宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

『向日葵の咲かない夏』道尾秀介(ミチオシュウスケ)(1975生)、新潮文庫

2011-09-29 00:44:35 | Weblog
 僕、ミチオ(小4、10歳)の3歳の妹、ミカは、事件後、4歳で死ぬ。この妹は実はトカゲ。3年前、1ヵ月半で、流産で死んだ妹は、写真ではトカゲのような姿だった。妹ミカがこのトカゲに生れかわった。
 1 
 S君が風に飛ばされて空を飛んでいくのを、ミチオが見つける。S君は、首を吊って自殺しその魂が空を飛んでいく。
 犬、猫が多数殺され、その脚が折られ、口に石鹸が詰め込まれる。
 ミチオのお母さんはゴミを決して捨てない。家はゴミだらけ。
 妹のミカは、トカゲだがしゃべる。このミカの発言はすべて、ミチオの創作。つまりひとり芝居。
 2
 軍荼利(グンダリ)明王に祈るトコお婆さんは実は、人間でない。彼女は、2年前に死んだ人間のトコお婆さんの生れ変りのネコ。おばあさんが語ることは、ミチオのひとり芝居。
 お爺さん、古瀬泰造は、一昨年、妻が死ぬ。娘がひとりいるが、今は会うことがない。
 3
 自殺したS君が、クモに生れかわる。
 トカゲのミカと、クモのS君は仲がいい。もちろん二人の会話は、ミチオの創作。
 S君が、「担任の岩村先生が、自殺した自分(S君)の死体を隠した」と言う。クモのS君の発言はミチオの創作。
 岩村先生が、少年を殺害しその遺体を陵辱する小説『性愛の審判』を書いた。これは事実。
 4
 S君はやぶにらみで、「臭い」といじめられていた。
 ミチオが好きな級友のスミダさんが「そのクモ、S君でしょう!」と言う。ところがスミダさんは1年前に交通事故で死んでいる。彼女の机の上の白い百合の花が、スミダさん。スミダさんの発言はミチオの創作。
 5
 岩村先生はS君を裸にしビデオにとっていた。
 6
 S君の死体が見つかる。犬のダイキチがビニールに入ったS君の死体を運んできた。
 7
 トコお婆さんの生れ変りのネコが殺される。脚を折られ口に石鹸が詰め込まれる。
 かつてS君はビンの中で子猫を飼い、成長して出られないようにし殺す。これは事実。「ボトルシップと同じ、ボトルキャットだよ!」とクモのS君が言う。S君の発言はミチオの創作。
 トカゲのミカと、クモのS君が、仲がいいのを見て、ミチオが嫉妬する。ミチオが、クモのS君が入っているビンに女郎蜘蛛を入れ、クモのS君を殺そうとする。残酷な感情。思いなおしてミチオは殺すことをやめる。
 交通事故で死んだスミダさんの死体の、脚の骨をお爺さん=古瀬泰造が折る。
 8
 お爺さん=古瀬泰造の父は早く死んだ。残された美しい母がいた。母は村の夫たちに体を売って生活。村の女たちに母は毒殺される。殺した女が仕返しに来ないよう、葬儀の日、女たちが死体の母の脚を折った。
 しかし母は墓から蘇り、腐った死体が石を振り下ろし、村の女たちのリーダー、駐在の妻の頭をつぶし殺す。当時、泰造は9歳だった。
 お爺さん=古瀬泰造は、死体のスミダさんが間違って自分に仕返しをしないよう脚を折った。スミダさんは、泰造が交通事故を目撃した直後はまだ生きていた。彼女は、泰造を犯人と間違え、彼に向かい「許さない!」と何度も言った。
 9
 S君はいじめられていたので残酷なことがしたかった。S君が犬・ネコをたたきつけ顔をつぶし殺す。
 生き返るのが怖くて、泰造が、死体の犬の脚を折るのを、S君が発見。S君は泰造の心の闇を察する。
 S君が、自分が殺した犬、猫の死体を、泰造に提供。
 泰造が、その脚を折る。骨が折れる音に快感する泰造。
 S君が飼う犬のダイキチが、S君が殺した犬・猫の死体を運び去らないよう、ダイキチの嫌いな石鹸を犬・猫の死体の口に、詰め込んだ。
 9-2
 ミチオは、「担任の岩村先生が、自殺した自分の死体を隠した」と言った噓つきのクモのS君を嫌いになり、指でつまみ、つぶす。ただしクモのS君の発言=嘘は、実は、ミチオの創作・ひとり芝居である。
 S君を好きなミカ(人間、実はトカゲ)がクモのS君のつぶれた死体を食べる。
 9-3
 交通事故で死んだスミダさんの脚を折った後、泰造は、自分が怖くなる。母親の死体が蘇ったとの自分の思いが勘違いだと確認すれば、自分は救われると思い、泰造は故郷の九州に行き調べる。
 泰造が知る。母は墓から蘇ったのでなく、野犬が掘り出した。母の脚が折られたのは座棺に遺体を入れるため。駐在の妻は通り魔殺人。
 すべてが勘違いと知った空虚。しかし死体の脚を折りたいという衝動が残る。死んだ犬の脚を折ったときの解放感。少女の脚を折った狂える行為の快感の記憶。泰造の孤独やさびしさが消える。
 9-4
 S君が最後にくれたプレゼントが、S君の自殺した死体。
 S君の死体を泰造が物置に運ぶ。しかし脚を折りたい欲求と、S君の死の哀れさとの葛藤で泰造がためらう間に、S君の飼い犬のダイキチが彼の死体を見つけ運び出した。
 泰造は、死体遺棄が警察にばれるのがひたすら怖かった。
 9-5
 泰造の狂える欲求が、ネコ=トコお婆さんをたたきつけ殺し、その脚を折るに至らす。
 10
 ネコ=トコお婆さんを殺した泰造を、ミチオ許さない。ミチオが泰造を、包丁で殺す。
 警察は、「S君を殺害した泰造が、罪の重さに気づき自殺した」というストーリーを採用。
 泰造がカマドウマに生まれ変わる。
 10-2
 ミチオはS君と二人で組んでやる演劇会が嫌だったのでS君に「死んでほしい!」と言った。そして本当にS君は自殺した。
 10-3
 母が階段を滑り落ち、1ヵ月半の赤ちゃん=ミカを流産。母は赤ん坊を産めないからだとなる。
 母が階段を滑り落ちたのは、ミチオが「火事だ!下駄箱が燃えている!」と言って母を呼ぶ演出をしたため。母の誕生日のプレゼントをミチオは下駄箱の中に隠していて母を驚かせ喜ばせたかった。
 これ以後、母は狂い、人形をミカと呼び、大事にする。ミチオには「嘘つき!」としか呼ばない。
 10-4
 もう「物語を壊す」とミチオ。家の自分の部屋のカーテンに花火で火をつける。
 母の物語:ただの人形を3年もミカと呼ぶ。ミカは3年前に、1ヵ月半で流産した、ミチオの妹。
 ミチオの物語:トカゲがミカ。クモがS君。ネコがトコお婆さん。白百合がスミダさん。皆、死んだ後、生れ変った。
 火事でミチオを2階の窓から外に投げおろし助けた父親が死ぬ。燃える人形のミカに執着した母親も死ぬ。
 ひとり、ミチオだけ生き残った。
《評者の感想》
 (1)
 3年前に、ミチオが演出した母に対する冗談が、引き起こした重大な結果。
 ミカが、トカゲに生れ変る。ミチオは、ミカ=トカゲを大事にする。ミカの生まれかわりの「物語」。
 母は人形をミカと呼ぶ。母にはミカの死が信じられない。母が持つ「物語」。
 誰もが自分を慰める「物語」を作る。
 しかしその「物語」に疲れてしまうときが来る。その時は「物語」が壊される。
 (2)
 ミチオは結局、多くの人の死にかかわる。
 妹のミカは、ミチオの火事の「演出」で結果的に死んだ。ミカはトカゲに生れ変る。
 仲が良かったトコお婆さんは、寿命で死んだ。トコお婆さんはネコに生れ変る。
 S君は、ミチオが「死んでほしい」と頼んだために死んだ。S君はクモに生れ変る。
 ミチオが好きなスミダさんは自動車にはねられ死ぬ。スミダさんは白百合に生れ変る。
 お爺さん=泰造は、ミチオが包丁で刺し殺す。お爺さんはカマドウマに生れ変る。
 生れ変りの話は、すべてミチオの創作した物語。
 ミチオが、物語を終わらす。家に火をつける。
 母が、焼け死ぬ。父も、焼け死ぬ。
 生きて残ったのは、ミチオだけ。ミチオの周囲には死が充満する。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『シズコさん』佐野洋子(1938生)、2008年、新潮文庫

2011-09-19 21:48:45 | Weblog
 著者が母親「シズコさん」について書く。反抗と和解の物語。
  1 反抗
 著者は母親にずーっと反抗してきた。4歳の時、手をつなごうとすると、母さんに手を振り払われた。二人のきつい関係の始まり。
 父さんは50歳で死んだ。私は19歳で母さんは42歳だった。1957年。
 母さんは劣等感からか、見栄をはる。
  2 モガ
 昔、1933-35年、母18-20歳、母さんはモガだった。(母、1915生)。
 父と母は恋愛結婚で結婚式を挙げていない。
 母さんはいつも、きちんと化粧していた。 母は、女として見栄と自慢を心棒にして生きた
  2-2 乳母捨て山
 今、母さんを老人ホームに入れ、自分は乳母捨て山に母を捨てた娘と思う。私の母への憎しみ、母を愛さなかったことへの自責の念から、母を特上の老人ホームにいれた。
  3 満鉄調査部
 北京での生活。父は帝大を出て満鉄調査部に勤務。母は20代後半だった。1945年まで。私7歳、母30歳まで。植民地支配者の「ワルモン」の生活。
  3-2 化粧
 1992年、母が77歳、私が54歳の時、私は罪滅ばしに母をヨーロッパ旅行に連れて行く。母はバッチリ化粧し、ネックレスをつけ、花柄のワンピースで、ハイヒールをはいて夕食に行った。母が旅行先から書く手紙はいつも感傷的で芝居がかっていた。
  4 父の死
 1957年(昭32)、父が死んだ(50歳)。父は地方公務員で官舎住まい。子供4人。母は負けん気と見栄で、この世を乗りきろうとした。母は市の母子寮の寮長となった。そして、父が死んで6年目、母は家を建てた。(1963年?)
 弟への父の期待は狂気じみ、弟は日記に「僕は父さんが死んでうれしい」と書いた。
 父の友人の渡辺先生が、残された子供たちの大学進学の学費を関係者から集めてくれた。
  4-2 嫁の悪口
 母は弟の嫁の悪口をさんざん言った。母は老人ホームにはいることを娘に伝えた。しかし娘3人、誰も引き留めなかったのでひどく泣いた。
  5 中国からの引き揚げ:《引き揚げ者時代(1947-49年)①》
 終戦の年、1945年、母が30歳、私が7歳の時、子供が5人いた。中国から引き揚げてくる。(1947年2月)父(7男)が買った家には長兄が居座った。この伯父は、父の死後、テテなし子4人からの無心をおそれ、絶縁状をよこした。
  5-2 兄の死
 私が9歳(小3)の時、1947年に、2歳上の兄が死んだ。兄の死とともに、母の私への虐待が始まった。
  6 仮小屋:《引き揚げ者時代(1947-49年)②》
 戦後、引き揚げ後に住んだ家はひどい家だった。田植え用に田んぼの中に作られた仮小屋を親戚から借りる。水道がないので川から水を天秤棒にバケツをくくりつけ運んでくる。それが私の役目。遊んで帰り水を汲まないと母が私の頭をグリグリ、柱に押しつける。赤ん坊が生まれると、川でのオシメの洗濯が私の役目となる。冬は寒く水が冷たい。きちんとオシメを洗わないと、母によって臭いオシメを顔に押し付けられた。「おしん」などたいしたこないと後に思った。畑の草取りも母から命じられた。大変だった。
 私は小学校の通信簿の「オール5」がうれしかった。
  7 虐待
 大学卒業後、就職し、デパートの宣伝部で私のポスターが採用された。母はしかし全く喜ばず暗く不機嫌だった。
 絵が抜群にうまかった兄が死んだ翌年、私が小4の時、1948年、絵で知事賞を取ったときも母は、不機嫌で喜ばなかった。
 妹は、母が私を虐待したのは、父の死(1957年)の後、母(42歳)が性的欲求不満だったからではないかと言う。私は、しかし、兄の死が、私への虐待の最大の理由と思う。母は私に死んで欲しかったのだ。
  8 静岡の官舎:《引き揚げ者時代(1947-49年)③》・《静岡の官舎へ(1949年)》
 私たちは引き揚げ者だった。昭和22年(1947年)2月大連から引き揚げて来る。母は百姓が嫌いだった。母は社交的で明るい人だった。享楽的で楽しいことが好きだった。
 小6になった年(11歳)、1949年に、一家は静岡の官舎に移る。水道があり、妹のおしめも取れた。母さんの手荒い仕打ちはぴたっと止まった。社交性が花開いた。陽気な笑い。客好き&もてなし好き。
 しかし母さんのおかげで私はめったに泣かない女になっていた。
  9 高校教師:《静岡・清水の官舎時代(1949-1957)(その1)。私11歳-19歳の年。母34歳-42歳。》
 母の水餃子はおいしかった。母は一生、「お若いですね」と言われていた。
 夕食の時、父は必ず訓辞をたれた。「創意工夫」と必ず言った。父は一度も浮気をしなかった。稀有なこと。父は帝大卒で、戦後は高校教師。
  10 シゲちゃん・キミちゃん:《静岡・清水の官舎時代(1949-1957)(その2)》
 叔母の家に、知的障害がある母の弟(ヒーヒーしか言わないシゲちゃん)&妹(ドタドタ歩くキミちゃん)がいた。私との結婚前、夫は、遺伝のことで「結婚したくない」と初めは言っていた。
 父と母は大恋愛。父さんが親友の恋人を取った。母は実用的で、帝大出と結婚すると言っていた。父は帝大出。「女はプロポーズされるように持って行くのが腕よ!」と母。
  11 反抗期:《静岡・清水の官舎時代(1949-1957)(その3)》
 私は大人に好かれない子どもだった。私は大学の附属中学に合格・進学するが、父母とも生意気になると反対だった。1951年、13歳、私の反抗期のスタート。1956年、18歳まで私は家で口をきかなかった。私を反面教師に二女は愛嬌が良く、父にも母にも気に入られた。私は、12歳年下の妹をかわいがった。
  12 母50歳-70歳
 母は長女だが、知的障害がある弟のシゲちゃん、妹のキミちゃんを引き取らなかった。母さんは知恵遅れの自分の弟・妹を嫌いだった。叔母がふたりを見た。
 母は身ぎれいで、化粧バッチリ、「若い」と言われた。母は牛込柳町の出身。母は「ごめんなさい」と「ありがとう」を言ったことがない。そう言うことが「人生の負け」と思っていたのかもしれない。
 私(1938生)の30歳-50歳、母(1915生)50歳-70歳は、私と母の関係は平穏だった。
  13 清水の一軒家:《静岡・清水の官舎時代(1949-1957)(その4)(この後半が、清水時代①)》
 私の反抗期が激しくて、母が泣きながら「私のどこが悪いのよ」と云った。私は「優しくない」と云った。母は黙った。
 母は人好きな父のため、料理を作り、機嫌良く同席し良く笑った。母は父の帰宅前、必ずお白粉をはたき口紅をムパッとつけた。父と母は毎晩、夫婦喧嘩をしていた。
 父の転勤で清水に移り、官舎が長屋から一軒家になった。母はお花を習い始めた。父が死ぬ前の5年間くらい、清水の時代は母が一番幸せな時代だった。母は父の教え子たちを上機嫌でもてなし、楽しそうに話に加わり、お客好きだった。
  13-2 現実主義者
 父は左翼だった。母は左翼かぶれにならず、頑迷な現実主義者で抽象的な議論などしなかった。母は有能な主婦。家はいつも「子どもが居ない家」みたいにきれい。
 私は「ごめんなさい」・「ありがとう」を言わない母が嫌いだった。母が呆けて初めて優しい会話ができるようになった。
 妹も私も、母が恋しくて「ホームシック」になるなどなかった。かわいそうな母さん、かわいそうな私たち。
  14 生け花:《父の死以後の時代(1957-、母42歳-):清水時代②》
 母は弟子をとって生け花を教え始めた。
 私は18歳のとき、東京に出てきた。私は大学を卒業した年の10月に結婚した。私は30歳で子どもを産んだ。
  14-2 母が家を建てる:《清水時代③》
 私が30歳の時、母(53歳)は清水に、家を建てた。(1968年?)「姉さん男が居るわよ」と叔母が言った。母さんは、ばれるようなドジは踏まない。黒でも白と平気で開き直る。母は生け花を教え、短歌、俳句、コーラスをやる。行動力と積極性。
  14-3 弟夫婦との同居と嫁ノイローゼ:《清水時代④》
 弟夫婦と同居すると、母は嫁の悪口ばかり言った。母は嫁ノイローゼだった。家は、母の家。
 70歳の時、母は胃ガンで胃を摘出した。母に親友がいて、母は彼女を本当に信頼していた。その親友が入院していた母に付き添った。
  15 《母、清水から東京へ:母78歳・79歳(1993-94年)》
 公務員の弟が、飲酒の交通事故で公務員を懲戒免職になる。清水の家から母は、嫁によって追い出され、東京の私のところに来た。私は、弟の嫁から「お母さんを引き取っていただきます」と言われた。
 2年近く、私は母と同居とした。母は、生活基盤を失って、優しいおばあさんになってしまった。母は私の連れ合いに遠慮して、何も云わない。自分の部屋で母は1日中、テレビを見ていた。
 母はショッピングカートを「嫌だわ、年寄りくさい」と云って一度も使わなかった。
 1994年、母79歳のとき(私56歳のとき)、母は呆けがすすみ目の前の病院がわからない。
  16 《母、老人ホーム時代(1995-2006)》
 1995年、母80歳、老人ホームに母を入れた。毎月30万円以上かかる高価な老人ホーム。母は社交を開始し、化粧をし、洋服を取り替え、ネックレスをつけて食事した。妹は毎週、老人ホームに行った。私がたまに行くと「まあ洋子なの」と母が喜んだ。
  17 健気な母親
 母は22歳から子を産み、32歳に5人の子持ちだった。(私は32歳で2歳の子ども一人なのに髪を振り乱していた。)32歳の母は引き揚げ船の船底で、健気な母親だった。10歳の兄から乳飲み子まで5人いた。
  17-2 戦後民主主義
 個性の戦後民主主義の時代になり、母の地金が全開した。母は父に口答えするようになり、子どもを小突きまわすようになる。権利だけを主張する時代。夫婦喧嘩の最中に父が「お前は変わった」と言い、母が黙った。
  17-3 父の帝大出の友人たち
 父が死んだとき、母は42歳。19歳の私をかしらに4人の子ども。母は公務員になり(母子寮の寮長)、子どもを大学まで通わせた。父の友人(帝大出)たちが母を支えた。友人の友人が知事だった。
  17-4 『中国農村慣行調査(満鉄調査部)』
 母は父を尊敬していた。父たちが行っていた『中国農村慣行調査(満鉄調査部)』6巻(1952-58出版)は朝日文化賞を受けた。彼らグループは一生の付き合いだった。父(サノリイチ)は‘カミソリ’と言われた。病弱で頭ばかり冴えていた父が、現実的でたくましく健康だった母に惚れたのかもしれない。
  18 母:精神はタフで荒っぽかった
 父が死に42歳の母には女の色香があったはず。性的誘惑も多かったはず。母が「お父さん、お父さん」と泣いたことがあった。母には後に男友達もいたが、母は父を尊敬していた
 18歳で私は東京に出て、一浪して美大に入った。
 母は愚痴をこぼし人の悪口も言ったが、しょぼくれた母は見たことがない。精神はタフで荒っぽかった。母は子どもの話をしみじみ聞くことがなかったので、子どもは母に話さなくなった。
  19・20・21 母は老人ホームに12年も居続けた(母80-91歳)
 母は、77歳で自分の家を追い出された。80歳のとき、老人ホームに入る。やがて母は呆け、優しいおばあさんとなる。ヘルパーさんに「どうもありがとう」「ごめんなさい」と母は言うようになった。
 母が正気のとき、強く、荒っぽく、乱暴で険しい人だったから生きてこれたと思う。私が父のお気に入りだったのが、母には気に入らなかったのかもしれない。
  22 北京時代
 北京時代、黒いビロードの支那服にハイヒールを履いて、母は父と出かけた。母は綺麗だった。中国時代は、普通の母さんらしい母さんだった。
  22-2 かわいい母さん
 母さんは呆けてかわいい母さんになった。
  23 母は満91歳で死去した
 私は父に似て、母の嫌なところをつめてつめまくった。母は、父に似て優秀な娘に嫉妬した。
 母は、2006年、満91歳で死去した。(2006年)母さんは、波乱に満ちた生涯を実に力強く生きた。母は、一番気の合わない娘の私を、一番、信頼していた。私は70歳(2008年)。静かで懐かしいそちら側に私も行く。ありがとう。すぐ行くからね。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『つむじ風食堂の夜』吉田篤弘(1962生)、2002年、ちくま文庫

2011-09-11 22:22:38 | Weblog
 《食堂》
 つむじ風食堂にある皿にあるたくさんの「傷」。それらが思いおこさせる懐かしさ。
 
 《エスプレーソ》
 私、つまり「先生」の父は手品師だった。「先生」は物書き。
 父は、子どもの私を劇場に連れて行った。その地下のコーヒースタンドで、父はエスプレーソを飲んだ。
 マスターは、タブラさんと呼ばれた。
 「先生」は、すべてのものに平等に降る雨が好き。「先生」は人工降雨(雨乞い)について風俗史的に調べる。

 《月舟アパートメント》
 「先生」は月舟アパートメントの7階、屋根裏部屋に住む。
 「果物屋の青年」はいつも本を読む。
 月舟アパートメントの5階に舞台女優の奈々津さんが住む。彼女はいつも主役になれずイライラしている。
 「自信がなさそうに迷うのは嫌い!」と奈々津さんが「先生」に言う。後で、しかし「ごめんね」と謝る。

 《星と唐辛子》
 「先生」は、「ワニの涙とは虚構である」などの雑文を書く。今は、唐辛子について書く。
 走ることはない。急ぐことはない。人を走らせるのは醜い化け物と「先生」。
 「果物屋の青年」は夢を持つ。彼はイルクーツクの星を描きたい。

 《手品》
 「年を取ると無駄な知識が増え、大きなテーマを忘れる。夢や欲望が消える。」と「帽子屋」が言う。
 「オレは、世界に同化し外側になることで、オレを見ることができる」と「帽子屋」。
 「オレを、オレのまま逃がしたい」と食堂の店主。
 オレなどなくても「果物屋の青年」には「星」がある。

 《帽子と来客》
 「私のために、お芝居をひとつ書いてほしい」と奈々津さん。それも「ひとり芝居を書いてほしい」と頼む。
 「先生」は、考えさせてほしいと答える。

 《奇跡》
 父が手品を演じた昔の劇場は、美術館に建替えられた。
 美術館の地下に、昔のコーヒースタンドが残っていた。「珈琲タブラ」の看板!
 タブラさんの息子と、手品師の息子(「先生」)が出会う。
 「先生」が言う。書く仕事は手品のようなもので、小さなものを大きく見せたり、何もないところから花を咲かせたりする。

 《つむじ風》
 奈々津さんが言う。「ここ」とは、つむじ風みたいな「小さな交差点」のようなものだと。
 「先生」は芝居を書くと決意し、「どんなお芝居にしましょう?」と奈々津さんに尋ねる。

 《月舟町余話―あとがきにかえて》
 月舟町は頭の中だけにある。
 しかし頭の中にあるなら、それだけの理由がある。

 《評者の感想》
  1
 作品は、父の思い出を懐かしく描く。
  2
 「先生」つまり私は、手品を誇りに思う。
 また「先生」は、物書きと手品師がある点で共通だと言う。「小さなものを大きく見せたり、何もないところから花を咲かせたりする」。
  3
 「オレをオレのまま逃がしたい」と、自己の素直な肯定:食堂の店主。
 他方で、青年(「果物屋の青年」)の「夢」が肯定される。「夢」は、その人の自己(「オレ」)を超える。
  4
 人生において急ぐことを著者は拒否する。「走ることはない。急ぐことはない。人を走らせるのは醜い化け物」と著者が言う。
 しかし、そうだろうか?
 評者は、つい走ってしまう。急いでしまう。
 人を走らせるのは、人の生に内在する必然性、あるいは苛烈な運命。
 それは化け物かもしれないが、醜くはない。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ワーキングガール・ウォーズ』柴田よしき(1959生)、2004年、新潮文庫

2011-09-10 15:28:45 | Weblog
 《ピンクネイル・ジャーニー》
 私は黒田翔子、37歳。未婚、入社14年。1988年、バブルのさなかに就職。都心にマンションを持つ。一部上場会社の正社員で係長。
 「お局様」の立場。年収・年金・退職金、確保のため勤めてきた。
 自分の悪意に嫌になり、またマンション購入後、お金が遣えず、フラストレーションがたまる。休息のため、オーストラリアへのケアンズ旅行を計画。

 《ペリカンズ・バトル》
 黒田翔子は、ケアンズの公園を歩くペリカンが見たい。
 嵯峨野愛美はケアンズ在住、29歳。ハワイ大、2002年6月卒。英語はペラペラ。しかし大不況の時代、しかも20代後半の女性に就職先がない。
 ようやく年収200万円で旅行会社のケアンズ支店に採用される。
 翔子と愛美はメーリングリストでメール友達となる。
 翔子がケアンズに行く。愛美がツアーのガイドとして翔子を担当する。
 ツアーには大泉嶺奈が一人旅で参加。嶺奈は、自分を捨て別の女と結婚した男に復讐するため、男の新婚旅行に秘かについてきた。
 翔子と嶺奈が取っ組み合いの大喧嘩を公園でする。
 「私を捨てたのにあの男はペリカンにパンをあげるのかと腹が立ち、ペリカンに石を投げた!」と嶺奈。
 「ペリカンを見にケアンズまで来たのに、あの女が大事なペリカンに石を投げた!」と翔子。
 愛美が喧嘩を止め、結局、3人が一晩のみ明かし、友達となる。

 《リバーサイド・ムーン》
 高学歴のエリート新入社員、神林麻美への嫌がらせ。
 係長の翔子は「仕事の妨害までしたとなると捨て置けない」と調査を始める。
 営業部から企画部にきた部下の八幡光雄から事情聴取。
 その中で、翔子は、八幡から「あなたの心が退屈し暇をもてあましてる」と図星の指摘を受ける。
 翔子は自分と八幡が似ていると思い、八幡を好きになるのではとの予感を持つ。

 《ホリデー・イン・ディセンバー》
 オーストラリア・ケアンズの愛美が、京都に遊びに来る。
 フランスからの旅行者ピエールが、フランスに2ヵ月留学した日本の女の子ヨー子の後を追い京都に来る。
 日本を離れたとたん性的に奔放になるジャパニーズ・ガール。
 「あきらめてください」と2ヵ月後、ヨー子は分かれたがピエールに住所を渡す。ところが、これが偽の住所。だが真面目なピエールは日本にやってきた。
 ヨー子の、白人への悪意。日本人の白人コンプレックス。2ヵ月からだを開き、しっぺ返しにピエール君を傷つける。 ヨー子はかわいらしい笑顔と生真面目な眼差しを持つ、醜い妖怪。白人の男と寝てみたかっただけ。
 英語ができる愛美が、片言英語のフランス人ピエールを助ける。
 ピエールが偶然ヨー子を発見。ヨー子が逃げる。
 
 《ブラッディーマリーズ・ナイト》
 係長黒田翔子が部下の八幡光雄と恋人未満・友達以上の関係となる。メシ友
 生理用ナプキン盗難事件。また重要原画が破棄書類箱に故意に入れられ誤ってシュレッダーされる事件が起こる。
 翔子が調査。犯人が生命保険勧誘員の女性とわかる。話をろくに聞いてくれない大会社の女性社員への嫌がらせだった。

 《バイバイ・ロストキャメル》
 大泉嶺奈が婚約する。相手は画家。
 ところが嶺奈はまだ、自分を振った前の彼氏が忘れられない。
 それを、画家が許せない。
 嶺奈と画家がオーストラリアに旅行にやってくる。
 画家が、広大なオーストラリアで気づく。この宇宙に自分は一人、孤独だと。彼は嶺奈を受け入れる。

 《ワーキングガール・ウォーズ》
 妻子持ちの宇田課長は女たらし。
 翔子の部下の派遣社員の女性に、自分の意に従えと宇田課長が迫る。パワハラ。
 翔子は、仕事の妨害を許さない。部下の女の子たちが被害に合うのを阻止する。
 かつては翔子も、若い頃、宇田課長に誘われ寝た。しかし課長が二股どころか三股とわかり、ファイルでぶったたいて別れる
 今回、翔子は課長を呼び出し、部下の派遣の子に手を出すなと言い、「家族にばらされたくなかったら、自分の前から消えろ」と伝える。

 《エピローグ》
 黒田翔子が言う。「負けないもんね。絶対に!」と。

 《評者の感想》
 黒田翔子の最後の一言がとてもいい。これが、この本の主題だと思う。「がんばれ!」と応援したい。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ノルウェイの森』村上春樹(1949生)、1987年、講談社文庫

2011-09-02 23:54:35 | Weblog
 《評者の感想1》
 哀しい物語。
 小6のときに、自分をとてもかわいがってくれた姉を自殺で失い、首をつって死んだ姉の顔を見てしまった妹。彼女が直子。
 その苦しみからのがれるため、直子が頼った幼馴染で、また恋人であるキズキ君も、高2のとき自殺する。
 直子は、打撃を二重に受け、心を病む。
 僕、ワタナベは、キズキの友達だった。僕が直子と会ったのは高2のとき。キズキの彼女が直子だったから。3人で会うことがしばしばあった。
 キズキの死後、僕は、直子を好きになる。
 しかし直子は死んだキズキのことだけ考えていた。そのことを、僕は最後にようやくわかる。
 直子は僕に二つだけお願いがあると言った。①「あなたに、私が感謝してる、とわかってほしい」②「私のことを忘れないでほしい」と。
 直子は結局、首をくくる。彼女は、キズキ君のところに、またお姉さんのところに帰った。直子は二人の声を幻聴の中でいつも聞き、二人と会話していた。
 僕は、ビートルズの「ノルウェイの森」に歌われているように、かわいい小鳥を失った。

 第1章
 今、僕は37歳。18年前、20歳の1969年の秋、直子は死んだ。僕は直子の回復を待ち一緒に暮らすことを考えていた。
 直子は僕に感謝していたが、僕を愛していなかった。
 直子は、死んだキズキを愛し続けていた。
 
 第2章
 高2のキズキの死後、僕は直子と会うことがなかった。
 僕は高3の時、ある女の子と寝る。その子は泣いたが、僕は別れて神戸から東京に出てくる。1968年4月。
 やはり東京の大学に出てきた直子と、偶然出会う。
 
 第3章
 僕は、死んだ友達の恋人、直子とデートする。
 1968年に僕はフィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』を完全な小説と思う。思想的に「反動」に近かった。
  1
 ギャッツビーを読む点で、僕は2歳年長の東大法学部の永沢さんと友人になる。
 頭がよく、オーラがあり、男ぶりがよい永沢さんと何度か、寝る女の子を捜しに出かけ、彼の魔力で僕は合計7-8人の女の子と寝る。
  2
 直子も望んだので、僕は彼女と何度もデートする。
 1969年4月、直子が20歳となる。死んだキズキは17歳のまま。
 誕生日の日、彼女は4時間、しゃべり続け、その後、泣き続けた。
 その夜、僕は直子と寝た。
 直子はキズキと寝たことがなかった。なぜなのかと尋ねると彼女は泣いた。
  3
 その後、直子は突然、越してしまう。
 彼女は精神の病気で療養所に入った。「あなたに会う準備ができていない」と直子が手紙で僕に伝える。
  4
 1969年5月から「大学解体」のスト。夏休みに機動隊導入。
 すると「大学解体」と言った連中が授業に出ている。単位がほしいのだ。下劣な連中。

 第4章
 僕は「演劇史Ⅱ」の講義に出ている小林緑と出会う。緑は文章が書け旅行のガイドブックの原稿を書き結構、お金が入る。
 僕は、「人に好かれなくたって構わない」と思っている。
 新宿で男に裏切られて傷心していた小柄の女と僕は寝る。

 第5章
 直子から手紙が来る。「歪みを矯正するのでなく、歪みに馴れるための治療を、京都の阿美寮で受けている」という。

 第6章
  1
 僕は、1969年、夏、直子に会いに阿美寮に行く。高い費用がかかるコミューンのような療養所。
 直子のルームメイトの患者で音楽の先生が、39歳のレイ子さん。
  2
 直子が僕に言う。「キズキ君と寝てもいいと思っていた。彼も私と寝たがっていた。でも、私が全然、濡れなかった。キズキ君に指と口で射精させてあげた」と。
  3
 そして「キズキくんが死んじゃって、どうしていいかわからなくなった。人を愛するのがどういうことか、分からなくなった」と直子。
 《評者の感想2》
 彼女は、姉の自殺に出会ったとき、すでにこう思ったのだ。彼女はまだ小6だったので、この気持ちは彼女に内向した。 彼女のこの精神的外傷が、キズキ君との愛を恐れさせ、だから彼女は「全然、濡れなかった」のだ。
 それなのに今度はキズキ君が自殺してしまい、彼女は、一体、どうしたらいいのか?彼女は2度も、愛する人から拒絶された。直子は耐え切れない。
 直子は二人の死者に、「なぜ自殺したのか」、「自分を本当に拒絶し自殺したのか」聞きたい。だから彼女は、姉とキズキ君の声をはっきり聞く。激しい幻聴を彼女は体験する。
  4
 「感情を外に出せないと感情が固まって体の中で死んでいく。そうなると大変」とレイ子さんが言った。
 「行きずりの女の子と寝続けると自分をすり減らす。直子を大事にしたいなら自分を大事にしなさい」とレイ子さんが僕に言う。
  5
 「私は病んでいて根が深いから、あなたを道連れにするから、置いていってほしい。道連れにしたくない」と直子が言った。
 そして「何十年、あなたが待っても私は治らないかもしれない」と直子。
  6
 レイ子さんは、4歳からピアノを始め、大変上手でプロのピアニストになることをめざしていた。ところが、音大4年のとき、突然小指が動かなくなり、生きる意味が消える。ボンと頭のねじが吹き飛ぶ。エネルギーの玉のようなものが体から消える。
 人への信頼、ご主人との結婚で、レイ子さんは病気から立ち直る。
 ところが、筋金入りのレスビアンで、お人形のように綺麗で悪魔みたいに口のうまい13歳の女の子の罠に、レイ子さんはかかる。レイ子さんがピアノを教えた女の子。あの子は体の芯まで腐っていた。
 夫が引っ越してくれず、レイ子さんがガス自殺未遂。夫とは離婚。夫は2年前に再婚。レイ子さんは阿美寮に入る。

 第7章
 僕は、友達として付き合っていた小林緑がだんだん好きになる。
 ミドリの父が死ぬ。「タノム、ミドリ」と父親が言った。

 第8章
 永沢さんの恋人のハツミさんは、永沢さんが好きだった。しかし外交官試験に合格し外務省に入省した永沢さんは傲慢。そして海外勤務に就いてしまう。
 ハツミさんは2年後に別の男性と結婚するが、その2年後に自殺した。

 第9章
 小林緑が僕に「あなたのこと好きだ」と言う。そして「私のことずっと大事にしてくれるよね」と言った。
 直子が手紙で「淋しい時、死んだキズキ君やお姉さんが話かけてくるので、お話をします」と言う。

 第10章
 1969年末の冬に、僕は京都の阿美寮に行く。
直子が小さな白い下着だけになり、指と口で、僕を射精させてくれた。「君のフェラチオ、すごかったよ」と僕が言う。「キズキ君もそう言ってくれたわ」と直子。
 「私は濡れない」、「全部、精神的なもの」と直子が言う。
 僕は直子に口付けする。「さよなら」と直子が言った。これが二人の別れとなる。
  1
 1970年、僕は「4月から一緒に住みたい」と直子に手紙を書く。
 しかしレイ子さんから「直子は言葉が選べないし、幻聴もひどい」、「直子は混乱して怯えています」と返事。
  2
 直子のことだけ考えている僕に、緑は「『その髪、かわいいね』とさえ、あなたは言ってくれない」と絶望し、「もう声をかけないで」と伝える。
  3
 直子は激しい幻聴があり新しい病院に移る。レイ子さんからの手紙。
  4
 緑はこれまでの彼と別れる。僕は緑と和解した。
 「浮気しないように、色んなふうに処理してあげる方法を知ってる」と緑が僕に言った。
 僕はすでに緑を愛していた。

 第11章
  1
 1970年8月、直子が首をくくり自殺した。直子は、死んだキズキを選んだ。
 僕は1ヶ月、放浪する。緑には「しばらく会えない」と連絡する。
 直子は白い灰になり、緑が生身の人間で残る。
  2
 直子のことを報告に来たレイ子さん(19歳年上)と寝て、僕は4回、射精する。
 レイ子さんが「あなたの痛みは緑さんとは関係ない」と忠告する。
  3
 僕は、緑に電話をかけ、「世界中に君以外に求めるものは何もない。君と二人で最初から始めたい」と言った。 

 《評者の感想》
 評者は、著者の1歳年下。1968年から1970年の時代は、ほぼ同年齢で体験した。当時の雰囲気が分かる。
 著者は、女性にもてるし、遊ぶお金があるし、口もうまく、頭もよい。うまく生きていける人だ。
 著者は、18年たって、かつての若かった時代を見事に総括した。合理主義者。過去の体験を、大変上手に合理的に説明した。
 しかしこれは紙の香華である。著者が愛した死者との約束を果たすための詳細な墓碑。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする