宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

現存在が、良心において、おのれ自身を呼んでいる」!「良心は、関心の呼び声である」!ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第2編」「第2章」「第57節」

2019-12-31 19:11:03 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第2編 現存在と時間性」「第2章 本来的な存在可能の現存在的な臨証と、覚悟性」「第57節 関心の呼び声としての良心(Das Gewissen als Ruf der Sorge)」

(8)「現存在が、良心において、おのれ自身を呼んでいる」!「良心は、関心の呼び声である」!
M 「良心は現存在の自己を、世間(das Man、世人)のなかへの紛れから呼び起こす。」(274頁)
M-2 この「呼ぶ者」は「ただならぬ無規定性につつまれている。」(274頁)
M-3「現存在が、良心において、おのれ自身を呼んでいる。」(Das Dasein ruft im Gewissen sich selbst.)(275頁)
M-4「良心の呼び声は、私の内から、しかも私を越えて聞こえてくる。」(275頁)
M-5 「呼ぶ者は、おのれの不気味さのなかに立つ現存在であり、異郷にあることとしての根源的な被投的な世界内存在であり、世界の無にさらされた露骨な《事実》である。」(276-7頁)
Cf.「平均的な既成的解意(※世間話)の当然さや安心感の中には、・・・・根源喪失へ押し流されていくのに、・・・・現存在自身にはこの不動の不気味さが気づかれずに蔽われている、ということが含まれている」。(170頁)
M-6 「現存在は呼ぶ者であるとともに呼びかけられる者でもある」とは、すなわち「良心は、関心の呼び声である」ということだ。(277頁)
M-7 「呼び声はいつも私自身である存在者から来る。」(278頁)

《感想8》ハイデガーは次のように言っている。「世界内存在は本質的に関心(気遣い)(Sorge)である」。ゆえに「用具的なものにたずさわる存在は配慮(Besorgen)として、そして内世界的に出会うほかの人びとの共同現存在との共同存在を待遇(Fursorge)としてとらえることができた。」(193頁)
《感想8-2》「実在性は、存在論的名称としては、内世界的存在者(世界内部的存在者)に関わるものである。・・・・用具性と客体性が実在性の様態」である。「実在性」は「伝統的な意義」では「事物の客体性」という意味での「存在」を指す。(211頁)
《感想8-3》だが現存在が存在しているかぎりでのみ、存在が《与えられている》!実在性は「関心」に依存している!「実在性(Ralität)は・・・・関心(Sorge)の現象へさしもどされるべきものである。」そもそも「現存在が、すなわち存在了解の存在的可能性が、存在しているかぎりでのみ、存在が《与えられている(es gibt)》のである。」「現存在が実存していないならば、存在者が存在するとも、存在者が存在しないとも言うことができない。」「存在は存在了解に依存している」。すなわち「実在性は関心に依存している」。(211-2頁)
《感想8-4》「現存在の存在は関心である。」(232頁)
《感想8-5》「現存在の根本的構成は関心(気遣い、die Sorge)である。」(249頁)
《感想8-6》ハイデガーは次のように言う。「関心(気遣い)」は「①《(世界の内部で)出会う存在者のもとにある存在として、②(世界の)内にすでに、③おのれに先立って(※投企的or可能的に)存在すること》」と定義される。「③《おのれに先立って》のなかには実存が、②《内にすでに存在する》のなかには事実性が、そして①《・・・・・・のもとに存在する》のなかには頽落が、それぞれ表現されている。」(249-250頁)
《感想8-7》ハイデガーが言う「関心」(気遣い、die Sorge)とは、普通に言えば「存在」である。ハイデガーは「存在」を客体的「存在」に限定する。そして、現存在(モナド)の存在は、《気分に彩られた存在》つまり「関心」だと、ハイデガーは言う。「関心の呼び声としての良心」は「《気分に彩られた存在》(関心)の呼び声としての良心」と言い換えることができる。

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「良心」によって、「世間的-自己のうちの自己だけが呼びとめられ・・・・世間(世人)の方は支えをなくして崩れ落ちる」!  ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第2編」「第2章」「第56節」

2019-12-29 18:49:56 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第2編 現存在と時間性」「第2章 本来的な存在可能の現存在的な臨証と、覚悟性」「第56節 良心の呼び声としての性格」

(7)「良心」によって、「世間的-自己(das Man-selbst)のうちの自己(das Selbst)だけが呼びとめられ・・・・世間(das Man、世人)の方は支えをなくして崩れ落ちる」!
L 「良心の呼び声において・・・・呼びかけられるものは・・・・現存在自身である。」(272頁)
L-2 「日常的=平均的な配慮(Besorgen)のなかでいつもすでにおのれを了解しているというありさまにおける現存在が、すなわち良心の呼び声にうたれる者である。」(272頁)
L-3 「ほかの人びととともに配慮的に共同存在している世間的-自己(das Man-selbst)が、良心の声に呼びとめられる。」(272頁)
L-4  その場合、「各自の自己(das eigene Selbst)へむかって」呼びかけられる。「現存在が公開的な相互存在のなかでもっている勢力や能力や職務へむかってではない。」(273頁)
L-5 「世間的-自己(das Man-selbst)のうちの自己(das Selbst)だけが呼びとめられ・・・・世間(das Man、世人)の方は支えをなくして崩れ落ちる。」(273頁)

《感想7》ハイデガーは「現存在」の《本来的自己》を「私自身(ich selbst)」(という役割)のみと考える。しかし私見では、そうでなく「現存在」の《本来的自己》は、「世間的-自己(Man-selbst)」と「私自身(ich selbst)」の全役割の束だ。(この場合、「私自身(ich selbst)」とは全役割間の調停者役割のことだ。)

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ユニティ・ダウ(1959-)『隠された悲鳴』(2002):「儀礼殺人」とは呪術薬ディフェコの材料を得るため、生きたまま子供の腋の下、左右の乳、肛門、恥部を切り取り殺す儀式だ!

2019-12-27 22:10:52 | Weblog
※The Screaming of the Innocent, Unity Dow, 2002

舞台はボツワナの最僻地オカバンゴ・デルタにあるハファーラ村、1999年。
(1)ハファーラ村の実業家ディサンカ氏:ボツワナ!
ディサンカ氏は村の名士で実業家だ、正妻ロシナと4人の子供、他に何人かの愛人と子供たちがいる。
(2)村長ボカエ氏
村長ボカエ氏は、代々「首長」の血筋で多くの村々を支配するはずだったが、部族が「正妻の息子である」と認めず、準首長(村長)となった。彼は、「首長になること」を呪術で実現しようとする。
(3)副校長セバーキ氏
セバーキ副校長は校長を追い落としたい。彼は、呪術医の調合薬を校長の椅子に塗る。数か月後、校長は交通事故で死に、副校長セバーキ氏が校長となる。
(4)村の3本柱:ディサンカ氏、ボカエ氏、セバーキ氏
今から5年前、ディサンカ氏がボスで、「毛のない子羊を狩る」計画をたて、ボカエ氏とセバーキ氏を誘う。彼らは地域の3本柱だ。
(5)アマントル・ボカア(22歳):TSP(看護師研修者)
ハファーラ村国家奉仕プログラムに参加するTSP(国家奉仕ワーカー)。アマントルの場合は看護師研修。彼女は、学生運動のリーダーとみなされ、最僻地に派遣された。診療所の看護師2人は公務員で、村人たちを馬鹿にし横柄だ。
(6)5年前、行方不明になった子供ネオ・カカンの血の付いた服
5年前(1994年)行方不明になった子供ネオ・カカン。その血の付いた服が入った箱を、アマントルが倉庫を掃除して見つける。それを母親モトラツィ・カカンに連絡する。ネオ・カカンの行方不明事件は、5年前、「儀礼殺人」でなく、「ライオンに襲われた」とされ、捜査終了された。今、村人や母親は「証拠品の服を警察に渡さない」と激高する。
(6)-2「儀礼殺人」
「儀礼殺人」とは呪術薬ディフェコの材料にするため、生きたまま子供の腋の下、左右の乳、肛門、恥部を切り取り殺す儀式だ。数人の大人が子供を押さえつける。有力者(「お偉方」)が出世・権力拡大・事業拡大などのため、呪術薬が必要なので「儀礼殺人」をおかす。
(7)1994年:マウン警察署で証拠品のネオ・カカンの服がなくなる!
5年前(1994年)、「ハファーラ村で、儀礼殺人で子供が殺されたらしい」とのニュースが、ボツワナで報道された。12歳のネオ・カカンが行方不明になった。村人ショショがネオ・カカンの血の付いた服を発見し、警察に届けた。服の確認のため、30キロ先のマウン警察署まで、カカン家の者が行く。ポシロ部長刑事が、服を見せない。証拠品として服を入れた箱がなくなったのだ。
(8)マウン警察の捜査終了:ネオ・カカン(子供)はライオンに殺された!
その2週間後、セナイ部長刑事が、マウン警察署長に命じられ、ハファーラ村のモトラツィ・カカン(母親)の家に来る。「ネオ・カカン(子供)はライオンに殺された。捜査は終了だ。証拠品の服などない。届けたというのは酩酊していたショショの思い違いだ。」
(8)-2 村人の怒り!
村人は怒り、警察・政府の車を3回にわたり襲う。政府は武装した凖憲兵隊を村に送り込む。しかし村人は手を出したら皆殺しになるので、手を出さなかった。やがて村人の怒りは尻すぼみになった。
(8)-3 1999年:再びネオ・カカンの服が見つかった!
だが今、5年後1999年、ネオ・カカンの血の付いた服が入った箱が見つかり、村人の怒りが、再び燃え上がった。
(9)モトラツィ・カカン(35歳)
ネオを産んだ時、モトラツィ・カカンは35歳で教師だった。しかし医者にレイプされカカンを産んだ。夫は別の女のもとへ去った。
(10)アマントルがマウン警察署長と交渉する(1999年)
村人は証拠品のネオ・カカンの服を警察に渡さない。呪術師に渡して殺人者に復讐すると主張。アマントルが村人の側に立ち、マウン警察署長と交渉する。(Cf. アマントルは2年前のナショナル・スタジアムでの学生たちの反軍デモのリーダーだった。)
(11)国家奉仕プログラム事務所のモラポ所長
モラポ所長(女性)は、マウン警察署長がアマントルを他の村のTPSにするよう異動を要請したが、根拠がないと反論する。彼女は、警察に対し対決姿勢を取る。
(12)弁護士ブイツメロ・クカマ(女性)
1997年、軍に対する学生デモで、アマントル・ボカア(高等課程2年)がリーダーの一人だと逮捕される。「不当逮捕だ」とアマントルが警察を告訴した。その時の担当弁護士がブイツメロ・クカマ(女性)だ。
(12)-2 法学部学生ナンシー・マディソン(イギリス人)
ナンシー・マディソン(法学部学生)は、ブイツメロの法律事務所で研修する。ボツワナに来たイギリス人。まだ来て日が浅い。ナンシーは5年前のネオ・カカンの事件が、「呪術薬ディフェコのための儀礼殺人でないか」と報道する新聞記事について調べる。
(13)SSG(準憲兵隊)を派遣するな!
アマントル・ボカアがマウン警察署長バディディに電話して、「SSG(準憲兵隊)を派遣するな」と要請。SSG(準憲兵隊)は暴力的に武力で村を制圧する部隊だ。
(14)アマントルが、弁護士ブイツメロに電話し、相談・依頼!
アマントルが、弁護士ブイツメロに電話し、ハファーラ村民の側の警察への対応について、相談・依頼する。
(15)ハファーラ村の村民の司令塔:アマントル!
アマントルは今やハファーラ村の村民の司令塔だ。マー・ネオ(ネオの母親、モトラツィ)が「真実を明らかにしてほしい」と言う。ラー・ナソ(結核の老人、マー・ネオに優しい)が「看護師に手を出すな」「流血は避けよ」と言う。村民はこの方針でまとまる。
(15)-2 アマントル:マウン警察署長バディディへの要求!
アマントルが、警察署長バディディに電話する。「村で暴動が起きれば、責任を取るのはあなただ」とアマントルが、署長に言う。そして彼女が要求を出す。①政府・警察の車両をハファーラ村に入れるな、②国家安全保障大臣と警視総監に連絡せよ、③ネオ・カカン行方不明事件を「隠蔽した」疑いのある巡査・部長刑事、計4人を呼べ、④血液鑑定をする法医学研究所の責任者に連絡せよ。
(16)検察局検事ナレディ・ビナーン
検事ナレディ・ビナーン(25歳)は、検察局長(副法務長官)パコ氏の助手だった。ナレディは5年前のネオ・カカン事件のファイル(訴訟記録要旨)を読みまとめるよう検察局長パコ氏から命じられる。「カカン事件は儀礼殺人だ」とナレディは思う。他方、昨日、ブイツメロ・クカマからナレディに、5年前の儀礼殺人事件の問い合わせがあった。
(17)ネオ・カカン事件のファイル(訴訟記録要旨)
数日後、弁護士ブイツメロと検事ナレディが会う。ナレディは「正義と真実」を追求したいと言う。「事件のファイルをコピーしておいてほしい」とブイツメロがナレディに頼む。
(18)国家安全保障省でのネオ・カカン事件に関する会議!
出席者:マディング国家安全保障大臣、ロラン次官、セレペ警視総監(2年前機動隊の残虐行為を告訴したアマントルが、今回、村側の代表であることに苛立つ!)、モラポ国家奉仕プログラム事務所長(女性)、パコ検察局長(副法務長官)、ゲイプ厚生大臣(彼は「凖憲兵隊をすぐ送り、村を制圧せよ」と主張)。
(18)-2 政府側、村人との和解方針を決定する!
マディング国家安全保障大臣が「村人と和解し、証拠の服を手に入れる必要がある」と言う。そして「村でコートゥラ(村民と政府の話し合い)を開く」と決定した。
(19)コートゥラでの「村側の対応方針」をアマントルとブイツメロたちが決める!
アマントルとブイツメロたちがハファーラ村の郊外で村民に知られないよう会い、コートゥラでの「村側の対応方針」を決める。(村民の中に儀礼殺人の犯人がいる可能性がある。)ナレデイは、今回、村側に立つので検察局を解雇されるだろうが、「正義と真実」を追求すると決意する。「ネオ・カカンの証拠の服の箱」は、移送途中の交通事故で、まぎれて診療所に運ばれてしまったと推理された。ナンシー(ブイツメロ法律事務所のインターン)が、コートゥラの場面をヴィデオ記録・写真撮影を担当する。「証拠の服は政府側に渡すが、警察に捜査ミスを認めさせよう」そして「マスコミにすべてを報道させよう」と、アマントルとブイツメロが決定する。
(20)優しい老人ラー・ナソ
ネオの母親マー・ネオ(モラツィ・カカン)を、優しい老人ラー・ナソが慰める。
(21)~(22)ディサンカ氏の娘レセホ
ディサンカ氏の娘、レセホ・ディサンカは、「父親が5年前のレオ・カカンの儀礼殺人事件の犯人の一人だ」と事件の日(1994年)に気づいた。レセホは突然、家を離れ寄宿学校へ移った。レセホの母親は「ディサンカ氏が娘が寄宿学校に移ると言い出した原因だろう」と思い夫を責めた。ディサンカ氏の家族は壊れた。
(23)ハファーラ村でのコートゥラ(村民と政府の話し合い)!
1994年ネオ・カカン事件に関し、2000人以上の者がハファーラ村でのコートゥラに集まった。要人席に、政府側高官、マウン警察署長、村長たち、村の有力者たち、が座る。村の3本柱と言われるディサンカ氏、ボカエ氏、セバーキ氏もその内に居た。さらに要求が通りマー・ネオ(ネオ・カカンの母親)、アマントル(村側の実質的司令塔)、ブイツメロ弁護士も要人席に座った。
(23)-2 政府と村側との和解
マディング国家安全保障大臣が「政府と村側との和解」を提案する。①5年前の「ネオ・カカン行方不明事件」は、ライオンに殺されたのでなく、儀礼殺人であると認定する。②警察が捜査を終了したのは、「意図的な隠蔽」でなく、「警察官たちが殺人犯による呪術的報復に恐怖した」ためだ。③証拠品のネオ・カカンの服は政府側が引き取り、科学的鑑定を行い、今後の捜査に全力を尽くす。④当時、事件の捜査に関わった警察官たちは罰する。
(24) 唯一の切り札である証拠の服を政府側に渡す!
村側は結局、和解案を受け入れ、「ネオ・カカンの証拠の血の付いた服」を鑑定のため政府側に渡した。ハファーラ村でのコートゥラの様子はメディアが報道した。アマントルは、唯一の切り札である証拠の服を渡したので喪失感が大きい。ブイツメロ弁護士は暴力を回避し、マディング国家安全保障大臣がほとんど要求を飲んだと、喜んだ。
(24)-2 「毛のない子羊」を狩る!
「話さなきゃならんことがある」とラー・ナソ老人がアマントルに言った。「5年前のある日、男が来て『ヤギを5匹やる』と言った。男は、『初潮を迎えていない少女』『毛のない子羊』『まだ男を知らない少女』がいいと言った。男は娘のナソを見た。」「彼のような男にノーと言えない。私は貧しい。」「私は怖かったのでとっさにネオのことを言った。」「数日後、今度は3人で来た。」「車内に手足を縛られたネオがいた。」「私は泣いた。」「『一緒に来い。来ないならワニに食わせるぞ。』と脅された。」
(24)-3 儀礼殺人
ラー・ナソ老人が続けた。「(※儀礼殺人の)現場に着くと4人は全員裸になった。ディフェコの力を解き放つためだ。ネオを、私を含む3人で押さえつけた。生きたままネオの腋の下、左右の乳、肛門、恥部を切り取った。彼らはほくそ笑み、血をなめ、ネオの服でその血を拭いた。」「ネオの死体はワニにくれてやると川に投げ込んだ。」
(24)-4 4人目の男!
「その時、別の車が来て、4人目の男が降りた。その男が切り取ったネオの体の部分を受け取った。」「私はネオの服をポケットに詰め込み、ブッシュの中に服を捨てた。」「彼らは『もししゃべったら殺す』と私を脅した。」
(24)-5 少女ネオの悲鳴!
「それ以後、少女ネオの悲鳴がいつも聞こえる。私は地獄に落ちる。」とラー・ナソ老人が言った。
(24)-6 マディング国家安全保障大臣!
ラー・ナソ老人が4人の男の名前を言った。「実業家ディサンカ、村長ボカエ(首長になる野心あり)、セバーキ校長(当時は副校長だったが、呪術薬のおかげで校長が交通事故で死んだ)。」「そしてもう一人が4人目の男、肉片をとりに来た男だ。その男を今日見た。マディング国家安全保障大臣だ。」(マディングは、一度失脚した後、大臣に復活した。)
(24)-7ネオの服
「ネオの服には4人の血がついている。自分たちの血をネオの服で拭いたから」とラー・ナソ老人が言った。
(24)-8 ラー・ナソ老人の死!
その翌日、ラー・ナソ老人は首を吊った。彼は絶えず聞こえる少女の悲鳴に耐えられなかったのだ。
(25)アマントル:証拠は、敵の手にわたってしまった!
「だが証拠は、敵の手にわたってしまった」とアマントルが思った。Cf. 有力者(「お偉方」)が出世・権力拡大・事業拡大などのため呪術薬を必要とする。かくて「儀礼殺人」をおかす。

《参考1》著者ユニティ・ダウ氏(1959-)は2002年当時、ボツワナの外務国際協力大臣。また同国女性初の最高裁判事も務めた。
《参考2》ユニティ・ダウ氏が述べる。(a)「アフリカでもアジアでも、どんな地域の人でも求めるものは、同じだと感じる。尊厳ある生活、暖かい夜、十分な栄養、まともな仕事、そして自由に考え、自分が共にいたいと決めた人々と過ごすこと。」(a)-2「こうした求めを満たすこと」が「つまり人権を守ること」だ。
《参考2-2》(b)「人権を守ること」は「個人の自由を促すこと」でもある。(c)「個人の自由を促す」とは「理不尽に、もしくは不公平、不合理に、他人の自由を侵害することなく、自己を実現すること」だ。
《参考2-3》(d)「個人の価値観(たとえば、経済活動、信仰、ジェンダーの役割、家族のかたち、国家の役割に関するもの)には、相反していて両立しえないものも多くある。」(d)-2「人権問題に取り組むとは、そういった両立しえない価値観や利益を持った人々が調和して暮らすことができる状態を、絶え間なくあがいたり、バランスをとったりしながら、創造していくことだ。」

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「世間的-自己」は、「呼び声」としての「良心」によって打ち破られなくてはならない!「おのれの自己」を聞くのだ! ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第2編」「第2章」「第55節」

2019-12-23 21:59:22 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第2編 現存在と時間性」「第2章 本来的な存在可能の現存在的な臨証と、覚悟性」「第55節 良心の実存論的=存在論的基礎」

(6)世間(das Man)に聞きとれているありさまは、「呼び声」(der Ruf)としての「良心」(das Gewissen)によって打ち破られなくてはならない!現存在は世間的-自己(das Man-selbst)に聞きとれて、おのれの自己(das eigene Selbst)を聞きのがしている!
K 「世間(das Man)の公開性(Öffentlichkeit)と世間話(空談、das Gerede)のなかへおのれを紛らわせているとき、現存在は世間的-自己(das Man-selbst)に聞きとれておのれの自己(das eigene Selbst)を聞きのがしている。」(271頁)
K-2 「世間(das Man)に聞きとれているありさまは、打ち破られなくてはならない。」(271頁)
K-3 「かような打破の可能性は、いきなり呼びとめられることのなかに含まれている。」(271頁)
K-4 この「呼び声」(der Ruf)が「良心」(das Gewissen)である。

《感想6》ハイデガーは言っている。①「疎隔性」(Abständigkeit)(※他者との差異を意識すること!)、②「平均性」(Durchschnittlichkeit)(※他者と同じようであることを求める!人並み!)、③「均等化」(Einebunng)が、「世間(das Man)の存在様相」としての「公開性」(Öffentlichkeit)(※自明として受け取られること)をなす。「公開性(※①+②+③)はすべてを曇らせ、しかもこうして蔽われたものを、なにか周知のもの、万人に供されたものと公称する。」(127頁)

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「良心の声」が、(※狭義の)「私自身(ich selbst)」=《本来的自己》があることを臨証している! ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第2編」「第2章」「第54節」

2019-12-20 13:41:21 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第2編 現存在と時間性」「第2章 本来的な存在可能の現存在的な臨証と、覚悟性」「第54節 本来的な実存的可能性の臨証(Bezeugung、※証明・表明)の問題」

(5)「現存在」は、たいていは「私自身(ich selbst)」でなく「世間的-自己(Man-selbst)」である!
J 「現存在の『誰れか』は、たいていは私自身(ich selbst)でなく、世間的-自己(Man-selbst)である。」(267頁)
《感想5》私見では、人間とは役割の束だ。「世間的-自己(Man-selbst)」は役割の束だが、これに「私自身(ich selbst)」=《本来的自己》という役割をもう一つ加えると、「現存在」という役割の束となると言うべきではないのか?
《感想5-2》「世間的-自己(Man-selbst)」と「私自身(ich selbst)」=《本来的自己》をハイデガーは峻別するが、私見では、そんなことはありえない。「現存在」の《本来的自己》とは、実は「世間的-自己(Man-selbst)」と「私自身(ich selbst)」の全役割の束だ。
《感想5-3》現存在は、全役割のうちのいずれかを前景に据えながら生きている。
《感想5-4》ハイデガーは「現存在」の《本来的自己》を「私自身(ich selbst)」(という役割)のみと考える。しかしそうでなく「現存在」の《本来的自己》は、「世間的-自己(Man-selbst)」と「私自身(ich selbst)」の全役割の束だ。(この場合、「私自身(ich selbst)」とは全役割間の調停者役割のことだ。)
《感想5-5》「私自身(ich selbst)」=《本来的自己》は、狭義には「世間的-自己(Man-selbst)」という役割の束に対する調停者役割(良心)のことだ。(ハイデガーの立場)
《感想5-6》しかし「私自身(ich selbst)」=《本来的自己》は、広義には「世間的-自己(Man-selbst)」という役割の束と、狭義の「私自身(ich selbst)」という調停者役割をも含めた全役割の束だ(私見)。

(5)-2 「良心の声」が、(※狭義の)「私自身(ich selbst)」=「おのれ」=《本来的自己》があることを臨証している!
J-2 「だれということもない世間(das Man、世人)に無選択にひきずられていくことによって、現存在は非本来性(die uneigentlichkeit)のなかへ捲きこまれていく。」(268頁)
J-3 だが「日常的な現存在の自己解意」において「良心の声」として知られているものが、(※狭義の)「私自身(ich selbst)」=「おのれ」=《本来的自己》があることを示している、つまり臨証(Bezeugung、※証明・表明)している。

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バルザック『風流滑稽譚』(第1輯)(7)「箱入り娘」:領主を相手に、貧乏人はカネを上手にかすめ取って生きる!

2019-12-19 22:24:02 | Weblog
※バルザック(1799-1850)『風流滑稽譚』(第1輯)(1832)(小西茂也訳)新潮文庫(1951)
 
(7)「箱入り娘」
美しい処女の乙女に対する老領主の「老年の愛執」。乙女は気が強い。また、その母親は公証人を呼んで領主から莫大な「身代」(ミノシロ)を得た。
《感想7》領主を相手に、貧乏人はカネを上手にかすめ取って生きる。またそうしなくては生きていけない。

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バルザック『風流滑稽譚』(第1輯)(1)「美姫インぺリア」:貴族・司教など封建領主や富豪でない者は、巧みに世渡りすることで成功をつかむ!

2019-12-19 22:22:37 | Weblog
※バルザック(1799-1850)『風流滑稽譚』(第1輯)(1832)(小西茂也訳)新潮文庫(1951)
      
(1)「美姫インぺリア」
1400年代。若い僧フィリップが遊女である美姫インぺリアの恋の相手となる。彼女の客は枢機官、大司教、王族、貴族たち。彼女に従う多くの私兵もいる。彼女は言い寄るコワルの司教をそっちのけでフィリップに熱をあげる。そこに次期法王候補のラグーザ枢機官が登場。コワルの司教を追い出し、フィリップも追い出す。だが恋を邪魔されたインぺリアは怒り、ラグーザを追い返す。表向きの理由はラグーザがコレラ患者の最期を看取ったからだ。そしてフィリップは賢かった。隠れていて最後に、インぺリアの前に再び姿を現わす。美姫インぺリアと若い僧フィリップの恋が成就する。
《感想1》私兵たちが、簡単に人を殺す。修羅の世界。力づくの世界。人間の歴史は殺し合いの歴史だ。力がすべてを決める。力が対等な場合にのみ、正義やルールが問題となる。
《感想1ー2》貴族・司教など封建領主や富豪でない者は、巧みに世渡りすることで成功をつかむ。美姫インぺリアがその典型だ。

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本来的な《死へ臨む存在》は《可能性の中への先駆》である!死に臨む存在は本質的に不安である! ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第2編」「第1章」「第53節」

2019-12-19 12:09:14 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第2編 現存在と時間性」「第1章 現存在の可能的な全体存在と、死へ臨む存在」「第53節 本来的な《死へ臨む存在》の実存論的投企」

(4)「死へ臨む存在」として可能性へむかう存在は、《可能性の中への先駆(※先を走ること)》である!
H「『死へ臨む存在』として可能性へむかう存在は、《この存在において、かつこの存在にとって、死が可能性としてあらわになる》というありさまで、死へむかって関わり合うはずのものである。」(262頁)
H-2 「このありさまで可能性へむかう存在を、われわれは述語的に《可能性の中への先駆》(Vorlaufen in die Mö glichkeit)と言い表すこととする。」

(4)-2 可能性としての死は、いかなる「実現すべきもの」をも現存在に示さない!
H-3 この「可能的なるものへの接近」は「現実的なものを配慮的に利用する」ことでない。(262頁)
《感想4》ハイデガーは次のように言っている。「世界内存在は本質的に関心(気遣い)(Sorge)である」。ゆえに「用具的なものにたずさわる存在は配慮(Besorgen)として、そして内世界的に出会うほかの人びとの共同現存在との共同存在を待遇(Fursorge)としてとらえることができた。」(193頁)
H-4 「可能性としての死は、いかなる『実現すべきもの』をも現存在に示さず、また現存在が現実的なものとしてみずから成ることができるようないかなることをも、現存在に与えない。」(262頁)
H-5 「死とは、およそなにかに関わり合ういかなる態度も、いかなる実存も、すべて不可能になることの可能性なのである。」(262頁)
H-6 「先駆(Vorlaufen)とは実は、ひとごとでないもっとも極端な存在を了解することの可能性なのであり、とりもなおさず、本来的実存の可能性なのである。」(263頁)

(4)-3「本来的実存」としての「先駆的開示」!「本来的な《死へ臨む存在》の実存論的投企」!
H-7 「本来的実存」としての「先駆(※先を走ること)的開示」において、現存在は、「ひとごとでない、係累のない(※「ほかの現存在へのあらゆる連絡が解かれてしまう」こと)、追い越すことのできない(※死が最後で、その先に行けないこと)、確実で、それでいて無規定な可能性をまじりけなく了解」する。(263頁)

(4)-4 「死に臨む存在は、本質的に、不安である」!
I 「現存在自身のひとごとでない孤独化された(※つまり係累のない)存在のなかから立ちのぼってくる、たえまのない、絶対的な、おのれ自身の脅威を開放しておくことのできる心境は、不安である。」「死に臨む存在は、本質的に、不安である。」(266頁)
I-2 「死へ臨む存在は、不安を《臆病な恐怖心》へと錯倒」する。(266頁) 
I-3 「先駆(※「死へ臨む存在」として可能性へむかう存在)は現存在に世間的-自己(Man-selbst)への自己喪失を暴露し、現存在を引きだして、第一義的には配慮的待遇(die besorgende Fürsorge)に支持を求めることなく自己自身として存在することの可能性へ臨ませるが、その自己とは、世間(das Man、世人)のもろもろの幻想から解かれた、情熱的な、事実的な、おのれ自身を確承せる、不安にさらされている《死へ臨む自由》における自己なのである。」(266頁)
《感想4-2》「世間的-自己(Man-selbst)への自己喪失」は出来事の一部だ。実は、同時に誰もが、死を「本来的に」知っている。誰もが、「世間的-自己(Man-selbst)」として「非本来的」だと非難されると同時に、すでに「本来的」存在だ。「死に臨む存在は、本質的に、不安である」から、誰もがすでに、「本来的な《死へ臨む存在》の実存論的投企」をしつつ生きている。ハイデガーは「世間(das Man、世人)」を「非本来的」と呼ぶが、正確には「世間(das Man、世人)」という類型化された世界、つまり言葉に介される世界は、「非本来的」であると同時に、「本来的」でもある。

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G. ヴェルガ(1840-1922)『カヴァレリーア・ルスティカーナ』(1880):「田舎の騎士道」かもしれないが、率直な直截的な世界だ!

2019-12-18 14:43:10 | Weblog
(1)
ヌンツィア叔母さんの息子、トゥリッド・マッカは、狙撃兵の服を着て真っ赤な帽子をかぶり兵役から帰って来た。ところがトゥリッドと愛を誓ったローラ(小作人頭アンジェロの娘)は、会ってくれない。というのも、ローラは、驢馬を4頭も持つ馬車引きの男アルフィオと結婚の約束をしてしまったからだ。
(2)
ローラはアルフィオに嫁いだ。トゥリッドは、ローラの夫が金持ちなので気に入らない。トゥリッドは、ローラへの当てつけに、小作人頭アンジェロの娘サンタに甘い言葉をかける。
(3)
ローラは、そのやり取りに苛立ち、トゥリッドに「昔の友だちとはもう挨拶をかわさないの?」と挑発。トリッドは、ローラにいまだ気があるから、以後、しばしば彼女に挨拶するようになる。今度はサンタが怒った。
(4)
ローラの夫アルフィオは、ローラを愛していた。彼は、驢馬を従え商売に出かけ、しこたま儲けて帰ってきて、妻に美しい祭りの晴れ着を贈った。
(4)-2
隣りのサンタが、嫉妬から、アルフィオにローラの悪口を言った。「トゥリッドが夜中にあなたの奥さんの家へ入るのをこの目で見たわ」。
(4)-3
かくてアルフィオが、トゥリッドに決闘を申し込む。妻を寝取られたと思ったからだ。男を殺さねばならない。トゥリッドは受けて立つ。恋敵と戦うのだ。
(5)
決闘の日の前の晩、トリッドは母親に言った。「俺が兵隊に行った時のように、長い口づけをしておくれ。」翌朝、彼は夜明け前に、決闘の場に出かけた。
(5)-2
その朝早く、アルフィオは「すぐそこまで行ってくる」と出かけた。ローラは泣いて祈った。
(6)
決闘はナイフで行われた。双方ともに腕がたった。トリッドは最初、突きを食らったが、反撃し相手の股座に深々と突き立てた。「殺す気だな!」とアルフィオ。とっさに砂を相手の眼に投げつけた。逃げようとしたトリッドの腹、のどに、アルフィオがナイフを突き立てた。トリッドは死んだ。

《感想1》G. ヴェルガはシチリア島出身。カヴァレリーア・ルスティカーナとは「田舎の騎士道」のこと。Cf. 騎士道(chivalry)。ピエトロ・マスカーニが1幕物のオペラ(1890年初演)を作曲。
《感想2》アルフィオは名誉をまもらねばならない。トゥリッドは恋敵を決闘して排除するつもりだ。
《感想2-2》「田舎の騎士道」かもしれないが、率直な直截的な世界だ。わかりやすい。
《感想3》ローラの運命は、アルフィオ次第だ。だがトゥリッドが死に、結局、アルフィオはローラとの結婚を解消するしかないだろう。

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非本来的な《死へ臨む存在》と本来的な《死へ臨む存在》! ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第2編」「第1章」「第52節」

2019-12-16 10:49:19 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第2編 現存在と時間性」「第1章 現存在の可能的な全体存在と、死へ臨む存在」「第52節 終末へ臨む日常的存在と、死についての十全な実存論的概念」

(3)非本来的な《死へ臨む存在》と本来的な《死へ臨む存在》!
G「日常的に頽落的な《死からの逃避》は、非本来的な《死へ臨む存在》である。」だが「本来的な《死へ臨む存在》が存在論的に規定されずにいる間」は「死についての十全な実存論的概念」を得ていない。(259-260頁)
G-2 「本来的な《死へ臨む存在》とは、現存在の実存的可能態のひとつのことである。」(260頁)
G-3 「この可能性の実存論的条件は、どのようなものであろうか。」(260頁)
《感想3》「日常的に頽落的な《死からの逃避》」の状況のなかで、「本来的な《死へ臨む存在》の実存論的投企」がいかにして可能かが、問われねばならない。これが次の第53節の課題だ。

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