宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その7):「『外なるもの』は『内なるもの』の表現である」とは、「『組織』が『機能』を表現している」ことにほかならない!

2024-06-23 13:58:15 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その7)(174-176頁)
(37)-3 「有機体」における「外は内の表現である」という命題:(ハ) 「感受性」と「反応性」と「再生」の三者(※「機能」)と、「組織」(「神経組織」と「筋組織」と「内臓組織」)との関係!
★以上、《 (ロ)「感受性」と「反応性」と「再生」との関係》が本来の意味における「内なるもの」の内容だが、そこへ《 (ハ) 「感受性」と「反応性」と「再生」の三者(「機能」)と、「組織」(「神経組織」と「筋組織」と「内臓組織」)との関係》の問題がからまってくる。(174頁)

★「内なるもの」とは「機能」(「感受性」と「反応性」と「再生」)であり、「外なるもの」とは「組織」(「神経組織」と「筋組織」と「内臓組織」)だ。(174頁)
☆すなわち「外なるもの」とは、感受性に対する「神経組織」、反応性に対する「筋組織」、再生(繁殖)に対する「内臓組織」だ。(174頁)
☆「内なるもの」とは「機能」であり、「外なるもの」とは「組織」であるわけで、この点からすると、「『外なるもの』は『内なるもの』の表現である」というのは、「『組織』が『機能』を表現している」ことにほかならない。(174頁)

(37)-3-2 「内なるもの」の3つの契機(「感受性と反応性と再生」)の関係:「再生」が「内なるもの」で、この「内なるもの」の「表現」として、「感受性」と「反応性」が「外なるもの」だ!
★さらにヘーゲルは「『外なるもの』は『内なるもの』の表現である」という法則は、「内なるもの」すなわち「機能」(「感受性」と「反応性」と「再生」)の相互の間にも成り立つと考える。(174-175頁)
☆つまり「機能」である《「感受性」と「反応性」と「再生」》との3つの間にも、相互に他を表現する関係が成り立つという。(175頁)
☆ヘーゲルは、「再生」の能力が基礎だという。「再生」が「内なるもの」で、この「内なるもの」の「表現」として、「感受性」と「反応性」が「外なるもの」だとする。Cf. 「『外なるもの』は『内なるもの』の表現である」!(176頁)
☆この考え方は生物学者キールマイヤー(K. F. Kielmeyer)(1765-1844)が1793年に主張し、それがシェリング(1775-1854)等に受け入れられ、ヘーゲル(1770-1831)に影響した。(175頁)

☆キールマイヤーによれば①動物が「下等」になれば「再生」能力(「繁殖」力)は増加するが、「感受性」はにぶく(Ex. 「触覚」だけしかない動物もある )、その種類も少なくなる。「有機体」が「低級」になるにしたがい、「感受性」はにぶく、また種類は少なくなる。①-2人間のように動物が「高等」になれば、「感受性」は非常に高度化する。すなわち「視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚」の能力、さらに「記憶や構想」の能力も生じる。(175頁)
逆に②「繁殖」力(「再生」能力)が多いほど、「反応性」の種類も少なく、また「感受性」の能力も鋭敏でなく種類も少なくなる。
しかし③(「反応性」の)「種類」に関してでなく「持続性」に関しては、「反応性」は「感受性」の増加(動物が「高等」であること)に反比例し、したがって「再生」の増加(※動物が「下等」・「低級」であること)に正比例する。(175頁)

☆キールマイヤー&ヘーゲルの議論は、判りにくいが、事柄は別にむずかしくない。「個体」を、また「種族」を維持し「再生」するには、食物などを外界から摂取しなくてはならないから、刺激を「感受」する能力(「感受性」)、また感受に応じて「反応」する能力(「反応性」)が必要であるのは当然だ。(175-176頁)
☆「心理的能力」(※「記憶や構想」の能力、広義の「感受」・「反応」の能力)は、「生理的能力」の上にさらに「心像(イメージ)」をもつことから生まれてくる。しかしそのときにも、今日のサイコアナリスィス(精神分析)が性欲を重視するように、やはり「再生」の能力が基礎になる。(金子武蔵)(176頁)

★ヘーゲルの(イ)(ロ)(ハ)の議論をまとめよう。「有機体」においては、(A)「感受性と反応性と再生」という「内なるもの」が、「神経組織と筋組織と内臓組織」という「外なるもの」との関係に立ち、「外なるものは内なるものの表現である」。(B)「内なるもの」の3つの契機(「感受性と反応性と再生」)が相互に「内」と「外」として他を表現しうる。「再生」が「内なるもの」で、この「内なるもの」の「表現」として、「感受性」と「反応性」が「外なるもの」だ。(176頁)

《参考》「基本法則」は「『外なるもの』は『内なるもの』の『表現』である」ということだ。(161頁)
☆これには、次のような場合がある。(161頁)
(イ)「有機体」と「環境」との関係
(ロ)「感受性」と「反応性」と「再生」との関係
(ハ) 「感受性」と「反応性」と「再生」の三者(※「機能」)と、「組織」(「神経組織」と「筋組織」と「内臓組織」)との関係
(ニ)「比重」(※質量)と「凝集力」との関係
(ホ)「論理学的心理学的法則」(※「論理学的法則」と「心理学的法則」)
(ヘ)「人相術」
(ト)「骨相術」
(注)なお(イ)から(ト)まで、順序はヘーゲル『精神現象学』のテキストのままだが、表現は必ずしもそのままでない。(161頁)

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「聞いたこと、見たこと、黙ること」『スペイン民話集(エスピノーサ篇)』(第75話):「君子、危うきに近寄らず」!日本の諺では「触らぬ神に祟りなし」!また「口は禍の元」!

2024-06-23 08:13:15 | Weblog
(1)昔、1人の司祭が家政婦と住んでいた。飼われていた3羽の雄鶏が毎夜、真夜中と、明け方の3時と、6時に時を告げた。最初の雄鶏が歌った。「ここで起こっていることは・・・・・・」すると2番目の雄鶏が歌った。「とても辛抱できそうにない。」すると3番目の雄鶏が最後に歌った。「司祭は家政婦と寝ているよ。」
(2)司祭は怒った。そして司祭と家政婦は、そんな唄を歌っているのだと信じていた1羽の雄鶏を殺し、熱湯につけ食べてしまった。そしてもう誰も自分たちのしていることは知らないだろうと思った。
(3)ところがその真夜中と、明け方の3時と、6時に、雄鶏たちはまた歌った。最初の雄鶏が歌った。「ここで起こっていることは・・・・・・」すると2番目の雄鶏が歌った。「とても辛抱できそうにない。」その後、最初の雄鶏がもう1度、歌った。「司祭は家政婦と寝ているよ。」
(4)司祭と家政婦は、そんな唄を歌っていると信じたもう1羽の雄鶏を殺し、熱湯につけ、とてもおいしく食べてしまった。そして司祭は言った。「さあ、今こそ何の心配もない。もう1羽しか雄鶏は残っていない。そしてそんなことを歌う勇気はなかろう。」
(5)ただ1羽生き残った雄鶏は、事態をいろいろ考えた末、言った。「私は別の唄を歌おう。この世に生を全うしたいし、不幸な目にあいたくない。聞いたこと、見たことを、黙っていよう。」
(5)-2そして再び雄鶏は真夜中と、明け方の3時と、6時に歌った。「この世で、生活を楽しむためにゃ、聞いたこと、見たこと、黙ること。」

《感想》「君子、危うきに近寄らず」!(Cf. 正確な出典は不明だが『春秋公羊伝』には「君子不近刑人」とある。)日本の諺では「触(サワ)らぬ神に祟(タタ)りなし」だ。また「口は禍の元」、「雉も鳴かずば撃たれまい」、「物言えば唇寒し秋の風」。「火中の栗を拾う」ことはしない。安全第一主義だ。「石橋を叩いて渡る」、「転ばぬ先の杖」!

《参考》BBCパリ特派員のヒュー・スコフィールド記者の記事(BBC、2018/7/19)によると、フランス・アルペン地方の城で、床板の裏に大工が書き綴っていた秘密の日記が2018年に見つかった。「1880年、クロット村のJoachim Martin(ジョアシャン・マルタン)、38歳」と床板に署名されていた。(ジョアシャン・マルタンは、当時の城主の依頼で床板を張った大工。残された秘密の日記は、いつか人の目に触れることがあったとしても、自分はそのころとっくに死んでしまっているという前提で、書かれたものだ。)ジョアシャンが床板に本音を書き込んだ動機の一つは、地元の神父に対する怒りだったようだ。1880年代は急激な変化の時代だった。フランスでは王党派の最後の挑戦が終わり、第三共和政(1870-1940)が足場を固め、全国で教会権限を縮小する改革が導入されていた。ジョアシャンはこうした改革を歓迎していた。それは主に、村のラジェール神父への個人的な反感が理由らしかった。ジョアシャンは「神父が病的な女好きで、告解を悪用して女性との性行為に及んでいた」と非難している。ジョアシャンは床板にこう書いた。「まず、我が家の家庭事情に首を突っ込んでくるのだが、そのやり方がすごくおかしい。妻とどのように性交渉しているか聞くなど」(ジョアシャンは実際にはもっと下品な言葉を使っている)。神父は「月に何回しているか知りたがった」とジョアシャンは書き、体位について詳しく赤裸々につづった挙句、こう結論する。「この豚は絞首刑がふさわしい」。この日記では他にもこの神父のことを、「女たらし」と書いている。『ジョアシャンの床板』という本を出版したブドン教授によると、「ラジェール神父が告解室で村の女性たちに性生活について質問したのは、仕事を逸脱したわけではないかもしれない。むしろ、当時の司祭はよくこういう質問をしていた。夫婦でも子供の誕生につながらない性行為は慎むよう説得することは、宗教的に必要だとされていたからだ。」

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