※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」(続)(90-92頁)
(14)-5 『精神現象学』は「認識論的序説」と同時に「歴史哲学」だ!
★ヘーゲル『精神現象学』はがんらい「認識論的序説」だが同時に「歴史哲学」たる意味をもっている。(90頁)
☆ヘーゲルは『精神現象学』の中で次のように言う。「《意識がこの道程において遍歴する諸形態の系列》は、むしろ《意識自身が学に到るまでに必要な教養の詳細な委曲をつくした歴史》である・・・・」(90頁)
☆あるいはへーゲルは言う。「《意識》は《一般的精神》と《その個別性または感覚的意識》との間に媒語として《全体にまで自己を秩序づける精神的生命としての意識形態の体系》をもっている。しかして《この体系》がこの書(『精神現象学』)において考察されるところのものであり、また《世界歴史》としてその対象的定在をもつものである。」(90頁)
(14)-5-2 (A)「意識」(「対象意識」)の段階で論ぜられていることにも、「歴史的背景」がないわけでない!
★ (A)「意識」(「対象意識」)の段階ではまだ「歴史哲学」たる意味は十分には明瞭ではない。(Cf. (B)「自己意識」の段階、(C)「理性」の段階!)だが、「歴史哲学」たる規定は『精神現象学』の全体を通ずるのであるから、この(A)「意識」(「対象意識」)の段階で論ぜられていることにも、「歴史的背景」がないわけではない。(90-91頁)
☆まず(A)「意識」(「対象意識」)が「最も自然的な意識」であるという点から、古代の認識論が問題になってくる。(91頁)
☆(A)「意識」(or「対象意識」)の段階(Ⅰ「感覚」、Ⅱ「知覚」、Ⅲ「悟性」)のうち、Ⅰ「感覚」の段階では、パルメニデースとか、プロタゴラスの説が利用される。Ⅱ「知覚」の段階になると、スピノーザの実体観であるとか、ロックの認識論であるとか、ライプニッツの考えであるとかが利用されている。さらにⅢ「悟性」の段階になるとカントの認識論などが活用される。(91頁)
(14)-6 Ⅰ「感覚」・Ⅱ「知覚」・Ⅲ「悟性」は、「個別性」・「特殊性」・「普遍性」という論理の基本形式にあてはまる!
★なお(A)「意識」(「対象意識」)の段階におけるⅠ「感覚」・Ⅱ「知覚」・Ⅲ「悟性」というのは、論理的にいうと「個別性」・「特殊性」・「普遍性」という論理の基本形式にあてはまる。(91頁)
☆Ⅰ「感覚」は「個別的なもの」をつかむ。「感覚」の段階は、「このもの」の「私念」にあたる。「感覚」は論理的には「個別性」の段階だ。(91頁)
☆Ⅱ「知覚」は論理的には「特殊性」の段階だ。すなわち「感覚」は「個別的なもの」をつかんでいると考えても、それは自分で「個別的なもの」をつかんだと考えているだけであって、じつは単なる「個別的なもの」をつかんでいるのではなく、「普遍的なもの」における「個別的なもの」をつかんでいる。「普遍」が「個別」になり、「個別」が「普遍」になるというように、それらが矛盾的に結合している段階、これが「個別性」と「普遍性」の中間としての「特殊性」の段階だ。その「特殊性」の段階に当たるものがⅡ「知覚」の段階だ。(91-92頁)
☆Ⅲ「悟性」の段階:「個別性」と「普遍性」との矛盾がいわゆる止揚された契機として綜合されるようになったとき、そのときに「真の意味の普遍」、「無制約的な普遍」が現れてくる。その「無制約的普遍」が「悟性」の段階における「内なるもの」だ。(92頁)
☆以上、(A)「意識」(「対象意識」)におけるⅠ「感覚」・Ⅱ「知覚」・Ⅲ「悟性」の3つの段階は、「個別性」・「特殊性」・「普遍性」という論理の3つの形式をふんでゆく。(92頁)
(14)-7 感覚の①「対象」・②「主体」・③「主客体」にそうての議論!
★(A)「意識」(「対象意識」)におけるⅠ「感覚」の段階の議論は、次の3つに分かれる。(92頁)
☆感覚の①「対象」にそうての議論。
☆感覚の②「主体」にそうての議論。
☆感覚の③「主客体」にそうての議論。
Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」(続)(90-92頁)
(14)-5 『精神現象学』は「認識論的序説」と同時に「歴史哲学」だ!
★ヘーゲル『精神現象学』はがんらい「認識論的序説」だが同時に「歴史哲学」たる意味をもっている。(90頁)
☆ヘーゲルは『精神現象学』の中で次のように言う。「《意識がこの道程において遍歴する諸形態の系列》は、むしろ《意識自身が学に到るまでに必要な教養の詳細な委曲をつくした歴史》である・・・・」(90頁)
☆あるいはへーゲルは言う。「《意識》は《一般的精神》と《その個別性または感覚的意識》との間に媒語として《全体にまで自己を秩序づける精神的生命としての意識形態の体系》をもっている。しかして《この体系》がこの書(『精神現象学』)において考察されるところのものであり、また《世界歴史》としてその対象的定在をもつものである。」(90頁)
(14)-5-2 (A)「意識」(「対象意識」)の段階で論ぜられていることにも、「歴史的背景」がないわけでない!
★ (A)「意識」(「対象意識」)の段階ではまだ「歴史哲学」たる意味は十分には明瞭ではない。(Cf. (B)「自己意識」の段階、(C)「理性」の段階!)だが、「歴史哲学」たる規定は『精神現象学』の全体を通ずるのであるから、この(A)「意識」(「対象意識」)の段階で論ぜられていることにも、「歴史的背景」がないわけではない。(90-91頁)
☆まず(A)「意識」(「対象意識」)が「最も自然的な意識」であるという点から、古代の認識論が問題になってくる。(91頁)
☆(A)「意識」(or「対象意識」)の段階(Ⅰ「感覚」、Ⅱ「知覚」、Ⅲ「悟性」)のうち、Ⅰ「感覚」の段階では、パルメニデースとか、プロタゴラスの説が利用される。Ⅱ「知覚」の段階になると、スピノーザの実体観であるとか、ロックの認識論であるとか、ライプニッツの考えであるとかが利用されている。さらにⅢ「悟性」の段階になるとカントの認識論などが活用される。(91頁)
(14)-6 Ⅰ「感覚」・Ⅱ「知覚」・Ⅲ「悟性」は、「個別性」・「特殊性」・「普遍性」という論理の基本形式にあてはまる!
★なお(A)「意識」(「対象意識」)の段階におけるⅠ「感覚」・Ⅱ「知覚」・Ⅲ「悟性」というのは、論理的にいうと「個別性」・「特殊性」・「普遍性」という論理の基本形式にあてはまる。(91頁)
☆Ⅰ「感覚」は「個別的なもの」をつかむ。「感覚」の段階は、「このもの」の「私念」にあたる。「感覚」は論理的には「個別性」の段階だ。(91頁)
☆Ⅱ「知覚」は論理的には「特殊性」の段階だ。すなわち「感覚」は「個別的なもの」をつかんでいると考えても、それは自分で「個別的なもの」をつかんだと考えているだけであって、じつは単なる「個別的なもの」をつかんでいるのではなく、「普遍的なもの」における「個別的なもの」をつかんでいる。「普遍」が「個別」になり、「個別」が「普遍」になるというように、それらが矛盾的に結合している段階、これが「個別性」と「普遍性」の中間としての「特殊性」の段階だ。その「特殊性」の段階に当たるものがⅡ「知覚」の段階だ。(91-92頁)
☆Ⅲ「悟性」の段階:「個別性」と「普遍性」との矛盾がいわゆる止揚された契機として綜合されるようになったとき、そのときに「真の意味の普遍」、「無制約的な普遍」が現れてくる。その「無制約的普遍」が「悟性」の段階における「内なるもの」だ。(92頁)
☆以上、(A)「意識」(「対象意識」)におけるⅠ「感覚」・Ⅱ「知覚」・Ⅲ「悟性」の3つの段階は、「個別性」・「特殊性」・「普遍性」という論理の3つの形式をふんでゆく。(92頁)
(14)-7 感覚の①「対象」・②「主体」・③「主客体」にそうての議論!
★(A)「意識」(「対象意識」)におけるⅠ「感覚」の段階の議論は、次の3つに分かれる。(92頁)
☆感覚の①「対象」にそうての議論。
☆感覚の②「主体」にそうての議論。
☆感覚の③「主客体」にそうての議論。