※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」
※「第4章 共同存在(共存在)と自己存在としての世界内存在、『世人(世間)』(Das “Man”)」
(8)世界は、「用具的なもの」だけでなく、「現存在」(「共同現存在」)をも明け渡す!(123頁)
M 世界は、「世界の内部で出会う」ものとして、「用具的なもの」を明け渡すだけでなく、「現存在」をも、すなわち「ほかの人びと」をも、彼らの「共同現存在」において、明け渡す。(123頁)
M-2 なお「自己の存在へ関わり合う現存在の存在」とは、要するに「自己の存在」とは、「いかなる趣向(適所)ももちえないもの」、むしろ「現存在自身がそれを主旨として現に存在してところの存在」である。(123頁)
(8)-2 現存在は共同存在の様相で存在している!
N 「現存在がおのれの存在そのものにおいて関わらされているそれの存在」には、「ほかの人びととの共同存在」ということがぞくしている。(123頁)
N-2 「現存在は共同存在としては、本質上、ほかの人びとを主旨として『存在』している」。(123頁)
N-3 「特定の事実的現存在が、①ほかの人びとのことを意に介さず、②彼らがいなくてもいいと思いこみ、あるいは逆に、③彼らがいないことに耐えている場合にも、この現存在は共同存在の様相で存在している」。
(8)-3 「ほかの人びと」は「用具的なもの」のなかから姿を現してくる!
O 「ほかの人びと」は「宙に浮いた主体」という姿で現前しているのでなく、「彼らの環境的配慮的な世界内存在」のなかで、「この世界の内部にある用具的なもの」のなかから姿を現してくる。これは「世界の世界性の構造」にもとづく。(123頁)
O-2 「相手(der Andere)はさしあたり、配慮的待遇(顧慮)のなかで(in der besorgenden Fürsorge)開示されている」。(124頁)
(9)「感情移入」の問題!
P 「とりたてて相手にむかっていたわりつつ彼を開示する待遇(顧慮)」も、いつも「彼との原義的な共同存在(aus dem primären Mitsein mit ihm)」(※モナド共同体)のなかからのみ芽ばえてくる。(124頁)
P-2 「このような他者認識」(※待遇)は、いわば他者の「主題的な開示」である。(124頁)
Q この場合、「まず単独に与えられている自己主観から、さしあたって、まったくとざされている他者主観へ通っていく橋」を「感情移入」という現象によって「存在論的に架けようとする」立場がある。(124頁)
Q-2 「感情移入」とは、「他人は自己の複製だ」という考え方にもとづく。(124頁)
Q-3 「現存在の自己自身への関係(※意識)を、どうして、他者としての相手に開示しようというのか(※独我論の問題)、どこまでも謎のままである。」(125頁)
(9)-2 「現存在(※モナド)が、世界内存在として、いつもすでにほかの人びとと共に存在している(※モナド共同体である)」!(125頁)
R 「ほかの人びとへ関わり合う存在は・・・・・・共同存在として、すでに現存在の存在とともに存在している。」(125頁)
R-2 「現存在が、世界内存在として、いつもすでにほかの人びとと共に存在している。」(125頁)
R-3 「共同存在は、『感情移入』によってはじめて構成されるのではない。むしろ『感情移入』の方が、共同存在にもとづいてはじめて可能なのである」。(125頁)
《参考1》「内存在は、ほかの人びととの共同存在(共存在)(das Mitsein)である。」(第26節、118頁)
《参考2》「現存在(※モナド)は本質上、共同存在である(※モナド共同体である)。」(第26節、120頁)
(10)まとめ:①共同存在、②共同現存在、③相互存在
S ①「共同存在(Mitsein)(※モナド共同体)は、世界内存在の実存論的な構成契機である。」(125頁)
S-2 ②「共同現存在(Mitdasein)(※他モナド)は、世界の内部に居合わせる存在者の固有の存在様式である。」(125頁)
S-3 ③「現存在(Dasein)(※モナド)は、そもそも存在しているかぎり、相互存在(das Miteinandersein)というありかたをしている。」(125頁)
(10)-2 問題の再確認:「日常性において現存在であるのは誰なのか」という問い!
T 「現存在は・・・・・・配慮された世界に(in der besorgten Mitwelt)融けこみ、すなわち、とりもなおさず、ほかの人びととの共同存在(im Mitsein zu den Anderen)に融けこんでいて、自己自身ではない。」(125頁)
T-2 「それでは、日常的相互存在としての存在を引き受けているのは、いったい誰れであるのか」
《参考》「第4章 共同存在と自己存在としての世界内存在、『世人(世間)』(Das “Man”)」(冒頭)
A 「日常性において現存在であるのは誰なのか」という問いを、かかげ、これから追跡する。(113-4頁)
A-2 かくて、現存在の根源的構造として、「世界内存在(In-der-Welt-sein)」とともに、「共同存在(Mitsein)」と「共同現存在(Mitdasein)」の解明へと進む。(114頁)
A-3 そして日常性の「主体」である「世人(世間)」(das Man)がみとどけられる。
B 「平均的現存在の『誰か』」について扱う本章は次のように分節される。
一、現存在の誰かをたずねる実存論的な問いの手がかり(第25節)
二、ほかの人びとの共同現存在と日常的共同存在(第26節)
三、日常的自己存在と世人(世間)(das Man)(第27節)
※「第1編 現存在の準備的な基礎分析」
※「第4章 共同存在(共存在)と自己存在としての世界内存在、『世人(世間)』(Das “Man”)」
(8)世界は、「用具的なもの」だけでなく、「現存在」(「共同現存在」)をも明け渡す!(123頁)
M 世界は、「世界の内部で出会う」ものとして、「用具的なもの」を明け渡すだけでなく、「現存在」をも、すなわち「ほかの人びと」をも、彼らの「共同現存在」において、明け渡す。(123頁)
M-2 なお「自己の存在へ関わり合う現存在の存在」とは、要するに「自己の存在」とは、「いかなる趣向(適所)ももちえないもの」、むしろ「現存在自身がそれを主旨として現に存在してところの存在」である。(123頁)
(8)-2 現存在は共同存在の様相で存在している!
N 「現存在がおのれの存在そのものにおいて関わらされているそれの存在」には、「ほかの人びととの共同存在」ということがぞくしている。(123頁)
N-2 「現存在は共同存在としては、本質上、ほかの人びとを主旨として『存在』している」。(123頁)
N-3 「特定の事実的現存在が、①ほかの人びとのことを意に介さず、②彼らがいなくてもいいと思いこみ、あるいは逆に、③彼らがいないことに耐えている場合にも、この現存在は共同存在の様相で存在している」。
(8)-3 「ほかの人びと」は「用具的なもの」のなかから姿を現してくる!
O 「ほかの人びと」は「宙に浮いた主体」という姿で現前しているのでなく、「彼らの環境的配慮的な世界内存在」のなかで、「この世界の内部にある用具的なもの」のなかから姿を現してくる。これは「世界の世界性の構造」にもとづく。(123頁)
O-2 「相手(der Andere)はさしあたり、配慮的待遇(顧慮)のなかで(in der besorgenden Fürsorge)開示されている」。(124頁)
(9)「感情移入」の問題!
P 「とりたてて相手にむかっていたわりつつ彼を開示する待遇(顧慮)」も、いつも「彼との原義的な共同存在(aus dem primären Mitsein mit ihm)」(※モナド共同体)のなかからのみ芽ばえてくる。(124頁)
P-2 「このような他者認識」(※待遇)は、いわば他者の「主題的な開示」である。(124頁)
Q この場合、「まず単独に与えられている自己主観から、さしあたって、まったくとざされている他者主観へ通っていく橋」を「感情移入」という現象によって「存在論的に架けようとする」立場がある。(124頁)
Q-2 「感情移入」とは、「他人は自己の複製だ」という考え方にもとづく。(124頁)
Q-3 「現存在の自己自身への関係(※意識)を、どうして、他者としての相手に開示しようというのか(※独我論の問題)、どこまでも謎のままである。」(125頁)
(9)-2 「現存在(※モナド)が、世界内存在として、いつもすでにほかの人びとと共に存在している(※モナド共同体である)」!(125頁)
R 「ほかの人びとへ関わり合う存在は・・・・・・共同存在として、すでに現存在の存在とともに存在している。」(125頁)
R-2 「現存在が、世界内存在として、いつもすでにほかの人びとと共に存在している。」(125頁)
R-3 「共同存在は、『感情移入』によってはじめて構成されるのではない。むしろ『感情移入』の方が、共同存在にもとづいてはじめて可能なのである」。(125頁)
《参考1》「内存在は、ほかの人びととの共同存在(共存在)(das Mitsein)である。」(第26節、118頁)
《参考2》「現存在(※モナド)は本質上、共同存在である(※モナド共同体である)。」(第26節、120頁)
(10)まとめ:①共同存在、②共同現存在、③相互存在
S ①「共同存在(Mitsein)(※モナド共同体)は、世界内存在の実存論的な構成契機である。」(125頁)
S-2 ②「共同現存在(Mitdasein)(※他モナド)は、世界の内部に居合わせる存在者の固有の存在様式である。」(125頁)
S-3 ③「現存在(Dasein)(※モナド)は、そもそも存在しているかぎり、相互存在(das Miteinandersein)というありかたをしている。」(125頁)
(10)-2 問題の再確認:「日常性において現存在であるのは誰なのか」という問い!
T 「現存在は・・・・・・配慮された世界に(in der besorgten Mitwelt)融けこみ、すなわち、とりもなおさず、ほかの人びととの共同存在(im Mitsein zu den Anderen)に融けこんでいて、自己自身ではない。」(125頁)
T-2 「それでは、日常的相互存在としての存在を引き受けているのは、いったい誰れであるのか」
《参考》「第4章 共同存在と自己存在としての世界内存在、『世人(世間)』(Das “Man”)」(冒頭)
A 「日常性において現存在であるのは誰なのか」という問いを、かかげ、これから追跡する。(113-4頁)
A-2 かくて、現存在の根源的構造として、「世界内存在(In-der-Welt-sein)」とともに、「共同存在(Mitsein)」と「共同現存在(Mitdasein)」の解明へと進む。(114頁)
A-3 そして日常性の「主体」である「世人(世間)」(das Man)がみとどけられる。
B 「平均的現存在の『誰か』」について扱う本章は次のように分節される。
一、現存在の誰かをたずねる実存論的な問いの手がかり(第25節)
二、ほかの人びとの共同現存在と日常的共同存在(第26節)
三、日常的自己存在と世人(世間)(das Man)(第27節)