宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第4章」「第26節 ほかの人びとの共同現存在(共現存在)と日常的共同存在(日常的な共存在)」(その4)

2019-05-30 22:20:09 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」
※「第4章 共同存在(共存在)と自己存在としての世界内存在、『世人(世間)』(Das “Man”)」

(8)世界は、「用具的なもの」だけでなく、「現存在」(「共同現存在」)をも明け渡す!(123頁)
M 世界は、「世界の内部で出会う」ものとして、「用具的なもの」を明け渡すだけでなく、「現存在」をも、すなわち「ほかの人びと」をも、彼らの「共同現存在」において、明け渡す。(123頁)
M-2 なお「自己の存在へ関わり合う現存在の存在」とは、要するに「自己の存在」とは、「いかなる趣向(適所)ももちえないもの」、むしろ「現存在自身がそれを主旨として現に存在してところの存在」である。(123頁)

(8)-2 現存在は共同存在の様相で存在している!
N 「現存在がおのれの存在そのものにおいて関わらされているそれの存在」には、「ほかの人びととの共同存在」ということがぞくしている。(123頁)
N-2 「現存在は共同存在としては、本質上、ほかの人びとを主旨として『存在』している」。(123頁)
N-3 「特定の事実的現存在が、①ほかの人びとのことを意に介さず、②彼らがいなくてもいいと思いこみ、あるいは逆に、③彼らがいないことに耐えている場合にも、この現存在は共同存在の様相で存在している」。

(8)-3 「ほかの人びと」は「用具的なもの」のなかから姿を現してくる!
O 「ほかの人びと」は「宙に浮いた主体」という姿で現前しているのでなく、「彼らの環境的配慮的な世界内存在」のなかで、「この世界の内部にある用具的なもの」のなかから姿を現してくる。これは「世界の世界性の構造」にもとづく。(123頁)
O-2 「相手(der Andere)はさしあたり、配慮的待遇(顧慮)のなかで(in der besorgenden Fürsorge)開示されている」。(124頁)

(9)「感情移入」の問題!
P 「とりたてて相手にむかっていたわりつつ彼を開示する待遇(顧慮)」も、いつも「彼との原義的な共同存在(aus dem primären Mitsein mit ihm)」(※モナド共同体)のなかからのみ芽ばえてくる。(124頁)
P-2 「このような他者認識」(※待遇)は、いわば他者の「主題的な開示」である。(124頁)
Q この場合、「まず単独に与えられている自己主観から、さしあたって、まったくとざされている他者主観へ通っていく橋」を「感情移入」という現象によって「存在論的に架けようとする」立場がある。(124頁)
Q-2 「感情移入」とは、「他人は自己の複製だ」という考え方にもとづく。(124頁)
Q-3 「現存在の自己自身への関係(※意識)を、どうして、他者としての相手に開示しようというのか(※独我論の問題)、どこまでも謎のままである。」(125頁)

(9)-2 「現存在(※モナド)が、世界内存在として、いつもすでにほかの人びとと共に存在している(※モナド共同体である)」!(125頁)
R 「ほかの人びとへ関わり合う存在は・・・・・・共同存在として、すでに現存在の存在とともに存在している。」(125頁)
R-2 「現存在が、世界内存在として、いつもすでにほかの人びとと共に存在している。」(125頁)
R-3 「共同存在は、『感情移入』によってはじめて構成されるのではない。むしろ『感情移入』の方が、共同存在にもとづいてはじめて可能なのである」。(125頁)

《参考1》「内存在は、ほかの人びととの共同存在(共存在)(das Mitsein)である。」(第26節、118頁)
《参考2》「現存在(※モナド)は本質上、共同存在である(※モナド共同体である)。」(第26節、120頁)

(10)まとめ:①共同存在、②共同現存在、③相互存在
S ①「共同存在(Mitsein)(※モナド共同体)は、世界内存在の実存論的な構成契機である。」(125頁)
S-2 ②「共同現存在(Mitdasein)(※他モナド)は、世界の内部に居合わせる存在者の固有の存在様式である。」(125頁)
S-3 ③「現存在(Dasein)(※モナド)は、そもそも存在しているかぎり、相互存在(das Miteinandersein)というありかたをしている。」(125頁)

(10)-2 問題の再確認:「日常性において現存在であるのは誰なのか」という問い!
T 「現存在は・・・・・・配慮された世界に(in der besorgten Mitwelt)融けこみ、すなわち、とりもなおさず、ほかの人びととの共同存在(im Mitsein zu den Anderen)に融けこんでいて、自己自身ではない。」(125頁)
T-2 「それでは、日常的相互存在としての存在を引き受けているのは、いったい誰れであるのか」

《参考》「第4章 共同存在と自己存在としての世界内存在、『世人(世間)』(Das “Man”)」(冒頭)         
A 「日常性において現存在であるのは誰なのか」という問いを、かかげ、これから追跡する。(113-4頁)
A-2 かくて、現存在の根源的構造として、「世界内存在(In-der-Welt-sein)」とともに、「共同存在(Mitsein)」と「共同現存在(Mitdasein)」の解明へと進む。(114頁)
A-3 そして日常性の「主体」である「世人(世間)」(das Man)がみとどけられる。
B 「平均的現存在の『誰か』」について扱う本章は次のように分節される。
一、現存在の誰かをたずねる実存論的な問いの手がかり(第25節)
二、ほかの人びとの共同現存在と日常的共同存在(第26節)
三、日常的自己存在と世人(世間)(das Man)(第27節)

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ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第4章」「第26節 ほかの人びとの共同現存在(共現存在)と日常的共同存在(日常的な共存在)」(その3)

2019-05-24 20:51:33 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」
※「第4章 共同存在(共存在)と自己存在としての世界内存在、『世人(世間)』(Das “Man”)」

(7)現存在一般の存在が「関心」(Sorge)だ:①用具的存在者における「配慮」(Besorgen)、②共同現存在における「待遇」(顧慮)(Fürsorge)!(121頁)
I 「現存在一般の存在」が「関心」として規定される。(「第6章 現存在の存在としての関心(Sorge)」参照。)
I-2 ①世界の内部にある「用具的なものごと」(※用具的存在者)との配視的交渉は「配慮」である。(既述)
I-3 ②「現存在が共同存在というありさまで関わり合う存在者」(※共同現存在)は、それ自身、「現存在」である。「この存在者は、配慮(Besorgen)されるのではなく、待遇(顧慮)(Fürsorge)されるのである。」

(7)-2 「待遇」のさまざまな仕方:①「相手のために」存在、②「相手に反対し」存在、③「交際せずに」存在(「欠如態」)、④「相手を素通りし、無頓着に」存在(「無関心態」)!
J 「待遇」のさまざまな仕方:①「互いに相手のために」存在する、②「相手に反対して存在する」、③「互いに交際せずに存在する」(待遇の「欠如態」)、④「互いに相手を素通りし、相手に無頓着に存在する」(待遇の「無関心態」)。(121頁)
J-2 「待遇」の「③欠如態や④無関心態」が「日常の平均的な相互存在」を特徴づける。
J-3 これらの「存在様態」(③④)は、「ほかの人びとの日常的・内世界的共同現存在」に、「目立たなさやありふれた自明さ」を与える。(Cf. 「日毎に配慮されている道具の用具性」にも「目立たなさやありふれた自明さ」がそなわる。)
J-4 「相互存在の無関心的様態」(④)について、「この存在を、いくつかの主体のたんなる客体的存在とみなす解釈」へと誘惑されてはならない。(121頁)

(7)-3 「待遇」の「積極的な様態」(①)の2つの極端なケース:(a)相手の『苦労』を取り除くため、相手の身替わりをつとめてやる、(b)相手がその関心に向かって自由になるのを助ける!
K 「待遇」の「積極的な様態」(①)の「ふたつの極端な場合」。(122頁)
K-2 (a)「相手の『苦労』を取り除いてやる『世話好きな』待遇」:「(※用具的存在者への)配慮において相手に代わって飛び入りをして、相手の身替わりをつとめてやる」。この場合、「世話」になった相手は「依存的」になり、暗黙のうちに「支配」を受ける。(b)「実存的な存在可能において相手に率先する」。「相手がその関心において透視的になり、それへむかって自由になるのを助ける。」(※これは、いわば人生相談的に相手を助けることだ!)
K-3 現存在は、「配慮された世界と関り合う存在」および「自己自身へ関わり合う本来的存在」がからみあう。(122頁)
K-4 「積極的待遇」(①)の二つの極端、(a)「飛び入りして相手を支配する待遇(顧慮)」と(b)「率先して相手を解放する待遇(顧慮)」の間に、日常的相互存在は身をおいていて、様々な混合形態が生ずる。(122頁)

(7)-4 「待遇」(顧慮)(Fürsorge)は、「心遣い」(顧視)(Rücksicht)や「思いやりの省視」(寛大視)(Nachsicht)に導かれている!
L 「配慮」(Besorgen)には、「用具的なもの」を発見する仕方として「配視」(Umsicht)がそなわっている。(123頁)
L-2 これと同様に「待遇」(顧慮)(Fürsorge)は、「心遣い」(顧視)(Rücksicht)や「思いやりの省視」(寛大視)(Nachsicht)に導かれている。なお、これらは欠如的・無関心的な諸様態を経て、無遠慮、無頓着にまでいたる。(123頁)

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ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第4章」「第26節 ほかの人びとの共同現存在(共現存在)と日常的共同存在(日常的な共存在)」(その2)

2019-05-23 22:43:46 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」
※「第4章 共同存在(共存在)と自己存在としての世界内存在、『世人(世間)』(Das “Man”)」

(4)「ほかの人びと」はどう出会うか?彼らは「『世界』のなかから出会う」!
F 「まず存在している自分の主観を、ほかにも出現している多くの主観から区別して、あらかじめ把握するという態度では、ほかの人々は出会わない」。(119頁)
F-2 「ほかの人びとは、配慮的=配視的な現存在(das besorgend-umsichitige Dasein)がその内に本質上身を置いている『世界』のなかから出会う。」(119頁)

(4)-2 現存在は「自分自身」をどう見出すか?
G 「現存在が『自分自身』を見いだすのは、さしあたっては・・・・・・身近に配慮されている環境的な用具的存在者においてである。」(119頁)
G-2 現存在が自分自身について呼ぶ「ここにいるこの私」という「場所的な人称規定」は、「現存在の実存論的空間性」をもとにして理解されなくてはならない。(119頁)
G-3 「この『ここにいるこの私』とは、事物的自我が存在している特別の地点を指すものではなく、内存在として、配慮する現存在が身をおいている用具的世界の『あそこ』から自分を了解するものなのである。」(119頁)

《参考》「内存在の空間性は、『開離(Entfernung、遠ざかりの奪取)(※テーマ化)』と『付置(Ausrichtung、方向の切り開き)』という性格を示す。」(104頁)(第23節 世界内存在の空間性)

(5)「ほかの人びとの共同現存在」!「ほかの人は、彼の世界内共同現存在において出会う!」
H 「ほかの人びとが、かれらの現存在において言わば主題的になる場合」にも、かれらは「たんに存在している人格的事物」でない。(120頁)
H-2 われわれは「仕事中」のかれらに会う。すなわち「かれらの世界内存在においてかれらに会う」。つまり「ほかの人は、彼の世界内共同現存在において出会う。」(120頁)

(6)「現存在(※モナド)は本質上、共同存在である(※モナド共同体だ)」!(Cf. フッサールのモナド共同体!)
I 「ほかの人びとのこの共同現存在(※他モナド)が世界の内部で現存在(※モナド)にとって――したがってまた共同に現存する人びと(※他モナド)にとっても――開示されているのは、ほかでもなく、現存在(※モナド)が本質上、おのずからにして共同存在である(※モナド共同体だ)からなのである。」(120頁)
I-2 「現存在(※モナド)は本質上、共同存在である(※モナド共同体だ)、という現象学的言明は、実存論的=存在論的な意味を持つ」。
I-3 「共同存在(※モナド共同体)ということが現存在(※モナド)を実存論的に規定している」。(120頁)
I-4 「共同存在(※モナド共同体)とは、各自の現存在(※モナド)の性格であり、共同現存在(※他モナド)とは、・・・・・・ほかの人びとの現存在(※他のモナド)を性格づける言葉である。」(121頁)
I-5 「各自の現存在(※モナド)は、共同存在(※モナド共同体)という本質構造をそなえているかぎりでのみ、ほかの人々に出会いつつ、(※ほかの人びとにとって)共同現存在(※他モナド)となっている。」(121頁)
I-6 ※「モナド共同体」について、これまで言及した箇所については、以下、《参考2》《参考2-2》《参考2-3》《参考2-4》《参考2-5》参照。

《参考2》
第12節
(4)-2 「無世界的」であるふたつの存在者は《触れあう》ことがありえない!
G 「それ自体において『無世界的』であるようなふたつの存在者は、決して《触れ合う》ことがありえない。」
《感想3》これは、あるモナド(現存在、つまり超越論的主観性としての《意識》)と、他なるモナドの出会いの問題だ。独我論の問題。両モナドが共同体的に、一つの世界を構成しないかぎり、両モナドは出会えない。モナド(現存在)が、初めからモナド共同体である場合にのみ、あるモナドと、他なるモナドは、一つの世界のうちで出会うことができる。

《参考2-2》
第12節
(5)-2 現存在の「事実性」(Faktizität)に含まれる事柄:①世界内存在、②現存在は「おのれ自身の世界の内部でおのれに出会うもろもろの存在者の存在に連帯している」!
H-2 現存在の「事実性」(Faktizität)には次のような事柄が含まれる。①「世界の内部にある」存在者の世界内存在ということ。
《感想5-2》世界内存在、つまり世界の「のもとに住む」とは、その存在者が、世界そのものだということだ。例えば君は世界そのもの、君において世界という出来事が出現している、君とは世界という出来事の出現そのものだ。君は世界or宇宙そのもの、君はモナド、フッサール的に言えば君は超越論的主観性だ。
H-2-2 ②しかも「この存在者はその『運命』において、おのれ自身の世界の内部でおのれに出会うもろもろの存在者の存在に連帯していることをみずから了解する」ということ。
《感想5-3》おのれのモナド(現存在)のうちで、他のモナド(現存在)に出会う。この出会いは「運命」的で避けがたい。なぜならおのれのモナドと他のモナドは、すでにあらかじめモナド共同体(フッサール)だからだ。

《参考2-3》
第12節
(6)-2 私見:モナド(現存在)の多数性さらに共同性!
《感想6》ハイデガーは、現存在の「事実性」(Faktizität)に含まれる事柄②として、現存在は「おのれ自身の世界の内部でおのれに出会うもろもろの存在者の存在に連帯している」と述べた。(第12節(5)-2参照)これは、私見では、モナド(現存在)の多数性、またモナド共同体をハイデガーが認めると、解する。つまり彼は、単にモナドの多数性でなく、多数のモナドが出会えるとし、モナドの共同性を認める。
《感想6-2》私見では、現存在は、モナドである。モナドは、《感覚、感情、欲望、意図、夢、意味世界、意味世界の展開としての想像・虚構》からなる。
《感想6-3》モナドが宇宙・世界と呼ばれるのは、それが物世界も含むからだ。《感覚》は、モナドの外にある物自体の《像》でない。《感覚》は物自体の出現そのものだ。モナドは物世界を含む。
《感想6-4》モナドは《意識》だが、超越論的主観性(フッサール)だ。

《参考2-4》
第13節
(3)ハイデガーは「超越」を認めない!すべてが「内在」だ!(世界内存在!)
C 「認識する主観(※「内在」)は如何にしてその内的《圏》から出てそれとは《別種な外的圏》(※「超越」)に達するのか」という問いは、根拠がない。この場合、「認識する主観の存在様相をたずねる」ことが閑却されている。(60頁)
C-2 「『認識する』ことは、世界内存在の存在様式のひとつである」
C-3 「認識は主観の超越においてはじめて世界に到達する」というのは誤りだ。「世界(※超越)が始めから自己の世界(※内在、内面、内的圏)にある」。(61頁)
《感想3》ハイデガーは「超越」を認めない。すべてが「内在」だ。
《感想3-2》「現存在」(※いわゆる《意識》)が「世界内存在」であるとは、超越とされる存在者(「自然」)(60頁)も、「内在」だということだ。(内面と外面が区別されない。)
《感想3-3》つまり「現存在」は超越論的主観性である。そして超越を認めないから、感覚される「物」は「物」(超越)の「像」(内在)でなく、物そのものだ。このような現存在はモナドである。
《感想3-4》この場合、外面(超越)があるとすれば、それは①他モナドである。②だがモナド共同体的に物世界が共有される。モナド共同体的物世界を外面と呼ぶことができる。
《感想3-5》これに対し《内面》とは モナド共同体的物世界と異なる、各モナドの《固有の感覚、感情、欲望、意図、夢、意味世界、意味世界の展開としての想像・欲望》(これらが普通《心》とよばれる)のことだ。
《感想3-6》現存在が世界内存在であるとは、ハイデガーが、超越を認めないということだ。現存在は「世界の内で(※世界は超越でない)世界へ向かってかかわる存在 」だ。(60頁)
《感想3-7》フッサールが語る《ヒュレー》とは、世界の《質料》であって、これがノエシスによってノエマ(意味、形相)へと形成される。

《参考2-5》
第26節
(3)-4 現存在の世界は共同世界(共世界)(die Mitwelt)である!&「共同存在(共存在)(das Mitsein)」!&「共同現存在(共現存在)(das Mitdasein)」!
E 「このような『ともに』的な世界内存在にもとづいて、世界はいつもすでに、私がほかの人びとと共にわかっている世界である。現存在の世界は共同世界(共世界)(die Mitwelt)である。」(118頁)
E-2 「内存在は、ほかの人びととの共同存在(共存在)(das Mitsein)である。」(118頁)
E-3 「ほかの人びとの内世界的な自体存在は、共同現存在(共現存在)(das Mitdasein)である。」(118頁)
《感想1-4》フッサールは、モナド共同的な世界を可能とする「(諸)モナド共同体」こそ、原事実(これこそが、世界内の諸事実を可能とする)だと述べる。(ここでモナドとは超越論的主観性である。)

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ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第4章」「第26節 ほかの人びとの共同現存在と日常的共同存在」(その1)

2019-05-22 21:03:24 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」
※「第4章 共同存在と自己存在としての世界内存在、『世人(世間)』(Das “Man”)」

(1)環境世界の道具連関のなかで「居合わせて」いるほかの人びと!
A 環境世界の中で身近に現前する道具連関のなかで「居合わせて」いるほかの人びと。(118頁)
A-2 例① 職人の仕事世界のような環境世界で、その「『製品』が予定されているほかの人びとも『一緒に出会う』」。すなわち「着用する人びと」。また材料の「製造者」「供給者」。(117頁)
A-3 例②「外出して」歩いたとき沿って歩く畑は、「だれかれの畑」だ。(117頁)
A-4 例③ 今読んでいる本は「どこかの(※誰かの)店で買った」あるいは「誰かに贈られた本」だ。(118頁)
A-5 例④ 湖岸のボートは「知人」を指示する。また「見慣れぬボート」も「ほかの人びと」を示唆する。(118頁)

(2)「世界の内部で出会うほかの人びとの現存在のありかた」は①「用具性」や②「客体性」とは異なる!
B これまでの分析は、「世界の内部で出会うものごとの範囲」を「現在的でない性格の存在者」(①「手もとにある道具」もしくは②「現前する客体的自然」or「事物一般」)に限定してきた。(118頁)
B-2 限定の理由は「世界の内部で出会うほかの人びと(die Anderen)の現存在のありかた」が、①「用具性」や②「客体性」とは異なるからだ。(118頁)
B-3 「現存在の世界」は、「その現存在のとしての存在様相に応じてそれ自身も世界内存在として存在する存在者」(※現存在としてのほかの人びと)をも明け渡す。(118頁)

(3)「孤立した主観を出発点として、ほかの人びとへ移行する」という方法は誤りだ!
C 「ほかの人びと」は「各自の現存在を基準にして」性格づけられるのではない。(118頁)
C-2 つまり「孤立した主観を出発点として、ほかの人びとへ移行する」という方法で「ほかの人びと」を性格づけてはならない。(118頁)

(3)-2 「ほかの人びと」とは「そのなかに自分も加わっている人びと」のことだ!
C-3 「ほかの人びと」とは、「私以外の人びと」という「残余全体」ではない。(118頁)
D 「ほかの人びと」とは、「人がたいていは自分と区別しないでいる人びと」、あるいは「そのなかに自分も加わっている人びと」のことだ。(118頁)

(3)-3 「ともに」存在するとは、「現存在的」に「ともに」存在することだ!
D-2 ひとつの世界の内部で「ともに」存在するとは、「ともに客体的に存在する」のでなく、「現存在的」に「ともに」存在することだ。(118頁)
D-3 ほかの人びと「もまた」、「配視的=配慮的な世界内存在としておなじありかたをしている」。(118頁)

《感想1》現存在は「存在者」でなく世界そのもの、つまりモナドだ。
《感想1-2》「ほかの人びと」も「現存在」だとすると、ほかの世界つまりモナドはどのように、この世界つまりモナドと出会うのか?
《感想1-3》ハイデガーは、ともかく複数の現存在が、初めからすでに出会っている(出会うことが可能で現に出会っている)とする。

(3)-4 現存在の世界は共同世界(die Mitwelt)である!&「共同存在(das Mitsein)」!&「共同現存在(das Mitdasein)」!
E 「このような『ともに』的な世界内存在にもとづいて、世界はいつもすでに、私がほかの人びとと共にわかっている世界である。現存在の世界は共同世界(die Mitwelt)である。」(118頁)
E-2 「内存在は、ほかの人びととの共同存在(das Mitsein)である。」(118頁)
E-3 「ほかの人びとの内世界的な自体存在は、共同現存在(das Mitdasein)である。」(118頁)

《感想1-4》フッサールは、モナド共同的な世界を可能とする「諸モナド共同体」こそ、原事実(これこそが、世界内の諸事実を可能とする)だと述べる。(ここでモナドとは超越論的主観性である。)

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ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第4章」「第25節 現存在の誰かをたずねる実存論的な問いの手がかり」(その3)

2019-05-20 11:41:05 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」
※「第4章 共同存在と自己存在としての世界内存在、『世人(世間)』(Das “Man”)」

(5)「誰かの問い」への「手引き」!
K 「現存在の誰かは、存在論的に見て問題であるだけでなく、存在的にも蔽いかくされている。」(116頁)
K-2 「誰かの問い(Wer-frage)に対して実存論的=分析論的に解答しようとするわれわれ」にとって「手引き」がある。(116頁)(以下参照)

(5)-2 現存在の存在構成の二つの形式的表示:(a)「現存在の各自性(Je-meinigkeit)」!(b)現存在の「実存」性、つまり現存在は「客体的存在」(「現存在的でない存在様相を持つ存在者」)でない!
K-3  現存在の存在構成の二つの形式的表示。((a)「第9節 現存在の分析論の主題」と(b)「第12節 世界内存在を、内存在そのものを手引きとして素描する」)(117頁)

《参考》(a)第9節と(b)第12節!
(a)第9節:「この存在者(※現存在)がみずからの存在において関わらされている存在とは、そのつど私の存在である。」すなわち「現存在の各自性(Je-meinigkeit)」!(42頁)
(b)第12節:「現存在(Dasein)とは、みずから存在しつつこの存在にむかって了解的に態度をとっている存在者(Seiendes)である。」これが「実存」の「形式的な概念」だ。つまり現存在は「実存」する。(52-53頁)現存在の「実存」性!

(5)-3 「誰かの問い」への「手引き」:「現存在の『本質』はその実存にもとづく」!
K-4 上記の(b)第12節で述べた「現存在の『本質』はその実存にもとづく」という「現存在の存在構成の形式的表示」を、これからの探求の「手引き」とする。(117頁)
K-4-2 Cf. 「現存在」は、「客体的存在」(「現存在的でない存在様相を持つ存在者」)でない。(54頁)

《参考》第4節:現存在が、「関わり合いうる存在そのもの」そして「関わり合っている存在そのもの」を、「実存」(Existenz)と名付ける。(12頁)

(5)-4 現存在は「実存」する! 
K-5 「現存在がいつも、実存することによってのみおのれの自己である。」(117頁)

《参考1》第9節参照:I 「実存範疇」と「カテゴリー」とは、存在の諸性格のふたつの根本的様態である。
I-2 「誰かとよばれる存在者」(現存在)の存在は「実存」であり、その存在諸性格が「実存範疇」である。
I-3 「何かとよばれる存在者」の存在は「客体性」であり、その存在諸性格が「カテゴリー」である。

《参考2》第18節F参照:「存在者としての現存在が、いつもすでに関わり合っている世界を了解している。」(86頁)
《参考2-2》》第18節F《感想4-2》参照:「世界を了解している」(ハイデガー)とは、私見では、超越論的主観性(超越論的意識)である現存在(モナド)における、ノエシス(主要には自発性としての注視であるが受動性も含む)とノエマの分裂的総合(一者)のことだ。意識は、いわば感じる(見る)ものと感じられるもの(見られるもの)の分裂的総合(一者)だ。

(5)-5 「人間の『実体』」は「実存である」!
K-6 「人間の『実体』は、心と身体の総合としての精神ではなく、(※現存在の)実存である」。(117頁)

《感想5》「人間の『実体』」は現存在の実存である。現存在は、超越論的主観性(超越論的意識)あるいはモナドであり、それはまた、ノエシスとノエマの分裂的総合であって、この出来事が「了解」と呼ばれる。現存在の自己了解が、「実存」の内実である。Cf.「現存在は・・・・なんらかの様式と明確度において、自己を了解している。」(第4節12頁)

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ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第4章」「第25節 現存在の誰かをたずねる実存論的な問いの手がかり」(その2)

2019-05-19 13:39:14 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」
※「第4章 共同存在と自己存在としての世界内存在、『世人(世間)』(Das “Man”)」

(3)日常的現存在の「主体」は私自身ではないかもしれない!
F 「いかなるときにも私が現存在なのである」という言明は「存在的」にはわかり切ったことである。(115頁)
F-2 だが「存在論的」に解釈すると、「日常的現存在の現象的実態」からして、「日常的現存在の『主体』は私自身ではないかもしれない」。(115頁)

(3)-2 「自我の所与性ほど疑いえないもの」はほかにない!つまり「端的な形式的な反省的な自我覚知というこの与え方が与えるもの」は、「明証的」である!
G しかし、やはり「自我の所与性ほど疑いえないものが、ほかにあるであろうか」と主張される。
G-2 「たしかに、端的な形式的な反省的な自我覚知(das schlichte, formale, reflective Ichvernehmen)というこの与え方が与えるものは、明証的であるというのは、おそらくその通りであろう。」(115頁)
G-3 実際、この知見から「意識の形式的現象学」という現象学的問題圏への通路が開かれうる。

《感想3》フッサールは、「意識の形式的現象学」という現象学的問題圏をもっぱら取り扱った。

(3)-3 「いつも私のものであるという現存在の構成」が、かえって「現存在」が「自己自身ではない」ということの「根拠」になることがある! 
H 事実的現存在の「実存論的分析論」との関連においては、「ここに述べたような自我の与え方」が、「現存在を開示する」のか、仮にそうだとしても、「現存在をその日常性において開示する」のか、問題だ。
H-2 つまり「現存在への通路」は、「作用主体たる自我を端的に覚知する反省作用」でなければならないのか?
H-3 「いつも私のものであるという現存在の構成」が、かえって「現存在がさしあたってたいていは自己自身ではない」ということの「根拠になっている」ことがありうる。(115-6頁)

(3)-4 「自我性」を持つ存在者が、その「反対のもの」「『自我でないもの』)となる!たとえば「自己喪失という存在様態」!
I 「『自我』という言葉は、拘束のない形式的表示の意味にのみ理解すべきである」。(116頁)
I-2 そして「『自我』という言葉は、そのつどの現象的存在連関のなかではその『反対のもの』(『自我でないもの』)として暴露されうるものをも、表示しうる。」(116頁)
I-3 「自我性」を持つ存在者が、その「反対のもの」「『自我でないもの』)となるとは、たとえば「自己喪失という存在様態」である。(116頁)

(4)「現存在の誰かをたずねる問い」は、「自我の形式的所与性」から出発できない!「世界のないたんなる主観」は「存在」しない!
J 「現存在の誰かをたずねる実存論的な問い」に関して、「自我の形式的所与性」から出発することはできない。(116頁)
J-2 「世界内存在」の解明が示したように、「世界のないたんなる主観」は「存在」しないし、また決して「与えられて」もいない。

(4)-2 「ほかの人々」なしに「孤立した自我」が与えられていることは決してない!
J-3 「孤立した自我がほかの人々なしに与えられているというようなことも決してない」。(116頁)
J-4 「居合わせている共同現存在のありさまを、身近な日常性において現象的にあきらかにし、それを存在論的に適切に解釈することが、課題である。」(116頁) 

《感想4》現存在は「存在者」でなく「存在」である。つまり現存在は、世界内的な「用具的存在者」でも「客体的存在者」でもない。
《感想4-2》現存在は、世界(or宇宙)そのものである。つまり現存在はモナド、(超越を内在させる)超越論的主観性である。
《感想4-3》現存在である私モナド(私世界)と、他なる現存在である他モナド(他世界)(他我)とどう出会うのか?
これについては、すでに19節で私見を述べた。(以下参照)

《参考》第19節(6)-4《感想1-8》参照:物はモナド共同性が成立できるための堅固な根拠だ。理由は以下の通り。(a)モナドのうちにおいて、今ここに、必ず中心的物体(身体)が出現する。しかも(b)物は《相互に他なる境界面の出現》だ。かくて(c)諸モナドに共同性が成立するには、《相互に他なる境界面の出現》である《物》としての身体の(※自他の)相互的接触が不可欠だ。
《参考(続)》第19節(6)-4《感想1-8-2》参照:かくて諸モナド共同的な物世界は、客観性、外部性(超越性)という性格を得る。
《参考(続々)》第19節(6)-5《感想1-8-3》参照:だが客観性、外部性(超越性)をもつ諸モナド共同的な物世界は、あくまでもモナド内在的であり、つまり超越論的主観性(モナド)に属す。

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ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第4章」「第25節 現存在の誰かをたずねる実存論的な問いの手がかり」(その1)

2019-05-18 19:22:06 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」
※「第4章 共同存在と自己存在としての世界内存在、『世人(世間)』(Das “Man”)」

(1)「現存在とはいつでも私自身である存在者であり、その存在はいつでも私の存在である」!
C 「いったい誰がこの存在者(現存在)なのであるか」という問い。
C-2 これについては第9節ですでに論じた。「現存在とはいつでも私自身である存在者であり、その存在はいつでも私の存在である。」

《感想1》「私自身である存在者」とは何か?それが《意識》であるとしても、超越論的意識だ。《意識》は、《超越》を自らのうちに持たない限り、独我論を克服できない。
《感想1-2》《超越》を自らのうちに持つとは、《超越》つまり物世界がそのものとして《意識》に含まれることだ。そのような《意識》は、超越論的意識つまりモナドだ。
《感想1-3》ハイデガーは他者(他我)と出会えると想定しているから、現存在は、超越論的意識つまりモナドだ。

《参考1》第12節《感想6-3》参照:モナドが宇宙・世界と呼ばれるのは、それが物世界も含むからだ。《感覚》は、モナドの外にある物自体の《像》でない。《感覚》は物自体の出現そのものだ。モナドは物世界を含む。《感想6-4》モナドは《意識》だが、超越論的主観性(フッサール)だ。
《参考1-2》物世界がモナドに含まれるとすれば、真に《超越》と言えるのは他モナドのみである。物世界は(自モナドに属するが同時に)他モナドにも属するがゆえに《超越》である。
《参考2》第24節《感想2-3》参照:超越論的主観性(現存在orモナド)にとって、「超越」は、モナド共同的な物世界を含む《他モナド》である。
《参考2-2》第22節《感想1-2》参照:間モナド的(モナド共同的)という意味で客観的or超越的な空間はある。客観的or超越的とは、間モナド的(モナド共同的)という意味だ。

(2)「存在的」には、この存在者(現存在)は「自我」である!
D 上述の「現存在とはいつでも私自身である存在者であり、その存在はいつでも私の存在である」との規定は、「存在論的」構成を予告している。
D-2 だがこの規定は「存在的」には、「自我がこの存在者(※現存在)なのであって、ほかの人々ではないという言明」を含む。

《感想2》「ほかの人々」とは何か?現存在がモナドであるとすると、「ほかの人々」(他者たち)とは他モナドだ。現存在orモナドは、どのようにして、他モナドと出会うことができるのか?
《感想2-2》言い換えれば超越論的自我(主観性)の独我論は、どのように克服できるのか?

(2)-2 「存在論的」にみれば、「自我」は、「基体(das Subjektum)」であるので、「客体的」なもの」ととらえられてしまう!
E 現存在は、「存在的」には「自我」(「主体」「自己」)であるが、この場合、自我とは、「行動や体験の交替をつうじて同一のものとして持続しつつ、これらの多様な行動や体験に関係しているもののことである。」
E-2 これを「存在論的」にみれば、「自我」は「あるまとまった領域の中で、かつこの領域にとって、いつでもはじめから不断に存在しているもの、ひときわ優れた意味で根底にあるもの」すなわち「基体(das Subjektum)」である。
E-3 「基体」は「さまざまな他相をつうじて自同的なもの」だから、そのかぎりで「自己(das Selbst)」という性格をそなえている。
E-4 それゆえ「基体」である自我は、「客体的なもの」ととらえられてしまう。「けれども、客体性は、現存在的でない存在者のあるかたである。」(115頁)

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ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第4章 共同存在と自己存在としての世界内存在、『世人(世間)』(Das “Man”)」(冒頭)

2019-05-17 09:58:22 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」

A 「日常性において現存在であるのは誰なのか」という問いを、かかげ、これから追跡する。(113-4頁)
A-2 かくて、現存在の根源的構造として、「世界内存在(In-der-Welt-sein)」とともに、「共同存在(Mitsein)」と「共同現存在(Mitdasein)」の解明へと進む。(114頁)
A-3 そして日常性の「主体」である「世人(世間)」(das Man)がみとどけられる。
B 「平均的現存在の『誰か』」について扱う本章は次のように分節される。
一、現存在の誰かをたずねる実存論的な問いの手がかり(第25節)
二、ほかの人びとの共同現存在と日常的共同存在(第26節)
三、日常的自己存在と世人(世間)(das Man)(第27節)

《感想1》社会学が扱う社会化(内面化)の問題だ。社会化(内面化)とは、社会の文化、特に価値と規範を学習によって後天的に獲得することである。
《感想1-2》世人(世間)(das Man)とは、スミスの「公平な観察者」、フロイトの「超自我」、ミードの「一般化された他者」に相当する。

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ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第3章」「C 環境世界の『身の廻り』的性格と現存在の空間性」「第24節 現存在の空間性と空間」(その2)

2019-05-15 12:44:02 | Weblog
(3)環境世界の空間性の主題化!「純粋空間の主題的な発見と開発」!(112頁)
H 「配視的に出会うものごとの空間性」、この「空間性」が「やがて配視そのものにとっても主題的になる」。Ex. 家屋の建築、土地の測量など。(111-2頁)
H-2 空間への近づき方が、「配視的計算」から「純粋な注視」へ移行する。これが「純粋空間の主題的な発見と開発」の糸口となる現象的地盤である。(112頁)

《感想3》ここでハイデガーは「純粋な注視」というが、これも広義には「配視」(関心にもとづく注視)のひとつである。つまり《認知的関心》にもとづく注視である。

(3)-2 環境世界は自然世界(同質的な自然空間)となる!
H-3 「配視から解放されて、もはやただ注視するだけの態度でおこなわれる空間」の発見は、環境世界のさまざまな「方面」を「中性化」し、「純粋な諸次元」にする。(112頁)
H-4 世界は「身の廻り」的性格を喪失し、環境世界は自然世界となる。つまり「道具全体としての『世界』」は「空間化」されて、「ただわずかに客体として存在するだけの延長せる事物の連関」になる。
H-5 「同質的な自然空間」の発見は、「用具的なものの世界適合性」の「非世界化」という性格を持つ。

(3)-3 空間性も世界(※環境世界)をもとにしてでなければ発見できない!
H-6 「空間性も世界(※環境世界)をもとにしてでなければ発見できない」。「空間がともかく世界の構成にあずかる」ということも、「現存在自身が世界内存在というその根本的構成において本質上空間性をそなえている」ということに、応じている。(113頁)

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ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第1編」「第3章」「C 環境世界の『身の廻り』的性格と現存在の空間性」「第24節 現存在の空間性と空間」(その1)

2019-05-13 18:17:54 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」
※「第3章 世界の世界性」

(1)「配視的な世界内存在は空間的なものである」!つまり「現存在は開離(※テーマ化)と布置という仕方で空間的である」!
A 「現存在は世界内存在であるから、いつでもすでにひとつの『世界』を発見している。」この発見は「存在者をある趣向(適所)全体性へ向けて明け渡す」こととして性格づけられる。(110頁)
A-2 この世界の発見は「配視的な自己指示」にもとづく。
A-3 「配視的な世界内存在は空間的なものである」。つまり「現存在は開離(※テーマ化)と布置という仕方で空間的である」。

(1)-2 ただし「位置や位相が測量的に配列規定される純粋な場」としての「空間」は、まだ「隠れている」!
B「このように世界の世界性とともに開示されている空間には、三次元の純粋な多様というようなものが、まだ少しもそなわっていない。」(110頁)
B-2 つまり「位置や位相が測量的に配列規定される純粋な場」としての「空間」はまだ「隠れている」。

(1)-3 趣向(適所)全体性には「方面」(Gegend)的な空間的趣向(適所)性がぞくす!
C 「環境世界の用に具わっているもの(※道具的存在者)の存在を形成する趣向(適所)全体性には方面(Gegend)的な空間的趣向(適所)性がぞくしている。」(111頁)

(1)-4 「空間を与えること」or「空間を許容すること(空間許容)」(Einräumen、容致)!
D 「内世界的存在者を出会わせる」ことは「空間を与えること」であり、これは「空間を許容すること(空間許容)」(Einräumen、容致)」と呼んでよい。
D-2 「空間許容(容致)」とは、「用具的なものをその空間性へむかって明け渡すこと」、あるいは「趣向(適所)性によって規定されている場所全体性を発見的に呈示すること」である。

(1)-5 「方面」(Gegend)あるいは一般に「空間性」は、まだとりたてて注目されていない!
E だがそのつどあらかじめ発見されている「方面(Gegend)」も、また一般にそのつどの「空間性」も、まだとりたてて注目されていない。(111頁)
E-2 「それら(「方面」、一般に「空間性」)は、配視がわれを忘れて配慮している用具的存在者の目立たなさのなかで、おのずからにしてこの配視に現前している」のみだ。

(2)「空間は世界の『なかに』ある」!
F 「空間は主観のなかにあるのではない。」(111頁)
F-2 「世界は空間のなかにあるのでもない。」
F-3 「空間は・・・・現存在にとって構成的な世界内存在がすでに空間を開示しているかぎり、世界の『なかに』ある。」

《感想1》現存在はモナドであって、現存在はそれ自身、世界・宇宙・超越論的主観性であり、かくて空間はモナドの中にある。現存在(モナド)の外に超越的な客観的空間はない。(第22節、第23節参照)

F-4 「空間が主観のなかに存在しているのではない。」また「主観が世界をあたかも空間のなかにある『かのように』観察するのでもない。」そうではなく「存在論的に正しく理解された『主観』(※超越論的主観性)――すなわち現存在――が、空間的なのである。」(111頁)

(2)-2 空間のアプリオリ性!
G 「現存在が空間的であるがゆえに、空間がアプリオリな原理として現れる」。(111頁) 
G-2 「アプリオリ」とは、「はじめにまだ無世界的に存在している主観に、空間がもとから属していて、主観がその空間を自分のそとへ投射する」ことを意味するのでない。(※カントのアプリオリな空間!)

《感想2》「主観」に、「そと」(超越)があるという立場に、ハイデガー(現象学)は立たない。
《感想2-2》「主観」は「そと」(超越)を持たない。いわば「主観」の「うち」に「そと」(超越)がある。そのような「主観」は、超越論的主観性(現存在)であり、モナドであり、世界・宇宙そのものだ。
《感想2-3》超越論的主観性(現存在)orモナドにとって、「超越」は、モナド共同的な物世界を含む他モナドである。

G-3 「空間のアプリオリ性」とは、(現存在において)「環境世界のなかでそのときどきに用具的なものが出会うにつけて、空間が(方面として)いつも先行的に出会っている」ということだ。(111頁) 

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