは、こそこそと逃げ出した。わたしはこの新しい黒猫を忌み嫌ったが、やつはますますわたしになついてきたように思えた。そしてこの黒猫が呼び起こす恐怖感は、その胸の白い斑点が「絞首台」の輪郭を帯びることで頂点に達した。
(5)-3
この1匹の獣がわたしに「耐え難い呪い」を仕掛けてきたのだ。もはや休息の余地はなくなった。わが心を圧迫する悪夢に、いつもの不機嫌な気質が増長し、わたしは突発的で抑えきれない怒りの爆発を繰り返すようになった。従順なる妻は一番の被害者として誰より耐え忍んだ。
(6)
ある日、妻がわたしに付き添い、「貧しさゆえに住居として選んだ古い建物」の地下室に降りていった時のことだ。急な階段なのに黒猫も後からついてきて、危うく人間のほうが真っ逆さまに転げ落ちるところだった。わたしは烈火のごとく怒った。斧を手にすると、黒猫に一撃を食らわそうとした。それを妻が引き留めた。予期せぬ邪魔に、怒り心頭に発したわたしは、妻の脳天に斧を見舞う。うめく間もなく即死だった。《感想3》酒を飲んでいないときでも、「わたし」は感情のコントロールが出来ず、凄まじいDV(domestic violence)を引き起こす。
Cf . 現在の日本では夫によるDVの原因は(a)妻に暴力を振るうのはある程度は仕方がないといった社会通念、(b)妻に収入がない場合が多いといった男女の経済的格差、(c)夫の人格的暴力性など。
(6)-2
わたしは妻の死体を隠蔽するほかなかった。「地下室の壁に塗り込めてしまえばよい」とわたしは思った。地下室の壁の造りはぞんざいで、容易に壊せた。しかも煙突ないし暖炉をつくるはずだった空間があって、そこには煉瓦が押し込めてあるだけだった。詰め物の煉瓦を妻の死体と入れ替え、立たせたままの姿勢で、壁全体を漆喰(シックイ)で覆った。この死体処理はすべてうまくいき、わたしは満ち足りた気持ちだった。
(6)-3
次は「これだけの悲劇を引き起こした元凶たる新しい黒猫」を見つけ出さなくてはならないとわたしは思った。わたしはあいつを殺すべく決意を固めた。だが姿を現さない。黒猫は一晩中、現れない。翌日も3日目も現れない。あの怪物はこの家から立ち去った!あまりの幸福感で、わたしは天にものぼる心地だった。
(7)
妻の姿が見えないことから、わたしは警察から何度か訊問され、家宅捜索も行われたが、何ひとつ発覚しなかった。事件から4日目、再び警察の一団が家に入り込み、再び徹底的な家宅捜索に取り掛かった。彼らは地下室に今一度降りていった。だが何も不審な点はない。警察はすっかり納得し、帰りじたくを始めていた。《感想4》漆喰は塗るとすぐに乾く。しかもわたしは「以前のもの」と見分けのつかないように漆喰をぬった。だから警察もだまされた。
(7)-2
警察の一団が地下室の階段を上りかけていた時、調子にのったわたしは「壁はじつにしっかりと組み立てられているのです」と壁をトントンと叩いて見せた。だが、なんと壁の中から声が返って来た。最初は弱々しく切れ切れの声、やがて長く甲高く切れ目のない叫び声、何者かが吠えて、悲壮な金切声をあげる。わたしは恐怖に気が遠くなり、凍りついた。
(7)-3
警察の一団が壁をめがけて押し寄せた。壁がそっくり崩された。そこから現れた妻の屍は腐乱し、血糊でぬらぬらした姿で立ちつくしていた。そして彼女の頭上に、真っ赤な口を開け、ひとつしかない眼球をランランとか輝かし、あの黒猫がいた。わたしはこの怪物を気づかぬまま、妻と一緒に壁の内に塗り込めてしまっていたのだ。

《感想5》これら一連の出来事の内、「理性」(知性)によって「偶然」と解釈される出来事は、「怪奇現象」と解釈されることがある。すなわち「蓋然性」(確率)の程度が極めて低い「偶然」の出来事は、「黒猫の呪い」(怪奇現象)と説明される余地が出て来る。
①わたしが「黒猫プルートーの首に輪縄をかけ木の枝からつるし殺した」、この残虐なる犯行がなされた当日の晩、家が火事となり全焼した。これは「偶然」であると「理性」によって説明されるが、「蓋然性」(確率)の程度は極めて低い。かくて「黒猫の呪い」(怪奇現象)と説明される余地が出て来る。
②焼け残った仕切り壁に首にロープが巻き付いた猫の姿が浅浮彫のように残っていた。これは信じられないような「怪奇現象」だが、「理性」的に説明できる。「火事で家の周りに集まった群衆の誰かが、住人を叩き起こすために、開いていた窓からわたしの部屋へ投げこんだのだ。猫の死骸は漆喰壁とベッドの頭の部分にたまたま落ちた。燃えた石灰と死骸のアンモニアとが融合して、今見たような猫の姿が残った。」つまり「偶然」であると「理性」は説明するが、「蓋然性」(確率)の程度が極めて低い。かくて「怪奇現象」と説明される余地が出て来た。
③プルートーと瓜二つの黒猫が出現したこと。これは「蓋然性」(確率)の程度が極めて低い「偶然」だ。かくてその出来事が生じたことは、「怪奇現象」と説明しうる余地がある。
④新しい黒猫の片目がプルートーと同じくえぐり取られていた。これは「理性」的説明では「偶然」だが、「黒猫の呪い」(怪奇現象)と説明される余地がある。
⑤新しい黒猫には、胸に白い斑点があり、それが「絞首台」の輪郭を帯びたことは「偶然」だと「理性」は説明する。だが「黒猫の呪い」(怪奇現象)と説明される余地がある。
⑥わたしが新しい黒猫を気づかぬまま、妻と一緒に壁の内に塗り込めてしまい、そのことによって妻の殺害が露見した。この出来事は、「理性」的説明では「偶然」だが、その「蓋然性」(確率)の程度は低いので、「黒猫の呪い」(怪奇現象)と説明される余地がある。

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坂口安吾(1906-1955)『桜の森の満開の下』(1947、41歳):「桜の森の満開」(自然=物質世界の「永遠」)の下には、人間(「女」・「男」)の「死」の「虚空=無」の「怖ろしさ」がある!

2022-12-10 17:09:13 | Weblog
(1)
今は桜の花に春らんまんだのと浮かれるが、大昔は桜の花の下は「怖ろしい」と思われていた。鈴鹿峠の山道の途中にも桜の森があった。この「山」に山賊が住み始めたが、この山賊はむごたらしい男で情け容赦なく着物をはぎ人の命も断った。そんな男でも桜の森の満開の花の下へくると、やっぱり「怖く」なって気が変になった。彼はこれはおかしいと考えたが、今年は考える気がしなかったので、来年花が咲いたら考えてやろうと思った。毎年そう考えて、もう十何年がたった。
(2)
山賊がそう考えているうちに、始めは一人だった女房がもう七人にもなった。そして山賊は、八人目の女房を、又街道から女の亭主の着物と一緒にさらってきた。女の亭主は殺した。女が美しすぎたので、彼はふと、亭主を斬りすてていた。女は「歩けないからオブっておくれ」と言ったので、山賊は「そうかよしよし」と坂道をオブっていった。
(3)
山賊(男)が家にたどり着くと、七人の女房が迎えに出てきた。だが女は七人の女房の汚さに驚き、薄気味悪がった。女は「あの女を斬り殺しておくれ」といちばん顔かたちのととのった一人を指して叫んだ。男は女房の一人を斬り殺した。女が次々と命じ、男が女房たちを斬り殺した。最後にいちばん醜くてビッコの女房が残った。女が「これは私が女中に使う」と言った。
(4)
6人の女房を斬り殺し、男(山賊)は悪夢からさめた気がした。男の目も魂も女の美しさに吸いよせられて動かなくなった。男は「怖ろしさ」に不安となった。それは桜の森の満開の下の「怖ろしさ」に似ていた。
(5)
女は「都」出身で大変なわがままだった。男(山賊)がどんなに心をこめた御馳走(猪、熊、木の芽、草の根)をこしらえてっても女は満足を示したことがない。都のに劣らぬおいしいも物が食べたいと女が言う。女は櫛や笄(コウガイ)や簪(カンザシ)や紅(ベニ)を大事にした。男は都からの旅人を何人も殺した。彼らは金持ちで所持品も豪華だった。女は何枚もの着物や細紐を欲しがった。
《感想》男(山賊)は女に惚れている。「惚れた弱み」で女が望むことは何でもする。すでにいた女房7人のうち1人を残しみな斬り殺した。女に御馳走し、また都からの旅人を何人も殺して得た櫛や笄や簪や紅、さらに何枚もの着物や細紐を女の欲しがるまま与えた。「恋は盲目」!
(6)
「お前が本当に強い男なら、私を都へ連れて行っておくれ」と女が言った。男には、しかし気がかりがあった。あと2、3日で桜の森が満開になる。男(山賊)は「桜の森の満開の下」がなぜ「怖ろしい」のかを考えたかった。3日目、男は満開の桜の森に出かけた。花の下の「冷たさ」、「怖ろしさ」。彼の身体は風に吹きさらされ透明になった。彼は走った。何という「虚空」だ!彼は泣き、祈り、もがき、花の下から逃げ去った。
(7)
男と女とビッコの女は「都」に住みはじめた。男は夜毎に女の命じる邸宅へ忍び入った。男は着物・宝石・装身具を持ち出した。だが女が何より欲しがるものは、その家に住む人の首だった。男と女の家には何十の邸宅の首が集められた。部屋の四方の衝立に仕切られて首は並べられ、ある首はつるされた。男にはどれがどれやら分からなくとも、女は一々覚えており、すでに毛が抜け、肉がくさり、白骨になっても、どこのたれということを覚えていた。
(7)-2
女は毎日、首遊びをした。大納言の首が姫君の首をかこい者にする。姫君の首も大納言の首ももはや毛がぬけ肉がくさりウジ虫がわき骨がのぞけていた。2人の首は酒盛りをして恋にたわぶれ、くさった肉がペチャペチャくっつき合い鼻もつぶれ目の玉もくりぬけていた。ペチャペチャとくっつき2人の顔の形がくずれるたびに、女は大喜びで、けたたましく笑いさざめいた。                      
《感想》女の首の愛好は、(女が人間なら)性的倒錯である「屍姦(シカン)屍体愛好」(necrophilia)の一形態のようだ。(Cf. ただし後に明らかになるが、女は実は「鬼」で、全身が紫色の顔の大きな老婆だ。)
(8)
「都」で、男は「退屈」に苦しんだ。①彼は毎晩人を殺していたが、ひとを殺すことにも退屈し、何の興味もなかった。刀で叩くと首がポロリと落ちるだけで、大根を切るのと同じようなものだった。②彼は女の欲望にキリがないので、そのことにも退屈していた。③男は都の空を眺めた。空は昼から夜になり、夜から昼になり、「無限の明暗」がくりかえし続く。彼は無限の明暗のくりかえしを考えて(その退屈に)苦しくなった。
(9)
男が家に帰ると、女はいつものように首遊びに耽(フケ)っていた。女は「今夜は、とびきり美しい白拍子の首を持ってきておくれ」と言った。男が「俺は厭(イヤ)だよ」、「キリがないから厭になったのさ」と男が言った。男は「女を殺す」ことを考えた。男は外へ出て山に登った。男は「空が落ちてくる」ことを考えた。空の「無限の明暗」を走り続けることは、女を殺し空が落ちてくれば、「無限の明暗」を「とめる」ことができると男は思った。だがなぜ空を落とさねばならないのか、分からなくなってきた。
(10)
男(山賊)は数日、山の中をさまよった。ある朝、男が目覚めると一本の桜の木が満開だった。男は満開の桜の森を思い出した。「山へ帰ろう」と男は思った。男は家に帰った。「俺は山に帰ることにしたよ」、「俺は都がきらいだ」と男が女に言った。女が「お前が山へ帰るなら、私も一諸に山へ帰るよ」と言った。女は「私はお前と一緒でなきゃ生きていられない」と泣いた。
(11)
女は、「男」なしで生きられなくなっていた。新しい「首」は女のいのちだった。そしてその首を女のためにもたらす者は彼のほかになかった。彼は女の一部だった。女はそれをはなすわけにいかない。
《感想》女は、男を愛していない。男は女にとって役立つ道具or手段にすぎない。
(11)-2
男のノスタルジイがみたされたとき、男を再び都へつれもどす確信が女にあった。女は男を騙した。「お前と首と、どっちか一つを選ばなければならないなら、私は首をあきらめるよ」。男は嬉しすぎ、幸福と新たな希望でいっぱいとなった。
《感想》男(山賊)の女への惚れ方は凄まじい。相変わらず「恋は盲目」だ。
(12)
目の前に昔の「山々」の姿が現れた。旧道は、やがて桜の森の下を通ることになっていた。女が「背負っておくれ」と言った。男は幸福だった。「桜の森の満開の下」を男は今や「怖ろしい」と思わなくなっていた。桜の森が彼の眼前に現れた。桜の森は満開だった。男は満開の花の下へ歩きこんだ。
(12)-2
「桜の森の満開の下」に入ると、あたりはひっそりと、だんだん冷たくなるようだった。彼はふと女の手が冷たくなっているのに気づいた。女は鬼だった。それは全身が紫色の顔の大きな老婆で、口は耳まで裂け、ちぢくれた髪の毛は緑だった。男は走り鬼(女)を振り落とそうとした。鬼の手が男の喉に食い込んだ。男は全身の力を込めて鬼の手をゆるめると、どさりと鬼は落ちた。
(12)-3
男(山賊)は鬼に組みつき、鬼の首を全力でしめつけた。そして彼がふと気づいたとき、彼は女の首をしめつけており、女はすでに息絶えていた。彼は大きく目を見開くことを試みたが、やはり女の屍体がそこにあるばかりだった。男は女を揺さぶり、呼び、抱いたが徒労だった。彼はわっと泣いた。男(山賊)がこの「山」に住み着いて以来、彼は泣いたことなどなかった。女の死体の上にも、彼の背にも桜の白い花びらが積もった。
(13)
そこは桜の森のちょうどまんなかのあたりだった。「桜の森の満開の下」にいるのに、男(山賊)は「怖れや不安」が消えていた。彼はもう帰るところがない。「桜の森の満開の下」の「怖ろしさ」の秘密は「孤独」だったかもしれない。だがかれは「孤独」をもはや怖れる必要がなかった。彼自らが「孤独」自体だった。
(13)-2
男(山賊)は四方を見廻した。頭上に桜の花があり、その下にひっそりと無限の「虚空」が満ちていた。ほど経て、彼はただ一つのなまあたたかな何物かを感じた。それは彼自身の胸の悲しみだった。花と「虚空」の冴えた冷たさにつつまれて、ほのあたたかいふくらみが、すこしずつ分かりかけてくる。
(13)-3
男(山賊)は死んだ女の顔の上の花びらをとってやろうとした。彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変ったことが起こった。女の姿は搔き消え、ただ幾つかの花びらになっていた。その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も延した時にはもはや消えていた。あとに「花びら」と「冷たい虚空」がはりつめているばかりだった。

《感想1》「桜の森の満開の下」にあるのは「無限の虚空」だった。「女」も「男」も消え去る。あとに残るのは「冷たい虚空」がはりつめるばかりだった。
《感想2》「女」も「男」も消え去り、それらを飲みこみ無とする「無限の虚空」。しかし桜=花びらは残る。自然=物質世界の「永遠」と、人間(「女」・「男」)の「死」の「虚空=無」。「桜の森の満開」(自然=物質世界の「永遠」)の下には、人間(「女」・「男」)の「死」の「虚空=無」の「怖ろしさ」がある。

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坂口安吾(1906-1955)『風博士』(1931、25歳):風博士は自殺した!遺書が発見されたが、風博士自体は杳(ヨウ)として紛失した!諸君、偉大なる博士は「風」となったのである!

2022-12-07 13:22:52 | Weblog
(1)風博士は蛸博士を憎んでいた!
風博士は自殺した。遺書が発見されたが、風博士自体は杳(ヨウ)として紛失した。風博士は蛸(タコ)博士を憎んでいた。僕は偉大なる風博士の愛弟子(マナデシ)であった。警察は「風博士が僕と共謀の上、遺書を捏造して自殺を装い、かくてかの憎むべき蛸博士の名誉棄損をたくらんだに相違あるまい」と睨んだ。

(2)風博士の遺書(その1)!
蛸博士は禿頭(ハゲアタマ)で、鬘(カツラ)を以て之の隠蔽をなしおる。彼の禿頭は蛸のような無毛赤色の突起体だ。彼は余の憎むべき論敵である。南欧の小部落バスクは、蒙古の成吉思汗(ジンギスカン)となって欧州侵略をした源義経の隠棲(インセイ)の地だ。ところが無礼なる蛸博士は、欧州侵略は成吉思汗の後継者太宗の事績で、それは成吉思汗の死後十年の後に当ると主張する。
(2)-2  風博士の遺書(その2):蛸博士の悪徳!
①蛸博士は余(風博士)の戸口にBananaの皮を撒布し余の殺害を企てた。余は蛸博士を告訴したが世人は挙げて余を罵倒した。②蛸博士は余の妻を寝取った。余の妻はバスク生まれの女性であった。彼女は余の研究を助けた。蛸博士はこの点に深く目をつけ、彼女を籠絡(ロウラク)した。
(2)-3  風博士の遺書(その3):蛸博士は秘かに別の鬘(カツラ)を貯蔵していた!
打倒蛸!蛸博士を葬れ!余(風博士)は夜陰に乗じて彼の邸宅に忍び入った。余はかの憎むべき鬘を余の掌中に収めた。明日の夜明けを期して、蛸博士は鬘のない無毛赤色の怪物を曝露するに至るであろう!しかるに余は敗北した。彼は秘かに別の鬘を貯蔵していた。余は負けた!刀折れ矢尽きた!諸君よ、誰人(タレビト)かよく蛸を懲(コラ)す勇士はなきや。ああ止むを得ん次第である。しからば余の方より消え去ることにきめた。

(3)風博士の自殺の方法(その1):僕は偉大なる風博士の臨終の唯一の目撃者だった!
風博士はかくて自殺した。偉大なる風博士は死んだ。極めて不可解な方法によって、そして死体を残さない方法によって、それは行われた。風博士は僕の恩師であり、僕は偉大なる風博士の臨終の唯一の目撃者だった。
(3)-2 風博士の自殺の方法(その2):風博士は甚だ周章て者(アワテモノ)であった!
☆風博士は①部屋の西南端に腰かけて一冊の書に読み耽っているとして、《次の瞬間》に東北端の肘掛け椅子で頁を繰っている。②水を飲む場合に、《突如》コップを呑み込んでいる。かくも風博士は甚だ周章て者(アワテモノ)であった。
☆このようなあわただしい風潮がこの部屋にある全ての「物質」を感化した。(a)時計はいそがしく13時を打つ。(b)来客が遠慮してもじもじし腰を下そうとしないと椅子は劇(ハゲ)しい癇癪を鳴らした。(c)物体の描く陰影が突如太陽に向かって走り出す。
☆全てこれらの「狼狽」は極めて直線的な突風を描いて交錯するため、部屋の中には何本もの飛ぶ矢に似た「真空」が閃光を散らして騒いでいる習慣であった。
☆時には部屋の中央に一陣の「竜巻」が彼自身もまた周章(アワ)てふためいて湧き起ることもあった。その刹那偉大なる博士(風博士)は屡々(シバシバ)この竜巻に巻きこまれて、拳をふりながら忙しく宙返りを打つのであった。
(3)-3 風博士の自殺の方法(その3):偉大なる博士は深く結婚式を期待し、同時に深く結婚式を失念し!
さて風博士が、「余の方より消え去る」と記した「遺書」を書いて後、事件の起こった日は、丁度偉大なる博士の結婚式に相当していた。花嫁は当年17歳の大変美しい少女であった。僕は牧師の役をつとめる約束で、僕の書斎に祭壇をつくり、花嫁と向き合わせに端座して、偉大なる博士の来場を待ち構えていた。ところが夜が明けても風博士はやってこない。僕は花嫁に理由を言い、恩師・風博士の書斎へ駆けつけた。「先生、約束の時間が過ぎました」と僕が言うと、一書を貪り読んでいた。博士は燕尾服を身にまとい、膝頭にはシルクハットを載せ、チューリップを胸のボタンに挟んでいた。偉大なる博士は深く結婚式を期待し、同時に深く結婚式を失念したのだった。
(3)-4 風博士の自殺の方法(その4):諸君、偉大なる博士は「風」となったのである!
「POPOPO!」偉大なる博士はシルクハットを被り直した。失念していたもの(結婚式)をありありと思い出した深い感動が表れた。「TATATATATAH!」僕は鋭い叫び声をきいたのみで、偉大なる博士の姿は蹴飛ばされた扉の向こう側に見失っていた。僕はびっくりして追跡した。この瞬間、奇蹟が起こった。偉大なる博士の姿は突然消え失せたのである。僕はただ一陣の「突風」が階段の下に舞い狂うのを見た。諸君、偉大なる博士は「風」となったのである。この日、かの憎むべき蛸博士は、インフルエンザに犯された。

《感想1》風博士が蛸博士を憎んだのは学説上の相違である。欧州侵略は、風博士の説では蒙古の成吉思汗(ジンギスカン)となった源義経による。これに対し蛸博士の説では、欧州侵略は成吉思汗の後継者太宗の事績で、それは成吉思汗の死後十年の後に当るとされた。風博士が蛸博士を憎んだのは、蛸博士が禿頭を鬘で隠していたからではない。
《感想2》風博士が「風」となりえた理由は「甚だ周章て者(アワテモノ)であった」からだ。風博士は①部屋の西南端から《瞬間》的に東北端に移動する。②水を飲む場合に《突如》コップを呑む。このようなあわただしい風潮がこの部屋にある全ての「物質」を感化した。(a)時計は13時を打つ。(b)椅子が劇(ハゲ)しい癇癪を鳴らす。(c)物体の陰影が太陽に向かって走り出す。 部屋の中で、これらの物質の「狼狽」が直線的な突風を描いて交錯し、何本もの飛ぶ矢に似た「真空」が閃光を散らして騒ぐ。そして彼自身が周章(アワ)てふためいて時には部屋の中央に一陣の「竜巻」が湧き起ることもあった。
《感想2-2》こうして結婚式の失念の「狼狽」が風博士を「竜巻」にし、彼は「風」となり消失した。
《感想3》風博士はテレキネシス(念力)的超能力者だ。彼の「周章(アワ)て者」の性格が、彼の部屋にある「物質」を感化した。(Cf.  テレキネシスは意思の力で物体に物理的な変化を与えることである。)

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エドガー・アラン・ポー(1809-1849)『メルツェルのチェス・プレイヤー』(1836、27歳):自動機械人形「ターク」(トルコ人)の謎解きをこの小説で行なう! 「隠れた人」が操作している!

2022-12-05 19:38:10 | Weblog
(1)自動機械人形「ターク」の謎解き!
『メルツェルのチェス・プレイヤー』(1836)は当時、展覧会・興行等で注目を集めた「チェスをさすトルコ人の姿の自動機械人形」に関するエドガー・アラン・ポーの小説である。この自動機械人形は「ターク」(The Turk、トルコ人)と呼ばれた。エドガー・アラン・ポーは自動機械人形「ターク」の謎解きをこの小説で行っている。
(2)からくりの天才的な発明品に関する先行する多数の歴史!
自動機械人形「メルツェルのチェス・プレイヤー」には、からくりの天才的な発明品に関する先行する多数の歴史がある。①カミュ氏が幼少期のルイ14世を楽しませるために発明した「全長6インチの自動機械の馬車」。②メイヤード氏の魔術師。多くの種類の質問に対し答える「魔術師の自動機械人形」!③ウォーカンソンのアヒル。本物そっくりに鳴き動き飲み歩く「自動機械のアヒル」。あるいは④星や船の運行を天体図や航海図で割り出す「チャールズ・バベッジの計算機」も天才的な発明品だ。
(3)「背後で人間が操る」ことなく動いている「純粋機械」?
「メルツェルのチェス・プレイヤー」がまったくの「機械人形」であり、「背後で人間が操る」ことなく動いているなら、「確定的に進行しないチェスにおける駒の進め方に対応できる機械的なからくり」が可能というのは、恐るべきことだ。それは、バベッジの「計算機械」とは全くことなる。その場合は、「メルツェルのチェス・プレイヤー」は「純粋機械」と呼ぶべきである。《感想》AI による「コンピュータチェス」は、ポーが定義する「純粋機械」に相当する。

(4)「メルツェルのチェス・プレイヤー」!
「メルツェルのチェス・プレイヤー」は1769年ハンガリーの貴族ケンペレン男爵によって発明された。その後、メルツェル氏の手に渡り、最近ではアメリカ合衆国の主要都市も巡回した。
(4)-2 自動人形(トルコ人)&箱(テーブル)!
「チェス・プレイヤーの自動人形」はトルコ人の扮装で大きな箱(テーブル)の向う側に坐っている。自動人形が腰かけている椅子は、箱にしっかりくくりつけられている。箱の上にチェス盤がぴったり固定されている。緑色の掛け布が自動人形(トルコ人)の背後を隠し、その布は部分的に両肩の全面もおおう。チェスゲームの最中は、観客は箱から3.6m離れてすわりロープで隔てられている。チェス・ゲームが始まる前に「自動人形(トルコ人)&箱(テーブル)」は観客に、「箱」の諸扉と引き出しを開け、また「人形」の背中と太ももの扉(窓)から、その内部が見せられる。またチェスゲームの中断時には、「人形&箱」は真鍮の車輪がついているので観客が間近に見える位置まで移動されることもある。
(4)-3 「箱(テーブル)」の正面の「3つの扉(1番・2番・3番扉)」・「引き出し(左右)」、また裏側の「後部扉1」(正面の1番扉の裏側)!
大きな「箱(テーブル)」のこちら側(正面)の上段に「3つの扉(1番・2番・3番扉)」があり、下段に2つの「引き出し(左右)」(ただし左側の引き出しのみが本物で、右側はフェイク)がある。1番扉を開けると中には多数の歯車・レバーなど機械装置がぎっしり詰め込まれている。「箱(テーブル)」の裏側(正面の1番扉の裏側)にも扉(「後部扉1」)があり、「後部扉1」を開けると、その中にも機械装置が詰まっているのが見える。下段の「引き出し」は一方(右側)は飾りにすぎず開けられない。もう一方(左側)の「引き出し」の中にチェスの駒が入っている。
(4)-3-2 正面の2番扉・3番扉(折戸になっている)の中:「小区画」・「中央区画」・裏側の「後部扉2」!
正面の2番扉・3番扉(折戸になっている)は中が同一の区画になっている。その右側は「小区画」で機械装置がぎっしり詰まっている。「中央区画」は漆黒の生地で覆われ、4分円形の金属製装置が両隅上方、床に20センチ四方の突起が床にあるが、他になにもない。正面の2番扉・3番扉を開けた「中央区画」の裏側にも扉(「後部扉2」)がある。
(4)-3-3  扉(1番・2番・3番)、引き出しの一方、裏側の扉(後部扉1・2)は必ず鍵で開け閉めする!
なお正面の3つの扉(1番・2番・3番)、引き出しの一方、裏側の扉(後部扉)の開け閉めに際しては、必ず鍵穴に鍵をさして開け、鍵をさして鍵を閉める。
(4)-4 「自動人形に人間が隠れていることはない」と観客が確認する!
トルコ人の自動人形の「背中」に25センチ四方の扉(窓)、左の「太腿」にもいま一つの扉(窓)、これらを開くと内部は機械装置で埋め尽くされているのが見える。「自動人形(トルコ人)&箱(テーブル)」が観客に、「箱」の諸扉と引き出しを開け、また「人形」の背中と太ももの扉(窓)から、その内部が見せられるが、その時、「自動人形に人間が隠れていることはない」と観客が確認する。(《感想》観客は「人間が隠れていることはない」と思うが、エドガー・アラン・ポーはこれは「騙されている」のだ、「隠れた人」=「箱の中の人」が存在するのだと言う。)
(4)-5 自動人形が「左腕」を動かしチェスをつまみ、駒を動かす!
チェスの対戦者は仕切りのロープの間際、観客者側に設置されたテーブルに座る。チェス盤は自動人形のトルコ人の前に一つ、対戦者のテーブルの上にもうひとつ置かれる。箱(テーブル)の左端の鍵穴にメルツェル氏が鍵を差し込みからくりのネジを巻くと、チェスの対戦が始まる。自動人形が「左腕」を動かしチェスをつまみ、駒を動かす。(自動人形トルコ人の右腕はテーブル上に置かれている。)
(5)自動機械人形「ターク」(トルコ人)は強かった!
ふつう自動人形が先手を打つ。対戦時間は30分。(対戦者の希望で延長可。)メルツェル氏が自動人形代理として、対戦者のチェス盤の駒を進める。対戦者が駒を進めると、メルツェル氏が今度は対戦者代理として、自動人形のチェス盤の駒を進める。自動人形の一挙一投足にからくりの音がついて回る。自動機械人形「ターク」(トルコ人)は強かった。彼が負けたのは、1度か2度にすぎない。

(6)自動人形がどのように作動しているのか?その謎を解こうとした数々の試み!
いったいこの自動人形がどのように作動しているのか?その謎を解こうと数々の試みがなされた。
(a)一番広く罷り通っていた通説はこの自動機械は、「まったくの機械」であっていかなる人間も黒子として潜んでいるわけでないという見解だ。
(b)「興行主(メルツェル氏)」が箱の基底部で稼働する機械的手段で人形を動かしているとの説もあるが、メルツェル氏はつねに姿を見せており、この説は誤りだ。
(c)「磁石」が自動人形を動かしているとの説もあるが、観客が磁石を持ってきても、「メルツェルのチェス・プレイヤー」(自動人形)を混乱させ乗っ取ることは出来なかったので、この説も誤りだ。
(6)-2 「小人」説&「少年」説!
この自動人形がどのように作動しているのか、その謎について論じた論文(説)もある。
(d)ひとりの「小人」が箱(テーブル)の内部で機械を操作しているとの論文(1785年)。小人が第1番の戸棚にひしめく機械装置の中にある「円筒」の中に下半身を突っ込み、上半身はトルコ人の掛け布の下に隠すと言う。しかし機械装置の中に「円筒」がない。
(e) I・F・フライエル氏(1789年)の論文は、「痩身で長身の教養あふれる少年」がチェス盤のすぐ下の空間(正面の2番扉・3番扉の中の「中央区画」)に身を隠し自動人形を操作していると論じる。だが興行主(メルツェル氏)が箱を精密に見聞して見せたので、この説は粉砕された。
(7)「箱の内部の仕切り」が変動しずらされる!
近年(1830年代)、ボルチモアの週刊誌に匿名の書き手による「メルツェル氏の自動人形チェス・プレイヤーを分析する試論」は、「箱内部に身を潜めた人間」がいて自動人形の腕を操作し、彼は「箱の内部の仕切り」が変動しずらされることで、興行主(メルツェル氏)が観客たちに箱の内部を見せる時、うまく動いて姿を隠すと主張する。
(7)-2 「箱内部に身を潜めた人間がいて自動人形の腕を操作している」とするのは正しいとエドガー・アラン・ポーは主張する!
エドガー・アラン・ポーは「内部の仕切りがズラされることにより隠れている人間が動きやすくなっている」という点には「異議を申し立てる」という。ただし「箱内部に身を潜めた人間がいて自動人形の腕を操作している」とするのは正しいとエドガー・アラン・ポーは主張する。

(8)エドガー・アラン・ポーによるこの自動人形「メルツェルのチェス・プレイヤー」のからくりの謎の解明にあたっての前提:見世物興行主メルツェル氏の自動人形の箱(テーブル)を観客に見せる手順!
(ア)まず鍵で1番扉を開ける。(中には多数の歯車・レバーなど機械装置がぎっしり詰め込まれている。)
(イ)それを開けたままにしておいて、裏側の扉(正面の1番扉の裏側)(後部扉1)を開ける。そしてそこを炎のともったろうそくで照らし中を見せる。(その中にも機械装置が詰まっている。)
(ウ)裏側の扉(後部扉1)を閉め、鍵をかける。
(エ)前方に戻ってくると正面の1番扉は開けたままで、正面下部の(一方の)引き出しの鍵を開け、引き出しを開く。そこにはチェスの駒が入っている。
(オ)次にメルツェル氏は正面の2番扉、3番扉の鍵を開け、そして2番扉、3番扉(折戸になっている)を開け「中央区画」の内部を披露する。
(カ)この正面の2番扉、3番扉の「中央区画」も、「引き出し」(左側)も、「1番扉」も開けっぱなしのまま、メルツェル氏は再び後方へまわり、「中央区画」の裏側の扉(「後部扉2」)の鍵を開け、そして後部扉2を開ける。
(キ)その後、「後部扉2」を閉め、鍵をかける。
(ク)メルツェル氏は前方に回り、「1番扉」を閉め、鍵を閉める。また「2番扉、3番扉(折戸)」を閉め、2番扉、3番扉の鍵を閉める。その後、「引き出し」を閉め、鍵を閉める。

(9)エドガー・アラン・ポーによる自動人形「メルツェルのチェス・プレイヤー」のからくりの謎の解明(結果)!
(1)「自動人形と箱」が最初に会場へ運び込まれて観客に披露された時にはもう、箱の中には誰か「人間」が隠れていた。
(2)「隠れた人」の上半身が身を潜めていたのは、「正面の1番扉の内部」にぎっしり詰まった歯車など装置群の背後だ。その両足は「中央区画」(正面の2番扉、3番扉の内側)に収まっていた。
(2)-2 メルツェル氏が「1番扉」を開けて中を見せても、観客によって、「中にいる人」が見つかることはない。なぜならぎっしり詰まった歯車など装置群の背後の「闇」を、観客は見通すことができないからだ。
《感想》装置群の背後が「闇」で見通すことができないというエドガー・アラン・ポーの説明は、自動人形「メルツェルのチェス・プレイヤー」のショーがなされる部屋が相当に暗いという前提が必要だ。
(3)しかし正面の1番扉の裏側(「後部扉1」)が開いた場合にはいささか事情が異なってくる。ろうそくをかざし「後部扉1」の箱の内部を照らせば、「隠れている人」は見つかってしまうだろう。
《感想》部屋の夜の照明は「ろうそくorランプ」のみで、暗い。この1836年の小説は、「1879年のエジソンの白熱電球の発明」以前だ。もちろん昼間は明るいので、ショーは「夜or暗い密室」で行われる必要があったろう。
(3)-2 だが「箱の中に隠れている人」は見つからない。というのは後方の扉(正面の1番扉の裏側の「後部扉1」)に鍵を差し込む時の音を合図に、当該人物は身体を「中央区画」に投げ出すからだ。だがこの姿勢はなかなか厳しい。そこでできるだけ早くメルツェル氏は後方の扉(「後部扉1」)を閉める。Cf. (8)で述べられたように、(ウ)裏側の扉を閉め、鍵をかける。
(3)-4 「隠れている人物」は「正面の1番扉」の内部の装置群の背後に戻る。そして「中央区画」(正面の2番扉、3番扉の内側)にあった彼の足は、今や「左側の引き出し」が開けられたので、そこの空間に置く。
(4) かくて「中央区画」(正面の2番扉、3番扉の内側)にはもはや彼のいかなる身体部分も存在しない。
(4)-2 メルツェル氏は今や安心して「中央区画」をみなさんにご披露する。
Cf. (8)で述べられたように(オ)メルツェル氏は「正面の2番扉、3番扉」の鍵を開け、2番扉、3番扉(折戸になっている)を開け「中央区画」の内部を披露する。(カ)この正面の2番扉、3番扉の「中央区画」も、「引き出し」も、「1番扉」も開けっぱなしのまま、メルツェル氏は再び後方へまわり、「中央区画」の裏側の扉(「後部扉2」)の鍵を開け、後部扉2を開ける。
(5)この状態で、メルツェル氏はこの自動機械を会場のいたるところへ移動させては自動人形トルコ人(「ターク」)の掛け布を外し、この自動人形の背中と太ももに開いている扉(窓)を開け、その胴体に機械装置がぎっしりと詰まっていることを明かす。
(5)-2 メルツェル氏は箱全体をもとの位置へ戻して扉を閉める。
Cf. つまり(8)で述べられたようにメルツェル氏は(キ)「後部扉2」を閉め、鍵をかける。(ク)メルツェル氏は前方に回り、「1番扉」を閉め、鍵を閉める。また「2番扉、3番扉(折戸)」を閉め、2番扉、3番扉の鍵を閉める。その後、引き出しを閉め、鍵を閉める。
(6)(「引き出し」が閉められたが両足は今や「中央区画」に移し自由だ。)隠れた人は今「中央区画」を自由に動ける。彼は自動人形トルコ人(「ターク」)の胴体内部の上方(胸)、チェス盤を見下ろすあたりから外部を覗く。すなわち彼はトルコ人の薄織物の胸を通してチェス盤を眺める。
《感想》エドガー・アラン・ポーはこれまで、箱から自動人形の内部に、人が頭を移動できるとは述べていない。これは突然の説明である。
(6)-2 正面の「2番扉・3番扉(折戸になっている)」は中が同一の区画になっている。その右側は「小区画」で機械装置がぎっしり詰まっている。ここに人形の左腕と左指を動かしチェスの駒を動かす装置、また頭部と眼球を動かす装置がある。「小区画」(「中央区画」の右側)がこの機械の本質をなす。
(6)-3 隠れた人はおそらく「中央区画」の20センチ四方の突起の上に腰かけて、ここを定位置として自動人形トルコ人(「ターク」)を操作する。
Cf. (4)-3-2によれば、「中央区画」は漆黒の生地で覆われ、4分円形の金属製装置が両隅上方、床に20センチ四方の突起が床にあるが、他になにもない。

(10)「メルツェルのチェス・プレイヤー」のからくりの謎の解明(結果)を演繹(推理)する根拠となった観察!
①トルコ人の駒の進め方は、対戦者に合わせた形で行われ、規則的でない。不規則きわまる動きしか示さない自動人形(トルコ人)は「機械」ではない。つまり「人間が操作している」としか考えられない。
Cf. (3)では、エドガー・アラン・ポーは次のように述べている。「メルツェルのチェス・プレイヤー」がまったくの「機械人形」であり、「背後で人間が操る」ことなく動いているなら、「確定的に進行しないチェスにおける駒の進め方に対応できる機械的なからくり」が可能ということとなり、これは恐るべきことだ。それは、バベッジの「計算機械」とは全くことなる。「メルツェルのチェス・プレイヤー」は「純粋機械」と呼ぶべきである。《感想》AI による「コンピュータチェス」は、ポーが定義する「純粋機械」に相当する。

②ポーの観察によれば、メルツェル氏が対戦者の駒の進行を自動人形トルコ人のチェス盤に再現している最中に、メルツェル氏の後ろで対戦者が突然、自分の戦法の間違いに気づいて、駒を進めるのをやめると、自動人形トルコ人は自分の駒を進める手を止める。かくて自動人形の動きを制御しているのは、メルツェル氏の知性でない。別の知性(隠れている者の知性)が自動人形の動きを制御しているとわかる。つまり対戦者のチェス盤を観察している人間が、自動人形の動きを制御している。それこそ箱の中に「隠れた人」だ。

③自動人形「ターク」は必勝でない。「機械でもチェス・ゲームができるという原理」の発見は必勝の自動人形(「純粋機械」)をめざすはずだ。ところが発明家は「必勝でない」ことを欠点と考えていない。今回の自動人形「ターク」は「未完成のままにする」という意図で作られたことになるが、これは発明家の発想としてナンセンスだ。
《感想》つまり自動人形「ターク」はそもそも「機械」ではないということだ!自動人形「ターク」は「イルージョン=奇術」のショーとみなすしかないと、エドガー・アラン・ポーは述べているのだ。「隠れた人」が操作する奇術ショー!

④自動人形「ターク」が首を横に振ったり両目をぎょろつかせるのは、「ゲームが好転し熟慮が不要な時」だけだ。「ゲームの展開が困難・複雑な時」は首を横に振ったり両目をぎょろつかせたりしない。「箱の中の人」が人形の首や両目を操作できるためには、余裕が必要なのだ。

⑤メルツェル氏は機械を会場のいたるところへ移動させ、トルコ人(「ターク」)の掛け布を外し、この自動人形の背中と太ももに開いている扉(窓)を開け、その胴体に機械装置がぎっしりと詰まっていることを明かす。しかしよく検分すると、胴体内部に多くの鏡が設置されていることに気づく。これは体内の数個にすぎない装置を、胴体に機械装置がぎっしりと詰まっているように錯視させるためだ。本来なら発明者は、かくも驚くべき効果が「簡素な手法」(簡素な機械装置)でもたらされたことをアピールするはずだ。かくてこのチェス・プレーヤーの自動人形は「純然たる機械でない」と推測される。メルツェル氏はそもそも機械人形の発明者(技術者)らしい発想がない。
《感想》メルツェル氏は奇術ショーの興行主だ!機械人形の技術者でない!

⑥自動人形は普通、できるだけ「人間そっくりの動作」をすることをめざすのに、自動人形「ターク」は、いかにも「機械人形らしいしゃちこばって角ばった動き」を見せる。かくて「メルツェルのチェス・プレイヤー」は、事態の真相つまり「箱の中の人」を思い出させないように意図している。

⑦チェス・ゲームの開始に先だち、自動人形のからくりの箱(テーブル)の左端の鍵穴にメルツェル氏が鍵を差し込み「からくりのネジを巻く」と、チェスの対戦が始まる。自動人形が左腕を動かしチェスをつまみ、駒を動かす。だがネジを巻く音にある程度慣れ親しんだ耳を持つ者なら、この「ネジの車軸」がからくりを動かすはずの天秤やバネといった装置に連動していないとわかる。ネジを巻く作業は「自動人形が機械で動く」と錯覚させるためだ。(実際には「隠れた人」が自動人形「ターク」を動かす!)

⑧「自動人形は純粋機械なのか否か?」といった質問が飛ぶと、メルツェル氏は「企業秘密です」と答える。これは彼がこの自動人形が「純粋機械ではないのだ」と意識していることによる。(実際、「隠れた人」が動かす!)
Cf. (3)でエドガー・アラン・ポーの「純粋機械」についての見解が述べられる。「メルツェルのチェス・プレイヤー」がまったくの「機械人形」であり、「背後で人間が操る」ことなく動いているなら、「『確定的に進行しないチェスにおける駒の進め方』に対応できる機械的なからくり」が可能ということであり、恐るべきことだ。それは、バベッジの「計算機械」とは全くことなる。「メルツェルのチェス・プレイヤー」は「純粋機械」と呼ぶべきだ。
《感想》AI による「コンピュータチェス」は、ポーが定義する「純粋機械」に相当する。

⑨注意深い観客ははっきり気づく。箱(テーブル)の正面の「1番扉」を開けて見える多数の歯車・レバーなど機械装置について、手前はびくともしないのに、奥は箱(テーブル)が巡回するとともに変動している!それがどういう事情かといえば、「箱の中の人」が後方の扉(「後部扉1」)が閉まると、折り曲げていた上半身を直立させるからだ。
Cf. (8)によると箱(テーブル)の巡回における手順は(ア)まず鍵で「1番扉」を開ける。(中には多数の歯車・レバーなど機械装置がぎっしり詰め込まれている。)(イ)それを開けたままにしておいて、裏側の扉(正面の1番扉の裏側)(「後部扉1」)を開ける。そしてそこを炎のともったろうそくで照らし中を見せる。(その中にも機械装置が詰まっている。)(ウ)裏側の扉(「後部扉1」)を閉め、鍵をかける。

⑩自動人形「ターク」(トルコ人)は通常人よりずっと大きい。メルツェル氏より45センチ位背が高い。
《感想》かくて「中央区画」を自由に動けるようになった「隠れた人」は、自動人形トルコ人の胴体内部に入り込むのが容易だ。こうして「隠れた人」はトルコ人の薄織物の胸を通してチェス盤を眺める。

⑪自動人形「ターク」(トルコ人)の箱(テーブル)は全長106センチ、奥行き71センチ、高さ76センチなので、人間(「隠れた人」)が中に入るには十分だ。そして箱の上面の板は、よく観察すると、とても薄い。

⑫箱の内部の「中央区画」の内装には黒い布の裏地が施されている。そして裏地の黒い布は引き延ばすと2つの「仕切り」になる。
(ア)1つは黒い布は「中央区画」の後部と1番扉の後部の間の「仕切り」になる。(※裏側の後部扉1に鍵を差し込む時の音を合図に、「隠れた人」は身体を「中央区画」に投げ出すが、この姿勢はなかなか厳しい。このとき「隠れた人」は黒い布を仕切りにして投げ出した身体を隠す。できるだけ早くメルツェル氏は後部扉1を閉める。)
(イ)もう1つは黒い布は「中央区画」と「引き出しが開いた時の背後の空間」の間の「仕切り」になる。(※「中央区画」の「後部扉2」を開けた時は 「隠れている人」は「正面の1番扉」or「後部扉1」の内部の装置群の背後に戻る。「中央区画」にあった彼の足は、左側の引き出しが開けられたので、そこの空間に置く。)
⑫-2 そして同時に、箱の内部の「中央区画」の内装の黒い布は、箱の中の「隠れた人」が動くさいの音を消す。

⑬チェスの対戦者は3.6m離れた仕切りのロープの間際、観客者側に設置されたテーブルに座る。チェス盤は自動人形のトルコ人の前に一つ、対戦者のテーブルの上にもうひとつ置かれる。では対戦者は、なぜ自動人形「ターク」(トルコ人)と差し向かいでなく、このように機械全体(自動人形と箱)から離れているのか?
⑬-2 おそらく理由は、もしも対戦者が箱に接するかたちで座ったら、「箱の中の人」の息をはずませるのが聞こえてしまい、真相が露呈してしまうからだ。

⑭「メルツェル氏が機械内部を披露する際の手順」は、変更されることがあるが、「隠れた人」=「箱の中の人」が隠れ続けることができるという条件を壊すことはない。つまりいかなる場合においても、メルツェル氏が機械内部を披露する際、「私たちの解釈上不可欠な手順」(「隠れた人」を隠し続けるような手順)を外れることがない。このことは自動機械人形「メルツェルのチェス・プレイヤー」の中に「隠れた人」がいるという解釈を傍証するものだ。

⑮ショーの最中、自動人形のチェス盤には6個のろうそくが立っているが、対戦者側のチェス盤には1個のろうそくしか立っていない。ここから推測されるのは、これだけの明るさ(6個のろうそく)がないと「箱の中の人」がトルコ人(「ターク」)の胸の素材である薄織物から外(Ex. 自動人形のチェス盤)を透かし見ることができないということだ。
⑮-2 ろうそくの配置については、もう一つ注目すべき点がある。自動人形のチェス盤には6個のろうそくが立っているが、それらはチェス盤の左に3本・右に3本あって、かつすべて異なる高さで、光線が交錯し合う幻惑的効果を持つようにテーブル(箱)の上に配置されている。かくて人形の胸をなす薄織物の素材が何か(そこから「箱の中の人」は外を透かし見る)を突き止めるのを難しくしている。

⑯自動人形「チェス・プレイヤー」の最初の所有者はケンペレン男爵だったが、一度ならず報告されたことは、男爵の仲間だったイタリア人が、チェス・ゲームの最中には常に姿を消していた。
⑯-2 似たような報告は、自動人形がメルツェルに買われた時以来も、ついてまわった。シュランベルゼイという男が、メルツェルがどこへ行くにも随行した。そして自動人形「チェス・プレイヤー」が見世物になっている間は、この男の姿が決して見えない。見世物の前後にはシュランベルゼイの姿は嫌というほど目につくというのに!
⑯-3 これらの事実は「隠れた人」=「箱の中の人」の存在を傍証する。

⑰自動人形「ターク」(トルコ人)は左腕で勝負する。これは機械的操作と無縁だ。機械的操作なら人形の右腕での勝負も可能だ。だが「箱の中の人間」を想定すると、自動人形「ターク」(トルコ人)は左腕で勝負するしかない。「左腕(と左指)を動かしチェスの駒を動かす装置」、また「頭部と眼球を動かす装置」は正面から見て右側(自動人形の左側)の肩のところにある。これが機械装置のはいった「小区画」である。「隠れた人」が(※利き手の)右腕・右指で、人形の左肩にある「小区画」の装置を操作する。この装置は左腕と左指を動かす。かくて自動人形「ターク」(トルコ人)は左腕で勝負する。
Cf. すでに(8)で見たように、観客側から見て箱の正面の「2番扉・3番扉(折戸になっている)」は中が同一の区画になっている。その右側は「小区画」で機械装置がぎっしり詰まっている。ここに人形の左腕と左指を動かしチェスの駒を動かす装置、また頭部と眼球を動かす装置がある。この「小区画」(「中央区画」の右側)がこの機械の本質をなす。

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