(1)大潟村に入植(1970年)
A 大規模農業のモデル地区・秋田県大潟村は、2014年で開村50年。
A-2 涌井氏は当時21歳。新潟県十日町市の農家出身。約1.3haの田んぼで、コシヒカリを作る。後継ぎとして、規模拡大を希望。しかし十日町市は山間地で狭く、ほかに仕事もないので水田を手放す人がいない。
A-3 県庁の人が、「規模拡大するなら、大潟村に入植したらどうか」と勧めた。10haの農地配分が何より魅力的。実家の家屋・農地を売り払い一家で大潟村に移住。1970年、21歳。
(2)減反開始(1970年)の数年後:自殺者が大潟村で5人も6人も出る
B 1970年、減反開始。大潟村は減反で、いったん入植中止。5000haの農地が余っていたので数年後、追加の入植、およびすでに入植していた人に追加の農地配分。
B-2 ただし追加の農地配分を受けた農家は、全体の半分しかコメを作ることが許されない。追加の農地配分で涌井氏は、農地15haに増加。しかし水田は、10haから7.5haに減る。干拓地で地盤軟弱、地下水多く、畑作に向かない。
B-3 結局、7.5haの水田だけで、15ha分の借入金を返すのは無理。長引く減反、畑作の不振により、自殺者が大潟村で5人も6人も出る。重苦しい空気。
(3)減反政策に立ち向かう:農事調停で自主的作付け可能となる(1983年)
C 償還金を払い、生活するために、農地の半分以上でコメを作る。減反に従わない。
C-2 契約違反と、国は「青刈り」を求める。従わなければ田んぼを強制的に買い戻すと国。かくて涌井氏は従う。従わずに農地を国に買い戻された人もいた。
D 涌井氏は、「自分の田に、なぜコメを植えることができないのか」と弁護士を立て、1983年に、裁判所に農事調停を起こす。「農家が自分の田にコメを作ってはいけないという法律は、存在しない」と裁判所の結論。
D-2 自主的作付けをする人が増え、1985年、大潟村の過半数が全面積にコメを植える。
(4)「ヤミ米」が食糧管理法違反で告発される:しかし不起訴(1985年)
E 今度は、減反に従わない農家のコメは、国が「買い取らない」と言う。独自のルートで売ったコメは「ヤミ米」と呼ばれる。
E-2 コメを売らせないため1985年に、24時間態勢で、村の出入り口検問。
E-3 自主的にコメを売った中心的な農家が、食糧管理法違反で告発される。涌井氏を含め、60人以上が警察・検察から事情聴取を受ける。
E-4 しかし告発された農家、不起訴。かくて減反に従わず自由にコメを作って良くなる。
(4)1987年「大潟村あきたこまち生産者協会」設立:産地直送販売
F 自由なコメ作りがOKとなったが、これはゴールでなく、スタート。涌井氏は15歳で農業を志した時から、「若者が夢と希望を持てる農業を創造する」が目標。
F-2 当時から、「六次産業化」を目標に農業に取り組んできた。生産(一次産業)だけでなく、加工(二次産業)、販売(三次産業)も一体的に行う。
G 涌井氏、1987年、「大潟村あきたこまち生産者協会」を設立。産地直送販売。
G-2 ところが国・農協が宅配会社に圧力。10日間もコメが配達不能。1万人のお客さんにコメがお届けできない理由を書いた手紙を送り、「もう少しお待ちください」と支援を呼びかける。マスコミが報道し、逆にお客さんが増える。
H その後、お餅、発芽玄米、麺なども商品化。設備に数億円かかるが民間金融機関から借り入れ。現在(2013年)、売上高40億円。これを1,2年で倍にしたいと、涌井氏。
(5)農業を、家業から産業にしていく必要
I 減反の40年間で、若者の就農希望者減少、農家高齢化で平均年齢66歳、耕作放棄地40万ha。農業は崩壊の危機。またた。
I-2 家族農業は役目を終え、農業を家業から産業にしていく構造改革が必要。
(6)TPP時代:生産コストを下げるため「東日本コメ生産者連合会」設立(2013年)
J 2013年、6つの農業法人が出資し「東日本コメ生産者連合会」設立。涌井氏が社長。
J-2 TPP時代には、米価が1俵(60キロ)8000円(想定)。全国的な組織を作って、生産コストを下げねばならない。
K 日本の農業のコストの多くが機械のコスト。稼働日数を増やす必要。
K-2 例えば稲刈りは、秋田県で1ヵ月間(9/15~10/15頃)だが、日本全体では3ヵ月月間、稲刈りができる。全国的な組織で、農業機械を九州から東北まで順番に回せばいい。
L 1.5haの一般的な農家でコメの原価は1俵2万円。コストを5000円以下にする必要。
そのために、①面積の拡大、②同じ面積で多くのコメが採れる多収品種の開発。
L-2 かくて国に望みたいのは、①面積の集積支援、②多収品種の開発。
(6)-2 農協の担保主義
M 「連合会」に、民間金融機関が大きな関心。民間金融機関は、今まで農業金融に入れなかった。
M-2 農協は担保主義。自作地5ha、借地95haなら、5haを担保にした額しか貸さない。
M-3 民間金融機関なら、売る上げに応じて貸せる。また新しいビジネスチャンスになる。
(6)-3 農業のコストダウンは手数料収入の減少:農協
N 生産コストの引き下げのための広域連合は、農協なら本来、簡単。農協には全国組織があり、機械も持つし、整備工場もある。しかしなぜやらないか?
N-2 農協にとって、農業のコストダウンは手数料収入の減少につながるから、やらない。
(6)-4 ライバルになる会社を育てる:農協の改革のため
O 巨大組織・農協の体制内改革をするには、ライバルになる会社が必要。NTTに対するKDDIのようなもの。
O-2 「東日本コメ生産者連合会」を、専業農家の支援組織にしていきたいと、涌井氏。総合農協のJAグループのライバル。
A 大規模農業のモデル地区・秋田県大潟村は、2014年で開村50年。
A-2 涌井氏は当時21歳。新潟県十日町市の農家出身。約1.3haの田んぼで、コシヒカリを作る。後継ぎとして、規模拡大を希望。しかし十日町市は山間地で狭く、ほかに仕事もないので水田を手放す人がいない。
A-3 県庁の人が、「規模拡大するなら、大潟村に入植したらどうか」と勧めた。10haの農地配分が何より魅力的。実家の家屋・農地を売り払い一家で大潟村に移住。1970年、21歳。
(2)減反開始(1970年)の数年後:自殺者が大潟村で5人も6人も出る
B 1970年、減反開始。大潟村は減反で、いったん入植中止。5000haの農地が余っていたので数年後、追加の入植、およびすでに入植していた人に追加の農地配分。
B-2 ただし追加の農地配分を受けた農家は、全体の半分しかコメを作ることが許されない。追加の農地配分で涌井氏は、農地15haに増加。しかし水田は、10haから7.5haに減る。干拓地で地盤軟弱、地下水多く、畑作に向かない。
B-3 結局、7.5haの水田だけで、15ha分の借入金を返すのは無理。長引く減反、畑作の不振により、自殺者が大潟村で5人も6人も出る。重苦しい空気。
(3)減反政策に立ち向かう:農事調停で自主的作付け可能となる(1983年)
C 償還金を払い、生活するために、農地の半分以上でコメを作る。減反に従わない。
C-2 契約違反と、国は「青刈り」を求める。従わなければ田んぼを強制的に買い戻すと国。かくて涌井氏は従う。従わずに農地を国に買い戻された人もいた。
D 涌井氏は、「自分の田に、なぜコメを植えることができないのか」と弁護士を立て、1983年に、裁判所に農事調停を起こす。「農家が自分の田にコメを作ってはいけないという法律は、存在しない」と裁判所の結論。
D-2 自主的作付けをする人が増え、1985年、大潟村の過半数が全面積にコメを植える。
(4)「ヤミ米」が食糧管理法違反で告発される:しかし不起訴(1985年)
E 今度は、減反に従わない農家のコメは、国が「買い取らない」と言う。独自のルートで売ったコメは「ヤミ米」と呼ばれる。
E-2 コメを売らせないため1985年に、24時間態勢で、村の出入り口検問。
E-3 自主的にコメを売った中心的な農家が、食糧管理法違反で告発される。涌井氏を含め、60人以上が警察・検察から事情聴取を受ける。
E-4 しかし告発された農家、不起訴。かくて減反に従わず自由にコメを作って良くなる。
(4)1987年「大潟村あきたこまち生産者協会」設立:産地直送販売
F 自由なコメ作りがOKとなったが、これはゴールでなく、スタート。涌井氏は15歳で農業を志した時から、「若者が夢と希望を持てる農業を創造する」が目標。
F-2 当時から、「六次産業化」を目標に農業に取り組んできた。生産(一次産業)だけでなく、加工(二次産業)、販売(三次産業)も一体的に行う。
G 涌井氏、1987年、「大潟村あきたこまち生産者協会」を設立。産地直送販売。
G-2 ところが国・農協が宅配会社に圧力。10日間もコメが配達不能。1万人のお客さんにコメがお届けできない理由を書いた手紙を送り、「もう少しお待ちください」と支援を呼びかける。マスコミが報道し、逆にお客さんが増える。
H その後、お餅、発芽玄米、麺なども商品化。設備に数億円かかるが民間金融機関から借り入れ。現在(2013年)、売上高40億円。これを1,2年で倍にしたいと、涌井氏。
(5)農業を、家業から産業にしていく必要
I 減反の40年間で、若者の就農希望者減少、農家高齢化で平均年齢66歳、耕作放棄地40万ha。農業は崩壊の危機。またた。
I-2 家族農業は役目を終え、農業を家業から産業にしていく構造改革が必要。
(6)TPP時代:生産コストを下げるため「東日本コメ生産者連合会」設立(2013年)
J 2013年、6つの農業法人が出資し「東日本コメ生産者連合会」設立。涌井氏が社長。
J-2 TPP時代には、米価が1俵(60キロ)8000円(想定)。全国的な組織を作って、生産コストを下げねばならない。
K 日本の農業のコストの多くが機械のコスト。稼働日数を増やす必要。
K-2 例えば稲刈りは、秋田県で1ヵ月間(9/15~10/15頃)だが、日本全体では3ヵ月月間、稲刈りができる。全国的な組織で、農業機械を九州から東北まで順番に回せばいい。
L 1.5haの一般的な農家でコメの原価は1俵2万円。コストを5000円以下にする必要。
そのために、①面積の拡大、②同じ面積で多くのコメが採れる多収品種の開発。
L-2 かくて国に望みたいのは、①面積の集積支援、②多収品種の開発。
(6)-2 農協の担保主義
M 「連合会」に、民間金融機関が大きな関心。民間金融機関は、今まで農業金融に入れなかった。
M-2 農協は担保主義。自作地5ha、借地95haなら、5haを担保にした額しか貸さない。
M-3 民間金融機関なら、売る上げに応じて貸せる。また新しいビジネスチャンスになる。
(6)-3 農業のコストダウンは手数料収入の減少:農協
N 生産コストの引き下げのための広域連合は、農協なら本来、簡単。農協には全国組織があり、機械も持つし、整備工場もある。しかしなぜやらないか?
N-2 農協にとって、農業のコストダウンは手数料収入の減少につながるから、やらない。
(6)-4 ライバルになる会社を育てる:農協の改革のため
O 巨大組織・農協の体制内改革をするには、ライバルになる会社が必要。NTTに対するKDDIのようなもの。
O-2 「東日本コメ生産者連合会」を、専業農家の支援組織にしていきたいと、涌井氏。総合農協のJAグループのライバル。