宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」(続):『精神現象学』は「認識論的序説」と同時に「歴史哲学」だ!「感覚」・「知覚」・「悟性」と個別性・特殊性・普遍性!

2024-04-29 13:43:26 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」(続)(90-92頁)
(14)-5 『精神現象学』は「認識論的序説」と同時に「歴史哲学」だ!
★ヘーゲル『精神現象学』はがんらい「認識論的序説」だが同時に「歴史哲学」たる意味をもっている。(90頁)
☆ヘーゲルは『精神現象学』の中で次のように言う。「《意識がこの道程において遍歴する諸形態の系列》は、むしろ《意識自身が学に到るまでに必要な教養の詳細な委曲をつくした歴史》である・・・・」(90頁)
☆あるいはへーゲルは言う。「《意識》は《一般的精神》と《その個別性または感覚的意識》との間に媒語として《全体にまで自己を秩序づける精神的生命としての意識形態の体系》をもっている。しかして《この体系》がこの書(『精神現象学』)において考察されるところのものであり、また《世界歴史》としてその対象的定在をもつものである。」(90頁)

(14)-5-2 (A)「意識」(「対象意識」)の段階で論ぜられていることにも、「歴史的背景」がないわけでない!
★ (A)「意識」(「対象意識」)の段階ではまだ「歴史哲学」たる意味は十分には明瞭ではない。(Cf. (B)「自己意識」の段階、(C)「理性」の段階!)だが、「歴史哲学」たる規定は『精神現象学』の全体を通ずるのであるから、この(A)「意識」(「対象意識」)の段階で論ぜられていることにも、「歴史的背景」がないわけではない。(90-91頁)
☆まず(A)「意識」(「対象意識」)が「最も自然的な意識」であるという点から、古代の認識論が問題になってくる。(91頁)
☆(A)「意識」(or「対象意識」)の段階(Ⅰ「感覚」、Ⅱ「知覚」、Ⅲ「悟性」)のうち、Ⅰ「感覚」の段階では、パルメニデースとか、プロタゴラスの説が利用される。Ⅱ「知覚」の段階になると、スピノーザの実体観であるとか、ロックの認識論であるとか、ライプニッツの考えであるとかが利用されている。さらにⅢ「悟性」の段階になるとカントの認識論などが活用される。(91頁)

(14)-6 Ⅰ「感覚」・Ⅱ「知覚」・Ⅲ「悟性」は、「個別性」・「特殊性」・「普遍性」という論理の基本形式にあてはまる!
★なお(A)「意識」(「対象意識」)の段階におけるⅠ「感覚」・Ⅱ「知覚」・Ⅲ「悟性」というのは、論理的にいうと「個別性」・「特殊性」・「普遍性」という論理の基本形式にあてはまる。(91頁)
☆Ⅰ「感覚」は「個別的なもの」をつかむ。「感覚」の段階は、「このもの」の「私念」にあたる。「感覚」は論理的には「個別性」の段階だ。(91頁)
☆Ⅱ「知覚」は論理的には「特殊性」の段階だ。すなわち「感覚」は「個別的なもの」をつかんでいると考えても、それは自分で「個別的なもの」をつかんだと考えているだけであって、じつは単なる「個別的なもの」をつかんでいるのではなく、「普遍的なもの」における「個別的なもの」をつかんでいる。「普遍」が「個別」になり、「個別」が「普遍」になるというように、それらが矛盾的に結合している段階、これが「個別性」と「普遍性」の中間としての「特殊性」の段階だ。その「特殊性」の段階に当たるものがⅡ「知覚」の段階だ。(91-92頁)

☆Ⅲ「悟性」の段階:「個別性」と「普遍性」との矛盾がいわゆる止揚された契機として綜合されるようになったとき、そのときに「真の意味の普遍」、「無制約的な普遍」が現れてくる。その「無制約的普遍」が「悟性」の段階における「内なるもの」だ。(92頁)

☆以上、(A)「意識」(「対象意識」)におけるⅠ「感覚」・Ⅱ「知覚」・Ⅲ「悟性」の3つの段階は、「個別性」・「特殊性」・「普遍性」という論理の3つの形式をふんでゆく。(92頁)

(14)-7 感覚の①「対象」・②「主体」・③「主客体」にそうての議論!
★(A)「意識」(「対象意識」)におけるⅠ「感覚」の段階の議論は、次の3つに分かれる。(92頁)
☆感覚の①「対象」にそうての議論。
☆感覚の②「主体」にそうての議論。
☆感覚の③「主客体」にそうての議論。

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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」:「力」は「物の内なるもの」だが、その「内なるもの」は「主体的なる自己としての内なるもの」と同じものである!

2024-04-29 10:19:47 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」(88-90頁)
(14)ヘーゲル哲学の根本的な命題:「実体は主体である」!この命題を証明するのが『精神現象学』全体を通ずる課題だ!
★ヘーゲル『精神現象学』「序論」において示されているヘーゲル哲学の根本的な命題は「実体は主体である」ということだ。(88頁)
☆この命題「実体は主体である」を証明するのが『精神現象学』全体を通ずる課題だ。(88頁)
☆これをもっとも手近な範囲において実行しようというのが、(A)「意識」(or「対象意識」)の段階のねらいだ。(Cf.  (B)「自己意識」の段階、(C)「理性」の段階。)(88頁)

★「実体」とは、基本的・常識的な意味は「物」Ding ということだ。(88頁)
☆「物」(Ex. 白墨)は「性質」(Ex. 白い・一定の重さ・一定の比重・味など)をもつ。それらいろんな性質が「属性」だ。(88頁)
☆いろんな性質をもつ「物」において、その性質は哲学的には「属性」であり、文法的には「述語」である。「物」(Ex. 白墨)は「主語」あるいは「実体」である。(88頁)
☆「物」は性質をもっている。(Ex. 「この牛は白い」or「この馬は黒い」。)「実体」は直接的には「物」Dingである。(88-89頁)

(14)-2 ヘーゲル哲学の根本的な命題である「実体は主体である」を証明しようとするなら、「物」が「対象的に存在するもの」ではなくて、「主体」or「自己」or「概念」であることを証明しなくてはならない!
★ヘーゲル哲学の根本的な命題である「実体は主体である」という命題(テーゼ)を証明しようとするならば、「物」というものが、じつは「対象的に存在するもの」ではなくて「主体」であることor「自己」であることor「概念」であることを証明しなくてはならない。(89頁)
☆「主体」は、ヘーゲルにおいては「概念」のことであり、「概念」は最も「自己」的なものであり、「概念」は「自己」であるとさえ言われる。(89頁)

(14)-3 (A)「意識」(or「対象意識」)の段階Ⅱ「知覚」の段階:「物」がじつは「物」ではなくして「力」である!「力」は「物の内なるもの das Innere 」だが、その「内なるもの das Innere 」は、じつは「主体的なる自己としての内なるもの」と同じものであり、かくて (B)「自己意識」の段階に移っていく!
★「物」が「対象的に存在する」のでなく、「自己」・「主体」・「概念」であることを証明する必要がある。この課題を引き受けるのが(A)「意識」(or「対象意識」)の段階だ。(Cf.  (B)「自己意識」の段階、(C)「理性」の段階。)(89頁)
★(A)「意識」(or「対象意識」)の段階(Ⅰ「感覚」、Ⅱ「知覚」、Ⅲ「悟性」)の中心はⅡ「知覚」、Ⅲ「悟性」のところだ。Ⅱ「知覚」の段階において、「物」がじつは「物」ではなくして「力」であることが証明される。(89頁)
☆「力」は「感覚せられる外的なもの」ではなく、「物の内なるもの das Innere 」である。
☆その「内なるもの das Innere 」は、直接的には「物における内なるもの」だが、じつは「主体的なる自己としての内なるもの」と同じものであることが証明される。かくて (B)「自己意識」の段階に移っていく。(89頁)

(14)-4 「実体は主体である」、「実体は自己である」、「実体は概念である」!
★ (A)「意識」(「対象意識」)の段階はなぜⅠ「感覚」から始まるのか?(Cf. Ⅱ「知覚」、Ⅲ「悟性」。)それは「感覚」が最も直接的な、最も自然的な意識の形態だからだ。「物」をさえまだつかんでいないⅠ「感覚」から始めて、次に「物」をとらえるⅡ「知覚」に移り、これから(B)「自己意識」にまで移って行って、「実体は主体である」、「実体は自己である」、「実体は概念である」ということを証明しようとする。(Cf. (A)「意識」(「対象意識」)の段階、(B)「自己意識」の段階、(C)「理性」の段階!)(90頁)

★「概念」という点からいうと(A)「意識」(「対象意識」)Ⅲ「悟性」の段階において、「法則」というものが出てくる。「法則」は「主体としての概念」の「客観的な存在的形式」をとったものだ。(90頁)

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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論:《序》対象意識・自己意識・絶対知(理性)!「絶対知」とは「主体と客体とが統一づけられる」ことだ!

2024-04-23 11:34:17 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論:《序》対象意識・自己意識・絶対知(理性)!(86-87頁)
(13)「絶対知」とは「主体と客体とが統一づけられる」ことだ!
★「絶対知」とは「絶対の他在のうちにおいて純粋に自己を認識すること」だ。(86頁)
☆それは「主体と客体とが統一づけられる」ことだ。すなわち「主体が客体を認識する」のは、「他者」を認識するのでなく、「自分自身」を認識するのだ。(86頁)

★これは「自然的な意識」の態度と非常に違う。(86頁)
☆「自然的な意識」においては、「対象を知る」こと(対象意識)は「自分とちがったものを知る」ことであり、「自分を知る」こと(自己意識)は「対象とちがったものを知る」ことだ。そこには「対象意識」と「自己意識」との対立がある。(86頁)

★この「対象意識」と「自己意識」が、『精神現象学』本論の(A)「意識」(詳しくいえば対象意識)と(B)「自己意識」だ。そして(C)「理性」が「絶対知」であり、それは「対象意識と自己意識を統一づけた絶対知」である。(86頁)

★ところが『精神現象学』は、そういう「絶対知」を無媒介的に押し出すのではなくて、「自然的意識」を忠実に観察して意識自身をして「絶対知」へと高めてゆかねばならぬという課題を背負ったものだ。(86-87頁)
☆かくて『精神現象学』は、まず(A)「意識」(対象意識)と(B)「自己意識」とが論ぜられる。(87頁)

(13)-2 《参考1 》ヘーゲル『精神現象学』の目次!(333-336頁)
(A)「意識」:
Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、
Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、
Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界

(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」
A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、
B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」

(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」
A「観察的理性」、
B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、
C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、

(C)「理性」(BB)「精神」:Ⅵ「精神」
A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、
B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、
C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、

(C)「理性」(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」
A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、
B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、
C「啓示宗教」、

(C)「理性」(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

(13)-3 《参考2 》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」
1「感覚」、
2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、
3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」

(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」

(四)「精神の史的叙述」
1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、
2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、
3「現代(あるいは絶対知)」

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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(六)「精神現象学の方法」2「『精神現象学』の方法」(その2):「意識」が新しい「経験」を獲得することは、「新しい対象」が出てくることだ!

2024-04-22 15:47:32 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(六)「精神現象学の方法」2「『精神現象学』の方法」(続)
(12)-2「『精神現象学』の方法」(その2):「意識」が新しい「経験」を獲得することは、「新しい対象」が出てくることだ!(82-84頁)
★「意識」は、自分の「知識」が「対象」に合うかどうかをつねに注意し、「対象」に合わない「知識」を捨て、「対象」に合うように新たな「知識」を得ていく。これが「意識」の「態度」の変化だ。(82頁)
☆「意識」は、「態度」を変えることによって、つまり「対象」に合うように新たな「知識」を得ていくが、これは「意識」が新しい「経験」を獲得するということだ。だから『精神現象学』は「意識経験の学」であると言われる。(82頁)
★この場合、「意識」が「態度」を変えること(すなわち「意識」が「対象」に合うような新たな「知識」を得ること、すなわち「意識」が新しい「経験」を獲得すること)は、「新しい対象」が出てくることでもある。(82頁)
☆これを具体的に言うと、「感覚」は「この」特別の「このもの」を認識するつもりでいる。しかし単なる「このもの」はなく、なにかある「普遍者」(※言葉によって名づけられた一般者)における「このもの」だ。このことに気づけば「意識」はおのずから「感覚」の段階から「知覚」の段階へと移行する。(82頁)
・このように「意識」段階が変わってゆくことによって、「対象」の方でも「このもの」から「物」Ding に変わる。(82頁)

★ところで「知覚」は、「物」を知覚すると考えているが、「物」の真相は「力」であり、「力」はさらに「生命」であり、さらには「自己」である。(82頁)
☆このように考えてゆくと、悟性の「対象意識」(※対象に向かう意識)はなくなって、「自己意識」(※自己についての意識)へと変ってゆく。(82-83頁)
☆「自己意識」という意識の態度になると、意識される相手ももはや「物」ではなく、「生命あるもの」あるいは「他の自己意識」となる。(83頁)

★このように「意識の態度」が変わってゆくにしたがって、「対象」そのものも変わってゆき、つねに「対象」の新しい側面が出てくる。こうして「意識」は自分の「経験」を次第に増してゆく。その意味で『精神現象学』は「意識経験の学」である。(83頁)

(12)-3「『精神現象学』の方法」(その3):「意識の態度」が変わると「対象」も変わってゆくこと(「対象の生成」)は、「意識」自身は自覚せず、観察している「現象学者」だけが自覚している!
★『精神現象学』の「方法」に関する問題③(Cf. ①②、81-82頁):「対象の生成」は観察している「現象学者」だけが自覚する!
「意識の態度」が変わるとともに「対象」も変わってゆくこと、つまり「対象の生成」は、(「感覚」あるいは「知覚」というような)「意識」自身は自覚せず、これらを観察している「現象学者」だけがはっきりと自覚している。一つの「意識」段階はその前の「意識」段階から発生してくるが、これがいかにして発生してきたかは、「現象学者」だけが知っている。(83頁)
☆両「意識」段階、両「対象」の必然的連関(「意識段階間の発生的連関」)は、「哲学的観察者」(「現象学者」)がそとから与えてやらなければならない。これが「『精神現象学』の方法」として、ヘーゲルが第③に強調していることだ。(83頁)

★しかし「意識段階間の発生的連関」以外のことは、すべて「意識」自身が行ってゆく。(83頁)
☆ヘーゲルの方法は「弁証法」であるが、これは「正・反・合というような形式」を内容にそとから押しはめるのではない。「弁証法」は内容そのものに即して考えてゆけば、内容がおのずからそういうプロセスを取らざるをえないような、そういう形式だ。「弁証法」は決して内容から離れたものでもないし、内容に外から押しつける雛型のようなものでもない。(83-84頁)
Cf.  この点について「意識段階間の発生的連関」に関しては疑惑がないわけでないが、これは著者が後述する。(84頁)

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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(六)「精神現象学の方法」2「『精神現象学』の方法」(その1):「方法一般」のうち、「懐疑論」の契機を強調する!『精神現象学』は「意識経験の学」だ!

2024-04-13 18:14:55 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(六)「精神現象学の方法」2「『精神現象学』の方法」
(12)「『精神現象学』の方法」(その1)(80-82頁)
★「『精神現象学』の方法」は「方法一般」のうちで、特に「懐疑論」の契機を強調するものだ。「『精神現象学』は徹底的に遂行された懐疑論である」とヘーゲルは「緒論」で述べる。(80頁)

《参考》「方法一般」:(A)直観あるいは表象(これは「全体」をつかんでいる)、(B)悟性の分析(「独断論」の立場)、(C)否定的理性(「懐疑論」の立場)、(D)肯定的理性(「定立」と「反定立」との「綜合」)(D)-1「神秘主義」と(D)-2「思弁」からなる!(78-80頁)

☆『精神現象学』は「感覚」から「絶対知」までのいろんな立場について、これらの立場をすべて否定してゆくという意味において、絶対的に遂行された「懐疑論」である。これが「方法一般」の範囲内での『精神現象学』の特徴である。(81頁)

★『精神現象学』の「方法」に関する問題①:「規準」Kuriteriumとなる「真なる知」はどこにあるのかという問題!(81頁)
☆『精神現象学』は「現象知」の叙述であって、「真なる知識」の叙述でない。その場合、「真なる知識」が「規準」として示されていなくてはならない。そうでないと「真」とか「偽」とは言えない。(81頁)
☆では「規準」となる「真なる知」はどこにあるのか?(81頁)
・「真なる知」をそとからもってきたのでは、「現象知」をそれ自身納得させて「絶対知」にまで高めることができない。かくて「規準」は「現象知」自身のうちに求めねばならない。(81頁)
・「意識」は「対象」に関係し、かくて「対象」は「意識」との関係を持っている。これが「対象」の「対他の側面」だ。(81頁)
・「対象」はまた「即自の側面」or「それ自身としての側面」も持つ。この「即自存在」or「自体存在」が「真」というものにほかならない。(81頁)
・かくて「真」と「偽」とを区別する「規準」は意識自身が持っている。(81頁)

★『精神現象学』の「方法」に関する問題②:「規準」Kuriteriumとなる「真なる知」を持ってはいても、「規準」に合うかどうかを吟味するのが「現象知」自身ではないのかという問題!(81頁)
☆しかし「対象」の「自体存在の側面」(Cf. 客観的側面)と、「対象」の「意識に関係している対他存在の側面」(Cf. 主観的側面)とは共に「意識」(Cf. 超越論的主観性)に帰属したものだから、「意識」自身がこの二つのものの区別をつねに知っている。(81-82頁)
☆かくて「意識」が自分自身で「真」と「偽」との比較をつねに行うことができる。かくて我々「哲学的観察者」がそとから「真」と「偽」との比較を行ってやる必要はない。我々「哲学的観察者」はただ「現象的意識」を内面的に考察してゆけばよく、なにも手を加える必要はない。(82頁)

★こうして「意識」は、自分の「知識」が「対象」に合うかどうかをつねに注意して、「対象」に合わない「知識」を捨て、「対象」に合うように自分(「意識」)の「態度」を変えてゆく。(82頁)
☆「意識」は、「態度」を変えるということによって、いつも新しい「経験」を獲得する。だから『精神現象学』は「意識経験の学」であると言われる。(82頁)

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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(六)「精神現象学の方法」1「方法一般」:「悟性の反省」の媒介を通じ、「肯定的理性」によって「全体」が恢復される!その恢復された「全体」が「理念」Idee だ!

2024-04-11 16:02:42 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(六)「精神現象学の方法」1「方法一般」
(11)「方法一般」:(A)直観あるいは表象、(B)悟性の分析、(C)否定的理性、(D)肯定的理性!(78-80頁)
※「方法一般」については、『小論理学』(『エンチュクロペディー』に含まれる)が描いている。(78頁)
★(A)「直観あるいは表象」:これは「全体」をつかんでいる。「直観あるいは表象」はヘーゲルにおいて哲学の根本になっている。ヘーゲルは決してそれらを無視していない。このことはヘーゲルの思索の基礎に「キリスト教」の人生観・世界観があることからもわかる。(78-79頁)
★(B)「悟性の分析」:これは「独断論」の立場でもある。(79頁)
★(C)「理性の否定(あるいは否定的理性)」:これは「懐疑論」の立場でもある。(79頁)
★(D)「理性の肯定(あるいは肯定的理性)」:これは(D)-1「神秘主義」と(D)-2「思弁」との2つに分けられる。(79頁)

★「ものを認識する」という場合、まず(A )「全体」が「直観」的あるいは「表象」的につかまえられる。(79頁)
☆しかしそれだけでは「主観的」たることをまぬがれないから、これをさらに(B)「悟性」が分析して「自我一般」の「規定」をもたらさなくてはならない。(79頁)

☆しかし「悟性」の与える規定は独断的一面的であるので、反対に転換する。その転換によって「定立」は「反定立」に移る。そういう否定を行うものが(C)「否定的理性」だ。しかし否定だけでは「懐疑論」に終わる。(79-80頁)

☆かくて「定立」と「反定立」とが「綜合」されなくてはならない。これが(D)「理性の肯定」あるいは「肯定的理性」だ。(80頁)
・しかしこの場合、対立している区別をなくしてしまうのが(D)-1「神秘主義」であり、また「直接知」の立場だ。Ex. 「ロマンティスィズム」はこれに属する。(80頁)
・それに対して、区別あるいは対立を認めながら、両者を統一づけるのが「思弁」の立場だ。(80頁)

★このようなプロセスが繰り返されることによって、すなわち「反省」(「悟性の反省」)の媒介を通じ、しかもこれを生かしつつ最初の「直観あるいは表象」のまぬがれなかった「感覚的な個別性・偶然性」が洗い落とされ、その「全体」が恢復される。そうして恢復された「全体」が「理念」Idee である。(80頁)
☆このようなプロセスを『精神現象学』もたどってゆくことは、もちろんだ。(80頁)

《参考》「悟性の反省」の「媒介」を通ずることによって、「実体」は「主体」となる。じつは「実体」を「主体」に転換させることこそが『精神現象学』の目的だ。(69頁)

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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(五)「精神現象学の目的」(その4):①「絶対知」への「認識論的」序説、②「精神哲学」、③「歴史哲学」、④「体系総論」!

2024-04-10 16:24:03 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(五)「精神現象学の目的」(その4 )
(10)-3  ヘーゲル『精神現象学』の目的:①「絶対知」への「認識論的」序説、②「精神哲学」、③「歴史哲学」、④「体系総論」! 
★これまで、ヘーゲル『精神現象学』は①「絶対知」への「認識論的」序説であるという観点からの話がなされた。(74頁)
☆しかしなお『精神現象学』には3つの意味が含まれている。それは『精神現象学』は、②「精神哲学」であること、③「歴史哲学」であること、④「体系総論」であることだ。(74頁)

(10)-3-2 ②「精神哲学」としての『精神現象学』:ヘーゲルの考え方は「弁証法」的であり、「真理」といっても、具体的には「虚偽」と関係なしには成立しない!
★まずヘーゲル『精神現象学』が②「精神哲学」であるという点から見てみよう。(74頁)
☆『精神現象学』(1807)は「精神そのもの」を「展開」するのではなく「精神」の「現象」を取り扱う。「精神そのもの」を「展開」するのは『エンチュクロペディー』第3部(1817)だ。(74頁)

★精神の「現象」を取り扱うということは、必ずしも「真理」ばかりを問題にするのでなく、「虚偽」をも問題にすることだ。ヘーゲルの考え方はつねに「弁証法」的だ。「真理」といっても、具体的には「虚偽」と関係なしには成立しない。(74頁)
☆むろん歴史的真理(事実)(Ex. シーザーがいつ生まれたか)や、物理的真理(事実)(Ex. 1メートルは何尺何寸か)に関する問いには、答えは「何年」あるいは「何尺何寸」しかない。(※「真理」と「虚偽」は峻別される。それは「現実的な生けるもの」が問題になっている場合でないからだ。(74頁)
☆「現実的に生けるもの」が問題である場合には、「定立」に対して必ず「反定立」が必要になってくる。その意味で「真理」に対して「虚偽」が必要になる。「真理」は「虚偽」を契機として含む。(74-75頁)

★「善悪」の対立もそうで(※「弁証法」的で)、「悪」から抽象的に分離された「善」は、単なる抽象にすぎない。真の「善」というものは、「悪」との対抗においてのみ生きて働くものであり、したがって真の「善」は「善悪の対立」を超えたもので、「善悪の彼岸」にあるとヘーゲルは考える。(75頁)

★「精神の本質」と「精神の現象」の場合も同様で、「精神の本質」といっても「精神の現象」をほかにしてはみずからを現実化しえない。かくて『精神現象学』をほかにして、「精神の本質」は把握されない。その意味でヘーゲルにおける『精神現象学』は、実は「精神哲学」でもあることになる。(75頁)

(10)-3-3 ③「歴史哲学」としての『精神現象学』:ヘーゲルの「絶対知の哲学」といっても、「ヘーゲル個人が考え出したもの」でなく、「時代からまさに要求されているもの」であり、そういう意味で「歴史を離れえないもの」だ!
★へーゲル哲学の根本概念である「主体」、「精神」、「理性」などの概念は、精神の「現在」の立場から規定されている。つまりヘーゲルにおいて「認識」とか「理性」とか「精神」といわれるものは、つねに「歴史性」を離れえない。(75頁)
☆ヘーゲルの「絶対知の哲学」といっても、彼の立場からいうと、「ヘーゲル個人が考え出したもの」でなく、「時代からまさに要求されているもの」だということだ。そういう意味で「歴史を離れえないもの」だ。(75頁)
☆『精神現象学』は元来、ヘーゲルの哲学体系への「認識論的」序説にほかならないが、それが次第に大きなものになって、それ自身、体系の第1部となったということの一つの大きな原因は、彼の「精神」という概念がつねに「歴史」を離れえず、『精神現象学』のなかへ「歴史哲学」がはいっているということにある。(75頁)

★ヘーゲル『精神現象学』の目次を見ると、(B)「自己意識」あるいはⅣ「自己確信の真理性」のBに「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」というのがある。これらは「歴史を離れて成立する意識形態」として論ぜられるが、「ストア主義」、「スケプシス主義」の名が示すように、実際には歴史を離れえない。また「不幸なる意識」はキリスト教を材料としている。(75-76頁)

☆さらに(C)「理性」(BB)「精神」あるいはⅥ「精神」のA「真実なる精神」も、ギリシア時代を離れては理解できない。(76頁)
・またB「自己疎外的精神」は中世から近世にかけてのものであり、その中の特にⅡ「啓蒙」という段階は啓蒙時代を離れてはとうてい理解しえない。次のⅢ「絶対自由と恐怖」もフランス革命を離れては理解できない。(76頁)
・C「自己確信的精神、道徳性」の段階は、ドイツのロマンティスィズムの時代を離れては理解できない。(76頁)

☆(C)「理性」(CC)「宗教」あるいはⅦ「宗教」のA「自然宗教」は東方宗教を、B「芸術宗教」はギリシア宗教を、C「啓示宗教」はキリスト教を、それぞれ離れては理解できない。(76頁)

★かくて(C)「理性」(DD)「絶対知」あるいはⅧ「絶対知」も、啓蒙からロマンティスィズムへと進んできた時代というものを離れては、とうてい成りたちえない。そういう意味で、「精神」の概念は「歴史」を離れえない。(76頁)
☆したがってヘーゲルの『精神現象学』は、実に雄大な「歴史哲学」である。(76頁)

(10)-3-4 ④「体系総論」としての『精神現象学』:①「絶対知」への「認識論的」序説であり、同時に②「精神哲学」であり、③「歴史哲学」でもあることから、おのずから④「体系総論」である!Cf. ある程度まで「自然哲学」も含まれる!
★かくてヘーゲル『精神現象学』は、元来は①「絶対知」への「認識論的」序説であるけれども、同時に②「精神哲学」であり、③「歴史哲学」でもあるということから、おのずから④「体系総論」である。(77頁)
☆追記:なおこのほかに(C)(AA)「理性」あるいはⅤ「理性の確信と真理」のA「観察的理性」の段階において自然認識が展開されていて、ヘーゲル『精神現象学』にはある程度まで「自然哲学」も含まれている。(77頁)

★ヘーゲル『精神現象学』が「体系総論」である点は、カントの『純粋理性批判』がカント哲学全体であったのと同じだ。(77頁)

《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次!(36-38頁)(53-54頁)(333-336頁)
(A)「意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」(A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」)
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」(A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」)、
(C)「理性」(BB)「精神」:Ⅵ「精神」(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」・Ⅱ「啓蒙」・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」)、
(C)「理性」(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」(A「自然宗教」、B「芸術宗教」、C「啓示宗教」)、
(C)「理性」(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(五)(その3-6):「絶対知の立場」では「主語」たる「実体」(「サブスタンス」)が、我々の「主観」のように「主体」(「生けるもの」)だ!

2024-04-05 12:14:30 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3-6 )
(10)-2-6 「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場(続5):「主語」(「実体」)に「認識主観」が「述語」(「属性」)をつける「普通の認識」は「主観的」たるにすぎない! 
★「実体」Substanz とは、(哲学上では)「属性」を担っているもののことだ。(72頁)
☆「主体」Subjekt は、ラテン語の語源的には「実体」Substanzとほぼ同義で、文法的には「主語」Subjektのこととなる。(72-73頁)

★さて「普通の認識」は「AはBである」という「判断」の形をとる。(73頁)
・それは「A」を「実体」(「主語」)としておいて、それに「属性」(Cf. 述語)をつける。(73頁)
・「実体」あるいは「主語」は存在的・対象的とされ、それに「述語」がつけられる。その場合、「述語」をつけるのは「認識主観」であって、「主語」自身が自分自身を判定して「述語」をつけるわけでないから、「普通の認識」はたんに「主観的」たるにすぎない。(73頁)

(10)-2-6-2 「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場(続5-2):「主語」たる「サブスタンス」(「実体」)そのものが、我々の「主観」と同じように「生けるもの」、「自分自身で自分自身の内容を反省し、それを深めてゆく」! 
★「普通の認識」に対して、「真の絶対知の立場」においては、「主語」は「不動の実体」というものではない。(73頁)
☆「絶対知」における「主語」は「存在的・客体的なもの」(Ex. アリストテレス哲学では「馬」・「牛」・「机」などを「サブスタンス」or「主語」としてあげる)ではない。(73頁)
☆「絶対知の立場」においては「主語」たる「サブスタンス」(「実体」)そのものが、我々の「主観」と同じように「生けるもの」、「自分自身で自分自身の内容を反省し、その反省を自分自身で深めてゆく」ものである。(73頁)
☆そういうところに初めて「真の哲学的認識」が出てくるとヘーゲルは述べる。(73頁)

★ヘーゲルでは、文法上の「サブジェクト」(Cf. 「主語」)に当るものが、我々人間と同じような「サブジェクト」(Cf. 「主体」・「主観」)だ。「サブジェクト」は、「自分は何々である」という判断を、自分自身で行う。(73頁)

《参考》「悟性の反省」の「媒介」を通ずることによって、「実体」は「主体」となる。じつは「実体」を「主体」に転換させることこそが『精神現象学』の目的だ。(69頁)

★これを批評的に言うと、いわゆる「観念論」Idealismus がヘーゲルにある。(73頁)
☆しかし、そういう「観念論」がどこからきたかというと、「キリスト教」からだというほかない。(73頁)

《参考1》「観念論」:① 物質または自然に対して、精神または意識のほうをより根源的な原理として考える立場。プラトンのイデア説をはじめ、近世ではバークリーの「主観的観念論」、カントの「批判的・超越論的観念論」、フィヒテの「倫理的・主観的観念論」、シェリングの「美的観念論」、ヘーゲルの「絶対的観念論」などがある。Cf.「唯心論」。② 現実ばなれした、頭の中だけでつくり出された考え。「理想論」。

《参考2》「観念論」:理論的にせよ実践的にせよ、「観念あるいは観念的なもの」を「実在的」あるいは「物質的」なものに優先するとみなす立場を「観念論」といい、「実在論」あるいは「唯物論」に対立する用語として使われる。(坂部 恵)

《参考2-2》「観念論者」idealistの語を最初に用いたのは17世紀末のライプニッツ(1646-1716)だ。「唯物論者」エピクロスに対してプラトンが「観念論者」と呼ばれた。「物質」を実在とするエピクロスに対し、「イデアないし形相」を真の実在とし事物の本質規定とみなすプラトン!
☆1-2しかし中世このかた「プラトン主義」の立場は、「唯名論」との対比において「実在論」とよばれたり、あるいは「形相論」とよばれた。(Cf. 「観念」を「意識内容ないし表象」とみなす中世末期の「唯名論」!)
☆1-3「観念論」の用語は、「近世哲学」以降は、人間の心の内の「観念」と区別された「外界」あるいは「物質的世界」の実在を認めるかどうかを基準に使われるようになる。

《参考2-3》「主観的観念論」(バークリー1685-1753):「存在するとは知覚されること」と言い、「外界ないし物質的世界」の実在を否定し、それらを心の内の「観念」に還元したバークリーの立場が、18世紀にはしばしば「観念論」を代表するものとされた。

《参考2-4》「超越論的・批判的観念論」(カント1724-1804):カントは「外界ないし物質的世界」(「自然」)を、「空間・時間、純粋悟性概念(カテゴリー)」など「人間の認識主観のア・プリオリ(先天的)な認識の諸形式」に従って構成され、その限りで客観的妥当性をもつ「現象」とみなした。カントの立場は「超越論的観念論」とよばれる。カントは「数学的自然科学の普遍性」を救いつつ、その認識の有効性の範囲を「批判的」に限定した。カントは「現象」の背後に「物自体」を想定し、あるいは「超越論的観念論は経験的実在論にほかならない」とし、「バークリーの主観的観念論」と「一線を画した。

《参考2-5》「倫理的観念論」(フィヒテ1762-1814)、「美的観念論」(シェリング1775-1854)、「絶対的観念論」(ヘーゲル1770-1831):「ドイツ観念論」!
☆フィヒテは、カントの「物自体」の考えを批判し、むしろカントの唱道した「実践的・自律的主体としての人間」を、宇宙の展開の根本原理としての「自我」にまで高めた。フィヒテの立場は、「主体の自発性、自律、自由」を重んずるゆえに「倫理的観念論」とよばれる。
☆シェリングは、「カントの有限主義」を捨て、「美的創造や美的直観」に自然世界の展開の究極をみた。シェリングの立場は、「美的観念論」とよばれる。
☆ヘーゲルは、「自然的、歴史的を含めた世界の展開」を「観念」あるいは「絶対的精神」の「弁証法的自己展開」とみなし「絶対的観念論」とよばれる。
☆フィヒテ、シェリング、ヘーゲル3人の哲学者によって展開された「ドイツ観念論」では、「観念」のもつプラトン以来の「原型ないし規範」の意味がいずれも強く出されており、「観念論」(Idealism)はしばしば(日本では)「理想主義」の訳語をあてられた。
Cf. 「Idealism」は、日本では訳語が一定せず、存在論においては「唯心論」、認識論においては「観念論」、倫理学説においては「理想主義」としばしば訳された。

《参考2-6》近世以降の「観念論」は、実証科学の展開と結び付いた「唯物論」と対抗関係に置かれた。19世紀の「実証主義的・科学主義的唯物論」、マルクス主義の「弁証法的唯物論」などが「観念論」を批判した。

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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3-5):「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)「実体性恢復の段階」(B)絶対知の立場:キリスト教がヘーゲル哲学の根本だ!

2024-04-02 10:49:40 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3-5)
(10)-2-5 「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場(続4):「キリスト教」が「ヘーゲル哲学」の根本をなしている! 
★「悟性の反省」の「媒介」を通ずることによって、「実体」は「主体」となる。(69頁)
☆じつは「実体」を「主体」に転換させることこそが『精神現象学』の目的だ。(69頁)

★ところで「実体の立場」とは一般に「宗教の立場」だ。そして宗教のうち、ヘーゲルにとって最も重要なのは「キリスト教」だ。(69頁)

《参考1》ヘーゲルは「自分の哲学の精神史的必然性」を説明する。そこには「3つの段階」が区別される。それは《精神》における(イ)「実体性の段階」、(ロ)「反省の段階」あるいは「媒介の段階」、(ハ)「実体性恢復の段階」である。(62頁)
《参考2》(イ)《精神》の「実体性の段階」とは、「中世キリスト教」の信仰の生きていた時代だ。(63頁)
☆「実体性」とは「普遍的・全体的・絶対的なもの」のことだ。これに対して「部分的・個別的・相対的・有限的なもの」は(「実体」に対する)「属性」にあたる。「属性」は「実体」に依存するだけで、「実体」からの独立性をもたない。(63頁)
☆「有限的・相対的・個別的・部分的なもの」は、すべて「絶対的・全体的・普遍的なもの」に依存しているという状態が「実体性の段階」だ。これは具体的には「中世キリスト教」の信仰の生きていた時代だ。すなわち人間がキリスト教において「絶対的普遍的」なものに帰依し、それを信仰している段階だ。(63頁)
☆「かつて人間は思想と表象との広大なる富をもって飾られた天国を所有していて、ありとしあらゆるものは光の糸によってこの天国に繋がれ、この糸によってその意義をえていた。人間のまなこも『この』現在に停滞することなく、光の糸をたどって現在を越えて神的なる実在を、いわば彼岸の現在を仰ぎ見ていた。」(ヘーゲル)(63頁)

★1806年夏学期の講義でヘーゲルは「キリスト教」について次のように述べる。(69-70頁)
「☆《神》が、おのれ自らを《直観》することが《宇宙万有の永遠なる創造》である。
☆宇宙においては各点はいずれも《相対的全体性》として、独自の生活を営んでいる。かく多様なるものが《定立》せられること、これが《神の慈愛》である。
☆しかしまた《個別者》は《個別者》としておのれを《止揚》しておのれの《普遍性》を示す。かくすることが・・・・・・絶対的転換点たる《神の義》であり、《神の義》は絶対的威力として実在するものの否定的な側面(Cf. 悟性的規定)を取り出し、それを《対自存在》から他のすべてとの《統一》に転換させる。
☆《神》は、《永遠に自己同一的な自己意識》であって、《静止的》であると同時に《生成的》なこの二重な宇宙過程のいずれかに《無媒介的》に埋もれてしまわないから、彼(《神》)が被造物を再び創造することも全く《イデアリテート》の性格を保持しているが、このかぎり、《神》は《永遠の智慧》であり《祝福》である。
☆おのおのの《相対的全体性》は、そうして極めて些細なものの場合でも、その生活過程においては《祝福》せられている。もちろんこの《祝福》せられた《自己内存在》を《相対性》が中断しはするけれども、しかし《個別者》はまさに制限せられたものであるから、それが導いて行かれる《審判》はいわれなきものではない。
☆が《神》は《絶対に普遍的な全体性》であるから、《世界の審判者》としても《断腸の思い》をなさざるを得ぬ。《神》は世を《さばく》ことは《できず》、彼(《神》)はそれをただ《憐れむ》ことができるだけである。」(69-70頁)

★これは「キリスト教」がいかに「ヘーゲル哲学」の根本をなしているかを明瞭に示している。(70-71頁)
☆《神》は、一方においては《愛》(《慈愛》)であり、他方においては《義》だ。(70頁)
☆《愛》であるかぎり、《神》は一切のものを存在させるから、すべてのものは《祝福》された存在を与えられている。(70頁)
☆しかし存在を許されてはいても、無制限に許されているわけではなく、いつもある一定の限界が置かれている。なにかの存在が自分の負わされている限界を越えて存在しようとする場合には、《神の義》《さばき》がやってくる。つまり《神》がそれぞれのものを負うている限界へと追い返す。追い返すというのは、それぞれのものがそのものだけで成り立っているのではなく、他のものとの連関においてのみ成り立っているということを意味する。(70頁)
☆この意味で《神》は否定的に働くが、しかし否定的に働きながらも《神》は《愛》としてそれぞれのものに存在を許す。かくて「《神》は《愛》であると同時に《義》である」といわれる。(70-71頁)
☆この《愛》という方面は、論理的に言えば「個別性」の方面だ。それに対して《義》という方面は「普遍性」の方面だ。かくて《神》は「個別的」であると同時に「普遍的」であり、「普遍的」であると同時に「個別的」である。(71頁)
☆それは「キリスト教」においては宗教的に述べられているが、「ヘーゲル哲学」においては、宗教は「構想力」の産物であり「表象」の産物とされるという相違がある。(71頁)

★キリスト教には「三位一体の教義」がある。(71-72頁)
《参考1》「三位一体説」はアタナシウス派によって理論化された「神」と「イエス」と「聖霊」はそれぞれ別な「位格」(ペルソナ)をもつが「実体」(サブスタンシア)としては一体であるという神学説だ。325年のニケーア公会議に始まる数回の公会議を通じて、キリスト教の正統教義とされた。アタナシウス派が正式に正統とされるのは、コンスタンティノープル公会議(381)においてである。

《参考2》ニケーア公会議(325)では、アタナシウスの「子なる神」として「イエスの神性」を認める説を正統とすることで落着した。(アタナシウスは「父なる神」と「子なるイエス」は同質(ホモウーシス)であると主張した。)なおニケーア公会議では「聖霊」をどう考えるかという新たな問題が加わった。

Cf. 「聖霊」:キリストが地上を去った後、信者に信仰と心の平和を与えるのは「聖霊」すなわち「信者の心に宿るキリスト」である。それでは「聖霊」も「神性」を持つのか?「聖霊」の「神性」を認めれば、キリスト教は多神教となる。この問題を解決したのが、コンスタンティノープル公会議(381)だった。「聖霊」の「神性」が認められ、「神」は、自らを同時に「父と子と聖霊なる三つの位格(ペルソナ)」の中に示す「一つの神」だと宣言された。すなわち、「父と子と聖霊」は各々完全に神であるが、三つの神があるのではなく、存在するのは一つの「実体(スブスタンティア)」、すなわち「一つの神」であると決定された。

Cf. アリウス派:ニケーア公会議(325)でアリウス派は「イエスの神性」を否定し、異端とされた。アリウス派はキリストは「神聖」であるが「神性」をもたないとする。イエスは「人」とされる。アリウス派はローマで排除されるが、ゲルマン人に広がった。なおアタナシウス派が正式に正統とされるのは、コンスタンティノープル公会議(381)においてである。
・アリウス派は、コンスタンティヌス大帝の晩年に異端であることが取り消されたので、コンスタンティノープルのローマ帝国宮廷ではしばらくの間、優勢であった。
・しかしアリウス派はコンスタンティノープル公会議(381)で再び異端として認定されたため、ローマ領内での布教はできなくなり、北方のゲルマン人に布教されていった。一方のアタナシウス派の教義は「三位一体説」に発展したが、その「父と子と聖霊は三つの面を持つが一体である」(「三位一体説」381年)という教義は理解が困難であったのに対し、アリウス派の教義は神とイエスの関係をわかりやすく説明したので、アリウス派はゲルマン人に受け容れやすかった。

Cf. ネストリウス派:「三位一体説」(アタナシウス派)が正統とされ、キリストの本性は「人性と神性の両性を持つ」(「両性説」)とされたが、ネストリウス派はこれを批判し、イエスの本質は「人性」だとした。エフェソス公会議(431)で議論がなされ、最終的にネストリウス派は異端とされた。
単性説の否定
Cf. 「単性説」:キリストの本性をどう捉えるかという論争はまだ続いた。ネストリウス派は「両性説」(アタナシウス派)を否定した。そして「単性説」も「両性説」を否定するが、ネストリウス派とは逆に「単性説」はキリストの本性は「神性」だとする、つまり「キリストに神性だけを認める」。カルケドン公会議(451)が召集され、「単性説」について議論されたが、ここでも「三位一体説」(アタナシウス派)が勝利した

★「神が自分のいとし子、最愛のひとり子を大工の子として、この世につかわす」ということは、「それぞれの《個別者》が、《個別者》であると同時に《絶対者》としての権威を持っている」ことを示す。(71頁)
☆しかし人間は《神の子》であると同時に《人の子》でもある。つまり人間は「肉を負うたもの」、「罪を負うたもの」、「十字架を負うたもの」だ。それゆえ人間は「肉」に死ななければならない。(71頁)
☆人間は「肉に死する」ことによって「精神」として「霊」としてよみがえる。それによって人間は「父なる神」のもとに帰る。(71頁)
☆したがって「父なる神」はまず「裁きの神」、「超越的な神」にとどまるが、しかしその神も「超越的なもの」にとどまるならば、「実在性」あるいは「現実性」をもつことができない。そこで神自身が肉に宿り、即ち賤しい「大工の子」として生まれねばならない。神がそれぞれの「個別者」を「個別者」として存在せしめるゆえんがそこにある。(71頁)
☆「キリスト教」あるいは「三位一体の教義」を論理的に説明すれば、以上のように言える。(71頁)

★「キリスト教」あるいは「三位一体の教義」は「父なる神」とか「ひとり子イエス」とかいうように「構想力」や「想像力」で神話として形づくられたものを含み、「論理的」でない。上述したように「キリスト教」あるいは「三位一体の教義」を「概念的」に直して把握すると、ヘーゲルの言う「理性」の立場・「精神」の立場・「主体」の立場が出てくる。(71-72頁)
☆そこでは「反省」あるいは「悟性」が必要となる。そこにヘーゲルが、「理性」は「悟性的理性」であるというゆえんがある。(72頁)
☆こうしてヘーゲル『精神現象学』、いな「精神」の概念そのものにとって、根本的に重大な意味をもっているのは「キリスト教」であり、そのうちでも「三位一体の教義」あるいは「使徒信条」だ。(72頁)

★もっともヘーゲル『精神現象学』は「感覚」や「知覚」や「悟性」から始まっているのであって、「宗教」から、また「キリスト教」から始まってはいない。(72頁)
☆それはすでに「反省」の立場が取られているからだ。(72頁)
☆ところがヘーゲル『精神現象学』では、「《反省》によって分析せらるべき《全体》」として「《信仰》の立場からする人生観・世界観」が「ひそかに前提せられている」。(72頁)

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